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2020/10/16

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之三 宇野六郞廢寺の怪に逢ふ事 /巻之三~了

 

     宇野六郞廢寺の怪に逢ふ事

 貞治(ぢやうじ)・應安の頃、室町家は細川賴之、義滿將軍を輔佐して、天下を以て任(にん/ワガコト)とすれば、いつしか南方(なんぱう/ヨシノ)の兵、衰へ、九州の勢、疲れ、楠氏(なんし/クスノキ)も兵機を擧ぐるに力たらず、徒(いたづ)に回天の氣を吞み、新田の一族も北越の雪にうづもれ、回復の春をしらず。闔國(かふこく/テンカ)、漸く靜(しづか)に、足利の武威、大いに震ひ、海内(かいだい)一統して、初めて、干戈(かんくわ)ををさむる頃、宇野八郞俊勝、岡部八郞資忠(すけただ)いふ二人の才子あり。父祖は北條家の功臣なりしが、元弘赤族(せきぞく)の後は、いづれに屬するともなく、近頃、都に登りて、もとより一族といひ竹馬の友なりしゆゑ、出づるに、馬をならべ、入るに恥を床(ゆか)を同じうして、水魚のまじはり淺からずといへども、二人の志操(しさう)、大いに異なり、六郞は生質(せいしつ)聽明にして、文學を好み、風月を友とす。八郞は生得、心たけく、膽(きも)太くして、平日、獵(かり)を好み、武事を學ぶの外、餘(よ)をかへりみず。世の人、「荒(あら)八郞」とよびなせり。六郞、常々、八郞が匹夫の勇を諫めて、文學をすゝむれば、八郞、また、武門に生れながら柔弱にして膽氣(たんき)なきことを譏(そし)りて、その趣(おもむき)、異(こと)にして互に容るゝこと、なし。

[やぶちゃん注:「貞治・應安」応安が先で一三六一年から一三六八年まで。

 

「細川賴之」(元徳元(一三二九)年~元中九/明徳三(一三九二)年)は守護大名・室町幕府管領。「観応の擾乱」で将軍(足利尊氏)方に属し、四国に下向して阿波・讃岐・伊予などの南朝方と戦った。細川氏の嫡流は伯父細川和氏とその子清氏であったが、第二代将軍義詮(よしあきら)の執事だった清氏が失脚し、これを討った頼之が幼少の第三代将軍義満の管領として幕政を主導し、南朝との和睦なども図った。義満が長じた後、天授五/康暦(こうりゃく)元(一三七九)年の「康暦の政変」で、一度、失脚したが、その後に赦免されて幕政に復帰した。その後は養子(異母弟)頼元と、その子孫が、斯波氏・畠山氏とともに「三管領」として幕政を担った(ウィキの「細川頼之」に拠る)。

「義滿將軍」(正平一三/延文三(一三五八)年~応永一五(一四〇八)年)室町幕府第三代将軍(在職:正平二三/応安元(一三六八)年~応永元(一三九五)年十二月)。南北朝合一を果たし、有力守護大名の勢力を押さえて幕府権力を確立させ、鹿苑寺(金閣)を建立して北山文化を開花させるなど、室町時代の政治・経済・文化の最盛期を築いた。義満が邸宅を北小路室町へ移したことにより、義満は「室町殿」とも呼ばれた。これが後に足利将軍を指す呼称となり、政庁を兼ねた将軍邸は後に歴史用語として「室町幕府」と呼ばれることになった(ウィキの「足利義満」に拠る)。

「楠氏」楠正成(?~延元元/建武三(一三三六)年)。「湊川の戦い」で自害した。

「新田」新田義貞(正安三(一三〇一)年頃~延元三/建武五(一三三八)年)。「藤島の戦い」で燈明寺畷(なわて)に於いて討たれて戦死した。孰れにしても、確かに最初に示した時制の中には含まれてはいるものの、その閉区間のごく早い時期に世を去っており、その時制後では既に南朝方の勢力も減衰して、室町時代の安定期にあるのであるから、初っ端の時制提示そのものが如何にも大雑把に過ぎて、正直、リアリズムを欠いている。しかも元号の順序を逆にしてしまうという不審も含め、どうにも、またしても気に入らない。今までもあったように、作者が本篇の内容が虚構であることを謂わずもがなに臭わすための確信犯なのか、ともかくも、またまた厭な仕儀なのである。

「闔國」「闔」(コウ)は「総て・蔽(おお)う」の意。全国。

「海内」四海(四方の海)の内。国内或いは天下。

「干戈」「干(たて・楯)」と「戈(ほこ・矛)」の意。戦争。

「宇野八郞俊勝」不詳。

「岡部八郞資忠」不詳。底本は「すけさだ」と誤っているのを原本で訂した。

「北條家」鎌倉幕府のそれ。

「赤族」意味不明。天子の赤子たるべき北条一族が朝敵となって「賊」(族)として滅ぼされたことを謂うか。]

 

 六郞、或る日、鞍馬の邊に所用ありて出でたりしが、秋の日の暮れやすき、殊に、折しる[やぶちゃん注:ママ。意味不明。「しも」或いは「しきる」の原本の誤記・脱字か。]時雨(しぐれ)に、路、うるほひ、おもひの外に日を暮して、從者(じうしや)とても具せざれば、唯一人、北山道をたどるに、雷雨、夥しく、咫尺(しせき)も見えわかねば、

「暫し。」

と路の邊(ほとり)の辻堂と覺しき軒(のき)にたゝずみて、晴間を待つうち、奧を見やるに、燈(ともしび)、かすかに、人のけはひするに、

『さては。行(おこなひ)すましたる世捨人にてあるや。かく、人家はなれたる所にひそみゐたらんは、心も、さぞや、澄み侍(はべ)るらん。』

とおもふより、立寄りて、發心(ほつしん)のいはれをもきこえたく、おとづるゝに、主(あるじ)の僧は、圍爐(ゐろ)の邊(へん)にうづくまりて、念誦し居給ひしが、六郞を見て、「常住の田(でん)荒れて、淸衆(せいしゆ/シユツケ)も、ちりうせてよりは、檀越(だんをつ)の、履(くつ)をいれたる事もなき草庵に、めづらかなる賓客(まらうど)なり。」

と、親しき言葉に、六郞も爐邊(ろへん)に居よりて、木の葉、折りくべて、共に世の興廢などを物語るに、主僧、器(うつはもの)に椎(しひ)をもりて、出(いだ)す。

 六郞、數粒(すうりふ)を食して、味、また世の常ならず。

[やぶちゃん注:「鞍馬」現在の京都市左京区鞍馬本町周辺(グーグル・マップ・データ)。京に冥い私の数少ない好きな所で、二度、訪ね、鞍馬越えもした。

「北山道」鞍馬から貴船口を経て南下して京都市街の「北山通」へ向かう道(グーグル・マップ・データ)。

「圍爐」囲炉裏(いろり)。

「常住の田」寺院の僧侶の斎料(ときりょう:食事)に当てるための田畑。

「淸衆」修行僧。「清浄大海衆」(しょうじょうだいかいしゅう)の略。元は広く出家教団や叢林などに修行する僧衆を指す。インドの四大河の水が海中に入れば、元の川の名を捨てて、全て一味の「大海」の水と呼ばれるように、出家すれば、以前の俗界の姓名から解き放たれて、解脱一味の「清浄」の「衆」となることを指す。

「檀越」檀家。僧は広く非僧の大衆をかく称する。]

 

 暫くありて表に人の聲するに、主僧云く、

「秀才、驚くことなかれ。この所、閑寂なるをもて、山林の隱士、巖下(がんか)の道人(だうにん)、こゝに集りて參話(さんわ)す。秀才も席に列(つらな)りて斷腸(だんちやう)を、あらひたまへ。」

とあるに、六郞、よろこびて待ちゐたるに、程なく入來(いりきた)るを見れば、長(たけ)七尺有餘(あまり[やぶちゃん注:二字へのルビ。])にして僧とも俗とも見えわかぬが、髮・鬚、おどろに亂れ、兩眼、黃にして、霜の眉、たれたるをかかげて、座につくあり。

 或(あるひ[やぶちゃん注:原本のママ。])は、衣の破れたるに肩をあらはし、頭、とがり、耳、ながく、面(おもて)、漆をさしたるごときが、鉢(はち)の子(こ)をさゝげたるあり。

 又は、頭を布(ぬの)やうの物にてつゝみて、身には襤褸(らんる/ツヾレ)をまとひ、形、枯木(こぼく)のごとく、面、するどに、眼(まなこ)は日月のごとくなるもあり。

 異相の者、五、六人、おのおの、主僧に禮をほどこして、座につく。

 六郞、大いに驚き、魂(たましひ)、身につかず、ふるひながらも、末座(ばつざ)に窺ひ居る。

 主僧云く、

「今宵、秀才の來(きた)るあり。われ、これをとゞむ。各位(かくゐ/ミナミナ)とがむることなかれ。」

[やぶちゃん注:「隱士」世を厭うて隠棲する者。

「道人」同前であるが、特に神仙の術を学び行う者。

「鉢(はち)の子(こ)」布施行脚に用いる鉄鉢(てっぱつ)。

「末座(ばつざ)」底本は『まつざ』と振るが、原本に従った。]

 

 座客、みな、諾して、六郞を顧みて笑うて云く、

「秀才を慰めんため、薄術(はくじゆつ)を呈すべし。」

とて、一人、空(そら)に向うて、秘文と覺しく唱ふれば、一聲の霹靂(へきれき)ひらめき、黑雲、庵にみちて、中に小龍ありて、飛動して遂に鐡鉢(てつぱつ/ハチノコ)にとゞまる。

 一人、手を拍(はく/ウツ)すれぱ、大風、樹木を倒し、瓦をとばせて、一陣(いちぢん/ヒトシキ)吹きしきりて、俄(にはか)に雲晴れて、龍(りやう)の所在をしらず。

 六郞、初より、魂、とんで、徧身に汗を流し、面、土のごとし。

 主僧、笑つて、

「無益(むやく)の戯(たはむれ)に賓客(まらうど)を怖れしむることなかれ。」

と制したまへば、座客、席を正(たゞ)して餘事を論ず。

[やぶちゃん注:「空(そら)」底本にルビなく、原本のルビ。しかし、ここは「くう」と読みたいところ。その庵の中の部屋の上の空間である。以下の霹靂も黒雲も小龍もそこに出来(しゅったい)するのであるからである。]

 

 その語るところ、多くは上世(じやうせい/ムカシ)のことにして、當代の事にあらず。

 兎角(とかく)するうち、一人、表の方(かた)を見やりて、大きに驚き、

「荒八郞こそ來りたれ。」

といふほどこそあれ、主僧は、走りて眠藏(めんざう)にかくれ、座客は狼狽して四散す。六郞も、

『こは、そも、かゝるあやしき上に、いかなるものゝきたるやらん。』

と、逃(のが)るゝ路(みち)なければ、床(ゆか)の下にかくれて窺ふに、把火(たいまつ)に路をてらして來(きた)るものあり。

[やぶちゃん注:「眠藏」底本は誤って「眼藏」としている(ここのみ)。原本が正しいので訂した。これは狭義には禅宗に於いて寝室・納戸 (なんど) などの住持の寝間や私室を指す。

「把火(たいまつ)」松明に同じ。]

Tukumogami

[やぶちゃん注:底本挿絵をトリミングし、清拭の後、ズレがあるので、補正を加えて両幅を寄せておいた。]

 

 おそろしとは思へども、ちかづくを、よくよく見れぱ、朋友八郞なり。

 六郞、蘇(よみがへ)りたる心地して、あらましをかたれば、八郞、笑つて云く、

「足下のかへり遲きをいぶかり、迎へになん、まかりたるなり。足下のみるところ、狐狸(こり/キツネタヌキ)のたぐひの妖(えう/バケ)をなすなるべし。さるにても妖怪すら、人間に荒八郞あるをしりて怖るゝこそ本意(ほい)なれ。」

とて、把火(たいまつ)をもちて、席をてらせば、『器に椎をもりたり』と覺えしは、破れたる鐵鉢に鼠糞(そふん/ネズミクソ)、うづたかく滿ちたり。

 圍爐(ゐろ)は護摩壇(ごまだん)のくづれたるにて、別に物なし。眠藏と覺しきを尋ぬるに、古佛(こぶつ/フルボトケ)の支分(しぶん/テアシ)欠損(かけそん)じたるが、一體、たふれたる、あり。

 主僧と見えしは、是なるべし。

「されども、その餘のものこそ訝(いぶか)しけれ。」

とて、くまぐまを尋ねもとむるに、簷(のき)の下なる所に、十六羅漢・仁王などの、或(あるい)は片身(けんしん/カタミ)、あるは手足もかけ損じたるが、五、六體、まろびゐたり。

「必定(ひつじやう)、妖怪は此ものどもの業(わざ)なるべし。『物、千載におよぶときは、必ず妖(よう/バケ)をなす』といふ。あやしむにたらず。」

と、八郞、一所に束縛(そくばく/シバル)して、火をつけて、是を燒きすつ。

 六郞は、神氣(しんき)、いまだ定まらず。

 八郞云く、

「足下(そこ)、平日の文學、胸中(きやうちう[やぶちゃん注:ママ。])萬卷(〔ばん〕ぐわん)の書、今、用ゐるに、いかん。鼠糞に飽くより、外(ほか)、なし。」

と笑ふ。

 六郞、更に言葉なし。

 夜、已に明けたれぱ歸らんとするに、六郞云く、

「かゝる古物を存するをもて見れば、この所一大伽藍(がらん/テラ)の舊趾(きうし/テラノアト)なるべし。斷碑(だんぴ/ワレタルイシブミ)の類(るい[やぶちゃん注:原本のママ。])にても埋(うづも)れあらんも、はかりがたし。いざや、尋ねん。」

とて、八郞もろとも、四面をもとむるに、西南(にしみなみ)の叢(くさむら)の中(なか)に、丈餘[やぶちゃん注:一丈は三・〇三メートル。]の大石(たいせき)、倒れふす。

 苔を拂ひて、よくよく見れば、碑石なり。

「さては。」

とて讀まんとするに、文字も剝落(はくらく)して纔(わづか)に數十字(す〔じふ〕じ)を辨ずべし。

 水をそゝぎ、苔をうがち、からうじて、其大略を見るべきに、八郞に向ひて、

「足下(そこ)、試みに是を讀んで、寺の來歷をしらしむべし。」

といふに、八郞云く、

「前言の報い、早くきたれり。文字の小敵(せうてき)は足下(そつか)にゆづる。」

と笑ふに、六郞、碑文を讀み畢(をは)りて云く、

「寺を莊嚴寺(しやうごんじ)と名づけ、本願上人は智證大師、檀越(だんをつ)は藤原の關雄(せきを)、碑文、菅原淸岡(すがはらきよをか)作なり。關雄は内磨呂(うちまろ)の孫眞夏(まなつ)の息にて、世に東山進士(とうざんしんし)と稱する人なり。淸岡は善主(よしぬし)の叔父にて冨時の宿儒(しゆくじゆ)なり。寺のふるきを知るべし。六百年餘(よ)の古物(こぶつ)存(そん)したるこそ幸(さいはひ)なれ。よしや、殘簡斷碑にもせよ、名儒(めいじゆ)の大作(たいさく)、なんぞ、賞せざらんや。今時〔こんじ〕、杜撰(づさん)の者、みだりに名を貪りて、金石に彫(ゑ)りて、醜(しう/ミニクキ)をあらはし、臭(しう/クサキ)を賣る類(たぐひ)と比せば、玉(たま)と瓦(かはら)とのたぐひにも、あらず。」

と、限りなくよろこぶに、八郞、

「妖(よう/バケモノ)は某(それがし)が武名に伏し、疑(うたがひ)は足下(そこ)の文才に、はれたり。」

と笑ヘば、六郞云く、

「古佛は足下(そこ)の毒手に死し、舊碑は某(それがし)が愛養(あいよう)に生きたり。物の幸・不幸、同じからずといへども、靜(しづか)なるをまもり、辱(はづかしめ)を忍びたる舊碑(きうひ/フルキイシブミ)の德なり。」

とて、うちつれて歸りしが、幾程なく、六郞は、細川賴之、推擧して、義滿公の師範となりて、文名(ぶんめい)世にかくれなく、八郞は、明德の亂に戰功ありて、數箇所(すかしよ)を、あて、行(おこな)はれ、後(のち)には鎌倉にくだりて、上杉叛逆(はんぎゃく)の頃まで、存命して度々(たびたび)の忠戰(ちうせん[やぶちゃん注:ママ。])に家名をおこして、子孫、東國に榮えたりとぞ。

 

 

席上奇観垣根草三之巻終

[やぶちゃん注:「物、千載におよぶときは、必ず妖(よう/バケ)をなす」付喪神(つくもがみ)である。ウィキの「付喪神」によれば(一部の記号を省略・変更した)、『日本に伝わる、長い年月を経た道具などに』『精霊(霊魂)などが宿ったものである。人をたぶらかすとされた。また、「伊勢物語」の古注釈書である「伊勢物語抄」(冷泉家流伊勢抄)』(室町時代の成立。巻末に冷泉為秀など、三人の奥書を持ち、藤原為家自筆本を今川了俊(りょうしゅん)に与えたと伝えるが、疑わしい)『では、「陰陽記」』(おんみょうき)『にある説として百年生きた狐狸などが変化したものを「つくもがみ」としている。現代では九十九神と表記されることもある』。『「つくもがみ」という言葉、ならびに「付喪神」という漢字表記は、室町時代の御伽草子系の絵巻物「付喪神絵巻」に見られるものである。それによると、道具は』百『年という年月を経ると』、『精霊を得て』、『これに変化することが出来るという。「つくも」とは、「百年に一年たらぬ」と同絵巻の詞書きにあることから「九十九」(つくも)のことであるとされ、「伊勢物語」』の第六十三段の『和歌にみられる老女の白髪をあらわした言葉「つくも髪」を受けて「長い時間(九十九年)」を示していると解釈されている』。『「付喪神絵巻」に記された物語は次のようなものである。器物は百年経つと精霊を宿し』、『付喪神となるため、人々は「煤払い」と称して毎年立春前に古道具を路地に捨てていた。廃棄された器物たちが腹を立てて』、『節分の夜に妖怪となり』、『一揆を起こすが、人間や護法童子に懲らしめられ、最終的には仏教に帰依をする』。『物語のなかで語られている「百年で妖怪になる」などの表現は厳密に数字として受け止める必要はなく、人間も草木、動物、道具でさえも古くなるにつれて霊性を獲得し、自ら変化する能力を獲得するに至るということを示しているのであろうと解釈できる』。『「つくもがみ」という存在を直接文中に記している文献資料は、「付喪神絵巻」を除くと、「伊勢物語」の古注釈書に「つくも髪」の和歌の関連事項としてその語句の解釈が引かれる以外には確認されておらず、その用例は詳細には伝来していない。「今昔物語集」などの説話集には器物の精をあつかった話が見られたり』(巻第二十七の「東三條銅精成人形被掘出語第六」(東(ひんがし)三條の銅(あかがね)の精、人の形と成りて掘り出だされたる語(こと)第六)。「やたがらすナビ」のこちらで読める(新字))、『おなじく絵巻物である「化物草紙」では、銚子(ちょうし)などが化けた話、かかしが化けた話などが描かれているが、「つくもがみ」といった表現は見られない。江戸時代の草双紙などにもほとんど「付喪神」という表現は使われていない』。『小松和彦は、器物が化けた妖怪の総称としての「つくも神」は中世に最も流布したものであり、近世には衰退した観念であった。幕末になり』、『浮世絵の題材として器物の妖怪は再浮上したものの、それは「つくも神」の背景にあった信仰とは切り離された表現だった、と考察している』。『付喪神が描かれている「付喪神絵巻」では、物語の冒頭に「陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、化して精霊を得てより、人の心を誑かす、これを付喪神と号すと云へり」とあり、道具が変化することを「付喪神」としている』(但し、「陰陽雑記」(諸本に引用はあるが、これ自体も十六世紀に成立したとされるものの、現在、実物は見当たらない。架空の書である可能性が高いようである)及び先の「伊勢物語抄」に引用されている「陰陽記」という書物の実在は確認されていない)。『本文中、それらの姿は「男女老少の姿」(人間のかたち)「魑魅悪鬼の相」(鬼のかたち)「狐狼野干の形」(動物のかたち)などをとっていると文章には表現され、絵画に描かれている』。『また、変化したのちの姿は「妖物」などと表記されている』。『「付喪神絵巻」よりも先行していると見られる絵巻物にも、道具がモチーフとなっている妖怪を絵画で確認することは出来、「土蜘蛛草紙」』(現存最古とされるものは東京国立博物館蔵で十四世紀の成立)『には、五徳が頭についているものや、手杵に蛇の体と人の腕が』二『本くっついたものや、角盥(つのだらい)に歯が生えそのまま顔になっているものなどが描かれている。また、角盥がモチーフとなったとおぼしい顔は「融通念仏縁起」』(平安後期に融通念仏宗をおこした良忍の事績並びに念仏の功徳について説いた説話を描いた絵巻物。原本となった絵巻物は諸本の下巻奥書にある年号から正和三(一三一四)年成立とみられているが、現存している多くの同種の絵巻物は南北朝から室町にかけて製作されたものである)『や「不動利益縁起絵巻」』(南北朝の十四世紀の成立とされるが、絵の筆致などは鎌倉末期に遡るものと言われる)『に描かれている疫神にほぼ同様のかたちのものが描かれている。ただし、いずれも道具だけではなく、動物や鬼のかたちをしたものと混成している。これは「付喪神絵巻」や』、室町時代の作者不詳の『「百鬼夜行絵巻」などにも見られる特徴である』。『室町時代の作例であるとされる』、『現存品も確認されている「百鬼夜行絵巻」は、道具の妖怪と見られるものが多く描かれている。現在では』、『これら道具の妖怪たちは「付喪神を描いたもの」であると考えられてもいる。また、もともと「百鬼夜行絵巻」に描かれている行列の様子は「付喪神絵巻」に見られる妖物たち(年を経た古物)の祭礼行列の箇所を描いたものではないかとも考察されている』。『道具を人格のある存在としてあつかっている作品には、他に「調度歌合」(ちょうどうたあわせ)という』、『道具たちが歌合せをおこなうという形式をとったものも室町時代以前に存在しており、「付喪神絵巻」などで道具が変化』(へんげ)『する対象としてあつかわれている』の『と近い発想であるとも考えられる』とある。

「神氣」正常な精神状態。

「莊嚴寺」鞍馬への北山道付近には、この寺名・旧跡を認めることは出来ない。

「本願上人」開山僧。

「智證大師」(弘仁五(八一四)年~寛平三(八九一)年)平安前期の僧。延暦寺第五世座主。天台宗寺門派の祖。俗姓和気氏。母は空海の姪。十五歳で叡山に登り、座主義真に師事。二十歳で官試に及第し、菩薩戒を受けた。以後、十二年間、籠山修行し、仁寿元 (八五一)年、内供奉十禅師。同三年に入唐し、以後五年の間、中国各地で顕密両教などを学んで、天安二(八五八)年に帰国、四百四十一部一千巻の経疏を伝えた。叡山山王院に住し、園城寺を再興、貞観五(八六三)年、同寺に灌頂壇を設け、同八年には園城寺別当(長吏)となった。同十年以後、実に二十三年の間、天台座主を務めた。元慶七(八八三)年、法眼和尚位、寛平二(八九〇)年、少僧都となる。円珍以後、第九世長意を除き、第十三世尊意に至る七代の座主は、悉く円珍の門下から出た。没後の延長五(九二七)年、智証大師を追諡(ついし)。著作に「伝教大師略伝」他がある名僧(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「檀越」ここでは開基に相当する。

「藤原の關雄」(延暦二四(八〇五)年~仁寿三(八五三)年)平安前期を代表する文人。左大臣藤原冬嗣の兄で、参議の藤原真夏(右大臣藤原内麻呂の長男)の第五子。天長二(八二五)年春、文章生試に合格したが、「閑退を好み、常に東山の旧居に在りて、林泉を耽愛」し出仕せず、「東山進士」と呼ばれた(「文徳実録」)。淳和上皇はその人となりに感じて、再三、要請し、優礼を以って近臣に迎えている。淳和から琴の秘譜を賜る一方、その求めに応じて南池院・雲林院(孰れも淳和ゆかりの離宮)の壁に文字を書いた。和歌にも秀で、この期に於ける和歌復興の機運を盛り上げた一人である。詩歌は「経国集」や「古今和歌集」に収められている。彼の東山の旧居は「見返り阿弥陀如来」で知られる禅林寺(通称永観堂)となっている(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。因みに「見返り阿弥陀如来」は私の好きな仏像の一つである。

「菅原淸岡」平安初期の公卿で文人であった、菅原古人の四男、左京大夫菅原清公(きよきみ/きよとも)の弟というぐらいしか判らぬ。今に漢詩が残る。

「善主」菅原善主(延暦二二(八〇三)年~仁寿二(八五二)年)は平安前期の官人。清公の三男で、道真の叔父に当たる。容儀美しく、弁才があったとされ、天長二(八二五)年、文章生試に及第、その後、弾正少忠となった。承和元(八三四)年、藤原常嗣が遣唐大使に任ぜられた際、判官に任命され、親子二代(父清公も判官として入唐)が起用されたことになる。同三年七月に出発したが、渡海は困難を極め、三度目にして、漸く実現した。これが事実上、最後の遣唐使派遣となった。同六年八月に帰国、翌九月には、その功で従五位下に昇進、その後、伊勢介・主税頭などを歴任、仁寿二(八五二)年六月には勘解由次官となったが、その五ヶ月後に病没した。

「宿儒」年功を積んだ儒者のこと。

「愛養」慈しみ、大切に保護すること。

「明德の亂」元中八/明徳二(一三九一)年十二月に起きた山名氏清・満幸の反乱。室町幕府第三代将軍足利義満は、当時、十一ヶ国の守護を兼ねて勢力を誇っていた山名氏を押えるため、山名氏一族の内紛に乗じて、満幸を丹波に追放したが、満幸は妻の父氏清と結び、山陰の兵を率いて挙兵、氏清も和泉から京に迫った。義満は細川・畠山・大内氏の軍勢を動員してこれに応戦、満幸は伯耆に逃れ、氏清は戦死して反乱は鎮圧された。この乱により、山名氏の守護大名としての勢力は減退した(以上は「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「上杉叛逆」応永二三(一四一六)年に前(さき)の関東管領上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方足利持氏に対して起した「上杉禅秀の乱」であろう。]

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