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2020/10/08

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之一 伊藤帶刀中將重衡の姬と冥婚の事

 

     伊藤帶刀(たてわき)中將重衡(しげひら)の姬と冥婚の事

 

Tatewakitohime

[やぶちゃん注:底本からスキャンし、見開き二ページになっている二幅を合成し、補正を加えた(周囲の雲形部分の枠を消去した)。]

 

 弘長の頃、宇治の邊に伊藤帶刀といふものあり。先祖より平氏の侍なりしが、壽永の後は世を宇治に逃れて、仕官(しくわん/ホウコウ)の望(のぞみ)もなく、風月を友として暮しけり。

 それが末に伊藤帶刀則資(のりすけ)といふあり。うまれ淸げに、心ざま、いと優(いう)にやさしき男なり。

[やぶちゃん注:「伊藤帶刀」不詳。

「重衡」平重衡(保元二(一一五七)年或いは保元元(一一五六)年~文治元六月二十三日(ユリウス暦一一八五年七月二十一日)享年二十九)は平清盛の五男。母は平時子で宗盛・知盛・徳子らの同母弟。応保二(一一六二)年に叙爵し、尾張守・左馬頭などを経て、治承三(一一七九)年に左近衛権中将、翌年には蔵人頭と累進した。極官が正三位左近衛権中将であったことから「本三位(ほんさんみ)中将」とも称された。文武兼備の人物で、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、源平争乱が勃発すると、武将として奮迅の活躍をし、治承四(一一八〇)年五月には、以仁王と源頼政の挙兵を鎮圧し、同年十二月には、興福寺及び東大寺攻撃の総大将となって、大仏殿以下の伽藍を焼き打ちした。このため、仏敵として強い非難を受けた。翌年三月には「墨俣川(すのまたがわ)の戦い」で源行家を撃破し、「平家都落ち」の後も、寿永二(一一八三)年閏十月の「水島合戦」や、翌月の「室山合戦」などに於いても勝利を収めた。しかし、翌年二月の「一の谷の戦い」で捕虜となり、兄宗盛のもとに使者を遣わし、三種の神器の返還と源平の和議を試みようとするも、実現せず、翌月、鎌倉に護送された。その人柄から、源頼朝に厚遇されるが、先の怨みを昂じさせた興福・東大両寺の衆徒の強い要求によって、奈良に送られ、南都焼き打ちの張本人として木津川畔で斬首された。「平家物語」は、虜因の身となった重衡を、平家の滅亡を象徴する非運の武将として哀切に描いている(ここまでは主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。ウィキの「平重衡」によれば、『重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、狩野(かのう)宗茂(茂光の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の北条政子などは重衡をもてなすために侍女の千手(せんじゅ)の前(まえ)を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、工藤祐経(宗茂の従兄弟)が鼓を打って今様を謡い、千手の前は琵琶を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている』「平家物語」では『鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、朗詠を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった』とある。彼には実子の女子(小笠原長経室か)及び養女で平衡子(少将局。安徳天皇掌侍)がいた。

「弘長」鎌倉中期の元号。一二六一年から一二六四年まで。当時の天皇は亀山天皇で、鎌倉幕府将軍は宗尊親王、執権は北条長時である。但し、勘違いしてはいけない。その頃にこの宇治に居ついた伊藤某の後裔が主人公なのである。最後の注で、本篇の時制のおかしな点を少し採り上げて評しておいた。

 

 或時、所用の事ありて、都に出でて、暮に及びて、琴彈(ことひき)山の麓を通るに、年のころ、十五、六歲ばかりなる女(め)の童(わらは)、そのかたち、きよらかなるが、只一人、ゆくあり。

[やぶちゃん注:「琴彈山」琴引山とも書く。雅氏のブログ「月詣草紙」の「涙河をわたる 京都、奈良編 その2 日野」に、この附近は『平重衡卿の北の方』であった『藤原輔子』(ほし/すけこ 生没年未詳)『(当時女性の名前は伏せられるので』、『役職名の大納言典侍』(だいなごんのてんじ)『と呼ばれてることが多い)と』重衡が『斬首の前日に最後の再会を果たした地で』とあり、『一の谷の戦いで捕えられ』、『鎌倉に送られていた重衡が、壇ノ浦での平家滅亡後南都の要請で奈良に送られる途中のこと』で、『二人が再開した場所に流れていた川は後にこの逸話から『合場川』』と名付けられ、『大納言典侍が重衡の行列を涙ながらに琴を弾き見送った丘陵を『琴弾山』と名付けられた』と伝える、とある。また、「京都府宇治郡名蹟志」を引用され(原書に当たれないので、一部に手を加えさせて貰って整序した)、

   *

相場川(合場川)

醐南端にあり、平重衡源氏の囚虜となり、鎌倉より南都に送らるるとき、内室、此處に要して對面せしより、此稱あり。

琴彈山

相場川背後の丘卽ち之れなり、内室、重衡に別るに臨み、琴を山下に彈きし別離を惜みし所として此稱あり。

石田岡(琴彈山)

琴曳山一帯の地を伝ふ、古來和歌の名區なり。

重衡墓

小字外山街道十三番地民家の裏に在り。重衡、義經に囚われ、木津の邊りに斬らる。内室、その首級をこの地に葬り、佛心寺に居り、其瞑福を祈る。今、其佛心寺、なし。

   *

とあるとある。以下、「平家物語」の「重衡被斬(きられ)」の二人の印象的な哀しい再会が引かれるので、是非参照されたい。その後で、『合場川のバス停』の『すぐ後方がこ』の『琴弾山だと、伏見区のwebのあ』ったとあるので、この附近(グーグル・マップ・データの航空写真)かと思われる。現在は平地となっていって、丘陵らしきものも、残念ながら全く見られない。東南近くに「重衡塚」がある。]

 

 帶刀、やがて、袖をひかへて[やぶちゃん注:引いて。]、

「かく暮に及びて、具(ぐ)したる人もなく、いづちへか、おはすやらん。」

といふに、

「このあたりに宮仕(みやづかへ)し侍るものにこそ。」

と答ふるけわひ[やぶちゃん注:様子。]、

『思ひくだすべき品にはあらじ。』[やぶちゃん注:不審な判断を下すべき人品ではないようだ、と安心し。]、

と、

「我は宇治のあたりへまかるものなり。道の便(たより)あしからずは、伴ひ參らせん。」

といふに、童、いなむ色なく、さまざま物語し、もて行くうち、松杉の一村(ひとむら)[やぶちゃん注:一塊り。]しげれるほとりに、あやしの編戶(あみど)ひきつくろひたる許(もと)にて、

「これこそ童が宮仕參らす方(かた)なり。道のつかれをも、はらし給ひてんや。」

と、いひすてゝ、内に入(い)る。

 帶刀も、

『主(あるじ)は、いかなる人やらん。』

と、みいれたる[やぶちゃん注:気が引かれる。]に、よしある人の隱家(かくれが)と覺えて、庭のけしきも、おのづからなる風情にて、尾花・くず花、露、ちり、やり水に紅葉(もみぢ)うづもれ、霜にうつろひたる菊の籬(まがき)、一重(ひとへ)をへだてゝ、あれたる軒(のき)ながらに、簾、なかば、たれて、灯(ともしび)、かすかにきらめき、琴の音(ね)、ほのかにもるるにぞ、いとゞ、其(その)名(な)、ゆかしく[やぶちゃん注:知りたく思って。]、たちやすらひたるに、先の女童(めのわらは)出でて云〔いは〕く、

「あるじの御方(〔おん〕かた)にきこへ參らせたれば、『何かは苦しかるべき。こなたへいらせ給へ』と侍る。とく、とく。」

と云(い)ふに、帶刀、よろこびて、内にいるに、六十(むそ)じ[やぶちゃん注:ママ。]ばかりと覺しき老女、出でて、奧の殿(との)にいざなふ。

 帶刀、いなむことなく座につけば、折敷(をしき)に檞葉(かしはば)しきて、菓物(くだもの)やうのもの、うづたかく盛出(もりいで)て、饗ずるさま、

『いよいよ、なみならぬ人のかくれ家。さては高家(かうけ)の人の、妾(おもひもの)を、かくは、しつらひ置き給ふやらん。さるにても、此〔この〕とし月、往(ゆ)きかへりするに、かゝるすまひありとだに、しらぬことのいぶかしさよ。』

と思ひめぐらすに、老女、居(ゐ)よりて、

「君は、正(まさ)しく伊藤何某(なにがし)の殿(との)にては、おはさずや。」

といふに、帶刀、おどろきてみゆれば、老女、うち笑ひ、

「老いらくの心せかれて、あらましをもきこへ侍(はんべ)らねば、いぶかしみ給ふも理(ことわり)なり。君、此あたりを、折々、往(ゆき)かよひ給ふを、わが賴みたる姬君、いつのほどにか、垣間見(かいまみ)給ひ、夜晝となく、戀しく覺(をぼ[やぶちゃん注:原本のママ。])しわづらひ給ふことの、やるかたなさに、折もあらば、人傳(ひとづて)ならで、きこへまいらせんとおもふに、甲斐ありて、女(め)の童が、はからずも伴ひ參らせしは、出雲の神のむすばせ給ひけんえにしなるらめ。かゝるわびしきすまゐ[やぶちゃん注:ママ。]を、『うし』とおぼさずば、姬君の心をもなぐさめ給はんや。」

と懇(ねんごろ)にかたるに、

「某(それがし)、はからずも、かく世をしめやかに暮したもふ御隱家(おんかくれが)をおどろかし奉るつみをも問(と/トガメ)給はず、あさからぬ御心ざし、など、いなみ參らせん。さいはひ、いまだ、さだまる妻とても侍(はんべ)らず、久米(くめ)の岩橋、かけてしたまはらば、渡らでやあるべき。」[やぶちゃん注:「久米(くめ)の岩橋」役(えん)の行者が大和の葛城山から吉野の金峰山(きんぷせん)まで架け渡そうとしたという伝説上の橋。葛城の神が夜間しか働かなかったため、完成しなかったという。多く、和歌で「男女の契りが成就しないこと」のたとえとされる歌枕である。]

といふに、老女、悅びて奧に入り、しばしありて、いざなひ參らする上﨟(じやうらう)の、てりかゞやくばかりのよそほひ、柳の黑髮、春の風になびき、桃花(たうくわ)のくちびる、朝(あした)の露に濕(うるほ)ひて、よろこびの色、まなじりにはあまれど、すこしは、はぢらひ給ふけしき、春の夜(よ)のおぼろにかすむ月影の風情に、帶刀、目くれ、こゝろ、飛んで、しらず、

『月の宮人(みやびと)、天(あま)の河原(かはら)の織女(おりひめ)ならずや。』

と、こゝちまどふに、老女、云〔いは〕く、

「かねてより、戀しと覺(おぼ)し給ひし殿の、はからずも來り給ひて、花の下紐(したひも)とくる春に逢ふうれしさ、そだて參らせしわらはが悅(よろこび)、老(おい)が身のくせとて、淚、こぼるゝまでよ。」

とて、酒肴(しゆかう/サケサカナ)を出して、かりに婚儀を催〔もよほ〕す。

 帶刀も、覺えず、數盃(すはい)をかたぶけて後(のち)、うちくつろぎて、

「かゝる山里にかくおはする君は、いかなるかたの世を忍びましますにや、きかまほしさよ。」

といふに、老女、面(おもて)、愁ひを含(ふくみ)て、

「とても、つつみはつべき事にも侍らねば、明(あきらか)にきこえ參らせん。これこそ、故(こ)三位(さんゐ[やぶちゃん注:原本のママ。])中將重衡卿の、わすれがたみの君にこそ。」

といふに、帶刀、はじめて、黃泉(よみぢ)の人なることをしるといへども、すこしもあやしまず、なを、その詳(つまびらか)なる事をとヘば、老女、淚をおさへて、云く、

「君(きみ)も、世々(よく〔よく〕)、恩顧のかたなれば、などかは、わすれ給ふべき。さても、過ぎぬる治承(ぢしやう)の秋の嵐に、故内府(こないふ)も、ろくもきえさせ給ひしこそ、くらき夜(よ)に灯(ともしび)うち消(けし)たるここ地〔ち〕して、やすき心もなきうちに、越路(こしぢ)なる木曾の深山(みやま)より、兵(つはもの)、おびたゞしく責めのぼるといふ程こそあれ、主上[やぶちゃん注:安徳天皇。]・門院(もんゐん)をはじめ奉り、一門の人々、そこはかとなく迷ひ出で給ひ、我が君も、北の方は都にとゞめ給ひて、『御供におくれじ』と、『名殘はつきぬ有明の、月の都に遷幸(くわんこう)の時こそ、めぐり逢ふべし』と、ねをのみぞなく、須磨の内裡(だいり)も、さかしきつはものゝ襲ひ奉りて、又もや、うつゝ心〔ごころ〕もなく、はるばる、西海の波の上にさすらへ給ひ、つゐには吾妻ゑびすの勝(かつ)にのりて、主上をもおそれ奉らざるに、賴み覺(をぼ[やぶちゃん注:原本のママ。])したる西國のつはものも、山の井の淺きは、人の心にて、かはりゆく世のさまを御覽じて、主上は、龍のみや[やぶちゃん注:龍宮。安徳天皇の入水を指したもの。]に御座(ござ)をうつされ、御一門、殘りなく、秋の木の葉のちりどりにならせ給ひし中〔なか〕にも、ひとしほ、心うきは、我が君にて、御心も、たけくいさみ給ひ、御一門の果(はて)をも見給ひ、『御幸(みゆき)の供奉(ぐぶ)のしんがりを』と覺(おぼ)し給ひし甲斐もなく、心なきつはものゝ射まゐらせし矢に、召されたる御馬〔おんむま〕のおどろきしに、御供にさふらひし者も、さる人心(ひとごゝろ)の折(をり)なれば、餘所(よそ)の時雨(しぐれ)に見なし參らせて、つひに、おりかさなりて、生捕(いけど)り奉しこそ。今更(いまさら)、心きえて、淚に、むねもふたがれ侍(はんべ)り。ころしも、姬君は、いまだ五つにならせ給ふを、わらは、いだき參らせ、北の方もろとも、こゝかしこにかくれすみて、いつしか、兵(つはもの)しりぞき、しら浪(なみ)しづまりて、めでたく、都へかえらせ給ふやらんと、心は、はるか和田(わた)の原、八十島(やそしま)かけて行(ゆき)かよふ、綱手(つなで)もきれて、御一門のうせ給ひしあらまし、我君のとらはれとなり給ひしこと、きくに、夢とも現(うつゝ)とも、わきがたく[やぶちゃん注:信じられず。]、さるにても、世のうさをしろしめす神のちかひもおはさば、『今一度の見參(げんざん)も』と、おもふに、かひなき御運(ごうん)の末、覺(おぼ)ししらぬ罪をかづきて、うきを見給ふ、都渡(みやこわた)し。北の方は、それがために、ほどなく、むなしくならせ給ふ。黃泉(よみぢ)の御宮仕(〔おん〕みやづかへ)とおもへども、此君をかしづき參らする人も侍(はんべ)らねば、をしからぬ命(いのち)を深山邊(みやまべ)に、ならの葉ふきわたす草の庵(いほ)、たれとへとてか[やぶちゃん注:「誰(たれ)訪(と)へとてか」。]、呼子鳥(よぶこどり)、淚の雨にかきくれて、あかしくらすうちにも、やうやう生長(おひたち)給ふにつけても、あはれ、昔の世なりせば、いかなる公達(きんだち)をも、むこがねにと、むかしをしのぶそのうちに、きみと、すく世(せ)の契(ちぎり)、たえもせで、せちに戀させ給ふ甲斐ありて、かく、まみえ給ふことになん侍り。」

と物語るに、姬も、そゞろに淚にくれ給ヘば、帶刀も、覺えず、感傷にたへず。

 老女、淚をとゞめて、

「かゝるめでたき折に、しづのをだまきくりかへすべき事ならぬを、よしなき長物語(ながものがたり)に、姬君の、さぞや、心なしとや、覺したまふらん。とし頃の、闇路(やみぢ)をてらす春の日に、おもひの氷、うけとけ給へ。」

と、戯(たはむれ)て、老女は一間へ退(しりぞ)きぬ。

 帶刀、姬の手をとりて閨(ねや)にいれば、そらだきのかほり、えならず、いときよらかにかざりたる文臺(ぶんだい)・草紙・歌集なんど、とりそろへたるに、詠草(えいそう)と覺しくて、

[やぶちゃん注:以下の歌は前後を一行空け、下句を三字分下げた(底本では行空けなく、上句も下句も一字下げで並列している)。]

 

 うちもねであふとみる夜の夢もがな

    うつゝの床はひとりわぶとも

 

 ならひしも物おもふねやのひとりねに

    うきを忍ぶののきの松風

 

帶刀、硯、引よせて、

 

 ほのみつる心の色や入り初(そ)めし

    戀の山路のしをりなるらん

 

 ゆめかとも猶こそたどれ戀衣(こひごろも)

    かさねそめぬる夜半(よは)の現(うつゝ)を

 

姬、くりかへし吟じて、

「みづからとても、夢うつゝ、ふみまよひたる初尾(はつを)ばな、染ぬる色のかはらで。」

と、きこゆるに、

「さるにても、君、いつしか見そめ給ひしにや。」

といふに、姬、うちわらひて、

「君は、まことにしり給ふまじ。過ぎし頃、乳母(うば)なるものに具(ぐ)せられて、石山寺に詣でたりしに、君は、とくより、かしこにおはせしが、たがひに、それとみれば、見もし給ひて、岩手(いはで)の山の岩つゝじ、下(した)もゆるおもひは餘所(よそ)にもらさねば、心うくも、さそはれて見うしなひ參らせしより、露(つゆ)、わするゝひまもなく、君は世をへだて給へども、わが身ひとつは、もとの身にして、おもひのけふり、たゆむことなく、幾年月を重ねたりしを、あはれとも見給へ。」

と、きくに、帶刀も、

「すく世より、契りしことよ。」

と、いとゞあはれにおぼえて、新手枕(にいたまくら)をかはすとすれば、八聲(やごゑ)の鳥[やぶちゃん注:夜の明け方に鳴く鷄。]にうちをどろかされぬるに、老女の聲して、

「山本(やまもと)の神ならずとも、晝は、はゞかりあり。かさねての見參(げんざん)は、ふす猪(ゐ)のとしの秋にこそ。」

といふに、帶刀、裝束して出(いづ)れば、重ねて、老女、云く、

「門院、大原(おほはら)の奧にすませ給ひて後は、『世のうきよりはまさりし』とて、主上をはじめ、一門の人々を、殘りなくむかへ給へば、我君・北の方もろとも、とくより、かしこへ參り居させ給ふ。姬君は其頃、門院、いまだしろしめさゞりしゆゑ、めすこともなく、いたづらに此所にひとりすみわび給ふ。折には參らせ給へども、かの御所に姬君の局(つぼね)も侍らず。そのうへ、はかばかしき御供(〔お〕とも)の侍(さむらひ)も侍(はんべ)らねば、この年月、むなしく過(すご)し侍(はんべ)り。ちか頃は、此殿(このとの)も、あれまさりたれば、いよいよ、大原の御所にうつらせ給はんことをおもへども、君に、『一度、逢瀨のうへにてこそ』と、まちわびたるけふの見參(げんざん)に侍(はんべ)れば、ねがはくは、大原に參り給ひ、此よし、啓(けい)し給ひ、むかへの車、たまはるやうになん、申し給へかし。此事、くれぐれ、賴み參らす。」

といふに、帶刀、

「露(つゆ)たがへじ。」

と諾(だく)す。

 姬君、床の邊(ほとり)より一面の硯(すゞり)を出〔いだ〕して、

「これこそ、高麗(こま)の國より奉りたる『遠山(とほやま)』といふ名硯(めいけん)なるを、高倉のみかど、父上に給はりしとぞ。父上、常々、古硯をめでさせ給ひしゆへ、御最期(ごさいご)の時まで『松蔭(まつかげ)の硯』を身に添へたまひしが、知識と賴(たのみ)たまひたる吉水(よしみづ)のひじり法然上人に、布施物にさゝげ給ひ、『遠山』は母君の手にのこり、わらは、給はりて、朝夕(あさゆふ)、手なれ侍れども、ちぎりは石のかたきによせ、又も見(まみ)えまいらせんため、ちかごと[やぶちゃん注:誓詞。]に代(か)へておくりまゐらす。」[やぶちゃん注:「吉水(よしみづ)」現在の東山区八坂鳥居前東入円山町にある安養寺(グーグル・マップ・データ)。「吉水坊」と称して、法然が三十数年の間、ここを本拠に称名念仏を宣揚した。]

と宣ふに、帶刀も「浪に千鳥」の笄(かうがい)を末のかたみにのこして、立出(たちいづ)るに、姬君は、たゞうちふして泣(なき)給ふ。

 老女、さまざますかしまゐらすうちに、心つよくも立出でたりしが、又、こんために、枝折(しをり)して麓(ふもと)に出づるに、宇治の里には、宵よりかえりのおそきをいぶかり、こゝかしこ、尋ねもとむる家の子に行逢(ゆきあ)ひて、そのやうをたづぬれども、たゞ、

「みちにふみまよひて。」

とばかり答へて、家にかえりても、其面影のわすれやらず、ゆめかとおもへど、うつり香は、はだへにたしかに、むつごとは耳にのこりて、其人の、今も身に添ふ心地して、

「一間(ひとま)なる所に引籠(ひきこも)りて、父母にだに、まみヘざりしが、重ねて琴彈山(ことひきやま)にわけ入て、ありし所と覺しきを尋ぬるに、只、松・柏(かしは)、生茂(おひしげ)り、よもぎ、みだれ、すゝき、むれたちたるほとりに、苔むしたる五輪、かたぶきて、しるしの名もきえて、見えわかず。

 よらん方(かた)なく、かなしきに、今更、わかれたるごとく、うちふして、淚にくれたりしが、さてしもあるべきことならねば、それより直(すぐ)に、大原にまかりて、一門の人々の姓名をしるされし過去帳をみるに、姬の名は、もらされたり。

「さては。門院、世にましましたる頃は、いまだ、姬もつゝがなく、その上、をさなくして、壽永の亂、出來(いでき)たれば、しろしめめさゞりしも理(ことわり)なり。」

と、姬の名をしるしのせ、猶も、うしろの山にそとば[やぶちゃん注:「卒塔婆」。]たて、その頃、世にたぐひなきひじりの西山(せいざん)上人ときこえ給ひしを請(しやう)じて、開眼(かいげん)の供養など行ひ、

「これなん、老女が局(つぼね)といひしなるべし。」[やぶちゃん注:恐らくは、『老女が言った「かの御所に姬君の局(つぼね)も侍らず」と言った意味は、ここに姫君を供養した塔がないことを婉曲して言ったものだったのだろう』の意であろう。]

と、のこることなく沙汰して、宇治にかえり、再び妻を迎ふることもなく、あけくれ、「遠山の硯」をその人のおもかげ見るごとく、いつくしみ、身をはなさずありしが、十(と)とせばかりをへて、辛亥(かのとゐ)といふとしの秋の頃、いさゝか、風のこゝちしたりしが、させる事にも侍らねば、

「庭のけしきをも詠(なが)めん。」

と、障子、ひらきたるに、過ぎしとしの、女(め)の童(わらは)、いづちともなく、來たりて、

「今宵、御迎ひを參らせんとのことなり。」

と、いふに、帶刀、はじめて、「猪(ゐ)のとしに」と云ひしを、思ひあはせて、

「さては。今宵に命(いのち)、きはまりたり。」

と、はじめて、父母にも、ありし次第を物語りて、

「死したらん後(のち)は、『遠山の硯』をも棺(くわん)にをさめて、大原の山に葬り給へかし。」

と、くれぐれ、あつらへ置きて、その夜(よ)、俄(にはか)に身まかりぬ。

 父母、その言葉のごとく、大原に葬りて、多くの僧をやとひて、二人の菩提をねんごろに祈りしが、

「雨の夜(よ)などには、帶刀、姬の手をとり、女の童をつれて、大原の里、『おぼろの淸水』などのあたりにて、みたるものも侍(はんべ)りし。」

と、きこえければ、父母、かなしく覺えて、水陸(すゐりく/セガキ)の薦(せん/ホフジ)[やぶちゃん注:施餓鬼会(せがきえ)。]、法華書寫なんど、いみじき功德を行ひたりしゆゑにや、その後(のち)は、見たる者もなかりしとぞ、語り傳へ侍(はんべ)る。

[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:「門院(もんゐん)」女院(にょいん:天皇の母・后・皇女に贈られた尊号)で、院号に皇居の門の名をつけた場合の総称。後一条天皇の生母藤原彰子を「上東門院」と称したのに始まる。但し、ここは清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院徳子その人を指す。

「ねをのみぞなく」「音をのみぞ泣く」。「声を出して泣く」の意。「なく」は「鳴く」とも書く。「音を泣く」に限定・強意の副助詞「のみ」と同義の係助詞「ぞ」が挟まったものである。「なくことをなく」の意で、「泣く」「鳴く」の強調であるため、「ねをもなく」のように、強めの助詞「も」「ぞ」「のみ」などを伴った例が多い。

「姬君は、いまだ五つにならせ給ふを」これ話柄内の時制(伊藤帯刀則資の現存時制)がよく判らぬのだが(最初に示された「弘長」年間(一二六一年~一二六四年)というのは、帯刀の先祖の伊藤何某が宇治に住んだという設定であり、その末裔が則資である)、唯一、後ろに「その頃、世にたぐひなきひじりの西山(せいざん)上人」と出るのがまずヒントとなる。これは実在する高僧で、法然の高弟にして西山浄土宗・浄土宗西山禅林寺派・浄土宗西山深草派の西山三派の祖である証空(證空 しょうくう 治承元(一一七七)年~宝治元(一二四七)年)のこととしかとれない。彼は一般に「西山(せいざん)国師」或いは「西山上人」と呼ばれたからである。ところが、そうなると、則資の先祖が弘長年間に宇治に住んだという記載と矛盾してしまうのである。またしても、作者の時制設定の杜撰が露顕してしまうのである(或いはまたしても虚構であることを示すための確信犯なのかも知れぬ)。しかし、もっと確実なヒントがやはり最後の方に出るのである。お判りであろう。則資が永遠に冥界で姬と結ばれる年、彼が亡くなる年を「辛亥(かのとゐ)」とすることである。西山上人の矛盾は無視するとして、弘長年間から後の「辛亥」を調べると、本書の初版板行の明和七(一七七〇)年まででは、以下の八回のみである。重衡が捕縛されたのは寿永三(一一八四)年であるから、当時、数え五歳として彼女は治承四(一一八〇)年生まれとなる。当該年の後に記した数字は、「彼女が生きていたとしたら」の機械満年齢計算である。

延慶四・応長元(一三一一)年(鎌倉末期)131

建徳二/応安四(一三七一)年(南北朝中期)191

永享三(一四三一)年(室町中期)251

延徳三(一四九一)年(室町末期・戦国初期)331

天文二〇(一五五一)年(戦国時代)371

慶長一六(一六一一)年(江戸初期)431

寛文一一(一六七一)年(江戸前期)491

享保一六(一七三一)年(江戸中期)551

となる。面白がってこんなことをしてるのでは、ない。「彼女は霊なんだから、どうでもいいじゃん」と甘く見てはいけないぞ! うかうかとトンデモない時代考証のいい加減さに巻き込まれているのは、私は怪奇談嗜好の読者の一人として、聊か文句を言わざるを得ないからである。読者の側にもそれなりの矜持ってもんがあるのさ! 浄瑠璃みたような異界時空間では、真の怪奇性は失われ、却って逆に何でもありの面白みが生まれる。逆に、真に戦慄させると同時にしみじみさせる怪奇談というものは(本篇はこの時制矛盾を除けば、名品中の名品と思っている)、事実としてありそうな語りや、大道具・小道具の正確な時代考証こそが核心の必要十分条件であると私は思っているからである。恐らく、当時の読者は読んでいる内に、近い過去の出来事として無意識に読んだであろう。それでいい。姫さまは十代のうら若い清らなる処女でいい。しかし、その実、彼女は有に五百歳を越えているのである。そうした異空間を描いた魅惑的であり、戦慄も覚えさせるような優れた幻想絵画には、しっかりとした事実時制の額縁をこそ附けて貰いたいというのが私の願いなのである。

「しら浪(なみ)しづまりて、めでたく、都へかえらせ給ふやらんと、心は、はるか和田(わた)の原、八十島(やそしま)かけて行(ゆき)かよふ、綱手(つなで)もきれて」「和田(わた)の原」は固有名詞ではなく、「大海原」の意。「わた」は「海」の古語。「八十島(やそしま)」も「多くの島」の意。ここは「小倉百人一首」で知られる、法性寺(ほっしょうじ)入道前(さきの)関白太政大臣藤原忠通(ただみち)の七十六番歌(「詩花和歌集」巻第十所収)、

 わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの

    雲居(くもゐ)にまがふ沖つ白波

と、同じく十一番の、参議小野篁(おののたかむら)の一首(「古今和歌集」巻第十五所収)、

 わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと

    人には告げよ海人(あま)の釣舟(つりふね)

及び、同じく九十三番の鎌倉右大臣源実朝の一首(「新勅撰和歌集」巻第八所収)、

 世の中は常にもがもな渚(なぎさ)漕ぐ

    海人の小舟(おぶね)の綱手かなしも

など元にした雅文体である。

「むこがね」「婿がね」。「がね」は接尾語で、元は「豫(予)ね」(かね)で名詞について、やがてその者となる予定の人(々)を指す。婿となるべき男。婿の候補者。

「おぼろの淸水」「朧の清水」。寂光院への参道の途中にある泉水で、建礼門院が寂光院に入る道すがら、日が暮れ、月の明かりの中、この泉に姿を映されたという。参照した「京都大原観光保勝会」公式サイト内のこちらに地図がある。

 最後に。実は私は本篇を一回、電子化している。この話も実は小学生の時、原本以外の話として読んだ。小泉八雲の再話でである。『小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」』を見られたい。但し、そこでは小泉八雲旧蔵の原本を使った。今回は底本が異なるので、加工データとしては、そこに載せた旧翻刻を使用したが、こちらの方が歴史的仮名遣の誤りが少なく、遙かに良品である。また、後半部の姫との相聞歌や老女の語りの中には、明らかに先行する和歌や故事を踏まえているものがまだあるが、再読して、深くしみじみとしてきた。これ以上、重箱の隅はほじりたくなくなった。悪しからず。

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