北原白秋 邪宗門 正規表現版 十月の顏
十 月 の 顏
顏なほ赤(あか)し……うち曇り黃(き)ばめる夕(ゆふべ)、
『十月(じふぐわつ)』は熱(ねつ)を病(や)みしか、疲(つか)れしか、
濁(にご)れる河岸(かし)の磨硝子(すりがらす)脊(せ)に凭りかかり、
霧の中(うち)、入日(いりひ)のあとの河(かは)の面(も)をただうち眺(なが)む。
そことなき櫂(かい)のうれひの音(ね)の刻(きざ)み……
淚のしづく……頰にもまたゆるきなげきや……
ややありて麪包(パン)の破片(かけら)を手にも取り、
さは冷(ひや)やかに香嚙(か)みしめて、來(きた)るべき日の
味(あぢ)もなき悲しきゆめをおもふとき……
なほもまた廉(やす)き石油(せきゆ)の香(か)に噎(むせ)び、
腐(くさ)れちらぼふ骸炭(コオクス)に足も汚(よ)ごれて、
小蒸汽(こじやうき)の灰(はひ)ばみ過(す)ぎし船腹(ふなばら)に
一(ひと)きは赤(あか)く輝(かが)やきしかの窻枠(まどわく)を忍ぶとき……
月光(つきかげ)ははやもさめざめ……淚さめざめ……
十月(じふぐわつ)の暮れし片頰(かたほ)を
ほのかにもうつしいだしぬ。
四十一年十二月
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