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2020/10/10

都賀庭鐘 席上奇観 垣根草 巻之一 鹽飽正連荒田の祠を壞つ事 / 巻之一~了

 

     鹽飽正連(しあくまさつら)荒田(あらた)の祠(やしろ)を壞(こぼ)つ事

 寬正(かんしやう)の頃、笠原將監氏豐(かさはらしやうげんうぢとよ)といふものあり。肥前の產にて、大友の一族として累代一城の主(ぬし)なりしが、氏豐にいたりて、家門、衰へ、勢(いきおひ)、微にして、守ることあたはず、隣國に奔(はし)りて時を待ちけるが、應仁の戰(たゝかひ)に、細川に屬(しよく)して功あるによつて、將軍家に仕へて在京したりしに、文明のはじめ、細川・大内等の群雄も各國にかへりて、天下暫く靜(しづか)ならんとす。氏豐、細川を送りて、山崎にいたり、それより直(すぐ)に八幡(やはた)に詣でて、別當は舊知なれば、

「投宿して舊(きう)を語らん。」

と淀川を上るに、頃は神無月の一村雨(ひとしぐれ)、笘(とま)ふきわたし徒然(つれづれ)なる折しも、岸に人ありて便船を乞ふ。氏豐、

「幸(さひはひ)。」

と船をよせて、其姓名を問ふに、

「西國方(さいごくがた)の、士(さむらひ)にて荒田何某(なにがし)。」

と答ふ。武術・兵略を談ずるに、その辯(べん)、流るゝがごとくなるに、氏豐、

「益友(えきいう)なり。」

と悅びて、酒肴を命じて、これを饗(きやう/モテナス)ず。

 船、岸に着かんとする時、近く居(ゐ)よりて云(いは)く、

「我は、誠は讃州富田(とみだ)の邊にすむところの小神(せうじん)なり。『荒田の森』と呼びて、古(いにしへ)は宮宇(きうう)・廊門、結構ありしを、近年の兵革(けいかく/カツセン)に、誰(たれ)一人、修造(しゆざう)の者、なく、その上、土地、卑濕(ひしつ)にして魚龞(ぎよべつ)と居(きよ)を同じうするにいたる。君、明春(みやうしゆん)は彼(か)の地に下り給ふべし。ねがはくは、祠廟(しべう)を新にして舊觀に復せんことを。われ、又、君の福祐(ふくいう)を扶助(ふじよ/マモル)すべし。任(にん/ニフブ)に赴き給はゞ、訪(とぶら)ひ給へかし。されども神人(しんじん)の隔りたれば、僕從をしりぞけて、君一人、來りたまはるべし。」

と云ひをはりて、忽ち、其形を、みず。

 氏豐、奇怪とはおもへども、

『あはれ、一城の主(ぬし)ともなるべきや。』

と、末、賴みにおもひ居たりしに、その年もくれて、翌年の春、細川より、消息ありて、

「讃州に下りて、軍務を助けてんや。」

と侍(はんべ)るに、氏豐、神の詞(ことば)におもひ合せて、速(すみやか)に領掌して、彼(か)の地に下るに、幸ひ、富田の城守(しろもり)なければ、とて、氏豐をして守らしむ。

 氏豐、はじめて神の詞の差(たが)はざるに服し、

「荒田の森やある。」

と尋ぬるに、

「城南二里餘(よ)にして林あり。『荒田の森』と呼ぶ。神祠あれども、荒廢(くわうはい/アレヤブル)して纔(わづか)に形ばかりを存す。」

といふに、則ち案内を具し、かしこにいたるに、誠に人家を離るゝこと、一里餘にして、左は水に沿ひ、右は岡につゞき、老樹、高く聳えて、晝暗く、蘆葦(あしかや)茂りて、路をふさぐ。氏豐、神の約のごとく、僕從を遠ざけ、馬をおりて、只一人、路もなき所をわけ行くに、鳥居、朽ちて、路に橫たふれふす。額あれども、文字さだかならず。よくよく見るに、

「荒田明神」

の字あり。

「さては。社頭、遠からじ。」

と、なほ奧ふかくたどり行くに、一陣の風、起つて土沙(どしや)を捲き、咫尺(しせき)を辨じがたし。

[やぶちゃん注:「鹽飽正連」不詳。但し、塩飽(しわく/しあく)諸島(瀬戸内海の備讚(びさん)瀬戸の西部にある島々。現在は香川県に属する、広島・本島(ほんじま)・手島など、大小二十八の島から成る。瀬戸内海水運の要所で、中世には海賊・水軍の根拠地となった。ここ。グーグル・マップ・データ)に本拠地を置いた有力な一族に塩飽氏がおり、南北朝時代には南朝方海上勢力の一翼であったから、その一族の末裔の一人と考えてよい。ウィキの「塩飽諸島」によれば、『古代から海上交通の要衝で、潮流の速い西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島は、操船に長けた島民が住んだと考えられており、源平合戦における』「屋島の戦い」、「建武の新政」から離反し、『九州に逃れた足利尊氏の再上洛の戦い、倭寇などで活動したとする説があ』り、『戦国時代には塩飽水軍と呼ばれ、勢力を持っていたと考えられている』とある。

「笠原將監氏豐」「肥前の產」(現在の佐賀県出身)「大友の一族として累代一城の主なりし」と情報は一杯あるのだが、不詳。但し、サイト「戦国大名研究」の「笠原氏」を見ると、戦国時代の小田原北条氏の重臣に笠原氏がおり、系図を伝える家として『岡山県井原市神代の笠原家』と出、系図を見ると、名に「氏」を入れる先祖がいる。これは偶然に過ぎぬのかも知れぬが、井原市(グーグル・マップ・データ)は塩飽諸島に近い。

「荒田の祠」「讃州富田(とみだ)」「荒田の森」不詳。但し、この後の叙述から見て、現在の香川県さぬき市大川町富田中(とみだなか)にある富田(とみだ)神社(グーグル・マップ・データ)ではないかと私には思われる。根拠は後注「富田の城」以下の太字部分を参照されたい。

「寬正」一四六〇年~一四六六年。当時の室町幕府将軍は足利義政。

「應仁の戰」応仁の乱は応仁元(一四六七)年に勃発し、文明九(一四七八)年までの約十一年間に亙って続いた。

「細川」室町幕府管領であった細川勝元(永享二(一四三〇)年~文明五(一四七三)年)及び家督を継いだ幼少の嫡男政元を後見した分家の細川政国(正長元(一四二八)年~明応四(一四九五)年)。

「文明」一四六九年~一四八七年。

「細川・大内等の群雄も各國にかへりて、天下暫く靜(しづか)ならんとす」ウィキの「細川勝元」によれば、応仁二(一四六八)年閏十月』に足利『義政が伊勢貞親を復職させると、勝元は』足利『義尚を、宗全が』足利『義視を支持する立場に変わるなど』、『戦況も変わり、段々京都の戦闘が行われなくなる一方で地方に戦乱が波及、両軍はそれぞれの有力武将の寝返り工作へと戦略を変化させ、義視が西軍の総大将に祭り上げられ』、『幕府がもう』一『つ出来上がるまでになった。このような中で』、文明三(一四七一)年、『西軍の部将朝倉孝景を越前国守護に任じて寝返らせ、翌』文明四年に山名『宗全に和平交渉を試みるが、決裂』した。文明五(一四七三)年三月に『宿敵である宗全が死去して優位に立ったのも束の間、自身も後を追うように』五月十一日に死去した。『死因は病死と言われているが、一説では山名派による暗殺説もある。死後、政元が細川政国の後見の下で家督を継承』、文明六(一四七四)年四月三日に『宗全の孫・山名政豊と和睦を結んだ』とある。文明九年十一月には山名方の大内政弘(母が宗全の養女)や「応仁の乱」元凶の一人畠山義就(よしひろ/よしなり)らも本国に戻って、「応仁の乱」は漸く一応の終息を見た。

「細川を送りて、山崎にいたり」山崎は宗全の次男山名是豊がいた山崎城(京都府乙訓郡大山崎町字大山崎。グーグル・マップ・データ)のことであろう。彼は父とは不仲で、寛正元(一四六〇)年に兄の教豊が父と対立、播磨へ下向した際、父に家督を譲られることを望んだが、却下されたこと、寛正三(一四六二)年に細川勝元から備後・安芸守護職に任じられて河内嶽山(だけやま)城で畠山義就と戦ったこと(「嶽山城の戦い」)、寛正五(一四六四)年には山城守護職にも任命されたことなどから、「応仁の乱」では東軍の細川勝元方に組し、父の率いる西軍と争った(以上はウィキの「山名是豊」に拠った)。

「八幡」大阪府大阪市旭区清水にある八幡大神宮か(グーグル・マップ・データ)。

「卑濕」土地が低く、しかもじめじめしていること。

「龞」スッポン。

「任(にん/ニフブ)」左ルビは「入部」。国司や領主がその支配する領内に始めて入ること。]

「消息」手紙。

「富田の城」この城名を探ると、サイト「城郭放浪記」で、ここにある讃岐国「六車(むぐるま)城」が別名を「富田城」ということが判った。しかし、ここでは(リンク先に地図有り)先の富田神社は北西の方向になり、「南」に合わない。しかし、その地図の北方を見ると、今一つ、「雨滝(あめたき)城」というのがあるのが判る。同サイトの「雨滝城」を見ると、『築城年代は定かではないが』、長禄年間(一四五七年〜一四六〇年)に『安富盛長によって築かれたと云われる。安富氏は播磨国三ケ月郷を領していたが』、応安年間(一三六八年〜一三七五年)『頃に細川頼之に従って讃岐国にきた』とある。この細川頼之は勝元の五代前の当主であるから、関係がある。しかも、現在の住所でも、さぬき市大川町富田中(とみだなか)である。但し、雨滝城から南西に当たりはするものの、その距離は僅かに五百メートルしかない。しかし、考えてもみて貰いたいが、現行の二里は八キロ弱であり、そんなに行ったら、富田の地区は軽く通り抜けてしまう。寧ろ、作者は実際にここに行ってロケーションを確認したのでないとするならば(その可能性は高いと思う)、話の中で直近の五町にも満たない近くでは、話としてスケールが如何にも小さくなってしまう。さすれば、ここではそれを引き延ばして距離を示したとすれば、私は腑に落ちるのである。当初は、中世の距離単位の「小道」で五町=一里(約五百四十五メートル)で示したかと思ったが、それでも倍であることが判ったので、以上のように考えた。但し、実際には後で実際に行ってみると、「一里餘にして」着いているとあるわけで、小道一里でも概ね適合するのではないかとも私は考えるのである。

「左は水に沿ひ、右は岡につゞき、老樹高く聳えて」現在の富田神社社頭に西を向いて立つと(グーグル・マップ・データ航空写真)、南(左)方向に津田川が流れ、正面西方向から北(右手)に向かって雨滝城跡のある雨瀧山へと繋がる丘陵地がある。そして、富田神社境内には大楠(二十二メートル)と大杉(十八メートル)が聳えているM.Tanida氏のサイト「巨樹と花のページ」の「富田神社の大楠と大杉」に写真がある。

「蘆葦(あしかや)茂りて、路をふさぐ」現在の富田神社の周辺(グーグル・マップ・データ)は池沼多く、先の津田川も近いことが判る。さすれば、先の「卑濕」と荒田神が言った言葉ともよく合致するのである。

 

 暫くありて、衣冠、正しくて出できたるあり。則ち、前年見〔まみ〕えたりし神なり。氏豐、地に伏して、祐助によりて眉目(びもく)を開きたることを謝す。神、又、約を失(しつ)せざるを稱して、手をとりて進むこと二町餘にして、社頭にいたる。

 拜殿は基礎(きそ/イシズヱ)のみを、あませり。社も、軒、朽ち、甍(いらか)破れて、荒廢年久しと見ゆ。傍(かたはら)の林の中に、人の叫ぶ聲、きこゆるに、

「誰。」

と、とへば、神云く、

「當國入江鄕に鹽飽正連(しあくまさつら)と云ふものあり。われに不敬(ふけい/ブレイ)なりしゆゑ、此(こゝ)に繫ぎて一年餘にいたる。小吏に命じて其罪を責めしむ。されども、宿罪、漸く畢(をは)りて、五三日〔ごさんにち〕[やぶちゃん注:例示定数ではなく「数日」の意。]のうちには放(はな)ち還すべし。」

とあるに、氏豐、恐懼(きょうく/オソレ)して、その他を問はず。別れを告げてかへらんとするに、神、また、再三、修造の事を託(たく/タノム)す。氏豐、敬諾して出づるに、鳥居の邊(へん)まで送りて、神は、その去るところをしらず。

[やぶちゃん注:「二町」二百十八メートル。]

 

 氏豐、城に歸りて、頻りに修造を企てんと、おもひめぐらせども、連年、戰爭のうへ、近年、荒年(くわうねん)[やぶちゃん注:凶作。]うち續きて費用(ひよう/イリメ)たらず。いかんともすべき樣(やう)なく、一夜(いちや)、思索して、翌月、早旦に鹽飽が館(たち)に至る。

 鹽飽は一族多く、ことさら正連にいたりて、武威、漸く强くして、細川にも屬(しよく)せず、一方[やぶちゃん注:自分の一族の領地の謂いか。]を守りしが、氏豐、推(を[やぶちゃん注:原本のママ。])して相見(さうけん/タイメン)をもとむるに、臥病(ぐわびやう)を以てこれを謝(しや/コトワル)す。氏豐、再三强ひて後(のち)、やむことを得ずして病床にありて對面す。正連云く、

「某(それがし)、去年以來、疾(やまひ)に染み、就中(なかんづく)、時々(じゝ)痛楚(つうそ)、堪へがたく、身心、困倦(こんけん)して、命(いのち)、旦夕(たんせき)にせまる。君(きみ)、何(なん)の議すべきありて、駕(が)を枉(ま)げたまふや。」[やぶちゃん注:「痛楚」苦痛がひどいこと。「楚」には「痛む・苦しむ」の意がある。「困倦」 苦しみ疲れること。疲れて飽きること。「駕を枉げ」貴人がわざわざ来訪する。転じて、「来訪する」の意の尊敬語。「蜀志」の「諸葛亮伝」が原拠。この「枉(ま)ぐ」は、「乗物の行き先が別にあるのに敢えてそれを変えてまでしてこちらに来られた」の意があるので敬語となるのである。]

と訝(いぶか)るに、氏豐、僞(いつは)りて云く、

「某(それがし)、貴所の病(やまひ)、その據(よ)るところをしる。依つて、聊(いさゝ)か一言(いちごん)を進めんために來れり。某、前年、異人に逢うて、鬼神(きしん)を刈驅役(くえき)するの術、粗(ほゞ)學びえたり、頃日(このごろ)、城南『荒田の森』に至るに、彼(か)の神、貴所の不敬を怒りて、桎梏(しつこく)して呵責(かしやく)を加ふ。某、その痛楚をみるにしのびず、『この人をして、新に祠廟を營(えい)して、罪を謝せしむべし。その桎梏をとき、疾(やまひ)をして、平復ならしめんこと』を乞ふ。神、點頭(てんとう/ウナヅク)[やぶちゃん注:ここは原本を参考に左読みを添えた。原本は左読みも実は平仮名なのである。]して諾(だく)しぬ。貴恙(きよう/ソコノヤマヒ)除かんこと、兩三日のうちに、あるべし。願はくは、平復の後、修造(しゆざう)の事、怠りたまふべからや。」

といふに、正連、僞りて諾し、

「貴府(きふ)のをしへに從ふべし。」[やぶちゃん注:「府」は長官を指す唐名。城主であるから、かく敬語を用いたのである。]

といふ。

 氏豐、その計(はかりごと)の成りたるを悅(よろこ)んで歸る。

 果して、三日を過ぎて、病、ことごとく癒えて、氣力、平日のごとく、正連、家の子郞從を集めて云く、

「某(それがし)、生平(せいへい)、神明をあなどり、鬼神をけがしたる事、なし。然るに、去年以來の病、『荒田の神』の崇(たゝり)なるよし。よつて、罪を謝せんため、祠廟を再建すべしと、笠原氏豐が敎ふるところ、默止(もだ)しがたきに似たれども、『荒田の神』、我になんの恨〔うらみ〕かある。つらつらおもふに、前年、夢中に老人來りて、自(みづか)ら修造の事を託す。その地を問へば、『荒田の神』なり。某、古記(こき/ムカシノキロク)を案ずるに、往年、彼(か)の地に大蛇(だじや)すみて、害をなす。高圓(たかまど)何某(なにがし)なるもの、これを殺して後、なほ、邪祟〔じやそう〕[やぶちゃん注:漢字表記は原本を採用した。読みは原本も底本もママ。後の注を必ず参照されたい。]甚だし。故にその髑髏(どくろ/サレカウベ)を祭りて祠(やしろ)を建てたりしより、土人所願を祈るに其驗(しるし)あるによりて、漸く、宮宇、莊麗になり、四時の祭祀たゆることなし。されば國の宗廟(さうべう)、社禝(しやしょく)の神にもあらず。詮(せん)するところ、淫祠(いんし)にして崇(たつと)ぶべき理(り)、なし。況や、連年の兵亂(ひやうらん)に、大小の神社佛閣、兵火にかゝりて荒廢したる、その數(かず)をしらず。それだに、民(たみ)、饑ゑて、國用、たらざる折なれば、再建(さいこん)を議するに暇(いとま)あらず。民の愚なるより、淫祠を祭りて、神祇を傍(かたはら)にし、僧徒は漫(みだり)に功德(くどく)を募りて、無益(むやく)の大刹(たいさつ/テラ)を建てゝ、血山(けつさん)・肉池(にくち)を開きて民力(みんりよく)を費す。幸(さいはひ)にして廢したるものを、又もや、修造(しゆざう)せんこと、益、なし、と、打捨ておきたりしを、憤りて、禍(わざはひ)をなすと覺ゆ。それ、神は民人(みんじん)を扶護(ふご)するものなるを、民の饑ゑたるをもかへりみず、己(をの[やぶちゃん注:原本にママ。])が祠廟を建てざるを憤り、私怨(しゑん)を含む。豈(あに)神の心ならんや。唐土(もろこし)にも兩頭の蛇をころして祥(さいはひ)に逢ひ、淫祠を壞(こぼ)ちて榮達なりし例(ためし)あり。かゝる殘忍の妖蛇、すて置くときは、民の禍なり。除かずんばあるべからず。」

とて、僕從(ぼくじふ)數(す)百人を具して、彼の地にいたり、殘祠を壞(こぼ)ちて、海に沈め、片瓦(へんぐわ/カハラノカケ)も殘さず、火を放ちて森を燒拂(やきはら)ひ、掃除一空(さうぢよいつくう)して後(のち)、富田に來り、氏豐に謁す。

 氏豐、その平復を賀し、且(かつ)、修造の事を促す。

 正連、祠(やしろ)を壞ちたることを具(つぶさ)に語るに、氏豐、駭(おどろ)きて、面(おもて)、土のごとし。

 正連、その利害をさとして、憚るところ、なし。

 氏豐、すべきやうなく、初(はじめ)より正連をすかしたる事たれば、今更、言葉なくして、やみぬ。

 この後、心うれひて、たのしまず。

[やぶちゃん注:「邪祟(じやそう)」であるが、ここは問題があって、原本では『邪崇』、底本は『邪祟』となっているのであるが、孰れも『じやそう』とルビを振っている。しかし「邪崇」ならば、「じやすう」(じゃすう)「じやしゆう」(じゃしゅう)「じやしゆ」(じゃしゅ)でなくてはならないし、「邪祟」ならば、「じやすい」(じゃすい)でなくてはならず、孰れの読みも総て間違いなのである。しかも、困ったことに「邪祟」は小学館「日本国語大辞典」に「じゃすい」で『邪悪なもののたたり。よこしまなたたり』と載るのだが、「邪崇」は載らない。しかしどうも、後者も漢語の熟語としてあるらしい(私は実は「邪祟」も「邪崇」も使ったことがなく、今日まで不学にして見たこともないのだが)のである。個人ブログ「alternativemedicine」の「朱丹渓の欝証」に、元代の「四大家」の一人とされる儒医朱丹渓がおり、彼より『以前の医家は、鬼神の祟り(邪崇)を』鬱証(うつしょう:現在の鬱病様態)と同じとしていた『が、朱丹渓は『医師としての視点から、東洋医学史上初めて、邪崇(鬼神)と鬱証を明確に区別した』とあるからである。則ち、「邪」悪な鬼神の齎す「祟」りを「邪崇」と呼ぶらしいのである。しかし、本邦の辞書に掲載されているか、いないかを考え、意味としては朱丹渓のそれも判るのであるが、ここは原本は無視し、底本のものを採用することとした。しかし、読みは「じやすい」でなくてはならぬのである。

「社禝」社稷(しゃしょく)に同じ。元は古代中国で天子や諸侯が祭った土地の神(社)と五穀の神(稷)を指したのが、転じて「朝廷」・「国家」の意となり、また、朝廷・国家の尊崇する神を指すというフィード・バックをした語。ここはまあ、正統な信仰を受けるべき神仏でない、邪悪な変化の物の怪だと一蹴しているのである。

「兩頭の蛇をころして祥に逢ひ、淫祠を壞ちて榮達なりし例」前者はかなり知られた春秋時代の楚の公族で令尹(宰相)となった賢人孫叔敖(そんしゅくごう)の少年期のエピソードである。河野長生氏のブログ「中国通史で辿る名言・故事探訪」の「両頭蛇」に詳しい。かの三国時代の覇者、魏の曹操(一五五年~二二〇年)が二十九で済南(さいなん)の相(宰相)になった際、当時、同地方に沢山あった前漢の皇族城陽景王劉章(紀元前二〇〇年~紀元前一七七年)を祭った宗廟を、淫祀として破壊し、その崇拝を禁止じたことなどが浮かぶ。]

 

 一月餘を經て、城外に獵(かり)して、日暮れてかへるに、馬、駭(をどろ[やぶちゃん注:原本のママ。])きて、進まず。

 あやしみ思ふに、白衣(はくえ)にして、髮ふり亂し、手に、刀、提げたるが、馬前にたちたり。

 よくよくみれば、「荒田の神」なり。

 眼を瞋(いか)らし、罵(の)[やぶちゃん注:ママ。]つて云く、

「汝、信なきは、いふにたらず。毀滅にいたるこそ恨(うらみ)なれ。必ず、報ゆべし。」

と、高聲(かうしやう)にきこゆるに、氏豐、泣いて、始末(しまつ/ハジメヲハリ)をかたりて、これを謝す。

 神、顏色とけずして云く、

「正連、威・福、盛んにして前年の類(るゐ)にあらず。われ、敵すべき事、あたはず。汝、祿命(ろくめい/シアワセ[やぶちゃん注:ママ。])衰へて、恨を報ずる時なり。」

と云ひをはりて、忽ち、その行く所をしらず。僕從、はじめより、其形をみず。

 氏豐、これより、病を得て、旬餘(じゆんよ)にして、遂に死す。

 その子孫、みな、夭折して、一門滅するに至る。

 正連、ますますさかえて、後(のち)、入道して守敬齋(しゆけいさい)と號し、八十餘にして死す。一族、盛んにして、世々、武名をおとさゞりしとぞ。誠に豪傑の手段(しゆだん/テギハ)といふべし。

 

席上奇観垣根草一之巻終

[やぶちゃん注:正連の謂いは誠に正しい。正しいからこそ「荒田の」(蛇=邪)「神」は彼に復讐出来ないわけだろう。城陽景王劉章が崇められて宗廟が作られたのは、彼が生前、正当に評価されず、貧乏籤を引いて恨みを含んだ亡くなった英雄、本邦で謂う「御霊(ごりょう)」だったように、この「荒田の神」も同じく低・中級レベルの邪心に過ぎず、後に出家入道した正連には手も出せなかったということであろう。考えてみれば、このロケーションの近くには御霊の頭目の一人、崇徳院の御陵白峯もあるわけだもんな。]

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