北原白秋 邪宗門 正規表現版 陰影の瞳
陰 影 の 瞳
夕(ゆふべ)となればかの思(おもひ)曇硝子(くもりがらす)をぬけいでて、
廢(すた)れし園(その)のなほ甘(あま)きときめきの香(か)に顫(ふる)へつつ、
はや饐(す)え萎(な)ゆる芙蓉花(ふようくわ)の腐(くさ)れの紅(あか)きものかげと、
縺(もつ)れてやまぬ秦皮(とねりこ)の陰影(いんえい)にこそひそみしか。
如何(いか)に呼(よ)べども靜(しづ)まらぬ瞳(ひとみ)に絕(た)えず淚して、
歸(かへ)るともせず、密(ひそ)やかに、はた、果(はて)しなく見入(みい)りぬる。
そこともわかぬ森かげの欝憂(メランコリア)の薄闇(うすやみ)に、
ほのかにのこる噴水(ふきあげ)の靑きひとすぢ……
四十一年十月
[やぶちゃん注:「秦皮(とねりこ)」日本原産種であるシソ目モクセイ科トネリコ属トネリコ Fraxinus japonica。ウィキの「トネリコ」他より引く。『和名の由来は、本種の樹皮に付着しているイボタロウムシ』(半翅目同翅(ヨコバイ)亜目カイガラムシ上科カタカイガラムシ科Ericerus 属イボタロウムシ(イボタロウカイガラムシ/イボタロウカタカイガラムシとも)Ericerus pela:本州以南の日本各地及び中国・ヨーロッパに広く分布する。♀は成熟すると、直径十ミリメートルほどの球形状になり、体色は緑黄褐色で小黒斑紋が散る。♂は幼虫時に枝に群生して白色の蠟物質を分泌、虫体とそれらが寄生した枝はその蠟によって包まれる。子はこの蝋塊中で蛹となり、成虫になって出現する際には、体長三ミリメートルで、細長い透明な翅(はね)を有する。一年に一回発生して成虫で越冬、五月頃に数千個の卵を産み、卵は六月に孵化する。トネリコの他、庭木として好まれるイボタノキ・ネズミモチなどに寄生して被害を与える。雄の分泌した蠟塊は古くから「戸辷(とすべり)」「いぼた蠟(虫白蠟)」とよばれ、蠟燭や丸薬の外装・織物の艷出し・止血剤などに用いられ、本邦では福島県会津地方が産地として知られて「会津蠟」と呼ばれた)が分泌する蠟物質『(イボタロウ:いぼた蝋)にあり、動きの悪くなった敷居の溝にこの白蝋を塗って滑りを良くすることから)』「戸に塗る木(ト・ニ・ヌル・キ)」『とされたのが、やがて転訛して「トネリコ」と発音されるようになったものと考えられている』。『日本原産種であり、東北地方から中部地方にかけての温暖な山地に自生』するが、『街路樹や園芸樹として各地に植えられていることもある』。花期は五~六月頃。『木材としてのトネリコは弾力性に優れ、野球のバットや建築資材などに使用される』。『樹皮は民間薬では止瀉薬として、結膜炎時の洗浄剤として用いられる』。『新潟県では古くから水田の周囲などに並木として植えられ、刈り取ったイネを架けて乾燥させる「はざ木(はざき・はざぎ)」として利用された。同じ米産地の富山県でも同様の使われ方をし、「ハサ」と呼ばれる。トネリコは田園風景を決定づけていたが、ほとんど失われてしまった。「トネリコは一本だけでは役立たない、何本も並んでいるから役に立つ」といった教訓としても使われることがあった』。リンク先にも書かれてあるが、北欧神話で宇宙を支える「世界樹」として「ユグドラシル」(古ノルド語:Yggdrasill)が知られるが、これは本種と同じトネリコ属の、別種セイヨウトネリコ(トネリコ属セイヨウトネリコ Fraxinus excelsior)のこととされている。ところがまずいことに本邦では大抵、この神話を紹介する際して、単に「トネリコ」と訳されてきたために、狭義の真正の「トネリコ」を北欧原産と誤認してしまい、「トネリコ」が本邦原産種であることを知らぬ人が多いように私には思われるので一言附言しておきたい。]