甲子夜話卷之六 21 内田信濃守殉死の事
6-21 内田信濃守殉死の事
猷廟御佗界の時、堀田、阿部の重臣を始め、侍臣迄も多く殉死せり。その中内田信濃守正信は、今夜殉死せんと期せし日、親族を呼集め、宴を設て最後の盃し、言笑いさゝかも常にかはることなし。夜に入りたれば來客に向ひ、しばし眠り候半、亥刻に至らば起し給はれ迚、其席の床ぶちを枕とし、快く鼾睡したり。その内夜も更行けど、誰も起すに忍びずありし内、いつか夜半を踰たりし頃、信州目を醒し、何時なるやと問ふ。何れも子刻や下りぬらんと答ふれば、さればこそ程よく起し給へと云しものをと言ながら、押肌ぬぎ短刀を拔き、腹十文字にかき切りて、自ら喉をかきて伏たりとなり。今百載の後に傳へ聞ても淚も落べし。かゝる潔き心底は、信に世に難ㇾ有人にぞ有ける。
■やぶちゃんの呟き
「内田信濃守」内田正信(慶長一八(一六一三)年~慶安四年四月二十日(一六五一年六月八日)は旗本・大名。下総小見川藩主・下野鹿沼藩初代藩主。八百石の御納戸頭内田正世の次男。寛永七(一六三〇)年から徳川家光の家臣として仕え、寛永一二(一六三五)年十二月に奥小姓、翌年六月には御手水番(ちょうずばん:厠担当)に任ぜられた。寛永一四(一六三七)年、相模国内に一千石を加増される、翌年には叙任、寛永一六(一六三九)年、下総名取郡や常陸鹿島郡などで八千二百石を加増されて計一万石の大名となり、小見川藩主となると同時に、御小姓組番頭となった。慶安二(一六四九)年、下野国内で五千石を加増されて鹿沼藩主となり、御側出頭(おそばしゅっとう)となった。慶安四(一六五一)年四月二十日の家光の死去(本文の「猷廟」(いうべう(ゆうびょう))は家光の諡号。死因は脳卒中と推定されている)に従って殉死した。享年三十九であった。跡を次男の正衆(まさもろ)が継いでいる。
「殉死」ウィキの「殉死」によれば、『徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死している』。『こうした行動の背景には』、『かぶき者や男色との関連があるという説もある』。『家光に殉じなかった松平信綱は世間の批判を受け、「仕置だてせずとも御代はまつ平 爰(ここ)にいづとも死出の供せよ」という落首が貼り出された』。第四代将軍徳川家綱及び第五代『綱吉の治世期に、幕政が武断政治から文治政治へと移行』、寛文三(一六六三)年五月の「武家諸法度」の『公布とともに、殉死は「不義無益」であるとして』、『その禁止が口頭伝達された』。寛文八(一六六八)年には』強要殉死事件が発生、『禁に反したという理由で宇都宮藩の奥平昌能が転封処分を受けている』(追腹一件(おいばらいっけん:寛文八(一六六八)年二月十九日に宇都宮藩主奥平忠昌が江戸汐留の藩邸で病死したが、忠昌の世子で長男の昌能(まさよし)が忠昌の寵臣杉浦右衛門兵衛に対し、「未だ生きているのか」と詰問して杉浦が直ちに切腹した事件。藩主昌能は二万石減封されて出羽山形藩九万石への転封に処され、殉死者杉浦の相続者も斬罪に処するなど、幕府は異例の厳しい態度で臨んだ。これ以後、殉死者の数は激減したとされる)。『殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという新たな主従関係の構築を意図したものだと考えられる』。『これに先立つ』寛文元(一六六一)年七月には、『水戸藩主徳川光圀が重臣団からの』、先代藩主で父の『徳川頼房への殉死願いを許さず、同年閏』八『月には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加え』ている。『この後、延宝』八(一六八〇)『年に堀田正信が家綱死去の報を聞いて自害しているが、一般にはこれが江戸時代最後の殉死とされている。天和』三(一六八三)『年には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ、本格的な禁令がなされた』とある。
「御佗界」「ごたかい」。「御他界」に同じ。
「設て」「まうけて」。
「言笑」「げんせう」。談笑。
「候半」「さふらはん」。意志を表わす「はん(はむ)」に漢字を当てたもの。
「亥刻」「ゐのこく」。午後九時過ぎ。
「迚」「とて」。
「床ぶち」「とこぶち」。床縁。床の間の前端の化粧横木。
「鼾睡」「かんすゐ」。鼾(いびき)をかいて眠ること。
「その内夜も更行けど」「そのうち、よも、ふけゆけど」。
「誰も」「たれも」。
「踰たり」「こえたり」。
「何時」「なんどき」。
「子刻」(ねのこく)「や下りぬらん」午前零時過ぎ。
「伏たり」「ふしたり」。
「今百載」(さい:年に同じ)「の後」この百年は単に遠い時間の隔たりを指す。正信の殉死は慶安四(一六五一)年で、「甲子夜話」の執筆開始は文政四(一八二一)年十一月十一月十七日甲子の夜であるから、有に百七十年以上経っている。
「信に」「まことに」。
「難ㇾ有人」「有り難き人」。
« 甲子夜話卷之六 20 松平幸千代元服のとき有德廟上意 | トップページ | 譚海 卷之三 尊純親王 (良純法(入道)親王の誤り) »