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2020/10/22

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之五 松村兵庫古井の妖鏡を得たる事

 

席上奇観垣根草五之巻

 松村兵庫古井(こせい)の妖鏡(えうきやう)を得たる事

 

[やぶちゃん注:本篇については、実は私は既に二度、全文電子化を行っている。最初は、

201749日公開の『柴田宵曲 續妖異博物館 「井の底の鏡」 附 小泉八雲「鏡の少女」原文+大谷正信譯』

で、そこでは、一九九〇年講談社学術文庫刊の小泉八雲著・平川祐弘編「怪談・奇談」の「原拠」で活字化された、本作の後代の改題本である晩鐘成編の「當日奇觀」(弘化五(一八四八)年板行)の「巻之第五」の「松村兵庫古井の妖鏡」を参考としつつ、恣意的に漢字を正字化したものである。次が、

2019105日公開の『小泉八雲 鏡の少女  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」巻之第五の「松村兵庫古井の妖鏡」(原本底本オリジナル版)』

で、そこでは、小泉八雲が実際に原拠原本とした、富山大学「ヘルン文庫」にある旧小泉八雲蔵本の(こちらからダウン・ロード出来る)「當日奇觀」巻之第五を底本として電子化したものである。

 さても、三度目の正直というわけではないが、今回は、原拠の改題本でないオリジナルが底本であるから決定版と言える(但し、既に述べた通り、底本は歴史的仮名遣の誤りや送り仮名を補正してある。既に述べているが、実は原本は歴史的仮名遣の誤りが甚だ多く、送り仮名も現行のように活用語尾を読みに含めて送っていないケースが散見され、実は原本は総ルビに近いものの、それらの点では誤りだらけと言ってよいのである。試みに本「巻之五」(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の校合している原本・PDF)を読んでみられるがよい)。注も、後者でかなり詳しいオリジナルなものを附したが、それも再度、徹底的に検証し直しをしてある。

 なお、私は同じものが原拠の『小泉八雲 伊藤則助の話  (大谷正信訳) 附・原拠「當日奇觀」の「伊藤帶刀中將、重衡の姬と冥婚」』とともに(先行する原拠はこちら)、小泉八雲の少女物(厳密には本篇では実在する「少女」ではないけれども――いや――少女――とは現実在を頑なに拒否する存在であってみれば――やはり「少女」である――)綺譚の名品として忘れ難いのである。絵師が挿絵に少女を描かなかったことが、一抹の恨みを残すと私は感ずる。

 

 南勢(なんせい/ミナミイセ)大河内(おほかはち)の鄕(がう)は、そのかみ、國司の府にて、南朝の頃までは、北畠殿、こゝにおはして、一方を領じたまふ。國府の西南に大河内明神(おほかはうちみやうじん)の社(やしろ)あり。國司より、宮宇(きゆうう/ヤシロ)も修理したまひ、神領(じんりやう)も、あまた寄せられしが、漸く衰廢(すいはい/アレハテ)して、嘉吉・文安の頃にいたりては、社頭も雨露におかされたまふ風情なりしかば、社官(しくわん/カンヌシ)松村兵庫なるもの、都に登りて、時の管領(くわんれい)細川家に由緖あるにたよりて、修造(しゆざう/サイコウ)の事を訴ふるといへども、前將軍義敎公、赤松がために弑(しい)せられたまひ、後嗣(こうし/ヨツギ)も、ほどなく早世ありて、義政公、將軍の職を繼ぎたまふ。打續きて、公(おほやけ)の事、繁きに、其事となく、すぎ侍(はんべ)れば、兵庫は、もとより、文才もかしこく、和歌の道なども、幼(いとけなき)より嗜(たしな/スキ)みたりしかば、

「幸(さいはひ)に、滯留して、其奧儀(あうぎ)をもきはめん。」

と、京極(きやうごく/テラマチ)今出川の北に寓居(ぐうきよ/カリズミ)して、公(をゝやけ[やぶちゃん注:原本のママ。])の沙汰を待居たり。

[やぶちゃん注:「松村兵庫」「斎宮歴史博物館」公式サイト内の学芸普及課課長榎村寛之氏の「第17話  伊勢と斎院を結ぶちょっと面白い話」に、本篇に基づく形で、以下のようにある。『三重県の松阪市内、といってもかなり郊外に、大河内城という城跡があります。室町時代に伊勢国司と守護を兼ね、織田信長に滅ぼされるまで伊勢の支配者として栄えた北畠氏の本城だったこともある所です。この国府、つまり大河内城の西南に大河内明神という社があり、北畠家の尊崇厚かったのですが、ご多分に漏れず、戦乱続く室町時代半ば頃には衰微著しく、嘉吉文安の頃』(一四四一年~一四四九年)『には修理もおぼつかないありさまとなっていました』。その頃、『この神社の神主に松村兵庫なる者がおり、室町幕府管領細川家につてがあったので、京に上って窮状を訴えたのですが、嘉吉の乱で六代将軍足利義教が赤松満祐に殺されたり、ほどなく八代将軍として足利義政が就任したりと』、『物情騒然の折から』、『なかなかよい回答も得られず、ただ待つばかりでした。しかし』、『兵庫はもともと風流人でしたので、この際和歌の道を究めようと、京極今出川に寓居したのです』とある。但し、これは全く本篇にまるまる拠った記載であるから、この人物が実在した証というわけには、残念ながら、ゆかない。

「南勢」南伊勢。次注参照。

「大河内明神」現在の三重県伊勢市辻久留(つじくる)にある、伊勢神宮豊受大神宮(外宮)の摂社志等美神社(しとみじんじゃ)と同じ社地内にある外宮(げぐう)摂社大河内神社(グーグル・マップ・データ)。ウィキの「志等美神社」によれば、『社殿は別であるが、志等美神社と同じ玉垣の中に鎮座している』。『外宮の摂社』十六『社のうち第』八『位である』。本話柄時制より後の『戦国時代に大河内神社が』、再び(本話柄が正しければそうなる)『荒廃した後、上社の境内社であった山神社となった』とあり、さらに、『現在の社名の読みは「おおこうち」であるが、古文書では「オホカハチ」、「オホガフチ」などのフリガナが付されている』ともある。

「南朝の頃」五十六年余り続いた南朝は、元中九/明徳三年十月二十七日(ユリウス暦一三九二年十一月十二日)の締結された「明徳の和約」に基づき、その七日後の同年閏十月五日(ユリウス暦一三九二年十一月十九日)に、南朝の後亀山天皇が吉野から京に帰還し、北朝の後小松天皇に三種の神器を渡して南北朝合一が行われた。それは本話柄時制より五十年余り前のこととなる。

「北畠殿、こゝにおはして、一方を領じたまふ」ここで示される「嘉吉・文安の頃」(一四四一年~一四四九年)という時制設定に限定するならば、室町中期の公卿で、権大納言・正二位の伊勢国司北畠家の第四代当主にして伊勢国守護大名であった、南朝を支えた公卿北畠親房の玄孫(やしゃご)に当たる北畠教具(のりとも 応永三〇(一四二三)年~文明三(一四七一)年)となる。ウィキの「北畠教具」によれば、父『が戦死した時は』七『歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行していた』が、嘉吉元(一四四一)年、十九歳で伊勢国司となった。その際、『将軍の足利義教から一字を賜って教具と名乗った。同年、義教が暗殺される事件(嘉吉の乱)が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康』『の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った』。文安五(一四四八)年には『長野氏と所領を巡り』、『合戦を行っている』とあって、設定と合致する。但し、この南伊勢を南朝方のしっかりした防衛地盤としたのは、親房の三男であった北畠顕能(あきよし:但し、一説には中院貞平の子で親房の養子にとなったともされる)が、建武政権期に父兄とともに伊勢国へ下り、同国司に任じられた後、多気を拠点として退勢著しい南朝軍事力の支柱として武家方に対抗したのが最初で、顕能は「伊勢北畠氏」の祖とされ、この「一方を領じたまふ」の歴史はそこまで遡った謂いととってよかろう。さらにそこから、南朝方の総司令官となった北畠親房が、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、内宮より外宮を優位とする伊勢神道の大成者であった度会家行の強いバック・アップを受けて、この伊勢に勢力圏を固めていたことまで遡れる地盤でもあったのである。これは本篇が下宮絡みであることからも、言っておいてよい事実であろう。

「時の管領細川家」以上の時制設定から、これは若き日の細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)と考えてよいように思われる。彼は嘉吉二(一四四二)年八月に父であった第十四代室町幕府管領細川持之が死去し、十三歳で家督を継承した。年少であったために叔父細川持賢(もちかた)の後見を受けたが、文安二(一四四五)年に畠山持国(徳本)に代わって十六歳で管領に就任している

「將軍義敎公、赤松がために弑(しい)せられたまひ」第六代将軍足利義教は専制を恣にし、守護家の家督にも積極的に介入、「衆議」の名目で細川氏を除く殆んどの宿老家の改変を行った。有力守護であった一色義貫(よしつら)・土岐持頼を暗殺、管領畠山持国を追放するなどしたことから、各守護は恐慌をきたし、先手を打つことで将軍の魔手を逃れようとした赤松満祐により、嘉吉元年六月二十四日(一四四一年七月十二日)、赤松の自邸に招かれ、宴会の席上で斬殺(斬首)された。享年四十八であった。

「後嗣も、ほどなく早世ありて」義教の嫡男で庶子の足利義勝が、管領細川持之ら大名に擁され、嘉吉二(一四四二)年十一月七日に九歳で第七代将軍となったが、翌年六年七月二十一日に逝去した。就任から僅か八ヶ月後のことであった。死因は落馬・暗殺など諸説あるが、赤痢による病死が有力とされる。

「義政公、將軍の職を繼ぎたまふ」義勝の後継将軍には、僧侶になることが予定されていた義勝の同母弟で、当時八歳であった三春(みはる:後の義政)が選ばれた。但し、義政の第九将軍就任はその六年後の文安六(一四四九)年四月であり、義勝・義政と、幼少の将軍が二代続いたことにより、朝廷や有力守護大名の幕政への過剰な関与が続き、将軍の権威が揺らぐこととなった。さても、本篇エンディングで、初めて、彼の治世が話柄内時制であることが判明する。他變でもそうだが、都賀は歴史経緯記載に拘る余り、話柄内時制を判り易くに示すことがなく、それが本作全体の一つの大きな欠点であると言える。

「京極(きやうごく/テラマチ)今出川」「京極」は元来、京都の四方の端を指す。現在の京都府京都市上京区今出川町はここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)だが(東直近に「室町幕府第跡」がある)、左ルビの寺町を生かすなら、寧ろ、その東の「今出川通り」と「寺町通り」の交差する辺りの北西に伸びる「寺町通り」附近を考えた方がいいかも知れない。]

 

 旅館の東北(ひがしきた)にあたりて、一つの古井(こせい/フルヰ)ありて、むかしより、

「時々、よく人を溺(をぼ/トル)らす。」

と、きゝたれども、宅眷(たくけん/カナイ)とてもなく、從者(じうしや)一人のみなれば、心にも挾(さしはさ)まず、暮しけり。

 其頃、畿内、大(をゝゐ[やぶちゃん注:原本のママ。])に旱(ひでり)して、洛中も水に乏しき折(をり)にも、かの古井(こせい/フルヰ)は涸(か)るゝことなく、水(みづ)、藍(あゐ)のごとく、みちたれば、近隣より、汲みとる者、多し。されども、人々、心して汲(く)むゆゑにや、溺るる者もなかりしに、或日(あるひ)、暮の頃、隣家(りんか)の婢(ひ)、例のごとく、汲まんとして、久しく井中(ゐちう)を窺ひ居たるを、

「あやし。」

と見るうちに、忽(たちま)ち、墜(お)ちいりて、溺れ死したり。

 井水(ゐすゐ)、きはめて深ければ、數日(すじつ)を經て、漸(やうや)く、その死骸をもとめ得たり。

[やぶちゃん注:「宅眷」ここは家族の意。「人を呑む井戸」となれば、婦女子がおれば、日頃、近づかぬように注意をさせて、自らも気を配っておらねばならぬけれども、というニュアンスである。]

 

 是より、兵庫、あやまちあらん事を怖れて、垣(かき)など、嚴しくしつらひたりしが、

「去るにても、あやし。」

と、おもふより、たちよりて、竊(ひそか)に窺ふに、中(なか)に、年の頃、二十(はたち)ばかりと覺しき女の、なまめけるが、粧飾(さうしよく)、いとうるはしく、粧(よそほ)ひて、あり。兵庫をみて、すこし、顏、そむけて笑ふ風情(ふぜい)、その艶(えん)なる事、世のたぐひにあらず、魂(たましい[やぶちゃん注:原本のママ。])、飛び、こゝろ、動きて、やがて、『ちかよらん』とせしが、おもひあたりて、

『扨は。かくして、人を溺らす、古井(こせい/フルヰ)の妖(えう/ヌシ)なるべし。あな、おそろし。』

と、急に立(たち)さりて、從者にも、此よし、かたく制して、近付(ちかづか)しめず。

[やぶちゃん注:「やがて」そのまま。すぐに。自制心が操作されて「思わず」そうしようとしているさまを表現している。

「扨は。かくして……」以下は二重鍵括弧である。決して松村は、無意識にも口に出して言ってはいない。言ってはいけないからである。こうした場合の「事上(ことあ)げ」は十全に注意しなくてはならぬ。近づくという自制心が利かなくなっている状態(これが既に相手の手の内にあるということは言うまでもない)で、生半可に相手の正体と思われる名指しを口にした場合、それが外れていれば、命を落とすことになるという民俗社会に於ける呪的システムが起動してしまうからである。その最たる例が悲劇の英雄倭建命(やまとたけるのみこと)が伊吹山の神の化身であった白い猪を神使と誤認した結果がそれである。それで彼は致命的な病いに罹患し、遂に死に至るのである。]

 

Yayoi

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵。合成は上手く行かないことが多いので、見開きからトリミングしただけで、やや清拭した。]

 

 或夜(よ)、二更の頃より、風雨、はなはだ烈しく、樹木を倒(たを[やぶちゃん注:原本のママ。])し、屋瓦(をくぐわ/ヤネノカハラ)を飛ばせ、雨は盆を傾(かたぶ)くるごとく、閃電(せんでん/イナヅマ)、晝のごとく、霹靂(へきれき/ハタヽガミ)、おびたゝしく震(ふる)ひ、天柱(てんちう)も折(くじ)け、地維(ちゆゐ[やぶちゃん注:ママ。])も崩るゝかとおもふうちに、天(そら)、晴(はれ)て、夜も明(あけ)たるに、兵庫、とく起(をき)て、窓を開(あけ)て外面(そとも)を窺ふところ、表に、女の聲して案内を乞ふ。

「誰(た)そ。」

と、とヘば、

「彌生(やよひ)。」

と、答ふ。

[やぶちゃん注:「二更」現在の午後九時又は午後十時から二時間を指す。亥の刻。

「地維」普通は「ちゐ(ちい)」と読み、大地を支えていると考えられた綱を指し、転じて「大地」の意。「天柱」の対語。]

 

 兵庫、あやしみながら、裝束(しやうぞく)して戶をひらき、一間(ひとま)に請(しやう)じて、これを見れば、先に井中にありし女なり。

 兵庫が云(いはく)、

「女郎(ぢよらう)は井中の人にあらずや。何ぞ、みだりに人を惑(まどは)して殺すや。」

 女、云(いはく)、

「妾(せふ)は人をころす者に、あらず。此(この)井(ゐ)、毒龍(どくりよう)ありて、むかしより、こゝに、すむ。ゆゑに、大旱(たいかん/オホヒデリ)といへども、水、かるゝ事、なし。妾は、中昔(なかむかし)、井に墜ちて、遂に龍(りよう)のために役便(えきし/セメツカヘル)せられ、やむことを得ずして、色(いろ)を以(も)て、人を惑(まどは)し、或は、衣裝・粧具(さうぐ/クシカウガイ)の類(るい[やぶちゃん注:原本のママ。])を以て、欺(あざむ)き、すかして、龍の食(くら)ふところに供(きよう)するのみ。龍、人血(にんけつ/ヒトノチ)をこのみて、妾をして、これを辨(べん)ぜしむる。其辛苦、堪(たへ)がたし。昨夜、天帝の命ありて、こゝをさりて、信州『鳥居(とりゐ)の池』にうつらしむ。今(いま)、井中(ゐちう)、主(ぬし)、なし。此時、君(きみ)、人をして妾を拯(すく)うて[やぶちゃん注:ママ。]、井を脱(だつ/ノガレ)せしめ給へ。もし、脱することを得ば、おもく、報ひ奉るべし。」

と、いひ終りて、行方(ゆきがた)をしらず。

[やぶちゃん注:「役便(えきし/セメツカヘル)」これは底本のままだが、原本を見るに、左ルビは『せめつかはる』(原本は左ルビも平仮名)である。「攻め仕へる」よりも、寧ろ、この原本の「攻め使はる」の方が正しいように私には思われる。

「カウガイ」「笄」。本来は「髪搔き」という道具を意味するもので、簪 (かんざし) と同義で、髪の乱れを整えたり、頭皮を搔くのに用いたり、髪を結髪する際の実用的な道具であったものが、近世以降、髪飾りの一つとなった。

「辨(べん)ぜしむる」処理させる。彼女に人の体から血を搾り取らせるというのである。

「信州『鳥居(とりゐ)の池』」ずっと「不詳」としてきて、誰からも情報はないが、今回、「或いは長野県下高井郡山ノ内町の志賀高原内にある大沼池のことではないか?」とも思った。この池、黒龍と黒姫の哀しい異類婚姻譚の伝説があり、何より、現在は池岸近くに鳥居が建っており、池の深い碧と相俟って美景として知られている(グーグル・マップ・データのサイド・パネルの鳥居入りの画像)のである。ただ、果してこの大沼神社(大沼池弁財天)がいつから存在したものか、定かでない。但し、個人サイト「神奈備」に載る本「大蛇神社」の掲示板の電子化によれば、伝承自体の時制は、登場人物の一人が室町後期から戦国時代にかけての武将で、高梨氏の全盛期を築いた上杉謙信の曽祖父(或いは大叔父か)ともされる高梨政盛(康正二(一四五六)年~永正一〇(一五一三)年)であるから、本作内時制には及ばぬとしても、作者都賀庭鐘が生きた時代には既に伝承としてあった可能性は排除出来ない(というだけのことで、実際に江戸以前からあった伝承だと私は言っているわけではない。だいだいからしてこれが広く知られるようになった採話自体は、松谷みよ子による再話で、ごく新しい。ウィキの「黒姫伝説」の「『信濃の民話』の「黒姫物語」」を参照されたいが、その「信濃の民話」の刊行は私の生まれた昭和三二(一九五七)年なのである)。]

 

 兵庫、數人(すにん)をやとひて、井をあばかしむるに、水、涸れて、一滴も、なし。

 されども、井中、他(た)のものなく、唯(たゞ)、笄簪(けんさん/カウガイカンザシ)のるゐのみなり。

 漸(やうや)く、底に至りて、一枚の古鏡(こきやう)あり。

 よくよく、あらひ淸めて、是をみるに、背(うら)に、

「姑洗之鏡(こせんのかゞみ)」

といふ四字の款識(くわんしき)ありて、

「さては『彌生』といひしは、此ゆへなり。」

と、香(かう)を以て其穢汚(ゑを)を清め、匣中(かうちう)[やぶちゃん注:小箱の内。]に安(あん)じ、一間(ひとま)なる所を淸くしつらひて置(をき)たりしに、其夜、女、又、來りて云(いふ)やう、

「君(きみ)の力によりて數(す)百年の苦(くるし)みをのがれて、世に出づることを得侍(はんべ)るうへ、不淨を淸めて、穢(けがれ)をさりたまひしゆゑ、とし月の腥穢れ(せいえ/ナマクサキケガレ)をわすれ侍り。そも、此井は、むかし、大(をゝゐ)なる池なりしを、遷都の時、埋(うづ)めたまひ、漸(やうや)く形ばかりを、のこしたまふ。都を遷(うつ)したまふときは、八百神(やほよろづ)の神々、きたりたすけ給ふゆゑ、其(その)むかしよりすみたりし毒龍(どくりう)も、せんすべなくして、井中(せいちう)をしめて、すまひ侍(はんべ)り。妾(せふ)は、齊明天皇の時、百濟國(くだらこく)よりわたされて、久しく宮中に秘め置(をか[やぶちゃん注:原本のママ。])れしが、嵯峨天皇のときに、皇女賀茂の内親王にたまはり、夫(それ)より後(のち)、兼明(かねあきら)親王の許(もと)に侍(はんべ)り。遂に藤原家に傳はり、御堂殿(みだうどの)[やぶちゃん注:底本で「みだう」を、「どの」は原本で示した。]、ことに祕藏したまひしが、其後(のち)、保元(ほうげん)の亂に、誤りて、此(この)井に墜ちてより、長く毒龍に責めつかはれて、今日(こんにち)にいたる。十二律にかたどりて鑄(ゐ)さしめらるゝ中(うち)、妾は、『三月三日』に鑄る所の物なり。君、妾を將軍家にすゝめたまはゞ、大いなる祥(さいはひ)を得給ふべし。其上、此所(このところ)、久しくすみたまふ所にあらず。とく、外(ほか)に移り給へ。」

と、懇(ねんごろ)にかたり終りて、かきけすごとくにして、其形を、みず。

[やぶちゃん注:「款識」(現代仮名遣「かんしき」)「款」は陰刻の銘、「識」は陽刻の銘で、鐘・鼎・鏡などの鋳造部に刻した銘・銘文を指す。

「姑洗」は「こせん」と読み、ここで述べる通り、陰暦三月の異称である。語源は少し手間取ったが、「姑洗」は第一義は、中国音楽の十二律(中国及び日本の古くからの音名。一オクターブ内に半音刻みに十二の音がある)の一音階で、基音とされる「黄鐘 (こうしょう)」より四律高い音を言うという(日本の十二律の下無 (しもむ) に当たるともあった)。而して「呂氏春秋」には音楽の「音律」というものの音の起原は「春夏秋冬の四季ごとに吹く風であるとする」らしく、そこで「季春(三月)には姑洗を生じ」と言っているとあるのが語源であるようだ。これは、「黄帝内経」研究家松田博公氏の週刊『あはきワールド』の「〈黄帝と老子〉雑観」第十六回「音楽と暦法が出逢うとき宇宙が構成される 『黄帝内経』の謎を解く鍵は数術にある(その4)」PDF)に拠った。ウィキの「十二律」によれば、『西洋音楽の音名と対照すると』、『規準音である黄鐘をAとした場合』、『姑洗』は『C♯』に相当するとあるから、ドの半音上相当となる。

「齊明天皇の時」彼女寶女王(たからのひめみこ/たからのおおきみ 推古天皇二(五九四)年~斉明天皇七(六六一)年:舒明天皇の皇后で天智天皇・間人皇女(孝徳天皇皇后)・天武天皇の母)は元は皇極天皇で、重祚して斉明天皇となった。斉明天皇としての在位は、斉明天皇元(六五五)年一月から斉明天皇七(六六一)年七月までで、「日本書紀」によれば、斉明天皇元年に二回、以下、同二年(一回)・三年(一回)・四年(二回)・六年(二回)・七年(一回)に貢献或いは遣使を受けている(但し、百済はこの六六〇年半ばに新羅からの援軍要請を受けた唐によって、事実上、滅ぼされている)。この内、斉明天皇重祚の表敬と思われる斉明天皇元年七月の『百濟調使一百五十人』と、同年のその後の『百濟大使西部達率余宜受。副使東部恩率調信仁。凡一百餘人』というのが遣使としては大規模で、この鏡が彼女に貢献されたとすれば、この二回の孰れかである可能性が高いようにも思われなくもない。もしこの時のものとすれば、この鏡は実に六百五十年以上も前の古物となる(因みに、参考までに遡って皇極天皇としての在位は皇極天皇元(六四二)年一月から皇極天皇四(六四五)年六月である)。

「嵯峨天皇」在位は大同四(八〇九)年四月から弘仁一四(八二三)年四月。

「皇女賀茂の内親王」嵯峨天皇の第八皇女有智子(うちこ)内親王(大同二(八〇七)年~承和一四(八四七)年)初代賀茂斎院。弘仁元(八一〇)年の「薬子の変」を契機に、初代賀茂斎院に定められたと言われる(先代で復位を試みた平城上皇が弟嵯峨天皇と対立し、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇が王城鎮守の神とされた賀茂大神(かものおおかみ)に対し、「我が方に利あらば、皇女を『阿礼少女(あれおとめ:賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)』として捧げる」と祈願したところ、「薬子の変」で嵯峨天皇側が勝利したため、誓約に従い、娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりとされる)。嵯峨天皇の皇子女の中でも豊かな文才に恵まれた皇女で、弘仁一四(八二三)年に嵯峨天皇が斎院へ行幸した際に優れた漢詩をものしたことから、感嘆した天皇は内親王を三品(さんぼん:親王位階の第三位)に叙したという。その詩作は「経国集」などに計十首が遺されており、日本史上、数少ない女性漢詩人の一人である(以上はウィキの「有智子内親王」に拠った)。私はこの事績を読むにつけ、或いは、この「彌生」、才媛にしてどこかで政争の被害者であったかも知れない有智子内親王の魂をも暗に示されているのではなかろうか? とも思うたのであった。

「兼明(かねあきら)親王」(延喜一四(九一四)年~永延元(九八七)年)は嵯峨天皇の八代後の醍醐天皇(元慶九(八八五)年~延長八(九三〇)年)の第十六皇子で、朱雀天皇・村上天皇・源高明の異母兄弟に当たる。一時、臣籍降下して源兼明(かねあきら)と名乗ったが、晩年になって皇籍に復帰し、中務卿となったことから「中書王(ちゅうしょおう)」などと呼ばれた。博学多才で書もよくしたという。

「御堂殿」藤原道長(康保三(九六六)年~万寿四(一〇二八)年)。

「保元(ほうげん)の亂」保元元(一一五六)年七月に発生した。]

 

 兵庫、その詞(ことば)のごとく、翌日、外(ほか)に移りて、事のやうを窺ふに、次の日、故(ゆへ[やぶちゃん注:原本のママ。])なくして、地、おちいり、家(いへ)も崩れたり。

 ますます、鏡(かゞみ)の靈(れい)にして、報ゆるところなるをさとりて、これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公、古翫(こぐはん/フルキドウグ)を愛したまふ折(をり)なれば、はなはだ、賞(しやう)したまひ、傳來するところまで、あきらかに侍(はんべ)るにぞ、

「第一の奇寶(きほう)。」

としたまひ、兵庫には、其賞として南勢(なんせい)にて一ケの庄(せう)を神領(じんりやう)によせられ、猶も、

「社頭再建は公(おほやけ)より沙汰すべき。」

よしの嚴命をかうむりて、兵庫は本意(ほい)のごとく、多年の愁眉(しうび)をひらきぬ。

 其後(のち)、此鏡、故ありて、大内(おほうち)の家に賜りしが、義隆、戰死の後は、

「その所在をしらず。」

とぞ、いひつたへ侍(はんべ)る。

[やぶちゃん注:「これを將軍家に奉るに、そのころ、義政公」とあることから、ここで初めて時制が明らかとなる。既に述べた通り、足利義政の将軍就任は文安六(一四四九)年四月十六日に元服し、同月二十九日に将軍宣下を受け、正式に第八代足利幕府将軍として就任している(満十三歳)。下限は彼の親政がまあ上手く行っていた、「長禄・寛正(かんしょう)の飢饉」(長禄三(一四五九)年から寛正二(一四六一)年にかけて日本全国を襲った大飢饉)よりも前ということになろうか。

「義隆、戰死」戦国大名大内義隆が家臣陶晴賢(すえはるかた)に反逆されて自害したのは、天文二〇(一五五一)年である。私の措定伝来からは実に八百九十六年後となる。]

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