北原白秋 邪宗門 正規表現版 吊橋のにほひ
吊 橋 の に ほ ひ
夏の日の激(はげ)しき光
噴(ふ)きいづる銀(ぎん)の濃雲(こぐも)に照りうかび、
雲は熔(とろ)けてひたおもて大河筋(おほかはすぢ)に射かへせば、
見よ、眩暈(めくるめ)く水の面(おも)、波も眞白に
聲もなき潮のさしひき。
そがうへに懸(かか)る吊橋。
煤(すす)けたる黝(ねずみ)の鐵(てつ)の桁構(けたがまへ)、
半月形(はんげつけい)の幾圓(いくまろ)み絕えつつ續くかげに、見よ、
薄(うす)らに靑む水の色、あるは煉瓦(れんぐわ)の
圓柱(まろはしら)映(うつ)ろひ、あかみ、たゆたひぬ。
銀色(ぎんいろ)の光のなかに、
そろひゆく櫂(オオル)のなげきしらしらと、
或(あるひ)は仄(ほの)の水鳥(みづとり)のそことしもなき音(ね)のうれひ、
河岸(かし)の氷室(ひむろ)の壁も、はた、ただに眞晝の
白蠟(はくらふ)の冷(ひや)みの沈默(しじま)。
かくてただ惱(なや)む吊橋(つりはし)、
なべてみな眞白き水(み)の面(も)、はた、光、
ただにたゆたふ眩暈(くるめき)の、恐怖(おそれ)の、仄(ほの)の哀愁(かなしみ)の
銀(ぎん)の眞晝(まひる)に、色重き鐵(てつ)のにほひぞ
欝憂(うついう)に吊られ壓(お)さるる。
鋼鐵(かうてつ)のにほひに噎(むせ)び、
絕えずまた直裸(ひたはだか)なる男の子
眞白(ましろ)に光り、ひとならび、力(ちから)あふるる面(おもて)して
柵(さく)の上より躍(をど)り入る、水の飛沫(しぶき)や、
白金(はつきん)に濡(ぬ)れてかがやく。
眞白(ましろ)なる眞夏(まなつ)の眞晝(まひる)。
汗(あせ)滴(した)るしとどの熱(ねつ)に薄曇(うすくも)り、
暈(くら)みて歎(なげ)く吊橋のにほひ目當(めあて)にたぎち來る
小蒸汽船(こじようきせん)の灰(はひ)ばめる鈍(にぶ)き唸(うなり)や、
日は光り、煙うづまく。
四十一年八月
[やぶちゃん注:「或(あるひ)は」の「ひ」はママ。]