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2020/10/02

畔田翠山「水族志」 序・自叙・例言・凡例・著作目録・第一編 有鱗魚類 (一) タヒ (マダイ)

 

[やぶちゃん注:最後の「海蟲類」の電子化注を終わったので、本書を頭まで戻って全篇の電子化注を開始する。

 「水族志」は文政一〇(一八二七)年に翠山によって書かれた、恐らくは日本最初の総合的水産動物誌で、明治になって偶然発見され、当初の分類方法を尊重しつつ、全十巻十編に改訂された。掲載された水族は本条二百五十七種、異種四百七十八種合わせて七百三十五種。異名を含めると、千三百十二種に及ぶ。但し、貝類は含まれない(数値データは「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の同書の冒頭解説に拠った)。

 作者紀州藩藩医畔田翠山(寛政四(一七九二)年)~安政六(一八五九)年:本名は源伴存(みなもとともあり))及び本書発見と出版に係わる経緯は、『カテゴリ 畔田翠山「水族志」 創始 / クラゲ』の冒頭注の作者注を読まれたい。

 視認底本は国立国会図書館デジタルコレクションの「水族志」を用い、判読に困った部分では「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の「水族志」の画像も参考にした。異体字の漢字は最も近いものを当ててある。項目名の前にある( )は上部罫の外に示された通し番号である。底本では標題以外は本文全体が一字下げである。割注は【 】で本文と同ポイントで示した。本テクストはまず、訓点(返り点とカタカナの振り仮名があるが、送り仮名はごく一部にしかない)を除去した漢字カタカナ交じりの本文を示し、次に「○やぶちゃんの書き下し文」として、諸資料を参考にしながら、自然勝手流で訓読したものを示す。そこでは原本のカタカナのルビはそのまま生かして( )で示し、私の推定の読みは〔 〕によって歴史的仮名遣でひらがなで添え、場合によっては、読み易くするために改行を施した(本文のカタカナの内、一部はカタカナのままにした)。その後に読解の便を考えたオリジナルな注を附す。なお、それで総てを統一するため、漢文訓読の絶対条件たる助詞・助動詞は平仮名にするという鉄則を畔田の解説にも適応している(「如し」や「也」など)ことを最後にお断りしておく。

 漢文脈の返り点は省略するので(横書の返り点はどうも気持ちが悪い。教員になった時、漢文を全部、横書きにする女生徒を大声でしかりつけた残念な思い出があるので厭なのだ。ごめんね、あの時は。足代さん)底本と必ず対照されたい。但し、漢文部分の訓読は必ずしも畔田の返り点に従っていない箇所もある。本文には句読点がなく、畔田自身の平文(カタカナ使用)でも殆んどルビはないので、非常に読み難いことから、現行では不全と思われる箇所は送り仮名や助詞を添え、句読点を適宜打ち、難読と思われる箇所や読みが振れると私が判断した箇所には〔 〕で推定で歴史的仮名遣で読みを添えた(一つの読み以外の可能性がある場合は、「/」で切って別な読みを添えた。読みに疑義のある方は御指摘戴きたい)。各種記号も自由に用いた。生物名やその異名のカタカナは、基本、そのまま用いた。漢籍由来などの一部の漢字の音読みの読みをカタカナで表記した箇所がある。なお、この注は、原則、ここにしか附さない。

 最後に。国立国会図書館デジタルコレクションのものも、「水産研究・教育機構」のものも、孰れも私の所持するOCRによる電子的な読取りが上手く機能しないことが、昨日、判明した。されば、「海蟲類」同様、また、「大和本草」水族の部の時のように、総て視認してタイピングすることとなる。「大和本草」の方は終わるのに六年弱かかった。恐らく、同じか、それ以上の時間がかかるように思われる。お付き合い戴ける方は、私同様、忍耐と健康が必要となる。御覚悟あれかし。

 

 

[やぶちゃん注:以下、扉の題表紙(底本画像は注無しのリンクで示す)。]

 

明治十七年九月出版

――――――――――――――――――――――

畔田翠山著  堀田龍之助校

――――――――――――――――――――――

 版權免辞

 水族志

――――――――――――――――――――――

田中芳男閱  河原田盛美再校

 

[やぶちゃん注:一行目の出版クレジットは上部に右から左書き。「版權免辞」は細字で「水族志」にかかって楕円で囲まれている。

「堀田龍之助」(ほったたつのすけ 文政二(一八一九)年~明治二一(一八八八)年)は商家を営む傍ら博物学研究を成した大阪人。若い頃、畔田翠山と交流を深め、また京都の山本読書室(平安読書室。本草学者山本亡羊の家塾)にも出入りをし、医師で博物学者でもあった山本榕室(ようしつ 文化六(一八〇九)年~元治元(一八六四)年)と物産関係の情報交換や写本の遣り取りなどを行った。明治になると、大阪に開設された博物場に勤め、明治期の博物館建設に大きな役割を果たした田中芳男(次注参照)らに協力して、本「水族志」の刊行にも尽力した(以上は「大阪歴史博物館」のこちらの記載他を参考にした)。

「田中芳男」(天保九(一八三八)年~大正五(一九一六)年)は信濃出身の博物学者・官僚。伊藤圭介に師事し、蕃書調所(ばんしょしらべしょ:安政三(一八五六)年に発足した江戸幕府直轄の洋学研究教育機関。開成所の前身で東京大学・東京外国語大学の源流諸機関の一つ)に入り、慶応三(一八六七)年の「パリ万国博覧会」に参加、維新後は文部省・内務省・農商務省で博覧会開催や博物館の建設や殖産興業に尽くした。駒場農学校の創立、「大日本水産会」・「大日本農会」の設立などにも貢献した。貴族院議員。著作に「有用植物図説」などがある(講談社「日本人名大辞典」他に拠った)。

「河原田盛美」(かわらだ もりはる/もりよし 天保一三(一八四二)年~大正三(一九一四)年)は陸奥国南会津郡伊南村生まれで、明治期の水産教育・水産技術の普及に活躍した農商務省の技手で農学者。明治一四(一八八一)年の「千葉県水産集団会」委員就任を皮切りに、「水産博覧会」審査官・水産巡回教師などを歴任、彼は廃棄されたマンボウから「明骨」(めいこつ:「名骨」とも。サメ・エイやマンボウなどの軟骨部を煮乾した食品。中華食材)を製品化し、清国へ輸出している。著作に「漁家永続法」「水産小学」「鯣誌」(恐らく「するめし」)などがあり、水産局の『日本水産製品誌』の編纂企画も担当した(「朝日日本歴史人物事典」他に拠った)。]

 

 

水族志序

凡物遇合有時。顯晦有數。不可誣也。丁丑之歲。余在東京。適過麹坊一書肆。得水族志十卷。蓋南紀源伴存翁之一所著。海錯之數。無慮七百有餘種。能詳其名稱。而形狀色味。辨之最精。比之於世之魚介譜則大有勝焉。實譜中之完壁[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]也。鍾愛藏之。其明年。余適大坂聞有堀田龍者。常稽核海錯得一魚介則必製一圖。經年之久。以至千百於今不倦。一日訪之。始識其爲翁之門人也。爲余語曰。伴存翁畔田氏。通稱十兵衞。號翠山又翠嶽。紀藩士也。嘗著水族志。且有魚介圖數卷。翁既※焉[やぶちゃん注:「※」=(上)「法」+(下)「皿」。しかし、これは熟語から「溘」の字であることが明らかなので、訓読ではそれに代えた。]。今併無存于家者。實可浩歎也。余乃嚮所得者示之。龍驚且喜曰。是吾師之手筆也。今幸得親觀之矣。余於是乎益愛之。數月之後。田中芳男君來訪。偶閱此書。歎賞之餘。將校訂梓行。以頒于同好。余大喜。慫慂而助之。公事鞅掌。忽過數年。頃告校訂成。屬序於余。余受而閱之。君實與堀田龍河原田盛美。共校定之。且叙翁之事。以及餘著書之梗槪。可謂盡矣。余曾就栗本鋤雲。寫魚譜。蓋丹洲所作。皇和魚譜之原稿也。其圖賦色鮮明。種類本多。然今存者。不過僅僅。殊可恨也。嗟乎遇合有時。題晦有數。異日若得翁魚介圖。而與丹洲圖。併以公于世。則完壁不啻也。囘叙其略如此。

 明治十七年九月  碧海釣徒宍戸昌識

 

○やぶちゃんの書き下し文(本序文には句点以外の訓点はない。完全に勝手流で読むしかない)

「水族志」序

 凡そ、物に遇〔たまたま〕合ふ時、有り、顯らかに晦〔くら〕きこと、數〔かずかず〕、有り、誣〔ぶ〕するべからざるなり。丁丑〔ひのとうし/ていちゆう〕の歲〔とし〕、余、東京に在り、麹〔かうぢ〕の坊の一書肆〔しよし〕を過ぐ。「水族志」十卷を得。蓋し、南紀の源伴存〔みなもとのともあり〕翁の著する所の一つにて、海錯〔かいさく〕の數〔いあずかず〕、無慮〔むりよ〕、七百有餘種、能く其の名稱を詳〔つまびら〕かにして、形狀・色・味、之れを辨ずるに、最も精たり。之れを世の魚介譜に比すれば、則ち、大いに勝〔まさ〕れる有り。實〔まこと〕に譜中の完壁なり。之れを藏して鍾愛す。其の明年〔みやうねん〕、余、大坂に適〔ゆ〕き、堀田龍なる者、有るを聞く。常に海錯を稽核〔けいかく〕し、一魚介を得ば、則ち、必ず、一圖を製す。年を經て、之れ、久し。以つて千百に至り、今も倦〔あ〕かず。一日、之れを訪〔たづ〕ぬ。始めて識〔し〕る、其れ、翁の門人たるを。余の爲〔ため〕に語りて曰はく、「伴存翁畔田〔くろだ〕氏、通稱、十兵衞。翠山、又、翠嶽と號す。紀藩士なり。嘗て「水族志」を著はす。且つ、魚介が圖、數卷、有り。翁、既に溘焉〔かふえん〕せり。今、併〔しかし〕ながら、家を存する者も無し。實〔まこと〕に浩歎〔かうたん〕すべきことなり。」と。余、乃〔すなは〕ち、嚮〔むか〕ひて、得る所の者、之れに示す。龍、驚き、且つ喜びて曰はく、「是れ、吾が師の手筆なり。今、幸ひ親しく之れを觀ることを得ん。」と。余、是に於いて、益〔ますます〕之れを愛〔め〕づ。數月の後、田中芳男君、來訪し、偶〔たまたま〕此の書を閱〔けみ〕し、歎賞の餘り、「將に校訂して梓行(しかう)せんとす。以つて、同好に頒〔わか〕たん。」と。余、大いに喜び、慫慂〔しようよう〕して之れを助く。公事〔こうじ〕、鞅掌〔わうしやう〕にして、忽ち、數年、過ぐ。頃〔このごろ〕、校訂の成なれるを告げり。序を余に屬〔しよく〕さる。余、受けて、之れを閱〔けみ〕す。君〔くん〕、實〔じつ〕に堀田龍・河原田盛美と共に之れを校定す。且つ、翁の事を叙す。以つて餘の著書の梗槪にも及び、謂ひ盡くせるべし。余、曾つて栗本鋤雲〔じようん〕に就き、魚譜を寫〔うつ〕し、蓋し、丹洲が作る所の、「皇和魚譜」の原稿なり。其の圖賦〔ずふ〕、色、鮮明たり。種類も本〔もと〕は多し。然れども、今、存ずる者は、僅僅〔きんきん〕に過ぎず。殊に恨むべきなり。嗟乎〔ああ〕、遇合するに、時、有り、題するに、晦〔くら〕きこと、數〔かずかず〕有り。異日〔いじつ〕、若〔も〕し翁が魚介の圖を得、而して丹洲が圖と與〔とも〕に、併〔なら〕べ以つて世に公〔おほやけ〕せば、則ち、完壁にして啻〔ただ〕ならざるものなり。叙を囘〔めぐら〕すも、其れ、略〔ほぼ〕、此くのごとし。

 明治十七年九月  碧海釣徒宍戸昌識〔しき〕

 

[やぶちゃん注:本書出版に際して明治一七(一八八四)年九月にものされた序文。ここから。筆者宍戸昌(ししどさかり 天保一二(一八四一)年~明治三三(一九〇〇)年)は元は三河国刈谷藩士。通称は孫次郎・孫之丞、諱は昌致、維新後に昌と改めた。明治政府官僚。本草学者にして古典籍の愛書家でもあった。尾張の理学博士伊藤圭介に学び、民部省に出仕し、府県参事書記官に累進、その後、内務・農商務・大蔵諸省の書記官を経て、大蔵省国債局長を勤めた。海雲楼と号した(「碧海釣徒」(へきかいちょうと)は謙遜した卑称的別号であろう)。各地の図書館には彼の旧蔵書が文庫として現存する。

「顯らかに晦〔くら〕きこと」どうにも全く、ある対象に就いて知見を持っていないこと、の意か。

「誣〔ぶ〕するべからざるなり」そうした全く以って不学無知な場合があったことを偽ることは到底できない、の意か。

「丁丑〔ひのとうし/ていちゆう〕の歲〔とし〕」この序を書いた前の年の明治十年が相当する。

「麹〔かうぢ〕の坊」現在の東京都千代田区麹町(こうじまち)(グーグル・マップ・データ)の大通り。今の「新宿通り」であろう。

「海錯」「錯」は「種類が多い・入り交じること」を指すので、「海産の多くの生物」の意。

「無慮〔むりよ〕」副詞。おおよそ。ざっと。

「堀田龍」堀田龍之助。当時、大阪にいた畔田翠山(源伴存)の嘗ての門人。

「稽核」現代中国語では「会計監査」や「監査」を意味するが、ここは「観察」の意か。

「溘焉」現代仮名遣「こうえん」。「俄なさま」を言う形容動詞であるが、これは多く「人の死去のさま」に広く使うので名詞のように送りがなを送った。

「浩歎」ひどく嘆くこと。

「梓行」上梓。書物を出版すること。

「慫慂」他の人に勧めて、そうするように仕向けること。

「公事」既に注した通り、筆者は明治政府の官吏であった。

「鞅掌」現代仮名遣「おうしょう」。忙しく立ち働いて暇のないこと。

「君〔くん〕」田中芳男を指す。

「栗本鋤雲」(文政五(一八二二)年~明治三〇(一八九七)年)は旧幕臣で新聞記者。江戸神田猿楽町生まれ。幕府医喜多村槐園の三男であったが、奥詰医師の栗本瑞見を継いだ。文久二(一八六二)年に士分となり、箱館奉行組頭となり、後に目付・外国奉行などを務めて幕末の外交交渉に当たった。慶応三(一八六七)年にはフランスに渡り、同国との親和に尽くしたものの、幕府の瓦解とともに帰国、明治五(一八七二)年に『横浜毎日新聞』に入社の翌年には『郵便報知新聞』編集主任となり、明治一八(一八八五)年に退社するまで、福沢諭吉門下を集め民権派新聞の先導者として成島柳北・福地桜痴と並ぶ名記者と称された(これは複数の辞書の記載を参考に構成した)。

「栗本丹洲」江戸幕府奥医師四代目栗本瑞見(宝暦六(一七五六)年~天保五(一八三四)年)。優れた本草学者でもあった。私はサイトや、ブログ・カテゴリ「栗本丹洲」で彼の博物図や博物誌の電子化注を、多数、手掛けている。

「皇和魚譜」栗本丹洲の淡水魚の魚譜。丹洲が亡くなった四年後の天保九(一八三八)年に江戸で刊行された。彼の成した驚くべき数の図譜の中で、唯一、公刊されたものである。但し、この図は丹洲の友人であった栗本伯資が模写したものを載せており、丹洲本来の写生の質の高さは失われている。しかし、江戸の刊行物でありながら、琵琶湖の魚類を殆んど漏らさずに収録するなど、丹洲の飽くなき知識欲が伝わってくる逸品である(ここは荒俣宏「世界第博物図鑑」第二巻「魚類」(一九八九年平凡社刊)の「博物学関係書名」の解説を主に参考にした)。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらや、早稲田大学図書館の「古典総合データベース」(PDF)で見ることができる。

「圖賦」この場合は「圖譜」に同じい。

「僅僅」副詞。ごく僅(わず)か。たった。ほんの。以上によって、「皇和魚譜」の原本は、現在残っているような単色図譜ではなく、多色で描かれており、掲載された魚種も遙かに多かったことが判る。]

 

 

水族志自叙

比歲余遊於海鄕而洋海之鱗屬其所竭目力者以若干竊條列之陳其梗槪苟種類萬萬以我蒿目敢不自知其盡境屢已擧其凡十分未得其一端也曾て前輩之述作儘雖以漢名爲之要領及其於魚品則未嘗詳於其備由府志本草俱甚畧矣既
皇朝四海所產游鱗殆倍有餘萬豈不可勝數敢難測究矣况和漢固異疆域焉至若其地之相去也千有餘里其水鱗不只自同其狀貌何必撮總於漢名以相當于和品所謂雲中白鶴非燕雀之網所能羅也故今當載其名稱焉漢名則從先人之攷補以己考品物則推却漢名更登用國名稍搜索於方言以采其俚諺葢雖其言鄙野足以備用實唯茲歷精以陳辭兮余羞不能僭踰而審於鍳裁焉聊悉耳目之所好窮心思之所樂耳但恐後君子責數其謬吾復方不得辭其罪也

 

 文政十年正月     源 伴 存 識

 

○やぶちゃんの書き下し文(ここには訓点が丁寧に打たれてある)

「水族志」自叙

比〔こ〕の歲〔とし〕、余、海鄕に遊びて、洋海の鱗屬、其の目力〔めぢから〕の竭〔つく〕す所の者、若干を以つて、竊〔ひそ〕かに之れを條列〔じやうれつ〕し、其の梗槪を陳〔の〕ぶれども、苟〔まこと〕に、種類、萬萬、我が蒿目〔こうもく〕を以つて、敢へて自〔みづか〕ら、其の盡〔ことごとく〕境〔さかひす〕ることを知らず。屢〔しばしば〕、已に其の凡〔おほよそ〕を擧ぐれども、十分、未だ其の一端を得ざるなり。曾て前輩の述作、儘〔ま〕ま漢名を以つて、之れ、要領と爲すと雖も、其の魚品に及びては、則ち、未だ嘗つて、其の備〔そなへ〕の由〔よし〕を詳らかにせず。府志・本草、俱に、甚だ畧せり。既に皇朝四海、產する所の游鱗、殆んど倍有〔ばいゆう〕・餘萬たり。豈に勝〔た〕へて數ふるべからず。敢へて測り究むること、難し。况んや、和漢は固〔もと〕より疆域〔きやうゐき〕を異にせり。至-若(しかのみなら)ず、其の地の相ひ去るや、千有餘里、其の水鱗、只だ自〔おのづか〕ら其の狀貌を同じくせず。何ぞ、必ず、總〔すべ〕て漢名を撮〔と〕つて以つて、和品に相當せんことか。所謂〔いはゆ〕る、「雲中の白鶴、燕雀の網〔あみ〕して能く羅〔と〕る所に非ざるなり」。故に今、當〔まさ〕に其の名稱を載〔のす〕るに、漢名は、則ち、先人の攷〔かう〕に從ひて、補ふるに、己が考〔かう〕を以つてす。品物は、則ち、漢名を推却〔すいきやく〕し、更に國名を登用して、稍〔や〕や方言を搜索して、以つて、其の俚諺を采〔と〕れり。葢し、其の言〔げん〕、鄙野〔ひや〕なりと雖も、以つて、用ふるに備ふるに足れり。實〔まこと〕に唯だ、茲〔こ〕れ、精を歷〔へ〕て、以つて辭を陳〔のぶ〕れども、余、僭踰〔せんゆ〕にして、鍳裁〔かんさい〕を審〔つなびら〕かにすること、能はざるを羞づ。聊〔いささ〕か耳目の好む所を悉〔つく〕し、心思〔しんし〕の樂しむ所を窮むるのみ。但だ、恐〔おそるらく〕は、後の君子、其の謬〔あやまり〕を責數〔せきすう〕せば、吾れ、復た、方〔まさ〕に其の罪を辭することを得ざるなり。

 

 文政十年正月     源 伴 存 識

 

[やぶちゃん注:原著者である源伴存(畔田翠山)の文政(一八二七)年一月の自叙。「皇朝」(本朝)の部分で「平出」(へいしゅつ:文中に高貴の人の名や称号などを書く際に敬意を表わすために行を改めて前の行と同じ高さにその文字を書くこと)が行われているが、訓読では繋げた。

「比〔こ〕の歲〔とし〕」この歳月。

「海鄕」紀州和歌山。

「目力〔めぢから〕の竭〔つく〕す」対象を観察する能力を可能な限り用い尽くす。

「蒿目」「蒿」は雑草の蓬(ヨモギ)であるから、貧相な目の意か。

「備〔そなへ〕の由〔よし〕」「備由」え熟語のようだが、私はそのような熟語を知らない。「そのような備考(解説)を附したところの理由(根拠)」の謂いで、かく訓じておいた。

「府志・本草」これは各種の漢籍の「府志」(地方地誌)や諸本草書の意であろう。

「倍有〔ばいゆう〕・餘萬」水産生物は(私が記したそれよりも)何倍もおり、万に余るほどいることの意でとった。原本では、それぞれ、熟語を示すハイフンが入っている。

「豈に勝〔た〕へて數ふるべからず」決して掲げて数え尽くすことは不可能である。

「疆域〔きやうゐき〕」現代仮名遣「きょういき」。「境域」に同じで、土地・地方・世界の意。

「相當せんことか」送り仮名は「センヿ」で終わっている。できれば、「せんことを得んや」としたいところである。

「推却〔すいきやく〕」押し退(しりぞ)けること。

「鄙野」田舎びて、品のないこと。また、そのさま。「野鄙」に同じい。

「僭踰〔せんゆ〕」身分を超えた振る舞いをすること。「僭越」に同じい。

「鍳裁〔かんさい〕」「鍳」は「鑑」「鏡」で、「裁」は「理非を正す」ことであるから、「逐一、対象を照らし合わせて、正しい判断を下すこと」の意であろう。

「責數〔せきすう〕」多くの批難を浴びせることの意か。

「方〔まさ〕に其の罪を辭することを得ざるなり」「恐〔おそるらく〕は」に応じるなら、「得ざることなり」としたいところである。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、「例言」(通常、これは「凡例」のことであるが、内容から見て、「緒言」が相応しい、一種の魚に就いての漢籍主体の用語解説である。実は後の河原田氏の「凡例」に、『原稿ハ魚族ノ總稱魚體ノ區別等古書ニ出ル所ヲ擧ケテ凡例トシ又本文ノ始メニ魚族論ヲ載セタリ今再校スルニ當リ之ヲ併セテ例言トス』とあることによってこの奇異な感じが、やっと判る仕組みになっているので、フライングして謂い添えておく)であるが、原本では各条を示す「一」が抜きん出て、本文は一字下げとなっているが、それはブラウザでの不具合を考え、再現していない。また、並の本の凡例とはわけが違って、異様に引用が多く、意味も取りにくいので、各条ごとに訓読注することにする。訓読では「一」の後を一字空けた。]

 

    例言

一山堂肆考曰魚水族之長鱗物之總名種族甚繁品字箋曰龍陽魚陰也農政全書曰陶朱公治生之法有水畜第一也水畜魚也正字通曰魚說文水蟲行厨集曰魚曰池鱗亦曰水梭謂游行若梭又曰玉尺棟金錄曰東坡志林僧謂魚爲水梳花梳一作梭事物異名錄魚總名曰世說云蠻名魚陬隅淸異錄云號魚水花羊雲龍州志云魚云龍王兵庶物異名疏銀刀魚也皮日休詩霜雲袁桷詩淮白

 

○やぶちゃんの書き下し文

    例言

一 「山堂肆考」に曰はく、『魚は水族の長、鱗物の總名・種族、甚だ繁〔おほ〕し』と。「品字箋」に曰はく、『龍陽魚、陰なり』と。「農政全書」に曰はく、『陶朱公治生の法、水畜有り、第一や、水畜は魚なり』と。「正字通」に曰はく、『魚、「說文」、『水蟲』。』と。「行厨集」に曰はく、『魚、「池鱗」と曰ひ、亦、「水梭〔すいひ〕」と曰ふ。游行して梭のごときを謂ふ。又、「玉尺」と曰ふ』と。「棟金錄」に曰はく、『「東坡志林」に、僧、魚を謂ふに、「水梳花」と爲〔な〕す。「梳」は一つに「梭」に作る』と。「事物異名錄」の「魚總名」に曰はく、『世說に云ふ、「蠻、魚を『陬隅〔スウグウ〕』と名づく」』と。「淸異錄」に云はく、『魚を「水花羊」と號す』と。「雲龍州志」に云はく、『魚、「龍王兵」云ふ』と。「庶物異名疏」、『「銀刀」は魚なり。』と。皮日休が詩に、『霜雲』と。袁桷〔えんかく〕が詩に、『淮白〔くわいはく〕』と。

 

[やぶちゃん注:「山堂肆考」明の彭大翼纂著・張幼学編輯になる類書(百科事典)。

「品字箋」清の虞徳升著で虞嗣集補註になる韻書。

「龍陽魚、陰なり」名にし負わないわけね。初めは鯉の異名だろうと考えていたが、「龍陽魚」という漢名の魚はいない。因みに、魏の公子龍陽君と魏王のエピソード(魚は絡む)から、龍陽は男色を意味する語として用いられた。

「農政全書」明の著名な暦数学者徐光啓が編纂した農学書。

「陶朱公」春秋時代の越の政治家で軍人。越王勾践に仕え、勾践を「春秋五覇」に数えられるまでに押し上げた最大の立役者とされている知られた范蠡(はんれい 生没年不詳)のこと。ウィキの「范蠡」によれば、後年、越を離れた『范蠡は、斉で鴟夷子皮(しいしひ)と名前を変えて商売を行い、巨万の富を得た。范蠡の名を聞いた斉は范蠡を宰相にしたいと迎えに来るが、范蠡は名が上がり過ぎるのは不幸の元だと財産を全て他人に分け与えて去った。 斉を去った范蠡は、かつての曹の国都で、今は宋領となっている定陶(現在の山東省菏沢市定陶区)に移り、陶朱公と名乗った。ここでも商売で大成功して、巨万の富を得た。老いてからは子供に店を譲って悠々自適の暮らしを送ったと言う。陶朱公の名前は後世、大商人の代名詞となった』とある。「中國哲學書電子化計劃」のこちらで原文が確認でき、対象種が「鯉」で、淡水魚類の養殖であることが判る。

「治生」人が生計を立てること。

「正字通」明の張自烈の著になる字書であるが、後に清の廖(りょう)文英がその原稿を手に入れて自著として刊行した。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上中下に分け、部首と画数によって文字を配列して解説を加えたもの。形式は、ほぼ、明の梅膺祚 (ようそ) の「字彙」に倣いつつ、その誤りを正して訓詁を増したものであるが、本書自体にも誤りは少くない。「字彙」とともに「康煕字典」の基礎となった。

「說文」最古の部首別漢字字典「說文解字」の略。後漢の許慎の作。一〇〇年に成立、一二一年に許慎の子許沖が第六代皇帝安帝に奉った。叙によれば、小篆の見出し字九千三百五十三字、重文(古文や篆書体及び他の異体字)千百六十三字を収録する(現行本では、これよりも少し字数が多くなっている)。漢字を五百四十の部首に分けて体系づけ、その成り立ちを解説し、字の本義を記してある。

「行厨集」清の李之彤・汪建封輯になる「叩鉢齋纂行厨集」か。「行厨」とは「弁当」とか、「野外の炊事場」の意。

「梭」織機のシャトルのこと。魚類の一般形状からは腑に落ちる。

「玉尺」「梭」から考えると、一尺ばかりの輝くもので、やはり腑に落ちる気はする。

「棟金錄」不詳。

「東坡志林」蘇軾の随筆。「漢籍リポジトリ」の同書の巻八に『僧謂酒爲「般若湯」、謂魚爲「水梭花」』とあった。

「事物異名錄」清の厲荃(れいせん)撰。「中國哲學書電子化計劃」で同書を見つけたが、検索しても、以下の文字列は発見出来なかった。

「陬隅」不詳だが、「陬」も隅(すみ)の意である。他に「田舎」の意もある。

「淸異錄」宋の陶穀撰の類書のようである。「維基文庫」の原文の「獸名門」の「鈍公子」の一節に、『楊虞卿家號魚』爲『「水花羊」』とある。楊虞卿とは歐陽修の岳父楊大雅の先祖である。

「雲龍州志」清の楊文奎(ぶんけい)纂で張德霈(とくはい)修になる雲南地方の地誌か。「庶物異名疏」明の陳懋仁(ぼうじん)撰。

「皮日休」(八三四年~九〇二年?)晩唐のかなり著名な詩人。時政を憤り、生活に苦しむ庶民を詩賦に描いた社会詩で知られる。後に黄巣軍の翰林学士となった。「霜雲」を魚の異名(比喩?)として使用した詩篇は不詳。

「袁桷」(かいかく 一二六六年~一三二七年)は元の学者で詩人・文学者。成宗の招きに応じて朝廷に入り、麗沢書院山長となり、後に翰林国史院へ移って、侍講学士まで昇進した。王応麟の弟子で、学識が深く、詔勅・辞令の起草などに当たった。その詩も力強い描写で、寧ろ、唐詩に近い高い風格を持つ(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「淮白」以下の袁桷の七律「寄王儀伯太守」に出る。

   *

 寄王儀伯太守

維揚太守文章伯

故壘荒煙取次題

逆浪風高淮白上

寒沙雲落海靑低

極知后土花如雪

不惜平山醉似泥

跋馬使君官驛畔

揚鞭却在夕陽西

   *]

 

 

一 異魚圖贊補曰曹植云鹹水之魚不游江淡水之魚不入于海大理府名勝志曰河魚不入海海魚不入河物理小識曰水族出水則死正字通曰仙經曰人在氣中如魚在水中魚一刻無水即盡人一刻無氣即亡又曰皇極經世在水者不瞑註魚目晝夜不瞑也又曰凡物之息以鼻魚鼻孔最小氣不能遽通以腮爲呼吸廣東新語曰或云魚隨陽春夏浮而遡流秋冬沒而順流其浮時可膾其沒時必須烹食乃不損人五雜爼曰凡魚之游皆逆水而上雖至細之鱗遇大水亦搶而上淮南子曰魚無耳聽各物攷曰埤雅云魚無耳寄園寄所寄曰龍無耳魚亦無耳按ニ鯨ニ耳骨アレハ凡テ耳ナシトスベカラズ淮南子曰月者陰之宗是以月飦[やぶちゃん注:この「飦」(「粥」の意)では私にはどうも意味が通じない。「淮南子」原文を複数見たところ、ここは「虛」となっている。腑に落ちるので訓読ではそれに代えた。]則魚腦減月盈則魚腦盈物類相感志曰魚始雷向下未驚蟄頭向上遵生八牋曰水濁魚溲氣昏人病鶴林玉露曰魚不畏網罟而畏鶗鶘

○漁人云凡テ紅色ナル魚ハ海底ニ住ム「タヒ」ホウバウ」ノ類此也靑色ナル魚ハ海上ニ住ム」「サバ」アヂ」類此也廣東新語曰凡有鱗之魚喜游水上陽類也正字通曰魚生流水中則背鱗白止水中則背鱗黑異魚圖賛補曰今魚生流水中則背鱗白而味美生止水中則背鱗黑而味惡[やぶちゃん注:複数の鍵括弧の不全はママ。訓読では補塡した。]

○傳信錄曰海魚生切片夜中黑處視之皆明透有綠火光色如熱河夜亮木[やぶちゃん注:「夜亮木」とあるが、どうも不審に思い、原拠(後掲)に当たったところ、『夜光木』とあって腑に落ちた。訓読では「光」に訂した。]

○中饋錄曰煑魚法凡煑河魚先下水燒則骨酥江海魚先調瀼汁下鍋則骨堅也

○大和本草曰人ニヨリ生肉ハ不滯消化シ易シ本邦凡テ腥食ヲ貴ブ通雅ニモ如廣東人食魚生以爲美ト云リ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 「異魚圖贊補」に曰はく、『曹植云はく、「鹹水〔かんすい〕の魚、江に游〔およ〕がず。淡水の魚、海に入らず」と』と。「大理府名勝志」に曰はく、『河魚、海に入らず。海魚、河に入らず』と。「物理小識」に曰はく、『水族、水を出づれば、則ち、死す』と。「正字通」に曰はく、『「仙經」に曰はく、「人、氣中に在るを、魚の水中に在るがごとし。魚、一刻、水、無ければ、即ち、盡き、人、一刻、氣、無ければ、即ち、亡ず」と』と。又、曰はく、「皇極經世」、『水に在る者は瞑〔つむ〕らず』と。註して、『魚の目、晝夜、瞑らざるなり』と、又、曰はく、『凡そ、物の息、鼻を以つてす。魚、鼻孔、最も小さく、氣、遽〔すみやか〕に通ること、能はず。腮〔えら〕を以つて呼吸を爲〔な〕す』と。「廣東新語」に曰はく、『或いは云ふ、「魚、陽に隨ひて、春・夏、浮かびて流れに遡〔さかのぼ〕る。秋・冬は、沒して流れに順ふ。其の浮かぶ時は、膾〔なます〕とすべし。其の沒する時は、必ず、須らく烹て食ふべし。乃〔すなは〕ち、人を損ず」と』と。「五雜爼」に曰はく、『凡そ、魚の游ぐや、皆、水に逆ひて上る。至細の鱗と雖も、大水に遇へば、亦、搶〔あつまり〕て上る』と。「淮南子」に曰はく、『魚、耳、無くして、聽く』と。「各物攷」に曰はく、『「埤雅〔ひが〕」に云はく、「魚、耳、無し」と』と。「寄園寄所寄」に曰はく、『龍、耳、無く、魚も亦、耳、無し』と。

按ずるに、鯨に耳骨〔じこつ〕あれば、「凡て耳なし」とすべからず。

「淮南子〔ゑなんじ〕」に曰はく、『月は陰の宗たり。是れ、以つて、月、虛〔か〕くれば、則ち、魚、腦、減ず。月、盈〔み〕つれば、則ち、魚、腦、盈てり』と。「物類相感志」に曰はく、『魚、始め、雷に向けて下り、未だ驚かずして、蟄〔ちつ〕しては、頭を向け、上る』と。「遵生八牋〔じゆんせいはつせん〕」に曰はく、『水、濁れるは、魚の溲〔ゆばり〕の氣なり。昏〔くら〕みて、人、病む』と。「鶴林玉露」に曰はく、『魚、網-罟〔あみ〕を畏れずして、鶗〔テイ〕・鶘〔コ〕を畏れり』と。

○漁人、云はく、『凡て紅色なる魚は、海底に住む「タヒ」「ホウバウ」の類ひ、此れなり。靑色なる魚は海上に住む』と。「サバ」「アヂ」の類ひ、此れなり。「廣東新語」に曰はく、『凡そ、有鱗の魚、喜びて、水上を游ぐ陽の類〔るゐ〕なり』と。「正字通」に曰はく、『魚、流水の中に生ずるは、則ち、背の鱗、白し。止水の中なるは、則ち、背の鱗、黑し』と。「異魚圖賛補」に曰はく、『今、魚、流水の中に生ずるは、則ち、背の鱗、白くして、味、美〔よ〕し、止水の中に生ずるは、則ち、背の鱗、黑くして、味、惡〔あ〕し』と。

○「傳信錄」に曰はく、『海魚、生〔なま〕にて片に切り、夜中、黑〔くら〕き處より、之れを視れば、皆、明透して、綠の火光、有り。色、熱河〔ねつか〕の夜光木〔やくわうぼく〕のごとし』と。

○「中饋錄〔ちゆうくゐろく〕」に曰はく、『魚を煑る法は、凡そ、河魚を煑るに、先づ、水を下〔くだ〕して、燒く。則ち、「骨酥〔こつそ〕」たり。江海魚は、先づ、瀼〔たぎ〕れる汁を調〔こしら〕へ、鍋に下〔おろ〕せば、則ち、「骨堅」なり』と。

○「大和本草」に曰はく、『人により、生肉は滯〔とどこほ〕らず。消化し易し』と。

本邦、凡て腥食〔なましよく〕を貴〔たふと〕ぶ。「通雅」にも『廣東の人のごときは、魚の生〔なま〕なるを食ひ、以つて美〔うま〕しと爲〔な〕す』と云へり。

 

[やぶちゃん注:訓読では、畔田の解説部では、それが判るように、改行した。

「異魚圖贊補」清の胡世安の魚譜。以下は、「巻上」の「半湯魚」の最後に添えられてある。「漢籍リポジトリ」のこちらの[001-15a]で読め、原本画像もある。

「曹植」(一九二年~二三二根)は三国時代の魏の詩人。曹操の第三子。幼少から抜群の才能を示して、父の寵愛を受け、兄の曹丕(そうひ)と跡目を争ったが、敗れ、側近は殺され、厳しい監視のもと、殆んど毎年、封地を移され、最後に陳王となって亡くなった。賦・頌・銘・表など、あらゆるジャンルに優れ、特に詩は力強い風格と流れる抒情によって、建安文学を代表する。杜甫が現れるまでは詩人の理想像でもあった。

「大理府名勝志」明の李元陽撰の雲南省大理地方の地誌「大理府志」の中の一篇か。

「物理小識」明末・清初の思想家方以智(一六一一年~一六七一年:一六四〇年進士に登第し、翰林院検討を授けられたが、満州族の侵略に遭い、嶺南の各地を流浪、清軍への帰順を拒んで、僧侶となった。朱子学の「格物窮理」説は事物の理を探究するには不十分とし、当時、渡来していたジェスイット宣教師たちから、西洋の学問を摂取し、また、元代の医師朱震亨(しゅしんこう)の「相火論」や、覚浪道盛の「尊火論」に基づいて、あくまで事物の「然る所以の理」を探究する方法としての「質測の学」と形而上的真理の探究の方法としての「通幾」を唱えた)の哲学書。

「正字通」明の張自烈の著になる字書であるが、後に清の廖(りょう)文英がその原稿を手に入れて自著として刊行した。十二支の符号を付した十二巻を、それぞれ上中下に分け、部首と画数によって文字を配列して解説を加えたもの。形式は、ほぼ、明の梅膺祚 (ようそ) の「字彙」に倣いつつ、その誤りを正して訓詁を増したものであるが、本書自体にも誤りは少くない。「字彙」とともに「康煕字典」の基礎となった。「中國哲學書電子化計劃」で原本を「仙經」で検索しても、それに近いようなものは見受けられるが、ここに引く文字列は出ない。

「皇極經世」「皇極経世書」北宋の哲学者で詩人の邵雍(しょうよう 一〇一一年~一〇七七年:生涯、任官せず、洛陽で市井の隠者として終わったが、司馬光・富弼(ふひつ)といった政界の重鎮や、程子兄弟(程顥(ていこう)・程頤(ていい))などの学者と交友した在野の文人)の主著。壮大な宇宙論的歴史観を展開している。

「瞑〔つむ〕らず」目を閉じない。目蓋がない。記載によっては眠らないという含みもあるようの思われる。但し、瞬膜や脂瞼を持つ魚種は有意にあり、フグの仲間に目の縁に輪状筋という組織があり、瞬きは出来ないが、ゆっくりと開閉が可能である。

「廣東新語」清初の屈大均(一六三五年~一六九五年)撰になる、広東に於ける天文・地理・経済・物産・人物・風俗などを記す。「広東通志」の不足を補ったもの。全二十八巻。以下は第二十二巻の「鱗語」に出る。早稲田大学図書館の「古典総合データベース」の原本の19コマ目(PDF)で視認できる。

「五雜爼」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。同所の「巻九 物部一」に(「中國哲學書電子化計劃」のものに手を入れた)、

   *

凡魚之游、皆逆水而上、雖至細之鱗、遇大水、亦搶而上。鳥之飛亦多逆風、蓋逆則其鱗羽順、順而返逆矣。人之生於困苦而死於安樂、亦猶是也。陳後山談叢謂、魚春夏則逆流、秋冬則順流、當再考之。

   *

と出る。実は観察を語りながら、載道的に人生の譬えとなっていることが判る。

「淮南子」前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。

「聽各物攷」不詳。

「埤雅〔ひが〕」北宋の陸佃(りくでん)によって編集された辞典。全二十巻。主に動植物について説明した本草学的な書である。

「寄園寄所寄」清の趙吉士撰の随筆。一六九五年序。

「鯨に耳骨〔じこつ〕あれば」「耳骨」は耳小骨のこと。脊椎動物の中耳内に存在する微小な骨で、外部から音として鼓膜に伝わった振動を内耳に伝える働きを成す。ほとんどの四足動物では中耳内の小骨は鐙骨(あぶみこつ)のみで構成されるが、哺乳類では鐙骨・砧骨(きぬたこつ)・槌骨(つちこつ)の三個になり、この順に内耳から鼓膜へ繋がる。通常は単に耳小骨と言った場合は、この哺乳類の三個の骨を指すことが多いが、広義には他の四足動物の中耳内小骨(鐙骨または耳小柱)をも指す(以上はウィキの「耳小骨」に拠る)。この耳小骨や魚類の耳石器(じせきき)との変遷過程は、岩堀修明氏の特別講演を纏めた論文「聴覚器がたどってきた道」(二〇一三年・PDF)がよい。

『「凡て耳なし」とすべからず』畔田先生、正しい批判です。耳石を持つ以上、魚に耳はあります。

「虛〔か〕くれば」欠けてくると。

「物類相感志」北松の政治家にして希代の文豪であった蘇軾(一〇三七年~一一〇一年)が書いた博物学的随筆。但し、国立国会図書館デジタルコレクションにある二種のそれを現認したが、以下の文字列は見当たらない。しかし、「御定淵鑑𩔖函」(清の聖祖(康熙帝)の勅撰により編纂された類書(百科事典)。一七一〇年成立)にも、

   *

物類相感志曰、魚痩而生白㸃者名虱。用楓樹皮投水中則愈。又魚始雷頭向下未驚蟄頭皆向上。

   *

とある。別な伝本があるか。

「遵生八牋」明の高濂(こうれん)の著になる食養生書。一五九一年成立。

「溲〔ゆばり〕」小便。

「昏〔くら〕みて」「眩みて」。

「鶴林玉露」南宋の羅大経(らたいけい)の著になる随筆集。一二四八年から一二五一年に成立。文人や学者の詩文についての論評を中心に逸話・見聞などを収めたもの。

「鶗〔テイ〕・鶘〔コ〕」二字熟語では見当たらないので分離した。前者には猛禽類にハイタカの意が、後者には魚食性のペリカンの意があるので腑に落ちたからである。

「タヒ」鯛。但し、漁師の言う「タイ」は条鰭綱スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major に限らない。私の「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」注を参照されたい。

「ホウバウ」魴鮄。竹麦魚。カサゴ目コチ亜目ホウボウ科ホウボウ属ホウボウ Chelidonichthys spinosus

「サバ」本邦では単に「さば」と呼ぶ場合は、スズキ目サバ科サバサバ亜科属マサバ Scomber japonicus、或いはサバ属ゴマサバ Scomber australasicus を指す。

「アヂ」鰺。条鰭綱新鰭亜綱スズキ目スズキ亜目アジ科アジ亜科マアジ属マアジ Trachurus japonicus。その他のアジの仲間は「大和本草卷之十三 魚之下 鰺 (アジ類)」の私の注を参照されたい。

「傳信錄」「中山傳信錄」(ちゅうざんでんしんろく)のこと。清の徐葆光(じょ ほこう 一六七一年~一七二三年)が一七一九年(康熙五十八年/享保六年)、琉球王国に冊封副使として赴き、尚敬王を冊封し、帰国後に約八ヶ月間の琉球での滞在記録をもとに一七二一年に刊行したもの。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書(但し、京都で刊行されたもので訓点(カタカナのルビもあり)が施された本邦での版本である)の第六巻の「物産」に載る。リンクのPDFの38コマ目の四行目最後から。

「夜中、黑〔くら〕き處より、之れを視れば、皆、明透して、綠の火光、有り」この発光現象は何だろう? ちょっと見当がつかない。識者の御教授を乞うものである。

「熱河〔ねつか〕」北京市の北東、「万里の長城」の北方のチョントー(承徳)特別市を中心とする一帯の旧名。古くから満州族・モンゴル人・漢民族の混住地帯であったが、満州族が建国した清の支配下で、積極的に行政区画が推進された。康煕帝は熱河避暑山荘(承徳避暑山荘)を設け、毎年五月から九月に巡行し、ここで政務を執った。

「夜光木」不詳。何らかの発光性の茸(キノコ)或いは苔か菌類が附着しているものか? 識者の御教授を乞うものである。

「中饋錄」現代仮名遣「ちゅうきろく」。料理書。著者は北宋の浦江に住んだ呉氏としか判らないが、魚醬・煮魚・各種の漬物・麵類など実に七十六種が掲載されており、北宋期の料理書として最も参考になるものとされる(平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

「水を下〔くだ〕して」ここは恐らく、焼く前に十分に水をかけて洗浄し、さらにその水分を充分にきるという意でとった。ここでじっくりと焼くと、水分がなく、蛋白質と脂肪だけの凝縮した塊りになるであろう。さればこそ、料理名の「骨酥〔こつそ〕」の「酥」(幻しの中国古代の加熱濃縮させたものと想定される乳製品)の文字が生きるように思うからである。

「瀼〔たぎ〕れる汁」十分に沸騰させた調味を整えた漬け汁として読んだ。

「鍋に下〔おろ〕せば」ここは強火の鍋に放り込んで、ジャーッと短時間で炒めて水分を飛ばすことを言うか。漬け汁が浸透しないまえにカリカリに焼き上げるから、「骨堅」ではと思った。

『「大和本草」に曰はく、『人により、生肉は滯〔とどこほ〕らず。消化し易し』と』これは「大和本草卷之十三 魚之下 魚膾」(魚の刺身の用に相当する記載)からである。

「通雅」明の方以智撰になる語学書。「爾雅」の体裁に倣い、名物・象数・訓詁・音韻などの二十五門に分け、特に語源について詳しい考証がなされてある。

「廣東の人のごときは、魚の生〔なま〕なるを食ひ、以つて美〔うま〕しと爲〔な〕す」「廣東」は現在の広東省。中国大陸の南に位置し、南シナ海に面しており、海産生物を食生活に古くから活用してきた歴史がある。広東料理でも「魚生粥」(刺身粥)はよく知られる。魚片(刺身)をお粥に浸して食べるのである。]

 

 

一鱗 正字通曰鱗魚龍甲說文魚甲也綱目時珍魚鱗注曰鱗者粼也魚產於水故鱗似粼

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 鱗〔うろこ〕 「正字通」に曰はく、『鱗、魚・龍の甲』と。「說文」、『魚の甲』と。「綱目」の時珍が「魚鱗」の注に曰はく、『「鱗」は「粼」なり。魚、水に產す。故に「鱗」、「粼」に似たり』と。

 

[やぶちゃん注:『「正字通」に曰はく、『鱗、魚・龍の甲』と』とあるが、調べた限りでは、これは「正字通」にはなく、梁の顧野王(こやおう)の撰になる字書「玉篇」で、『鱗【力因切。魚龍之鱗也。】』とある。

「綱目」明の医師で本草学者の李時珍(一五一八年~一五九三年:湖北省の医家の生まれ。科挙試に失敗し、民間医として医業を営む傍ら、医学・本草学に関する書を学んだ。主として医用の立場で集成した本草学の確立者にして伝統的中国医療の集大成者と言える)が編集した本草学書「本草綱目」。全五十二巻。実地見聞によって実に三十年余りをかけて約千九百種に及ぶ薬用植物・動物・鉱物などについて調べ上げ、十六綱六十三目に分けて、その産地・性質・製薬法・効能などを過去の本草家の引用を集成しつつ、自ら解説し、また、従来の説に対する批判をも加えている。一五七八年頃に一応の完成を見たが、その後も増補改訂が続けられた。日本には慶長一二(一六〇七)年までに渡来しており、江戸後期まで本邦の本草書のバイブル的地位を維持し続け、単に「本草」と書名で出たら、まず本書を指す。以下の引用は、巻四十四の「鱗之三」の終盤にある、「魚鱗」の項の「釋名」の一節。

   *

時珍曰、鱗者𥻘也。魚產于水故鱗似𥻘。鳥產于林。故羽似葉。獸產于山。故毛似草。魚行上水、鳥飛上風。恐亂鱗羽也。

   *

「𥻘」(音「リン」。部首は米部)は(つくり)が「水の流れ」を、(へん)が「連なり合うさま」を意味し、全体で「水が清く透き通って流れの底の石がはっきりと見えるさま」・「せせらぎ」の意である。]

 

 

一背翼 農政全書曰黑鯉背翼長接尾主旱正字通曰鰭魚背上鬣字典曰鰭魚背上骨史記正義曰鰭魚背上鬣也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 背翼〔せびれ〕 「農政全書」に曰はく、『黑鯉〔コクリ/くろごひ〕、背翼、長くして尾に接すれば、旱〔ひでり〕を主〔つかさど〕る』と。「正字通」に曰はく、『鰭、魚の背上の鬣〔たてがみ/ひれ〕』と。「字典」に曰はく、『鰭、魚の背の上の骨』と。「史記正義」に曰はく、『鰭、魚の背の上の鬣〔レフ/たてがみ/ひれ〕なり』と。

 

[やぶちゃん注:所謂、通常は魚類で最も目立つところの背鰭である。

「字典」「康煕字典」。清の一七一六年に完成した字書。全四十二巻。康煕帝の勅命により、張玉書・陳廷敬ら三十人が五年を費やして、十二支の順に十二集(各々に上・中・下巻がある)に分け、四万七千三十五字を収める。「説文解字」(漢。許愼撰)・「玉篇」(梁。顧野王撰)・「唐韻」(唐。孫愐(そんめん)撰)・「広韻」(宋。陳彭年(ちんほうねん)らの奉勅撰)・「集韻」(宋。丁度(ていたく)らの奉勅撰)・「古今韻会挙要」(元。熊忠(ゆうちゅう)撰)・「洪武正韻」(明。宋濂(そうれん)らの奉勅撰)などの歴代の代表的字書を参照したものであるが、特に「字彙」(明・梅膺祚(ばいようそ)撰)と「正字通」(明。張自烈撰)に基づいた部分が多い。楷書の部首画数順による配列法を採用、字音・字義を示し、古典に於ける用例を挙げ、この種の字書としては、最も完備したものとされる。但し、熟語は収録していない(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「史記正義」唐の張守節による司馬遷の「史記」の注釈書。「史記三家注」の一つ。七三六年成立。

「鬣」音の現代仮名遣は「リョウ」。]

 

 

一翅 六書故曰鬣頰㫄長毛說文魚龍頷㫄小鬐皆謂之鬣正字通海鯊註背上有鬣服下有翅今從之按魚有背上腰下長連者也【本草曰鰻鱺魚背有肉鬣連尾】有脇及腹下腴而其本出體其末離身開飛者翅也【正字通曰翅翼也字典曰翼廣韻羽翼也書疏如鳥之羽翼廣雅飛也玉篇翹也禮疏翹起發也】諸書所謂魚翅此也綱目時珍說魚翅曰鰭曰鬣楊州畫舫錄曰海魚割其翼曰魚翅物理小識曰抂水而鱗鬣飛之類也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 翅〔はね/ひれ〕 「六書故」に曰はく、『鬣〔ひれ〕は頰の㫄〔かたは〕らの長き毛なり』と。「說文」、『魚龍の頷〔あご〕の㫄ら、小さき鬐〔ひれ〕あり。皆、之れを鬣〔ひれ〕と謂ふ』と。「正字通」の「海鯊〔カイサ/はぜ〕」の註に、『背の上に、鬣、有り。服下に、翅、有り』と。

今、之に從ひて按ずるに、魚、背の上、腰の下に、長く連れる者、有るなり【「本草」に曰はく、『鰻--魚〔うなぎ〕は、背、肉の鬣、有りて、尾に連なる』と。】。脇及び腹下の腴〔つちすり〕に有りて、其の本は體より出でて、其の末は身を離れて開きて飛ぶ者、翅なり【「正字通」に曰はく、『翅翼なり』と。「字典」に曰はく、『翼。「廣韻」、『羽翼』』と。「書疏」に『鳥の羽翼のごとし』と。「廣雅」に『飛〔ヒ〕なり』と。「玉篇」に『翹〔ゲウ〕なり』と。「禮疏」に『翹、起き發〔た〕つなり』と。】。諸書、所謂、「魚翅」は、此れなり。

「綱目」の「時珍」が說に、『魚の翅、「鰭」と曰ひ、「鬣」と曰ふ』と。「楊州畫舫錄」に曰はく、『海魚、其の翼を割〔わか〕つ。「魚翅」と曰ふ』と。「物理小識」に曰はく、『水を抂〔ま〕ぐる鱗・鬣・飛の類ひなり』と。

 

[やぶちゃん注:胸鰭を中心とした腹鰭・尻鰭である。なお、この条、どこまでが当該書の引用なのか、判断が出来ない(これは他でも言える)。原拠に当たれないものも多く、また、今までのケースを見ても、畔田は必ずしも引用自体が正確でないので如何ともし難い。但し、言っていることは殆んど理解が可能で矛盾は一抹も感じない。一応、完全漢文体ではあるが、中間部を畔田の見解とみて、改行しておいた。以下でも同様に迷った箇所は多い。

「六書故」宋末元初の言語学者戴侗(たいとう 一二〇〇年~一二八四)の六書(りくしょ:漢字の造字法の象形・指事・形声・会意・転注・假借)の理論に基づき、数・天文・地理・人・動物・植物・工事・雑・疑など九部に分けて漢字を分析した字書。後代の研究に多大な影響を与え、中国文字学史上、極めて独特な地位を占めたものという。

「㫄〔かたは〕ら」傍ら。

「海鯊〔カイサ/はぜ〕」条鰭綱スズキ目ハゼ亜目 Gobioidei に属するハゼ類。ウィキの「ハゼ」によれば、世界の海域・汽水域・淡水域に約百八十九属で約千三百五十九種が棲息し、本邦でも百七属四百九十三種が棲息しており、最も繁栄している魚群の一つであるとある。なお、世界的に見ても、ハゼ類では純淡水産種は少ない(海と川を回遊するハゼ類はおり、その中には陸封型の個体群もいはする)。なお、現代中国語で「鯊」という漢字はサメ(鮫)類を指すので注意が必要である。詳しくは、「大和本草卷之十三 魚之上 鯊(はぜ) (ハゼ類)」の私の注を参照されたい。

「背の上に、鬣、有り。服下に、翅、有り」と続くのであるから、まず、胸鰭を指すものと考えてよく、そうすると、「服」は誤字とは言わないまでも、どうもしっくりこない。「服」にすんなりと付会できそうな意味もない。「腹」でもいいが、胸鰭を無視するのは戴けないから、ここは「脇」が一番いいように思われたが、いろいろ調べた結果、「中國哲學書電子化計劃」でたまたま「鯊」を検索したところ、「康熙字典」の「魚部 七」の「鯊」に、「正字通」に『靑目赤頰、背上有鬣、腹下有翅、味肥美』と引用されている(但し、「正字通」の検索では現認出来なかった)と載ることから、「腹」の誤り(畔田の誤りではなく、それ以前に彼が参考にした引用書が誤っている可能性もある)である可能性が高いことが判った。

「腴〔つちすり〕」水底の土を磨(す)る意から、魚の腹の太ったところ。砂擦(すなず)り。

「廣韻」前の注で出したが、宋の陳彭年らの奉勅撰になる字書。

「書疏」明の孔安国と孔穎達の撰した「尚書註疏」のことか。

「廣雅」三国時代の魏(二二〇年~二六五年)の張揖(ちょうゆう)によって編纂された辞典。「爾雅」の増補版に相当する。

「禮疏」「礼記」の評釈書は、初唐の儒学者で太学博士となった賈公彦(かこうげん 生没年未詳)の「周礼疏」・「儀礼疏」・「礼記疏」が知られ、特に「周礼疏」は彼が心血を傾注した力作であり、朱熹は「五経」の疏の中でも最も出色と讃えているものであるから、それであろう。

「楊州畫舫錄」(ようしゅうがぼうろく)は清の旅行家李斗の撰になる、三十年余の間に見聴きしたしたものを集成した揚州の見聞録。一七九五年刊。『海魚、其の翼を割〔わか〕つ。「抂〔ま〕ぐる」曲げる。]

 

一鰓 正字通曰鰓魚頰字典曰腮魚頰中骨也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 鰓〔えら〕 「正字通」に曰はく、『鰓、魚の頰』と。「字典」に曰はく、『腮、魚の頰の中骨なり』と。

 

[やぶちゃん注:特に注を必要としない。以降、その場合は、この注を附さない。]

 

 

一魩 通雅曰丁尾曰魩正字通曰魩彌葛切音末魚尾亦曰丙又曰※爾雅魚尾謂之※註尾似篆文※字因形名之丙篆作※魚尾也魚之運動在尾掉身隨象其下岐之形字典曰魩集韻魚尾天祿識餘謂之魚丁品字箋曰魚勞則尾赤魴本白而赤其尾則勞甚矣正字通曰魴魚頳尾或作䞓爾雅再染謂頳訓淺赤也[やぶちゃん注:三ヶ所に出現する「※」は分解による説明も困難な字である。底本のここの左ページの後ろから四行目の下から三字目。見難いとなれば、「水産総合研究センター図書資料デジタルアーカイブ」の「水族志」のこちらJPG単体画像)を見られたい。文脈からは「丙」の字の篆文(篆書体)と読め、実際に「中國哲學書電子化計劃」で「正字通」の原本当該部の画像(かなり粗い)と電子化を見ても同じ「丙」である。しかも「正字通」は原本では何のことはない(後ろから五行目の四字目以降)、『爾雅魚尾謂之丙註尾似篆文丙字因形名之』と後に出る「爾雅」からの引用なのである。因みに、「爾雅」の当該部を早稲田大学図書館「古典総合データベース」で確認すると(一八九五年上海刊石印版・PDF63コマ目一行目下方)、やはり普通に「丙」と書かれている。但し、「正字通」の引用が「篆文」をカットして並置してしまっている以上、それに代えることは出来ない。]

 

○やぶちゃんの書き下し文(「※」の字は前の注を参照のこと)

一 魩〔ハチ・バチ/を〕 「通雅」に曰はく、『丁尾〔ていび〕、「魩」と曰ふ』と。「正字通」に曰はく、『魩、「彌」と「葛」の切。音、「末」。魚の尾も亦、「丙」と曰ひ、又、「※」と曰ふ』と。「爾雅」に、『魚の尾、之れ、「※」と謂ふ』と。註に、『尾、篆文〔てんぶん〕の「※」の字に似る。因りて、形、之れ、「丙」と名づく。篆、「※」と作る。魚の尾なり。魚の運動、尾に在り。身を掉〔ふる〕ふに、象〔かたち〕、隨ひ、其の下、岐の形なり』と。「字典」に曰はく、『魩なり』と。「集韻」に、『魚の尾、「天祿識餘」は、之れ、「魚丁」と謂ふ』と。「品字箋」に曰はく、『魚の勞は、則ち、尾なり。赤魴〔はうばう〕、本〔もと〕、白くして、赤し。其の尾、則ち、勞、甚だし』と、「正字通」に曰はく、『魴、魚の頳〔あか〕き尾なり。或いは「䞓」に作る』と。「爾雅」に、『再び染むるを、「頳」と謂ふ』と。訓じて、「淺き赤」なり。

 

[やぶちゃん注:「丁尾」「丁」には「魚の頭にある骨」の意があるが、ここは尾の形を「丁」で示したものかと思われる。

『魩、「彌」と「葛」の切』反切(はんせつ)を示したもの。ある漢字の字音を示すのに、別の漢字二字の音を以ってする方法。上の字の頭子音(声母)と下の字の頭子音を除いた部分(韻母)とを合わせて一音を構成するもの。例えば、「東」の子音は「徳紅切」で「徳」の声母「t」と「紅」の韻母「oŋ」とによって「toŋ」とする類を言う。「彌」は現代中国語では旧式であるウェード式で「mi2」、「葛」はウェード式で「ko2・ko3」、「魩」は現代の拼音(ピンイン)では「mò」で、「末」は拼音で「mò」であるから、調べて見れば、一致を見るようには見える。しかし、日本語では「魩」の音は「ハチ・バチ」であって全く一致しない。則ち、反切は中国語の書かれた、しかも、その当時の発音に基づく合成音であるから、中国語の音を知らない日本人にはそもそもが、今も昔も、示しても、本質的には意味がない。

「丙」「魚の尾」の意がある。足が張り出した台の象形文字であるが、魚の尾の形にミミクリーするのは腑に落ちる。

「掉〔ふる〕ふ」振り動かす。

「集韻」宋の丁度(ていたく)らの奉勅撰の字書。

「天祿識餘」清の文学者高士奇の随筆。

「勞」運動性能の基本の意であろう。

「赤魴」既出のホウボウのこと。後の「魴」も同じ。尾鰭は三角形で赤く、後端に青い縁取りがある。因みに十干の「丙」と「丁」は五行の「火」に当てられており、無論色は「紅・赤」である。

「䞓」音「テイ」。高橋大希氏の修士論文「夢梅本『倭玉篇』の研究」PDF・北海道大学・二〇一七年)に『「泟」には漢字注に「赤也亦作䞓」、和訓に「アカシ」と「ベニ」がある。和訓「アカシ」が傍訓として付いていた漢字には「赤・丹・絳」があり、この場合は「赤」が漢文注にあるため』、『この字との対応関係があるといえる。一方「ベニ」の方は対応する傍訓がないため、この段階では対応関係は確認できない』とある。小学館「日本国語大辞典」に「赬尾・頳尾 ていび」として、『赤い尾。魚は泳ぎ疲れると尾が赤くなるといい、転じて、君子が治政に苦労することをいう』とある。

「爾雅」を見ると、「釋器」に「再染、謂之赬」とある。「赬」は「頳」と同義である。]

 

 

一𩷔 正字通曰魚尾長曰𩷔字典曰𩷔同𩺵𩺵魚尾長也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 𩷔〔シン〕 「正字通」に曰はく、『魚の尾の長きを「𩷔」と曰ふ』と。「字典」に曰はく、『𩷔、𩺵〔シン〕に同じ。𩺵は魚の尾の長きなり』と。

 

[やぶちゃん注:調べたが、「𩺵魚」という魚の種の固有名はない。]

 

 

一鯁 字典曰鯁說文本作𩹐魚骨廣韻刺在喉儀禮註乾魚近腴多骨鯁事物紺珠曰莿音次魚骨願體廣類集曰魚刺鯁喉

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 鯁〔のぎ〕 「字典」に曰はく、『鯁〔カウ〕、「說文」、「本〔もと〕、𩹐〔カウ〕に作る。魚の骨」と』。「廣韻」、『刺〔とげ〕、喉〔のど〕に在るなり』と。「儀禮〔ぎらい〕」の註に、『乾したる魚、腴〔つちすり〕の近くに、骨の鯁、多し』と。「事物紺珠」に曰はく、『莿〔シ〕。音、「次〔シ〕」。魚の骨なり』と。「願體廣類集」に曰はく、『魚の、鯁、喉に刺さるなり』と。

 

[やぶちゃん注:「鯁〔のぎ〕」小学館「大辞泉」に、「鯁(のぎ)」と訓じて「芒(のぎ)」と同語源とし、『のどに刺さる小さい魚の骨』とあるのに従った。

「𩹐」これは「鯁」の正字。

「儀禮」儒教教典の一つ。十七編。周公の著と伝えられるが、確証はない。古代の礼に関する文献を儒家が伝承してきたものの一部で、冠婚葬祭を中心とする礼の具体的規定を記す。「周礼」・「礼記」とともに「三礼(さんらい)」と称せられる。

「事物紺珠」「事物紺珠」は明の黄一正撰で一〇六四年成立。天文から地理に至る諸事を述べた全四十六巻から成る類書。

「願體廣類集」清の李仲麟撰の哲学書。]

 

一魧 通雅魚腦骨曰魧正字通曰魧魚𡍗骨曰枕爾雅魚枕謂之丁俗作魧舊本龽註魚首骨即魚枕爾雅註曰在魚頭骨中形似篆書丁寧波府志曰石首魚首有魧堅如石[やぶちゃん注:「𡍗」は底本では「𡍗」の(つくり)の下部の「口」の上辺がないが、そのような異体字は見当たらず、表記不能なので、これに代えた。「𡍗」は「腦」の本字のようである。

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 魧〔カウ〕 「通雅」、『魚の腦の骨、魧と曰ふ』と。「正字通」に曰はく、『魧、魚の𡍗の骨なり。枕〔ちん〕と曰ふ』と。「爾雅」、『魚枕〔ぎよちん〕、之れ、「丁」と謂ふ。俗、魧に作る』と。舊本の「龽」の註に、『魚の首の骨、即ち、魚枕』と。「爾雅」註に曰はく、『魚の頭の骨の中に在り。形、篆書の「丁」に似たり』と。「寧波府志」に曰はく、『石首魚の首、魧、有り。堅きこと、石のごとし』と。

 

[やぶちゃん注:「魧」大修館書店「廣漢和辭典」によれば(丸括弧は私の補填)、①大きな貝(シャコガイに似たもののようである)、⑵魚のあぶら(脂身・脂肪分のこと)③たら(魚の「タラ」)を挙げ、④で魚の骨、などとする。ここでは総合的には魚の頭骨を指していると考えてよいが、どうもこの盛んに出る「枕」というのを見ていると、どうも、所謂、「鯛の鯛」、硬骨魚の肩帯の骨の一部で、肩甲骨と烏口骨が繋がった状態のタイにミミクリーされて「タイのタイ」(タイの中にいるタイ)で知られる、目立つところのそれも含めているような気が強くしてくるのである。但し、この部位は頭骨とは関係なく、主に胸鰭を動かすために使用される骨(群)であり、肩甲骨と烏口骨の両端で擬鎖骨に繋がった形で腮付近に存在する。しかし、場所が頭部に近く、食した後にその何とも言えない魚の中の魚のように見えて人々に注目されるところから(あらゆる魚からこれを蒐集している学者や、出版している御仁を知っている、というか、それらの人とメールで会話し、本も持っている)ここに含まれていて何ら問題はないように思われる。また、最後の部分では、知られた、頭骨内にある平衡器官内の「耳石(じせき)」を出してもいるから、「タイのタイ」を入れてもいいだろう。

「丁」既に述べた通り。「丁」には「魚の頭にある骨」の意がある。

「舊本」これは漢籍古書の引用書名を忘れたものと採る。「爾雅」のそれならば、次で、重ねて何も添えずに『「爾雅」註に曰はく』とは記さないと踏んだからである。

「龽」中文サイトでも読みも意味も不明。

「寧波府志」明の張時徹らの撰になる浙江省寧波府の地誌。以下は「卷之十二 物產」の「鱗之屬」の冒頭から二番目の55コマ目の「石首魚」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像。PDFで当該巻を含む三巻分一冊)の一節。

「石首魚」現行ではこれであるとか、「イシモチ」「石持」「鰵」などと言った場合、

スズキ目スズキ亜目ニベ科シログチ属シログチ Pennahia argentata

を指すのが一般的であるが、漢籍のそれは恐らくは同科の別属である「鮸(にべ)」、

ニベ科ニベ属ニベ Nibea mitsukurii

或いはニベ科 Sciaenidae のニベの仲間を指す。耳石も含めて私の「大和本草卷之十三 魚之下 石首魚(ぐち) (シログチ・ニベ)」を参照されたい。]

 

 

一魚乙 事物紺珠曰魚乙目旁骨如篆乙字食之鯁人難出

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 魚の乙〔おつ〕 「事物紺珠」に曰はく、『魚の乙は、目の旁〔かたは〕らの骨なり。篆の「乙」の字のごとし。之を食へば、鯁〔のぎのささ〕り、人、出だし難し』と。

 

[やぶちゃん注:「乙」には魚の腸(はらわた)の意の他に、魚の顎(あご)の骨の意がある。]

 

 

一鰾 字典曰鰾魚鰾可作膠類篇魚肥也通雅曰浮曰鰾白又曰細飄正字通曰魚浮曰鰾白可作膠鰾卽諸之白脬中空如泡諸鰾皆可治爲膠惟石首魚膠謂之江鰾黏物甚固

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 鰾〔ヘウ/うきぶくろ〕 「字典」に曰はく、『鰾、魚の鰾。膠〔にかは〕に作るべし』。「類篇」、『魚の肥なり』と。「通雅」に曰はく、『浮、鰾白〔ヘウハク〕と曰ひ、又、細飄〔サイヘウ〕と曰ふ』と。「正字通」に曰はく、『魚の浮〔うきぶくろ〕、鰾白と曰ふ。膠に作るべし』と。鰾、卽ち、諸〔これ〕、白脬〔はくふ〕は、中空にして、泡のごとし。諸〔これ〕、鰾は、皆、治〔をさ〕めて膠と爲すべし。惟〔た〕だ、石首魚の膠は、之れを「江鰾〔カウヘウ〕」と謂ひ、物に黏〔つ〕くれば、甚だ、固し。

 

[やぶちゃん注:字書類で「作△」と出ると、ほぼ九十九%、『別な「△」という漢字で表字(も)する』という意味だが、ここは特異点で、充填・接着剤の膠(動物の皮・骨・腱・内臓膜を主要原料とし、これらを水とともに熱し、得られた抽出液を濃縮・乾燥させたもの。原料の主成分たるタンパク質のコラーゲン(collagen。骨由来の場合はオセイン ossein と呼ばれる)が、加熱によって変性したゼラチン(gelatin)を主成分とする。古くから木竹工芸の接着剤や東洋画の顔料溶剤などに用い、用途は広い。通常は板状か棒状に乾燥させて保存し、湯煎によって適当な濃度に溶かして用いる)を「作る」のに適してしているの意であるのが面白い。

「類篇」北宋の一〇六七年に皇帝(第五代英宗か第六代神宗)に奉じられた部首引きの官製字書。全四十五巻。「説文解字」や「玉篇」に比して遙かに字数が増えている。但し、その内容は「集韻」を「説文解字」の部首順に並べ変えたものに近いとされる。

「肥」ここは「肉づき」の意か。鰾は「ほばら」とも呼ばれ、語源は「細き腹」とも言う(小学館「日本国語大辞典」)から、細くても内蔵や筋肉とは異なる腹にある肉や脂肪のように意識されたとしても不思議ではない。

「脬」広義の生物の体内にある袋状の器官を指すものか。]

 

 

一腴 禮少儀註疏曰膄腹下肥處品字箋曰凡魚冬陽氣在下肥美在腹膄者腹下肥處也夏則陽氣在上肥有脊通雅曰腹下肥曰腴山谷曰燕人膾鯉方寸切其腴以㗖所貴此出天官籩人註證膴亦是腹腴子美詩云偏勸腹腴貴秊少按說文螽醜螸垂腴也腹下肥也今人曰魚肋

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 腴〔すなすり〕 「禮少儀註疏」に曰はく、『膄〔すなすり〕、腹の下の肥えたる處』と。「品字箋」に曰はく、『凡そ、魚、冬、陽氣、下〔した〕に在れば、肥えて美〔うま〕し。腹に在る膄は、腹の下の肥えたる處なり。夏、則ち、陽氣、上に在りて、肥えは、脊に有り』と。「通雅」に曰はく、『腹下の肥えたるを、腴と曰ふ』と。山谷〔さんこく〕曰はく、『燕人〔えんひと〕、鯉を膾〔なます〕とするに、方寸とするに、其の腴を切りて、以つて、㗖〔くら〕ふを、貴き所とす』と。此れ、「天官・籩人〔へんじん〕」が註に出で、證するに、『膴〔コ/ク〕も亦、是れ腹の腴なり』と。子美の詩に云はく、『偏へに腹-腴〔すなすり〕を勸め 秊少を貴む』と。

按ずるに、「說文」に『螽醜螸(シユウシウヨク)、垂れたる腴なり』と。腹の下の肥えたるなり。今の人、「魚の肋〔ろく〕」と曰ふ。

 

[やぶちゃん注:「山谷〔さんこく〕」不詳。宋の知られた詩人黄庭堅は号を山谷道人と称し、詩集も「山谷詩集」であるから、彼のことか。

「天官籩人」「周礼」注に『天官・籩人』と言うのがあることが、小学館「日本国語大辞典」の「寒具」の出典例にあった。」は果実類を盛る竹製の高坏(たかつき)で、本来は神に捧げる聖具であるから、道教の天界の官吏や神人らを指すのであろう。

「膴」は「骨無しの肉を干したもの」・「魚や肉の大きな切り身」の意の他に、「膴膴」で「よく脂が乗っていて美味しいさま」があり、最後の意が「すなすり」とマッチする。

『「說文」に『螽醜螸、垂れたる腴なり』』「説文解字」に確かに「螸。螽醜螸、垂腴也」とあるのは確かに確認した。しかしこの「螽醜螸」は全く意味が判らない。イナゴ(螽)が醜く腹を露わにして空を飛ぶ(「螸」は「螽」が飛ぶ姿と中文サイトにあった。また、「漢字林」には『バッタ(飛蝗)やイナゴ(蝗)の類で腹部が太って垂れている種』とあった)の謂いか?

「子美」杜甫。それは以下の七言古詩(「閿鄕(ぶんきやう)の姜七少府(きようしちしやうふ)鱠(なます)を設(まう)く、戲れに長歌を贈る」)の一節。但し、中文サイトは圧倒的に「偏勸腹腴貴秊少」ではなく、「偏勸腹腴愧年少」で、「偏へに腹-腴〔すなすり〕を勸め 年少を愧(は)づ」となっている。「秊少を貴(たふと)む」でも意味はおかしくない(「秊少」は「季少」で「年少」の若者に同じい)。

   *

  閿鄕薑七少府設膾戲贈長歌

姜侯設膾當嚴冬

昨日今日皆天風

河凍未漁不易得

鑿冰恐侵河伯宮

饔人受魚鮫人手

洗魚磨刀魚眼紅

無聲細下飛碎雪

有骨已剁觜春蔥

偏勸腹腴愧年少

軟炊香飯緣老翁

落砧何曾白紙濕

放箸未覺金盤空

新歡便飽姜侯德

淸觴異味情屢極

東歸貪路自覺難

欲別上馬身無力

可憐爲人好心事

於我見子眞顏色

不恨我衰子貴時

悵望且爲今相憶

   *]

 

 

一魚脂 天寳遺事曰南中有魚肉少而脂多彼人取魚脂煉焉爲油東西洋考曰眞臘巨舟以硬樹破版爲之所粘之油魚油所和之灰石灰也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 魚脂〔ギヨシ/うをのあぶら〕 「天寳遺事」に曰はく、『南中に魚有り、肉、少くして、脂、多し。彼〔か〕の人、魚脂を取りて煉〔ね〕る。油と爲す』と。「東西洋考」に曰はく、『眞臘〔しんらう/クメール〕、巨きなる舟は、硬樹を以つてし、版を破りて、之れを爲〔つく〕る所、之れを粘〔つく〕る油は魚の油なり』とする所は、和の灰石灰〔くわいしつくい〕なり。

 

[やぶちゃん注:「魚脂」魚油(ぎょゆ)。通常はイワシ・サンマのように大量に捕獲される魚類を原料として精製するが、鯨油も盛んに作られ、古くから行灯などの安価な燃料とされていた。江戸時代の怪奇談集で、妖しい女や化け猫が行灯の油を嘗めるというシークエンスは(わざわざ「妖しい女」といたのは、私の電子化した中に、事実譚としてそういう話があるからである。「想山著聞奇集 卷の參 油を嘗る女の事」を読まれたい)、その油に魚油を使っていたことに由来している。安価ではあったが、魚油や鯨油は実際、かなり生臭い臭いが屋内にたちこめる。

「天寳遺事」「開元天寶遺事」。盛唐の栄華を伝える遺聞を集めた書で、王仁裕撰。後唐の荘宗の時、秦州節度判官となった彼が長安に於いて民間の故事を採集、百五十九条に纏めたものとする。

「東西洋考」明末の東南アジア及び周辺諸国についての地歴書。張燮(ちょうしょう)が 一六一七年に完成させたもので,過去の書籍の祖述ではなく、当時の実情に重きを置いて記述していることから、明末の南海交通史の史料として最も重要なものの一つとされる(「ブリタニカ国際大百科事典」に拠る)。

「眞臘〔しんらう/クメール〕」現在のカンボジア。

「版を破りて」木材を縦に割って製材して板を作り。

「粘〔つく〕る」接着する。

「灰石灰〔くわいしつくい〕」「漆喰」(しっくい)のことであろう。その音は「石灰」の唐音に基づくもので、「漆喰」という漢字は当て字である。従って歴史的仮名遣を「しつくひ」とするのをよく見かけるがそれは誤りである。消石灰に麻糸などの繊維質や海藻のフノリ・ツノマタなどの膠着剤を加えて水で練ったもの。砂や粘土を加えることもあり、壁の上塗りや石・煉瓦の接合に用いる。粘りを加えるために魚油を加えたやも知れず、強ち、見当外れな添え物でもあるまい。]

 

 

一魚膽 事物異名曰春夏近上秋冬近下

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 魚膽〔うをのきも〕 「事物異名」に曰はく、『春夏、上に近く、秋冬、下に近し』と。

 

[やぶちゃん注:「魚膽」魚類の肝臓。]

 

 

一肚 五雜爼曰爾雅翼謂凡魚無肚獨鱖魚有肚能嚼字典曰廣韻腹肚集韻冑也正字通曰呼曰吐博雅𦞅謂之肚

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 肚〔はらわた〕 「五雜爼」に曰はく、『「爾雅翼」に謂ふ、「凡そ、魚、肚、無し。獨り、鱖魚〔けつぎよ〕のみ、肚、有り。能く嚼〔しやく〕す」と』。「字典」に曰はく、『「廣韻」、腹肚。「集韻」、冑なり』と。「正字通」に曰はく、『呼びて、「吐」と曰ふ』と。「博雅」、『「𦞅」、之れ、肚の謂ひなり』と。

 

[やぶちゃん注:怪しい「冑」は恐らく胃の誤字か誤植で、この奇体な「𦞅」は「胃」の異体字である。実際、魚類では、捌いても、胃らしいものが見当たらない魚類は、結構、いる。イワシ類・トビウオ類・サヨリなどがそれで、彼らは消化管がただ伸びているだけで有意な胃としての膨らみが全くないからである。

「爾雅翼」南宋の羅願による本草書。先に出た、同様の北宋の陸佃の辞書「埤雅」同様に、動植物を分類して説明したものである。

「鱖魚」条鰭綱スズキ目スズキ亜目ケツギョ科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi。淡水魚。本邦にはいない。ウィキの「ケツギョ」によれば、『中国大陸東部沿岸の黒竜江省(アムール川)から広東省にかけての各水系に分布するが、華南よりも華北に多い。本来、海南島や雲南省などの内陸部には分布しない』。『現在は、養殖のために台湾にも移植されている。また、広東省を中心に大規模な養殖が行われている』。『成魚は全長』三十センチメートル『程度、最大で』六十五センチメートル『となる。体は側扁する。体長は体高の約』二・八『倍程度。吻は前に突き出ていて、口が大きい。尾鰭』『はうちわのような円形をしている。背鰭』『は前後で形態が異なり、前部には硬い刺がある。体色は黄緑色で、腹部は淡灰色。体側には中央付近に太く黒い筋模様が』一『本あり、不規則の暗褐色の斑点がいくつかあり、周辺環境に紛れる保護色となる。吻から目を通って背鰭の下まで、黒い竪筋模様がある。腹鰭・背鰭の後部・尾鰭の各軟条部には暗褐色の黒点が並び、全体で軟条を横切る帯模様に見える』。『大河川の中流域、ダム湖などの淡水域に生息する。食性は捕食性の肉食で、魚類・水生昆虫・甲殻類等を食べる』。『中国語の標準名は「鱖」または「鱖魚」であるが、この「鱖魚」を音読みしたものを和名としている。旧満州において、日本人はヨロシと称した』。『中国語では同音の当て字で「桂魚」、また、これから類推した「桂花魚」と呼ばれたり、その当て字で「季花魚」と書かれることもある。「桂花」はギンモクセイを意味するが、鱖魚とは無関係である』。『白身で癖がなく、食感もぷりっとしていて良く、小骨がないため、中国では高級食材として扱われている。ネギ、ショウガまたは豆豉と共に蒸し魚にしたり、唐揚げにすることが多い』。『古来、美味なる魚として漢詩にもたびたび現れる。例えば、唐の張志和の『漁歌子』には「西塞山前白鷺飛,桃花流水鱖魚肥。」の一節がある。また、絵画や陶器などの題材にもされることがある』とある。但し、ケツギョの胃が有意に大きいかどうかは知らない。

「能く嚼〔しやく〕す」主語は「鱖魚」。発達した内臓を持っているからよく「咀嚼」(消化)すると考えたものであろう。]

 

一𢬷 品字箋曰𢬷魚口動不止貌𩵢魚口動正字通𢬷舊註魚食貌非

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 𢬷〔ナン〕 「品字箋」に曰はく、『「𢬷」、魚、口、動して止まざる貌』と。「𩵢〔コウ/シヨウ〕」は、魚の口の動きなり。「正字通」の「𢬷」の舊註に、『魚の食ふ貌は、非なり』と。

 

[やぶちゃん注:「𢬷」ユニコードのデータを見ても音はない。「集韻」を見たところ、『奴紺切、「南」去聲。魚食貌』とあったので、かく読みを添えた。「𩵢」の読みはこちらに従った。中の「𩵢は、魚の口の動きなり」の箇所は「品字箋」で確認出来ないので、畔田の判断として示したが、何かの引用らしくはある。ともかくも、ここは少なくとも、魚の口先の動きを意味する語と採っておく。]

 

 

一𠯗 品字箋曰魚食入口曰𠯗亦作啑噈

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 𠯗〔ソウ〕 「品字箋」に曰はく、『魚、食して口に入るるを、𠯗と曰ふ。亦、「啑〔ソウ〕」「噈〔シユク〕」に作る。

 

[やぶちゃん注:以下の注から、魚が餌をとる様子を指す語と採る。

「啑」は、「鳥や魚が餌をぱくぱくと忙(せわ)しげに食らう」(「唼」に同じ)、「ぺちゃくちゃと喋る」、「同盟した証しとして血を尖らせた口を飲み物の中に入れるようにして啜(すす)る・舐めるように啜る」と「漢字林」のこちらにあった。

「噈」上と同じところに、「口を窄(すぼ)める、皺を寄せる」、顰噈(ひんしゅく)で顰蹙に同じく「不満・不快・愁嘆・心痛などで顔を顰(しか)める」の意とする。]

 

 

一餒 品字箋曰魚爛曰餒又曰餒魚斕也亦作鯘

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 餒〔ダイ〕 「品字箋」に曰はく、『魚、爛〔ただ〕るるを餒と曰ふ』と。又、曰はく、『餒、魚の斕なり。亦、鯘に作る』と。

 

[やぶちゃん注:「餒」には「飢え・うえる・ひもじい」の他に、「魚肉などが腐る」の意がある。ここは魚肉類の腐敗現象を指すととっておく。他に同義の「鮾」があり、私はこちらの方がしっくりくるし、古典では「魚肉などが腐る・腐敗する」の意の「あざる」に「鯘る」という最後に出る漢字をしばしば当てるので、そちらも馴染み深い。

「斕」は音「ラン・レン」で「交じる・錯雑する」の意があるから、爛れ腐ると色がグシャグシャになることを指すかと好意的に考えたが、正直、「爛」で、いいでしょうが!]

 

 

一腥 品字箋曰腥魚肉之腥氣也魚肉之氣言腥猶牛羊之氣言膻也又未烹之肉曰腥中原音韻曰腥魚臭

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 腥〔セイ/なまぐさ〕 「品字箋」に曰はく、『腥、魚肉の腥〔なまぐさ〕き氣〔かざ〕なり。魚肉の氣〔かざ〕、腥〔セイ〕と言ふ。猶ほ、牛・羊の氣を膻〔セン〕と言ふごときなり。又、未だ烹〔に〕ざるの肉も、腥と曰ふ』と。「中原音韻」に曰はく、『腥、魚の臭きなり』と。

 

[やぶちゃん注:「中原音韻」]

 

一鯝字典曰鯝魚肚中膓類篇杭越之閒謂魚胃爲鯝

 

    文政十乙亥正月  源 伴 存 又 識

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 鯝〔コ/はらわた〕 「字典」に曰はく、『鯝、魚の肚〔はら〕の中の膓〔わた〕なり』。「類篇」、『杭・越の閒、魚の胃を謂ひて鯝と爲〔な〕す』と。

 

    文政十乙亥〔きのとゐ/イツガイ〕正月

  源 伴存 又 識

 

[やぶちゃん注:「鯝」は以下に述べられているように、前とダブるが、魚の内臓全般を指す語である。

「杭・越」杭州と越州。現在の銭塘江河口の浙江省杭州市(グーグル・マップ・データ)附近と、その南東に接する曹娥江河口の同省紹興市附近の旧称。杭州湾の湾奥に当たる。

「文政十乙亥〔きのとゐ/イツガイ〕正月」干支は誤り文政十年は丁亥(ひのとゐ/テイガイ)で、一八二七年相当(旧暦一月一日はグレゴリオ暦一月二十七日)となる。恐らくはこれは判読の誤りか、彼自身の誤記である。畔田は安政六年六月十八日(一八五九年七月十七日)に亡くなっており、生誕は寛政四(一七九二)年三月であるから、数え三十三(満三十一)の若さである。「又」は「自序」に続くので「同じく」の意であろう。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、原本のここから、河原田盛美による畔田を紹介する形での一般のそれとは異なる「凡例」が続く。前の「例言」と同じく柱の「一」が一字分、頭に突出する形で表記されているが、同じくブラウザの不具合から再現しない。やはり、一条ごとに書き下しと注を附す。訓読では頭の「一」の後をやはり一字空けた。]

 

水  族  志

    凡例

一此書ハ文政ノ末紀州藩人故源伴存翁著ス所ナリ翁夙ニ赭鞭ノ學ヲ嗜ミ諸州ヲ經歷シ霞宿雲游外ニアル數十年南ハ熊野ヲ極メ北ハ三越ヲ經テ東ハ甲信西ハ防長到ル處普ク水陸庶物ヲ精究ス事ハ紫藤園攻證ノ序ニ詳カナリ翁博學多識ニシテ圖錄室ニ滿チ著書頗多シ今世間ニ存スル所ノ書名ヲ下ニ列記シ以テ槪略ヲ示ス此書モ亦其一也

 

○やぶちゃんの書き下し文

水  族  志

    凡例

一 此の書は文政の末、紀州藩の人、故源伴存翁の著はす所なり。翁、夙〔つと〕に赭鞭〔しやべん〕の學を嗜み、諸州を經歷〔けいれき〕し、霞宿雲游〔かしゆくうんいう〕の外〔そと〕にある數〔す〕十年、南は熊野を極め、北は三越〔さんえつ〕を經て、東は甲信、西は防長、到る處、普〔あまね〕く水陸の庶物を精究す。事は「紫藤園攻證」の序に詳かなり。翁、博學多識にして、圖錄、室に滿ち、著書、頗る多し。今、世間に存する所の書名を下〔しも〕に列記し、以つて槪略を示す。此の書も亦、其の一つなり。

 

[やぶちゃん注:「赭鞭」(しゃべん)とは赤く塗った鞭(むち)で、古代中国の三皇の一人とされる神農氏が赤色の鞭で百草を鞭打って千切っては自ら試して、その功能や毒性を確認したという伝承から転じて、薬用になる植物や動物を指し、引いては本草学を指す語となったもの。

「霞宿雲游」霞の棚引くところに宿し、雲の湧くところに遊ぶこと。山水の景を愛し、天馬空を翔けるが如くに遊び学び廻ることを言う。

「三越」越前・越中・越後。

「防長」周防・長門。

「紫藤園攻證」「攻」はママ。「攷」の誤り。紫藤園は畔田の号の一つ。冒頭注で述べたが、再掲すると、畔田が生前の弘化二(一八四五)年に唯一刊行した博物書「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集のこと。リンクは国立国会図書館デジタルコレクションの原本。その「序」は白井剛篤(事蹟不詳。天保一五(一八四四)年十二月をクレジットする)の手になる。なお、やはり既に引いたウィキの「源伴存」には文政五(一八二二)年に『加賀国白山に赴き、その足で北越をめぐり、立山にも登って採集・調査を行った。山口藤次郎による評伝』(著者の事蹟は不詳。号の山口華城名義で書いた「贈從五位畔田翠山翁傳」(昭和五(一九三〇)年刊・出版者不詳)のこと)『では、その他にも「東は甲信から西は防長」まで足を伸ばしたと述べられているが、その裏付けは確かではなく』、『伴存の足跡として確かなのは白山や立山を含む北越、自身の藩国である紀伊国の他は、大和国、河内国、和泉国といった畿内諸国のみである』とあるが、それ以前に、同書の白井の序のここ(右頁三行目以下)に、この広範な探索範囲は既に記されてあるのである。]

 

 

一此書ハ倭漢古今ヲ折衷シ其形狀ハ親視目擊スル所ヲ以テ精覈スルモノナリ但翁ハ南紀ノ人ナルカ故ニ南海ニ詳カニシテ東北ニ略ナルノ憾ナキ能ハスト雖𪜈水族ヲ誌スノ書本邦古來未タ此右ニ出ルモノヲ見ス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 此の書は倭漢古今を折衷し、其の形狀は親視〔しんし〕に目擊する所を以つて、精覈〔せいかく〕するものなり。但し、翁は南紀の人なるが故に、南海に詳かにして、東北に略なるの憾みなき能はずと雖ども、水族を誌すの書、本邦古來、未だ此の右に出〔で〕るものを見ず。

 

[やぶちゃん注:「精覈」「覈」は「調べて明らかにする」の意。詳しく調べて明らかにすること。]

 

 

一原稿ハ十卷ニ分チ合本シテ四册ニ綴レリ今刊行スルニ當リ携帶ノ便ヲ圖リ活刷一本トナシ之ヲ十編ニ區別シ改訂スルヿ左ノ如シ

[やぶちゃん注:以下、底本では御覧のように、「改訂」パートは「原稿」の各下方に二段組となっているであるが、ブラウザでの不具合を考え、最初のもののみ、次行に改行して十二字下げで示した。ブラウザでは空白が作成テキストと同じならず(私の原稿はちゃんと綺麗に並べてある)、ガタついて見難くなるが、これを調節するのは徒労に近く、馬鹿臭いので、そのままとする。悪しからず。]

    原稿           改訂

卷ノ一鱗類ノ一卷ノ二鱗類ノ二ヲ合シ

            第一編有鱗魚類トス

卷ノ三洋魚類ヲ     第二編洋魚類トス

卷ノ四無鱗類ノ一ヲ   第三編無鱗魚類ノ一トス

卷ノ五無鱗ノ二ヲ    第四編無鱗魚類ノ二トス

卷ノ六無鱗魚類ノ三ヲ  第五編無鱗魚類ノ三トス

卷ノ七海鯊類ヲ     第六編鯊魚類トス

卷ノ八水產魚類ヲ    第七編淡水有鱗類トス

卷ノ九淡水無鱗魚類ヲ  第八編淡水無鱗魚類トス

同卷鹹淡水錯雜間魚類ヲ 第九編淡鹹通在魚類トス

卷十海蟲類ヲ      第十編海蟲類トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 原稿は十卷に分かち、合本して四册に綴れり。今、刊行するに當り。携帶の便〔べん〕を圖り、活刷〔かつさつ〕一本となし、之れを十編に區別し、改訂すること、左のごとし。

    原稿           改訂

卷の一鱗類の一卷の二鱗類の二を合し

            第一編有鱗魚類とす

卷の三洋魚類を     第二編洋魚類とす

卷の四無鱗類の一を   第三編無鱗魚類の一とす

卷の五無鱗の二を    第四編無鱗魚類の二とす

卷の六無鱗魚類の三を  第五編無鱗魚類の三とす

卷の七海鯊類を     第六編鯊魚類とす

卷の八水產魚類を    第七編淡水有鱗類とす

卷の九淡水無鱗魚類を  第八編淡水無鱗魚類とす

同卷鹹淡水錯雜間魚類を 第九編淡鹹通在魚類とす

卷十海蟲類を      第十編海蟲類とす

 

[やぶちゃん注:既に、本ブログ・カテゴリ『畔田翠山「水族志」』では最後の「第十編海蟲類」の電子化注を終えている

「鹹」は「カン」(単訓では「しほからい(しおからい)」)で「鹹(水)」で「汽水」域のことを指す。]

 

 

一前條ノ區別ヲ立ルヤ方今世上ニ行ハルヽ西洋學理ニ悖ルト雖𪜈敢テ之ヲ改メス古色ヲ存スルナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 前條の區別を立るや、方今〔はうこん〕、世上に行はるゝ西洋學理に悖〔もと〕ると雖ども、敢へて之れを改めず、古色を存するなり。

 

[やぶちゃん注:「方今」今日只今。

「西洋學理に悖〔もと〕る」「悖る」は「現今の道理や一般常識に反する」の意。当時は既に科学的な生物分類学の時代となり、タクソンによる分類が一般化しつつあった。見た目上の鱗のあるなしであるとか、淡水・海水で分ける(そもそもライフ・サイクルに於いて川を遡上するもの、海水魚でありながら、中流・上流域まで棲息可能な種もゴマンといる)ことが、既に非科学的で時代遅れとなりつつあったのである。]

 

一本編載スル所ノ水族本條ニ百五十七種同種異物四百七十八種合シテ七百三十五種アリ此他其異名ヲ擧グレバ一千三百十二アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 本編、載する所の水族、本條に百五十七種、同種異物四百七十八種、合して、七百三十五種あり。此の他、其の異名を擧ぐれば、一千三百十二あり。

 

[やぶちゃん注:因みに、現在、日本で魚類学者に認められた公式な海産魚類(魚類に限る)の種数は二〇〇〇年時点で三千八百六十三種である。]

 

 

一今印行スルニアタリ本條ニ番號同種ニイロハヲ附シテ順次ヲ分ツ而シテ一卷每ニ目錄ヲ載ス今之ヲ卷首ニ集メテ總目錄トシ又卷末ニイロハ引目錄ヲ付シテ共ニ引ニ便ス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 今、印行するにあたり、本條に番號、同種にイ・ロ・ハを附して、順次を分つ。而して、一卷每に、目錄を載す。今、之れを卷首に集めて、總目錄とし、又、卷末にイ・ロ・ハ引き目錄を付して、共に引くに便〔べん〕す。

 

[やぶちゃん注:本電子化では巻首の総目録(ここ)は、最初にやっても意味がないので、総てが終わってから添える。索引は殆んど意味がないので(完成すれば、カテゴリ内で検索すれば、一発で辿りつくからである)、省略する。]

 

 

一原稿ハ名稱ヲ片假名、萬葉假名、俗字、漢字等ヲ混淆シテ載セタリ今悉ク之ヲ片假名ニ一定シ漢名ハ其下ニ附シ和名ナキモノハ漢名ノミヲ揭ケ俗字ノ片假名ニ改メタルモノハ往々漢字ヲ註トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 原稿は名稱を片假名、萬葉假名、俗字、漢字等を混淆して載せたり。今、悉く、之れを片假名に一定し、漢名は其の下に附し、和名なきものは、漢名のみを揭げ、俗字の片假名に改めたるものは、往々、漢字を註とす。

 

 

一原稿ニハ引用書目ヲ載セズ今卷中ヨリ書名ヲ拔萃シテ之ヲ卷首ニ掲ケ讀者ノ參攻ニ便ス又本文ニ引書ノ原文ヲ載セタル者ハ一一其書ト對照シテ誤謬脫漏ヲ補正セリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 原稿には引用書目を載せず。今、卷中より書名を拔萃して、之れを卷首に掲げ、讀者の參攻に便す。又、本文に引く書の原文を載せたる者は一一〔いちいち〕其の書と對照して、誤謬・脫漏を補正せり。

 

[やぶちゃん注:編者に悪いけれど、既に漢籍の引用には多数の誤りを私は発見し、指摘もしているから、この謂いは徹底しているものとは、到底、言い難い。そもそも総ての原本(漢籍が多い)を目の前に置かずして、それを成すことは、当時では到底、成し得なかったはずであり(ネットで画像で確認が出来る今でさえ、それが不可能であるものもある)、この言上げは正直、その実態は眉唾物であると言わざるを得ない。なお、かくしてこの「引用書目」パートは本書刊行時に新たに添えられたものであることが判ったので、それも(ここ)以下では省略することとした。その代わり、私は注では必ず引用書について注記しているし、今後もそうする。

「參攻」ママ。「參攷」の誤字か誤植。]

 

 

一原稿ハ魚族ノ總稱魚體ノ區別等古書ニ出ル所ヲ擧ケテ凡例トシ又本文ノ始メニ魚族論ヲ載セタリ今再校スルニ當リ之ヲ併セテ例言トス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 原稿は魚族の總稱、魚體の區別等、古書に出る所を擧げて、「凡例」とし、又、本文の始めに魚族論を載せたり。今、再校するに當り、之れを併せて「例言」とす。

 

[やぶちゃん注:何だか変な「例言」だな、と思いましたよ。]

 

一重複及ヒ假名違等止ムヲ得ザルモノハ之ヲ訂正セリ但方言ノ如キハ之ヲ改メス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 重複及び假名違〔かなちがひ〕等、止むを得ざるものは、之れを訂正せり。但し、方言のごときは、之れを改めず。

 

[やぶちゃん注:「假名違」歴史的仮名遣の誤り。但し、徹底しているとは言えない。まあ、明治の出版だから大目に見てよろしいが、指摘はしてゆくつもりである。]

 

一堀田龍曰翠山翁ハ水族ヲ目視實驗スルヿヲ勉ラレタルモ稟性魚類ヲ嗜マズ故ニ其味ヒ等ニ至リテハ或ハ誤リナキヲ保シ難シト

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 堀田龍、曰はく、「翠山翁は水族を目視・實驗することを勉〔つと〕められたるも、稟性〔ひんせい〕、魚類を嗜〔たしな〕まず。故に其の味〔あぢは〕ひ等に至りては、或いは、誤りなきを保〔ほ〕し難し」と。

 

[やぶちゃん注:「堀田龍」は畔田翠山(源伴存)の門人で大阪の堀田龍之助。しかし、これはかなり意外な事実である。ちょっと衝撃的だ。

「稟性」生まれつきの性質。

「保」保証。]

 

 

一此書水族志ニシテ介類ヲ載セザルハ別ニ寫眞目錄ノ撰アレハナリ

 

   明治十七年九月十五日  河原田盛美謹識

 

○やぶちゃんの書き下し文

一 此の書、「水族志」にして、介類を載せざるは、別に寫眞目錄の撰、あればなり。

 

   明治十七年九月十五日  河原田盛美謹識

 

[やぶちゃん注:彼の描いた貝類目録図録「介志」は実は国立国会図書館デジタルコレクションの画像で一部(第一冊(第一巻)は見られない)が視認出来る。その図の精緻たるや、舌を巻くものである! 是非ご覧あれ! 特にその「5」の後半は海産無脊椎動物群が絵入でバッチリ載るじゃないか!?! もう既に私は正直、そちらを別に電子化したい誘惑のそぞろ神に誘われてしまったぞ!!!

「明治十七年」一八八四年。本書の奥附は、『明治十七年九月一日版權免許』とあって、同年同月『廿八日』の出版となっている。この奥附はなんて、素敵なことだろう! 著者の欄には『故人紀藩翠山 畔田十兵衞』となっている!

 

 

[やぶちゃん注:以下、畔田翠山の著作目録。ここから。柱の「一」はやはり頭で突出しているが、同じく再現していない。やはり、各著作ごとに注をする。なお、畔田翠山の博物書は幾つかのものが、国立国会図書館デジタルコレクションの画像で視認出来る

 

    畔田伴存翁著書目

一古名錄            八十五卷

水、鹵石、火、金、玉、石、土、彩色、草、木、竹、菜、果、蔬、蕈、穀、蟲、魚、介、禽、獸、人、鬼魁、飮食、ノ廿四部目ニ區別シ又之ヲ細目ニ分チ六國史ハ勿論國史國朝ノ本草字鏡倭名鈔萬葉集ヲ初メ天正慶長マテノ國書歌書等ヲ引用シ一一考證ヲ擧ケテ其名稱ヲ詳記シ漢名ハ本草書府縣志字書等ニヨリテ正シタルモノナレハ物產家、本草家、ヨリ國學、歌學、詩學、醫學、等博物ノ資トナル古今無比ノ要書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文(一部のおかしな読点位置を動かした)

    畔田伴存翁著書目

一「古名錄」          八十五卷

水、鹵石〔ろせき〕、火、金、玉、石、土、彩色、草、木、竹、菜、果、蔬、蕈〔ジン/きのこ〕、穀、蟲、魚、介、禽、獸、人、鬼魁、飮食の、廿四部目に區別し、又、之れを細目に分ち、六國史〔りつこくし〕は勿論、國史・國朝の本草、「字鏡」・「倭名鈔」・「萬葉集」を初め、天正・慶長までの國書・歌書等を引用し、一一〔いちいち〕、考證を擧げて、其の名稱を詳記し、漢名は本草書・府縣志・字書等によりて正したるものなれば、物產家、本草家より、國學、歌學、詩學、醫學等、博物の資〔し〕となる、古今無比の要書なり。

 

[やぶちゃん注:これは後に刊行を見た。国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で見ることが出来る。

「鹵石」塩素・臭素・沃素 (ようそ) などの塩からなる鉱物。岩塩・蛍石など。

「鬼魁」幽鬼や物の怪などの頭目や代表的な異界的存在総体を指すものであろう。

「六國史」奈良から平安にかけて政府の修史事業の結果として完成した以下の六つの歴史書の総称。「日本書紀」・「續日本紀」(しょくにほんぎ)・「日本後紀」・「續日本後紀」(これも「しょく」と読む)・「日本文德天皇實錄」・「日本三代實錄」。政府は引続いて「新国史」を編纂し始めていることから、当時からの呼び名ではあり得ない。しかし「新国史」は未完成で流布しなかったため、後世、この六書を「六国史」と呼びならわすようになった。文献に出るこの呼び名は、瑞渓周鳳の「善隣国宝記」(文明二(一四七〇)年)が現存する記録の中では最も古いが、六書を一括して考える見方は、既に平安時代から存在したようである。「古事記」や「類聚国史」、「栄花物語」や「大鏡」などの歴史を扱った文学的な物語系の書物とは異なり、天皇の命を受けて政府部内に担当部局を設置して編纂した点、編年体で漢文体をもって記述した点で、これら六書は共通した性格を保持している。以後、このような形での歴史の編纂は江戸末期まで試みられなかった(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「字鏡」「新撰字鏡」(しんせんじきょう)か。平安時代に編纂された漢和辞典・字書。平安時代の昌泰年間(八九八年~九〇一年)に僧の昌住が編纂したとされる、現存する漢和辞典としては最古のもの。その後の鎌倉時代に菅原為長によって編纂された漢和辞典・字書の「字鏡集」もあるが、「倭名鈔」の前に挙げているので、私は前者と見る。

「倭名鈔」源順(みなもとのしたごう)が承平年間(九三一年~九三八年)、勤子内親王の求めに応じて編纂した辞書「和名類聚鈔」(わみょうるいじゅしょう)。本邦の本草書では名称のバイブル的存在として多用されている。

「天正・慶長」天正はユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年までで、文禄を挟んで慶長は一五九六年から一六一五年まで。]

 

一「大和本草註疏」         四册

大和木草ニ載スル庶物ニ就イテ一一實見ヲ以テ註疏ヲ加タリ物產、本草ノ資ニハ欠ク可ラサルノ書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「大和本草註疏」         四册

「大和木草」に載する庶物に就いて、一一、實見を以つて註疏を加へたり。物產、本草の資には欠くべからざるの書なり。

 

[やぶちゃん注:「大和本草」貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)著。全十六巻・付図二巻。宝永六(一七〇九)年刊。益軒自らが国内各地を旅行し、得た知識を纏めて編述したもので、江戸時代に於ける博物学の見地から書かれた本草書として知られる。千三百六十六種の物品の名称・来歴・形状・異同・効用を述べ、必要なものには挿絵を入れてある。但し、考証や種同定の面で本草家小野蘭山から激しい批判を受け、口述筆記されて蘭山の死後に出版された「本草綱目啓蒙」の成立には、その批判が元となっているともされる。なお、私はブログ・カテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部』の電子化注を完遂している。確かに、実際、益軒のそれは、誤認や同定の誤りが多い。また、彼が各地を廻ったのは若い浪人時代のことで、本草書を書き出した後年は殆んど福岡を出ていない。則ち、魚体の実物を現認・観察して記載しているとは、到底、思われない不審な記載箇所が散見されるのである。]

 

 

一「綱目註䟽」   四十八卷 合本 十册

本草綱目ノ庶物ニ本邦實見ノ註䟽ヲ加ヒタルモノニテ本草家ハ勿論物產家博物家座右欠ク可ラサルノ書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「綱目註䟽」   四十八卷 合本 十册

「本草綱目」の庶物に、本邦實見の註䟽を加ひたるものにて、本草家は勿論、物產家、博物家、座右欠くべからざるの書なり。

 

[やぶちゃん注:「加ひたる」はママ。

「䟽」は「疏」に同じい。

「本草綱目」既注の明の李時珍の本草書。]

 

一「綱目外異名疏」 四十八卷 合本 十册

木草綱目ニ載ザル所ノ異名ヲ詳記シタルモノニテ前書ト併セ參考セバ有益少カラス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「綱目外異名疏」 四十八卷 合本 十册

「木草綱目」に載らざる所の異名を詳記したるものにて、前書と併せ、參考せば、益、有ること、少なからず。

 

 

一「救荒本草註」          一册

救荒本草ニ註ヲ加ヒタル書ニシテ尤參考ニ益アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「救荒本草註」          一册

救荒本草に註を加ひたる書にして、尤も參考に益あり。

 

[やぶちゃん注:これは「救荒本紀聞」の書名となった写本を、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で見ることが出来る。

「加ひたる」ママ。]

 

 

一大同類聚方藥註前集        一册

人、獸、禽、魚、蟲、蚫、介、木、竹、草、菜、穀、果、蓏、藻、土、石、飮食ノ十九門ヲ五十音ヲ以テ類別シ本邦古今ノ書ヲ參考シ一物每ニ實見ノ說ヲ施シタル書也

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「大同類聚方藥註前集」      一册

人、獸、禽、魚、蟲、蚫〔あはび〕、介、木、竹、草、菜、穀、果、蓏〔うり〕、藻、土、石、飮食の十九門を五十音を以つて類別し、本邦古今の書を參考し、一物每に實見の說を施したる書なり。

 

[やぶちゃん注:「大同類聚方」(だいどうるいゐじゆはう(だいどうるいじゅほう))は平安初期の大同三(八〇八)年に成立した現存する日本最古の医学書。薬品の処方(典薬寮本では八百八種が、各地の神社や豪族・旧家の家系から集められて収録されたと(但し、そのような通達が発せられた形跡を確認出来ないことなどから、既に典薬寮や内裏などに、当時、保有していた資料を基に編纂されたとする見解もある)。全百巻であるが、第二巻から第七巻は江戸時代に失われた。漢方医学の流入に伴い、日本固有の医方が廃絶の危機に瀕している事態を憂慮した桓武天皇の遺命により、平城天皇の治世に安倍真直・出雲広貞らにより編纂され天皇に上奏された。同時に制定された「大同医式」によって、薬の処方は同書に基づくように定められ、違背は死罪と記されている。江戸時代に国学の台頭に伴って和方医学が興隆すると、本書は和方家の聖典と見做されるようになったが、寛政一一(一七九九)年に「日本後紀」残巻が刊行されると、その記述と、当時、流布していた「大同類聚方」の内容に有意な矛盾が見られることなどから、流布本を偽書とする見解が現れた。和方家の中でも真書説・偽書説が論争となった。近代になると。富士川游らの識者がこぞって偽書説を支持したことから、今日では現存する諸本は全てが偽書であり、真本は散逸したと見做すのが通説となっている(以上はウィキの「大同類聚方」に拠った)。

「蚫」神饌に捧げるアワビ類を特に別して立項したものか。原本を確認したいものである。]

 

 

一馬考               一册

和漢ノ書一百十八部ヲ參考シ馬名一百六十種ヲ詳記シタル珍書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「馬考」             一册

和漢の書一百十八部を參考し、馬名一百六十種を詳記したる珍書なり。

 

 

一紀南六郡志            八册

紀伊國七郡ノ中牟婁一郡ヲ除キ日高、伊都、在田、名草、海部、那賀、六郡ノ產物ヲ實見詳記シタル書ニ乄其區別ハ石、海產石樹、鹵石、水、火、花草、藥草、庶草、濕草、蔓草、水草、苔、寓木、水藻、木、竹、果、蓏、穀、菽、造釀、蔬、海藻、菌、羽蟲、蟲甲蟲、水蟲、龍蛇、龜龞、水禽、諸禽獸ニ分ツ熊野物產初志ト併セテ紀伊全國ノ產物悉ク知ルヲ得ヘシ陸產、水產、勸業等ノ資ニ充ツヘキ實ニ必用ノ書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「紀南六郡志」          八册

紀伊國七郡の中、牟婁〔むろ〕一郡を除き、日高、伊都〔いと〕、在田〔ありだ〕、名草〔なぐさ〕、海部〔あま〕、那賀〔なが〕、六郡の產物を實見・詳記したる書にして、其の區別は、石、海產石樹、鹵石、水、火、花草、藥草、庶草、濕草、蔓草、水草、苔、寓木〔ぐうぼく〕、水藻〔すいも〕、木、竹、果、蓏、穀、菽〔まめ〕、造釀、蔬〔あをもの〕、海藻、菌〔きのこ〕、羽蟲、蟲甲蟲、水蟲、龍蛇、龜龞、水禽、諸禽獸に分かつ。「熊野物產初志」と併せて、紀伊全國の產物、悉く知るを得べし。陸產、水產、勸業等の資に充つべき、實〔まこと〕に必用の書なり。

 

[やぶちゃん注:「在田」近代以降は「有田(ありだ)郡」であるが、江戸時代まではこうも表記した。

「寓木」現行では樹木への半寄生型植物である被子植物門双子葉植物綱ビャクダン目ヤドリギ科 Viscaceae の種群を指すが、本草学では古くより、漢方生薬の対象になる地衣類などを含む広範な植物を指す語であり、ここもそれ。

「菽〔まめ〕」豆類。

「水藻」は前に「水草」(みづくさ/すいさう)が出、後に「海藻」が出るので「すいも」で川苔などの淡水産藻類ととっておく。これも現物が見たい。]

 

 

一熊野物產初志           五册

紀伊國七郡ノ中牟婁郡ノ產物ヲ各品每ニ其實狀ヲ詳記シテ洩スヿナク草、穀、蓏、菜、海藻、菌、木、果、竹、幷ニ附錄、海魚、河魚、河海相混間所產魚、介、龜蛑蛤、螺、鹹水蟲、禽、獸、金石、水雜ニ區別シ間マ眞寫ノ圖ヲ加ヘタリ實ニ物產家、本草家座右缺ク可ラサルノ要書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「熊野物產初志」         五册

紀伊國七郡の中、牟婁郡の產物を、各品每に、其の實狀を詳記して洩〔もら〕すことなく、草、穀、蓏、菜、海藻、菌、木、果、竹、幷びに、附錄、海魚、河魚、河海相混間所產魚〔かかいさうこんかんしよさんぎよ〕、介、龜蛑蛤〔きばうがふ〕、螺〔ら〕、鹹水蟲〔かんすいちゆう〕、禽、獸、金石、水雜に區別し、間〔ま〕ま、眞寫の圖を加へたり。實に物產家、本草家、座右缺くべからざるの要書なり。

 

[やぶちゃん注:これは国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で写本を見ることが出来る。

「河海相混間所產魚」河川河口域や干潟等の汽水域に棲息する魚類。

「龜蛑蛤」亀類・蟹類(恐らくはエビ類も含む)・二枚貝類。

「螺」腹足(巻貝)類。

「鹹水蟲」恐らくは汽水域に棲息する水棲生物(恐らくは殆どが無脊椎動物)。]

 

 

一野山草木通志        上下 二册

紀伊國高野山寺領ノ山谷原野ヲ跋涉實見シテ其產物ヲ記ス而シテ草、穀、菜、蕈、木、果、竹、蟲、魚、禽、獸、水火、金石ニ分チ眞寫ノ圖三十七種ヲ插入セリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「野山草木通志」      上下 二册

紀伊國高野山寺領の山谷〔さんこく〕原野を跋涉・實見して、其の產物を記す。而して、草、穀、菜、蕈、木、果、竹、蟲、魚、禽、獸、水火、金石に分かち、眞寫の圖三十七種を插入せり。

 

 

一金嶽草木志 天保七申八月下旬撰   上下二卷

和國金峯山【一ニ金剛山ノ】草木ヲ圖說トナシタルモノニテ草類四十一種木類三十七種ヲ記セリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「金嶽草木志」 天保七申八月下旬撰 上下二卷

和國金峯山〔きんぷせん〕【一〔いつ〕に金剛山〔こんごうさん〕の】草木を圖說となしたるものにて、草類四十一種・木類三十七種を記せり。

 

[やぶちゃん注:「天保七申」同年は丙申(ひのえさる)で、グレゴリオ暦一八三六年。]

 

 

一紫藤園攷證         甲乙 二卷

翁少ヨリ赭鞭之學ヲ嗜庶物ノ形性ヲ察シ其疑似ヲ辨シ衆書ヲ參考シ識者ニ質シ諸州ヲ歷遊シ親驗目睹其名狀ヲ明覈ニシ其圖錄スル所ノ者滿床ニ堆積ス紀伊一位治寳公深ク之ヲ嘉ミシ命シテ園中ノ花卉ヲ管セシム是ニ於テ其業益進ム一書ヲ撰フ若干卷命シテ紫藤園攷證ト曰フ其中甲集ハ已ニ【弘化二年乙巳七月】刊行乙集ハ寫本ヲ傳フ其後編若干卷ハ惜ヒ哉稿本ヲ逸ス此甲乙二集ニ載スル所ハ草木昆蟲魚鳥等特異種別ナルモノ六十二種ヲ擧ク而シテ甲集ニ二十二種乙集ニ四十種各種眞寫ノ圖畫ヲ附シタルモノナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「紫藤園攷證」       甲乙 二卷

翁、少〔わか〕きより赭鞭の學を嗜〔たしな〕み、庶物の形性を察し、其の疑似を辨じ、衆書を參考し、識者に質〔ただ〕し、諸州を歷遊し、親驗目睹〔しんけんもくし〕、其の名狀を明覈〔めいかく〕にし、其の圖錄する所の者、滿床に堆積す。紀伊一位治寳(ハルトミ)公、深く之れを嘉〔よ〕みし、命じて、園中の花卉を管せしむ。是〔ここ〕に於いて、其の業、益〔ますます〕進む。一書を撰ぶ。若干卷、命じて、「紫藤園攷證」と曰ふ。其の中、甲集は已に【弘化二年乙巳〔きのとみ/イツシ〕七月。】刊行、乙集は寫本を傳ふ。其の後編若干卷は、惜ひかな、稿本を逸す。此の甲・乙二集に載する所は、草木・昆蟲・魚・鳥等、特異種別なるもの六十二種を擧ぐ。而して、甲集に二十二種、乙集に四十種、各種眞寫の圖畫を附したるものなり。

 

[やぶちゃん注:何度も示しているが、博物学書「紫藤園攷証」(しとうえんこうしょう)甲集は、リンク先の国立国会図書館デジタルコレクションで原本が見られる。これを見るに、畔田の博物学者としての観察眼は非常に正確で、博物画も優れている(所持する)。続集の散佚や、彼の沢山の彩色写図が容易には見られないことを激しく惜しむものである(所持する「彩色 江戸博物学集成」(一九九四年平凡社刊。当時で一万八千円と少々高い)に載る僅かな図を見ても、彼の描画手腕はタダモノではない)。この「紫藤園攷證」甲集も何時か、電子化注したい。

「親驗目睹」「親驗」は親しく直近で検分し調べること、「目睹」はじっくりと観察すること。

「明覈」よく調べて明らかにすること。

「紀伊一位治寳(ハルトミ)公」「ハルトミ」は珍しい底本のルビ。紀州藩第十代藩主徳川 治寶(治宝)(はるとみ 明和八(一七七一)年~嘉永五(一八五三)年)。第八代藩主徳川重倫(しげのり)の次男。極位極官は従一位・大納言で、御三家当主で、生前に従一位に叙せられたのは彼だけである。藩主在位は寛政元(一七八九)年十月二十六日から、文政七(一八二四)年六月六日の隠居までであるが、実際には第十一代斉順(なりゆき:清水徳川家第三代当主であったが、治宝の婿養子となった。十二代将軍徳川家慶の異母弟で、第十三代将軍徳川家定は甥)、第十二代斉彊(なりかつ:斉順の異母弟で斉順の養嗣子となった)、第十三代慶福(よしとみ:斉順の次男。安政五(一八五八)年に江戸幕府第十四代征夷大将軍となって徳川家茂(いえもち)となった)の実に三代に亙って実質的な藩権力を保持し続けた(その結果として各藩主側近と治宝側近による政争が絶えなかった。以上はウィキの「徳川 治宝」他に拠った)。因みに、畔田(翠山)源伴存は寛政四(一七九二)年生まれで、安政六(一八五九)年没である。

「嘉〔よ〕みし」よしとして褒め称え。

「弘化二年乙巳」一八四五年。]

 

 

一吉野郡中物產志          二册

吉野郡ニ產スル所ノ草木菌苔竹果穀虫魚禽獸等三百八十餘種產地形色等悉ク實見スル所ノ說ヲ詳記シタルモノニ乄座シテ吉野郡中ノ天產物ヲ識ラルベシ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「吉野郡中物產志」        二册

吉野郡に產する所の、草木・菌・苔・竹・果・穀・虫・魚・禽・獸等、三百八十餘種、產地・形・色等、悉く實見する所の說を詳記したるものにして、座して、吉野郡中の天產物を識らるべし。

 

 

一吉野群山記            六册

吉野山中ノ地理山脈等其形勢ヲ詳記シタルモノニシテ吉野郡中物產志ト併セ參考セバ益スル所少カラズ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「吉野群山記」          六册

吉野山中の地理・山脈等、其の形勢を詳記したるものにして、「吉野郡中物產志」と併〔あは〕せ、參考せば、益する所、少からず。

[やぶちゃん注:「群」はママ。「群山」でおかしくはない。]

 

 

一北越卉牒             二卷

加賀、越前、越中、越後、地方ノ產物ヲ記載シタルモノニシテ草、蔓草、苔、穀、菜、瓜、木、獸、蟲、魚、介、金石、水火、飮食ニ區別シ各圖アリテ有益ノ書ナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「北越卉牒〔ほくえつきてふ〕」   二卷

加賀、越前、越中、越後、地方の產物を記載したるものにして、草、蔓草、苔、穀、菜、瓜、木、獸、蟲、魚、介、金石、水火、飮食に區別し、各圖ありて、有益の書なり。

 

[やぶちゃん注:「牒」は文書・記録の意。]

 

 

一白山草木志            二卷

 加賀國白山ニ產スル所ノ草木蟲魚鳥獸石土水泉ニ至ルマテ實見詳記シタルモノナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「白山草木志」          二卷

 加賀國白山に產する所の草木・蟲・魚・鳥・獸・石士・水泉に至るまで、實見・詳記したるものなり。

 

[やぶちゃん注:写本を国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの画像で見ることが出来る。]

 

 

一白山の記             一册

源伴存翁文政年間ニ加賀白山採藥ノ時越前福井ヨリ白山ニ至ルノ道ノ記ニシテ間々眞景ノ畫圖アリ白山草本志ト照合セハ該山ノ實况ヲ知ルニ足レリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「白山の記」           一册

源伴存翁、文政年間に、加質白山、採藥の時、越前・福井より、白山に至るの道の記にして、間々〔まま〕、眞景の畫圖あり。「白山草本志」と照合せば、該山の實况を知るに足れり。

 

 

一立山草木志            一册

越中立山ノ奇草奇木數十種ヲ圖說トナシタリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「立山草木志」          一册

越中立山の奇草奇木、數十種を圖說となしたり。

 

 

一草木花圖             一册

花木花草一百種ヲ圖トナシタルモノナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「草木花圖」           一册

花木花草一百種を圖となしたるものなり。

 

 

一草本圖及菌果獸鳥譜        一册

異物四十種ノ產地形狀ヲ記載セリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「草本圖及菌果獸鳥譜」      一册

異物四十種の產地・形狀を記載せり。

 

[やぶちゃん注:書名は「さうもくずおよびきんくわじうてうふ」と読んでおく。]

 

 

一蟲圖               一册

一百五十種ノ蟲譜ニシテ方言等ヲ詳記ス

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「蟲圖」             一册

一百五十種の蟲譜にして、方言等を詳記す。

 

 

一寫眞介錄             一册

紀伊榮恭院殿ノ命ヲ受ケ介類一千七百二十一種ヲ絹地ニ眞寫ス嘉永二年八月ニ成ルト云フ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「寫眞介錄」           一册

紀伊榮恭院殿の命を受け、介類一千七百二十一種を絹地に眞寫す。嘉永二年八月に成ると云ふ。

 

[やぶちゃん注:「榮恭院殿」藩主徳川治宝の側室であった「さえ(佐衛)」(安永一〇・天明元(一七八一)年~嘉永三(一八五〇)年:川上氏の出で有本氏の養女)の院号。

「嘉永二年」一八四九年。]

 

 

一介圖               一册

介類二十二圖着色寫生シタモノナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「介圖」             一册

介類二十二圖。着色寫生したものなり。

 

 

一魚圖

畔田翁ノ編著ニ係ル水族志ノ魚ノ圖ハ逸シテ傳ラスト雖𪜈伊勢國丹波氏藏翁自筆ノ魚圖一百八十種アリ又翁ノ門人大坂堀田龍氏集ムル處ノ魚圖一千有餘アリ是ヲ合シ縮寫スレハ水族志ノ魚譜全備スルニ至ル

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「魚圖」

畔田翁の編著に係る「水族志」の魚の圖は、逸して傳はらずと雖ども、伊勢國丹波氏藏の翁自筆の魚圖、一百八十種あり。又、翁の門人、大坂、堀田龍氏の集むす處の魚圖、一千有餘あり。是れを合〔がつ〕し、縮寫すれば、「水族志」の魚譜、全備するに至る。

 

[やぶちゃん注:これは恐らく企画されたものの、実現しなかったものと思われる。実に惜しまれる。さすれば、稀代の江戸博物誌の完璧な魚譜の金字塔が出来上がったであろうに。]

 

 

一水族志              十編

水族七百有餘種ヲ載ス卽チ茲ニ活刷ニ登セタルモノナリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

一「水族志」            十編

水族七百有餘種を載す。卽ち、茲〔ここ〕に活刷に登〔のぼ〕せたるものなり。

 

 

以上二拾五部其卷數二百二十八卷餘アリ此他ノ書ハ詳ナラズ惜ムベキ哉翁寬政四壬子年ヲ以テ生レ安政六己未年六月十八日熊野本宮ニ於テ採藥中病沒ス歲六十八終身物產ノ學ヲ講究シ著書頗信切ニシテ後學ニ益スルヿ最モ多シ

右書目中紫藤園巧證甲集ノ外從前上木ノモノナキヲ以テ今此擧アリ次テ古名錄ノ刊行ニ及バントス

 

○やぶちゃんの書き下し文

以上、二拾五部、其卷數、二百二十八卷餘あり。此の他の書は詳ならず。惜むべきかな。翁、寬政四壬子〔みすのえね/ジンシ〕年を以つて生まれ、安政六己未〔つちのとひつじ/キビ〕年六月十八日、熊野本宮に於いて、採藥中、病沒す。歲六十八。終身、物產の學を講究し、著書、頗る信切にして、後學に益すること、最も多し。

右書目中、「紫藤園巧證」甲集の外、從前、上木のものなきを以つて、今、此の擧〔きよ〕あり。次いで、「古名錄」の刊行に及ばんとす。

 

[やぶちゃん注:「寬政四壬子年」一七九二年。三月生まれ。

「安政六己未年六月十八日」グレゴリオ暦一八五九年七月十七日。

「歲六十八」満年齢では六十六であった。

「信切」「親切」と同義で使われたが、ここは「言行に嘘偽りがないこと」を言う。

「紫藤園巧證」「巧」はママ。「紫藤園攷證」。

「上木」板行。出版。

『「古名錄」の刊行に及ばんとす』国立国会図書館デジタルコレクションのそれを見ると、正宗敦夫編校訂で東京の日本古典全集刊行会から、第一巻が昭和九(一九三四)年に出、全巻完結(索引巻)は昭和一二(一九三七)年である。]

 

 

[やぶちゃん注:以下、「引用書目」となるが、既に述べた通り、これは畔田が作成したものではないので、省略し、続く「目錄」も同じく述べた通り、総ての本文が終わった後に掲げる。

 以下、やっと本文に入ることとなる。本文では項立てされた名は頭抜けていて、本文は総て一字下げとなるが、再現していない。刊行に際して、通し番号が上部の罫外に頭書のように丸括弧何に漢数字で書かれてあるが、これは名の前に配した。〔 〕は私が推定で補った歴史的仮名遣に拠る読みで、漢文脈の送り仮名は全てが、さらに畔田の解説の本文の一部にも私が付け加えた部分があるので、必ず底本本文と対照しながら読まれたい。( )のカタカナ表記は原本にある数少ないカタカナ・ルビである。原文のカタカナをそのまま訓読で生かした部分もある。一部で字空けを施し、時に畔田本人の解説部に改行を行った箇所もある。]

 

 

水族志

             大坂門人 堀田龍之助 校

 紀藩畔田翠山源伴存遺稿 東京   田中芳男  閱

             東京   河原田盛美再校

 ○第一編 有鱗魚類

(一)

タヒ一名イチメ【勢州慥柄日用襍字母ニ鮫鱺タヒト云】刺鬣魚【閩書按湖南志曰豪豬棘鬣長數寸怒則激射人觀之棘鬣以背刺名之可爲證矣】

タヒハ海水ヲ出ル時紅紫色ニ乄甚美也久シテ色淺シ閩中海錯疏漳州府志福州府志閩書俱曰棘鬣似鯽而大其鬣如棘色紅紫此ヲ「マダヒ」

ト云背紅紫色ニ乄淡靑小㸃アリ腹白色淡紅色ヲ帶尾鬣紅也鬣陰陽棘アリ紀州湯淺浦漁人云「タヒ」ハ國々ニテ其鱗形異也讚州槌ノ島ニ至レハ鱗金色ヲ爲ス此ヲ「カナヤマダヒ」ト云紀ノ路ノ「タヒ」ハ鱗菱形也伊豆駿河ノ海ニ至レハ鱗菊形ノ如シ按「タヒ」ハ至テ大者四尺餘ニ及フ

 

○やぶちゃんの書き下し文(本文総表題部はカットする)

 ○箔一編 有鱗魚類

(一)

タヒ 一名「イチメ」【勢州慥柄〔たしから〕。「日用襍字母〔ざつじぼ〕」に『「鮫鱺」、「タヒ」』と云ふ。】・「刺鬣魚〔キヨクレウギヨ/たひ〕」【「閩書〔びんしよ〕」を按ずるに、「湖南志」に曰はく、『豪豬〔ガウチヨ/やまあらし〕、棘鬣、長さ數寸。怒れば、則ち、激しく人を射つ』と。之れを觀るに、棘鬣は、以つて、背の刺、之れを名づくの證と爲〔な〕すべし。】

「タヒ」は海水を出づる時、紅紫色にして、甚だ美なり。久しくして、色、淺し。「閩中海錯疏」・「漳州府志」・「福州府志」・「閩書」、俱〔とも〕に曰はく、『棘鬣、鯽に似て、大なり。其の鬣、棘のごとく、色、紅紫』と。此れを「マダヒ」と云ふ。背、紅紫色にして、淡靑の小㸃あり。腹、白色に淡紅色を帶ぶ。尾鬣〔をひれ〕、紅〔くれなゐ〕なり。鬣、陰陽の棘〔とげ〕あり。紀州湯淺の浦の漁人云はく、『「タヒ」は國々にて、其の鱗・形、異なるなり』と。讚州槌(ツチ)の島に至れば、鱗、金色を爲す。此れを「カナヤマダヒ」と云ふ。紀の路〔ぢ〕の「タヒ」は、鱗、菱形なり。伊豆駿河の海に至れば、鱗、菊形のごとし。按ずるに、「タヒ」は至つて大者にて、四尺餘に及ぶ。

 

[やぶちゃん注:「タヒ」普通の本草家の魚譜ならば、まず、

条鰭綱スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major 

に限定出来るものではない。ところが、本書の場合、この後に、

「チダヒ」・「クロダヒ」・「ワカサダヒ」・「ヱビスダヒ」・「アオナガダヒ」・「アマダヒ」・「イソアマダヒ」・「コブダヒ」・「ホウザウダヒ」・「スミヤキ」・「チヌ」=「クロダヒ」・「コロダヒ」・「メジロダヒ」・「ヘラダヒ」・「コセウダヒ」・「イソダヒ」・「アブラダヒ」・「クチビダヒ」

等といった驚異的な数の種を立項(異名として列挙しているのではない)していることに仰天しながら(本邦の本草書でこれだけの独立項を「~ダイ」に与えて解説記述しているものは、近世以前では非常に珍しい特異点であると言ってよい)、その緻密な分類感覚と、本文の体色叙述から見て、私は、まず、

マダイ Pagrus major 

と掲げてよろしいと思っている(無論、その中にそうではない種が含まれている可能性があることは退けないし、以下でも注する)。ともかくも、例えば、私の、本書に先行する、

寺島良安和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鯛」(これは先行するものの中では、他の「~ダイ」を絵入で別稿立てしている点でも非常に優れている。問題なのは、畔田が自らにアンガジュマンをかけて、漢籍の記載を無批判に当てはめようとしなかったのに対し、良安は一貫して李時珍の「本草綱目」の記載をメインに据え、時に無批判にそれに当て嵌めてしまって、種同定に驚天動地の致命的な誤りを犯してしまっている点にある

や、

「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」

と比較されると、よろしいかと存ずる。益軒の場合は「~ダイ」の総称論で概ねタイを一発で語り尽くそうとするに急で(と言っても別項立てのものもある。ただ、益軒の場合、水族に関しては現物を益軒自身が見ていないのではないかと思われる記載がしばしば見受けられるのが大きな問題であるように思われる)、実際には全く異なる種であるところの個別のタイならざるタイの根本的な検証が疎かにされ、異なった魚体のイメージ――タイ・ダイを外したその魚独自の属性想起――という大切な境界が朦朧にされてゆく――なにか怪しげな奇術に感心させられてしまって後、何だか騙されたような後味の悪さが残る印象があると言えよう。

「イチメ」「一目」で、これは目が大きくて目立つこと、目の上に一筋のアイシャドウのような濃い筋があるからであろう。但し、逆にこれから、

スズキ亜目フエフキダイ科ヨコシマクロダイ亜科メイチダイ属メイチダイ Gymnocranius griseus

が、別候補として浮かんでくるとは言える。但し、同種は、マダイのように大きくならず、大きくても四十センチメートル前後で、魚体はマダイ型ではあるものの、何より、体色がやや黒ずんでいて、マダイのような輝きがあることは少なく、横縞紋様が体側にあったりと、凡そマダイと間違えるシロモノではない。但し、現行では流通が少ないため、高級魚の一種である。

「勢州慥柄〔たしから〕」三重県度会(わたらい)郡南伊勢町(ちょう)慥柄浦(たしからうら)(グーグル・マップ・データ)。

「日用襍字母」不詳。以下の引用から見るに、本邦で作られた日用(といっても上流階級の)される雑字(「襍」は「雜」の異体字)義集か。

「鮫鱺」不詳。この文字列で「タイ」を指すというのは、私は見たことがない。「鮫」は言わずもがなサメ、後者は「鰻鱺」(マンレイ)でウナギを指す。書き方から韻の反切でもないし。というより、これを「タヒ」と読むというのを「日用」の雑字としているつぅ奴は、どこのどいつじゃい?!

「刺鬣魚〔キヨクレウギヨ/たひ〕」これは現在でもしばしばマダイを表わす漢字表記として見かける。無論、馬の鬣(たてがみ)を鋭く高く棘条を聳えさせたその背鰭に喩えたものである。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。閩は福建地方の古名。

「湖南志」だいたい、「閩書南産志」には「湖南志」はねえんじゃねえか?

「豪豬〔ガウチヨ/やまあらし〕」脊索動物門脊椎動物亜門哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科ヤマアラシ属ジャワヤマアラシ Hystrix javanica。江戸時後期には長崎に齎された個体が見世物として知られていたようだ。ヴィジュアルに私の『栗本丹洲自筆(軸装)「鳥獣魚写生図」から「豪猪」(ジャワヤマアラシ)』をどうぞ!

「久しくして、色、淺し」死後の変相(色彩の消失)はマダイには限らず、魚一般に有意に見られ、「~ダイ」系の魚群は概ね全体に白っぽくなるようである。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「福州府志」清の乾隆帝の代に刊行された福建省の地誌。

「鬣、陰陽の棘〔とげ〕」マダイの場合、背鰭十二本の強く鋭い棘条と、十本の軟条があるが、前者を陽、後者を陰と言っているか。

「紀州湯淺の浦」和歌山県有田郡湯浅町(グーグル・マップ・データ)。

「漁人云はく、『「タヒ」は國々にて、其の鱗・形、異なるなり』と」こういうリアリズムの直接話法が、畔田の誠実さをよく現わしているではないか。学者臭い勿体ぶったところが微塵もない。

「讚州槌(ツチ)の島」現在の大槌島(おおつちじま:岡山県玉野市と香川県高松市の境が島を横断している。グーグル・マップ・データ)と小槌島(高松市。地図の手前(南)の四国寄りの島)。孰れも無人島であるが、この海域は本州と四国の距離が最も狭まるところで、この周辺は古くから優れた漁場である(前者で県境が島を二分するのは、漁業権のそれに由来する)。

「鱗、金色を爲す」これは生魚の遊泳するのを見れば、納得出来る。私は小学校三年生の夏、千葉の鯛の浦で見た黄金(こがね)の輝きの舞い上がるのを今も鮮明に覚えている。

「カナヤマダヒ」この異名は現認出来ない。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のマダイのページでは異名として、サクラダイ(関西で春に獲れるもの)・ウオジマノタイ(同じく初夏)・モミジダイ(同じく秋)・ホンダチ(島根)・チャリコ(関西・小型個体)・カスゴ(種に関東で小型個体)・バラ・ネブトダイ・シバダイ(幼魚・九州)・アカメタイ・ホンダイ・カツラダイ・ムギワラダイ(麦藁鯛で麦の収穫時期に獲れるものであるが、この時期のそれは産卵後でまずいとされる)・ヘイケ・エノウオ・メヌケダイ・ニガリダイ・カスビキ(小型)・オオダイなどが挙げられてある。

『紀の路〔ぢ〕の「タヒ」は、鱗、菱形なり。伊豆駿河の海に至れば、鱗、菊形のごとし』万一、鱗の形がかくも有意に異なるとすれば、それは異種である可能性が高いが、そもそもがマダイの鱗はスズキなどと同じく、櫛鱗(しつりん)という甚だ複雑な形をしている。ネットの縦断辞書の「コトバンク」のこちらの、小学館「デジタル大辞泉」に添えられてある「魚類」の「ウロコ」のイラスト(画像直リンク)を見られたいが、逆にこれは「菱形」でも「菊形」でもない。不審。]

 

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