都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之四 藪夢庵鍼砭の妙遂に妙を得たる事 / 巻之四~了
藪夢庵(やぶむあん)鍼砭(しんへん)の妙遂に妙を得たる事
むかしより鍼砭の妙、誠に起死回生の功あり。脈絡の會(くわい)、湯液(たうえき/クスリ)のおよばざる所、其(その)兪穴(ゆけつ)に中(あた)るときは、速效(そつかう)、神(しん)のごとし。傳記の載するところ、少なからず。李洞玄(りどうげん)、龎安(はうあん)が類、其聖(せい)といふべし。
北條時賴の時に藪夢庵といふもの、異人に逢うて、其術を傳へしとて、往々不測(ふしぎ)の功ありて、其名、ますます、著(あらは)れたり。
[やぶちゃん注:「藪夢庵」(やぶむあん)は以上の通り、鎌倉中期の第五代執権北条時頼の治世(現任在職は寛元四(一二四六)年五月から康元元年(一二五六)年十一月。但し、第六代執権で義兄北条長時(間もなく病死)と第七代北条政村は時宗成長までの中継ぎ(二人は得宗ではない)で、事実上の幕府実権は亡くなる弘長三(一二六三)年十一月まで時頼が握っていた)の鍼灸医とする。「日文研」の「怪異・妖怪伝承データベース」のこちらに、備前岡山藩医緒方惟勝義夫(摂生堂)が医師の心得や症例などを書いた天保期の医術書「杏林内省録」(きょうりんないせいろく:天保七(一八三六)年成立)に記載があるとあるので、調べようとしたが、「引用文献」欄に「垣根草」とあったので、あほらしいから、やめた。
「鍼砭(しんへん)」小学館「日本国語大辞典」では読みを「しんぺん」或いは「しんべん」とし、鍼術(しんじゅつ)のこと。
「李洞玄」隋代の医師及び唐代医師にこの名の医師がいる。前者は射精の寸止め法などを述べているらしいが、調べる気にならない。
「龎安」(現代仮名遣「ほうあん」)鍼灸師kouitsu氏のブログ「鍼灸学の一考察~鍼灸学生のつぶやき跡」の「『難經本義諺解』 難經彙考その3 注家について」(「難経」は古代中国の医学書「黄帝八十一難経」(こうていはちじゅういちなんぎょう)の略)によれば、その注釈書についての上記の「解」の記載に、「蘄水(きすい)の龎安常(はうあんじやう)、」『難經』の解、數萬言有り、と。惜しい乎(かな)、傳ふること無し」とあるらしい(引用は漢字表記を正字化し、歴史的仮名遣に代えた)。]
隣家の孕婦(ようふ)、數日(すじつ)、產に臨みて分娩(ぶんべん/ムマレ)せず。夢庵云く、
「兒(こ)、已に胞(えな)を出づといへども、母の腸(はらわた)を執(とら)へて放さず。時を經(へ)ば、母子ともに救ふに術なからん。」
とて、兒の手のあるところを捫(もん)して、「虎口(ここう)」に鍼(はり)す。兒、手を縮めて、すなはち生(うま)る。兒の虎口、果して鍼痕(しんこん/ハリノアト)あり。誠に、一時(いちじ)の權(けん)、六百四十九穴(けつ)の外(ほか)にいづるもの、常理を以て論ずべからず。
[やぶちゃん注:「胞(えな)」胞衣(えな)。胎児を包む膜状組織。
「捫」手で探ることを指す語。
「虎口」鍼の経穴(つぼ)の名称「合谷」(ごうこく)の異名。手の甲の親指と人差指の分岐する最奥部、その開いた状態が虎の口に似ているため、かくも呼ぶ。
「六百四十九穴」鍼灸の古書に全身のツボの全数をこの数字で示している。但し、この「一時(いちじ)の權(けん)、六百四十九穴(けつ)の外(ほか)にいづるもの、常理を以て論ずべからず」という全体の意味は私にはよく判らない。「ただ一時のいい加減な判断に基づく診断に於いて、古来より支持されてきている六百四十九穴に鍼を打つ以外の処方などというものは、正常な医学上の道理として論ずべきものでは到底、有り得ない」といった謂いか。]
其頃、時賴の愛妾、久しく中風(ちうぶ)のごとくにして、諸醫、手をつくせども效(しるし)なし。
夢庵を召して視せしむるに、夢庵、笑つて云く、
「是、邪疾(じやしつ)なり。湯藥(とうやく[やぶちゃん注:原本のママ。])及ぶべからず。」
とて、鍼を出して其足踝(そくくは/アシクルブシノウヘ)上、二寸ばかりを、剌す。
暫くありて、婦人、醒覺(せいかく/ヱヒサメ)するがごとくにして云く、
「氣力、常にことならず。はじめて疾(やまひ)起る日より、一人の裝束(しやうぞく)したる男、來りて、城外又は山林の間(あいだ[やぶちゃん注:原本のママ。])に誘(いざな)ひ行く。今日しも、伴はれていづる、と、おもふうち、彼の男、路の棘刺(きよくし/イバラノハリ)に足をさゝれて動くこと、あたはず。我、そのひまに走りかへりたり。」
といふ。
時賴、大い褒賞して、其術をとふ。
夢庵云く、
「剌すところは『人邪穴(にんじやけつ)』なり。奇怪に似たりといへども、百邪の祟り、その穴十三處あり。鬼宮(ききゆう)・鬼信・鬼壘(きるゐ)のごとき、是なり。近世の醫、みだりに術を試みて、生民(せいみん)を視ること、芥(あくた)ごとく、百邪は剌すベし。庸醫(ようい)のあやまりたるは、我が術、又、施す所なし。」
といふに、人皆、術に妙なることを信じ、業を受くる者、甚だ多し。
[やぶちゃん注:「城外」奇妙な感じがする。鎌倉御所及びそれに附属する幕府施設や、執権や有力御家人の居館、また現在の鎌倉市街地(狭義の鎌倉の幕府を含めた中心部)、及び、広義の鎌倉御府内を「城」と呼ぶことは、鎌倉時代、当時の習慣として日常的には、なかった。
「人邪穴」サイト「一鍼堂大阪心斎橋本院」の「一鍼堂ブログ」の「東洋医学の面白い?不思議な古典籍 『千金翼方』篇其ノ二」によれば、唐代の有名な医者で道士の「薬王」とも称された孫思邈(そん しばく 五四一年?~六八二年?)が書いた中国史上初の臨床医学百科全集「千金要方」を自身が補完したものが「千金翼方」(六八二年完成)の「針灸中 小腸病第四」に以下の記載があるとある(漢字の一部が正字化されていないのを代えた)。
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針邪鬼病圖訣法
凡百邪之病、源起多途、其有種種形相、示表癲邪之端、而見其病、或有默然而不聲、 或複多言而謾語、或歌或哭、或笑或吟、或眠坐溝渠、啖食糞穢、或裸露形體、或晝夜游走、或扁鵲曰、百邪所病者、針有十三穴。
凡針之體、先從鬼宮起。
次針鬼信、便至鬼壘、又 至鬼心、未必須竝針、止五六穴卽可知矣。
若是邪蟲之精、便自言說、論其由來、往驗有實、立得精靈、未必須盡其命、求去與之。
男從左起針、女從右起針、若數處不言、便遍針也。
依訣而行、針灸等處並備主之。
第一初下針、從人中名鬼宮、在鼻下人中左邊下針、出右邊。
第二次下針、手大指爪甲下三分、名鬼信。入肉三分。
第三次下針、足大指爪甲下、入肉二分、名鬼壘、五指皆針。
第四次下針、在掌後膻紋入半解、名鬼心。
第五次下針、在外踝下白肉際、火針七、三下名鬼路。
第六次下針、入發際一寸、大椎以上火針七、三下名鬼枕。
第七次下針、去耳垂下五分、火針七、三下名鬼牀。
第八次下針、承漿從左刺出右、名鬼市。
第九次下針、從手膻紋三寸兩筋間針度之、名鬼路、此名閒使。
第十次下針、入發際直鼻上一寸、火針七、三下名鬼堂。
第十一次下針、陰下縫灸三壯、女人玉門頭三壯、名鬼藏。
第十二次下針、尺澤膻紋中內外兩紋頭接白肉際七、三下名鬼臣、此名曲池。
第十三次下針、去舌頭一寸、當舌中下縫、刺貫出舌上。
仍以一板膻口吻、安針頭令舌不得動、名鬼封。
上以前若是手足皆相對、針兩穴。
若是孤穴、卽單針之。
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ここに出る語が出現する。同ブログでは以上について、『ここで出てくる「鬼」という漢字』は、『太古の時代には祟りであったり、日本ではもののけを現すものであり、医療の中では原因のよくわからない病に使われていたようです。ただ』、『時代が経つにつれ、東洋医学でも病気の原因や症状のメカニズムが解明され、その文字も医書から消えてきました。上の文章は、実は精神疾患の治療法を示したものであり、後世に編纂される『鍼灸聚英』『鍼灸大成』にも引き継がれることとなりました』。『唐代の名医』である『孫思邈がなぜ「鬼」の文字を使用したか。それは孫思邈が医道だけでなく、仏教や道教にも精通していたからだとされ』ている、と述べておられる。但し、本篇の場合は、やはり、真正の邪悪な鬼神や精霊(すだま)のようなものが体内に出入りする経穴のことを指しているようには読める。
「近世の醫、みだりに術を試みて、生民(せいみん)を視ること、芥(あくた)ごとく」意味不明。中途半端な不全な施術を面白がって民草に試みて、モルモット扱いしているというのか?
「百邪は剌すベし」諸々の体外から侵入して疾患を起こす百邪は、適正確実に鍼で一刺しにして仕留めなければならない、の謂いか。
「庸醫」凡庸な医師。現代中国語でもこれで「藪医者」を指す。]
中にも金澤原思(かなざはげんし)なるもの、日夜、心を潛めて、其術の奧妙(あうめう)を極めんことを求む。漸く、その粗(そ)を得て、
「猶、たらず。」
として、ますます、おこたらず。
夢庵云く、
「鍼砭(しんへん/ハリ)の術、これを意(こゝろ)にえて手に應ず。人命の至重〔しちよう〕なる、一鍼の下にあり。なんぞ麁心(そしん)にして百年の命を斷送(だんそう)すべけんや。呼吸の消息にしたがひ、陰陽の盈虛(えいきよ)によりて、指尖(しせん)、天工(てんこう)に代るの妙あり。汝、志(こゝろざし)すゝむといへども、用心、いまだめらく、況や、術を試み、業を賣るの念、急なり。鍼砭の妙處、傳ふべからず。暫く、我に隨うて山に來(きた)れ。心氣(しんき)を靜(しづか)にし、世念(せねん)を消(せう)して、其後、妙處を傳ふべし。古人、石を以て鍼とす。金鐵(きんてつ)を用ゐること、なし。故に『砭』の字、『石』にしたがひ、古(いにしへ)に『藥石』の語あり。後世佳石(かせき/ヨキイシ)なきがゆゑに、金鐵を用ひて後、石鍼(せきしん)あることをしらず。我、異人に逢うて術を受けたる時、下野國(しもつけのくに)二荒山(にくわうざん)に佳石あることをきけり。いざや、我に從ひ來れ。」
といふに、原思、悅びて從うて二荒山に入り、晝夜、心氣をしづめて松風閑雲に伴ひ、俗慮妄念の穢汚(ゑを/ケガレ)をさらんとす。夢庵、又、やうやくに其術をさとし敎ふ。原思う、歸らんことを求むれども許さず。
[やぶちゃん注:「金澤原思」不詳。
「麁心」いい加減な思い。
「斷送」台無しにして失わせてしまうこと。
「盈虛」盛んにすすむことと、徐々に衰えること。
「下野國二荒山」二荒山(ふたらさん)は霊峰男体山(標高二千四百八十六メートル)の別称。本山を御神体山として祀る二荒山神社がある(グーグル・マップ・データ)。]
一日、原思、暴疾(ばうしつ/ニハカヤマヒ)おこりて、大いに惱む。
夢庵は石をたづねて、山奧に入りて、すべきやうなく、自ら一鍼を師傳の所に下(くだ)すに、鍼、「もの」のために、留めらるゝごとくにして、出でず。痛み、又、忍ぶべからず。折節、師の歸るを見て、是を告げて、術を求む。夢庵、笑つて云く、
「穴(けつ)、まことに疾(やまひ)に中(あた)るといへども、出鍼(しゆつしん)の法をしらざる時は、益なきのみにあらず、其死せんこと、眼前にあり。」
とて、別に手腕(しゆわん/テクビ)の交(あはひ)に一鍼を剌すに、さきの鍼(はり)、忽ち躍り出でて、疾、愈えたり。
原思、慙謝(ざんしや/ハヂワビ)して山にとゞまりて、ますます、心術を精練す。されども、功名の心、やみがたく、
『あはれ、此術を以て世に施さば、誰人(たれびと)か、右に出づるものあらん。師におよばざるは、論、なし。奥妙(あうめう)を得るを待つときは、死灰(しくわい)となりて、なんの益かあらん。』
と、頻りに暇(いとま)を乞ふに、夢庵、かさねてとゞめず、其心にしたがはしむ。
原思、いそぎ、鎌倉にかへりて其術を施し、遂に時賴に仕へて、祿を賜はり、富貴(ふうき)を得て後(のち)、二たび、師を尋ね、二荒山に、いたる。
僕從を麓に殘して、只、一人、山に登りて庵を訪(とむら)ふに、夢庵、窻下(そうか/マドノモト)に書をひらきて坐せり。
原思、その恩を謝し、業(げふ)の成就したるを語る。
夢庵云く、
「幸ひ、麓の人家に病む者ありて、今日、こゝに來(きた)る。汝、其術を試むべし。」
といふ所に、肩輿(けんよ/カゴ)に乘じ、婢僕(ひぼく/コシモトシモベ)あまた具して來(きた)るあり。扶(たす)け出(いだ)すをみれば、我が妻なり。
原思、驚きて、これをとはんとおもへども、婢僕、我が家の者にあらず、妻、又疾(やまひ)、殆(あやう)うして、氣息、纔(わづか)に通ず。
急ぎ、鍼を出(いだ)して、其穴(けつ)を定めて刺すに、忽ち、悶絕して、息絕え、手足、冷えたり。
原思、周章(あわて)て、過ちたりしを、悔ゆ。
夢庵云く、
「汝が術、わづかに其法を得て應變の妙をしらず。おそらくは、世の人をあやまち、斃(たを[やぶちゃん注:原本のママ。])さんこと、少(すくな)からじ。」
と、誡むるに、原思、支體に汗流るゝがごとくして、罪を謝す。
夢庵、一鍼を臍下(さいか/ホソノシタ)一寸に下して、たちまち、息、出でて、はじめて蘇る。
其後(そのゝち)、婢僕に命じて家にかへらしめ、
「三日、驚かしむることなく、しづかに臥さしむべし。」
と告ぐるに、喜んで肩輿(けんよ/カゴ)に扶(たす)けのせて歸る。
原思、妻なることをしりて、婢を招きて、其故を尋ねんとするうち、飛ぶがごとくに、麓に下りて、行方(ゆきがた)をしらず。
原思、益(ますます)、師のおよぶベからざるをしりて、
『此人、もし、世に出でば、我が術は、白日の螢火(けいくわ/ホタル)なるべし。ひそかに殺して後の禍を拂はん。』
と、おもふ念、きざしたるに、夢庵、一大石を指(ゆびさ)して云く、
「汝、試みに、此の石を、さして、術をしめすべし。」
とあるに、原思、
『あたはじ。』
とおもひながら、これを刺すに、鍼、をれて、入るべからず。
夢庵云く、
「術、精(くは)しき時は、鐵、石も剌すべし。病人にのぞみて、術を試むるに、堅石(けんせき/カタキイシ)をさすがごとくせざれぱ、用心、粗(そ/アラシ)なり。鍼砭(しんへん/ハリ)、其穴(けつ)を得れば、泥を剌すがごとし。しからざれば、起死の功をとるべからず。我、試みに薄術(はくじゆつ)をしめして、汝が心疾(しんしつ)を療ぜん。」
とて、彼(か)の石を、撫磨(ぶま/ナデサスル)すること、暫くして一鍼(いつしん)を下すに、誠に、泥をさし、水に投ずるがごとく、其石、忽ち、ふたつに分れたるに、夢庵、中に入るよ、とおもへぱ、石、合して、もとのごとし。
鍼穴(しんけつ/ハリノアナ)のところより、夢庵、面(おもて)をあらはし、
「汝、家に歸りて、富貴を、たのしめ。我は、石室の中に、心をやすんず。汝が累(わづらひ)となるの日、あらんや。後患(こうげん/ノチノウレヒ)をかへりみすして、とく、山を下れ。」
と、心中の計策をいひあらはされ、慙謝(ざんしや)するに、ふたゝび、ことばなし。
原思、その得道(とくだう)の人なる事を、はじめて知りて、後悔すれども、せんすべなく、家にかへりて、其妻の起居(ききよ)をとふに、
「原思、山に登りし日、俄に疾(やまひ)おこりて、前後をしらず。只、ほのかに、山中にいたりて、醫を求む。君、幸(さいはひ)に座におはして、鍼を下したまひしと覺えて、其餘(そのよ)をしらず。三日を經て、疾、愈えたり。」
と、かたるに、いよいよ、師の得道の、異人なるを信じて、愧服(ぎふく)したりしとぞ[やぶちゃん注:「愧服」強く恥じ入って、心から敬服すること。]。
其後(のち)も、時々、
「夢庵を、山中にして見たりし。」
と、いふもの、あり。
遂に、その終るところを、しらず。
術の精妙、かゝる神異も侍(はんべ)るならし。
近代は無術の庸醫、人をあやまる事、不學の凡僧、士女をまどはして、阿鼻(あび/ムケン)に送るに同じ。原思がごとき者、なほ、得ベからず。その術の妄(まう)なる、推して知るべし。
[やぶちゃん注:この話、映像的にも何か、私の心を強く撲(う)つ。特に、エンディングの、
――其石、忽ち、ふたつに分れたるに、夢庵、中に入るよ、とおもへぱ、石、合して、もとのごとし。
鍼穴(しんけつ/ハリノアナ)のところより、夢庵、面(おもて)をあらはし、
「汝、家に歸りて、富貴を、たのしめ。我は、石室の中に、心をやすんず。汝が累(わづらひ)となるの日、あらんや。後患(こうげん/ノチノウレヒ)をかへりみすして、とく、山を下れ。」――
というシークエンスは……恐らく……如何なる幻想文学も及ばぬもの……と心得る……]
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