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2020/10/12

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之二 在原業平文海に託して寃を訴ふる事

 

席上奇観垣根草二之巻

     在原業平文海(ぶんかい)に託して寃(ゑん)を訴ふる事


Narihira

[やぶちゃん注:底本画像をトリミングし、汚損を除去した。考えて見ると今までもそうだが、合成するほどの挿絵では、これ、ない。向後も基本、これで行く。]

 天文の頃、都、相國寺(しやうこくじ)に文海といふ僧あり。禪誦の暇(いとま)、和歌をこのみ、逍遙院殿の門人にて、叢林に文字禪の風韻をたてて、一時の奇才なりしが、その頃は室町家義晴公の治世にて、連年、干戈(かんくわ)息(や)む時なく、西國・中國は大内・毛利の確執(かくしつ)、東國に北條・今川、北陸は武田・長尾の合戰、ひまなく、將軍家も都を沒落し給ひ、洛中の動亂また前代に類(たぐひ)まれなる事にて、本寺(ほんじ)も、天文二十年亥(ゐ)七月、兵火にかゝりて禪堂・法堂(ほふだう)、殘りなく燒亡せしかば、文海も安居(あんご)に所なく、衣鉢を收めて東國を心ざして行脚して、此彼(こゝかしこ)、ところさだめず遊歷するうち、四、五年も經たりしに、さすが、都もなつかしく、錫(しやく)を廻(かい)して伊勢路にかゝり、大神宮に詣でて法施(ほつせ)奉り、それより大和路にこえて、

「吉野の花をも見ばや。」

と分登(わけのぼ)るに、頃は彌生の末にて、花もわづかに散り殘りたる風情、いとゞ哀(あはれ)ふかく、覺えず、山深く入りたるに、日、西山(せいざん)に沈み、遠寺(ゑんじ)に鐘ひゞき、花より外に知る人もなき山中を、そこはかとなく迷ひゆけども、人家とてもなし。

『花を今宵の主(あるじ)とやせん。』

とやおもひ煩ふ所に、遙(はるか)のあなたに燈(ともしび)のかすかに見ゆるにぞ、

「さては、人家のあるやらん。」

と、やうやう、たどりつきたれば、木立うるはしきほとりに、殿造(とのづくり)、いときよらかにて、門もさゝで、誰(たれ)いさふる人なければ、文海、あやしみながら、軒の邊(あたり)に徘徊(たちやすら)ひて内を窺ふに、折りふし、童(わらは)の出でたるに、辭(ことば)をいやしうして投宿を乞ふ。

 童、しばらくありて、出でて案内するに從うて一間なる所に坐すれば、やがて、茶菓點心(さかてんじん)やうの物、懇(ねんごろ)に饗應あるに、終日(ひねもす)の饑(うゑ)をわすれ、はじめて安心するうちにも、

『いかなるかたの此奧山にかくはひそみゐ給ふやらん。』

と見めぐらすに、主と覺しき人、いで給ひたり。

[やぶちゃん注:「在原業平」(天長二(八二五)年~元慶四(八八〇)年)。六歌仙の一人。平城天皇の皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の間に生まれた。五男だったことから「在五中将」「在五」などとも呼ばれた。右馬頭(みぎうまのかみ)・右近衛権中将などを経て、元慶三(八七九)年には蔵人頭(くろうどのとう:天皇に近侍する要職)になったとも伝える。「三代実録」には「体貌閑麗、放縦にして拘わらず、略才学無し、善く倭歌を作る」と評されて、その人柄が伺われる他は、実像を伝えるものは少ない。但し、紀有常の娘を妻としたこと、文徳天皇の皇子で紀氏を母とする惟喬(これたか)親王に親しく仕えたこと、恋愛関係にあったともされる二条の后藤原高子(たかいこ)の引き立てを受けたことは、事実と考えられている。「古今和歌集」時代に、先駆けて新しい和歌を生み出した優れた歌人の一人で、紀貫之も深い尊敬の念を抱いていたことが、その「土佐日記」によって知られるが、一方で「古今集」の「仮名序」で貫之は彼のことを『その心、余りて、言葉、足らず』と評しているように、業平の和歌は大胆な発想による過度なまでの詠嘆に特徴があり、桜の花への愛惜の情をパラドキシャルに詠んだ「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」の一首を始めとして、その新鮮な表現と抒情性は後代まで常に高く評価され続けた。また、斬新な発想や用語には白居易などの漢詩の表現に源泉を持つものが多く、この点でも平安朝和歌の方向を先取りしている。「伊勢物語」の一部は業平の自作かとも考えられ、その後、何人もの手によって業平を思わせる主人公の物語として加筆され、成長していったものと考えてよい。また、ここでも以下で本人が問題にするように、虚構が実録として読まれたことから、さまざまな伝説の業平像が生まれ、各時代に応じた変容を見せつつ、日本の文学や文化の大きな源泉であり続けた。「古今集」には三十首が入集する。以下の勅撰集にも多くの歌が採られているものの、この時既に「伊勢物語」の主人公の歌を業平の歌と考えて採録したものが多く、現存する「業平集」も、後人が「古今集」「伊勢物語」などから歌を集めて編集したものである(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「文海」不詳。但し、実は本篇を正面から取り組んだ、飯倉洋一氏の論文『一上方の「奇談」書と寓言:『垣根草』第四話に即して』(『上方文藝研究』二〇〇四年五月発行・PDF)があり、そこで飯倉氏は『文海なる僧が実在の人物なのかどうかはわからない(人名辞典類および『実隆公記』『相国寺史料』等には出てこない)むしろ相国寺で修行したという宗祇や、天文二十二年に三条西公条』(きんえだ)『の吉野旅行に同行した紹巴(時代的にはぴったりくる)や、実隆に親しい数奇の僧で天文二年に『あづま道の記』の著書のある尊海(僧で名に「海」と付く)などの面影を合わせた虚構の人物ではないかと考えている』とある。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。

「相國寺」京都市上京区にある臨済宗萬年山(まんねんざん)相国寺(グーグル・マップ・データ)。永徳二(一三八二)年に第三代将軍足利義満が「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願したが、竣工は十年後の明徳三(一三九二)年であった。京都五山第二位で、五山文学の中心地であり、画僧の周文や雪舟は相国寺の出身である。開山の経緯は複雑なので、ウィキの「相国寺」を見られたい。

「逍遙院殿」三条西実隆(康正元(一四五五)年~天文六(一五三七)年)の別名。室町後期から戦国時代にかけての公卿で内大臣三条西公保(きみやす)の次男。官位は正二位内大臣。長禄二(一四五八)年に兄実連が死去し、家督相続者として扱われて従五位下に叙され、侍従に任官したが、二年後の寛正元(一四六〇)年には父公保も死去した。そのため、母方の叔父であった甘露寺親長の後見を受けて家督を相続した。応仁元(一四六七)年、京都で「応仁の乱」が発生すると、鞍馬寺へ疎開した(乱によって三条西邸も焼失してしまう)。文明元(一四六九)年の元服と同時に、右近衛権少将に進み、実隆に改名、永正三(一五〇六)年には内大臣となったが、在職僅か二ヶ月で致仕した。永正一三(一五一六)年に出家している。天皇家とは深い縁戚関係にあったことから、後土御門天皇・後柏原天皇・後奈良天皇の三代に仕えた。室町幕府将軍の足利義政や足利義澄、若狭国守護武田元信らとも親交があったほか、文化人としての交流関係も多岐に亙り、一条兼良とともに和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、宗祇から古今伝授も受けている。古筆の鑑定も能くし、宗祇から「小倉懐紙」の鑑定を依頼されたことが「実隆公記」にみえる(以上はウィキの「三条西実隆」に拠った)。

「文字禪」普通は禅宗では「不立文字(ふりゅうもんじ)」を謂い立てるが、無論、禅宗には、その奥義を解釈したり、シンボライズする詩・文・詞・疏・記・銘などがあり、それを指し、この場合は和歌・連歌などをそれに加えたものと考えられる。

「風韻」風流。

「室町家義晴公の治世」第十二代将軍で在職は大永元(一五二二)年十二月二十五日から天文一五(一五四七)年十二月二十日まで(西暦はズレを確認して入れてある)。

「天文二十年亥(ゐ)七月」三好長慶軍と細川晴元軍との間で起こった「相国寺の戦い」。天文二〇(一五五一)年七月十四日から翌日にかけて、現在の京都府京都市上京区の相国寺で戦い。細川方の政勝・香西元成らがこの寺に陣取ったが、対する三好勢の松永久秀らが包囲し、細川方は敗走、相国寺は炎上した。

「大内・毛利」周防の大内義隆と安芸の毛利元就。義隆は天文二〇(一五五一)年九月一日、文治政治に不満を抱いた一族で家臣の陶隆房(すえのたかふさ)に謀反を起こされ、義隆と一族は自害し、大内家は事実上、滅亡している。

「北條・今川」相模の北条氏綱及び嫡男氏康と、駿河の今川義元。

「武田・長尾」甲斐の武田信玄(武田晴信)と、越後の長尾景虎(上杉謙信)。

「安居」禅宗で、それまで個々に托鉢や行脚をしていた僧侶たちが、一定期間、一ヶ所に集まって集団で修行すること及びその期間のことを指す。具体的には雨や暑さの厳しい、行脚「大神宮」伊勢神宮。但し、但し、僧形の者は境内地に入ることは許されないので、設えられた場所から遥拝した。西行も芭蕉もそうしている。

「いさふる」「諫むる」であろう。入り訪ねることを「戒(いまし)める・禁止する」である。

「茶菓點心(さかてんじん)」「点心」はかく濁音でも読み、普通は茶菓子を指すが、ここは前にそれが出ているので、一時の空腹を癒すためにとる軽い食事であろう。但し、禅家では原則、午前中に一回しか食事は出来ない。しかしそれでは事実上、もたないので「非時」と称して、昼過ぎに食事を摂った。ここはそれを広義に広げたものと考えてよい。]

 

 そのさまは、淸らに、年は三十(みそぢ)ばかりと見ゆるが、裝束(しやうぞく)うるはしくひきつくろひ、文海に對して揖(いつ)したまふに、文海、拜伏して、

「山路のながめに歸るべき路をうしなひ侍(はんべ)りしに、はからずも厚情(かうぜい)奉ることの忝(かたじけ)なさよ。」

と謝すれば、主、云く、「かゝる幽僻(いうへき)の境(きやう)、たれ訪(と)ふ人もなきを、幸(さいはひ)に師の尋ねきたり給はるこそ、本意なれ。茅屋(ぼうをく)を佗(わび)しともし給はずは、ゆるく、つかれをも、なぐさめてよかし。」

と、いと懇なるに、文海、いよいよ、美意を謝す。主、かさねて「某(それがし)、生平(せいへい)、寃屈(ゑんくつ/ムジツ)の事侍(はんべ)りて、世にこれを訴へて妄誣(まうぶ)をたださんとすれども、その時、いたらず。幸に師に逢ふ事を得たる、千載の一遇といふべし。委しくきこえ參らせん。我がために世に傳へて愁眉を開かしめ給へ。」

と、近く居(ゐ)よりて、

「われこそ、世の人、普(あまね)く知る所の在原業平にてぞ侍(はんべ)る。そも不平の事は、某(それがし)、世にありし時、和歌の林(はやし)には指(ゆび)かずに折られ、詠草も世々の撰集に載せられ、口碑にも傳はれり。是、よろこぶべきに似たれども、いつの頃よりか、世の人、某を、古今第一の好色放蕩の者のやうにいひなせり。その妄誣の源(みなもと)は『伊勢物語』にて、かの草紙に、『昔、男』とあるを、みなみな、某が事なりと覺ゆるより、遂に『昔男(むかしをとこ)』は某が化名(あだな)となれり。某、不肖なりといへども、朝家(てうか)仕へたりしもの、春のはじめより、年暮るゝまで、花に雪に、ひたすら此所(このところ)の處女(むすめ)、彼所(かしこ)の寡婦(やもめ)をたぶらかし暮すべきや。後世(こうせい)、政(まつりごと)の武門に歸(き)してより、公家の無下(むげ)に暇(いとま)がちなるを見て、往古をしらざる者のいふところなり。二條の后(きさき)と密通の事は、いまだ平人(たゞうど)にておはせし時のことにて、入内(じゆだい)の後(のち)は衆議を憚りて、吾妻へ歌枕に下りたりしを、后を竊(ぬす)みいだして亡命(ぼうめい/カケオチ)したるやうに思へるも心ぐるし。また、伊勢齋宮(いせさいぐう)の一段も、さほど色好(いろごのみ)の名ある男を、宮の寢所ちかく置くべきやうなし。穢汚(ゑを)の惡名、某のみかは。連累(れんるゐ/マキゾヘ)に齋宮をも、神の禁(いさめ)をわすれ、只ならぬ身となり給ひし、などといふ。また、甚だしからずや。或は、はらからの妹に懸想(けさう/コヽロカケ)して、人のむすばんことをしぞおもふと戲れ、母たる人も我に心ありしなど、さまざまの妄誣、その罪、一人に歸して千載の汚名を蒙る。また、若年たりし時、眞濟(しんぜい)僧正に密敎(みつけう/シンゴン)を習ひしを、龍陽(りやうやう)が愛より、斷袖(だんしう/シユダウ)の契(ちぎり)も侍(はんべ)りしやうにいひなせる、衆惡(しゆあく)、海委(かいゐ/オチイル)して、誰か一人その實(じつ)なき事を覺(さと)るもの、なし。そも『伊勢物語』のふみは、作者、昔よりさだかならねども、實(じつ)は具平(ぐへい)親王の手に出でて、昔は眞名(まな)なりしを、後(のち)に假名文字(かなもじ)になしたるものにて、『古今』の序などと同じ類(るゐ)なり。それはともあれ、物語の大體(だいたい)、歌の意をのべて端書(はしがき)を添へたるものなり。無中に有(う)を生じて歌のさまを一轉して、風情あらせたる作り物語の體(てい)なり。近き頃、定家も、『詞花言葉(しくわげんゑふ)を翫(もてあそ)ぶべき書なり』と、をしへられしは格言にて、實錄のごとく、年月・日時を正(たゞ)し、誰某(たれそれがし)の事などと思ふこそ、いと拙(つたな)きことにて、唐土(もろこし)の詩(からうた)も『辭(ことば)をもて意(こゝろ)を害することなかれ』と、をしへ給ふ。まして、大和歌は、はかなき事たはれたる事をも、興(きよう)より、物にふれて三十一文字(みそひともじ)のことの葉となれるを、彼(か)の物語には、それが上を、又、一轉、風情を生じたるものから、よむもの、詞花言葉(しくわげんゑふ)をもてあそぶ外(ほか)、なし。唐土の詩に、『漢に遊女あり、求むべからず』とあるより、後世、附會して、『韓詩外傳(かんしぐわいでん)』に至りては、『孔子、阿谷(あこく)といふところにて、物洗ふ女を見給ひ、子路に命じて佩(おびもの)を贈り給ひ、いどみ給へども、女、從ふ事なかりしゆゑ、ああ、求むべからずと歎じたまひし』などいヘるを、以て、見るべし。詩歌のこと葉より、事を生じて、それを實ならしめんとするより、古(いにしへ)の聖(ひじり)すら秋胡子(しうこし)と一等(いつとう/オナジクラヰ)の人とおもふにいたる。まして某ごときをや。惣じて國の實錄たる書籍、なほ、傳記の、言(こと)たがふ事、すくなからず。況や後世に至りては、豪家權門(がうかけんもん)の人は、文人をして傳記をかゝせ、碑銘を彫(ゑ)りて、事を飾り虛を構へ、生ける日、盜跖(たうせき)なる者、死して夷齊(いせい)となるの類(るゐ)、あげて數へがたし。文人、もとより、行(かう)、實(じつ)なきもの多き時は、紀傳すら定說(ぢやうせつ)となしがたし。まして、作り物語の風流より、誰某(たれそれがし)ともなく、『昔、或る男』と、かけるを見て、一槪に、某がことぞともふは、癡人(ちじん)の前、夢を說くの類(るゐ)なるベし。むかし、光明皇后の淫乱[やぶちゃん注:底本はここは『△△』と伏字になっているが、原本ははっきりとこう書いてあるので復元した。ここの左頁の後ろから四行目(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の当該部)。「乱」の字は原本のママ。実は原本は略字が甚だ多い。]なりしも、浴室(よくしつ/ユドノ)にして阿閦佛(あしゆくぶつ)をみ給ひしと傳へ、近頃、道明(だうみやう)法師が濫行(らんかう)なるも、五條の天神、隨喜したまひしなどいふ說、出でたるに、某が不幸(ふこう/フシアハセ)なる、佛神、その荒淫(くわういん)に感應(かんおう)し給ひしといふものならざれども、某を『觀音(くわんおん)の化身なり』といふは、あまり過當(くわたう/ブンニスギタル)の說にて、却つて、人の嘲(あざけ)りを生ずる端(はし)なり。是は釋氏(しやくし)の作り出せるものにて、欲の鈎(つり)をもて、引いて、佛道にいたらしむ、といふ經文より、普門品(ふもんぼん)の三十三身應現(〔さんじふさん〕じんおうげん)の說に會(くわい/アハセ)し、楊柳觀音(やうりうくわのん)などの、その形、艷麗(えんれい/ナマメキタル)にちかきをもて、この說を生じたるものなり。光明皇后、如意輪の化身といへると、同日の談にして、とるに足らず。惣じて我が國の人は、少し、けやけき人をみては、某の化身(けしん)、誰(たれ)の後身(ごしん)など、虛誕(きよたん/イツハリ)の說をなす事、口碑(こうひ)にあるのみならず、傳記に載せて、疑ふものなし。千、百人の中、一、二もあるべきも、はかられずといへども、唐(もろこし)の聖(ひじり)孔子すら、當時、化身の說なし。後世、讖緯(しんゐ)の書を作りてより、彼の國も星の精、山川(さんせん)の靈などいふ說、いでたり。わが國の人は殘忍凶暴の人すら、なみにことなる者、多くは、『凡人、ならず。佛菩薩神明の化身なり』といふものあり。たゞ、今日に至りて菅相公(くわんしやうこう)を讒(ざん)したる時平(しへい[やぶちゃん注:底本・原本のママ。])、義經を弊(たふ)したる梶原を化身なりといふ說なきこそ、漏れたるといふべし。かゝる虛誕の過譽(かよ)は、なきに、おとる。唯、荒淫放蕩の汚名をすゝぐ時は、望(のぞみ)、たれり。又、因(ちなみ)に託(たく/タノム)すべきは、百人一首に載せられたる歌にて、彼(か)の歌は、二條の后、東宮の御息所(みやすどころ)にておはせしとき、屛風に龍田川に紅葉ながるゝすがたをかゝさせ給ひしを題にて、素性法師と同じくよめるが、某が趣意は、『龍田川に紅葉散りしきて流るゝを、一疋の練(ねりぎぬ)を纐纈(かうけつ/ユカタ[やぶちゃん注:「ママ])のくゝり染(そめ)にそめなしたるに見なして、かゝる大河を巧みにもくゝり染にそめなしたるは、いちはやき神の御代には、さまざまあやしきことも多かれど、よもかゝる例(ためし)は侍(はんべ)るまじ』と、よみたる歌にて、題にも應じ、趣も風情あるかと覺ゆ。しかるものを、いつの頃よりか、『水くゞる』と、『く』文字、濁りてよみならはせり。紅葉の川水を泳ぎくヾる、何ほどのめづべき事の侍(はんべ)るベき。くゝり染のかのこまだらに似て、うるはしきをもて、樂天も『黃纐纈(くわうかうけつ)』と詠じたりし類(たぐひ)あるを、知らざるものゝ濁りてよみなせるを、遂には讀癖(よみくせ)などといふこと出來(いでき)て、一定(いちぢやう)の說となりたるなり。惣(そう)じて、讀癖といへること、ふつに、ものしらぬ者のいひ出せることにて、癖といふをもて、その非なるをしり給ふべし。人に癖ありて、いづれか法則(ほうそく/テホン)とすべき。それはさしおき、某が歌の七文字(なゝもじ)を淸みて讀むべきよしをも、世に傳へ給へかし。」

と、懇に語りたまへば、文海、云く、

「某も幼(いとけなき)より、和歌をたしみ侍(はんべ)りしが、『伊勢物語』などよりして、『君は正しく荒淫の方なれども、人をもて、言葉をすてぬこそ、聖の敎(をしへ)なり』と、われ、かしこげに覺えたりし事のつたなさよ。その上、百人首の讀癖、まことに風情も雲泥のたがひありて、秀逸をいたづらとなすこと、あまねく世に傳へて妄誣をたゞし參らすべし。さるにても、君は此山奧にて昇仙(しようせん/センニントナル)したまひしと傳へ侍るは實事にて、今日、かくは相見(しやうけん)し奉るにや。」

と、いふに、主、うち笑ひて、

「昇仙(しようせん/センニントナル)の說は、近き頃、虎關(こくわん)が『元亨釋書(げんかうしやくしよ)』より出でたるそらごとにて、某、世をさりしは、陽成院、御世〔みよ〕をしろしめす元慶(ぐわんきやう)四年五月八日、家に卒(そつ)したるを、わが國に仙人の少きを愁ひて杜撰(ずさん)したるものにて、全く跡なき僞(いつはり)と知り給ふべし。」

と宣(のたま)ふに、文海、かさねて、

「今日〔こんにち〕、かく在(ましま)すは神靈(しんれい/タマシヒ)の滅びたまはざるにや。假(かり)に形をあらはして相見(しやうけん/マミエ)し奉る事にや、覺束(ぼつか)なし。」

と尋ね參らすれば、

「この事、たやすく答へ申すべきにも侍(はんべ)らず。夜もいたく深(ふ)けたり。山路の疲(つかれ)ども、やすめ給へ、夜〔よ〕あけてこそ。」

とて、奧の殿(との)へいり給ふに、文海も居(ゐ)よりて、まどろむうちに、遠寺(ゑんじ)の鐘、ひゞき、鳥の聲するに、目さめてみれば、所は、吉野川のほとりにて、松杉一むら、しげれる中に、小き祠(ほこら)のかたはらにふしたるに驚きて、いそぎ麓ヘ下りて、里人に尋ぬれば、

「祠は在原明神なり。」

と答へるに、奇異のおもひをなし、とく、都に登りて、

『あまねく、公卿士庶(くぎやうししよ)の人々にもかたり、書にも記(しる)しおかばや。』と思ふところに、頃しも、三好が叛逆(はんぎやく)に、將軍義輝、弑(しい)せられ給ひ、都の騷動、前年にまさりたれば、またも、諸國にさすらへありきて、その事となく過(すご)し侍(はんべ)りしが、住吉の祠官津守の何某(なにがし)が許(もと)にて、物語したりしを、たまたま、世の人、傳へ侍りしとぞ。

 いと奇怪なりといへども、その諭辯する所は、皆、確論(かくろん)にして信ずべし。

 是によりて思ふに、業平を古今第一の美丈夫(びじやうふ/ヨキヲトコ)といふも、後世、意料(いりやう)の說にて、「伊勢物語」の、『むかし、男』とあるを、槪して業平とおもふより、美男ならでは、と推度(すゐたく/オシハカル)したるなるべし。傳記には體貌(たいばう/カタチ)閑雅(かんが/ミヤビヤカ)とのみ侍(はんべ)り。體貌(たいばう/カタチ)閑雅(かんが/ミヤビヤカ)といふもの、業平一人に限らず。柳貴妃、玄宗の寵愛ならびなく、三千の官女も顏色なきがごとくなりしより、後世、毛嬙(まうしやう)・西施(せいし)と一等(いつとう/オナジクラヰ)の美人とおもふ類(るゐ)なり。貴妃は廣西普寧縣雲陵といふ所の產にて、異質ありしゆゑ、楊康(やうかう)、もとめて、女(むすめ)とし、のち、楊玄琰(げんえん)、また、康に乞うて、これを壽王の宮に奉る。その頃、美人のきこえも侍らざりしに、玄宗、ひとたび見給ひてより、至寶を得たるごとく悅び給ひしは、心あれば、眼中、西施を出すの類(るゐ)なるベし。聰明怜利は、論、なし。毛嬙・西施と同じき美人ならば、玄宗、高力士がすゝめ奉るまで、しろしめさぬ事やあるべき。況や貴妃、體(たい)、肥滿にして暑を苦しむより、茘枝(れいし)を好み、胡臭(こしう/ワキガ)ありし故に、外國の名香を以て、これを掩(をゝ[やぶちゃん注:原本のママ。])ひたりしを以て推してみるべし。當時、君の寵姬たるより、詞曲(しきよく/ウタヒモノ)に命じて、その美艷(びえん)を稱し、文人、また阿諛(あゆ/オモネリ)して、「天下の絕色(ぜつしよく)」と盛(さか)りに譽めしより、「衆犬、聲に吠ゆる」の類(たぐひ)にて、今にては此國の人も美女を數ふれば「貴妃」を第一とし、美男をいへば「業平」を首(しゆ)とす。その謬(あやま)るところ、皆、同意にして推度(すいたく/オシハカル)の說なり。文海、ま見えたりし時、これをも問はゞ、一笑を發したまはんこと、觀音化身の說ごとくなるベしや。

[やぶちゃん注:「揖(いつ)し」現代仮名遣で「揖(いっ)す」で、笏(しゃく)を持って、上体をやや前に傾けてする礼。或いは、昔の中国の礼式の一つとして、両手を胸の前で組み、これを上下したり前にすすめたりする礼も言うが、ここは前者でよい。

「幽僻(いうへき)」奥深く、都を遠く離れていること。人里を離れていること。鄙(ひな)びた僻地。

「美意」立派な意志。素敵な心遣い。

「生平(せいへい)」平生(へいぜい)に同じい。

「寃屈(ゑんくつ/ムジツ)」ここは「無実の罪に陥れられること」を言う。

「妄誣(まうぶ)」「誣妄」「誣罔」(フマウ(フマウ))或いは「誣謗」(フバウ(フボウ))が一般的。「ありもしないことをあるように作って、人を悪く言うこと」を指す。

「伊勢物語」は複雑な成立過程を経ているらしく、作者・成立年代ともに不詳。業平の死没後に原「業平集」の成立が推定され、「古今和歌集」や原「伊勢物語」はそれを資料としたと見られている。その原「伊勢物語」は、ほぼ業平の歌だけからなると推定され、。十世紀末頃の伝本でも五十段足らずの小規模な物語であったらしい。十一世紀以後に大幅な増補が行われ、現在の形態に至っている(通行の定家本系統では百二十五段ある)。作者については古来、在原、紀家系の人物が想定され、一説には文体上の類似などから紀貫之ともされる。増補者については全く不明である(以上は小学館「日本大百科全書」他に拠った)。「伊勢物語」は「源氏物語」と平安文学の双璧を成し、これらに「古今和歌集」を加えて同時代の三大文学と見る向きもある。

「覺ゆるより」感じられることから。

「化名(あだな)」変名。不定の仮りの名。

「春のはじめより、年暮るゝまで」季節を表に借りて、生涯を指している。

「二條の后(きさき)」藤原高子(こうし/たかいこ 承和九(八四二)年~延喜一〇(九一〇)年)の通称。清和天皇の女御で後に皇太后となった。父は藤原長良(ながら/ながよし:左大臣藤原冬嗣の長男。官位は従二位・権中納言。文徳天皇の外伯父で、陽成天皇の外祖父)。ウィキの「藤原高子」によれば、寛平八(八九六)年、『宇多天皇の時、元慶年代』(八七七年~八八五年)『に自らが建立した東光寺の座主善祐』(ぜんゆう)『と密通したという疑いをかけられ、皇太后を廃され、翌年天皇の生母班子女王が皇太夫人から皇太后に進んだ』が、没後の天慶六(九四三)年に『朱雀天皇の詔によって(詞を濁して)復位されている』とあり、「伊勢物語」・「大和物語」『などを史実とする見解からは、入内する以前に在原業平と恋愛関係があったと推測されている。また、高子の入内が遅れた原因として単なる清和天皇の年齢の問題だけではなく、業平との関係が知られて』、『後見である良房』(没していた父長良の、同母兄で基経(高子は同母妹)を養子としていた藤原良房(長良の弟・清和天皇の外祖父)。高子も養女としていた可能性があるという)『が実際の入内を躊躇した可能性も指摘されている』とある。必ず古文の授業でやった「伊勢物語」の「芥川」の段は非くまでもあるまい。

「伊勢齋宮(いせさいぐう)の一段」ウィキの「伊勢物語」によれば、書名の由来は古来より『諸説あるが、現在は、第』六十九『段の伊勢国を舞台としたエピソード』、在原業平と『想定される男が、伊勢斎宮と密通してしまう話』『に由来するという説が最も有力視されている。その場合、この章段がこの作品の白眉であるからとする理解と、本来はこの章段が冒頭にあったからとする理解とがある』。但し、前者は二条の后『や東下りなど』、『他の有名章段ではなく』、『この章段が選ばれた必然性が』今一つ説明でき』ず、『後者は、そのような形態の本は』、寧ろ、『書名に合わせるために後世の人間によって再編されたものではないかとの批判もあることから、最終的な決着はついていない』。『また、業平による伊勢斎宮との密通が、当時の貴族社会へ非常に重大な衝撃を与え(当時、伊勢斎宮と性関係を結ぶこと自体が完全な禁忌であった)、この事件の暗示として「伊勢物語」の名称が採られたとする説も提出されているが、虚構の物語を史実に還元するものであるとして強く批判されている。さらに、作者が女流歌人の伊勢にちなんだとする説、「妹背(いもせ)物語」の意味であるとする説もあ』り、甚だしきは「伊勢」は「似而非(えせ)」のアナグラムとするものもある(これは本篇の業平の憤懣を安んじさせる説とも言えるか)。

「はらからの妹に懸想(けさう/コヽロカケ)して、人のむすばんことをしぞおもふ」これは「伊勢物語」四十九段に基づく。短いので、引用する。

   *

 むかし、男、妹(いもうと)の、いとをかしげなりけるを見をりて、

  うら若み寢よげに見ゆる若草を

     人の結ばむことをしぞ思ふ

と聞えけり。返し、

  初草のなどめづらしき言(こと)の葉(は)ぞ

     うらなくものを思ひけるかな

   *

相聞の後の歌の下句は「無心に、ただ、あなたさまをお兄様とのみ思うておりましたのに」の意。

「母たる人も我に心ありし」これは八十四段であろう。

   *

 むかし、男ありけり。身はいやしながら、母なむ宮なりける。その母、長岡といふ所に住み給ひけり。子は京に宮仕へしければ、まうづとしけれど、しばしば、えまうでず。一つ子(ご)にさへありければ、いとかなしうし給ひけり。さるに、師走ばかりに、「とみの事」とて、御ふみあり。おどろきて見れば、歌あり。

  老いぬればさらぬ別れのありといへば

     いよいよ見まくほしく君かな

かの子、いたううち泣きてよめる、

  世の中にさらぬ別れのなくもがな

     千代もと祈る人の子のため

   *

因みに、業平は平城天皇の第一皇子阿保親王を父とし、母は桓武天皇の皇女伊都内(いとない)親王である。

「眞濟(しんぜい)僧正」(延暦一九(八〇〇)年~貞観二(八六〇)年)は真言僧で空海の十大弟子の一人。紀氏一門。真言宗で初めて僧官最高位の僧正に任ぜられた人物で、詩文にも優れ、空海の詩文を集めた「性霊集」も彼の編集になる。また、長く神護寺に住し、その発展に尽力した。

「龍陽(りやうやう)が愛より、斷袖(だんしう/シユダウ)の契(ちぎり)も侍(はんべ)りしやうにいひなせる」「龍陽」は若衆道(左ルビはそれ)、男色のこと。中国の故事に龍陽君が魏王に「君の寵の長からんことを」と乞うた際、魏王が「誓って美人を近づけず」と答えたことに基づく。「斷袖」眉目秀麗なる容姿から前漢の哀帝の寵愛を受けた官人董賢に纏わるエピソードから生まれた、やはり衆道を指す語。ウィキの「董賢」によれば、『寵愛を受けた董賢は大司馬に任じられ、妹を昭儀(漢代の後宮女官の位)として後宮に迎え入れ、また妻も入宮し』、『侍奉することが認められるという、破格の待遇を与えられた。帝は董賢を寵愛すること』甚だしく、『彼を片時も側から離さなかった。ある日のこと、共に昼寝をしていた』ところ、『哀帝が先に目を覚ましたが、横には自分の衣の大きな袖の上に董賢がまだすやすやと眠っていた。ここで自分が立ち上がろうとすれば』、『董賢を起さざるを得ないが、それはいかにも忍びないと感じた哀帝は、人に命じて董賢が横たわっていた方の袖を切り落とさせた。この故事が男色の別称のひとつ』となったとある。但し、業平とそうした関係があったことは、後世にでっち上げられた全くの俗偽説である。

「衆惡(しゆあく)」これは単に「沢山の悪」の意。

「海委(かいゐ/オチイル)して」熟語の語意不詳。見たこともない。識者の御教授を乞う。

「具平(ぐへい)親王」具平親王(ともひらしんのう 応和四(九六四)年~寛弘六(一〇〇九)年)は村上天皇の第七皇子。ウィキの「具平親王」によれば、『幼少の頃から知的好奇心に富み、心構えがしっかりとした人物だった』。『卓越した文人として知られ、一条朝における文壇の中心人物であり』、『詩歌管弦を始め』、『書道・陰陽道・医術にも通じていた』。公家で漢詩人であった橘正通や慶滋保胤(よししげのやすたね)に『師事し、大江匡衡』(まさひら)『や藤原為頼・為時兄弟(紫式部の伯父と父)などとも親しく交流した』。彼の『詩歌は』「拾遺和歌集」に三首『撰集されているのをはじめ、勅撰和歌集に都合』四十一首を『数え、他にも』「本朝麗藻」・「和漢朗詠集」・「本朝文粋」(ほんちょうもんずい)などに『撰集されている』とある。彼が「伊勢物語」の作者である可能性は否定されているようだが、「真名伊勢物語」(漢字を可能な限り残す形で作られたもので、流布している定家本とは異なる伝本)は具平親王が撰したと伝えられてはいる。

「定家も、『詞花言葉(しくわげんゑふ)を翫(もてあそ)ぶべき書なり』と、をしへられし」「詞花言葉を翫ぶべき書なり」なりとは、「歌や文章の見事さを楽しむべき書物である」の意で、後水尾院が講じた伊勢物語講釈の聞書である「伊勢物語御抄」(明暦二(一六五六)年の講釈の聞書)に、定家自筆本「伊勢物語」の奥書に「只可弄詞花言葉而已」とあると記されてある(「奈良女子大学学術情報センター」の写本画像。七行目。活字に起こされたものはここ)。

「辭(ことば)をもて意(こゝろ)を害することなかれ」出典不詳。識者の御教授を乞う。

「漢に遊女あり、求むべからず」「詩経」の「周南」の「漢広」の第一連に、

 漢有游女  漢に 游女 有り

 不可求思  求め思ふべからず

とある。壺齋散人(引地博信)氏のサイト「漢詩と中国文化」のこちらで全篇と訳が読める。この「游女」とは所謂、本邦の「鬻(ひさ)ぎ女(め)」、遊女ではない。漢水のほとりに遊ぶ乙女である。

「韓詩外傳」前漢の韓嬰(かんえい)撰。ウィキの「韓詩外伝」によれば、『さまざまな事柄や故事を記し』、それに関係しそうな主に「詩経」の中の『文句を引いて説明したもので、説話集に近い』とある。

「孔子、阿谷(あこく)といふところにて、物洗ふ女を見給ひ、子路に命じて佩(おびもの)を贈り給ひ、いどみ給へども、女、從ふ事なかりしゆゑ、ああ、求むべからずと歎じたまひし」「中國哲學書電子化計劃」のこちらで全文が読める。

「秋胡子(しうこし)」個人サイト「雨粟莊」の「日記故事」(明の張瑞図の校)の「妻道類」に、「不顧黄金」として以下のようにある。魯の『秋胡子は妻を迎えて五日目に陳の国に仕えるために家を出て五年、初めて家に帰る時がやってきた。帰路、美しい女性が桑を摘んでいるのを見かけた。秋胡子は車を降りて「私は黄金を持っています。これをあなたにあげようと思うがいかがかな」と聞いた。「蚕を飼ったり、糸を紡いだりするのが私の仕事です。どうして他人の黄金を待っていましょうか。」と答えて』、『怒って秋胡子の方を見ようともしなかった。秋胡子は非常に恥じ入ってそのまま帰路を急いだ。家に帰ると母親が妻を呼んできた。妻の顔を見ると、先ほどの桑摘みをしていた女性であった。妻は「スケベ心を出して金を捨て、親の恩を忘れたのですか。非常な不孝者です。あなたが他の誰かを娶ろうと勝手にしなさい。私はもうあなたに従う気はありません。」というと、河に身を投げて死んでしまった』。紀頌之氏のサイト「漢文委員会」のこちらにも「列女伝」所収の原文と訓読・訳が載るので参照されたい。この話はかなり有名なもので、私も遠い昔に読んだ記憶がある。

「盜跖(たうせき)」中国古代の大盗賊。春秋時代の魯の人とも、黄帝時代の人ともいう。多数の部下を連れて各地を横行したとされる。

「夷齊(いせい)」伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)のこと。殷末の孤竹国(現在地は不明。一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟。高名な隠者で、儒教で聖人とされる。「史記」の列伝第一に「伯夷列伝」として挙げられ、司馬遷が「天道、是か非か」と恨み節で評したもので、漢文の授業でもよく採り上げた私の好きな話である。

「癡人(ちじん)の前、夢を說く」愚か者に夢の話をするで、「無益なことをする」の喩え。朱熹の「答李伯諫書」(「李伯諫に答ふるの書」)に基づく。

「光明皇后」(大宝元(七〇一)年~天平宝字四(七六〇)年)は聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の娘で、皇族以外から立后する先例を開いた人物。父から主要な財産・邸宅を受け継ぎ、邸内に皇后宮職を設置し、施薬院・悲田院を置き、国分寺・国分尼寺・東大寺の創建を天皇に勧めて実現させるなど、仏教の広布に力を尽くした。ここから、後世、浴室で自ら一千人の垢をってやり、癩病患者の膿を口ずから吸いとったという伝説も生まれた。天平勝宝元(七四九)年、娘阿倍内親王(孝謙)の即位に伴い、皇太后となり、皇后宮職を拡充した紫微中台を設置、甥の藤原仲麻呂を長官に任じて実質的に国政を掌握した。しかし、彼女が「淫乱」というのは解せない。これは聖武天皇と彼女との間に生まれ、後に女帝となり、道鏡にトチ狂った孝謙天皇(重祚して称徳天皇)の誤りであろう。或いは、ブッとんだエピソードから光明皇后をある種の変態性欲者として見たものか? しかしだとすると、業平が逆差別していることになってしまう。

「阿閦佛(あしゆくぶつ)」阿閦(あしゅく)如来のこと。サンスクリット語の「アクショーブヤ」とは「揺るぎない」という意。東方の現在仏。漢訳では無動・無瞋恚(しんい)・無怒などと訳し、不動金剛とも呼ぶ。

「道明(だうみやう)法師」不詳。識者の御教授を乞う。

「五條の天神」京都市下京区松原通西洞院西入天神前の五條天神宮(グーグル・マップ・データ)であろうか。

「佛神、その荒淫(くわういん)に感應(かんおう)し給ひしといふものならざれども」以上みたような、神仏が、度の過ぎた性欲を持った連中に、却って感応して示現しなさるという例(ためし)ではないけれども。

「某を『觀音(くわんおん)の化身なり』といふ」公卿で古典学者の一条兼良(応永九(一四〇二)年~文明一三(一四八一)年:官位は従一位、摂政・関白・太政大臣。准三宮。一条家第八代当主)は「伊勢物語愚見抄」(長禄四(一四六〇)年成立)に、業平を馬頭観音、小野小町を如意輪観音の化身とする説を挙げているという。根拠は知らない。また、室町時代に成立し、近世になって渋川版「御伽草子」に収められて普及した御伽草子に「小町草紙」があるが、これは、天性の美貌と和歌の才で浮名を流した小野小町が、年老いて見るも無残な姿となり、都近くの草庵に雨露を凌いでいた。里へ物乞いに出ると、人々は「古えの小町がなれる姿を見よや」と嘲(あざけ)る。彼女は東国から奥州へと流浪の旅を重ね、玉造の小野に辿り着き、草原の中で死ぬ。在原業平が歌枕の跡を訪ねて玉造の小野まで来ると、吹く風とともに「暮れごとに秋風吹けば朝な朝な」という歌の上の句が聞こえてくるという内容を持つが、天竺老人のサイト「浮世絵」の「小町草紙」によれば、その最後の部分で(リンク先には寛文年間(一六六一年~一六七二年)板行の全文が画像で載り、判読も出来る)、『小町は如意輪観音の化身、業平は十一面観音の化身としている』とある。

「釋氏(しやくし)」仏家。僧。

「欲の鈎(つり)をもて、引いて、佛道にいたらしむ」煩悩(色好み)に捕われた業平をそれを以って仏道を悟る縁(えにし)とするところのパラドキシャルな方便。「般若心経」の「色即是空 空即是色」で「煩悩即菩提」。

「普門品(ふもんぼん)」「法華経」第二十五品「観世音菩薩普門品」の略称。「観音経」とも称する。

「三十三身應現(〔さんじふさん〕じんおうげん)」「三十三応現身像」(さんじゅうさんおうげんしんぞう)或いは「十一面観音菩薩三十三応現身像」のこと。利益を齎す仏像として古くから信仰されてきた三十三観音の原型で、観音菩薩が様々な姿に変じて現れたそれぞれの姿を象った像を指す。「応現身」とは「相手に応じて様々な姿に変わること」を指す。ウィキの「三十三応現身像」に「三十三身」のリストが載る。

「會(くわい/アハセ)し」付会し。

「楊柳觀音(やうりうくわのん)」三十三観音の一つで、右手に柳枝を持ち、左手は掌を開いて、仰向けて胸に当てる姿で示される。人々の病気を治すことを本誓とするところから、薬王觀音とも称する。

「如意輪」如意輪観音。サンスクリット名「チンターマニチャクラ」。仏教に於ける信仰対象である菩薩の一尊。観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つで、「六観音」の一尊に数えられる。如意とは「如意宝珠(チンターマニ)」、輪とは「法輪(チャクラ)」の略で、如意宝珠の三昧(定(じょう))に住して、意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本誓とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったも。六観音の役割では天上界を教化(きょうげ)するとされる。

「けやけき人」普通と違って尋常でない異様な人。

「某の化身(けしん)」ここの「某」は同じく「それがし」と訓ずるが、ここは業平の一人称ではなくして、「誰某(だれそれ)」を逆転させて、さらに分割したもの。

「虛誕(きよたん/イツハリ)」「誕」別に「でたらめを言う・虚偽・でたらめを言って欺く」の意がある。

「千、百人の中、一、二もあるべきも、はかられずといへども」過去の有名な千人や百人の中には、或いは一人か二人は、そういう化身とされるケースがあるかもしれない、その可能性を排除は出来ないにしても。

「讖緯(しんゐ)の書」中国古代の予言説の一群の総称。「讖」とは「謎によって未来の吉凶を予言するもの」を指し、「緯」とは「経 (たていと)」 に対する「よこいと」を意味し、主として陰陽五行思想で「経書」(五経)を解釈しようとする立場にある解釈書。本来はこの「讖」と「緯」とは全く別物であったが、早い時期に混同されるようになった。これは注釈書である「緯書」の説に専ら神秘的な傾向があったためと考えられている。陰陽五行説に基づき、日食・月食・地震などの天変地異を予測したり、緯書の解読によって運命を予測するもので、先秦時代から発生しており、前漢末から盛んに行われるようになった。王莽 (おうもう) の漢朝簒奪 (さんだつ) の符徴 (ふちょう) などは、その典型的なものの一つで、晋の泰始年間(二六五年~二七四年)に初めて禁止されて以後、たびたび禁止の触(ふれ)が出された。隋の煬帝の治世に、それらの書物が焼き捨てられたので,現在は部分的にしか残存していない(主文は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠り、一部に私が手を加えた)。

「わが國の人は殘忍凶暴の人すら、なみにことなる者、多くは、『凡人、ならず。佛菩薩神明の化身なり』といふものあり」所謂、御霊(ごりょう)信仰である。不幸な死に方をした人の霊が、祟り、災いを齎すという信仰。また、それ故に、その対象たる荒ぶる心霊を宥めたり、佞(おも)ねたり、それを抑える神を祀る信仰である。霊魂信仰では、霊魂がもっとも尊く不滅の存在であるとし、その一部が人体に宿って安定している間は、その人は生きていると考えた。霊・肉が揃った状態が「生」であり、死後は子孫の祀りを受けて、次第に霊と肉が分離し、肉体は朽ちても、霊魂は再生するという考え方をした。ところが、事故死・戦死・自殺などの非業の死を遂げた人の場合は、肉体だけが、突然、自然に反して損なわれる(と考えた)ところから、そうした不幸な、或いは、強い怨念を現世に残した、或いは自分の肉体としての死を認めない、又は、生前に人並外れた才知(善悪を問わない)や強靭な臂力(ひりょく)を持っていた霊魂は、その安定する場所を失ってしまい、現世の時空間に浮遊する霊的存在となると考えた。そうした霊が、他人の肉体に入ろうとして狙っているのではないかと恐れたり、怒りの余りに恐るべき変事(疫病・旱魃・天災・天文上や自然界の中の尋常でない異変)を惹起させると信じたり、稲の害虫になって凶作の原因になるのだと解釈して鎮め送り出す(体(てい)のいい追放)の呪術的行事を行ったりする。そうした霊的存在を、平安時代には「物の怪」(もののけ)、中世にかけては「怨霊」(おんりょう)・「御霊」(ごりょう)、近世には「無縁仏」・「幽霊」などと名指した。奈良末から平安末にかけては、特に天変地異や疫病流行があった場合、それを怨霊の祟りとし、貞観五(八六三)年には神泉苑で御霊会(ごりょうえ)が行われ、祇園・北野・天神・紫野・今宮などの御霊(神)社も次々に造営された。これら神社の祭礼は夏祭が主(おも)で、山車(だし)・屋台などを繰り出し、「風流(ふりゅう))と称して仮装して練り歩くなど、豪華絢爛な形をとるものも多い。農事にも「虫送り」・「道切り縄」(勧請縄(かんじょうなわ)とも呼ぶ。異界への出入り口となる村境などに、呪物を付した注連縄(しめなわ)を張る習慣)など、御霊信仰に関連するものが多く、近代初期までの民俗行事に影響を与えてきた。御霊となるのは、古くからの鬼神(伊耶那岐・伊耶那美の最初の蛭子など)に限らず、ごく近過去の実在人物も容易に御霊となった。菅原道真(本篇の「菅相公」。彼は延喜三年二月二十五日(ユリウス暦九〇三年三月二十六日)に亡くなっているが、その五年後の延長八年六月二十六日(九三〇年七月二十四日)に平安京内裏の清涼殿に落雷したのは、道真の御霊による祟りと考えられた。この年、平安京周辺は干害に見舞われており、この日、雨乞いの実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後一時頃より、愛宕山上空から黒雲が垂れ込め、平安京を覆いつくし、激しい雷雨となり、それから凡そ一時間半後、清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では、大納言民部卿藤原清貫(きよつら 六十四歳)が衣服に引火した上、胸を焼かれて即死し、右中弁(うちゅうべん)内蔵頭(くらのかみ)の平希世(まれよ 年齢不詳)も顔を焼かれて瀕死の状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに(後に出る通り、死の穢れを嫌ったため)外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包(みぬのただかね)が髪に引火して焼かれて死亡、紀蔭連(きのかげつら)は腹を焼かれ、悶え苦しみ、安曇宗仁(あずみのむねひと)は膝を焼かれて立てなくなった。他に警備の近衛も二名が死亡した。参照したウィキの「清涼殿落雷事件」によれば、『清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは、負傷者の救護もさることながら、本来宮中から厳重に排除されなければならない死穢に直面し、遺体の搬出のため大混乱となった。穢れから最も隔離されねばならない醍醐天皇は清涼殿から常寧殿に避難したが、惨状を目の当たりにして体調を崩し』、三『ヶ月後に崩御することとなる』

天皇の居所に落雷し、そこで多くの死穢を発生させたということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫が』、『かつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり』、『雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い』、『落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった』)・平将門・崇徳院・鎌倉権五郎影政・などがその代表格である(以上は主文を小学館「日本大百科全書」としたが、かなり私が手を加えた)

「時平(しへい)」左大臣藤原時平(ときひら 貞観一三(八七一)年~延喜九(九〇九)年)。昌泰四(九〇一)年一月に発生した「昌泰(しょうたい)の変」(正二位・左大臣藤原時平の讒言により、醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥(だざいのごんのそち)に降格させて大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件)の首謀者。道真の死後も彼は特に祟られていないが、彼は数え三十九歳の若さで亡くなっており、ウィキの「藤原時平」によれば、「扶桑略記」(私撰歴史書。寛治八(一〇九四)年以降に比叡山功徳院の僧皇円が編纂したとされるものの、異説もある)では「浄蔵伝」からの引用として、その若死を道真の怨霊によるものとしており、以降は、専ら、『その見解が取られるようになった。時平の死後、弟・忠平が朝廷の中心を占めるようになり、時平流は次第に没落していった』という死後に祟りを求めてもよかろう。

「義經を弊(たふ)したる梶原を化身なりといふ說なき」因みに梶原景時は、後に自身が幕府を追放され、京へ上る途中、一族もろとも殺害された時点で、怨みの御霊となっている。鎌倉市梶原にある御霊神社は彼を祀る(一説に鎌倉市坂ノ下の御霊神社(権五郎神社)と同じく鎌倉権五郎影政を祭神とするとも言われる)。

「かゝる虛誕の過譽(かよ)は、なきに、おとる」このようないい加減な嘘の褒め過ぎは、そうしたものが全く無い場合より、質(たち)が悪い。

「百人一首に載せられたる歌」「古今和歌集」巻第五「秋歌下」に、素性法師の一首(二九三番)と並んでともに出る以下(二九四番)。

   *

   二条の后の、春宮(とうぐう)の御息

   所(みやすどころ)と申しける時に、

   御屛風に龍田川にもみぢ流れたる

   形(かた)を書けりけるを、題にて、

   よめる              素性

 もみぢ葉のながれてとまるみなとには

    紅深き浪やたつらん

 

                  業平朝臣

 ちはやぶる神世も聞かずたつた河

    から紅に水くくるとは

   *

「龍田川」奈良県生駒市の生駒山(いこまやま 標高六百四十二メートル)の東麓を源とし、南流し、流域に生駒谷・平群谷を形成している。生駒郡斑鳩町(いかるがちょう)で大和川に合流する。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「纐纈(かうけつ/ユカタ)」現代仮名遣「こうけつ」。奈良時代に盛行した絞り染めの名。布帛 (ふはく) を糸でくくって浸染し、文様を染め出すもの。「ユカタ」とは「浴衣」で、平安時代に入浴の際に着用されていた和服の一種の、麻の単衣(ひとえ)で出来ていた浴衣の原型とされる「湯帷子(ゆかたびら)」のことか。

「いつの頃よりか、『水くゞる』と、『く』文字、濁りてよみならはせり。紅葉の川水を泳ぎくヾる、何ほどのめづべき事の侍(はんべ)るベき」個人サイト「ミロール倶楽部」の本歌の解説で、サイト主は「くくる」の方に疑義を呈しておられる。「水くくる」の『解釈としては、もう一つ』、『「潜る(くくる)」という説が有名である。これについて賀茂真淵「古今和歌集打聴」では「後の説共(ども)は河に散しきたる紅葉の下を水のくゞりて流るゝを紅に水のくゞるとよめりといへれど紅は体なき物にてそれをくゞるとはいひがたし或家の伝に泳(クヾル)にあらす絞(クヽル)也と云ぞよき絞(クヽル)とは絹を紅のくゝり染にせしそれに見なせる也」という理由で「括り染め」の説を支持している』。『「打聴」の言う 「後の説ども」というのは「顕註密勘」などを含めてのことだが、例えば「打聴」より少し前に書かれた契沖「古今余材抄」を見てみると』、『「是(これ)は立田川に紅葉のみちてなかるゝさまひとへにから錦をなかせることくにして錦の中より水のくゝると見ゆるを奇異のことくみゆるゆゑ神の世まてをたくらへていふなり』……『川には錦あらふといふことの有故(あるゆゑ)紅葉のなかるゝをかくいふ也』……『くゝるは日本紀に泳の字をよみ万葉には潜の字をかけり」としている』。『「万葉には潜の字をかけり」という部分は置いておいて、契沖の言いたいことは』、『「その隙間を水がくぐって出てくるほど』、『紅葉に満ちた竜田川の流れ」ということだが、真淵に言わせればこれも「紅葉の下を水がくぐる」と同様というわけであろう』。また、「万葉集」・巻十一の二七九六番の歌には『次のように「水くくる」という言葉が出てくるが、これは「玉」あるいは「磯貝」が主語であるため』、ここの「唐紅に水くくる」とは『合わないような気がする』。

  水潛(くく)る玉に交じれる磯貝の

     片戀のみに年は經につつ

[やぶちゃん注:この「磯貝」はアワビとも、斧足類(二枚貝)の死殻の一方ともとれる。]

『こうして 「くくる=括り染め」という解釈が一般的になり、「唐紅に 水くくる」は 「唐紅に水を染める」とほとんど同じ意味とされるが、本当にそれでよいのか? という疑問は残る。「そんな解釈は確かに、神世も聞かず、だなあ」という業平の声が聞こえるようでもある』とある。これは確かに正当にして素朴な疑問であろう。私は公家の男連中が、「くくり染め」という語を知っていると同時に、その語が直ちに「くくり染め」をした紅色の布地や衣服を共通に想起出来た(常時見ていた)とする方が、私には何か嘘臭い感じがするからである。

「樂天も『黃纐纈(くわうかうけつ)』と詠じたりし」白居易のそれは「白氏文集」巻五十四にある以下の七言古詩。

   *

 泛太湖書事寄微之

煙渚雲帆處處通

瓢然舟似入虛空

玉盃淺酌巡初匝

金管徐吹曲未終

黃夾纈林寒有葉

碧琉璃水淨無風

避旗飛鷺翩飜白

驚鼓跳魚拔刺紅

澗雪壓多松偃蹇

巖泉滴久石玲瓏

書爲故事留湖上

吟作新詩寄浙東

軍府威容從道盛

江山氣色定知同

報君一事君應羨

五宿澄波皓月中

  太湖に泛(うか)び、事を書し、微之(びし)に寄す

 煙渚 雲帆 處處を通る

 瓢然たる舟は 似たり 虛空に入るに

 玉盃 淺く酌して 初めて巡りて匝(かへ)る

 金管 徐ろに吹き 曲 未だ終はらず

 黃夾纈の林 寒にして 葉 有り

 碧琉璃の水 淨にして 風 無し

 旗を避けて飛ぶ鷺 翩飜(へんぽん)として白く

 鼓に驚きて跳ぶ魚 拔刺(ばつし)として紅なり

 澗雪(かんせつ) 壓す 多くの松 偃蹇(えんけん)たり

 巖泉 滴ること久しく 石 玲瓏(れいらう)

 書き爲(な)せる故事は 湖上に留(とど)め

 吟ずるに新しき詩を作(な)し 浙東に寄す

 軍府 威容 盛んなりと道(い)ふより

 江山の氣色も 定めて 同じと知らん

 君に報ず 一事 君もまた應(まさ)に羨しがるべし

 五宿す 澄める波 皓月の中(うち)

   *

訓読は勝手自然流だが、こちらにある舞夢氏の現代語訳を参考にさせて貰った。「拔刺」は刺さった棘を勢いをつけて引き抜くが如く魚が飛び出ることを言っていよう。なお、これは、「和漢朗詠集」の巻上の「紅葉」に(通し番号三〇二)、

   *

黃纐纈(くわうかうけつ)の林き寒うして葉有り

碧瑠璃(へきるり)の水は淨(いさぎよ)うして風なし 白

 黄纐纈林寒有葉

 碧瑠璃水淨無風

   *

と出る。また、謡曲「江口」で、終盤の「クセ」に、

   *

紅花(こうか)の春の朝(あした) 紅(こう)錦繡の山 粧(よそほ)なすと見えしも 夕の風に誘はれ 紅葉の秋の夕べ 黄纐纈の林 色を含むといへども 朝の霜にうつろふ 松風(しやうふう)羅月に 言葉をかはす賓客ひんかく)も 去つて來たることなし 翠帳紅閨に 枕をならべし妹背も いつの間にかは隔つらん およそ心なき草木(さうもく) 情ある人倫 いづれあはれを遁(のが)るべき かくは思ひ知りながら

   *

とあるから、典拠は恐らくその辺りであろう。

「ふつに」「都に」「盡に」でここは呼応の副詞で、下に打消の語を伴って「全然・まったく(~ない)」の意である。

「君は此山奧にて昇仙(しようせん/センニントナル)したまひしと傳へ侍る」とあるページに出典不詳だが、日本の仏(?)仙人十六人して、業平を挙げてあった。

「虎關(こくわん)が『元亨釋書(げんかうしやくしよ)』より出でたるそらごと」「元亨釈書」(げんこうしゃくしょ)は歴史書。鎌倉時代に漢文体で記した日本初の仏教通史で、著者は臨済僧虎関師錬。書名は元亨二(一三二二)年に朝廷に上呈されたことに拠り、「釈書」は「釈」=「仏」の書物。収録年代は仏教初伝以来、実に鎌倉後期までの七百余年に及び、僧の伝記や仏教史を記す。南北朝時代に「大蔵経」に収蔵された。国立国会図書館デジタルコレクションの画像でそれらしい箇所を調べて見たが、判らない。

「元慶四年五月八日」ユリウス暦八八〇年。在原業平は天長二(八二五)年生まれで、現在、没日は元慶四年五月二十八日(八八〇年七月九日)とされる。享年五十六で、最終官位は蔵人頭従四位上。

「在原明神」不詳。

「三好が叛逆(はんぎやく)に、將軍義輝、弑(しい)せられ給ひ」室町幕府第十三代征夷大将軍足利義輝(天文五(一五三六)年~永禄八(一五六五)年五月十九日)が、河内国の三好氏本家の事実上の最後の当主となった三好義継(天文一八(一五四九)年~天正元(一五七三)年)に殺害された、「永禄の変」を指す。

「住吉の祠官津守の何某」大阪府大阪市住吉区にある住吉大社の歴代宮司の一族の一人。

「意料(いりやう)」想像すること。

「毛嬙(まうしやう)」(もうしょう)春秋時代の越王の美姫で中国史上の美女の一人として知られ、越王勾践(こうせん)が呉王夫差に傾城の美人として送り込んだ西施と同時代人であるから、よく並び称される。

「廣西普寧縣雲陵」不詳。現行ではは蒲州永楽県とし、山西省運城市(グーグル・マップ・データ)とする。

「異質」常人とは異なった体質。美形という意味も含まれるであろうが、広義の尋常でないという意が強い。

「楊康(やうかう)」不詳。

「楊玄琰(げんえん)」ウィキの「楊貴妃」によれば、彼女は『蜀州司戸の楊玄琰の四女』で、彼が『蜀州の司戸参軍在任中』『に生まれたと伝えられる。四川には、「落妃池」という楊貴妃が幼い頃に落ち込んだと伝えられる池がある。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬『(げんきょう)『の家で育てられた』とある。

「壽王」唐の玄宗の第十八子である李瑁(りぼう?~七七五年)。「寿」は封じられた地の名。ウィキの「李瑁」によれば、『太子に立てる運動が行われたが、立てられることはなかった。また、楊貴妃を妃としていたが、父に奪われたことで知られる』。『母の武恵妃が』『玄宗の寵愛を得ていたが、子は全て』、『夭折していた。そのため、李瑁が生まれた時には、玄宗の兄である寧王李憲の邸宅に預けられ、李憲の妃である元氏に育てられた。元氏が乳を与え、自分の子と語っていた。十数年間も寧王宅にいたため、王に封じられるのが遅かった。宮中では十八郎と呼ばれた』。『もともと玄宗は、永王李璘(李瑁の兄)たちが幼少であるころ、彼らの拝謁を認めていなかった。李瑁が』七『歳の時、兄たちと拝謁した。その時の拝舞(君主の前で喜びをあらわす礼)が儀礼にかなったものであったので、玄宗は彼をすぐれた才能であると認めたと伝えられる』。七二五年三月、寿『王に封じられ、宮中に入』り、七二七年、『益州大都督・剣南節度大使』となり、七三五年には『開府儀同三司を加えられ、瑁と改名する。楊玉環(後の楊貴妃)を妃とする。この頃、武恵妃と李林甫が彼を太子とするため、運動を行』っている。七三七年、『太子であった李瑛が廃立されて自殺を命じられるが、同年、武恵妃が死去』し、翌年、『李林甫の引き続きの運動に』も『かかわらず、高力士の薦めにより、兄の李璵』(りよ)『が太子とな』った(後の粛宗)。七四〇年に『妃である楊玉環が玄宗に見初められ、楊玉環は出家し、女道士となる』(流石に息子の妻をそのまま妻とすることは道徳上、無理であったための形式上の措置である)。七五六年の「安史の乱」勃発後は、『玄宗が蜀に出奔する際に同行する。この途上、怒りが爆発した陳玄礼や兵士たちによって、楊国忠らが殺される事件が起き、李瑁は兵士たちの慰撫を玄宗に命じられ』、『また』、『玄宗の命で、皇太子の李璵に地元に留まるよう説得する役目を』宦官で玄宗の信任厚かった『高力士とともに果たしている。その後も、玄宗を守る六軍の分割指揮にあたり、玄宗とともに蜀に赴いた』とある。

「茘枝(れいし)」」双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ属レイシ Litchi chinensis の果実。実は夏に熟し、その果皮を剝くと、白色半透明の多汁果肉(正しくは仮種皮(種子の表面を覆っている付属物)であって、狭義の意味での「果肉」ではない)があって、古来より高級な果物とする。

「胡臭(こしう/ワキガ)」腋臭。

「掩(をゝ)ひたりし」「覆(おほ)ひたりし」。強い薫香で腋臭の臭いを誤魔化したのである。

「詞曲(しきよく/ウタヒモノ)」ここは宮廷の歌謡を歌う専門の歌唱者である伶人(れいじん)を指す。]

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