北原白秋 邪宗門 正規表現版 接吻の時
接 吻 の 時
薄暮(くれがた)か、
日のあさあけか、
晝か、はた、
ゆめの夜半(よは)にか。
そはえもわかね、燃(も)えわたる若き命(いのち)の眩暈(めくるめき)、
赤き震慄(おびえ)の接吻(くちつけ)にひたと身(み)顫(ふる)ふ一刹那(いつせつな)。
あな、見よ、靑き大月(たいげつ)は西よりのぼり、
あなや、また瘧(ぎやく)病(や)む終(はて)の顫(ふるひ)して
東へ落つる日の光、
大(おほ)ぞらに星はなげかひ、
靑く盲(めし)ひし水面(みのも)には藥香(くすりが)にほふ。
あはれ、また、わが立つ野邊(のべ)の草は皆色も干乾(ひから)び、
折り伏せる人の骸(かばね)の夜(よ)のうめき、
人靈色(ひとだまいろ)の
木(き)の列(れつ)は、あなや、わが挽歌(ひきうた)うたふ。
かくて、はや落穗(おちぼ)ひろひの農人(のうにん)が寒き瞳よ。
歡樂(よろこび)の穗のひとつだに殘(のこ)さじと、
はた、刈り入るる鎌の刄(は)の痛(いた)き光よ。
野のすゑに獸(けもの)らわらひ、
血に饐(す)えて汽車(きしや)鳴き過(す)ぐる。
あなあはれ、あなあはれ、
二人(ふたり)がほかの靈(たましひ)のありとあらゆるその咒咀(のろひ)。
朝明(あさあけ)か、
死(し)の薄暮(くれがた)か、
晝か、なほ生(あ)れもせぬ日か、
はた、いづれともあらばあれ。
われら知る赤き唇(くちびる)。
四十一年六月
[やぶちゃん注:「瘧(ぎやく)」訓では「おこり」と読む。古くから「わらはやみ」とも呼ばれ、毎日或いは隔日に定期的な発熱症状を起こす病気を指す。現在のマラリアである。古いところでは、作中人物ながら、「源氏物語」の光源氏が「若紫」の冒頭、「瘧病(わらはやみ)にわづらひたまひて」北山に加持祈禱を受けに行くことで知られ、「平家物語」の巻第六の「入道逝去」のシークエンスを見ると、平清盛の死因もこれと考えられるが、特に私はその前の巻五の「物怪(もつけ)」で、清盛が庭に無数の髑髏の見るのはマラリアによる熱性譫妄であると考えている。ウィキの「マラリア」によれば、本邦では明治三六(一九〇三)年の時点でも全国に年間二十万人にも及ぶ土着性マラリアの患者がいたが(本詩篇のクレジットは明治四十一年で一九〇八年)、その後、急速に減少し、大正九(一九二〇)年には九万人、昭和一〇(一九三五)年には五千人に激減した。戦中・戦後には復員者による一時的な急増があったが、減少傾向は続き、昭和三四(一九五九)年の彦根市での発症事例を最後に、土着マラリア患者は消滅したとある。私は海外のボランティア活動をしていた同僚教師の同年齢の友人をマラリアで失った(「亡き友へ 木蔭で――永野広務に」)。]