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2020/10/06

北原白秋 邪宗門 正規表現版 秋の瞳

 

   秋 の 瞳

 

晚秋(おそあき)の濡(ぬ)れにたる鐵柵(てすり)のうへに、

黃(き)なる葉の河やなぎほつれてなげく

やはらかに葬送(はうむり)のうれひかなでて、

過ぎゆきし Trombone(トロムボオン)いづちいにけむ。

 

はやも見よ、暮れはてし吊橋(つりばし)のすそ、

瓦斯(がす)點(とも)る……いぎたなき馬の吐息(といき)や、

騷(さわ)ぎやみし曲馬師(チヤリネし)の樂屋(がくや)なる幕の靑みを

ほのかにも揭(かゝ)げつつ、水(み)の面(も)見る女(をんな)の瞳(ひとみ)。

四十一年十二月

 

[やぶちゃん注:本篇は「葬送のうれひかなで」る「Trombone」(これは直後に呼称が生まれる「ジンタ」(明治中期に本邦で生まれた民間宣伝の市中音楽隊。その愛称は大正初期につけられた)や「曲馬師(チヤリネし)」というハイカラ趣味を横溢させておきながら、その小道具には「鐵柵」「河やなぎ」「吊橋」「水の面」を用い、近世まで差別されてきた大道芸人、「ホカイビト」「河原乞食」のイメージを確信犯で配してあることに注意しなくてはなるまい。

「曲馬師(チヤリネし)」曲馬団。所謂、当時の日本に複数生まれていたサーカス風見世物興行をする一座を指す総通称。小学館「日本大百科全書」の「サーカス」によれば、『日本における近代サーカスの始まりは、各種見せ物が人気を博していた江戸時代末期の』元治元(一八六四)年に『横浜の居留地内で興行されたリズレー一座の「中天竺(ちゅうてんじく)舶来軽業」を契機にして、その後』、『次々に来日した外国サーカス団による影響に求められよう。これによって、それまで軽業、足芸、曲馬など芸種別に独立していた一座がまとまり始め、明治初期には近代サーカスの素地が形づくられていった。来日したサーカス団のなかでとくに強い影響を与えたのは』、明治一九(一八八六)年と三年後の明治二二(一八八九)年に『来日した「チャリネ大曲馬団」であった。チャリネとは、イタリア人キアリーニChiariniに由来するのであろうが』(「日経新聞」公式サイト内の「軽業師竹沢万次の謎を追う=サーカスに見る日伯交流史=第9回=チャリニ曲馬団同行説」によれば、この曲馬団一座は『米国カニフォルニア州を本拠地にして世界的に興行を行』っていた『チャリニ・サーカス団』(Circo Chiarini:ポルトガル語読みならば、『「キアリニ」』で、『同サーカスの創立者』『ジゼッペ・チャリニ』(一八二三年~一八九七年)は十六『世紀から続く旅芸人の家系としてローマで出生、欧州、ロシアで芸の修業をし』、一八五〇年『頃から』、『英ロンドン、米ニューヨークで経営者としての経験を積み』、一八五六年に『キューバで自分のサーカス団を創立した』人物で、十九『世紀における最も影響力を持ったサーカス経営者』とする『最高の評価』さえ得た興行者で、『多国籍な団員を抱え、その当時に欧州、南北アメリカ大陸、オーストラリア、インド、アジアを巡業して回ったイタリア人コスモポリタン』であったとあり、『なんと日本には』三『回も巡業している』とある。「馬事文化財団」の作成になる「横浜と馬、競馬の歴史」の「サーカスがやってきた」には、橋本周延画になる「チャリネ大曲馬御遊覧ノ図」(明治一九(一八八六)年に皇居内吹上御所で行われた天覧チャリネ曲馬興行の錦絵が載り、その解説に同曲馬団は明治九(一八七四)年にも来日していることが判明した。そこには元治元年の「中天竺舶来軽業」の絵も載っている)、『これが一時期の日本では』、『サーカス風見せ物の代名詞ともなり』、明治二十、三十『年代にはチャリネを名のる一座も生まれた。その代表的なものに』、明治三二(一八九九)年に『発足した山本精太郎の「日本のチャリネ一座」がある』。『こうして外国の影響下にサーカス的な興行形態が整えられていくなかで、従来の日本の伝統的な見せ物の一部は衰退し、あるものは形を変えながら』、『近代サーカスへと引き継がれていく。衰退したものの代表に日本曲馬(馬芝居)があげられる。これは曲乗りよりも歌舞伎(かぶき)の趣向を加えた見せ物だっただけに、スピードやスリルが主軸であるサーカス興行にマッチしなかったためと考えられ』ている。『わが国の近代サーカスに黄金時代を築く幕開きとなったのは』、昭和八(一九三三)年の「万国婦人子供博覧会」を『記念して来日したドイツのハーゲンベック・サーカス団』(Circus Carl Hagenbeck)『である。そのスケールの大きさに加え、特等』四『円という当時としては破格の入場料に人々は仰天し、サーカスに対する認識を大きく書き換えることとなった。サーカスの哀愁を代表する『美しき天然』[やぶちゃん注:YouTube の島倉千代子のわびさびすさび氏のそれをリンクさせておく。]とともに有名な『サーカスの(うた)』[やぶちゃん注:YouTube の毘沙門氏の天北原謙二「サーカスの唄」をリンクさせておく。]は、このハーゲンベック来日記念歓迎レコード『来る来るサーカス』のB面に収められた歌である』。『これを機にチャリネ、軽業団、曲馬団を名のっていた一座の多くがサーカス団と名前をかえ、その数』三十『以上といわれた日本近代サーカスの黄金期を迎えるが、第二次世界大戦時に次々と解散に追い込まれた。しかし、サーカスは戦後いち早くテントもないままの青空の下での興行などによって復活し、ふたたび活況を呈した。現在の日本のサーカス団は木下、キグレ、矢野、カキヌマ、ホリデイン、国際の』六『団体で、いずれも常設小屋をもたず、テント興行を続けている』とある。また、英文であるが、サイト「Circopedia(サーカス百科事典)にはより詳しいCirco Chiarini についての記載があり、その中の記載から、「チャリネ大曲馬団」の英語の正式名は「Signor Chiarini’s Royal Italian Horse Troupe」で、それが後に「Chiarini’s Royal Italian Circus」となったと書かれてあった。また、元治元年に来日して、興行したのは、アメリカの曲芸師でサーカス興行主であったリチャード・リズリー・カーライル(Richard Risley Carlisle 一八一四年~一八七四年)で、彼のウィキによれば、『仰向きに寝て、足で子供をジャグリングする技は「リズリー・アクト」(Risley act)という名前が付けられている』とあり、『横浜居留地にサーカス団を率いて来日し、西洋式のサーカスを日本で始めて興行し』、また、『日本の芸人を組織し』て『「帝国日本芸人一座」(Imperial Japanese Troupe)をつくり、アメリカのフィラデルフィアで』、一八六七年(慶応三年)に一ヶ月間、『興行した』ともある。]

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