北原白秋 邪宗門 正規表現版 曇日
曇 日
曇日(くもりび)の空氣(くうき)のなかに、
狂(くる)ひいづる樟(くす)の芽(め)の欝憂(メランコリア)よ……
そのもとに桐(きり)は咲く。
Whisky(ウイスキイ)の香(か)のごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱駝(らくだ)の寢息(ねいき)、
見よ、鈍(にぶ)き綿羊(めんやう)の色のよごれに
饐(す)えて病(や)む藁(わら)のくさみ、
その濕(しめ)る泥濘(ぬかるみ)に花はこぼれて
紫(むらさき)の薄(うす)き色鋭(するど)になげく……
はた、空(そら)のわか葉(ば)の威壓(ゐあつ)。
いづこにか、またもきけかし。
餌(ゑ)に饑(う)ゑしベリガンのけうとき叫(さけび)、
山猫(やまねこ)のものさやぎ、なげく鶯(うぐひす)、
腐(くさ)れゆく沼(ぬま)の水蒸(む)すがごとくに。
そのなかに桐は散(ち)る…… Whisky(ウイスキイ)の强きかなしみ……
もの甘(あま)き風のまた生(なま)あたたかさ、
猥(みだ)らなる獸(けもの)らの圍内(かこひ)のあゆみ、
のろのろと枝(え)に下(さが)るなまけもの、あるは、貧(まづ)しく
眼(め)を据(す)ゑて毛蟲(けむし)啄(つ)む嗟歎(なげかひ)のほろほろ鳥(てう)よ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮(く)れむ、ああひと日。
病院(びやうゐん)を逃(のが)れ來(こ)し患者(くわんじや)の恐怖(おそれ)、
赤子(あかご)らの眼(め)のなやみ、笑(わら)ふ黑奴(くろんぼ)
醉(ゑ)ひ痴(し)れし遊蕩兒(たはれを)の縱覽(みまはり)のとりとめもなく。
その空(そら)に桐(きり)はちる……新(あたら)しきしぶき、かなしみ……
はたや、また、園(その)の外(そと)ゆく
軍樂(ぐんがく)の黑(くろ)き不安(ふあん)の壞(なだ)れ落ち、夜(よ)に入る時(とき)よ、
やるせなく騷(さや)ぎいでぬる鳥獸(とりけもの)。
また、その中(なか)に、
狂(くる)ひいづる北極熊(ほつきよくぐま)の氷なす戰慄(をののき)の聲(こゑ)。
その闇(やみ)に花はちる…… Whisky(ウイスキイ) の香(か)の頻吹(しぶき)……桐の紫(むらさき)……
四十一年十二月
[やぶちゃん注:第一連の「Whisky」の後、及び、最終行の「Whiskyの」後の半角空きはママ。
「樟」クスノキ目クスノキ科ニッケイ属クスノキ Cinnamomum camphora。
「桐」シソ目キリ科キリ属キリ Paulownia tomentosa。四月中旬から五月にかけて円錐花序に淡い大きな紫色の花を円錐状に咲かせる。この花の色や形は、私には、どこか奇体なる異国情緒を感じさせる。
「綿羊」家畜の羊(哺乳綱鯨偶蹄目ウシ亜目ウシ科ヤギ亜科ヒツジ属ヒツジ Ovis aries)のこと。特に毛用のもので、野生のものと毛質が異なり、一年中、毛が伸び続ける。
「ベリガン」Pelican のこと。後に出る同年八月作の詩篇「蜜の室」では「ペリガン」であり、後発の作品集では「ペリカン」としているから、ここは誤植の可能性が高い。鳥綱ペリカン目ペリカン科ペリカン属 Pelecanus の多種を指す。本邦では、ハイイロペリカン Pelecanus crispus・モモイロペリカン Pelecanus onocrotalus・ホシバシペリカン Pelecanus philippensis が迷鳥として記録されているが、ここは動物園(ホッキョクグマまでいたとなると、東京都恩賜上野動物公園の可能性が高いとは思う)で飼育されていたそれを実際に聴いたものであろうから、以上の種以外である可能性もある。博物誌は「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鵜鶘(がらんちょう)〔ペリカン〕」を参照されたい。
「山猫」これが真正のヤマネコであるならば、哺乳綱食肉ネコ亜目ネコ科ネコ亜科ネコ属ヨーロッパヤマネコ Felis silvestris か、Prionailurus 属ベンガルヤマネコ Prionailurus bengalensis・イリオモテヤマネコ Prionailurus bengalensis iriomotensis・ツシマヤマネコ(アムールヤマネコ)Prionailurus bengalensis euptailurus の孰れかとなるが、実際にやはり動物園で聴いたのかも知れぬが、この場合は謂わば幻想の妖しいアイテムとしての要素が強いから、創作当時の上野動物園や見世物で、どのヤマネコが飼育されていた可能性があるかを考証する気は、私には、あまり生じない。それはそれ、ネコ・フリークの方の探求にお任せしたい。悪しからず。一応、私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 豰(こく) (仮想妖獣? ジャイアントパンダ?/ベンガルヤマネコ?)」をリンクしてはおく。
「ほろほろ鳥(てう)」キジ目ホロホロチョウ科ホロホロチョウ Numida meleagris。アフリカに棲息する。全長約五三センチメートル。胴体は黒い羽毛に覆われ(但し、家畜化されたホロホロチョウの羽色は白・茶色・灰色など様々)、白い斑点が入る。頭部には羽毛がなく、ケラチン質に覆われた骨質の突起がある。また咽頭部には赤や青の肉垂がある。雌雄はよく似ているが、肉垂と頭部の突起は雄の方が大きい。草原や開けた森林等に生息し、昼間は地表にいるが、抱卵中のメスを除き夜間は樹上で眠る。群れを形成して生活し、二千羽以上もの大規模な群れが確認されたこともある。横一列になって採食を行ったり、雛を囲んんで天敵から遠ざけるような形態をとることもある。繁殖期になると、♂は縄張りを持ち、群れは離散する。危険を感じると、警戒音をあげたり、走って逃げるが、短距離であれば、飛翔することも可能である(一般には「飛べない鳥」とされている)。和名は鳴き声が「ホロ、ホロ」と聞こえることに由来する(以上はウィキの「ホロホロチョウ」に拠った)。YouTube のStories Of The Kruger の「Helmeted Guineafowl (Numida meleagris) Bird Call | Stories Of The Kruger」の初めと終わりの方の鳴き声がそれらしく聴こえる。但し、動画中間部のそれは、警戒音と威嚇音で、かなり強烈なのでボリュームは低めにした方がよい。
「北極熊(ほつきよくぐま)」哺乳綱食肉目クマ科クマ属ホッキョクグマ Ursus maritimus。]