北原白秋 邪宗門 正規表現版 序樂
序 樂
ひと日、わが想(おもひ)の室(むろ)の日もゆふべ、
光、もののね、色、にほひ―― 聲なき沈默(しじま)
徐(おもむろ)にとりあつめたる室(むろ)の内(うち)、いとおもむろに、
薄暮(くれがた)のタンホイゼルの譜(ふ)のしるし
ながめて人はゆめのごとほのかにならぶ。
壁はみな鈍(にぶ)き愁(うれひ)ゆなりいでし
象(ざう)の香(か)の色まろらかに想(おもひ)鎖(さ)しぬれ、
その隅に瞳の色の窓ひとつ、玻璃(はり)の遠見(とほみ)に
冷(ひ)えはてしこの世のほかの夢の空
かはたれどきの薄明(うすあかり)ほのかにうつる。
あはれ、見よ、そのかみの苦惱(なやみ)むなしく
壁はいたみ、圓柱(まろはしら)熔(とろ)けくづれて
朽(く)ちはてし熔岩(ラヴア)に埋(うも)るるポンペイを、わが幻(まぼろし)を。
ひとびとはいましゆるかに絃(いと)の弓、
はた、もろもろの調樂(てうがく)の器(うつは)をぞ執る。
暗みゆく室内(むろぬち)よ、暗みゆきつつ
想(おもひ)の沈默(しじま)重たげに音(おと)なく沈み、
そことなき月かげのほの淡(あは)くさし入るなべに、
はじめまづ井゙オロンのひとすすりなき、
鈍色(にびいろ)長き衣(ころも)みな瞳をつぶる。
燃えそむるヴヱス井゙アス、空のあなたに
色新(あたら)しき紅(くれなゐ)の火ぞ噴(ふ)きのぼる。
廢(すた)れたる夢の古墟(ふるつか)、さとあかる我(わが)室(むろ)の内、
ひとときに渦卷(うづま)きかへす序(じよ)のしらべ
管絃樂部(オオケストラ)のうめきより夜(よ)には入りぬる。
四十一年二月
[やぶちゃん注:第一連二行目のダッシュの後の字空けは見た目のママ。
「タンホイゼル」「楽劇王」の異名を持つヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー(Wilhelm Richard Wagner 一八一三年~一八八三年)が作曲した、全三幕構成のオペラ「タンホイザーとヴァルトブルクの歌合戦」(Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg)の略称。一八四五年十月ドレスデン宮廷歌劇場。詳しくはウィキの「タンホイザー」を参照されたい。因みに、私はヴァルトブルク城に泊まったことがある。
「熔岩(ラヴア)」lava。英語。この語の語源はまさに「ポンペイ」と関わる。イタリア語で「濁流」の意で、紀元後七九年にヴェスヴィオ火山(イタリア語:Il monte Vesuvio:イタリア・カンパニア州にある火山。ナポリから東へ約九キロメートルのナポリ湾岸にある)が噴火した際に、その溶岩流を「lava」と呼んだことに基づくからである。
「ポンペイ」ラテン語で「Pompeii」、イタリア語で「Pompei」。イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市。私は二度、行った。]
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