北原白秋 邪宗門 正規表現版 鉛の室
鉛 の 室
いんきは赤し。――さいへ、見よ、室(むろ)の腐蝕(ふしよく)に
うちにじみ倦(うん)じつつゆくわがおもひ、
暮春(ぼしゆん)の午後(ごご)をそこはかと朱(しゆ)をば引(ひ)けども。
油じむ末黑(すぐろ)の文字(もじ)のいくつらね
悲しともなく誦(ず)しゆけど、響(ひび)らぐ聲(こゑ)は
鏽(さ)びてゆく鉛(なまり)の悔(くやみ)、しかすがに、
强(つよ)き薰(くゆり)のなやましさ、鉛(なまり)の室(むろ)は
くわとばかり火酒(ウオツカ)のごとき噎(むせ)びして
壁の濕潤(しめり)を玻璃(はり)に蒸す光の痛(いた)さ。
力(ちから)なき活字(くわつじ)ひろひの淫(たは)れ歌(うた)、
病(や)める機械(きかい)の羽(は)たたきにあるは沁み來(こ)し
新(あた)らしき紙の刷(す)られの香(か)も消(き)ゆる。
いんきや盡きむ。――はやもわがこころのそこに
聽くはただ饐(す)えに饐(す)えゆく匂(にほひ)のみ、――
はた、滓(をり)よどむ壺(つぼ)を見よ。つとこそ一人(ひとり)、
手を棚(たな)へ延(の)すより早く、とくとくと、
赤き硝子(がらす)のいんき罎(びん)傾(かた)むけそそぐ
一刹那(いつせつな)、壺(つぼ)にあふるる火のゆらぎ。
さと燃(も)えあがる間(ま)こそあれ、飜(かへ)ると見れば
手に平(ひら)む吸取紙(すひとりがみ)の骸色(かばねいろ)
爛(ただ)れぬ――あなや、血はしと、と卓(しよく)に滴(したた)る。
四十年九月
[やぶちゃん注:「卓(しよく)」は現代仮名遣「しょく」で、これは唐音。かく読んだ場合、狭義には仏前に置いて香華を供える机を指し、これは茶の湯にも用いる。広義には食卓で、私はここは後者の「テーブル」でよいと考えている。]
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