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2020/10/13

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之二 覺明義仲を辭して石山に隱るゝ事 / 巻之二~了

 

     覺明(かくめい)義仲(よしなか)を辭して石山に隱るゝ事

 

Kakumeiyosinaka



[やぶちゃん注:底本画像をトリミングし、清拭した。]

 後白河院の寵臣少納言通憲(みちのり)入道信西(しんぜい)ときこえしは、實範(さねのり)の曾孫實兼(さねかね)の息にて、藤氏南家(とうしなんけ)の儒流(じゆりう)にして、資性、聰明、類(たぐひ)なく、古今の治亂に達し、詩文の道、また、時流にこえて、時の人も其廣才に服しぬ。されども高階氏(たかしなうぢ)に養はるゝを以て、儒官に昇らず、久しく登庸(とうよう/アゲモチヰ)せられざりしが、その母、かつて後白河院の乳媼(にうおん/オチヽノヒト)なるを以て、帝、即位のはじめより親近せられて、寵遇、ならぶ者なし。後、薙髮して通憲の名を信西とあらため、專ら、朝政を執りて、威、福手にあり。遂に信賴(のぶより)等と權を爭ふより、「平治の亂」、いで來り、平(へい)相國(しやうこく)淸盛、また、信西、常に法皇に親近して平氏の短(たん)をそしることを憤りて、遂に戮死(りくし)せらる。

 その一門、ちりぢりになりし中に、妾腹(せうふく)に八重丸(やへまる)とて、四歲になりけるを、乳母(うば)、懷きて木津(きづ)の邊(へん)に居たりしが、やがて南都興福寺の衆徒のうちに親しきありて、寺に送りて弟子の兒〔ちご〕とするに、父の風ありて、才智、他の兒(ちご)に十倍し、一目(ひとめ)に十行を讀下(よみくだ)すの聰明にして、わづか一年ならざるうち、經論の要文(えうもん)など、ことごとく覺えをはりしかば、後には、

「南京(なんけい)の傳燈、この兒にあるべし。」

と、いひはやしけり。

 或る時、乳母なる者、寺に來りて、兒の成長したりしを悅んで、ひそかにかたるやう、

「父入道殿は、常々、平氏の跋扈(ばつこ/フミハダカル)を憤りて、其權(けん)を奪はんとして、却つて禍(わざはひ)をとり給ヘり。君は庶子(しよし/メカケバラ)のことなれば、早く出家して、父君の菩提を、いのり給へ。」

と、淚ながらに、こまごまと語るを聞きて、驚きて云く、

「など、けふまでは委しき事をもきこえざりし。」

といふに、

「さればとよ、相國の怒(いかり)、つよき事、皆人(みな〔ひと〕)の知る所なれば、いかなる禍のはしともなりやせんと、深くつゝみて、この寺の阿闍梨(あじやり)をも、すかし參らせて、『われ、知りたる人の子なり』と申し置き侍(はんべ)り。あなかしこ、この事、人にしらせたまふな。」

と制するに、兒、うちうなづきてありしが、是より、日夜に、父の罪なくして死したりしを憤り、平氏を亡(ほろぼ)して怨(うらみ)を報ぜんとおもふ心、おこりぬ。

 九歲の春になりしかば、師の阿闍梨、剃度(ていど/カミヲソリ)して、太夫坊覺明(だぶばうかくめい)とぞ呼びける。剃度は師命といひ、年頃、扶助の恩あれば、いなむ所なし。

『報讐(はうしう/カタキヲウツ)の志(こゝろざし)はおもひとゞまるべきにあらず。』

と、よりより、武事(ぶじ)を學びたりしに、さいはひ、三輪のほとりに橘知晴(たちばなともはる)とて、軍事に達したる隱士ありしを、師とたのみ、明暮(あけくれ)、兵書に心をゆだね、餘事をかへりみず。その頃までは南都北嶺(ほくれい/エイザン)の衆徒、やゝもすれば、合戰におよぶ時なれば、師の阿闍梨も、

『釋門(しやくもん)の禦侮(ぎよくわい/マモリ)、法王の干城(かんせい/タテシロ)ともなれかし。』

と、見ゆるしたまひぬ。もとより聰明の質(しつ)なるに、憤(いきどをり[やぶちゃん注:原本のママ。])を發して學びしかば、五、三年のうちに、兵家の大要、天文運氣の術まで、殘ることなく學び得て、十九歲の秋の頃より、

「行脚。」

と披露して南都を離れ、今の都に登りて、こゝかしこにひそみ居て、

『折もあらば、平相國(へいしやうこく)を剌して、父の怨を報ぜん。』

と伺ひども、相國、出づるときは、前驅(ぜんぐ)、路を拂ひ、入るに侍衞(ぢえい[やぶちゃん注:ママ。])、雲のごとくわきて、「源氏の一族、怨を含む」としりて、其備嚴(そなへおごそか/ヨウジン)なれば、素意(そい/ノゾミ)を達することなく、明し暮すうち、治承の春、北野參籠ときこゆるに、とくより、弓矢を隱しもちて、森の木蔭に窺ふに、さいはひ、下向は暮におよびたるに、

「是ぞ、相國の車よ。」

と放つ矢、春の夜の朦朧(おぼろ)なるに、見そんじて、隨身の侍の袖をつらぬくに、

「すはや、狼籍者よ。」

と騷動するに、

「さては、射損じたり。」

と跡を晦(くらま)して北山にかくれて、動靜(どうせい/ヤウス)を伺ふに、六波羅よりは、處々に屬托(ぞくたく/ハウビ)の札〔ふだ〕を以て、追捕(つゐほ/オヒトラヘ)、嚴重たれば、近國には身をいるゝ所なく、北國をさして、落延(をちの[やぶちゃん注:原本のママ。])びける。

[やぶちゃん注:本篇は源平の戦いから鎌倉初期が舞台で、郷土研究としての鎌倉史を趣味とする私自身は、ここに出てくる誰にもについて、よく判っている。されば、人名等については主人公及び必要最小限の対象にしか注を附さない。そもそもが、今朝から始めて、珍しく、本文全篇を躓くことなく五時間余りで一気に電子化し得たのも(私は今までは一つの部分シーンごとに本文を電子化し、そこで切っては注を附してきた)、心中のスクリーンに鮮やかに総ての映像が動いていたからに他ならない。

「覺明」大夫坊覚明(たゆうぼうかくみょう/かくめい 保延六(一一四〇)年以前?~元久二(一二〇五)年以後)は信救得業(しんぎゅうとくごう)とも称した。元は藤原氏の中・下級貴族の出身と見られる。木曽義仲(久寿元(一一五四)年~寿永三年一月二十日(一一八四年三月四日):享年三十一)の右筆で、寿永二年五月十一日、現在の埴生護国八幡宮(富山県小矢部市埴生にある埴生護国八幡宮(グーグル・マップ・データ)。現在、馬上の人物像としては日本最大級の源義仲騎馬像が建立されてある。これ(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの同義仲騎馬像の画像)。八幡神は源氏の氏神である)を義仲が偶然に見出し、義仲が戦勝祈願をした際にその願書を書いており、それは現在も八幡宮に残っている。彼については個人サイト「事象の地平」のこちらに非常に詳しい。また、この倶利伽羅合戦のプレの部分は私の「三州奇談卷之五 倶利伽羅」でも注で詳しく記してある。さらに、ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」で、芥川龍之介の「義仲論」(正字正仮名正規表現版 藪野直史全注釈(三章分割版)「一 平氏政府」「二 革命軍」「三 最後」にも彼のことが出てくるので参照されたい。彼については海野幸長(海野氏は信濃国の名族滋野氏の嫡流とされる)と同一説、また、法然門下の僧西仏(さいぶつ)と同一人物とする説があり、講談社「日本人名大辞典」では三者総てを同一人物として記しているが、これらは孰れも私には信じ難い。

「石山」滋賀県大津市にある真言宗石光山(せっこうざん)石山寺(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「石山寺」によれば、現在の本堂は永長元(一〇九六)年の再建になり、東大門・多宝塔は鎌倉初期に『源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している』とあるから、最後のシークエンスは現在の境内をそのままにロケーション出来る。

「高階氏」藤原通憲(信西)(嘉承元(一一〇六)年~平治元(一一六〇)年一月二十三日)は曽祖父藤原実範以来、代々、学者(儒官)の家系として知られ、祖父の藤原季綱は大学頭であった。ところが、天永三(一一一二)年父実兼が二十八歳の若さで、蔵人所にて急死したため、当時、僅か七歳であった通憲は縁戚であった高階経敏の養子となった。参照したウィキの「信西」によれば、『高階氏は院近臣・摂関家の家司として活動し、諸国の受領を歴任するなど経済的にも裕福だった。通憲は高階氏の庇護の下で学業に励み、父祖譲りの才幹を磨き上げてい』き、保安二(一一二一)年『頃には、高階重仲(養父・経敏とははとこの関係)の女を妻としている』。『通憲は鳥羽上皇第一の寵臣である藤原家成と同年代で親しい関係にあり、家成を介して平忠盛・清盛父子とも交流があったとされる』とある。

「信西、常に法皇に親近して平氏の短(たん)をそしることを憤りて、遼に戮死(りくし)せらる」誤りウィキの「信西」によれば、「保元の乱」後、政治中枢にあって力を持っていた『信西は自分の息子たちを要職に就けた』が、『そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方』、保元三(一一五八)年八月には『鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇が即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院』(藤原得子(とくし/なりこ 永久五(一一一七)年~永暦元(一一六〇)年:鳥羽天皇皇后)『と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった』。『やがて院政派の藤原信頼、親政派の大炊御門』(おおいのみかど)『経宗、葉室惟方らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出すことにな』り、『信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた』。平治元(一一五九)年十二月、『清盛が熊野詣に出かけ』、『都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する』。『信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、郎党を尋問した追手に発見された。掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。享年』五十五。『掘り起こした時には、目が動き』、『息もしていたという』。『追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた』。『また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された』とある。

「その一門、ちりぢりになりし中に、妾腹(せうふく)に八重丸(やへまる)とて、四歲になりける」筆者は、則ち、この信西の庶子が、後の覚明であるとするのであるが、そのような説は、少なくとも私は聴いたことがない。思うに、案外、僧時代の覚明の法号が信救(しんぎょう)であったことからの思いつきかも知れない。また、覚明は若き日、勧学院(藤原氏が運営した儒学大学)に在籍していた頃、奈良興福寺(藤原氏の氏寺)に頼まれ、三井寺からの「以仁王挙兵の檄文」に対する返牒に「太政入道淨海は平家之糟糠、武家之塵芥」と書き(本篇では時制をズラして、挙兵した木曾義仲の八幡神への願文として登場する)、それが平氏の手に渡ってしまって清盛の逆鱗に触れ、追手から逃れるために、漆をかぶって姿を変え、逃走したことが知られており、源平争乱前後の有名人を手っ取り早く繋げることで、オール・スター・キャストにしようと欲張ったのかも知れない。

「木津」現在の木津川市付近か(グーグル・マップ・データ)。

「南都興福寺」ここ(グーグル・マップ・データ)。

「南京(なんけい)」南都に同じ。

「三輪」三輪山(グーグル・マップ・データ)。

「橘知晴(たちばなともはる)」不詳。

「釋門(しやくもん)」仏教。

「禦侮(ぎよくわい/マモリ)」これは通常、「ぎよぶ(ぎょぶ)」と読む。ここは外敵を防ぐことの意。

「法王」神聖なる仏法の正法(しょうぼう)の絶対の力を王に喩えたもの。

「干城(かんせい/タテシロ)」これも通常、「かんじやう(かんじょう)」と読む。国家を防ぎ守る武士や僧兵。「干」は「盾」の意。「詩経」の「周南」にある「兎罝(としゃ)」が原拠。AKY氏のサイト「暁楽詩集」のこちらで全篇の原文・訓読文・訳が読める。

ともなれかし。』

「治承の春」治承元年は一一七七年であるが、細かいことを言えば、まだ、安元三年。この年の八月四日(ユリウス暦一一七七年八月二十九日に治承に改元された。但し、改元された場合、元日まで戻って呼称されるのが普通で、ここもそれでよい。

「北野」北野天満宮(グーグル・マップ・データ)。

「六波羅」ウィキの「六波羅」によれば、『京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される』。天暦五(九五一)年、『空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれるようになったという』。『この地は洛中から京都の住民の葬地であった鳥辺野に入る際の入口にあたる事から、この他にも六道珍皇寺など沢山の寺院が建てられ、信仰の地として栄えた』。『院政期には平正盛が一族のために供養堂を建立し、その子忠盛が「六波羅館」を置き、ここを武家(軍事貴族)の拠点とする。正盛父子の伊勢平氏は、伊勢国を本拠としており、京都から伊勢や東国方面への街道が近くにある六波羅が拠点として選ばれた、六波羅流、六波羅家、六波羅氏と称したことが考えられている。平清盛の時代に平氏政権の中心となるが、後に清盛は洛中に「西八条邸」を造営して政治の拠点を移した。しかし』、『平氏一門の軍事力の拠点は引き続き』、『六波羅館に残った』。寿永二(一一八三)年の『平氏の都落ちの際、六波羅館は焼失した』。『平氏の都落ち後、六波羅の地は源頼朝に与えられ、京都守護となった北条時政が京都守護の庁舎を置き(後、一族で甥の北条時定が駐留する)、頼朝や御家人の宿舎が築かれた』。承久三(一二二一)年、「承久の乱」後の『朝廷へ対しての処理として、六波羅探題が置かれた』。

「屬托(ぞくたく/ハウビ)」通常、「しよくたく(しょくたく)」と読む。嘱託・委嘱に同じ。仕事を頼んで任せること。

「札〔ふだ〕」指名手配書。通報者には褒美が与えられたから、前の「ハウビ」が附されてある。]

 

 兎角するうち、其年暮れて、明くれば治承二年の春、客星(かくせい/ハウキボシ)あらはれ、その上、

「洛中、さまざまの怪異(けい)あり。」

と風聞するに、覺明、もとより天文に達したれば、ひそかにこれを考ふるに、

「兵亂の兆(きざし)、國家の凶變、ちかきにあり。」

と知りて、

『さらば、其虛に乘じて、報讐の志を達せん。』

と思ひめぐらすに、その頃、

「木曾の冠者義仲、密々(みつみつ)、義兵の催しあり。」

と、きこえければ、

「彼(か)の人をすゝめて、急に軍(いくさ)をおこさせばや。」

と義仲の館(たち)に行きて、相見(しやうけん/タイメン)を求むるに、義仲云く、

「貴僧、何の敎へるところありて、遠く來〔きた〕るや。」

覺明、進んで云く、

「某(それがし)、一言(いちごん)をのべんため、はるばる、こゝに來〔きた〕る。そもそも、平氏の殘暴(ざんぼう)、天人〔てんにん〕の惡(にく)むところ、中にも法皇(ほふわう)を離宮に幽閉(ゆうへい/オシコメル)し奉る、古今例(ためし)なき不臣の至り。公卿(こうけい)、齒を切るといへども、力たらずして徒(いたづら)に其毒手(どくしゆ)を忍び、諸源(しよげん)、また、勢〔いきおひ〕、微(び)にして、むなしく自滅を待つの外なし。たまたま、平治に端をひらきしかど、却つて、百亂(〔ひやく〕らん)、階(かい)を生じて、その欲をみたしむ。しかるに、相國、位(くらゐ)、人臣をきはめ、一門、みな、榮達して、凡そ天下を三分して、その二つは平氏の領國となる。物、盈(み)つるときは必ず、缺(か)く。晝夜消息の理〔り〕なり。今春よりの天變、正(まさ)しく兵亂の兆(きざし)にて、不日に、大變、生ずべし。さきだつ時は人を制す。この時を虛(むな)しうせずして大事を起さん人こそ、誠に豪傑といふべし。君は正(まさ)しく源氏の嫡流、諸國離散のものも、常に意を寄せ參らす。今、大義を擧げて、上天子の爲に賊(ぞく/テフテキ)を討(とう)し、下(しも)、父祖の爲に讐(あだ)を報ず、とのたまはゞ、白旗(しらはた)、一度(ひとたび)閃(ひらめ)きて、群雄、雲のごとくに集らん。この時節をむなしうせば、長く人の下に屈したまはん。賢慮を決し給へ。」

と、席を打つてすゝむるに、義仲も席を前(すゝ)めて、

「誠に公論といふべし。われ、當らずといへども、指揮(しき/サシヅ)にしたがはん。されども、内府重盛、よく衆心(しゆしん)を得て、一門の柱礎(ちうそ/イシヅヱ)たり。われ、これを憚る。」

とあれば、覺明云く、

「重盛一人の德、一門の暴(ばう/アクジ)を掩(をふ[やぶちゃん注:原本のママ。])ふにたらず。一杯の水、一車(いつしや)の薪(たきゞ)の火を消(せう/ケス)すること、あたはず。況や、重盛、夭折(よえうしやく[やぶちゃん注:ママ。]/ワカジニ)の相にして、その死せんこと、來秋を過(すご)すべからず。君、はやく、事を圖り給へ。」

といふに、義仲、大いに悅び、

「われ、久しく大義に志ありといへども、然るべき謀士(ぼうし)を得ざる事を愁(うれひ)とせしに、さいはひに、天、貴僧をあたふ。わがために子房・諸葛(しばう・しよかつ/チヤウリヤウ。コウメイ)なり。」

とて、別館(べつかん/キヤクヤ)を拂(はら/サウジ)うて、重く用ゐられたり。

 翌日、義仲、かさねて問うて云く、

「われ、多年、この所に蟄居(ちつきよ/ヒソミ)して、徒(いたづら)に囘天の氣を呑む。いづれの國ヘうち出でてか、敵の動靜(どうじやう[やぶちゃん注:ママ。])、民の向背(こうはい)をも窺ふべきや。」

覺明云く、

「君、北陸(ほくろく[やぶちゃん注:ママ。])の僻境(へききやう)に蟄居したまひしこそ幸なれ。地、邊境なるゆゑ、進んで敵を攻むるに後患(こうげん)なく、退(しりぞ)いて嶮(けん)を守らば、枕を高うして安心すべし。この所を巢穴(さうけつ)として勢(いきほひ)を張らば、加賀・越前の諸士は招かずして應ずべし。信濃・越後は已に同志の人、過半なれば、先づ兵勢(へいせい)を張りて、其機(き)を露(あらは)し給へ。四方の國國、震(ふる)ひおそれんこと、掌(たなごころ)を指(さ)すがごとし。一度(〔いちど〕〕、六波羅の討手(うつて)を引寄せ、地埋にうとき弱卒(じやくそつ/ヨワモノ[やぶちゃん注:ママ、])、嶮岨(けんそ)になれぬ京勢(きやうぜい)、手始(てはじめ)の軍(いくさ)に打勝つものならば、その勢に乘じて長驅して攻(せめ)登らんに、誰(たれ)か遮(さへぎ)る者の侍(はんべ)るべき。況や、近江に佐々木の一族ありて、多年、回復をまつなれば、力をあはせんこと、必然なり。一鼓(いつこ)して都を襲はゞ、聞怖(きゝおぢ)する京童(きやうわらべ)、「すはや、敵よ、合戰よ」と、騷動せば、いとゞ武にうとき公家原(くげばら)、動亂して、平氏、内〔うち〕を治むるに暇(いとま)なく、外を防ぐに術(じゆつ)なからん。累年(るゐねん)の欝(うつ)を聞かんこと、只、一擧にあり。」

と激(げき/ハゲマス)するにぞ、

「さらば。」

とて、近國に潜みゐる源氏の一黨に牒〔てふ〕じ合せ、簱(はた)を揚ぐると、ひとしく、馳集(はせあつま)る勢(せい)、五百騎にあまる。

「小勢(〔こ〕ぜい)なりといへども、蟄(ちつ)を啓(ひら)いて雲を慕ふ龍蛇の勢、敵の十萬にも敵(てき)すべし。」

と、すなはち一通の願書を認(したゝ)めて、八幡宮に納めて、おのおの、義を結ぶ。その願文(ぐわんもん)、覺明、執筆にて、

「平相國は武家糟糠(さうかう/カスヌカ)、王法の怨敵(おんてき/アダガタキ)」

など書きたりしを、後に淸盛、傳ヘきゝて、

「この法師を六條川原に梟首(けうしゆ/ゴクモン)せずば、死すとも瞑目(めいもく/メヲフサガジ)せじ。」

とぞ憤られしとぞ。

[やぶちゃん注:「治承二年の春、客星(かくせい/ハウキボシ)あらはれ」「平家物語」巻第三「傳法灌頂」のほぼ冒頭部分、治承二年正月一日に後白河院の法住寺御所での拝礼の記事に続いて、

   *

正月七日、「彗星、東方に出づる」とも申す。また、「赤氣(しやくき)」とも申す。

   *

とある。

「殘暴(ざんぼう)」残虐なる乱暴狼藉。

「齒を切る」「臍を噛む」や「歯ぎしりをする」に同じ。激しく悔しがるさま。

「忍び」耐え。我慢をし。

「諸源(しよげん)」見かけぬ熟語であるが、孰れもその内の元が持つところの活力を指すようである。

「平治」「平治の乱」。平治元年十二月九日(ユリウス暦一一六〇年一月十九日から永暦元年三月十一日(一一六〇年四月十九日)。平治は保元四年四月二十日(一一五九年五月九日) 二条天皇の即位により改元したが、翌平治二年一月十日(一一六〇年二月十八日)には永暦に改元してしまい、事実上は九ヶ月余りしかなかった。

「却つて、百亂(〔ひやく〕らん)、階(かい)を生じて」「平治」という元号とは裏腹に、かえって数えきれない混乱・糜爛が、何層にも積み重なって生じてしまい。

「不日に」副詞。日ならずして。近いうちに。

「さきだつ時は人を制す」人が何かをする前に先だって異変が生ずれば、最早、人がその邪悪な現象の展開をどうこうすることは出来なくなる。

「公論」公平にして偏りのない正論。

「われ、當らずといへども」義仲の謙遜の辞。

「掩(をふ)ふにたらず」平家の悪しき部分を抑止するには、到底、足らない。

「謀士(ぼうし)」策士。

「子房」漢を建国する劉邦の部下で軍略家として活躍した張良の字(あざな)。

「諸葛」三国時代の蜀漢の丞相。字は孔明。劉備に仕え、「赤壁の戦い」で魏の曹操を破ったことでよく知られる。

「後患(こうげん)」通常は、「こうかん」でよい。但し、「ゲン」の音もある。また、一般には、「後日の憂い・後になって起こる煩わしい事柄」の意であるが、ここは文字通りで、後方から攻撃を受ける危険性を指している。

「嶮(けん)を守らば」屹立する断崖のような山間の山寨(さんさい)を自身の守りの城となされば。

「兵勢を張りて」軍勢を、取り敢えず、張り動かして。

「機(き)」平家討伐をするという無言の挙動・威勢。

「掌(たなごころ)を指(さ)すがごとし」、掌(てのひら)の上にあるものを指差して説明するように、物事が極めて明白に起こることのたとえ。

「近江に佐々木の一族あり」ウィキの「佐々木氏」を引く。その元は宇多天皇の第八皇子敦実(あつみ)親王の流れを汲む宇多源氏であった源成頼の孫佐々木経方を祖とする一族である。『近江国蒲生郡佐々木荘を発祥に、軍事貴族として繁栄した。後に源平合戦(治承・寿永の乱)で活躍し、全国に勢力を広げた』。『祖の佐々木秀義は保元元年』(一一五六年)『に崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱において、天皇方の源義朝軍に属して戦った。平治元年』(一一五九年)の「平治の乱」の折りも、『義朝軍に属して戦うが、義朝方の敗北により』、『伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へと落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受ける。秀義の』四『人の子定綱、経高、盛綱、高綱は、乱後に伊豆国へ流罪となった義朝の嫡子源頼朝の家人として仕えた』。治承四(一一八〇)年に『頼朝が伊豆国で平家打倒の兵を挙げると、佐々木』四『兄弟はそれに参じて活躍し、鎌倉幕府創設の功臣として頼朝に重用され、本領であった近江を始め』、十七『か国の守護へと補せられる。また、奥州合戦に従軍した一門の者は奥州に土着し広がっていったとされる』とある。

「一鼓(いつこ)して」進軍の軍太鼓を一打ちするだけで。

「牒〔てふ〕じ合せ」手紙を出して同盟を確認し。

「蟄(ちつ)を啓(ひら)いて」土中で冬籠りをしていた虫が、大地が暖まって、まことの自身の春の到来を感じ、暗がりから勇んで出てくるように。

「この法師を六條川原に梟首せずば、死すとも瞑目せじ」というのは、どこかに実際にそう書かれているだろうか。ご存知の方は是非、御教授願いたい。]

 

 されば、覺明が先見に差(たが)はず、翌年の秋、重盛、薨去して、一門闇夜(あんや)に燈(ともしび)をうしなひたるごとく、人心、これがために動くを待つて、高倉の宮、覺したちたまふこと侍(はんべ)りしに、計(はかりごと)、敵にもれて、宮も、あへなく邊土の土とならせ給ひ、與力(よりき)し奉りし賴政(よりまさ)父子も、むなしく宇治の波と消えて、暫く都も靜〔しづか〕なりといへども、宮の令旨、諸國に下し給ひし中にも、

「伊豆の賴朝、木曾の義仲こそ、義兵を起して攻登る。」

と、きこえしかば、

「まづ、その近きを攻めよ。」

とて、義仲追討のため、大軍を向けたりしに、覺明が計策に、六波羅勢、散々にうち負けて敗走すれば、後(あと)を慕うて、北陸の大軍、潮の湧くがごとく殺到するに、此彼(こゝかしこ)に時を待ちたる源氏重恩の諸士、馳加(はせくはゝ)りて、洛中に亂入すといふほどこそあれ、上下〔うへした〕、その兵勢(へいせい)に氣をのまれ、平氏の一門、一戰〔いつせん〕にもおよばず、主上・門院を供奉(ぐぶ)し參らせ、隣家(りん〔か〕)の犬の、棒を見て逃ぐるごとく、西國をさして沒落す。

 義仲、都に入りて、法皇の御所に參れば、御感、斜(なゝめ)ならず、

「なほも、平氏の一族を亡(ほろぼ)して禍の根をたち、宸襟(しんきん)を安んぜよ。」

との勅を奉(う)げて、暫く、都に軍馬の勢を休む。

 然るに義仲、北陸にありて、一圖(いちづ)、報讐の念より外なかりしに、都滯留のうちに見聞(けんもん/ミキク)する所、生涯、見もなれぬ繁花風流、水きよく、山うるはしく、むかし、「東門闉土(いんと)の女〔をんな〕、雲のごとし」といひけんは、物の數(かず)かは。大宮人(おほみやびと)の、いと、やんごとなきは、いふもさらなり、賤(しづ)の女(め)まで、鄙には似ざるけはひ、木曾の山里になれたる目には、天仙かともあやしまれ、六波羅の結構、大厦高樓(たいかかうろう)、玉をちりばめ、錦をかざれる奢侈(しやし/オゴリ)を見るより、いつしか惰氣(だき)生じて、

「かゝる地に下半世(〔しも〕はんせい)の歡樂を極むるものならば、人世の望(のぞみ)たれり。」

と、美女をあつめて、日夜、淫酒(いんしゆ)を事として、軍務を心におかず。況や、一戰の大功に心恃(たの)むで、放逸(はういつ)の兆(きざし)、みえたるに、覺明、諫めて云く、

「君、この所に逸樂を欲し給ふは、火宅に巢(すく)ふ燕にひとしく、大禍、忽ち來るべし。平氏、敗走すといへども、多年恩顧の者、西國に多ければ、虎を放ちて山に入れ、龍(りよう)を追うて淵に沈むるに、ことならず。要害を固うして敵に備へ、主上(しゆじやう/テンシ)、神器を挾(さしはさ)みて諸國に令せば、なかなか、たやすく勝つべき軍(いくさ)と覺え侍(はんべ)らず。兵〔つはもの〕は神速(〔しん〕そく)を貴ぶこと、君のしろしめす所なれば、今、敵軍の怖意(ふい)さらぬ間(ま)に、短兵(たんへい)、急に攻めよせなば、一戰に擒(とりこ)にすべし。事をあやまち給はゞ、窮鼠却つて猫を食(は)むの譬(たとへ)あり。況や、援兵(ゑんへい/カセイ)加り、嶮(けん)に據(よ)らんをや。そのうへ、賴朝・義經等(とう)の數人(す〔にん〕)は、皆、故左馬頭(さまのかみ)の遺子にして、已に義兵を起す。何ぞ、君の下にありて、令(れい/イヒツケ)をうけ、命〔めい〕を守るベきや。古(いにしへ)より兩雄ならび立たず、君のひまを窺ふこと理(り)の當然なり。今、平家を族滅して大功を建てゝ、その後、都に守護をおきて、君は北陸にありて、天下兵馬の權(けん)を握りたまはゞ、まくらを泰山(たいざん)のやすきに置きて、其時、はじめて、歡樂をうけて太平をたのしみ給ふも晩(おそ)からじ。都にとゞまりて、久しく朝家(てうか/キンリ)に親しみたまはゞ、はじめは武を忘れ、終(をはり)は不臣の罪をとり給ふべし。況や、今日〔こんにち〕、前に平氏の大敵あり、後(しりへ)に賴朝・義經の梟雄(けうゆう)あり。その中間(ちうげん[やぶちゃん注:ママ。])にはさまりて、逸樂を事として、後患(こうげん)をかへりみ給はぬは、小兒の見(けん)にことならず。」

と、折檻(せつかん)の諫(いさめ)をいれたりしかど、諂諛(てんゆ/ヘツラヒオモネル)の者、親近して、却つて、覺明を疎んずるはし、見え侍(はんべ)るに、覺明、退(しりぞ)いて歎(たん/ナゲキ)じて云く、

「鳴呼、竪子(じゆし)、敎ふるにたらず。敵國、亡びずして、主將、驕り、士卒、おこたる。いづれか滅亡を免(まぬか)るベきや。況や、義仲、天年を全うする相にあらず。われ、一度〔ひとたび〕、空門(くうもん/ホトケノミチ)にいりしかども、父の讐(あた)を安然として詠(なが)めをらんも、本意〔ほい〕ならずと、思ひたちたりし素意は滿足しぬ。

もとより、太平をともに樂しむべき望(のぞみ)もなければ、はじめより、主(しゆ)を擇(えら)ぶこともなかりし。機をみてさらすんば、禍、近きにあり。赤松(せきしやう)に從ひし子房(しぼう)、かしこくも害を免(のが)れたり。空門、已に榮辱(えいじよく)を一夢(〔いち〕む)に附す。なんぞ去留(きよりう)に心あらんや。」

と、遂に何地(いづち)ともなく、跡をくらまして、影響(えいきやう)を知るものなし。

[やぶちゃん注:「翌年の秋、重盛、薨去して」平重盛の逝去は治承三年閏七月二十九日(一一七九年九月二日)で享年四十二であった。死因は胃潰瘍・脚気衝心や背中に発症した悪性の腫瘍などの説がある。彼の死によって清盛と後白河法皇の関係は完全に破綻し、清盛は同年十一月十四日にクーデターを起こし、白河の院政は停止(ちょうじ)され、鳥羽殿に幽閉されることとなる。

「高倉の宮」後白河天皇の第三皇子で「以仁王の令旨」を出して源氏に平氏打倒の挙兵を促した以仁王(もちひとおう 仁平元(一一五一)年~治承四(一一八〇)年五月二十六日(一一八〇年六月二十日))の通称。邸宅が三条高倉にあったことから、三条宮・高倉宮と呼ばれた。討たれた場所は南山城(みなみやましろ)の加幡河原(かばたかわら)とも(木津川の畔らしい)、同じく木津川沿いの光明山鳥居の前ともする。

「賴政(よりまさ)父子も、むなしく宇治の波と消えて」源源三位(げんざんみ)頼政は、逃がした以仁王と同じく、同年五月二十六日、休息を取った宇治平等院で平家軍に襲われ、子の仲綱・宗綱・兼綱が次々に討ち死に或いは自害し、頼政も自刃した。享年七十七であった。

「門院」ここは清盛の娘で安徳天皇の母である建礼門院徳子その人を指す。

「宸襟(しんきん)」「宸」は「天子の住まいや関係する対象」を指し、襟は「襟首(えりくび)」を意味し、「御前」と同じく、直接示すことが憚られることから、これで「天子の御心」を指す。

「東門闉土(いんと)」これは「詩経」の「鄭風(ていふう)」の「出其東門」(しゅつきとうもん)に基づいた謂い。「闉闍」とは甕城(おうじょう)で、城門の出入口を壁で半円状に囲った区域(小さな防塁)、本邦で言えば城の「曲輪(くるわ)」に相当する)の門のことを指す。「出其東門」は壺齋散人氏の「壺齋閑話」の「出其東門:いとしい妻を思う(詩経国風:鄭風)」として、原文・訓読・訳が載るので見られたい。

「大厦(たいか)」大きな家。豪壮な建物。

「火宅に巢(すく)ふ燕」「火宅」は仏語で、煩悩や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家に喩えた語(「法華経」の「譬喩品 (ひゆぼん)」に説く)で、現世・娑婆の意。「火宅」は燕の喉と額の赤いのに不吉に通じ、また、「巢ふ燕」は「燕巣幕上」(えんそうばくじょう)或いは「燕、幕上に巣くう」という諺、戦場の本営などに張っている幕の上に燕が巣を作ることから転じて、「安定せず、非常に危険な状況」の喩えをも、連想させる。

「泰山(たいざん)」道教の最高神泰山夫君の住む泰山に、「安泰」を掛けたもの。

「不臣」臣下としての道に背くこと。君主に反抗すること。不忠の臣。ここはそうした大罪を犯す家臣が出てくることを謂ったもの。

「梟雄(けうゆう)」残忍で強く荒々しい人。悪者などの首領に使うことが殆んどである。

「折檻の諫(いさめ)」強く厳しく諫言 (かんげん) すること。漢の孝成帝が朱雲の強い諌めを怒り、朝廷から彼を引きずり出そうとした際、朱雲が欄檻(らんかん) につかまって拒絶しようとして、それがために欄干が折れたという「漢書」の「朱雲伝」の故事に基づく。

「疎んずるはし、見え侍(はんべ)る」「はし」は「端」で、既にこの諌めの最中に、義仲の雰囲気や表情のちょっとしたところに彼の五月蠅さを疎(うと)んじていることが見て取れたというのである。

「鳴呼、竪子(じゆし)」はいはい、思い出すよね、「鴻門の会」で沛公(劉邦)を殺そうとしない項羽に、参謀の范増が、怒り心頭に発して、「唉、豎子不足與謀。」(「唉(ああ)、豎子(じゆし)與(とも)に謀るに足らず」)と嘆くところを援用したわけだよ。「竪子」は若者・青年の意であるが、特に未熟な者に対して蔑(さげす)み、罵って言う場合に使うことが多いね。「ああっ! この糞ガキが!!」だよ。

「空門(くうもん/ホトケノミチ)」この場合は、一切を空と考える大乗仏教の教え。転じて、仏教の総称である。

「赤松(せきしやう)」小学館「日本国語大辞典」に、『中国、上古の仙人。神農の時の雨師』(雨を司る神)『で、崑崙山に入って』、『仙道を得た。後世に』至って、『漢の張良』子房『が弟子となったという伝説がある』とある。

「榮辱(えいじよく)」誉れと辱め。名誉と恥辱。

「影響」影が形に従い、響きが音に応じるの意から、ここは、その確かな存在の謂いであろう。]

 

 義仲、驚いて、士卒をして是を尋ねもとむれども、その行く所を知らず。

 果して、幾程(いくほど)なく、義仲、減亡の禍をとりしこと、覺明が先見、露、たがふことなし。

 平氏は義經・範賴がために西海に亡び、四海一統して、賴朝、覺明が義仲にすゝめしごとく、その身、鎌倉にありて、天下の兵權を掌りて、覺明、義仲を諫めしことを傳へきゝて、

「あな、おそろし。義仲、もし、其計(はかりこと)を用ゐば、われ、今日〔こんにち〕、あらんや。徒に藩籬(はんり)を守るの犬たるべし。」

とて、是より覺明をたづね求めしめ給へども、その所在、たしかならず。

 その後、文治五年、義經、衣川に自殺して、海内(かいだい)、悉く鎌倉の手に屬せしかば、建久元年、賴朝、上洛して恩を謝す。法皇の御氣色、よろしく、數日〔すじつ〕、滯留のうち、和田・兒玉黨の若殿原、出仕の暇(いとま)をぬすみて、湖水に舟をうかべ、石山寺に諧で侍りしに、頃しも、滿月にて、山の端(は)に出づるより、影は湖水にひたして、金(こがね)の波、煙の樹木(うゑぎ)、さながら、我もまた。畫圖(ぐわと)の中にあるかと疑はるる風情。御堂の欄(おばしま)近くあつまりて、いみじく興じたりしに、近くゐあつまりて、一人、

「白霧山深鳥一聲(〔はく〕む〔やま〕ふかし 〔とり〕いつせい)。」

と吟ずれば、一人は、

「月は上(のぼ)る庾公(ゆこう)が樓(ろう)。」

と朗詠するに、佛前に燈(ともしび)挑(かゝ)げゐたりし法師の、うちしはぶきながら、

「『月には上る庾公が樓』とこそありたけれ。」

と、獨言(ひとりごと)するをきゝとがめて、おのおの舌を捲いて、

「こは世の常の法師にはあらじ。いざや、招きて淸談をもかたりきこえん。」

と、從者をして尋ねさするに、いづち、去(い)にけん、影もなし。みなみな、遺憾(いかん/ノコリオホキ)のことにおもひながら、

「さるにても、『月には上る』の一句は、心つかざる趣を、はじめて得(とく)とりたり。」

とて、夜ふけて歸りて、あくる朝、賴朝に此よし、語りきこゆるに、賴朝、しばしば案じて、俄(にはか)に重忠をめされ、ひそかに仰言(おほせごと)侍(はんべ)りしを、

「いかなる事にや。」

と、諸大名も、いぶかしみおもひしが、次の日、賴朝、物語のついでに、

「さりし夜、殿原の逢ひたまひし法師こそ、必定、木曾に從ひありし覺明ならめ。石山のほとりに隱れすむよし、ほのかに聞きたりしに、『このほどの樣(やう)、なみの者にはあらじ』と、急に重忠に命じて、『彼(かしこ)にこえて誘引(いういん)してよ』と心をつくせしに、かしこくも、はや、跡をかくして、行方をしらず。われ、多年、彼が兵機妙算(へいきめうさん)を慕ひ、且は、文筆に達したれば、われに仕へさせたくおもひしに。殘念さよ。」

と宣(のたま)ふに、諸人、はじめて疑(うたがひ)をはらしぬ。

 後に覺明は高野にすみて、兄の出家して蓮華谷(れんげだに)に明遍僧都(みやうへんさうづ)とて、いまそかりしに、たよりて、奧の院の傍(かたはら)に、かたちばかりの庵(いほり)しつらひて、遂に、そのところにて終りぬといひ傳へ侍(はんべ)る。後までも文筆の業(わざ)は捨てもやらで、「三敎指揮(さんがうしき)」の抄(せう)は、其頃、書きたりし。この書は大師壯年の著述にて、「文選(もんぜん)」にくはしからぬものは解しがたきを、覺明、閑居のうちに抄を作りて、今にもてはやしぬ。誠に文武の全才(ぜんさい)なるをや。賴朝の惜しまれしも、むべなり。たゞ、義仲の用ゐること能はざりしこそ、千載の遺恨といふべし。釋門については論ずべきことあるべけれど、その氣象(きしやう)豪傑なる、稱するに、たれり。文覺(〔もん〕がく)法師、老後、ふたゝび、遷謫(せんてき/ルザイ)の禍(わざはひ)を招きたるに比するに、天淵(てんえん)のたがひ侍(はんべ)るをや。

 

 

席上奇観垣根草二之巻終

[やぶちゃん注:「義仲、減亡の禍をとりしこと」寿永三(一一八四)年一月六日、鎌倉軍が墨俣を越えて美濃国へ入ったという噂を聞き、義仲は怖れ慄いた。十五日には後白河法皇に自らを征東大将軍に任命させ、平氏との和睦工作、後白河法皇を伴っての北国下向を模索するが、源範頼・義経の率いる鎌倉軍が目前に迫り、開戦を余儀なくされた。義仲は京都の防備を固めるが、法皇幽閉に始まる一連の行動により、既に人望を失っていた義仲につき従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。戦いに敗れた義仲は、乳兄弟今井兼平ら数名の部下とともに落ち延びようとするが、二十日、近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で討ち死にした。九条兼実は「義仲天下を執る後、六十日を經たり。信賴の前蹤と比するに、猶、その晩きを思ふ」と評している。享年三十一であった(以上はウィキの「源義仲」に拠った)。

「藩籬(はんり)を守るの犬」直轄を許された領地の、朝廷の使い走りの「犬」。

「文治五年、義經、衣川に自殺して」義経は庇護者であった藤原泰衡の寝返りにより、文治五年閏四月三十日(一一八九年六月十五日)に享年三十一の若さで、高館で自刃した。

「海内(かいだい)」天下。

「建久元年、賴朝、上洛して恩を謝す」建久元(一一九〇)年十月三日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発ち、「平治の乱」で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経た後、十一月七日、千余騎の御家人を率いて入京し、嘗て平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。九日に後白河法皇に拝謁、長時間、余人を交えずに会談した。この上洛で頼朝は権大納言・右近衛大将に任ぜられたが、十二月三日には両官を辞した。鎌への帰着は同年十二月二十九日であった。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷に於ける公事の運営上の重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り、帰鎌が困難になると判断したからとみられている。十一月九日の夜、頼朝は九条兼実と面会し、政治的提携を確認した。頼朝の在京はおよそ四十日間であったが、後白河院との対面は実に八回を数え、朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年三月二十二日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた(以上はウィキの「源頼朝」に拠った)。

「和田」鎌倉幕府の初代侍所別当に任ぜられた和田義盛。

「兒玉黨」平安後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団「武蔵七党」の一つ。主に武蔵国最北端域の全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に周縁域に勢力を持っていた。

「湖水」琵琶湖。

「月は上(のぼ)る庾公(ゆこう)が樓(ろう)」「『月には上る庾公が樓』とこそありたけれ」「庾公」は東晋建国に関わった人物で、身体障碍者であったが、外戚として東晋の政界に重きをなした、優れた官吏であったようである。正直、よく判らない。但し、漢詩として詠ずるに「には」の方が遙かに優れていることは直感として判る。

「重忠」畠山重忠(長寛二(一一六四)年~元久二(一二〇五)年)。頼朝の挙兵に際しては、平家方として敵対したが、のちに臣従して「治承・寿永の乱」で活躍、知勇兼備の武将として常に先陣を務め、幕府創業の功臣として重きをなした。しかし、頼朝の没後に実権を握った初代執権北条時政の謀略によって謀反の疑いをかけられて子重保とともに謀殺されれた。存命中から武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄から「坂東武士の鑑」と称された人物である。

「兵機妙算」軍事上の機略と優れた妙策。

「蓮華谷」和歌山県伊都郡高野町高野山蓮華谷ここNAVITIME)。

「明遍僧都」(康治元(一一四二)年~貞応三(一二二四)年)は僧で、彼に関しては父は確かに藤原通憲信西である。ウィキの「明遍」によれば、『東大寺で三論宗義を学び、後に遁世僧となり、高野山に入り』、『蓮華三昧院をひらく。法然に帰依し』、『浄土教に入ったとも』される。十八の時、「平治の乱」に遭い、『父は斬首され、自身も越後国に配流となる。赦免された後』、『東大寺で三論宗を学』び、五十歳を『過ぎてから遁世して高野山に入山』、『蓮花三昧院を開創した。法然門下となり』、『専修念仏に帰依した時期については不明である。著作として「往生論五念門略作法」などがあるが』、『現在は残されていない』とある。因みに、信西には異様に子が多く、二十三名を数える。

「三敎指揮(さんがうしき)」空海の「三敎指歸」(さんごうしいき)のことであろう。序文から、延暦一六(七九七)年十二月二十三日)に成立。空海二十四歳の著作で、出家を反対する親族に対する宗教的な寓意小説に仮託した出家宣言の書として知られる。

「文選(もんぜん)」六朝時代の梁の昭明太子の編になる詩文選集。全六十巻。五三〇年頃の成立。周から梁にいたる約一千年間に及ぶ詩文の選集で、収録された作者は百三十人、作品は七百六十編に達する。賦・詩・騒に始り、弔文・祭文に至る三十九の文体に分類し、各文体内では、作者の年代順に配列されてある。編集方針は編者の序によれば、道徳・実用的観点よりも、芸術的観点から文学を評価して選んだものとあり、その結果として賦は五十六編、詩は四百三十五首が選ばれ、この二つだけで六割以上を占めている。本書は、後、文学を志す者の必読書として広く流布し、唐の李善の注を始め(これには大学時代に苦しめられた)、多くの注釈が出て、「文選学」が生まれたほどで、日本にも早くに伝わり、王朝文学に大きな影響を与えた(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「釋門については論ずべきことあるべけれど」どうも、作者都賀庭鐘は神道志向の保持者であったか。

「文覺法師」(保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年)は俗名を遠藤盛遠と言った真言僧。元は「北面の武士」とされ、袈裟御前を殺した発心譚などの伝説が多い。京都高尾の神護寺再興を志し、後白河法皇に寄進を強要して伊豆に流された。その地で、源頼朝に近づき、後の鎌倉幕府や法皇の援助を得て、空海所縁の諸寺を復興した。しかし、頼朝の没後、謀略を計画したとして捕縛され、佐渡・対馬に配流となり、六十五歳で没した。私の芥川龍之介「袈裟と盛遠」(芥川が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」原文も電子化してある)を参照されたい。]

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