北原白秋 邪宗門 正規表現版 といき
と い き
大空(おほそら)に落日(いりひ)ただよひ、
旅しつつ燃えゆく黃雲(きぐも)。
そのしたの伽藍(がらん)の甍(いらか)
半(なかば)黃(ぎ)になかばほのかに、
薄闇(うすやみ)に蠟(らふ)の火にほひ、
圓柱(まろはしら)またく暮れたる。
ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、
敷石(しきいし)の闇にはひとり
盲(めしひ)の子ひたと膝つけ、
ほのかにも尺八(しやくはち)吹(ふ)ける、
あはれ、その追分(おひわけ)のふし。
四十年十二月
[やぶちゃん注:底本には二箇所の難しい点がある。
まず、第一連の「黃」であるが、底本は明らかに「き」ではなく、「ぎ」と振ってある。現行のものは、総て「き」であるが、後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)でも、明らかに「ぎ」と振っている。「浅黄」などで判る通り、本字は正規の音ではないが、慣用読みで「ぎ」が存在する以上、ここは「き」とする。
次に、二連構成という点にある。実は底本の初版本では、この一篇は見開きに印刷されてあり、「ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、」以下が左ページに配されてある。ところが、他の詩篇の各ページの開始位置を見ても、この前に一行分を開けている事実は組版上では認められない。前の「圓柱(まろはしら)またく暮れたる。」は版組の最終行であり、「ほのめくは鳩の白羽(しらは)か、」は版組の第一行相当なのである。されば、素直に版組を正規としてとるならば、この詩篇を一連構成として採ることは極く尋常な読みではある(私は如何なる詩集でもこの検証をして、行空けの有無を確認して読んでいるからである)。しかし、詩想から言えば、ここはやはり切れていると採るのが自然ではあるし、先に示したアルス版を見ると、悩ましいのだが、そこでも改ページとなっているものの(ここ)、右下方のノンブルとの間に他のページと比して、明らかに一行分の空けが施されていることが判る。されば、ここは現行の諸詩集と同様に一行空けて、二連構成と採った。これは本詩集でこの篇の前後には、十一行に及ぶ連を作らない一篇完結の詩篇が見当たらないからでもある。但し、後の「天草雅歌」には八篇出現し、その後にも「紅玉」・「大寺」・「ひらめき」・「凋落」の四篇がある(孰れも十一行以上で、字下げなどもないもののみを数えた)ことは言い添えておく。則ち、絶対的にここに一行空けが「ある」として、これを問題にしないことは、本詩の原稿に当たらない限りは、あり得ないということである。但し、白秋は、本詩集では、改ページを強く意識して、詩篇の開始位置をズラしている事実もある。例えば、次の「黑船」が最たるもので、これは「九二」ページの見開きで始まるが、標題「黑船」のみが「九二」ページの最終行から一行後相当の位置にあって、最終行は空け、則ち、標題の「黑船」だけでその前の「九二」ページの部分は真っ白なのである。次の「黑船」の頭にその画像は掲げる。ただ、意地悪く言わせて貰えば、そうした詩人は多かっただろう。しかし、ページ数が有意に増大すれば、金がかかる。白秋は父の金でこの贅沢な詩集を刊行した。誤植まみれの宮澤賢治の詩集「心象スケツチ 春と修羅」(リンク先は私の正規表現注釈版。ああっ! そこでは扉の標題のそれからして『心象スツチケ』なのだ!)を考える時、私は何か悶々とした思いに驅られるのである。]