北原白秋 邪宗門 正規表現版 こほろぎ
こ ほ ろ ぎ
微(ほの)にいまこほろぎ啼(な)ける。
日か落つる――眼(め)をみひらけば
朱(しゆ)の畏怖(おそれ)くわと照(て)りひびく。
内心(ないしん)の苦(にが)きおびえか、
めくるめく痛(いた)き日の色
眼(め)つぶれど、はた、照りひびく。
そのなかにこほろぎ啼ける。
とどろめく銃音(つゝおと)しばし、
痍(きず)つける惡(あく)のうごめき
そこここに、あるは疲(つか)れて
轢(し)きなやむ砲車(はうしや)のあへぎ、
逃げまどふ赤きもろごゑ。
そのなかにこほろぎ啼ける。
盲(めし)ひ、ゆく戀のまぼろし――
その底に疼(うづ)きくるしむ
肉(ししむら)の鋭(するど)き絕叫(さけび)、
はた、暗(くら)き曲(きよく)の死(し)の樂(がく)
靈(たましひ)ぞ彈きも連(つ)れぬる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
あなや、また呻吟(うめき)は洩(も)るる。
鉛(なまり)めく首のあたりゆ
幽界(いうかい)の呪咀(のろひ)か洩るる。
寢(ね)がへれば血に染み顫(ふる)ふ
わが敵(かたき)面(おも)ぞ死にたる。
そのなかにこほろぎ啼ける。
はた、裂(さ)くる赤き火の彈丸(たま)
たと笑ふ、と見る、我(われ)燬(や)き
我ならぬ獸(けもの)のつらね
眞黑(まくろ)なる樂(がく)して奔(はし)る。
執念(しふねん)の闇曳き奔(はし)る。
そのなかにこほろぎ啼ける。
日や暮るる。我はや死ぬる。
野をあげて末期(まつご)のあらび――
暗(くら)き血の海に溺(おぼ)るる
赤き悲苦(ひく)、赤きくるめき、
ああ、今し、くわとこそ狂へ。
微(ほの)になほこほろぎ啼(な)ける。
四十年十二月
[やぶちゃん注:標題開始位置はママ。見落とされる老婆心から言い添えておくと、第十連二行目の頭太字「た」はオノマトペイアで、底本では「ヽ」が打たれてある。]
« ブログ・アクセス1,430,000突破記念 梅崎春生 水兵帽の話 | トップページ | 都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之二 在原業平文海に託して寃を訴ふる事 »