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2020/11/30

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(2:熊)

 

○熊、古事記に、神武天皇熊野村にて大熊に遇玉〔あひたま〕ひしことを載せ、伴嵩蹊の說に、栂尾山所藏「熊野緣起」に、同帝三十一年辛卯、髙倉下尊〔たかくらじのみこと〕、紀南にて長〔たけ〕一丈餘にて金光を放てる熊を見、また靈夢を感じ、寶劒を得たりとある由、熊野の名之に始まると云ふ今も紀州に予の如く熊を名とする者多きは、古え[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]熊をトテムとせる民族ありしやらん、蝦夷人が熊を崇めて神とすると考へ合すべし、北越雪譜初編卷上に、「山家の人の話に、熊を殺すこと二三疋或ひは年歷たる熊一疋を殺すも、其山必ず荒るゝことなり、山家の人此を熊荒〔くまあれ〕といふ、此故に山村の農夫は需〔もとめ〕て熊を捕る事無し」と云ひ、想山著聞奇集卷四に、熊を殺す者、その報ひにて常に貧乏する由記せるも、古え熊を崇めし痕跡なるべし。

[やぶちゃん注:「古事記に、神武天皇……」「古事記」の「中つ卷」の冒頭の神武天皇記の一節に、

   *

故神倭伊波禮毘古命。從其地𢌞幸。到熊野村之時。大熊。髣髴出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命。鯈忽爲遠延。及御軍皆遠延而伏。此時。熊野之高倉下。齎一橫刀。到於天神御子之伏地而。獻之時。天神御子卽寤起。詔長寢乎。故受取其橫刀之時。其熊野山之荒神。自皆爲切仆。爾其惑伏御軍。悉寤起之。故天神御子。問獲其橫刀之所由。高倉下答曰。己夢云。天照大神。高木神。二柱神之命以。召建御雷神而詔。葦原中國者。伊多玖佐夜藝帝阿理那理。我之御子等。不平坐良志。其葦原中國者。專汝所言向之國故。汝建御雷神可降。爾答曰。僕雖不降。專有平其國之橫刀。可降是刀。降此刀狀者。穿高倉下之倉頂。自其墮入。「故建御雷神敎曰。穿汝之倉頂。以此刀墮入。」故阿佐米餘玖汝取持。獻天神御子。故如夢敎而。旦見己倉者。信有橫刀。故以是橫刀而獻耳。

   *

 故(かれ)[やぶちゃん注:そして。]、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)[やぶちゃん注:神武天皇の国風の呼称。]、其地(そこ)より𢌞(めぐ)り、熊野の村に幸到(いたりま)しし時に、大きなる熊、髮(くさ)[やぶちゃん注:叢。]より出で入りて、卽ち、失(う)せぬ。

 爾(ここ)に神倭伊波禮毘古命、倐忽(にはか)に遠延(をえま)し[やぶちゃん注:病み疲れなさり。]、御軍(みいくさ)及(まで)も、皆、遠延(をえ)て伏しき。

 此の時、熊野の高倉下(たかくらじ)[やぶちゃん注:人名。朝廷の倉を管理する者か。]、一橫刀(ひとたち)を齎(も)ちて、天つ神の御子の伏(こや)せる地(ところ)に到(いた)りて之れを獻(まつ)る時、天つ神の御子、卽ち、寤(さ)め起(た)ち、

「長く寢(ぬ)るや」

と詔(の)りたまひき。故、其の橫刀を受け取りたまふ時に、其の熊野の山の荒ぶる神、自(おのづか)ら皆、切り仆(たふ)さえき。爾(ここ)に、其の惑(を)え伏せる御軍、悉く、寤め起ちき。

 故、天つ神の御子、其の橫刀を獲(と)りつる由(ゆゑ)を問ひたまひしかば、高倉下、答へ曰(まを)さく、

「己(おの)が夢(いめ)に云(まを)さく、天照大神(あまてらすおほみかみ)・高木(たかき)の神二柱(ふたはしら)の神の命(みこと)を以ちて、建御雷神(たけみかづちのかみ)を召(よ)びて詔りたまはく、

『葦原の中つ國は伊多(いた)く佐夜(さや)ぎて阿(あ)りなりり[やぶちゃん注:ひどく騒がしいようである。]。我が御子等(ども)、不平(やくさ)み坐(ま)すらし[やぶちゃん注:病んで、悩んでおられるようである。]。其の葦原の中つ國は、専(もは)ら汝(いまし)が言向(ことむ)けつる國故(ゆゑ)、汝(かれ)、建御雷神、降(おも)らさね。』

と、のりたまひき。

爾(ここ)に答へ曰(まを)さく、

『僕(やつこ)降(あも)ずとも、専ら其の國を平(ことむ)けし橫刀、有り。是の刀(たち)を降さむ。此の刀を降さむ狀(かたち)は、高倉下の倉の頂(むね)を穿(うが)ちて、其こより墮(おと)し入れむ。故、阿佐米余(あさめよ)く[やぶちゃん注:「朝目宜く」で、「朝、起きて見れば、うまくそこに」の意か。]、汝(なれ)、取り持ち、天つ神の御子に獻(まつ)れ。』

と、のりたまひき。故、夢の教への如(まま)、旦(あした)に己(お)のが倉を見しかば、信(まこと)に、橫刀、有りき。故、是の橫刀を以ちて獻(まつ)らくのみ。」

と、まをしき。

   *

訓読や意味は、概ね、角川文庫「古事記」(武田祐吉訳注他・昭和五六(一九八一)年第六版)に拠った。後半部を採ったのは、この熊が相応の呪力(身体を疲弊させる)を持つ土着神の示現であったことを理解するためである。

「伴嵩蹊」(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」や随筆「閑田耕筆」「閑田次筆」。熊野地名由来譚として原文に当たりたいが、熊楠の引用元が判らぬ。識者の御教授を乞う。【2020年12月1日追記】いつもお世話になっているT氏より、「關田次筆」の巻之三にあるという御指摘を戴いた。

〇古事記神武天皇條に、「大熊髮出入卽失」といふ文面、諸先達、皆、解得(ときえ)ず。然るに、栂尾山の古文書の「熊野緣記」の所に、「古事記」の文、二行を引し中に、「大熊髣髴出入」と見ゆ。是にて明白也。「此古文書は三百年斗以前のもの也。夫より後に寫誤る成べし」と、竹苞樓主、語れり。
所持する吉川弘文館随筆大成版で確認、T氏の指示して下さった国立国会図書館デジタルコレクションの画像も視認して、電子化した。T氏は『「金光を放てる熊」も「熊野の名之に始まると云ふ」も出てきません』と述べておられる通りで、ここのところ、注を作成する中で感じていることであるが、南方熊楠は、和書の場合は自分の記憶に頼っていて、原本に当たって確認していないのではないか? という強い疑いを感じていたが、これを見るに、その疑惑を強くした。T氏に感謝申し上げる。

「熊をトテムとせる民族」「トテム」はトーテム(totem)。特定の社会集団に於いて、婚姻・禁忌などに関連して特殊な関係を持つ動植物・鉱物などの自然物を指す。語はアメリカ先住民(インディアン)の一つであるオジブワ族の言葉「ototeman」(「彼は私の一族のものである」の意)に由来する。熊楠も述べているように、本邦では先住民族であるアイヌがイオマンテの祭儀によって熊を神に送り返す儀式の中に熊をトーテムとした信仰が認められることは周知の通りである。

「北越雪譜初編卷上に……」「北越雪譜」現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買(ちぢみなかがい)商と質屋を営んだ随筆家鈴木牧之(まきゆき 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)が越後魚沼の雪国の生活を活写した名作。初編三巻・二編四巻で計二編七巻からなる。天保八(一八三七)年に初編が江戸で出版されるや、ベスト・セラーとなった。真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの海岸で読み耽ったほどの私の愛読書である。以上は同書の「初編 卷之上」の「白熊(しろくま)」の条の附記。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。初編卷之上)を視認して示す(「20」コマ目)。読みは一部に留め、句読点を打った。【 】は原本の二行割注。

   *

      ○白熊(しろくま)

熊の黑きは、雪の白がごとく天然の常なれども、天公(てんこう)、機を轉じて、白熊(はくいう)を出せり。

○天保三年[やぶちゃん注:一八三二年。]辰の春、我が住(すむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内、浦佐(うらさ)宿の在(ざい)、大倉村の樵夫(きこり)八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊(こくま)を虜(いけど)り、世に珍しとて、飼ひおきしに、香具(かうぐ)師【江戶にいふ見世もの師の古風なるもの。】、これを買もとめ、市場又は祭禮、すべて人の群(あつま)る所へいてゝ、看物(みせもの)にせしが、ある所にて余(よ)も見つるに、大さ、狗(いぬ)のごとく、狀(かたち)は全く熊にして、白毛、雪を欺(あざむ)き、しかも、光澤(つや)ありて天鵞織(びらうど)のごとく、眼(め)と爪は紅(くれなゐ)也。よく人に馴なれて、はなはだ愛すべきもの也。こゝかしこに持あるきしが、その終(をはり)をしらず。白亀の改元、白鳥(しらとり)の神瑞(しんずゐ)、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国(みくに)の祥象(しやうせう)なれば、天機(てんき)、白熊(はくいう)をいだししも 昇平萬歲(しようへいばんぜい)の吉瑞成べし。

[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]

  山家の人の話に、熊を殺すこと、二、三疋、或ひは年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、かならず、荒(ある)る事あり。山家(さんか)の人、これを「熊荒(あれ)」といふ。このゆゑに、山村の農夫は需(もと)めて熊を捕る事なし、と、いへり。熊に㚑(れい)ありし事、古書(こしよ)にも見えたり。

   *

「白亀の改元」養老八年二月四日(七二四年三月三日)に紀(きの)朝臣家から、手に入れた白いカメの献上があったことから、それを瑞祥として「神龜」(しんき/じんき)と改元され、また、神護景雲四年十月一日(七七〇年十月二十三日)光仁天皇即位(同年同月同日)に際し、肥後国より相次いで白い亀が献上されたことから、それを吉祥として「寶龜」に改元されたことを指す。

「白鳥の神瑞」記紀に見える、垂仁(すいにん)天皇の皇子誉津別命(ほむつわけのみこと 生没年未詳:一説に垂仁天皇五年に焼死したとする)は、生まれてから成人するまで言葉を発さなかったが、ある日、鵠(くぐい。白鳥)が空高く渡る様子を見て、「是、何物ぞ。」と初めて言葉を発し、天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じ、鵠を遊び相手にさせると、誉津別命は普通に会話が出来るようになったと伝える。

「想山著聞奇集卷四に……」「想山著聞奇集」は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作。動植物奇談・神仏霊異・天変地異など、五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。私は全篇の電子化注を本ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で終わっている。熊楠の示すものは、「美濃の國にて熊を捕事」の追記部分の最後に現われる。追記部を総て示す。

   *

「北越雪譜」に、山家(さんか)の人の話に、『熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり』云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕(とる)事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五、六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の、五、七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。

   *

下線部が熊楠の縮約の元である。但し、正しい梗概とは言えない。]

御伽比丘尼卷一 ㊂あけて悔しき文箱 付リ 義に輕命

 

   ㊂あけて悔しき文箱付リ義に輕(かろき)命

 東海道の、ある邊〔あたり〕に禪林寺あり。弘法(ぐほう)めでたくみえて、僧徒多く、小性(〔こ〕しやう)あまたある中に、美㙒戸(みのへ)庄の介といふ男色(なんしよく)、顏(かん)ばせ、ことにすぐれ、むかし、男の初(うゐ)かうぶりせし姿、鐵拐(てつかひ)がふき出〔いだ〕せし美童も、かくや、參學(さんがく)の窓に蛍(ほたる)を集め、才智、他にすぐれたれば、老和尙のおぼえ、あはれみ、殊にふかし。

 同じ寺内に、眞悔(しんかい)とかやいへる牢人あり。去(さる)子細有〔あり〕て、弓矢の家を出〔いで〕、竹林院といへるは、母がたの伯父なりければ、是につきて、顯性成仏(けんしやうじやう〔ぶつ〕)の心法(しんぱう)をまなぶ。されど、やめがたき情(なさけ)の道、若きも老(をい)たるもと、書〔かき〕たる、實〔げに〕、さる事ぞかし。

 ある夕暮、庄之介をかゐまみてより、思ひの火をむねにたき、夜はすがらにいねもやらず、やるかたなさ、此まゝに思ひ死(しに)なんも、さすがなれば、

『ゆめ計〔ばかり〕なりとも、しらせばや。』

と思ひ入日のかげたのむ、同宿の僧に、

「かうかう。」

とかたれば、いとやすく、事うけしぬ。

 眞悔、限(かぎり)なくうれしさあるは、詩(からうた)に思ひをのべ、ある時は和歌の文字をつらねて、恨(うらみ)かこち、いひ送りけるほどに、庄の介も、又なく、哀(あわれ)にたへで覺えければ、是より、ま見えそめて、限(かぎり)なき情(なさけ)をかさねけり。

 又、ある夜、少年の部(へ)やに、しのび行〔ゆき〕て、雨のつれづれをかたるつゐで、少年のいふ、

「かく此日比〔このひごろ〕の御情(〔おん〕なさけ)、淺からぬに、此身を任せまいらせながら、我〔われ〕計〔ばかり〕こそ、あすをも期〔ご〕せぬにて候へ」

など、思ひしほれ語るを、眞悔、打聞〔うちきき〕て、

「何とや、かく心ぼそくもの給ふにはあらん。我、かく兄弟(はらから)の約(やく)をなし、二世〔にせ〕かけて思ひ侍る上は、假(たとひ)一命(めい)は、わぎみ故〔ゆゑ〕朽果(くちはつ)るとも、いとふべき物かは。南無弓や神〔がみ〕大ぼさち、ゆめゆめ、變じ申〔まうす〕べきに非ず。いかならん大事にてもあれ、是迄、隔(へだて)給ふは情(なさけ)なし。」

など、打恨(〔うち〕うらめ)ば、少年、世に心よげに、

「扨〔さて〕は、うれしや。賴もしく社(こそ)候へ。今は何をか包(つゝみ)侍らん、我は、是、大事の親の敵(かたき)をねらふ事、久し。敵、此國にすむよし、しりて、朝夕、尋ね候へども、我、五才の春の暮に、父を討(うた)せぬれば、敵の㒵(かほ)もさだかならず、むなしく月日を送るに侍り。」

と、淚、袖に餘りてかたれば、

「扨は。左(さ)にて侍るか。我、かくて在〔ある〕からは、御心〔みこころ〕やすかれ。扨、其かたきの假名(けめう)は。」

と、

「相〔あひ〕かまへて外〔ほか〕へもらし給ふな。敵の名は竹尾武右衞門(たけをぶ〔ゑもん〕)、只今は名をかへて隱住(かくれすみ)侍るよし、爲方(せんかた)なき次第にこそ。」

と、いへば、眞悔、ほゝえみ、

「其武右衞門は、我、ほのかに聞〔きき〕し事、あり。此上は、いかならん謀(はかり)をもなし、一たび、かれにめぐりあはせ、本望(ほんもう)をとげさせ申さん事、何のうたがひかあらん。」

など、いと賴母敷(たのもしく)、こしかた語りあひけるほどに、山寺の嵐(あらし)、こと更にけうとく、かねの聲、ふけ過(すぐ)るまでにきこゆれば、いとまこひて、わが宅(たく)に歸りぬ。

 其あけの日、

「眞悔のもとより。」

とて、文箱(〔ふみ〕ばこ)にふうつけたる、あはたゞしく持來(もち〔きた〕)れり。心ならず、ひらけば、

[やぶちゃん注:以下、底本では書信本文全体は一字半ほど下げとなっており、最後の「一」を打って二つ続く添書はそれぞれの「一」(「ひとつ」と読んでおく)のみが行頭にあり、二行目以降は孰れも一字下げとなっている。底本原本(ここと、ここ。後者には右手に挿絵がある)を見られたい。ここでは無視し、その代わりに前後を一行空けた。文(ふみ)の雰囲気を出すために句読点ではなく、字空けで処理した。]

 

    書置(かきおき)申一通

あだしのゝ露とりべ山の煙立さらぬ世のためし 一代敎主(〔いち〕だいきやうしゆ)だにのがれ給はぬ此みち まゐて愚なる此身に於てをや 誠にいかなるえにしにや在〔あり〕けむ かりそめに見初(〔み〕そめ)てより 心も空(そら)になるとなる あはぬつらさを とやかくと なげき やうやう 心も白雪の とけて互(たがひ)のいと惜(をし)み 又 あるべき事かは 哀(あはれ) いかならんふしぎもあれかし 「命(いのち)を君に參らせなん」と 日比 思ひ川の かく迄深き心とは いかで人はしり給ふべしや 夕べ 承り候ひしわぎみが親の敵 武右衛門 只今は 真悔 我にて 侍り 根(ね)をたつて 葉をからす敵の末にしあれば うち申さん事 籠鳥(ろうてう)のごとく やすく覺へ侍る されど 我が手にかけて いかでか君をころし申べきや 誠に 人 多(をほき)中に かたきと敵〔てき〕めぐりあひ 兄弟(きやうだい)の約(ちぎり)をなす事 爲(ため)しなき因果の道理にこそ侍れ 其上 我 「一命にかけても敵をうたせ申さん」と誓ひを立〔たて〕し事あり 此故に かく思ひ定(さだめ)ぬ 急ぎ くびうつて おやの教養に手向(たむけ)給へ 實(げに)はらからの契り朽(くち)ずは 一返(〔いつ〕ぺん)のゑかうをも よのかたの百千(もゝち)にもまさり申べく候

一 此事 夢(ゆめ)計〔ばかり〕もしらせ申さぬ御恨(〔おん〕うらみ) かゞみにかけ覺へ候 かくと申〔まうし〕侍らば いかで我が望(のぞみ) 叶ひ侍らん 此所〔このところ〕 よく御弁(〔お〕わきま)へありて可給候〔たまふべくさふらふ〕

一 思ひ置(おく)事もあらず候 見苦敷(みぐるしき)物は はや とく仕舞(しまひ)申候 大小と小袖は住持へ御つかはし可給候 自筆の歌仙一卷(まき) 黑髮は そのかたへ送り申候 朽(くち)ぬは筆の跡とかや承り置候まゝ遣し申候以上

 春の花秋の紅葉の一葉たに

    うき世に殘る色は非じな

  十月三日夜染ㇾ之       眞 悔

  美㙒邊庄の介どのヘ

 

[やぶちゃん注:辞世の一首はベタ一行であるが、上句と下句を分離して示した(表記は底本のままとした)。「美㙒邊」の表記はママ。「染ㇾ之」は「之れを染む」で、原本に「そむ」の読みが振られてある。]

 

と書〔かき〕たる。

 少人〔せうじん〕、此一通に驚(おどろき)はしり、つきてみるに、かひがひ敷〔しく〕、腹、十文字に切〔きり〕、心もとを、つらぬき、臥(ふし)ぬ。

 あたりの僧、出合(いであい)て、事のやうを聞〔きく〕に、少人、

「かうかう。」

と語り、

「我、夢にもしりなば、かやうには非(あら)じ物を。」

と、死骸にいだき付〔つき〕て、歎き悲しめども、歸らず。

 「命(めい)は義によつてかろし」といひしは、かゝる事にや、と、各(おのおの)すみ染の袖をぬらし、其夜、僧徒、打〔うち〕より、葬(はうふり)の式、おごそかに取行(〔とり〕おこない)ぬ。

 其後、一七日〔ひとなぬか〕の夕〔ゆふべ〕、庄の介、仏前に、押(おし)はだぬぎ、既に自害に及(およぶ)を、同宿ども、見つけ、とりつきたれば、和尙も御出〔おで〕ましまし、さまざま、敎訓あそばし、

「惜(おし)きかな、十六の秋、其日、則(すなはち)發心(ほつしん)して、なき人の跡、父の尊靈(そんれう)ぼだひ、ともに一蓮詫生の追善ゑかうをなし給ひけるが、世にたぐいなき道人(どうにん)にて在〔あり〕ける。」

とぞ。

 

Aketekuyasiki

 

[やぶちゃん注:挿絵は少年の自害を描いたものであるから、最後に配した。今回は「西村本小説全集」のそれの、上下左右の罫線を除去して示した。

「男の初(うゐ)かうぶりせし姿」「伊勢物語」の「初冠(うひかうぶり)」(元服)の美少年の映像をダブらせる。

「鐵拐(てつかひ)がふき出せし美童」李鉄拐は中国の代表的な仙人を指す「八仙」の一人。しばしば口から魂のような気を吐いている画像(事実、彼が自分自身を口から吹き出したと記される)で描かれる。医術を司り、やはり八仙の一人である呂洞賓(りょどうひん)の弟子とされる。名はアイテムとして鉄の拐=杖を持つことから(片足が不自由であったとも言われる。後述。今一つ瓢簞を持つのも定番)。本邦では蝦蟇仙人とペアで描かれることが多い。魂だけを離脱させて自在に往き来出来たとする。中文サイトに、『稱其爲呂洞賓的弟子。傳稱李凝陽應太上老君與宛丘先生之約、魂游華山。臨行、囑咐其守魄(軀殼) 七日。無奈其徒之母突然急病而欲速歸 、遂於第六日化師之魄。李凝陽游魂於第七日回歸時、無魄可依、即附於一餓殍之屍而起、故其形醜陋而跛右脚』とあった。荒っぽく訳してみると、「ある時、鐵拐は仙界へと呼ばれ、立つに先立って、弟子に『七日間、私の魄(魂が空の肉体)を見守っておれ』と言ったが、その弟子の母が急病となったため、すぐに帰郷したくなった。遂に弟子は六日目に鉄拐の魄を別なところに移して出発してしまった。七日目に鉄拐の魂が戻ってきた時、魄がないため、仕方なく、近にころがっていた行路死病人の遺体に入った。それ故にその容貌は醜く、右足は跛(びっこ)を引いている」といった感じか。なお、鉄拐の話というのでは知らぬが、仙人や妖術使いが口から、バカスカ、人を次々と出して、それらが連鎖して話となるという幻術談は志怪小説ではかなりオーソドックスなものである。私の「柴田宵曲 續妖異博物館 吐き出された美女」が纏まっており、私が原話も注で附しているので、参照されたい。

「牢人」「浪人」に同じ。

「竹林院」不詳。

「顯性成仏」「見性成佛」の表記が一般的。本来的に各人が持っている自身の本性や仏心を見極めて悟ること。全ての人が本来的に仏であることを体感として正しく認知し得ることを指し、特に禅宗で頻繁に用いる認知法である。

「心法(しんぱう)」仏教に於ける心の在り方を指す語であるが、仏教用語の場合は、「法」は歴史的仮名遣を、本来の「はふ」ではなく、「ほふ」で読むという慣用例式があるので、厳密には「しいぱふ」と読むのが正しい。但し、一般名詞として「心や精神の修養法」の用語も既に存在したし、意味もそれで通るので問題はない。

「やめがたき情(なさけ)の道、若きも老(をい)たるもと、書〔かき〕たる」まず、教科書には載らないから(性的である上に女性に対して偏見的差別的だからな。「土佐日記」は知らぬ者はないが、一月十三日の条の終わりの「何(なに)の葦蔭(あしかげ)にことづけて、老海鼠(ほや)の交(つま)の胎貝鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ、脛(はぎ)に上げて、見せける」というお下劣な場面を知ってる人は殆どいないようなもんさ。私は大学二年の中古文学演習でこれを論文として提出し、担任でもあった教授に「君は変なところに拘るね」と言われつつも、「優」を貰ったのを思い出す)、意外に知られていないが、「徒然草」第九段の以下。

   *

 女は髮のめでたからむこそ、人のめだつべかめれ。人のほど、心ばへなどは、物うち言ひたるけはひにこそ、ものごしにも知らるれ。事に觸れてうちあるさま[やぶちゃん注:ちょっとした素振り。]にも、人の心を惑はし、すべて、女(をんな)のうちとけたる、いもねず[やぶちゃん注:しかし、気を許して寝るということもせず。]、身を惜(を)しとも思ひたらず、堪ゆべくもあらぬわざにもよく堪へしのぶは、ただ色を思ふがゆゑなり。まことに愛著(あいぢやく)の道、その根、深く、源(みなもと)、遠し。六塵[やぶちゃん注:清浄な心を穢す六種の知覚感覚刺激(色(しき)・聲(しょう)・香・味・觸(そく)・法(意識の中で対象となるように感じられる「概念」のこと))。]の樂欲(げうよく)[やぶちゃん注:たまさかに心を樂しましせる欲。]多しといへども、皆、厭離(えんり)しつべし。その中に、たゞかの惑ひ[やぶちゃん注:色欲。]のひとつ、止めがたきのみぞ、老いたるも若きも、智あるも愚かなるも、變る所なしとぞ見ゆる。されば女の髮すぢを縒(よ)れる綱には、大象(だいざう)もよくつながれ、女のはける足駄(あしだ)にて造れる笛には、秋の鹿、必ず寄ると、いひ傳へはべる。みづから戒(いまし)めて、恐るべく愼むべきは、この惑ひなり。

   *

「南無弓や神〔がみ〕大ぼさち」「南無弓矢神大菩薩」。弓矢の神である八幡大菩薩であるが、これは、武士が誓約する際の常套句で「八幡大菩薩にかけて誓って」の意から、「神かけて・誓って」の意で用いる。

「變じ」心変わりする。

「假名(けめう)」通称・俗称。

「あだしのゝ露とりべ山の煙立さらぬ世のためし」よほど、筆者は「徒然草」が好きらしい。芥川龍之介曰はく、『わたしは度たびかう言はれてゐる。――「つれづれ草などは定めしお好きでしせう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未嘗愛讀したことはない。正直な所を白狀すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中學程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。』。私の『芥川龍之介「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版 附やぶちゃん注釈) つれづれ草』をどうぞ。

「一代敎主(〔いち〕だいきやうしゆ)」阿弥陀や釈迦を除き、現世で宗派等を創始した開祖。「いと惜(をし)み」表記はこうだが、意味は「愛(いと)ほしむ」。

「日比 思ひ川の かく迄深き心とは いかで人はしり給ふべしや」「ひごろ、おもひかはの」の「かは」は、係助詞の「か」+「は」であるものの、変則的用法である(圧倒的に反語で用いられるが、ここは稀な疑問の意であるからである)。而して、その「かは」が「川」に掛けられて、「かくまで」も「深き心」であった「とは、いかで人はしり給ふべしや」と続いた最後で反語の意味となる。寧ろ、前の「かは」は凡そそのように感じてはいなかったという驚きを示す語として機能しているが、それが思いもしなかったという反語的ニュアンスとして現れたものとも言える。

「かたきと敵〔てき〕めぐりあひ」後を「かたき」と訓じると、私は意味上の澱みが生じると感じたので、かく訓じておいた。あくまで宿命の対関係としても、「庄の介」の立場に立って思いやりを持って眞悔は文を記している。その思いからも「かたき」とは私は到底、読めぬのである。

「ゑかう」「囘向」。

「かゞみにかけ覺へ候」古語に「鏡を掛く」の語があり、これは「鏡に映して見るように、はっきり知っている」の意であるから、「重々承知しておりまする」の意。

「大小」刀と脇差。

「春の花秋の紅葉の一葉たにうき世に殘る色は非じな」整序すると、

 春の花秋の紅葉(もみぢ)の一葉だに

       うき世に殘る色はあらじな

似たものに、江戸初期の近江の知られた陽明学者中江藤樹(慶長一三(一六〇八)年~慶安元(一六四八)年)の一首に、

 春の花秋の紅葉とうつりゆく

    色は色なき根にぞあらわる

がある。

「心もとを、つらぬき」心の臓を一突きにし。

「命(めい)は義によつてかろし」掛け替えのない命(いのち)も、正義のために捨てるのであれば、少しも惜しくなくなる。「後漢書」の「朱穆(しゆぼく)傳」に基づく。

「ぼだひ」「菩提(ぼだい)」。

「一蓮詫生」「一蓮托生」が正しい。

 この手の男色絡みの仇討譚の類話は意外と多いが、男色の恨みは、男女のそれよりも強烈な傾向があり、大抵は凄惨な修羅場の展開となる。例えば、「老媼茶話巻之五 男色敵討」である。他に私の電子化の中には、シチュエーションも酷似して、寺に居住まいする少年が、仇相手と知らずに寺内の浪人の男に懸想され、それを知って切り殺して逃げる話があるはずだが、思い出せない。発見したら、リンクさせる。それらに比すと、エンディングは哀れを誘うが、本篇は男色の誓詞を守って美しい一篇と言える。少年の父を何故に殺害したかという部分に及んでいないことも、本映像が透明で美しく保存されている理由のような気もする。]

2020/11/29

南方熊楠 南方隨筆 始動 / 画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「南方隨筆」の電子化注を始動する。「南方隨筆」は大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、平凡社「南方熊楠選集3」(一九八四年刊)の「南方随筆」(新字新仮名)をOCRで読み込み、使用した。この回でのみ、読みが難しいと思われる箇所には〔 〕で私が推定で歴史的仮名遣で補った。

 博覧強記の南方熊楠の作品に注を附すのは至難の技だが、私が躓いた箇所に禁欲的に附したつもりだったが、結局、やり始めたら、エキサイトしてマニアックになってしまった。

 なお、私は既にサイト版で、本作中の「俗傳」パートにある、

「山神オコゼ魚を好むということの話」

「イスノキに関する里伝」

「奇異の神罰 附やぶちゃん詳細注」

「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」

「通り魔の俗説」

「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」

臨死の病人の魂、寺に行く話」

「睡中の人を起こす法」

「魂空中に倒懸すること」

等をかなり昔に電子化しているが、それらは新字新仮名であることから、ここで改めて電子化してブログ版で正字正仮名版を完結する予定である。【20201129日 藪野直史】]

 

 

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 南 方 熊 楠 著

 

 南 方 隨 筆

 

        岡  書 院 版

 

[やぶちゃん注:扉。後でこの題簽の文字のことが編者の序で述べられるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして掲げておいた。]

 

 

大正九年八月二十三日、南方氏は小畔四郞氏と
携へて高野山に粘菌採集に赴き、一乘院に宿り
飮み且つ談じて數日を送られた。寫眞は二十六
日に同院で撮影したものである。向つて左方は
南方氏、同右方は小畔氏である

 

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[やぶちゃん注:写真は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして正立させて用いた。上記はそのキャプション。

「大正九年」一九二〇年。

「小畔四郞」小畔四郎(こあぜしろう 明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年:熊楠より八つ下)は熊楠が亡くなるまで有能な助手として彼を支えた人物。所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年講談社(現代新書)刊)の中瀬喜陽(ひさはる)氏の記載によれば、新潟県長岡生まれとするが、詳細は未詳で、明治二七(一八九四)年に横浜高等小学校を卒業、後に『日本郵船に入社、日露戦争に従軍して陸軍中尉となる。退役後、近海郵船神戸支店長、内国通運専務、石原汽船顧問などを歴任した』。『小畔がはじめて熊楠に出会った日のことを「それは十二月末か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。那智のことは御木本(みきもと)の養殖真珠の顧問西川理学士から聞いていたのでした。中川烏石』(那智大社の観音堂の前の「中川不老軒」という石を扱う珍物店(現存。グーグル・マップ・データ。私はこの近くの宿坊尊勝院に泊ったことがあり、この店も知っている)の主人)『さんのことも聞いていたのでした。随分珍しいものを持っていると――。さて滝を見ようと一、二町手前まで行った時に、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に興味をもって研究していたので「どうですか」と話しかけたが、フンとかウンとか言って一向相手になってくれない。それで蘭の話をもちかけるとやっと話に乗って来た。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、わたしは名刺を出して、郵船につとめているのだというと、その大坊主先生『ワシは微生物の研究をしているのだが郵船の連中ならロンドン時代によく知っている』とロンドンの話がでた」(「南方先生を偲ぶ」『紀伊新報』昭和十七年一月十八日)と回想しているが、熊楠の日記では、それは一九〇二(明治三十五年)一月十五日のことで、「午後那智滝に之(ゆく)、越後長岡の小畔四郎にあふ。談話するに知人多くしれり。共に観音へ参り、堂前の烏石といふ珍物店主を訪」と記し、同様のことは後年の「履歴書」にも出る』(「履歴書」は、このカテゴリ「南方熊楠」で全電子化注を終えているが、その「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」にそのシークエンスが出る)『この出会いから意気投合した二人はしきりに文を交わす。熊楠の日記には小畔に送るべき風蘭を集めた記事もある。おそらくは、小畔に見返りとして寄港の先々で目についた藻や粘菌の採集を頼んだにちがいない。そうした中で、小畔は粘菌の方でもひとかどの研究者として育っていった』とある。以下、続くが、同書は「南方熊楠資料研究会」公式サイト内で有意な部分が電子化(全篇電子化予定であるが未だ途中)されているので、こちらで続きを読まれたい。

「一乘院」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

大正十年十一月三日、南方氏は單身高野山に登り、一乘院に
投宿して粘菌の採集に努めた。天か時か、獲るところが頗る
多く、欣喜禁ずる能はず、矢立の禿筆を呵して獲たる菌類を
前に、右手に好める酒壺を、左手に筆を持てる自畫像を描き
左の事を記して在大連の小畔氏に寄せた。南方氏が得意と滿
足との絕頂に達した時の記念である。 

 拜呈一昨日登山、去年ノ一乘院ノ室ニトマリ菌ヲ畫

 スルコト夥シ、昨日苔ノ新屬一本發見致シ候 

  久さびらは幾劫へたる宿對ぞ 

               熊 楠 畫

 

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[やぶちゃん注:画像とキャプション。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 

 

      編 者 序

 

一、夙に刊行さるべき筈の南方氏の書物が、我が國で刊行されなかつたに就ては相當の理由がある。氏は日本の現在の國情に愛憎を盡かしてゐる。就中、學者を尊重せぬ氣風を嫌厭してゐる。從つて發表すべきものがあれば外國でするとて、是れまで誰がすゝめても首を縱に振らなかつた。これが氏の書物刊行されなかつた大なる原因である。然るに今度は如何なる風の吹き廻しにや、容易に承諾されて、然も南方隨筆ば啻〔ただ〕に第一輯のみならず、續南方隨筆、更に第三輯を續刊することまで許されたのである。

一、その代りと言ふ譯でもないが、原稿の取捨から排列の次第、序文、校正まで一切私にやれとのことであつた。私は決して其の器でないことを知つてゐるので、出來るものなら辭退したいと思ふたのであるが、下手にそんなこと言ひ出して、又もや冠を曲げられてはと思ひ返して引受けることゝした。元より器でない私がやつたことゝて南方氏にも愛讀者にも、不滿と不足を與ヘたことゝ恐縮してゐる次第である。

一、本書の原稿は各項に附記した如く南方氏が執筆された東京人類學雜誌と鄕土硏究から抽出し、それを論考俗傳の二篇に分類し、やゝ年時を趁〔お〕ふて編輯した。勿論、この分類が嚴正を欠き、年時が次第に從はぬなどあるのは私の罪である。

一、各篇の標題は出來るだけ改めぬやうにしたが、中に一二は體裁の上から改めたものもある。然しそれは他意ある譯ではなく全く編輯の便宜から來たゞけのことである。

一、南方氏の行文運墨には、氏一流の語法があつて、猥りに他人の容喙〔ようかい〕[やぶちゃん注:横から口出しをすること。]を許さぬ。それ故に假名遣ひや送り假名や句讀なども、原文そのまゝとして敢て觸れぬことゝした。下手なことして一喝を食ふより此の方が仕事も樂だからである。

一、校正は嚴密にした積りであるが、何分にも引用文は和漢梵洋と來てゐるのだし、一々原書に就かうにも南方氏以外は持つてゐぬ珍本奇籍が多いことゝてそれも出來ず、且つ當世放れした用字が多いので活版所も私も可なり泣かされた。然し魯魚焉馬の誤りの尠く無いことは全く私の罪である。再版の折には更に嚴重に訂正したいと思うてゐる。

一、本書の題簽に就ては、岡書院主と額を鳩〔あつ〕めて種々相談して見たが名案が浮ばぬので、是非なく弘法大師の筆蹟から蒐めて是れに充てた。これは南方氏が代々眞言宗の信徒であつて、且つ故高野山座主土宜法龍師とは倫敦〔ロンドン〕以來の飮み仲間でもあり、それに氏の發見せる粘菌の多數は高野山で獲られたものと聞いてゐるので、それやこれやで斯う極めたのである。恐らく此の題簽だけは六つかしやの南方氏も岡氏と私の苦心を買つてくれることだらうと信じてゐる。更に裝幀に就ては全く岡書院主が南方式の氣分を出したいと瘦せるほど苦心をされたのである。これも南方氏が我が意を得たものとて悅んでくれる事だらう。

一、今昔物語の硏究に就ては、曩〔さき〕に刊行された芳賀矢一氏の攻證校訂の今昔物語に、南方氏の學說及び考證が澤山取入れられてゐるにもかゝはらず、その事が一言半句も明記されてゐぬので、本書に收めたそれが却つて芳賀氏の攻證に負ふところがありはせぬかとの誤解を受けては困るから、その點は判然と然も明確にして書いてくれとのこと故に、茲に其の事を明かに記述して置く。卽ち芳賀氏の攻證は全く南方氏の考證を受け容れたものであると云ふ事を。

一、續南方隨筆には、氏が考古學雜誌、變態心理及びその他に寄稿したもののうちから抽出して編輯する考へである。而して記事索引は續集に二册分を整理して付ける考へである。敢て江湖の淸鑑を仰ぐ次第である。

 

        大 正 丙 寅 五 月

               中 山 太 郞 識  

 

[やぶちゃん注:こんなに面白い編者注というのも珍しい。

筆者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:熊楠より九歳年下)は本名を中山太郎治と言い、柳田國男・折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者である。ウィキの「中山太郎」を見ると、柳田とも折口とも晩年は絶縁状態にあったことが判る。本書の最後に跋文様の「私の知れる南方熊楠氏」も記している。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加した後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

「芳賀矢一」(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)は知られた国文学者。越前出身。明治三五(一九〇二)年に東京帝国大学教授となり、後に国学院大学長を兼ねた。ドイツ文献学の方法を取り入れ、現代国文学研究の基礎を築いたとされ、国定教科書の編集にも関与した。ここで問題されているのは大正二(一九一三)年から大正一〇(一九二一)年にかけて富山房から刊行した「攷証今昔物語集」(上・中・下三巻)編であろう。国立国会図書館デジタルコレクションで三巻とも読める。「今昔物語の硏究」に至るまでは、大分、時間がかかる。どこをどう剽窃したのか、ダウン・ロードして、じっくり読んでみる。

「大正丙寅」(ひのえとら/へいいん)大正十五年で一九二六年。

 以下、目次であるが、最後に回す。]

 

 

   論  考

 

 

       本邦に於ける動物崇拜

 

 人類學會雜誌二八八號二一六二二九頁に、山中笑君「本邦における動物崇拜」の一篇有り。讀んで頗る感興を催し、往年在英中「アストン」「ジキンス」諸氏の爲めに、此事に就て聚錄せる材料中より、追加すること次の如し。

[やぶちゃん注:以下、この論文の主本文の初出は明治四四(一九一一)年七月発行の『東京人類學會雜誌』(熊楠は「人類學會雜誌」と記しているが、こちらが正式な誌名で、そもそも組織名自体が「東京人類學會」であった)二十五巻二百九十一号であった。「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。

「山中笑」名は「えむ」と読む(改名後の本名)。ペンネームは山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)。牧師で民俗学者・考古学者。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。彼の「本邦における動物崇拜」も「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。本篇の執筆動機となったものであるから、この注で電子化しようとも思ったが、少し分量があるので、近日中に、別立てで電子化することとする。

「アストン」ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)はイギリスの外交官で日本学者・朝鮮語学者。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで、初期日本研究の著名な一人。熊楠は直接会ったことはなかった模様である。

「ジキンス」フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)はイギリスの日本文学研究者・翻訳家。イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めたが、初の本格的英訳とされる「百人一首」を始めとして、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られ、アーネスト・サトウとも交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援を受けており、深い交流があった(ここはウィキの「フレデリック・ヴィクター・ディキンズ」に拠った)。]

 本邦上古蛇狼虎等を神とし、甚きは皇極天皇の御時、東國民が、大生部多(オホイクベノオホシ)に勸められて、橘樹等に生ずる常世の蟲を神とし、祭て富と壽を求めたる事、伴信友の驗の杉に述られたり、されど後世に迨〔および〕ては、直接動物を神とし拜するは希にて、多くは神佛、法術等に緣〔ちなん〕で、多少の宗敎的畏敬を加えらるる[やぶちゃん注:ママ。]に過ぎざること、まことに山中氏が述べられたる如く、それすら、目今舊を破り故を忘るゝの急なるに當り、此邊僻の地(紀伊田邊)に在〔あつ〕て、孰れが果して已に過去の夢と成り畢〔をは〕り、孰れが今も行はれ居るかを判斷するは、望む可らざる事たるを以て、暫く管見の儘、現時なほ多少、其曾て崇拜されたる痕跡を留存するらしいと思はるゝ者を爰に擧ぐべし、動物名の上に○を印せるは、山中君の論文已に列記せる者にて、山何頁と書せるは、同論文の何頁めにこの說ありと云ふ意なり。

[やぶちゃん注:「大生部多」ウィキの「大生部多」では、「おおうべのおお」と読んで、生没年不詳とし、『飛鳥時代の人物。シャーマン。姓は』なかったとする。『大生部は職業部』(べ)『の内の壬生部』(みぶべ)『(諸皇子の養育に携わる人々とその封民)の一つであり、平城京木簡によると』、『その殆どが伊豆国田方郡吉妾郷』(比定地は現在の沼津市大字西浦木負(にしうらきしょう)を中心とした内浦重寺(うちうらしげでら)から西浦江梨(にしうらえなし)までの一帯。この付近。グーグル・マップ・データ)『を拠点としている』という。『多は駿河国の不尽河(富士川)辺の人』で、皇極天皇三(六四四)年に『タチバナやイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサン』(鱗翅目ヤママユガ科シンジュサン属シンジュサン Samia cynthia pryeri :翅を開張すると十四~十六センチメートルになる大きな蛾で、翅の色は褐色を呈し、全ての翅に一つずつ特徴的な三日月形の白紋を有する)『の幼虫)を常世神であると称し、それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返ると吹聴した。そのため、人々は虫を台座に安置し、舞い踊り』、『家財を喜捨して崇め、往来で馳走を振る舞い、歌い踊り恍惚となり富が訪れるのを待った』。『やがてこの騒動は都のみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出して社会問題となる。渡来系の豪族であった秦河勝はこの騒動を懸念して鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐(生死不明)した』。『常世の虫に関しては、道教の「庚申待」と「三尸」説の影響を感じるものとする意見がある』とある。

「伴信友」(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)は国学者で「驗の杉」(しるしのすぎ)は天保六(一八三五)年に成った稲荷神社(伏見稲荷大社)についての考証書。表題のそれは、古くから伏見稲荷大社にある神木の杉で、参詣者が折り帰った杉の枝を植え、久しく枯れなければ、祈願の験(しるし)があったとされたものに因む。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションで同書をざっと見たが、見当たらなかった。]

 ○猿は產の安きものとて、今は知らず、二十年計り前迄、和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、婦人產月近づく每に之に詣で、禮拜して其の像を借受け枕頭に祭り、安產し畢れば、同樣の猿像一を添へ禮賽して件の祠へ返納せり。

[やぶちゃん注:「和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、……」これは和歌山県和歌山市有本にある若宮八幡神社である。そのサイド・パネルでも猿の像が、ここと、ここで見られる。「朝日新聞」の「わかやま動物ウオッチング」の記事「177 連綿と継がれた瓦猿の信仰」に、「瓦猿(かわらざる)」の話が載り、『瓦猿は日吉山王神社(和歌山市有本)に子授けや安産祈願として奉納されています。山王総本宮の日吉大社(大津市)の神の使いは猿です。本社禰宜(ねぎ)の矢頭英征さんによると、神が宿る比叡山に生息するサルが信仰の対象となって、本社では神猿(まさる)として、厄よけ(魔が去る)や必勝(勝る)祈願がなされるそうです。瓦猿を通じての安産祈願は紀州での民間信仰とみられます』。『日吉山王神社宮司の岩橋利茂さんによると、鎌倉時代の』建久九(一一九八)年に『後鳥羽上皇が熊野詣の帰りに神社に立ち寄った際に、お供に命じて境内に瓦の窯を造らせ、安産祈願として瓦猿を作らせたという言い伝えがあるそうです』。『拝殿には奉納された瓦猿が、何十体も厳かに並べられていました。子授けや安産を願う人は、この縁起の良い瓦猿を』一『体、お守りとして持ち帰り、無事出産したら新しい瓦猿をもう』一『体買いそろえて、自分と生まれた子どもの』二『体にして奉納するそうです。現在も毎年』二十から三十『件の奉納があるそうで、一体一体が尊い命を象徴し、ご加護を願う信仰が長い年月継がれてきたことの重みを感じました。「奉納した人が赤ちゃんを抱いて神社に来られた時はうれしい」と、岩橋さんは目を細めました』。『江戸時代の紀州の人々の暮らしの中にも瓦猿があったことを示す証拠があります。町屋だった鷺ノ森遺跡(和歌山市西鍛冶屋町)の発掘調査』(一九九一年)『で、江戸時代の地層から、頭の幅』十二センチメートルや、身長五センチメートル『ほどの大小様々な瓦猿が』二十『体ほど出土しました。発掘に携わった和歌山市教委文化振興課の前田敬彦さんに出土品の写真を見せていただくと、大半の猿が何も持っておらず、物を持つ猿で確認できたのは鶏が』二『体、扇子や桃のようなものが各』一『体。姿形がバリエーション豊かで、どの猿も親しみがあり、当時の人が猿にどのような思いや信仰を抱き、この形に作り、瓦猿を通じてやりとりしたのだろうと興味を抱きました』。『江戸時代の中で写実的なものから、光沢ある現在の瓦猿の型に移ったとも考えられるそうです。前田さんは発掘によって「瓦猿の制作や信仰が確実に江戸時代にまでさかのぼるのが分かったことは重要だと思います」と話しました』とある。また、ブログ「ユーミーマン奮闘記」の「和歌山市歴史マップ 有本 若宮八幡宮界隈」によると、『日吉神社は江戸時代には八幡宮から少し小字南島にある常念寺の東にあったもの』が、『明治維新の神仏分離令の頃、寺の横にあった神社は若宮八幡宮境内へと移され』たとし、『有本村に住む古老の方によると、社殿の引越しは夜中』に行われ、『解体せずに』、『村の人たちが建物ごと担ぎあげ』、『静かに八幡宮境内まで運んだと伝わってい』るとあり、『もとの日吉神社があったとされる場所からは安産祈願のために奉納した瓦で焼いた猿の人形が出土したと』いうとあって、さらに、『江戸時代には田中町にある瓦職人が内職として安産祈願用の瓦猿を焼いていた』といい、『日吉神社に安産祈願に訪れる人が神社から瓦猿を』一『本仮り受け、無事出産すると』、『田中町の瓦屋で瓦猿を購入し』、二『本にして神社に返す習慣があったようで、現在でも瓦猿を奉納する人がある』とある。]

 古え[やぶちゃん注:ママ。]猿と蛇を神として齋〔いつ〕ぎて、美作の國人美女を牲〔いけにへ〕とし、每年之を祭れるを、東國の獵夫來て此弊風を止めし事、宇治拾遺に見えたり。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺に見えたり」「宇治拾遺物語」の「東人(あづまびと)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる事」であるが、先行する「今昔物語集」に同文的同話(両書のソースは同一と考えられる)が「巻第二十六」に「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと)第七(しち))があり、それを私は「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」の注で全電子化しているので、そちらを参照されたい。「今昔物語集」の中でもサスペンスに満ちた私の好きな一篇である。

 吾國猿舞ひの基因は、馬の爲に病を禳〔はら〕ひし[やぶちゃん注:底本は「穰」であるが、意味が通らないので、平凡社「南方熊楠選集」版のそれを採った。]に在りと云說あり、五雜俎卷九に、置狙於馬厩、令馬不疫[やぶちゃん注:「不」は底本では「下」となっているが、漢文として「下」ではおかしいから、熊楠が誤ったのではなく、植字ミスか編集ミスである。原拠が「不」であるので、特異的に訂した。]、西遊記謂天帝封孫行者弼馬温、蓋戲詞也と見え、古くより猿舞し行はれしを、後に斯る支那說より故事附けたるべし、一八二一年、暹羅〔シヤム〕[やぶちゃん注:タイの旧名。]に使節たりしクローフヲード、王の白象厩に二猿を蓄〔か〕へる[やぶちゃん注:「飼へる」。]を見、厩人に問ふて其象の病難豫防の爲るを知りし由自記せり(J.Crawford, ‘Journal on an Embassy to the Courts of Siam and Cochinchina,1828, p. 97)。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻九の「物部一」にある以下の一節。前の部分も引いておく。

   *

京師人有置狙於馬廐者、狙乘間輒跳上馬背、揪鬣搦項、嬲之不已、馬無如之何。一日、復然、馬乃奮迅斷轡、載狙而行、狙意猶洋洋自得也。行過屋桁下、馬忽奮身躍起、狙觸於桁、首碎而僕。觀者甚異之。餘又見一馬疾走、犬隨而吠之不置、常隔十步許。馬故緩行、伺其近也、一蹄而斃。靈蟲之智固不下於人矣。

置狙於馬廐、令馬不疫。「西游記」謂天帝封孫行者爲弼馬溫、蓋戲詞也。

   *

熊楠の引用した部分だけを訓読しておくと、

   *

(さる)を馬廐(むまや)に置き、馬をして疫(えき)せざらしむ[やぶちゃん注:流行り病いに罹らぬようにさせる。]。「西遊記」に謂ふ、『天帝、孫行者を封じて「弼馬温(ひつばおん)」と爲す』と。

   *

言わずもがな、「孫行者」は孫悟空。「弼馬温」は天帝の御廐の番人。

「クローフヲード」一八二一年にイギリス政府の命令でシャムとコーチシナに派遣された医師・植民地管理官・外交官にして作家であったジョン・クロフォード(John Crawford 一七八三年~一八六八年)が報告した「シャムとコーチシナの裁判所に提出せる大使館宛記録」。なお、最初に断っておくと、底本に挿入されている欧文の参照書誌注記には、表記法に杜撰が多い。目に見えておかしなものについては、平凡社「選集」版を用いて補正したが、あまりに多いので、その断りも入れなかった箇所も多い。悪しからず。

御伽比丘尼卷一 ㊁夢の通ひ路 付リ ねやの怪

 

   ㊁夢の通ひ路付リねやの怪(あやしみ)

Yumenokayohiji

 

 世に氣づまりなる物。しゆんだる上戶(じやうご)のざしきに、下戶(げこ)の交(まじは)りゐたる。能き事でも、親の異見。扨は、奧女郞なるべし。少納言は、いかにして是を筆には洩(もら)し置〔おき〕けん。上のゝ花も、よそにのみ盛(さかり)を聞〔きき〕て、見ぬ人のため、枝折(し〔をり〕)もとめむ使(よすが)もなく、「千(ち)さとの外迄」と讀(よみ)し秋の月も、隅田川・しのばずが池に滿(みつ)る影は夢にもしらず、永き日、雨の夜は、歌がるた・謎合(なぞ〔あひ〕)などこそ、せめて心を慰(なぐさむ)るわざなれ。

 爰に、あるかたの息女、としは十六の、月におなじく、かたち、らうたけて、心ざまもやさしければ、吳を傾(かたぶけ)し西施の姿もかくやと、あやし。父母(たらちね)の御もてなし、いと惜(をし)み、いはんかたなし。

 ある夕ぐれの、風、一とをり、御身にしみてより、御こゝろつねならず、かほばせ、さうさうとおもやせ、朝夕のかれゐも、おさおさきこしめさねば、

「かくては、玉のをのむすびとゞめん事も危し。」

と、寺社に祈(いのり)、醫師を招き、藥術(やくじゆつ/くすり)、手を盡(つくす)に、驗(しるし)もなく、人々、悲しみあひける。

 日比、あはれみふかく思召ける、「おさごのかた」といふ女房、御そばぢかく、ゐよりて、

「いかなる事にか、かく、うかうかしう見えさせ侍ふ。たとへ外ざまには御つゝみ候とも、自(みづから)には何の憚(はばかり)か、おはし侍らん。命にかへても、御心ざし、はるけさせ參らせん物を。」

と、こまやかに物すれば、扨は、「いろに出〔いで〕て物やおもふ」と、とひ給ふにこそ、

「今は何をか包(つゝみ)侍らん、去〔いん〕じ月、十日の夜、やごとなき美少年、自(みづから)がねやに忍び、

『此とし比の、物おもひ、ある時は恨(うらみ)、あるはなげき給ひしほどに。いは木ならねば、人に心をくれ竹の、一夜ばかり。』

と、なびき初(そめ)て、いとおしさ、やるかたなく、夕べには、はやくいねて、わがせこがくべき夢路を待〔まち〕、更行(ふけ〔ゆき〕)、かねに、あかぬ別(わかれ)の覺行(さめ〔ゆく〕空をなげく。

 それさへあるに、ひとひ・ふつか、待(まち)わびても、かよひ給はぬ夜半(〔よ〕は)もあり、一向(ひたすら)「戀のやつこ」となりて、かく迄心ちは、なやみ侍る。」

と打〔うち〕かこち給へば、「さごのかた」も、いと不審(いぶかしく)、其部屋のくちに、ねぬ夜の番、つけて、守らせけれど、あへてかよふ人もなければ、

「此上は、たとき聖(ひじり)・巫(かんなぎ)に仰〔おほせ〕て、御祈(いのり)あるべし。」

とて、その比、安倍の何がしとやらん、めいよのはかせ、召〔めし〕よせられ、右のあらまし、仰〔おほせ〕あれば、畏(かしこまつ)て、うらかたを考(かんがへ)、御心ちの事、やすくうけあひて、まかでぬ。

 其あけの日、參りて、

「御きたう、いたし侍りぬ。夕べ、ゆめの少人〔せうじん〕は來りけるや。」

と、とふ。

「來りぬ。」

と、こたへ給ふ。

 又、其あけの日、參りて、とふ。

「來らず。」

と。

 かく、とふ事、五たびにおよびて、安倍氏(あべうぢ)、姬の御部屋の内外(ないげ/うちと)をめぐり、加持護念(〔か〕ぢご〔ねん〕)する事、又、五度、やしきの裏の茂みより、いくとしふともしらぬ猫、からめ出〔いだ〕し、

「此猫の所爲(しよゐ)なり。」

と云〔いふ〕に、人々、たゝき殺し、大河(〔たい〕が)に流し捨しが、此のち、夢のかよひぢも絕〔たえ〕、御心〔おんここ〕ち、いさぎよく、めでたきよはひをかさね給ひしとぞ。

 我〔われ〕、きく、もろこしに独(ひとり)の女、かゝるやまひある事、日比〔ひごろ〕へたり。白き裝束(さうぞく)したる美少年、かよひ來る事、夜ごとなり。其比、「天民」といへる名医を招(まねき)、藥をふくする事、四、五日、ある時、天民、彼(かの)病家(びやうか)に行〔ゆく〕に、白き狗(いぬ)、門の敷居を枕にして臥しゐぬ。則(すなはち)、内に入〔いり〕て、

「夕べ、白衣(はくゑ)の少年、來(きた)るや。」

と、とふ。

「來(きたれ)り。」

と。爰〔ここ〕に於て狗の所爲なる事をさとり、彼(かの)狗をとらへ、殺し、其肝(きも)を取〔とり〕て丹(たん/くすり)に揀合(ねりあはせ)、女にあたへ、のましむるに、こ心ち、淸靜(いさぎよ)く、何の子細もなかりけるとぞ。

 あべ氏も此故事を能(よく)覺へて、かくは、ふるまひ劔(けん)、誠にきとくなりかし。

 

[やぶちゃん注:「世に氣づまりなる物。……」言わずもがな、以下は「枕草子」の、物尽くしの章段の「すさまじきもの」や「にくきもの」のインスパイア。

「しゆんだる上戶のざしき」「しゆんだる」は「駿だる」か。所謂、名にし負う大酒のみの家の(それも酒豪が集まっている)座敷に。

「奧女郞」禁裏や大名などの奥向きに勤める女房や局 (つぼね)

「上のゝ」上野。

「よそにのみ盛(さかり)を聞て、見ぬ人」お判りと思うが、ここから「枕草子」から「徒然草」の著名な百三十七段「花は盛りに、月はくまなきものをのみ見るものかは」には、へとスライドさせてゆく。

『「千(ち)さとの外迄」と讀(よみ)し秋の月』「徒然草」の同前の章段中にある、『よろづのことも、始め終りこそをかしけれ。男女の情も、ひとへに逢ひ見るをば言ふものかは。逢はでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明し、遠き雲井を思ひやり、淺茅が宿に昔を偲ぶこそ、色好むとは言はめ。望月の隈なきを千里の外まで眺めたるよりも、曉近くなりて待ち出でたるが、いと心深う靑みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる、木の間の影、うちしぐれたる村雲隱れのほど、またなくあはれなり』を受け、しかも、本話の異類婚姻の「恋」を仄めかす役割も担っていることに注意せねばなるまい。

「謎合(なぞ〔あひ〕)」「謎謎合(なぞなぞあはせ)」。左右に分れて互いに謎々を掛け合い、その謎や解答の優劣を争う遊び。「歌合わせ」を伴う場合もあった。既に「枕草子」に出現している。

「かれゐ」「餉」であるが、歴史的仮名遣は「かれひ」である。原義は「乾飯(かれいひ)」の縮約で、旅などの際に携帯した炊いた米を乾燥させたもの(「ほしいひ」とも呼ぶ)であるが、ここは「食事」の意。

「玉のをのむすびとゞめん事も危し」「玉(魂)の緖の結び留めん事も危(あやふ)し」で、古来の神道の生命維持の祭りに基づき、「命を救うことさえも難しい」で、「死ぬ」の忌み言葉である。

「おさごのかた」「さごのかた」これは恐らく「御散供の方」「散供の方」であろう。神仏に参った際に供える米或いは祓(はらい)や清めのために米をまき散らす儀式があるが、その米のことを「さんご」(散供)、或いは「おさご」(御散供)と呼ぶからである。既にして、脇役の名が呪的システムの導入を予告しているのである。

「御そばぢかく」「ぢ」の濁点はママ。

「うかうかしう」しっかりした心構えが見えず、何かぼんやりとしている様態。或いは、心ここにあらずで浮き立ちがかって落ち着かぬさま。軽い見当識消失といった感じの病的状態に見えることを指している。民俗社会では物の怪による憑依状態や憑依されやすいプレ状態に当たる。

「いろに出〔いで〕て、物やおもふ、と」言わずもがな、「小倉百人一首」四十番の、平兼盛(?~正暦元(九九一)年)の一首(「拾遺和歌集」の「戀一」所収。六二二番)、

 しのぶれど色に出(い)でにけりわが戀は

         ものや思ふと人の問ふまで

に基づく。

「更行(ふけ〔ゆき〕)、かねに、あかぬ別(わかれ)の覺行(さめ〔ゆく〕空をなげく」「かねに」は当初「更け行き兼ねに」の意でとろうとしたが、どうも腑に落ちない。結局、暁を知らせる寺の「鐘に、倦(あ)かぬ別れの、覺め行く空を歎く」の意でとった。

「戀のやつこ」「戀の奴」であるが、認識を「恋の奴隷」と思い込んでいる若い人が多いので一言言っておくと、これは、思いのままにならぬ恋を擬人化した「恋という奴(やつ)め!」の謂いなしである。

「巫(かんなぎ)」神道や修験道の男性の巫術者・修験者。

に仰〔おほせ〕て、御祈(いのり)あるべし。」

「安倍の何がし」本朝最高のゴースト・バスターたる陰陽師安倍晴明(延喜二一(九二一)年~寛弘二(一〇〇五)年)。彼は五十歳頃に天文博士に任ぜられている。

「うらかた」「占方」。呪法の選択。

「來りぬ」と娘は答えているが、番をしていた男の発言や行動が示されない。挿絵を見るに、実は番の男たちには、少年の姿は見えていなかったという字背(というか絵背)の事実がここに示されていることを読み取らなくてはなるまい。

「いくとしふともしらぬ猫」「幾年、經(ふ)とも、知らぬ猫」。

「我、きく、もろこしに独の女、かゝるやまひある事、日比へたり。……」如何にも唐代の伝奇や、それ以降の有象無象に志怪小説などに普通に出てきそうな話であるが、天民という名で検索しても、出てこない。見つけたら、追記する。

「其肝(きも)を取〔とり〕て丹(たん/くすり)に揀合(ねりあはせ)、女にあたへ、のましむるに、こ心ち、淸靜(いさぎよ)く、何の子細もなかりけるとぞ」毒を持って毒を制すである。ここでもそれを援用するシーンを作ればよかったのにと思うのだが。

「劔(けん)」既出既注。]

2020/11/28

御伽比丘尼卷一 始動 /(「諸国新百物語」は本書の解題本) 序・志賀の隱家 付リ 尺八の叟

 

[やぶちゃん注:「御伽比丘尼」(おとぎびくに)の電子化注を始動する。本書は所謂、「西村本」の一つで、貞享四(一六八七)年二月に板行された怪奇談集である。筆者は西村嘯松子(板元主人である西村市郎右衛門のペン・ネーム。以下の「序」では清雲という尼僧が過去の行脚の際に見聞した話を高貴な夫人に語ったが、それを、その夫人の女房である「菅(すげ)のかた」なる女性が綴ったとしているが、無論、仮託である。太刀川清氏の論文「『諸国新百物語』と『御伽比丘尼』」(『長野県短期大学紀要』・一九七五年十二月・PDF)を参照されたい)。本書は後の元禄五(一六九二)年正月に「諸國新百物語」(こちらの筆者名は「洛下俳林子」)と改題され、百物語系の装いにされたものがよく知られ、現代語訳なども無料・有料でネットに馬糞のように転がっている。そもそもこの安易な改題板行は江戸時代には盛んに行われ、手数の掛からない(中身は殆んど変わらぬものも有意に多い)お手軽なリバイバル術で、この改題名は、延宝五(一六七七)年四月に刊行された、全五巻各巻二十話からなる、正味百話構成の真正の「百物語」怪談集である「諸國百物語」(リンク先はブログの独立カテゴリで二〇一六年に私が完遂した電子化注)のヒット後、雨後の筍のようにうじゃうじゃと登場した百物語を名打った怪談集の柳の下の数十匹目の泥鰌として跳ねたものに過ぎないのである(言っておくと、江戸期の百物語を名乗る怪談集でちゃんと百話で構成されている怪談集は実はその「諸國百物語」ただ一作のみで、他は百話に遙かに届かぬものばかりであることは覚えておかれるとよい)。しかし、原本の本家本元の「御伽比丘尼」は、真正の原本でありながら、「諸國新百物語」の陰に隠れて活字化されているものは少ない。

 底本は、国立国会図書館デジタルコレクションの原版本の画像を用い、所持する西村本小説研究会編「西村本小説全集 下巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)の「御伽比丘尼」をOCRで読み込んだものを加工用に用いた。また、不審な箇所は、所持する改題本の方の「諸國新百物語」(一九九三年国書刊行会刊叢書「江戸文庫」の「続百物語怪談集成」)を参考にもした。原本は崩し字で、正字か略字か迷った箇所は正字表記とした。原本はベタであるが、読みにくいので、濁点・句読点・記号等を独自に打ち(原本には「。」が打たれているが、現在なら読点とすべきところが多い)、また、シークエンスごとに改行して段落を成形した。一部の読みの中途半端なものや、読み間違えようがないものは、省略した。逆に必要と判断した部分には推定で、歴史的仮名遣で〔 〕で読みを添えた。踊り字「〱」は正字化するか、或いは「々」にした。読みで(△/◇)とあるのは、前が右に振られた読み、後が左に振られた読みを示す。

 挿絵であるが、いろいろと試みた結果、補正を加えて最もクリアーに見えるものとしては、「西村本小説全集 下巻」の添えられた画像写真がよいと判断したので(底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像は絵は綺麗なのだが、裏の写り込みが激しい)、それをトリミング補正(かなり清拭した)して使用した。

 なお、以下の「序」の後にある「目次」は最後に回す。【20201128日 藪野直史】]

 

   御伽比丘尼

 

御伽比丘尼序

此物がたりは、中比(ごろ)、山城(〔やま〕しろ)木幡(こばた)のさとに、淸雲(せいうん)といへる尼のいまそかりけり。氏姓(じしやう)、つたなからず。唐(もろこし)の書(ふみ)に心をすまして、みぬ世の人を友とし、大和歌(やまとうた)のふかき道をわけて、心ざまも、やさしかりし。しかはあれど、幼(いとけなき)より、ぼだひの心つよく、仏(ほとけ)の敎(をしへ)を學びて、夫(をつと)の家に、いらず。になき修行(すぎやう)の身となり、西海の浪にたゞよひて、つながぬ船のあだなる世をおもひ、南(みんなみ)の御山(み〔やま〕)のさがしきにたどりては、岸のひたひに、根をはなれたる草枕、覺行(さめ〔ゆく〕)夢の、ゆめなることをさとり、ある時は越路(こしぢ)の雲わけて、降(ふり)つむ雪の消(きえ)やすき人の身を觀(くはん)じ、是より、心の行〔ゆく〕に任せ、いたらぬさと、みぬ所もなく、靈寺・靈社・名所・古跡を尋(たづね)まうで、ひとつの所さだめず、五十(いそぢ)の比は、又、東(あづま)のかたにさそらひ、むさしの江戶の御榮(さかへ)、ながれの末もにごらず、淸きすみだ川のかた邊(ほとり)に、柴のとぼそをしめて、暫(しばし)の休(やすら)ひとし、ゐけり。其比、去(さる)やごとなきかたの御母(〔ご〕ぼ)公、淸雲尼の德を、ほのきかせ給ひ、めしよせられて、御法(みのり)の有(あり)がたきことなど聞召(きこしめし)けるつゐで、此尼、諸國にて見聞(けんもん)しける事、すぜうなるより始(はじめ)て、哀(あはれ)なる事、おかしき事、あるは、えんなるしな、又は、恠(あやし)く、妙(たへ)なるなど、ひとつひとつ、よりより、物がたりけるを、御そばちかき女房「菅(すげ)のかた」とやらん、かきとゞめ置〔おき〕て、獨(ひとり)、灯(ともしび)の下(もと)にひらき見れば、誠に雨の夜のつれづれを慰(なぐさむ)る、ひとつのよすがなめりとて、「御伽比丘尼」とは、彼(かの)女中のつけ給ひける題號なりしとかや。茲(こゝ)に書林某(それがし)乞(こひ)うけ、五(いつゝ)の卷(まき)をわかち、繪をなして、もつて世にひろむる事、しかり。

   貞享第四丁卯
    仲春の初の日
     洛下書肆
        西村嘯松子序

 

[やぶちゃん注:「山城木幡」原本は「こはた」と清音。現在の京都府宇治市木幡(こばた)附近(以下同じ)か。

「氏姓、つたなからず」氏・素性は明らかにはせぬが、決して下賤の者のそれではないという謂い。

「ぼだひ」ママ。「菩提」。

「になき」「二無き」で「比べるものがない・この上ない」の意。

「さがしき」「嶮しき」「險しき」。山が険阻であるさま。

「いたらぬさと」「到らぬ里」。

「つゐで」ママ。本書は全体に歴史的仮名遣の誤りが多いが、面倒なだけなので、以下では原則、示さない。悪しからず。

「すぜう」「素性」で「尼の生い立ち」から語り始めたものか。しかしその場合の歴史的仮名遣は「すじやう」である。「數條」だとしても、「すでう」で違う。後者ではあまり意味のある感じがしないから、前者で読む。

「えんなるしな」「艷なる品」。好色なる話柄。この辺りが私が尼の話を仮託とする所以である。

「妙なる」玄妙な。前の「恠く」とは並列であって、切るべきである。

「菅(すげ)のかた」不詳。「御母公」なる貴婦人付きの女房の名。

「獨、灯の下にひらき見れば」主格が一瞬、それを手に入れた現在の西本自身に転じているようにも見える書き方で、仮託とは言え、上手い手法である。]

 

 

  御伽比丘尼卷之一 

Siganokakurega

[やぶちゃん注:「西村本小説全集 下巻」のもの。尼の顔などが激しく汚損していたので、強力に清拭してある。底本の画像はこちら

 

  ㊀志賀の隱家(かくれが)付〔つけた〕リ尺八の叟(おきな) 

 江州志賀のさとは、往昔(そのかみ)、景行帝、大和の國纒向(まきむく)の珠城(たまき)の宮より此所にうつし給ひし舊都の跡にて、「さゞ波やしがの都はあれにしを」と讀(よみ)しも、此邊(あたり)の事なりしとかや。

 去(いん)じ年、修行(すぎやう)しける比(ころ)ほひ、此山もとに、柴のとぼそをしめて、世をかろくわたると見えし人あり。髮をかぶろにし、身には白き衣(ころも)をかけたり。實(まことに)異(こと)なるかたち、是なん「有髮(うはつ)の僧」といふべしや。

 方一間(けん)餘(よ)の庵室(あんじつ)に仏壇をかまへ、ゑざうの釋迦をかけて、松の、眞(しん)靑く、供(くう)じ、傍(かたへ)に。尺八二管、置(おけ)り。昔、長明がおり、琴・びわをならべし方丈も、かくや。

 庵(いほ)の外面(そとも)に出〔いで〕て、浦の名所、目の下に辛崎(からさき)の松・かたゞのうら・鹽津・海津・瀨田の橋、遠く詠(ながむ)れば、竹生嶋(ちくぶしま)も霞の内にたちこめて、いとたとく見ゆ。往來の旅船(りよせん)、「平㙒(ひらの)ねおろし」にさそはれ、よるべさだめぬさまげに、人の身の、うき世の浪にたゞよひ劔(けん)も、と思ひ合(あはす)るに、いとゞ常なき心出來(いでき)て、庵(いほ)の内をさし覗(のぞけ)ば、僧、尺八とりて、ね、とり、しめやかに吹(ふき)しらぶるに、あたりの鳥獸(てうじう)、翅(つばさ)をやすめ、手足(しゆそく)をつかねて聞〔きき〕ゐるさま、かゝる類(たぐい)さへ、かくあれば、身もやすく、心もすみて、彳(たゝずむ)に、此僧、尺八をやめて、

「ふしぎや、此調子に、人の音なひの聞へ侍るが、たれ人にや。」

と、いほの外(ほか)を見出したるに、やおら立〔たち〕よりて、

「是は、宮古(みやこ)がたの尼にて侍り。御僧の德を、ほの聞〔きき〕、法(のり)の道のめでたき事をも承はり候はんと、まうで侍〔はべら〕ふ。扨〔さて〕も、かくれたる御住居(すまゐ[やぶちゃん注:ママ。])有(あり)がたくこそ候へ。」

と、いへば、僧、打笑(えみ)、

「よく社(こそ)來り給へ。されば、人閑(〔ひと〕しづか)なる所に住(すみ)て、心をすますは、隱逸の至れるには、あらず。只、市中(しちう)に在〔あり〕ても、心動(うごか)ざれば、身も靜なり。此故に、

 世の中はあるに任せてあられけりあらんとすれはあられざりけり

遠きさと・深き山にかくれても、心かくれざれば、市中にもおとり侍らん。此心を、

 世を遁(のが)れ山にいる人山とてもなをうき時はいつちゆかまし

などゝも讀(よめ)り。されば、予(われ)、此尺八に心をすまして世の憂(うれへ)を忘(わす)る事とし、久し。こゝに天然の妙を得て、此調子に種々のきどくを見聞(みきく)事、あり。今、暫(しばし)、待給へ。」

と、尺八とり、吹出(ふきいだ)す中(うち)に、色鳥(いろどり)三羽、飛來(とび〔きた〕れり。

 此時、僧、尺八を止(やめ)て、

「今、此鳥の鳴(なく)音(ね)を聞〔きく〕に、喧(かまびすしき)聲、あり。何さま、餌(え)を諍(あらそふ)の事、あらん。見給へ。」

と言下(いふした)、忽(たちまち)、鳥が音(ね)、かしかましく、ひとつのこのみをうばひつゞき、狂(くるひ)あひけるが、自(おの)が羽(は)かぜにおどろき、いづこともなく、とびさりぬ。

 其跡に、大きなる猿、木ずゑに在〔あり〕て、叫(さけぶ)聲、腸(はらわた)をたつかと、物がなし。

 此時、僧、語(かたつ)て、

「世の人は、たゞ猿のなく音〔こえ〕と計〔ばかり〕ぞ聞(きゝ)給ふらめ。此さる、ひとつの子あり。雄猿(めざる)におくれて、又、後の雄猿(めざる)をもてり[やぶちゃん注:二箇所の読みはママ。漢字の方の雄(♂。「をざる」)でとる。]。此さる、始(はじめ)の子をにくむ事、甚しく、いがある栗をくらはしめ、忽(たちまち)咽(のんど)にたちて苦(くるし)む。かゝるちくるひだに、繼(まゝ)しき中のたくみは愧(をそろしき)事ぞかし。親猿、是を口說(くどき)、悲しみ、我に、『たすけよ』と、なげくに侍り、と、いひもあへぬに、此猿、ちいさき子を、肩にのせ來て、血なる淚をぞ、ながしゐける。僧、加持し呪念すれば、咽(のんど)の栗、飛出(とび〔いで〕)ぬ。時に、ふたつの猿、再拜(さいはい)して行〔ゆく〕がた、しらず。」

 僧の云〔いふ〕、

「かゝる事はめづらしくも侍らず。いで、都の客人(まろうど)に、おかしきわざして、見せ申さん。」

と、又、尺八をとり出〔いだし〕、春の調子を吹出〔ふきいだ〕せば、あたりの木ずえ、色めき、時ならぬ櫻花、藤山ぶきの色、深し。

「ふしぎや。」

と詠〔ながむ〕るに、夏の吟(ぎん)を吹〔ふき〕なせば、峯の櫻もちりしきて、靑葉の木々の茂みより、蟬の嗚音(なくね)も、いと凉し。

 秋の調子、物がなしく、庭の草葉の露ながら、虫のかれ聲、物淋しく、鹿笛(しかふえ)にはあらねども、鹿のもろ聲、ほのかにて、誰(たれ)か玉章(たまづさ)をかけて來し雁(かり)、南(みんなみ)に羽(は)をつらぬ。

 冬の吟にうつり行〔ゆけ〕ば、嵐(あらし)・凩(こがら)し、空、寒み、山邊は雪の白妙に、高炉峯(かうろはう)もかくやあらん、摧敗零落(さいはいれいらく)の時をかんじ、樹木(じゆぼく)、しぼみかれて、色をうしなひ、千草(せんさう/ちくさ)消(きへ)て、かたちなく、盛者必衰(じやうしやひつすい)のことはり、生死無常(しやうじむじやう)を一時にあらはし給ひしにぞ、いとゞ、すじやうに覺えける。

「さるにても、御名は。」

と尋(たづね)まいらするに、さだかにも答(こたへ)給はねば、やみぬ。

 かくて、日も、いたうたけて覺へければ、いとま申〔まうし〕て、都へ歸りぬ。

 此僧の德、なを、ゆかしく、此のち、彼(かの)所を尋〔たづぬ〕るに、はや、僧は、見えずなりき。

 いかなる人の、世を遁(のがれ)、住(すみ)給ひけんと、いと不審(〔い〕ぶかし)こそ覺へ侍れ。

 

[やぶちゃん注:まっこと、この猿の話は断腸の思いを惹起させる!

「江州志賀のさと」現在の滋賀県大津市木戸附近。

「景行帝」第十二代天皇。日本武尊(やまとたけるのみこと)の父。

「大和の國纒向(まきむく)の珠城(たまき)の宮」垂仁天皇が造営したのが「纒向珠城(たまき)の宮」で、景行天皇の時の名は「纒向日代(ひしろ)の宮」であったから、混同誤認がある。この中央附近にあった。景行天皇は晩年に近江国に行幸し、「志賀高穴穂宮(しがたかあなほのみや)」に滞在すること三年にして崩御したとも伝える。但し、「古事記」には景行天皇の近江行幸は記載がなく、志賀高穴穂宮は次代の成務天皇の都と記してある。

「さゞ波やしがの都はあれにしを」この上句で最も知られるのは、かの平忠度(ただのり)が都落ちの際に藤原俊成に託した次の一首、

   故鄕花といへる心をよみ侍(はべり)ける

 さざ浪や志賀の都は荒れにしを

       昔ながらの山櫻かな

で、「平家物語」(巻第七「忠度都落」)や「千載和歌集」(上記はそれ。巻第一の「春歌上」にあるが(六十六番)、「よみ人知らず」と伏せる)に載るが、実際には先行する「久安五年右衛門督家成歌合」(一一四八年)での藤原清輔の、

 さざ浪や志賀の都は荒れにしを

       まだ澄むものは秋の夜の月

がある。

「かぶろ」禿(はげ)頭をかく呼ぶが、「有髮(うはつ)の僧」と称しているから、本来は子供の髪形に用いるそれで、髪を短く切り揃えて垂らした髪型を言っている。

「方一間餘」一メートル八十二センチメートル強。

「ゑざう」「繪像」。

「眞(しん)靑く」正色の真青な。

「供(くう)じ」供え物として捧げ。

「長明がおり」鴨長明が存命であった時の。

「辛崎(からさき)の松」滋賀県大津市唐崎にあるが、琵琶湖に近い位置のように読め、挿絵も湖岸である。以下もそうだが、志賀からは孰れもとても見えるものではない。一種の琵琶湖歌枕の名数として並べた字面上の景観である。

「かたゞのうら」「堅田の浦」。滋賀県大津市堅田

「鹽津」滋賀県長浜市西浅井町塩津浜。琵琶湖の北の奥の東奥。

「海津」滋賀県高島市マキノ町海津海津。琵琶湖の北の奥の西奥。

「瀨田の橋」滋賀県大津市瀬田の宇治川に架かる「瀬田の唐橋」

「竹生嶋」琵琶湖北の湖上にある竹生島(滋賀県長浜市早崎町)。地図上で見るに、志賀からは物理的に見えない。

「平㙒ねおろし」不詳。ただ、滋賀県の比良山地東麓に吹く局地風は古来、「比良颪(ひらおろし)」と呼ばれる。特に毎年三月末に行われる天台宗の行事「比良八講」の前後に吹くものを「比良八講」「荒れじまい」「比良八荒(ひらはっこう)」と呼び、本格的な春の訪れを告げる風とされている。それを指しているか。作品内時制も春らしいので、それととってよいだろう。或いは「比良(ひら)の峯(み)颪(おろし)」を、かく書いてしまったものか。

「劔(けん)」単なる過去推量の「けむ」。草書崩しが続いて見た目の張りがなくなるのを避けただけのことのように思われる。明らかに本当の筆者が男性ならではの仕儀である。

「宮古(みやこ)がた」「都方」。

「ほの聞」「仄(ほの)聞き」。

「世の中はあるに任せてあられけりあらんとすれはあられざりけり」歌は全てそのままに引いてある。整序すると、

 世の中はあるに任せてあられけり

    あらんとすればあられざりけり

この道歌は、「沙石集」の作者として知られる鎌倉後期の無住一圓(嘉禄二(一二二七)年~正和元(一三一二)年の一首であるらしい。宇都宮頼綱の妻の甥で、臨済僧とされることが多いが、当時は八宗兼学で、真言宗や律宗とする説もある。出典不詳であるが、個人サイト「江戸期版本を読む」の「道歌心の策 8 無住一円 世の中は」を見るに、江戸期には彼の作として認識されていたことが判る。

「世を遁(のが)れ山にいる人山とてもなをうき時はいつちゆかまし」凡河内躬恒の一首を弄(いじ)ったもの。原歌は「古今和歌集」の巻第十八の「雜歌下」(九五六番)に所収する。正しくは、

   山の法師のもとへ、遣しける

 世をすてて山に入る人(ひと)山とても

    猶(なほ)うき時はいづちゆくらむ

である。

「ちくるひ」「畜類(ちくるゐ)」。畜生の類い。

「繼(まゝ)しき」血が繋がっていない。義理の関係の。

「たくみ」「巧み」。悪巧み、虐待のこと。

「親猿、是を口說(くどき)、悲しみ、我に、『たすけよ』と、なげくに侍り」この遁世僧は動物の言葉が判るのである。

「誰か玉章(たまづさ)をかけて來し雁(かり)」「玉章(たまづさ)」は手紙。蘇武の故事にある「雁書」に掛けた、謂わば、序詞的用法である。

「高炉峯」「香爐峯」(かうろほう)の誤り。中国江西省北端にある廬山の一峰。形が香炉に似る。「枕草子」でとみに有名な白居易の「香爐峰下新卜山居草堂初成偶題東壁(香爐峰下、新たに山居を卜(ぼく)し草堂初めて成り、偶々(たまたま)東壁に題す)」其三で知られるそれ。

「摧敗零落」砕け破れ、衰えて枯れ落ちる。「零」は「草が枯れる」、「落」は「落葉すること」を指す。

「いとゞ、すじやうに覺えける」「すじやう」は「素性」で、家柄・來歷の意。「これはもう、かなり相応の家柄を出自とされる方とお見受けした」というのである。

「不審(〔い〕ぶかし)」底本では「ふかし」とルビする。]

片山廣子 地山謙

 

[やぶちゃん注:片山廣子の随筆集「燈火節」(昭和二八(一九五三)年暮しの手帖社刊)の中の「地山謙」(ちざんけん:易占の卦(け)の名称)を電子化する。同作は当該随筆集のための書下ろしであるようで、月曜社の片山廣子の「野に住みて 短編集+資料編」の書誌を調べても、初出は見当たらない。

 昨日公開した「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「□片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅲ】 大正一四(一九二四)年二月十一日附」の注で、本作の一部を電子化したが、抄出というのが、どうにも気持ちが悪いので、ここに新たに全文を電子化することとした。

 歴史的仮名遣の誤りはママである。五月蠅くなるので、その注記はしていない。傍点は太字に代えた。

 なお、先ほど調べたところ、「青空文庫」にあることが判ったが、新字に直された方であるから、参考にせず、所持する上記底本をもとに完全に私がOCRで原本を読み取ったものであって、そちらの電子データ(同一の出版社ではあるが、先行する出版物で私の底本(正字正仮名版)とは異なる)は一切全く使用していないので特にお断りしておく。私はネット上の他者のものを安易に加工データにしておいて――しかも杜撰な電子データにしておいて――知らんぷりするような卑劣なことはしない。どこかの誰彼のようには、である。]

 

   地山謙

 

 Tが私のために筮竹(ぜいちく)や筭本(さんぎ)を買つて来て、自分で易を立てる稽古をするやうすすめてくれたのは、もうずゐぶん古い話であつた。お茶やお花のやうに易のお𥡴古をするといふのも變(へん)な言ひかたであるけれど、初めのうち私はほんとうに熱心にその稽古を續けてゐた。易の理論は何も知ら、内卦(くわ)がどうとか外卦(くわ)がかうだとか豫備(よび)知識をすこしも持たず、ただ敎へられたまま熱心にやつてみた。

 そのずつと前から、払は易を信じて事ある時には大森のK先生のお宅に伺つて占斷(せんだん)をお願ひしてゐたので、とかとか、や、も、さういふ象(かたち)だけはどうにか知つてゐて、おぼつかない素人易者はただもう一心に筮竹を働かしたが、そのうちに筮竹をうごかすことが非常に骨が折れて来て、人に敎へられたまま小さい十錢銀貨三つを擲(な)げてその裏面と表面で陰と陽を區別し、六つの銀貨を床(ゆか)に並べてその象(かたち)が現はれるままをしるした。この方が大そうかんたんであつた。

 自分自身の身上相談をしたり、他人の迷ふことがあれば、それについて敎へを伺ふこともあつて、私のやうなものがめくら滅法に易を立てて見ても、ふしぎに正しい答へが出た。また或るときはどうにも解釋のむづかしい答へもあつた。ある時、自分の一生の卦(け)を伺つてみようと思つたが、何が出るかその答へには好奇心が持てた。若い時から中年までの私の仕事はおもに病氣と鬪(たたか)ふことであつたから(自身の病氣でなく、良人の父の病氣、良人の長い病氣、義妹の長い病氣、義弟の病氣、それにともなふ經濟上の努力、私はまるで看護帰の仕事をしに嫁に來たのだと、それを一種の誇りにも思つて殆ど一生そんな方面の働きばかりしてゐた。)たぶん私の一生の卦は「地水帥(ちすいし)」が出るのではないかと心に占つてゐた待、意外にも答へは「地山謙(ちざんけん)」であつた。私はおもはずあつと驚いて、頭を打たれたやうに感じたのである。

 「謙(けん)は亨(とほ)る。君子終り有り吉(きつ)。○彖傳(たんでん)に曰く、天道は下(くだ)り濟(な)して光明。地道は卑(いやし)くして上行す。天道は盈(みつ)るを虧(か)きて謙に益(ま)し、地道は盈るを變(か)へて謙に流(なが)し、鬼神は盈るを害して謙に福(さいは)ひし、人道は盈るを惡みて謙を好む。謙は尊くして光り、卑(いやし)くして踰(こ)ゆべからず。君子の終りなり。」

 謙は卽ち謙遜、謙讓の謙(けん)で、へりくだることである。高きに在るはづの艮(ごん)の山が、低きに居るべき坤(こ)んの地の下に在るのである。たぶん私は一生のあひだ地の下にうづくまつてゐなければならない。「勞謙す、君子終り有り吉」といふのは地山謙の主爻(しゆかう)言葉である。頭を高く上げることなく、謙遜の心を以て一生うづもれて働らき、無事に平和に死ねるのであると解釋した。何よりも「終り有り吉」といふ言葉は明るい希望をもたせてくれる。何か困るとき何か迷ふ時、私は常に護符(ごふ)のやうに、謙(けん)は亨る謙は亨るとつぶやく、さうすると非常な勇氣が出て來てトンネルの路を掘つてゆく工夫のやうに暗い中でもコツコツ、コツコツ働いてゆける。この信仰は迷信ではない、むしろ常識であると思ふが、私のやうにわかい時から夢想をいのちとして來た人間がこの平凡な敎訓を一日も忘れずにゐられるのはさいはひである。六十四卦の中でこの「地山謙」だけがどの爻(かう)にも凶が出ず、その代りどの爻(かう)も謙を守つて終りをまつたくするといふ約束を持つてゐる。その堅實な地味な約束が、およそ堅實でない私のための一生の救ひでもあるのだらう。私のためにはもなくもなくもないのである。それで滿足してゐよう。

 

[やぶちゃん注:易学の熟語や古文引用部は私の手に負えない(というよりも易学には全く興味がないので調べる気が起こらない)ので注さない。

「T」この随筆の刊行時の時制だと、不詳だが、「もうずゐぶん古い話」とある。そうすると、堀辰雄がまず挙げられるか。または、廣子の子息の文芸評論家であった故片山達吉(ペン・ネームは吉村鉄太郎 明治三三(一九〇〇)年~昭和二〇(一九四五)年:東京帝国大学法科卒業後、川崎第百銀行に就職、堀辰雄・神西清・川端康成らと、『文學』の創刊に参加。同誌の発行元であった第一書房の立て直しに奔走していた昭和二〇(一九四五)年、馬込にあった彼の自宅で心臓病で倒れ、四十五歳で急逝した)かも知れない。私は後者っぽい気はする。

「筭本(さんぎ)」通常は「算木」と書くが、「筭」は「算」の異体字。易で卦を表す四角の棒で、一本の長さは約九センチメートルで、六本あり、おのおの四面の内の二面は爻(こう)の「陽」を表し、他の二面は「陰」を表わす。

「大森のK先生」熊崎健翁(くまざきけんおう 明治一五(一八八二)年~昭和三六(一九六一)年)であろう。アルマ氏のサイト「Witch Doctor's Garden」の「占術師列伝~東洋編」によれば、熊崎は『姓名判断を一般に流通させた元新聞記者』本名は『健一郎。出身は岐阜県。熊﨑式姓名学の創始者。教員を務めた後、中京新聞社に入社。その後も三重成功新聞』(調べてみたが、この名の三重の地方紙は見当たらなかった)、『伊勢新聞、大阪新報、時事新報などでジャーナリスト(記者)として活躍し、熊﨑』(表記はママ)『式速記を発表』し、昭和三(一九二八)年には、東京大森に『「五聖閣」という総合運命鑑定所を設立。ジャーナリスト時代から研究していた易学の理論を核として、姓名による吉凶禍福を鑑定する「熊﨑式姓名学」を考案。「主婦之友」において発表し公表を博し、この理論が一般に広く浸透することとなり、日本における姓名判断の普及に大きく貢献することとなった』。『その著書、知識は現代でも多くの占術家の手本書として広く流通している』とある。イニシャルと地名から推定した。本書刊行時も存命である。

「主爻(しゆかう)」占われた卦の中心となる爻の組み合わせ。]

たった6日で5000アクセス超えの中身

6日間の visitor 数は4000人弱であるから、botではない。ランキングの上の方(18位以内)に並ぶものの幾つかを見てみると、

   *

a 柴田天馬訳 蒲松齢 聊斎志異 酒虫

b カテゴリ「怪奇談集」 ♡♡♡

c カテゴリ「北原白秋」 ♡

d 柴田宵曲 俳諧博物誌(13)

e カテゴリ「柴田宵曲」  ♡

f カテゴリ「甲子夜話」

g カテゴリ「梅崎春生」 ♡♡♡

h ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び 一茶

i 芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではない ♡

「耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事」

k 「今昔物語集」卷第三十一 本朝付雜事 太刀帶陣賣魚嫗語 第三十一」

l カテゴリ「小泉八雲」 ♡♡♡

m 「宮澤トシについての忌々しき誤謬」 ♡

n カテゴリ『「今昔物語集」を読む』

o カテゴリ「伊良子清白 」 ♡

p 鮎川信夫 「死んだ男」 附 藪野直史 授業ノート(追記附) ♡

   *

である。この内、永遠の定番のランキング上位は「m」だけである。

恐らくは高校生・大学生・高校教師などが、授業や講義や宿題・レポートの必要性から手っ取り早く見に来たと思われるものが、まず、a・c・d・h・j・k・n・p がそれと見てよかろう(d は大学生か。j は高校の授業ではあり得ないが、実力テストか予備校なんどが問題作りに使いそうではある。h は見にきた全員が失望して永遠に私のところには来ない。見れば、あなたも失望するから、リンクは張らなかった)。こういう連中の殆んどは再訪しないと考えてよい。好きで調べに来た連中でないからである。

特異点の内で昨日以降の急激アクセスは i で、これは先のブログを見られれば、理解出来る。私の意味深な書き方で見ざるを得ないから。

ただ、普段のアクセスと、かなり異なるのは、「カテゴリ」で見ておられる方が、8件もあることである。これは今まで、まず、上位に出現することがなかった特異な現象である。フレーズ検索でカテゴリが掛かることもあるが、稀である。しかもそこを多数の方が読みにこられるという現象そのものが、如何にも珍しいのである(いや、或いは、中には、前に書いた連中の誰かが、ある電子データを見つけて、「ここにあるぞ!」と回した結果かも知れない)。さても、しかし、これらの方々の内の幾たりかは、自律的に来られ、読まれた方々と考えてよく、向後も私の嬉しい読者の一人はなって呉れるような気がする(既に最早、以前から読者であられる方もおられよう)。誰とも判らぬ「あなた」に「よろしゅうに!」と声掛けし、感謝申し上げるものである。

なお、見知らぬ方には、私が自身で自信を持って(オリジナル注も附してある)お薦め出来るものに、後ろに「♡」を附しておいた

2020/11/27

片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について

例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、

『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』

と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。

ヒントだけ示しておく。

私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――

譚海 卷之三 新玉津島

 

新玉津島

〇五條俊成卿洛中に玉津島明神を勸請有(あり)、新玉津島といへるは此社也、新住吉も爲家卿の勸請にやと覺えたり。近來(ちかごろ)冷泉爲村卿新柿本の社を御勸請有、又本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請有(あり)て、冷泉門下の人々出題の和歌奉納する事に成(なり)たり。北野御室(おむろ)の邊にも新更科と云所出來(いでき)て、近來人々月を賞する所とせり。京都は商賈(しやうこ)をはじめ閑逸の所故、時時遊觀の興(きやう)有(あり)て、東山の鹿きゝ・北野の蟲きゝ・龍安寺の鴛(をしどり)見などとて、群遊する事也。

[やぶちゃん注:「五條俊成卿」歌人として知られる公卿藤原俊成(永久二(一一一四)年~元久元(一二〇四)年)。

「玉津島明神」現在の京都府京都市下京区玉津島町にある新(にい)玉津島神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。和歌山県和歌山市和歌浦中にある玉津島神社の公式サイトの解説によれば、和歌の神である衣通姫尊(そとおりひめのみこと)に憧れた俊成が文治二(一一八六)年(年)、後鳥羽天皇の勅旨を得て、衣通姫尊を勧請し、自邸内に新玉津島神社を建立したもので、『鎌倉時代にはここに「和歌所(わかどころ)」が置かれ、室町時代には足利家の保護のもと和歌の聖地として崇められ』たとある。但し、別に『新玉津島神社に衣通姫尊を勧請したのは頓阿』(とんあ/とんな 正応二(一二八九)年~文中元/応安五(一三七二)年):南北朝時代の僧で歌人)『だという説もあ』るとし、『頓阿は、吉田兼好と共に和歌四天王と称され』、「新拾遺和歌集」の『選者を二条為明から引き継いだ歌人』『僧で』、彼が『衣通姫尊を五条の俊成の屋敷地に勧請し、将軍義詮が社殿を新造したとの記録もあ』るとある(「吉田家日次記」に拠る)。『その社殿は応仁の乱などで消失し』たが、『江戸時代に再興』されており、『再興に大きな役割を果たしたのは、江戸時代の著名な国文学者で』、松尾芭蕉の師でもあった『北村季吟』であったとある。

「新住吉」京都府京都市下京区醒ケ井通(さめがいどおり)高辻下(さが)る住吉町(すみよしちょう)にある新玉津島神社の西北西直近(六百メートル弱)にある住吉神社

「爲家卿」藤原俊成の次男定家の三男為家。但し、所持する「都名所図会」の「新住吉社」の条には、やはり藤原俊成の勧請と記す。

「冷泉爲村」(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)は江戸中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言。藤原定家の子であった御子左家六代為家の子の冷泉為相から始まる上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされる。歌人としてはもとより、茶の湯も嗜んだ。

「新柿本の社」前の住吉神社に明和六(一七六九)年に冷泉為村が末社「人麿社」(人丸神社)を祀っている。但し、天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京を襲った京都史上最大規模の火災である「天明の大火」により焼失した旨、サイト「京都風光(京都寺社案内)」の住吉神社のページにある。

「本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請」現在は京都府京都市山科区にある本圀寺は、嘗ては下京の六条堀川に永くあったが(その前には実は鎌倉にあった)、その間、当寺の方丈の北に「人麿塚」があったことが、「都名所図会」で判った。但し、そこ(「拾遺之卷之一 平安城」の「本國寺方丈」の条)には、『人麿塚』として『方丈の北にあり。初めは紀貫之の勸請なり。俊成卿もまた尊信したまひて社を修補したまふ。その後荒廢して、一堆の塚のみ殘れり。これを人麿塚と號す。貞和元年[やぶちゃん注:一三四五年。]當寺を鎌倉よりうつすとき、足利尊氏公、神祠を再營したまひ和歌詠ず』とあって、『行く水の柳に淀む根をとへばいつかむかしの人丸の塚』とある。冷泉為村が、この近々の時制において、それを再興した事実は確認できなかった。

「北野御室の邊にも新更科と云所出來て」「北野御室」というのはこの辺りと思う。「新更科」の名は一時、祇園南林にあったようだが、それではない。

「商賈」商人。

「閑逸」現実を離れて静かに楽しむことの謂いであろう。商家は現実が直であるが故に、却ってそうした風雅を好むところでもあるのであろう。]

甲子夜話卷之六 25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

 

6-25 御毉望月三英、河原者治療する挨拶の事

享保中、御醫師望月三英、河原者の市川團十郞が重病を治療し、効驗ありしとて人々沙汰せしを、橘收仙院が、御脈をも診奉るものゝ有まじき事とて詰りしかば、三英申は、醫治の事に於ては、乞食非人といふとも、求るもの有時は藥を與へ候心得のよしを答たりしとぞ。後御聽に入り、尤のよし御諚ありしと也。近頃は、官醫は貴人の治療のみするやうに心得るもの多し。これらの事知る人も稀なるにや。

■やぶちゃんの呟き

「享保」一七一六年から一七三六年まで。

「御毉」「おんい」。「毉」は「醫」と同義とし、「醫」の異体字ともするが、本来はこの字は巫術による医療、シャーマンのそれを表わしたものに由来する字形とも思われる。

「望月三英」(もちづきさんえい 元禄一一(一六九八)年~明和六(一七六九)年)は江戸中期の医師で、名は乗、号は鹿門。讃岐国丸亀藩の医者雷山の子。江戸生まれ。儒学を服部南郭、医学を父に学んだ。享保一一(一七二六)年に表御番医師(おもてごばんいし:若年寄配下で殿中表方に体調不良者が出た際に診療に当たった)となり、やがて奥医師(若年寄配下で江戸城奥に住まいする将軍及びその家族の診療を行った。殆んどが世襲であったが、諸大名の藩医や町医者から登用されることもあった)・法眼(ほうげん:僧位のそれに倣って医者・儒者・絵師・連歌師などに授けられた敬称)に叙せられた。博学と医療技術の高さゆえに将軍徳川吉宗に愛され。衣類・乗物など、全てに朱色(江戸時代は表向きは将軍家を表象する禁色(きんじき)であった)を許されたという。野呂元丈・今大路元勲(八代目道三)らとともに唱えたその「古方書学」は、ドグマに満ちた吉益東洞流などと異なり、広く古医書(蘭書・和医方を含む)を読み、経験に鑑みる総合的な医学であった。「江戸古方」として京坂のそれと区別すべきその医学は、「医官玄稿」・「又玄余草」(ゆうげんよそう)などの彼の著書の中によく記されてある(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「河原者」「かはらもの」。中世以降の賤民の差別呼称。由来は、河原などの町村落の境界域の課税されない土地に追いやられて住み、牛馬の屠畜や各種芸能などを以って生業としていた人々であったが、中には村落共同体から半ば放逐された手工業者なども含まれており、総合的には中世の民衆文化の主要な柱となっていた。しかし、身分・職業・居住地などで差別を受け、江戸時代になると、農村の周辺域に定着させられ、かく呼ばれた被差別者も多かったが、門付を含む大道芸人・旅役者はもとより、歌舞伎役者などの広義の芸能従事者にも、この卑称が長く用いられ、社会の差別認識による自己の有意措定の構造を支えた差別用語として、「河原乞食」などとも呼ばれ、現代までもその差別語の亡霊は生きている。次の注の後半の引用も参照のこと。

「市川團十郞」二代目市川團十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦八(一七五八)年)。彼のウィキによれば、初代の息子で、元禄一〇(一六九七)年、中村座の「兵根元曾我」(つわものこんげんそが)で初舞台を踏み、元禄一七(一七〇四)年の父の横死(市村座にて「わたまし十二段」の佐藤忠信役を演じている最中、役者の生島半六に舞台上で刺殺された。享年四十五であた。半六は逮捕されたものの、動機を語らぬまま、獄死した。一説に半六は自身の息子が虐待を受けたことで團十郎を恨んでいたとも言われるが、明確な証拠はなく、この事件の真相は現在も不明である)に『よって山村座で二代目を襲名するが、力不足で悩む』十七『歳の二代目を庇護したのは当時の名優』『生島新五郎だった』(「江島生島事件」の中心人物で、大島に遠島となった。また、父を殺した生島半六の師匠でもあった)。『その頃の歌舞伎は穢多頭・弾左衛門の支配下に置かれていた』が、宝永五(一七〇八)年、京から来た傀儡師(糸からくりの人形を扱った芸人)小林新助が、弾左衛門の興行支配権行使を拒否し、彼の指示を受けた暴徒が興行に乱入、妨害されたことをお上に訴えたところ、『江戸町奉行は歌舞伎と傀儡師の支配権を弾左衛門から剥奪』した。『二代目は被差別民からの独立を果たした喜びから、小林が記録した訴訟の顛末を元に』「勝扇子」(かちおうぎ)を著し、代々伝えたという』。正徳三(一七一三)年、山村座の「花館愛護桜」(はなやかたあいごのさくら)で『助六を初じめて勤めたころから』、『徐々に劇壇に足場を築き、人気を得るようにな』り、翌正徳四年の「江島生島事件」でも『軽い処分で免れ』(本件事件との直接関与は実際は殆んどなかった)、『江戸歌舞伎の第一人者へと成長』、享保六(一七二一)年には、『給金が年千両となり』、所謂、『「千両役者」と呼ばれる』ようになった。享保二〇(一七三五)年に、『門弟で養子の市川升五郎に團十郎を譲り、自らは二代目市川海老蔵を襲名』したとある。享保の終わりの一年ほどは、三代目となるが、まあ、二代目であろう。

「橘收仙院」私の「耳囊 卷之三 橘氏狂歌の事」に「橘宗仙院」という名が出、そこで私は、『岩波版長谷川氏注に橘『元孝・元徳(もとのり)・元周(もとちか)の三代あり。奥医から御匙となる。本書に多出する吉宗の時の事とすれば延享四年(一七四七)八十四歳で没の元孝。』とある。このシーン、将軍家隅田川御成の際に鳥を射た話柄であるから、狩猟好きであった吉宗という長谷川氏の』橘元孝(もとたか 寛文四(一六六四)年~延享四(一七四七)年)の『線には私も同感である。この次の話柄の主人公が吉宗祖父徳川頼宣で、次の次が吉宗であればこそ、そう感じるとも言える。底本鈴木氏注でも同人に同定し、『印庵・隆庵と号した・宝永六年家を継ぎ七百石。享保十九年御匙となり同年法眼より法印にすすむ。寛保元年、老年の故を以て城内輿に乗ることをゆるされた。延享三年致仕、四年没、八十四。』とある。「御匙」とは「御匙(おさじ)医師」で御殿医のこと。複数いた将軍家奥医師(侍医)の筆頭職』と記した人物と考えてよい。「收」(底本は「収」)と「宗」は歴史的仮名遣では「しふ」と「しゆう」だが、当時の口語でも既に同発音であったろうから、漢字を誤ったものであろう。

「診奉るもの」「みたてまつる」。

「詰りしかば」「なじりしかば」。「詰る」は「過失や悪い点などを責めて非難する」の意。

「申は」「まうすは」。

「後」「のち」

「御聽」将軍吉宗公の御耳。

「尤」「もつとも」。

「御諚」「ごぢやう(ごじょう)」貴人・主君の仰せ。

甲子夜話卷之六 24 鳥越邸の池、虹を吐く事

 

6-24 鳥越邸の池、虹を吐く事

予が幼時、鳥越邸の池邊の、小亭にて游戲して居たるに、池中より泡一つ二つ出づ。始めは魚鼈の所爲ならんと思ふに、數點になりて、夫より泡のうちより煙いで、だんだん煙多く、後は釜中より煙立つ如くになりて、池水ぐるぐると囘り、輪の如く波たちたるが、やがて半天に虹を現じ、後は天に亙れり。夫よりして池邊腥臭の氣堪がたかりければ、幼時のことゆゑ恐ろしくなりて住居に立還り、後は不ㇾ知。

■やぶちゃんの呟き

珍しくも興味深い静山自身の幼児体験の怪異譚である。ちょっと全体には解明出来ない現象である。白昼夢か、夢の記憶の誤認か?

「鳥越邸」平戸藩松浦家の江戸上屋敷。現在の東京都台東区鳥越附近(グーグル・マップ・データ)。この屋敷には後楽園・六義園とともに都下三大名園に数えられた「蓬萊園」があった。されば、このシークエンスも、そんじょそこらの大名の上屋敷の庭をイメージしては不足である。

「魚鼈」「ぎよべつ」。「鼈」はスッポンの類い。

「腥臭の氣」「なまぐさのかざ」と訓じておく。

「不ㇾ知」知らず。

甲子夜話卷之六 23 羽州大地震のときの事

 

6-23 羽州大地震のときの事

浴恩園宴集の話次に、先年羽州大地震せしとき、始めは地の上にあがるようにありしが、凡二三丈もや揚りけん、夫より俄に下に墜下ること、ものの高處よりおつるが如くにして、夫より地振ひ出しと云。前に云たる地震は橫にゆらず、竪にゆると云。洋說に符せり。

■やぶちゃんの呟き

「浴恩園」「浴恩」は元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。

「宴集」「うたげつどひ」と訓じておく。

「次に」「ひいでに」。

「先年羽州大地震せしとき」定信隠居後は文化九(一八一二)年三月六日であるが、話は「先年」とあるから、直近の「羽州」(現在の秋田・山形を指す)での巨大地震で強力な縦揺れが発生したものとなると、文化元年六月四日(一八〇四年七月十日)に発生した象潟地震であろうか。同地震はマグニチュード7.0前後で、死者は五百から五百五十人、象潟では二メートルもの広範な地盤隆起が起こり、三~四メートルの津波が襲来、結果、芭蕉の象潟湖は大部分が隆起し、松尾芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」(芭蕉の中でも私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を参照されたい)の面影は夢の跡となった。推定では震源は象潟の十数キロメートル沖合の海底で、海岸線にほぼ平行した長さ約四十二キロメートルの逆断層の変位に拠るものとされる。

「凡」(およそ)「二」「三丈」約六~九メートル。

「墜下る」「おちくだる」。

「振ひ出し」「ふるひいだせし」と訓じておく。

「前に」「さきに」。「始めは地の上にあがるようにありし」という部分を指す。

「竪」(たて)「にゆる」通常の地震では速い縦波であるP波が起こす揺れは「初期微動」と称されるように、普通はあまり大きくない。但し、震源が真下であるとか、この象潟地震のように近い距離で大規模に起こった場合では、P波による強い縦揺れが発生することが判っている。そうした経験から記された洋書の地震の様態を説いたものと、よく一致すると静山は言っているのである。

「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版公開

四年足らずもの間の懸案であった「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」及び同縦書PDF版を遂に「心朽窩旧館」に公開した。今年の電子化テクストの最後の特異点である。

――因みに――血圧は――教え子の忠告と降圧剤の効果絶大! 今朝は平均128/86まで落ちついた。早朝でここまで低いのは嘗てない。

精神的に片山廣子と芥川龍之介と教え子に救われた気がしている。

お読みあれかし!

2020/11/26

降圧剤で七種混合――犬のワクチン見たようなもんだ

一ヶ月前から朝起きると気持ちが悪い。午前中、ずっと気持ちが悪い。――自宅でずっと血圧を測っているが、この一ヶ月、午前中にピックがくる。それも150とか180とかで、何度も測定し直した。どうもおかしいと思って今日の午前中に主治医のところに行ったら、150/110、即、降圧剤を処方された。50代まで「君の血圧は下がない」と言われるほどの低血圧であったものが、突如、きた(三年前に左内頸動脈の動脈瘤があると言われてるから、破れたら一発だな)。糖尿病と高脂血症で二種類、左の慢性副鼻腔炎で三種類、睡眠のための精神安定剤一種類に、新顔の降圧剤で七剤を一日に飲むことになった。「七」か――北斗七星を禹歩して姿でも消せれば面白いが――されば、「死んでも死にきれない」から、今日も丸一日、片山廣子書簡のちっこいHTMLタグに鬼のように没頭した。流石に、一錠飲んだら速効で血圧は下がった。さっきは119/80。しかし、このヤク漬けはどうも気に入らねえな。

2020/11/25

新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを書き上げた

三年越しの懸案であった「未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版」の公開された同書簡類の新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを、先程、完成させた。これをHTMLにするのがまた一苦労だが、今年中には完成させて公開する。死んでも死に切れんからな――

2020/11/24

譚海 卷之三 近衞殿の事

 

近衞殿の事

○近衞殿御家(このゑどのおんけ)は時平公の御末故、菅神(くわんじん)の御咎めを憚り、北野へ參詣は代々せられざる事也。前年もたまたま參詣有ければ、非常の事出來て難儀なりしかば、兎角つゝしんで參詣なき事也しを、三藐院殿(さんみやくゐんどの)と聞えし御方深く歎き思召(おぼしめし)、北野へ御詫(おわび)ありて神像を千枚御書寫あり、弘(ひろ)く神威を輝(かがやか)し崇敬ましましける。此故にや當時は御參詣子細なき事に成(なり)て、何の障碍もなしといへり。三貌院關白御書寫の神影を拜見せしに、衣冠の御姿にて、梅花を折(をり)てもたせ給ふかたちを書(かき)て、

  から衣をりてきたのの神ぞとは袖にもちたる梅にても知れ

といふ御贊あり。

[やぶちゃん注:「近衞殿御家」は藤原北家近衛流嫡流で、菅原道真を失脚させた藤原時平も藤原北家の一流であった。

「三藐院殿」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)は桃山時代から江戸初期の公家。父は関白近衛前久。初名は信基。後に信輔・信尹と改名した。三藐院は号。「文禄の役」(一五九二年~一五九六年)の際には、朝鮮に渡るべく、独断で肥前名護屋に乗り込んだが、果たせず、後陽成天皇の勅勘を被り、薩摩坊津(ぼうのつ)に配流された。慶長元(一五九六)年に許され、以後、順調に昇進を遂げ、慶長十年(この二年前の慶長八年に江戸幕府は開幕している)には関白・氏長者になった。大徳寺の臨済僧春屋宗園(しゅうんおくそうえん)に参禅し、古渓宗陳や沢庵宗彭らと親交があった。また、茶道・歌道・書をよくしたが、ことに書は「寛永の三筆」(後の二人は本阿弥光悦・松花堂昭乗であるが、これは明治以降の呼称と考えられている)の一人として知られる。伝統的な青蓮院流書法に、私淑した藤原定家の書風を加え、さらに信尹独自の個性を加味した、力強い筆力で速書きの豪放な書風を確立した。近衛流・三藐院流として、生存中から多くの人々に愛好され、嫡男信尋(のぶひろ:後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となった)をはじめとする公家階層のみならず、武将や町人層にまで広まった(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「當時」これは本書執筆時制の「当今」の意。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもの。]

甲子夜話卷之六 22 有德院御風流の事

 

6-22 有德院御風流の事

林子曰。德廟御實政の、世を利し民に澤あるは、皆人の能知る所なり。その佗好古御風流の事は知もの稀なり。吹上の御庭にて、三月曲水宴を設られ、中秋月宴には諸臣に詩歌を命ぜらる。延喜式の染方を親ら御試ありて、凡三十餘程は吳服商の後藤に傳へ給ひ、その家にて今も御祕事の染方と稱す。御賄所に命ぜられ、式の法に傚ひ、大根を漬させられ、御上りとなりけるが、今其遺法を以て年々製造し、延喜式漬と稱す。明日香山、住太川に櫻を栽させられ、芝新渠の岸に櫨を栽へ、霜紅の美觀とし給ひ、本所羅漢寺は海棠を多く植させられしと。これは卑濕の地ゆへ、その性に叶ふべしとの思召となり。西土にては海棠を賞すること多けれども、本邦にて海棠一色の景を思し寄せられしは權輿とも云べし。今はいつ枯果しや跡方もなく、其事知るものさへなし。

■やぶちゃんの呟き

「有德院」(ゆうとくゐん)「德廟」徳川吉宗。

「林子」お馴染みの友人江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。

「皆人」「みなひと」。

「能」「よく」。

「佗」「わび」。

「好古」「かうこ」。古い時代の事物を好むこと。

「親ら」「みづから」。

「御試」「おためし」。

「凡」「およそ」。

「餘程」「あまりほど」。

「吳服商の後藤」御用呉服商人後藤縫殿助。日本橋の日本橋川上流に架かる一石橋の南詰の西川岸町に並んでいた呉服町に屋敷があった。但し、ウィキの「後藤縫殿助」によれば、『享保期には八代将軍徳川吉宗による大奥の縮小を伴う享保の改革により』、『公儀呉服師も減少させられた。それでも幕府による救済策により後藤縫殿助の呉服所は幕末まで継続した』とある。

「御賄所」「おまかなひじよ」。

「傚ひ」「ならひ」。

「明日香山」東京都北区王子にある飛鳥山公園。王寺駅南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。

「住太川」隅田川。

「栽させられ」「うゑさせられ」。

「芝新渠」「しばしんぼり」。東京都港区芝二丁目の内。この辺り

「櫨」「はぜ」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum

「霜紅」「しもくれなゐ」。

「本所羅漢寺」私の大好きな寺。大学時代、中目黒に下宿しており、何度も行った。元はここにある通り、本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあり、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか、度々、洪水に見舞われて衰退し、明治四一(一九〇八)年に現在の地である東京都目黒区下目黒に移ったウィキの「五百羅漢寺」を参照した)。

「卑濕」「ひしつ」「ひしふ(ひしゅう)」。土地が低くて、じめじめしていること

「西土」「せいど」。中国・インド。

「權輿」「けんよ」「権」は秤(はかり)の錘(おもり)、「輿」は車の底の部分の意で、どちらも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり」の意となった。

2020/11/23

畔田翠山「水族志」 スミヤキ 烏頰魚

 

(一三)

スミヤキ 烏頰魚

按ニ異魚圖賛𨳝集曰烏頰身狹側視之則稍員厚鱗少骨多處水崖中漁人以釣得之色近黑脊上有棘鬣數十枝長二三寸或亦借此以防患者漳州府志曰烏頰興化志曰全以棘鬣但其烏頰ト云者全ク「スミヤキ」也續修臺灣府志ニ烏頰身短濶ト云者ハ「クロダヒ」也閩書ニモ烏頰魚似奇鬣而稍黑當大寒時ト云閩中海錯疏ニモ烏頰形與奇鬣相同二魚俱於隆冬大寒時取之然奇鬣之味在首トタヒト相等ク云リ「スミヤキ」ハ棘鬣ノ類ニ非ス棘鬣類ハ口中細齒並ヒ分レ生ス「スミヤキ」ハ其齒口外ニ尖出シ上下俱ニ板牙ニ乄細齒ワカレズ其鱗細ニ乄棘鬣ニ類セズ且鱗上ニ涎沫アリテ棘鬣ノ類ト大ニ異也クロダヒ【物類稱呼曰「チヌ」ト「クロダヒ」ト大同シテ小ク別也然レドモ今混シテ名ヲ呼】形狀棘鬣ニ似テ短ク濶ク口微尖リ唇厚ク棘鬣ノ如ク眼上ヨリ隆起シ鱗狀棘鬣ノ如ク遍身黑色背腹ノ鬣棘鬣ノ如ク黑色尾黑色ニ乄「タヒ」ニ乄岐ナク腹白色也大和本草曰黑ダヒ其形ハ「チヌ」ニ似テ別ナリ性味共ニ「タヒ」ニヲトルスミヤキ 一名ハス【紀州若山】シマダヒ【同上】モンパチ【勢州阿曾浦】イワシナベ【紀州熊野勢州慥抦浦】コリイヲ【伊豫西條】ワサナベ【熊野新宮田邊】コロダヒ【防州岩國】クチグロ【備州岡山】ムト【播州網干】クロイヲ【播州姫路備中玉島】タンシチ【尾州常滑】コウロウ【土佐浦戶】アサラギ【紀州熊野日置浦讚州八島】鍋ワリ【漁人云此魚冬月脂多故ニ鍋ワリト稱ス】ナ乄リ大者二三尺形狀「チヌ」ニ似テ口小ク其牙口外ニ出板牙ニ乄尖尖白色ナリ細鱗靑黑色其頰黑色此魚小ニ乄四五寸ノ者身淡藍色ニ乄背及扁ニ淡黑斑アリテ背ヨリ腹ニ至リ深黑條七八道アリ頭ノ黑條ハ眼ノ上ヨリ喉下ニ至ル頰淡紅色ヲ帶背鬣淡黑ニ乄黑斑ヲナシ脇翅淡黑ニ乄淡藍色ヲ帶腴翅本淡黑ニ乄末黑色背ノ下鬣黑色ニ乄尾上ニ當テ上下鬣相等ク截斷スルガ如シ腰下鬣黑色ニ乄背鬣ニ同乄背鬣ト相幷ヘリ尾本淡黑ニ乄藍色ヲ帶末小ク岐ヲナシテ黑色ナリ若山ノ俗此ヲ狂言袴ト云紀州田邊ニテ「米カミ」ト云其尺餘ニ及フ者身淺藍色ニ乄背腹黑斑多ク背ヨリ腹ニ至ル黑條色淺クナリ頰黑色尾淡黑端微黑色也其二尺ニ及者ハ此黑斑去大和本草曰「スミヤキ」性不好或曰其腸有大毒不可食ドロ 「スミヤキ」ノ一種也形狀「ハス」ニ似テ齒短ク眼上ヨリ背ニ至リ隆起シテ身「ハス」ヨリ扁濶也大者二三尺背淡黑色腹淡靑色細鱗アリ脇翅淡靑黃色腹下翅黑色背淺黑色淺深班ヲナス背ノ後鬣ト腰下鬣トノ末上下ニ相並尾上ニテ截斷カ如シ黑色也尾狀小岐ヲナスヿ「ハス」ノ如シ五六寸ノ者ハ背ヨリ腹ニ至テ黑條七ツアリ其條モ「ハス」ヨリ太シ形狀ハ「ハス」ニ同乄剛シ紀州海士郡田納浦漁人皆云「ハス」ト「ドロ」トハ異也「ハス」ハ身狹ク頭低ク口細ク濶ク張テ身短ク濶シ棘鬣ト赤鬃トノ分チヨリ尙其形狀ヲ異ニセリ○クロバス 一名トモヽリ【紀州九木浦漁人云イハシナベノ黑キ㸃アル者ヲトモヽリト呼】コメカミ【勢州松坂】「ハス」ニ似テ頭隆起シテ身濶也全身黑色ニ乄腹靑色ヲ帶頭黑色遍身深黑色ノ圓㸃アリ口牙皆「ハス」ニ似タリ一種斑㸃ナク全ク黑色ノ者アリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

(一三)

スミヤキ 烏頰魚

按ずるに、「異魚圖賛𨳝集」に曰はく、『烏頰、身、狹〔せば〕く側〔そく〕す。之れを視るに、則ち稍〔やや〕員〔はば〕厚く、鱗、少なし。骨、多し。水の崖〔がけ〕の中に處〔を〕る。漁人、釣りを以つて、之れを得る。色、黑に近し。脊の上、棘鬣、數十枝、有り、長さ二、三寸、或いは亦、借〔か〕りに、此れを以つて患ひを防ぐ者か』と。「漳州府志」に曰はく、『烏頰、「興化志」に曰はく、「棘鬣を以つて全きとす」と』と。但だ、其の「烏頰」と云ふ者、全く「スミヤキ」なり。「續修臺灣府志」に、『烏頰、身、短くして濶〔ひろ〕し』と云ふ者は「クロダヒ」なり。「閩書」にも『烏頰魚、奇鬣〔タヒ〕に似て、稍〔やや〕黑し、大寒の時に當りて取る』と云ふ。「閩中海錯疏」にも、『烏頰、形、奇鬣と相ひ同じうして、二魚、俱〔とも〕に隆〔たか〕し。冬、大寒の時、之れを取る。然して、奇鬣の味、首〔かうべ〕に在り』と。「タヒ」と相ひ等しく云へり。

「スミヤキ」は棘鬣〔タヒ〕の類〔るゐ〕に非ず。棘鬣の類は、口中、細き齒、並び分かれ生ず。「スミヤキ」は、其の齒、口外に尖出し、上下、俱に板齒にして、細齒、わかれず。其の鱗、細かにして、棘鬣に類せず。且つ、鱗の上に涎沫〔ぜんまつ/よだれ〕ありて、棘鬣の類と、大いに異なり。

クロダヒ【「物類稱呼」に曰はく、『「チヌ」と「クロダヒ」と大いに同じくして、小さく、別なり。然れども、今、混じて名を呼ぶ』と。】形狀、棘鬣〔タヒ〕に似て、短く、濶く、口、微かに尖れり。唇、厚く、棘鬣のごとく眼上より隆起し、鱗の狀〔かたち〕、棘鬣のごとく、遍身、黑色。背・腹の鬣〔ひれ〕、棘鬣のごとく、黑色。尾、黑色にして、岐、なく、腹、白色なり。「大和本草」に曰はく、『黑ダヒ、其の形は「チヌ」に似て、別なり。性・味共に「タヒ」に、をとる。

スミヤキ 一名「ハス」【紀州若山。】・「シマダヒ」【同上。】・「モンパチ」【勢州阿曾浦。】・「イワシナベ」【紀州熊野。勢州慥抦浦〔たしからうら〕。】・「コリイヲ」【伊豫西條。】・「ワサナベ」【熊野新宮。田邊。】・「コロダヒ」【防州岩國。】・「クチグロ」【備州岡山。】・「ムト」【播州網干。】・「クロイヲ」【播州姫路。備中玉島。】・「タンシチ」【尾州常滑。】・「コウロウ」【土佐浦戶。】・「アサラギ」【紀州熊野日置浦。讚州八島。】・「鍋ワリ」【漁人云はく、「此の魚、冬月、脂、多し。故も「鍋ワリ」と稱す」と。】。「ナ乄リ」[やぶちゃん注:「ナシテリ」ではよく判らぬ。「ナベワリ」或いは後に出る「イハシナベ」の誤字か誤判読であろう。]、大なる者、二、三尺。形狀、「チヌ」に似て、口、小さく、其の牙、口外に出で、板牙にして、尖尖として、白色なり。細き鱗、靑黑色。其の頰、黑色。此の魚、小にして、四、五寸の者、身、淡藍色にして、背に及び、扁〔へん〕に淡黑の斑〔まだら〕ありて、背より腹に至り、深黑の條、七、八道、あり。頭の黑條は、眼の上より喉の下に至る。頰、淡紅色を帶ぶ。背鬣、淡黑にして黑斑をなし、脇翅〔むなびれ〕、淡黑にして、淡藍色を帶ぶ。腴翅〔はらびれ〕の本、淡黑にして、末、黑色。背の下の鬣、黑色にして尾の上に當りて、上下の鬣、相ひ等しく截斷するがごとし。腰の下の鬣、黑色にして、背鬣に同じくして、背鬣と相ひ幷〔なら〕べり。尾の本、淡黑にして藍色を帶び、末、小さく岐をなして、黑色なり。若山の俗、此れを「狂言袴〔キヤウゲンバカマ〕」と云ひ、紀州田邊にて「米〔コメ〕カミ」と云ふ。其れ、尺餘に及ぶ者、身、淺藍色にして、背・腹、黑斑多く、背より腹に至る黑條、色、淺くなり、頰、黑色。尾、淡黑、端、微黑色なり。其の二尺に及ぶ者は、此の黑斑、去る。「大和本草」に曰はく、『「スミヤキ」、性、好からず。或いは曰はく、「其の腸、大毒、有り。食ふべからず」と』と。

ドロ 「スミヤキ」の一種なり。形狀、「ハス」に似て、齒、短く、眼上より背に至り、隆起して、身、「ハス」より扁濶〔へんくわつ〕なり。大なる者、二、三尺。背、淡黑色。腹、淡靑色。細鱗あり。脇翅〔むなびれ〕、淡靑黃色。腹の下の翅、黑色。背、淺黑色、淺深の班をなす。背の後ろの鬣と、腰の下の鬣との末、上下に相ひ並び、尾の上にて截斷〔きりたつ〕がごとし。黑色なり。尾の狀、小岐をなすこと、「ハス」のごとし。五、六寸の者は、背より腹に至りて、黑條、七つ、あり。其の條も「ハス」より、太し。形狀は「ハス」に同じくして剛〔こは〕し。紀州海士郡田納浦の漁人、皆、云はく、『「ハス」と「ドロ」とは異なり。「ハス」は、身、狹く、頭〔かしら〕、低く、口、細く濶〔ひろ〕く張りて、身、短く、濶〔ひろ〕し。棘鬣と赤鬃との分〔わか〕ちより、尙ほ、其の形狀を異にせり』と。

○クロバス 一名「トモヽリ」【紀州九木浦。漁人云はく、『「イハシナベ」の黑き㸃ある者を「トモヽリ」と呼ぶ』と。】・「コメカミ」【勢州松坂。】 「ハス」に似て、頭、隆起して、身、濶なり。全身、黑色にして、腹、靑色を帶ぶ。頭、黑色。遍身、深き黑色の圓㸃あり。口牙、皆、「ハス」に似たり。一種、斑㸃なく、全く黑色の者あり。

 

[やぶちゃん注:一つ、確実に最有力候補の一種としては、

条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目スズキ目スズキ亜目スズキ上科シマイサキ科 Terapontidae の類、或いはシマイサキ科シマイサキ属シマイサキ Rhyncopelate oxyhynchus

を挙げてよい。本種はイサキの名を含むが、スズキ上科イサキ科 Haemulidae とは全く無縁なので注意が必要(一部のイサキ科の類には見た目が似ているものがいることはいる)。体長は三十~四十センチメートルに達し、腹は金色で背中に墨で書いたような黒い縦縞模様が四~七筋走る。頭部から背にかけては直線的で、吻がやや突出して頭部全体が尖った感じを与える。尾鰭にも細かな薄い褐色の縦縞模様がある。これらは概ね記載と一致を見る。同種の産卵期は晩春から夏で、浅い内湾の穏やかなところを好む。危険を感じると、鰾(うきぶくろ)を使って「グーグー、ググッ、ググ」と鳴く特徴を持つ。宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)のシマイサキのページを見る(属名が「Therapon」となっているが、種小名は一致しているのでシノニムらしいが、調べても見当たらない)と、『體は長形側扁し、前端は稍尖つてゐる。背部は蒼灰色で、體側には幅廣き四條の黑褐色の縱帶と、之よりも淡い三條の點線とありて、交互に平行する。但し幼魚にはこの點列がない。下部は吟白色に少しく靑味を帶びる。奇鰭』(きき:魚類の背・腹の正中線に沿ってついている対を成さない鰭(背鰭・尻鰭・尾鰭・サケ科 Salmonidaeの類の背鰭の後ろにある脂鰭)を指す。「奇」一で奇数、体側左右に対を成す「偶鰭(ぐうき)」の反対語である)『には黑褐色の斑點を有する。體長一尺内外。近海に產し』、『五』『六月頃產卵する。普通』とあり、まず、以上の記載と比して、同一対象種を説明しているとしてよかろうか。「方言」の項に「スミヤキ」として、湯浅・田辺・周参見を挙げている。ただ、他に「シマイザサギ(白崎)」「ホラフキ(和歌山)」「シヤミセン(和歌浦)」が方言名としてあるのだが、これだけ畔田が挙げているものとその三つが全然一致しないというのは、これ、不審である。それがまた、私がこれだと同定比定出来ない理由でもある。また、宇井は同書の「イサギ」で、真正の「イサキ」である、

スズキ目スズキ亜目イサキ科コショウダイ亜科イサキ属イサキ Parapristipoma trilineatum の幼魚

を、「シマイサギ」と称することがある、と述べてもおり、魚体からは完全にその説を排除出来るとは私は思わない(排除してよいと思われる方は多かろうが)。

「異魚圖贊𨳝集」の「𨳝」は「閏」(ジュン)の誤り。「本来あるものの他にあるもの。正統でない余り物」の意。いわば、本巻に添えた「別集」の意。清の胡世安の魚譜「異魚圖贊補」の「閏集」。「漢籍リポジトリ」のこちら最初の[004-2a]から読め、原本画像も見られる。それは以下である(原本画像で自分の目で再校閲した)。

   *

  烏頰 赤鯮

二魚異産形味稍同色羣可辨或釣或罿

 烏頰身狹側視之則稍員厚鱗少骨多處水崖中漁人以釣得之色近黒脊上有刺數十枝長二三寸或亦藉此以防患者 赤鯮一名交鬛似烏頰而稍短結陣而至大小交錯因名交鬛色淺絳故又名赤

味不下烏頰黒赤之分衆寡之異小者名紅翅葢其子也

   *

「漳州府志」(しょうしゅうふし)は、原型は明代の文人で福建省漳州府龍渓県(現在の福建省竜海市)出身の張燮(ちょうしょう 一五七四年~一六四〇年)が著したものであるが、その後、各時代に改稿され、ここのそれは清乾隆帝の代に成立した現在の福建省南東部に位置する漳州市一帯の地誌を指すものと思われる。

「興化志」「興化府志」。明の呂一静らによって撰せられた現在の福建省の興化府(現在の莆田市内)地方の地誌。

「棘鬣を以つて全きとす」恐らくは背鰭の隆々たるマダイの類いを正統なタイプ種とする、という意であろう。

「續修臺灣府志」清の余文儀の撰になる台湾地誌。一七七四年刊。この「臺灣府志」は一六八五から一七六四年まで、何度も再編集が加えられた地方誌である。その書誌データは維基文庫の「臺灣府志」に詳しい。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の巻十八PDF)の「物產二」の「蟲魚」の33コマ目の左頁七行目に、

   *

鳥頰[やぶちゃん注:ママ。]【身短濶】

   *

と確かにあった。因みに、「維基文庫」の同「臺灣府志」の「蔣志」の巻四の「麟屬」(鱗属に同じ)には、

   *

烏頰【形似過臘而小、隆冬天寒時取之。】

   *

とあった。後者の「過臘」はこれでマダイ(スズキ目タイ科マダイ亜科マダイ属マダイ Pagrus major)の漢名異名である。

「閩書」明の何喬遠撰になる福建省の地誌「閩書南産志」。ネットでは電子化や画像は残念ながら、見当たらない。

「閩中海錯疏」明の屠本畯(とほんしゅん 一五四二年~一六二二年)が撰した福建省(「閩」(びん)は同省の略称)周辺の水産動物を記した博物書。一五九六年成立。中国の「維基文庫」のこちらで全文が正字で電子化されている。また、本邦の「漢籍リポジトリ」でも分割で全文が電子化されており、当該の文は「上卷」で以下(原本画像と校合した)。

   *

烏頰形與竒鬛相同二魚俱於隆冬大寒時取之然竒鬛之味在首

   *

「涎沫〔ぜんまつ/よだれ〕」粘液が纏わり付いているということであろう・

ありて、棘鬣の類と、大いに異なり。

「クロダヒ」既に「(三)」として挙がった『畔田翠山「水族志」 クロダヒ』を参照。

「物類稱呼」江戸後期の全国的規模で採集された方言辞書。越谷吾山(こしがやござん) 著。五巻。安永四(一七七五)年刊。天地・人倫・動物・生植・器用・衣食・言語の七類に分類して約五百五十語を選んで、それに対する全国各地の方言約四千語を示し、さらに古書の用例を引くなどして詳しい解説を付す。「甘鯛」は巻二の「動物」の「棘鬣魚(たひ)」の小見出しに出る。以下の引用はPDFで所持する(岡島昭浩先生の電子化画像)昭和八(一九三三)年立命館出版部刊の吉澤義則撰「校本物類稱呼 諸國方言索引」に拠った。

   *

烏頰魚  くろだひ○東部にて◦くろだひと云、畿内及中國九州四国ともに◦ちぬだひと呼。  此魚、泉州茅渟浦(ちぬのうら)より多く出るゆへ[やぶちゃん注:ママ。]「ちぬ」と號す。但し「ちぬ」と「彪魚(くろだひ)」と大に同して、小く別也。然とも今混(こん)して名を呼。又或物を◦かいずと稱す。泉州貝津邊にて是をとる。因て名とす。江戶にては芝浦に多くあり。

   *

「泉州茅渟浦」は現在の大阪湾の東部、堺市から岸和田市を経て泉南郡に至る海岸一帯(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。「泉州貝津」は不詳。「貝塚」の誤りか?

『「大和本草」に曰はく、『黑ダヒ、其の形は「チヌ」に似て、別なり。性・味共に「タヒ」に、をとる』「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」。原文はリンク先を見られたい。

   *

○海鯽(ちぬ) 「閩書」に出たり。順が「和名」に、『海鯽魚 知沼』と。鯛に似て靑黒色、好んで人糞を食ふ。故に、人、之れを賎(いや)しむ。「黑鯛」・「ひゑ鯛」も其の形は「海鯽」に似て、別なり。此の類、性・味共に、鯛にをとれり。佳品に非ず。

   *

「ハス」シマイサキの異名としては確認出来ない。しかし、これは、

スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシダイ Oplegnathus fasciatus

の異名としてかなり広く行われている。以下もごっそりイシダイの異名が並ぶ。さすれば、この「㋺スミヤキ」はイシダイと見た方が無難である。「バス」というのもある。

「シマダヒ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のシマイサキのページの「地方名・市場名」欄に、石川県木場潟・河北潟・今江潟での地方名として挙がる。

「モンパチ」異名として確認出来ない。

「勢州阿曾浦」三重県度会郡南伊勢町(ちょう)阿曽浦(あそうら)

「イワシナベ」イシダイの異名として確認出来る。

「勢州慥抦浦」三重県度会郡南伊勢町慥柄浦(たしからうら)

「コリイヲ」イシダイの異名として確認出来る。

「伊豫西條」愛媛県西条市

「ワサナベ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイシダイのページの「地方名・市場名」欄に「ナベッカス」を「神奈川県小田原市・二宮町」採取として挙げ、『小型で縞模様のはっきりしたもの』をかく呼び、『漢字で書くと「なべ滓」だろう。「みそっかす」の「かす」でイシダイとは言えない、数に入らないほど小さいという意味合いか。成魚(大形)を「ナベ」という地域もあり、小田原でもイシダイを「ナベ」と呼んでいたのかも』知れないとあった。他に「ナベ」もあり、これは「三重県尾鷲市・南伊勢町」とされ、「やや大型、成魚

を言い』、『漢字は「鍋」で煮るなどすると鍋をさらえるほど美味か?』とある。他にも同ページには、「アサナベ」・「アサラベ」・「ナベダイ」・「ナベワリ」・「ユワシナベ」と鍋テンコ盛り状態である。

「コロダヒ」やはり「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイシダイのページで、イシダイの異名に「コウロウ(コーロ)」(高知県室戸市三津・愛媛県宇和郡愛南町)、「コロ」(高知県宿毛市田ノ浦すくも湾漁協)の他、「チョウメンコロバ」「チョンコロバ」「コロゲ」(京都府宮津市・伊根町新井崎漁港)ともある。但し、スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta という和名総本家がいるので、注意が必要だ。

「クチグロ」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のイシダイのページで、「クログチ」「クロクチ」を見出せ、「キチグロ」で私もイシダイの異名として知るが、これは見当たらないものの、「シマイサキ」の異名としてあっても腑には落ちるものである。

「ムト」不詳。

「播州網干」兵庫県姫路市網干(あぼし)区

「クロイヲ」同前で、三重県志摩市大王町でイシダイを「クロメ」(黒目)と呼ぶとある。これも見た目の印象的にはシマイサキでもそう呼びたくはなるだろう。

「備中玉島」岡山県倉敷市玉島

「タンシチ」似たようなイシダイの異名に「シチノジ」がある。

「尾州常滑」愛知県常滑市。焼き物ばかりで、世の中には伊勢湾に面していることを知らぬ御仁もいるので、特にリンクを配した。

「コウロウ」イシダイの異名。スズキ亜目イシダイ科イシダイ属イシガキダイ Oplegnathus punctatus の異名でもある。イシガキダイはイシダイに似るが、幼魚・若魚の体表に広く黒い不定形斑紋があること、大型になるに従って、イシダイに反して口の周りが白くなる点で区別できる。

「土佐浦戶」高知県高知市浦戸(うらど)

「アサラギ」既に示した通り、イシダイの異名に「アサラベ」がある。

「紀州熊野日置浦」和歌山県西牟婁郡白浜町日置(ひき)

「鍋ワリ」既に示した通り、イシダイの異名。

「若山」前意もそうだが、和歌山。

「狂言袴〔キヤウゲンバカマ〕」「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」によれば、

スズキ亜目ハタ科ハタ亜科ハタ族マハタ属マハタ Epinephelus septemfasciatus

カゴカキダイスズキ亜目カゴカキダイ科カゴカキダイ属カゴカキダイ Microcanthus strigatus(異名採集地は和歌山県湯浅・周参見・白崎)

スズキ亜目チョウチョウウオ科ハタタテダイ属ムレハタタテダイ Heniochus diphreutes

スズキ亜目チョウチョウウオ科ハタタテダイ属ハタタテダイ Heniochus acuminatus

の異名とする。個人的には、この前の記載と魚体からは、畔田が指示するのはマハタのように思われる。

「米カミ」「コメカミ」は先のイシガキダイの異名が圧倒している。

『「大和本草」に曰はく、『「スミヤキ」、性、好からず。或いは曰はく、「其の腸、大毒、有り。食ふべからず」と』と』益軒は同書の「大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)」で、

   *

○烏頰魚(すみやき/くろだひ[やぶちゃん注:前が右ルビ、後が左ルビ。]) 「閩書」に曰はく、『竒鬣に似て、形、稍〔(やや)〕、黒し。大寒〔(だいかん)〕の時に當り、之れを取る。性、好からず』〔と〕。或いは曰はく、其の膓、大毒有り、食ふべからず。頭、短く、口、小なり。形は鯛に似たり。此類、亦、多し。

   *

と記している。私はそこの注で、

   *

まず、これは、その叙述の内の、「性、好からず」「其の膓、大毒有り、食ふべからず」という特異な注記から、釣通に人気で美味な「くろだひ」、スズキ目タイ科ヘダイ亜科クロダイ属クロダイ Acanthopagrus schlegelii ではなく、現在でも別名で「スミヤキダイ」と呼ぶ、

スズキ目スズキ亜目イシナギ科イシナギ属オオクチイシナギ Stereolepis doederleini

に同定比定する。本邦では各地に分布し、美味い魚であるが、肝臓には大量のビタミンAが含まれており、知っていて少しにしようと思っても、味わいがいい(私も試しに少量を食べたことがあるが、実際、非常に美味い)ため、つい、食が進んでしまうことから、急性のビタミンA過剰症(食中毒)を起こす虞れが高い。症状は激しい頭痛・嘔吐・発熱・全身性皮膚落屑(はくせつ)等であり、食後三十分から十二時間程度で発症する。私の「栗本丹洲自筆巻子本「魚譜」 スミヤキダイ(オオクチイシナギ)」も参照されたい。

   *

と注した。これを私は変更する意志はない。

「ドロ」『「スミヤキ」の一種なり』これは如何なる種を指しているか不詳である。識者の御教授を乞う。

「紀州海士郡田納浦」この地名では現認出来ない。思うに和歌山県和歌山市田野(たの)(グーグル・マップ・データ)のことではあるまいか。漁港名は「田ノ浦」であり、畔田が盛んに採取地として挙げる、「雜賀崎浦」と「若浦」(和歌の浦)の丁度、中間に当たる海辺に当たる。

「赤鬃」既注であるが、再掲する。「鬃」は「鬣」と同じ意。但し、これは本種として同定してよいかどうか、やや疑問がある。まず、本種チダイの分布域が問題で、現在は北海道南部以南の日本沿岸(琉球列島を除く)及び朝鮮半島南部に分布するとされるから、中国で本種を指したとは考えにくい点がまず一つ。また、調べてみたところ、中文版の「維基百科」の「赤鯮」の学名データを見ると――これ――おかしい――のである。そこでは、「赤鯮」を Dentex tumifrons とし、「異名」(この場合はシノニムとなるはず)として、Taius tumifronsChrysophrys tumifronsEvynnis tumifrons の三つの学名を置くのであるが、最後のそれは確かにチダイだが、Dentex tumifrons はチダイではなく、タイ科キダイ亜科キダイ属キダイ Dentex tumifrons で、後にあるTaius tumifronsChrysophrys tumifrons の二つのシノニムも、やはりキダイのシノニムなのである。これは、非常に悲しいことだが(私はウィキぺディアのライターでもある)、このページを書いた人物が、本邦で獲れるタイ類には詳しくなく、似たタイ科の種を同種として並べてしまった結果、とんでもないことになってしまったものと思われるのである(私はウィキペディアの致命的な誤りは通常、その場で直ちに修正するのだが、中文のそれまで直す気にはなれない。論争に展開しても中国語では話し合うことが出来ないからである)。さすれば、これは思った通りの誤認が、今も平然と行われている証左であり、ますますチダイではないという感じが確信的になってきたのである。そこでさらに調べて見たところが、台湾のサイト「宅魚」の「台灣的十大好魚(三)」に、「第七名 赤鯮」とあるのを見出した。そこには冒頭に、『赤鯮、學名為黄背牙鯛 (Dentex hypselosomus)』とあったのである。しかもこれもやはり思った通り、キダイ Dentex tumifrons のシノニムなのであった。データシステム「BISMaL」(Biological Information System for Marine Life)のこちらを見られたい。因みに、同じビスマルのチダイのツリーはここである。則ち、「赤鬃」は中国大陸沿岸には棲息しないチダイなんぞではなく、東シナ海大陸棚からその縁辺域に広く分布する「絵に書いたタイらしいタイ」であるキダイのことだということである。まんず、間違えても仕方ないかとは思うぐらい、両者は遠目にはよく似ているようには見える。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のキダイ(別名レンコダイもよく知られる)の画像を見られたい。

「クロバス」宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)のここによれば、イシガキダイを畔田翠山「水族志」では紀州九木浦でこう呼ぶ、と比定している。

「トモヽリ」宇井縫藏著「紀州魚譜」(昭和七(一九三二)年淀屋書店出版部・近代文芸社刊)は、まず、ここで、田辺で、スズキ亜目イサキ科ヒゲダイ属セトダイ Hapalogenys analis を「トモモリ」呼称していることを記す。しかし、本種は素人が見ても、シマイサキにもイシガキダイにも全く似ていない。また、同書の別なところでは、田辺・白崎でスズキ目ニザダイ亜目マンジュウダイ科ツバメウオ属ツバメウオ Platax teira を「トモモリ」とするが、これも魚体が全く異なり、話にならない。なお、この名は平清盛の四男の平知盛で、平家一門の最後を看取って入水した名将由来と思われるが、魚体といい、個人的にはピンとこない、厭な異名である。

「紀州九木浦」現在の三重県尾鷲市九鬼町(くきちょう)か。

「コメカミ」既注。]

北原白秋「邪宗門」正規表現一括PDFルビ附版公開

久々に「心朽窩新館」に、公開した(4.21MB)。詩篇は一篇ごとに改ページした贅沢な作りとし、ネットに繋いだ状態であれば、リンクも総てが機能する。お楽しみあれかし。

北原白秋 邪宗門 正規表現版 失くしつる・目次・(装幀・引用・彫版等氏名)・奥附 / 北原白秋 邪宗門 正規表現版~了 

 

   失くしつる

 

失(な)くしつる。

さはあるべくもおもはれね。

またある日には、

探(さが)しなば、なほあるごともおもはるる。

色靑き眞珠(しんじゆ)のたまよ。

四十一年七月

 

 

 

[やぶちゃん注:以下、「目次」であるが、ページ数とリーダは必要性がないので省略した。「国文学研究資料館電子資料館」の「近代文献情報データベース」の「ポータル近代書誌・近代画像データベース」の原本(実物)画像を見て戴きたいが、各詩篇標題は原本では有意な字下げが行われている。それに見かけ上は合うようにしたつもりである。但し、詩篇標題の均等割付は無視した。]

 

邪宗門目次

      魔   睡

    邪宗門秘曲

    室内庭園

    陰影の瞳

    赤き僧正

    WHISKY

    天鵝絨のにほひ

    濃霧

    赤き花の魔睡

    麥の香

    曇日

    秋の瞳

    空に真赤な

    秋のをはり

    十月の顔

    接吻の時

    濁江の空

    魔國のたそがれ

    蜜の室

    酒と煙草に

    鈴の音

    夢の奥

    窓

    昨日と今日と

    わかき日

      朱の伴奏

    謀叛

    こほろぎ

    序樂

    納曾利

    ほのかにひとつ

    耽溺

    といき

    黑船

    地平

    ふえのね

    下枝のゆらぎ

    雨の日ぐらし

    狂人の音樂

    風のあと

    月の出

      外光と印象

    冷めがたの印象

    赤子

    暮春

    噴水の印象

    顏の印象

     A 精舍

     B 狂へる街

     C 醋の甕

     D 沈丁花

     E 不調子

     F 赤き恐怖

    盲ひし沼

    靑き光

    樅のふたもと

    夕日のにほひ

    浴室

    入日の壁

    狂へる椿

    吊橋のにほひ

    硝子切るひと

    悪の窻

      一 狂念

      二 疲れ

      三 薄暮の負傷

      四 象のにほひ

      五 惡のそびら

      六 薄暮の印象

      七 うめき

    蟻

    華のかげ

    幽閉

    鉛の室

    眞晝

      天草雅歌

    天草雅歌

    角を吹け

    ほのかなる蠟の火に

    艫を拔けよ

    汝にささぐ

    ただ秘めよ

    さならずば

    嗅煙艸

    鵠

    日ごとに

    黃金向日葵

    一炷

      靑 き 花

    靑き花

    君

    桑名

    朝

    紅玉

    海邊の墓

    渚の薔薇

    紐

    晝

    夕

    羅曼底の瞳

      古  酒

    戀慕ながし

    煙草

    舗石

    驟雨前

    解纜

    日ざかり

    軟風

    大寺

    ひらめき

    立秋

    玻璃罎

    微笑

    砂道

    凋落

    晩秋

    あかき木の實

    かへりみ

    なわすれぐさ

    わかき日の夢

    よひやみ

    一瞥

    旅情

    柑子

    内陣

    懶き島

    灰色の壁

    失くしつる

 

 

邪宗門目次

 

 

裝愼…………………………………………………石井柏亭

  「エツキスリプリス」及「幼兒磔殺」………………………石井柏亭

插畫『澆季』……………………………………………石井柏亭

插畫『眞晝』……………………………………………山本 鼎

私信『四十一年七月廿一日便』………………………太田正雄

插畫『硝子吹く家』……………………………………石井柏亭

 扉繪及欄畫十葉………………………………………石井柏亭

彫版…………………………………………………山本 鼎

 

[やぶちゃん注:字のポイントが変えてある。なるべく似たような感じになるようにはした。「国文学研究資料館電子資料館」の「近代文献情報データベース」の「ポータル近代書誌・近代画像データベース」の原本(実物)画像の以上のページをリンクさせておく。なお、リンク画像の左下にある「一三」とは、先の「目次」に始まるページの通し番号である(右ページは白紙でノンブル表示がないが、十二ページ目として数えてはいる)。

「裝愼」はママ。「裝幀」の誤植。リーダ数はブラウザでの不具合を考えて再現していない。例えば、最初の「裝愼」の後には実際には六十六のリーダが打たれており、下部(本電子化では右端部分)が綺麗に揃っている。技術上、それをやると微妙に実物と異なってしまうので、右インデントを施していない。

 以下、奥附。上記のリンク先で示すので、字配・ポイントなどは無視して電子化する。]

 

明治四十二年三月 十日印刷

明治四十二年三月十五日發行

 

邪宗門奥附

 定価壹圓

 

不許複製

 

 著者  北原白秋

   東京麹町區飯田町六町目廿四番地

 發行者 西本波太

   東京小石川區久堅町百八番地

 印刷者 山田英二

   東京小石川區久堅町百八番地

 印刷所 博文館印刷所

   東京麹町區飯田町六町目廿四番地

發行所  易風社

          振替一二〇三四番

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 灰色の壁

 

   灰色の壁

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。

臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、

丑滿(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。

龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)、

燭(しよく)靑うまじろがずひとつ照(て)る。

時にわれ、朦朧(もうろう)と黑衣(こくえ)して

天鵝絨(びろうど)のもの鈍(にぶ)き床(ゆか)に立ち、

ひたと身は鐵(てつ)の屑(くず)

磁石(じしやく)にか吸はれよる。

足はいま釘(くぎ)つけに痺(しび)れ、かの

黃泉(よみ)の扉(と)はまのあたり額(ぬか)を壓(お)す。

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。

暗澹(あんたん)と燐(りん)の火し

奈落(ならく)へか虛(うつろ)する。

表面(うはべ)ただ古地圖(ふるちづ)に似て煤(すす)け、

縱橫(たてよこ)にかず知れず走る罅(ひび)

靑やかに火光(あかり)吸ひ、じめじめと

陰濕(いんしつ)の汗(あせ)うるみ冷(ひ)ゆる時、

鐵(てつ)の氣(き)はうしろより

さかしまに髮を梳(す)く。

はと竦(すく)む節々(ふしふし)の凍(こほ)る音(おと)。

生きたるは黑漆(こくしつ)の瞳のみ。

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。

熟視(みつ)む、いま、あるかなき

一點(いつてん)の血の雫(しづく)。

朱(しゆ)の鈍(にば)み星のごと潤味(うるみ)帶(お)び

光る。聞く、この暗き壁ぶかに

くれなゐの皷(つづみ)うつ心(しん)の臟(ざう)

刻々(こくこく)にあきらかに熱(ほて)り來(く)れ。

血けぶり。刹那(せつな)ほと

かすかなる人の息(いき)。

みるがまに罅(ひび)はみなつやつやと

金髮(きんぱつ)の千筋(ちすぢ)なし、さと亂(みだ)る。

 

灰色の暗き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。

なほ熟視(みつ)む。……髣髴(はうふつ)と

浮びいづ、女の頰(ほ)

大理石(なめいし)のごと腐(くさ)れ、仰向(あふの)くや

鼻(はな)冷(ひ)えてほの笑(わら)ふちひさき齒

しらしらと薄玻璃(うすはり)の音(ね)を立つる。

眼(め)をひらく。絕望(ぜつまう)のくるしみに

手はかたく十字(じふじ)拱(く)み、

みだらなる媚(こび)の色

きとばかり。燭(しよく)の火の靑み射(さ)し、

銀色(ぎんいろ)の夜(よ)の絹衣(すずし)ひるがへる。

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐(おそ)ろしき一面(いちめん)の壁(かべ)の色(いろ)。

『彼。』とわが憎惡心(ぞうをしん)

むらむらとうちふるふ。

一齊(いつせい)に冷血(れいけつ)のわななきは

釘(くぎ)つけの身を逆(さか)にゑぐり刺(さ)す。

ぎくと手は音(おと)刻(きざ)み、節(ふし)ごとに

機械(からくり)のごと動(うご)く。いま怪(あや)し、

おぼえあるくらがりに

落ちちれる埴(はに)と鏝(こて)。

と取るや、ひとつ當(あ)て、左(ひだり)より

額(ぬか)をまづひしひしと塗(ぬ)りつぶす。

 

灰色(はひいろ)の暗き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。

朱(しゆ)のごとき怨念(をんねん)は

燃(も)え、われを凍(こほ)らしむ。

刹那(せつな)、かの驕(おご)りたる眼鼻(めはな)ども

胸かけて、生(なま)ぬるき埴(はに)の色

ひと息に鏝(こて)の手に葬(はうむ)られ

生(い)きながら苦(くる)しむか、ひくひくと

うち皺む壁の罅(ひび)、

今、暗き他界(たかい)より

凄きまで面(おも)變(かは)り、人と世を

呪(のろ)ふにか、すすりなき、うめきごゑ。

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色。

惡業(あくごふ)の終(をは)りたる

時に、ふとわれの手は

物握(にぎ)るかたちして見出(みいだ)さる。

ながむれば埴(はに)あらず、鏝(こて)もなし。

ただ暗き壁の面(おも)冷々(ひえびえ)と、

うは濕(しめ)り、一點(いつてん)の血ぞ光る。

前(さき)の世の戀か、なほ

骨髓(こつずゐ)に沁みわたる

この怨恨(うらみ)、この呪咀(のろひ)、まざまざと

人ひとり幻影(まぼろし)に殺したる。

 

灰色(はひいろ)の暗(くら)き壁、見るはただ

恐ろしき一面(いちめん)の壁の色(いろ)。

臘月(らふげつ)の十九日(じふくにち)、

丑滿(うしみつ)の夜(よ)の館(やかた)。

龕(みづし)めく唐銅(からかね)の櫃(ひつ)の上(うへ)

燭(しよく)靑(あを)うまじろがずひとつ照る。

時になほ、朦朧(もうろう)と黑衣(こくえ)して

天鵝絨(びろうど)のものにぶき床(ゆか)に立ち、

わなわなと壁熟視(みつ)め、

ひとり、また戰慄(せんりつ)す。

掌(て)ひらけば汗(あせ)はあな生(なま)なまと

さながらに人間(にんげん)の血のにほひ。

三十九年十二月

 

[やぶちゃん注:「屑(くず)」のルビはママ。

「臘月(らふげつ)」陰暦十二月の異称。中国で、冬至(陰暦十一月中)の後の第三の戌(いぬ)の日に、猟の獲物の獣肉を供えて先祖百神を祀る祭りを行ったことによる。現行ではその旧年と新年を「繋ぎ合わせる月」の原義と説明されることが多い。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 懶き島

 

   懶 き 島

 

明けぬれどものうし。温(ぬる)き土(つち)の香を

軟風(なよかぜ)ゆたにただ懈(たゆ)く搖(ゆ)り吹くなべに、

あかがねの淫(たはれ)の夢ゆのろのろと

寢恍(ねほ)れて醒(さ)むるさざめ言(ごと)、起(た)つもものうし。

 

眺むれどものうし、のぼる日のかげも、

大海原(おほうなばら)の空燃(も)えて、今日(けふ)も緩(ゆる)ゆる

縱(たて)にのみ湧(わ)くなる雲の火のはしら

重(おも)げに色もかはらねば見るもものうし。

 

行きぬれどものうし、波ののたくりも、

懈(たゆ)たき砂もわが惱(なやみ)ものうければぞ、

信天翁(あはうどり)もそろもそろの吐息(といき)して

終日(ひねもす)うたふ挽歌(もがりうた)きくもものうし。

 

寢(ね)そべれどものうし、圓(まろ)に屯(たむろ)して

正覺坊(しやうがくばう)の痴(しれ)ごこち、日を嗅(か)ぎながら

女らとなすこともなきたはれごと、

かくて抱けど、飽(あ)きぬれば吸ふもものうし。

 

貪(むさぼ)れどものうし、椰子(やし)の實(み)の酒も、

あか裸(はだか)なる身の倦(た)るさ、酌(く)めども、あはれ、

懶怠(をこたり)の心の欲(よく)のものうげさ。

遠雷(とほいかづち)のとどろきも晝はものうし。

 

暮れぬれどものうし、甘き髮の香(か)も、

益(えう)なし、あるは木を擦(す)りて火ともすわざも。

空腹(ひだるげ)の心は暗(くら)きあなぐらに

蝮(はみ)のうねりのにほひなし、入れどものうし。

 

ああ、なべてものうし、夜(よる)はくらやみの

濁れる空に、熟(う)みつはり落つる實のごと

流星(すばるぼし)血を引き消ゆるなやましさ。

一人(ひとり)ならねど、とろにとろ、寢(ね)れどものうし。

四十年十二月

 

[やぶちゃん注:「正覺坊(しやうがくばう)」「大酒呑み」を言う隠語。カメ目ウミガメ科アオウミガメ亜科アオウミガメ属アオウミガメ Chelonia mydas の異名でもあり、俗に「靑海龜」は、酒が好きで、与えると、多いに飲むことから出るなどと言われるが、元は酒好きの破戒僧を揶揄する語から転じたもののように思われる。

「益(えう)」この読みは当て字。「益」には「エキ・ヤク」しかない。類似語意を持つ「要」の字音の歴史的仮名遣「エウ」を当てたものであろう。

「流星(すばるぼし)」小学館「日本国語大辞典」は「すばるぼし」に昴(すばる)、則ち、プレアデス星団と同義として、まさに本詩篇のこの詩句を使用例として引いているが、この用例指示は誤りである。「濁れる空に」「血を引き消ゆるなやましさ」を持つ「流星」であるからには、これは固定した星群ではなく、流れ星であることは明白である。「すばる」は「集まって一つになる」の意の「統ばる」の意で、「星団」の意として腑に落ちるが、白秋はその派生語である「統べる」(多くの物を一つに纏める)の「すべる」を「滑・辷(すべ)る」の意に恣意的に転訛して使用したものと私は採る。プレアデス星団を貫く流星などという牽強付会(空は濁っているのだ)には私は、到底、組み出来ない。

2020/11/22

北原白秋 邪宗門 正規表現版 内陣

 

   内   陣

 

  ほのかなる香爐(かうろ)のくゆり、

  日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

 

文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薰(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奧(おく)

空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき靜寂(せいじやく)に、

千一體(せんいつたい)の觀世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)び

いと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。

 

  いづちとも、いつとも知らに、

  かすかなる素足(すあし)のしめり。

 

  そと軋(きし)むゆめのゆかいた

  なよらかに、はた、うすらかに。

 

  ほのめくは髮のなよびか、

  衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。

 

  女子(をみなご)の片頰(かたほ)のしらみ

  忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。

 

  舞ごろも近づくなべに、

  うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。

 

  初戀の燃(も)ゆるためいき、

  帶の色、身内(みうち)のほてり。

 

だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薰(く)ゆる舞姬(まひひめ)の

ほのかに今(いま)したたずめば、本尊佛(ほんぞんぶつ)のうすあかり

靜(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、

仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに淚さそふ時(とき)。

 

  甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、

  はたはたとゆくりなき音(ね)に。

 

  ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)

  かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、

 

  ほのかなる香爐(かうろ)のくゆり、

  日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――

 

  もろもろの光はもつれ、

  あな、しばし、闇にちらぼふ。

四十年七月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 柑子

 

   柑   子

 

蕭(しめ)やかにこの日も暮(く)れぬ、北國(きたぐに)の古き旅籠屋(はたごや)。

物(もの)焙(あ)ぶる爐(ゐろり)のほとり頸(うなじ)垂れ愁(うれ)ひしづめば

漂浪(さすらひ)の暗(くら)き山川(やまかは)そこはかと。――さあれ、密(ひそ)かに

物ゆかし、わかき匂(にほひ)のいづこにか濡れてすずろぐ。

 

女(め)あるじは柴(しば)折り燻(くす)べ、自在鍵(じざいかぎ)低(ひく)くすべらし、

鍋かけぬ。赤ら顏して旅(たび)語る商人(あきうど)ふたり。

傍(かたへ)より、笑(ゑ)みて靜かに籠(かたみ)なる木の實撰(え)りつつ、

家(いへ)の子は卓(しよく)にならべぬ。そのなかに柑子(かうじ)の匂(にほひ)。

 

ああ、柑子(かうじ)、黃金(こがね)の熱味(ほてり)嗅(か)ぎつつも思ひぞいづる。

晚秋(おそあき)の空ゆく黃雲(きぐも)、畑(はた)のいろ、見る眼(め)のどかに

夕凪(ゆふなぎ)の沖に帆あぐる蜜柑(みかん)ぶね、暮れて入る汽笛(ふえ)。

温かき南の島の幼子(をさなご)が夢のかずかず。

 

また思ふ、柑子(かうじ)の店(たな)の愛想(あいそ)よき肥滿(こえ)たる主婦(あるじ)、

あるはまた顏もかなしき亭主(つれあひ)の流(なが)す新内(しんない)、

暮(く)れゆけば紅(あか)き夜(よ)の灯(ひ)に蒸(む)し薰(く)ゆる物の香(か)のなか、

夕餉時(ゆふげどき)、街(まち)に入り來(く)る旅人がわかき步みを。

 

さては、われ、岡の木(こ)かげに夢心地(ゆめここち)、在(あ)りし靜けさ

忍ばれぬ。目籠(めがたみ)擁(かか)へ、黃金(こがね)摘(つ)み、袖もちらほら

鳥のごと歌ひさまよふ君ききて泣きにし日をも。――

ああ、耳に鈴(すず)の淸(すず)しき、鳴りひびく沈默(しじま)の聲音(いろね)。

 

柴(しば)はまた音(おと)して爆(は)ぜぬ、燃(も)えあがる炎(ほのほ)のわかさ。

ふと見れば、鍋の湯けぶり照り白らむ薰(かをり)のなかに、

箸とりて笑(ゑ)らぐ赤ら頰(ほ)、夕餉(ゆふげ)盛(も)る主婦(あるじ)、家の子、

皆、古き喜劇(きげき)のなかの姿(すがた)なり。淚ながるる。

三十九年五月

 

[やぶちゃん注:「籠(かたみ)」「筐(かたみ)」「堅間(かたま)」「勝間(かつま)」などと表記・呼称し、目を細かく編んだ竹籠(たけかご)を言う。後の「目籠(めがたみ)」も目の粗い竹籠のこと。

「卓(しよく)」「ショク」は「卓」の唐音。本来は仏前に置いて香華を供える机で茶の湯にも用いるが、ここは無論、普通の食卓の意。

「新内(しんない)」新内節(しんないぶし)。浄瑠璃の流派の一つ。延享二(一七四五)年に宮古路加賀太夫が豊後節から脱退し、富士松薩摩(ふじまつさつま)を名のったのが遠祖で、この富士松節から出た鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)が鶴賀節を立て、幕府御家人であった初代鶴賀新内(延享四(一七四七)年~文化七(一八一〇)年を継いだ二世鶴賀新内が文化年間(一八〇四年~一八一八年)に人気を博して以来、新内節と呼ぶようになった。早くから劇場を離れ、座敷浄瑠璃として発展、花街などの門付芸「新内流し」て発展して行った。哀調のある節にのせて哀しい女性の人生を歌いあげて、遊里の女たちに大いに受け、隆盛を極めた。ここはその夫婦の「流し」の情景。二人一組で、二挺の三味線を弾き合わせながら街頭を歩き、客の求めに応じて新内節を語って聞かせた。]

梅崎春生「桜島」PDF縦書(オリジナル注附)決定版としてリロード

この際、「幻化」をやったら、同じ梅崎春生の「桜島」のPDF縦書(オリジナル注附)もやらずんばならずで、再校訂し、取り敢えず「決定版」としてこちらも同じく、今、リロードした。

梅崎春生「幻化」PDF縦書(オリジナル注附)決定版としてリロード

梅崎春生の「幻化」のPDF縦書(オリジナル注附)を再校訂し、取り敢えず「決定版」としてリロードした。

2020/11/21

ブログ・アクセス1,450,000突破記念 梅崎春生 鏡

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『浪漫』発表。既刊単行本未収録。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 本作に限らず、梅崎春生の小説の特徴は、確信犯で映画的映像的なシークエンスを狙っており、それがまた、シナリオ以上によく映像を説明している点にある。本作のラストなどは、まさに主人公の視線の動きが一人称のカメラとなっており、聴覚的にもSEを見事に意識したミステリー映画のような印象を受ける。そうした映画的なカメラを文字通り意識した傑作が、最後となっていしまった「幻化」の、あの阿蘇噴火口の望遠鏡のエンディングであったのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが数分前、1,450,000アクセスを突破した記念として公開する。【20201122日 藪野直史】]

 

   

 

 窓の下は掘割になっていた。

 午後になると汚ない水路に陽が射して、反射光が紋様となって此の室の天井にも映って来た。昼の間は対岸の乾いた石垣の上の道路を、トラックや自転車が通り、子供たちが釣糸を垂れてしたりした。夕方になると夕刊売が出て、買手の行列が河岸に沿って連なった。手渡される夕刊が白く小さく生物のように動き始める頃、此の室では帳簿が閉じられてやっと仕事が終るのであった。

 室は狭くて暗かった。扉がひとつあって、扉の把手(とって)は何時も冷たく濡れていた。此の事務室には、社長も入れて四人しか居なかった。

 社長というのは四十位の瘦せた眼のするどい男であった。表情を殺した所作で、何時も低い静かな声で話をした。

 狭い灰色の階段を登って来る足音がすると、扉がコツコツと叩かれた。こうして一日に何人も何人もお客がやって来た。そして社長と卓をはさんで、ひそひそと取引きを交して行った。その度に厚い札束が手渡されたりした。札束は部屋のすみにある黒い金庫から出されたり、又収められたりした。その事は社長の命令で、金庫の前に机を据えた松尾老人の手で行われた。老人は無表情な顔で金庫の扉を開き、札束を処理し終えると机にかぶさるようにして伝票をつけ始めるのであった。

 札束が老人の手から社長に、社長の手から老人に渡る度に、私の眼は自然にそこに行くのであった。見るまいとしてもそれは強制されるように動いた。金庫の扉が乾いた音を立てて閉まると、私の視線はも一度確めるように老人の無表情な顔に落ち、そしてゆっくりと私の机の上に戻るのであった。

 私の机には部厚い帳簿が拡げられてある。老人の方から廻って来た伝票の束を整理して、その中から利潤の比較的少かった取引伝票だけをまとめ、金額を丸公に書き替え、そしてそれを帳簿に記入するのが私の仕事であった。そして此の帳簿は、税務署が調べに来た時提示する為のものであった。本当の取引金額は老人のもとに保管される伝票の束に秘められていた。[やぶちゃん注:「丸公」昭和一五(一九四〇)年の日中戦争下の「価格等統制令」及び第二次大戦後の「物価統制令」による公定価格を示す印(しるし)。また、その公定価格を言う。丸の中に「公」の字の印で示した。]

 私は毎朝、此の河岸に立ったビルディングの狭い階段をぎしぎし登り、そして一日中机の前で偽帳簿の作製に従事した。色の悪い給仕の小娘が注いで呉れるうすい番茶を二時間毎に啜(すす)りながら――。

 私は貧乏していた。そして自分が貧乏であることに何時も腹を立てていた。

 長い間私は戦さの為に外地で苦しんで来た。そしてやっと生命を保って日本に戻って来ることが出来た。そして私は無縁のもののように、現在の世相の前に立ちすくんでいた。人の手から手へ渡って行くあの莫大な金額の、ほんの一部で良いから何故私の掌におちて来ないのか。私の現在の衣食の困窮を、私は何か合点が行かぬ気持で感じていた。その気持がそのままこじれて、私は私自身に腹を立てていた。

 部屋のすみに重々しく据えられたあの黒い金庫が、四六時中私の意識に痛く響いて来るのも、あの紫色の束がどの位の幸福と換算されるものか、秘やかな計算を私が行なっているせいに違いなかった。札束が私の眼前にあらわれて社長や老人の手を渡るたびに、私は胸をときめかせながらそれを盗み見ないでは居れなかった。そして社長のはがね色の頰と老人のしなびた顔の色を確め終ると、私は再び帳簿に眼を落してペンを取上げる。

(あれだけの金が己(おれ)にあったら!)

 金というものが悪と密接に現代では結びついているらしいことを、私はうすうすと感じていた。その悪にも私も偽帳簿を作製することで参加してしる筈であった。その代償として、そのかげに動いている巨額の金のおそらくは数百、数千分の一の取るに足らぬ金を、私は日々与えられていたのだ。だからどの道悪に参与するなら、悪の奴隷的位置にあって余瀝(よれき)を頂く方法ではなく、主導的立場に立って、――たとえばあの金庫の金を持逃げするとか(此の考えに気付いた時私は思わずギョッとして四辺を見廻した)そんなやり方を採用すれば良いではないか。しかし、私はそう考えるだけで、まだ踏切りがつかないでいた。[やぶちゃん注:「余瀝」器の底に残った酒や汁などの滴(しずく)。]

 社長にしろ、どのみち後ろ暗いやり方で金を儲けているに違いないのだ。持逃げされたとしても、おそらくは公けに出来まい。――これは私の確信ではなく、私の感じに過ぎないのだが、その感じはかなり強烈に私に作用し始めていた。札束を盗み見る私の眼が、日毎険しくなって行くことが自分でも判った。

 午後三時になると社長は鋭い眼でひとわたり部屋中を見廻す。その頃がお客の出入りが終った時なのだ。革の折鞄を小脇にかかえて立ち上ると、では頼みますよ、と低い声で言い残して部屋を出て行く。小波の波紋が天井に映った此の部屋には、私と松尾老人と給仕女だけが残るのだ。何かほっと肩を落したような気易い空気が部屋を満たし始める。松尾老人が煙管(きせる)を出して、やがて紫煙が暗いい部屋中に立ちはじめる。ポンポンと煙管をたたく音がする。老人が刻みを詰める指は、満足げにふるえているのである。あの仕事中の無表情な顔付ではなくなって、老人は急に生々とした人間の匂いを立て始めるのだ。

 此の老人はどんな経歴の男なのだろう。黒い詰襟の服に大きな軍靴をはいて、顔のわりに小さな眼を善良そうにしばしばさせながら、一日の仕事が終った安堵感からか、やがてぽつりぽつりと私や給仕女を相手に世間話など始めて来るのだ。世間話というよりはむしろ愚痴にすぎないのだが、近頃の闇価[やぶちゃん注:「やみね」。]の高くなったこと、家計の苦しいことなど、彼はむしろ楽しげに話し出す。それはあの仕事中の、札束を社長に渡したり受取ったりする能面のような顔付ではなくて、極めて愚直な生活人の風貌だが、そんな老人の面に接すると私はふと、此の老人は仕事中は気持に抵抗するものがあってあんな堅い顔付をしているのではないか、と思ってみたりするのであった。そして此の私も、仕事中は何か険しい顔をしているのではないかと思うと、何だかやり切れぬ気持も起って来た。

 河向うに入日がうすれ、夕刊売に行列が立ち始めると、私達は帳簿を閉じる。老人は金庫に鍵をおろし、女の子は帰り仕度のまま壁にかけた小鏡にむかって化粧をはじめる。急に思春期の女らしい物腰になって行く女の子の姿に、私はちらちらと注視を呉れながら、よれよれの帽子を壁からとり上げる――。

 

 給料を貰った日のことであった。社長が帰ったあと、何時ものように老人が煙管を叩きながら、近頃盛(さか)っているという駅前の闇市場の話などを始めていた時、私は良い加減に相槌を打ちながらそれを聞き流していたが、給料がポケットにあったせいか、ふとそんな場所に行ってみたい瞬時の欲望が起って、私は掌を上げて松尾老人の話をさえぎった。

「面白そうな処じゃありませんか。松尾さん。帰りに一緒に行ってみましょうか」

「ええ、ええ」

 一寸あわてた風(ふう)に老人は眼をパチパチさせたが、直ぐ言葉をつけ足すように[やぶちゃん注:読点はない。]

「ええ、参りましょう。是非是非、一度は見とくべき処ですじゃ」

 掘割にはあわあわと夕暮がおちかかり、淀んだ古い水の臭いが窓から流れていた。私は帰り仕度をしながら金庫の鍵をしめる乾いた音を背に重く聞いた。

 何時もなら真直ぐ駅の改札を通るところを、道を折れてごみごみした一郭に私達は入って行った。人通りがごちゃごちゃと続く両側には、色々な物品が無雑作に連なっていて、客を寄せる売手の声があちこちで響いていた。売手たちは皆屈強な男たちで、ふと眼を落すと、私の靴のようにすり切れた靴は誰も穿いていなかった。皆が私の靴を見ているようで、足をすくめるようにして歩きながら、その事が俄(にわか)に私の胸を熱くして来た。品物の列はやがて尽きて、よしず張りの食品店が何軒も並んでいた。刺戟的な電燈の下で、静かにコップを傾けている男たちもいた。酒精の匂いがそこらを流れていた。

「此処らは皆飲屋ですよ」と老人は落着かなく言って立ち止った。「さあ、もう戻りましょうかい」

 私は振返った。老人は露地にすくむようにして立っていた。地色の褪(あ)せた詰襟服(つめえり)の肩から、薄々と無精鬚を生やし老人の姿を眼に入れた時、あの掘割の見える部屋では此の老人はぴったりしているにも拘らず、此の巷(ちまた)では極めて異形(いぎょう)のものとして私に映って来た。汚れた軍靴が老人の足には極めて大きく見えるのも、惨めな感じをなおのことそそった。一応しゃんとした服装の人たちばかりが往来する此の巷では、老人のみならず私自身の姿も泥蟹(どろがに)のように惨めたらしく見えるにちがいなかった。私は老人の姿をなめ廻すように眺めながら、憤怒とも嫌悪ともつかぬ自分の気持を、も一度確めていたのである。

 老人は落着かぬらしく、またしゃがれた声で私をうながした。

「さあ。さあ、戻りましょう」

 此の巷で自分を無縁のものと考えているのか。私はふと此の老人と酒をのみたいという気持が、その時発作のように湧き上って来た。

「松尾さん」と私は気持を殺して呼びかけた。「此処まで来たんだから、一寸いっぱいやって行きませんか」

「いや、ええ?」

 老人は私の言うことが判ると、飛んでもないというそぶりをしたが、私はそれに押っかぶせて、

「金はあるんですよ。少しは使っても良いんですよ」

 私はポケットをたたいて見せながら、老人に近づいて腕をとらえた。老人の腕は細くてひよわそうだったが、それが微かに私にさからうように動いただけであった。老人は当惑したような奇妙な笑いを眼に浮べて私を見上げていた。

 暫(しばら)くの後私達は一軒の屋台店に入って、酒精の香のする飲料を傾けていたのである。身体の節々に酔いが螺旋(らせん)形に拡がって来ると、かねて酒も飲めぬ程貧しい自分の生活が、言いようなく哀しく腹立たしくなって来るのであった。今日貰った給料もやっと私一人の生活を一月支えるに過ぎない額であるが、それすらもさいて此処でこんなものを飲む気になったのも、私が此の生活から脱出する踏切板を求める無意識の所作なのかも知れなかった。酔いが次第に深まるにつれて、私はあの暗い部屋のすみに置かれた黒塗りの金庫を、そしてその中に積まれた札束のことをしきりに思い浮べていた。私は蚕豆(そらまめ)の皮を土間にはき出しながら、老人の饒舌(じょうぜつ)にぼんやり耳を傾けていた。あの札束を出し入れする時、何故松尾老人はあんなに無感動な表情をしているのだろう。彼はその時何も感じてはいないのか。

 老人が心から酒が好きらしいことは、先刻からのコップの傾け具合で私に判って来た。しなびた顔はぽっと赤みがさして、何時もより口数が多くなって来ているようであった。老人は表情を幾分くずしながら、自分の家族のことを、くどくどと私に話しかけていたのだ。

 何でも、今老妻と二人で間借りしているらしいことや、そこを追い出されかけていることや、息子がまだ復員して来ないが死んだものとあきらめていることとか、そんな風な具合だったと思う。酔いが俄に発したと見えて老人の口調は急に哀調を帯び、自分はどの途(みち)余生も長くない身だから、苦しい生活はしたくないけれども、闇屋になるだけの体力もなく、また資本もないしするから[やぶちゃん注:ママ。]、止むを得ずあんな所に勤めているけれども、それも何時クビになるか判らず、将来のことを考えると今本当にまとまった金がほしいということを、すがるような口振りで口走りはじめていた。ふんふん、と私も相槌を打っていたが、ようやく酔いが私にも廻って来たらしく、更にコップを重ねているうちに、私は変に老人の口舌が小うるさくなって来て、断ち切るような言葉で老人の繰言をさえぎってしまったのだ。

「そんなに困ってるなら、あの金庫の中の金を持って逃げればいいじゃないですか」

 私の言い方がとげとげしかったんだろうと思う。老人は急に身体を引いて私をみつめたが、暫くして低い声で、

「そんなことが出来れば私もこんな苦労はしませんじゃ」

「何故出来ないんです」

「だってあんた、神様が許しませんわい」

「神様、神様」何故か私は此の老人を私の意のままに納得させねばならぬという不逞(ふてい)の願いに駆り立てられた。

「神様が何ですか。神様なんか何処にいますか。善良な人が貧乏して、うちの社長のような悪どい奴が大儲けしてるじゃありませんか」

「社、社長さんがそんな――」

「そうですよ」と私はきめつけた。「あの毎日の金の出し入れが闇取引だということは貴方だって知ってるでしょう」

「そ、そりゃ知ってるには知っとりますじゃ。しかし、しかし――」老人は急に身体を卓に乗り出して眼をぎらぎらと光らせた。赤く濁った眼球に血管が走っていた。「わたしは今まで後ろ暗いことをした事はない。此の年になって後ろに手の廻るようなことを仕出かしたくない」

「そこですよ」と私は卓をたたいた。「後ろに手は絶対に廻りはしない」

 そこで私は酔いに任せて、社長の所業も後ろ暗い所があること、その証拠は私の今の偽帳簿作製のことでも判ること、だから彼がおそれるのは警察であって、金庫の内部を皆持逃げされるのならいざ知らず、四五万程度の金ならば彼は歯を喰いしばっても公けにしないだろうということを、私はべらべらと論じ始めたのである。しやべっているうちに、私はその言葉が逆に私に確信を与え始めて来たのを、ぼんやり意識していた。私はしかし、ぎょっとしてしゃべるのを止めた。老人はコップを片手で握り、見据(す)えるように私をみつめていたのである。その瞳の色は灼(や)けつくように激しかったのだ。

 

 その夜の勘定は私が払ったんだろうと思う。きれぎれの意識で覚えているのは、それから二人がもつれ合って駅の方に歩いて行った事や、電車の中で転んだりしたことで、しらじらと物憂(う)い朝が明けた時に、私が重い頭をかかえて起き直り給料袋をしらべたら、大体そこばくの金がそれから減っていた。私は頭の片すみで鈍く後悔を感じながら、それでも身仕度をととのえて河岸の事務所に出かけて行った。階段を登って室に入ると老人はもはや来ていた。言葉少くあいさつしただけで、昨夜のことには深く触れなかった。社長がやがてやって来て仕事が始まると、老人は何時ものような堅い顔になって金庫をあけ立てしているらしかった。私は廻された伝票を然るべく抜いて公定価に計算し直していた。掘割の向う岸には今日も同じく車や人が通り、水面からはほのかに蒸気が立ちのぼる。気温が高まるらしかった。

 金庫がギイと鳴って、ふと私の視線が其処に走ったとき、私が見たものは老人の掌に握られた紫色の札束が、私の場所から定かに見えるほど、それははっきりと慄えていたのだ。そしてそれは直ぐ社長の手に渡された。何でもないように卓をはさんで、客との対話はまた続けられた。私は帳簿の陰から、痛いものを見るような気持で、老人の顔をぬすみ見ていた。それは苦渋(くじゅう)に満ちたむしろ険悪な表情であったのだ。私は老人のその表情の中に、はっきりと、私が抱く欲望と同じいろの欲望を読んだ。

 私は何だか胸をしめつけられるような思いで、老人から視線を離し得ないでいた。

 客が帰って又新しい客が訪れ、そんな具合に何時ものような時間が過ぎて行った。札束がそこを動く度に、私は何時もと違った気持で視線を走らせた。老人の指はその度にいちじるしくわなないた。此の哀れな老人の心が、あの不逞な願望にしっかと摑(つか)まれていて、しかも気持をそこで必死に抵抗させようとしていることが、その苦しそうな表情で、私の胸に痛いほど響いて来た。

「さて、さて――」

 私は口の中でそんなことを呟(つぶや)きながら、ペンの柄でしきりに机の面をこすった。昨日までの私の欲望よりもっとはっきりした欲望が、私の心を満たして来るのを私は意識し始めていた。現在の不幸から逃れ得る唯一の実体として、その紫色の束は私に訴えて来るようであった。あの老人の指の慄えは、右はや私が彼に仮託した欲望の象であった。

(あの老いぼれが、金を持ち逃げしようとしている)

 私は卓に倚(よ)った社長の、はがね色の冷酷そうな横顔をちらちらと盗み見た。そして金を拐帯(かいたい)して姿をくらまそうとする気持の踏切りが、今やっと形を取って来るのを感じた。[やぶちゃん注:「拐帯」人から預かった金や品物を持ち逃げすること。]

 そして日射しが掘割にじゃれ始め、部屋の天井にその余映を投げる頃、社長は喫いかけの煙草を灰皿に押しつぶして立ち上った。鋭い視線が一巡させると低い声で、では、と言って扉の外に出て行った。怪談を踏む足音が一歩一歩低くなって行った。しかし何時もと違って変に硬い空気がまだ張りつめていたのだ。

 松尾老人が煙管(きせる)をたたく音がいやにはっきり響いた。

 給仕女が電熱器から薬罐(やかん)をおろして茶を入れ、足音をしのばせて配って歩いた。電熱器の音が止むと、天井をまつわり飛ぶ蠅(はえ)の羽音がしつこく続いた。

 その時老人がふいに私に声をかけて来た。何か不自然な響きがその声音にこもった。[やぶちゃん注:「声音」「こわね」と読んでおく。]

「昨夜、あれから帰りましての、部屋を出て呉れと言うのを、こっちは酔ってるもんだから怒鳴りつけてやって、大喧嘩になって山妻(さんさい)が泣きわめいたりしましての」

 老人はそこで苦しそうな笑い声を立てた。[やぶちゃん注:「山妻」「田舎育ちの妻」という感じで、自分の妻を遜(へりくだ)っていう卑語。「愚妻」に同じ。]

「あんた昨夜、神様などいないと言われたな。ほんとに神様も仏様もありませんじゃ」

 老人の顔は一日で年老いたように、額に深い筋が刻みこまれていた。

 そして、その日もまた水面に陽光がうすれ、河岸に夕刊の列が並んだ。

 さて、と私は呟きながら帳簿を閉じた。給仕女は既に立ち上って壁にかけた鏡を見ながらパフを使っていた。松尾老人は立ち上った私の顔に、奇妙な笑いを眼に浮べて視線を定めた。

「そろそろお終(しま)いにしますかな」

 声が変にかすれた。

 給仕女は一寸身体をひねって鏡の前で形をつくると、お先に、とあいさつして部屋を出て行った。うすいスカアトが扉のあおりで一寸なびいて消えた。

 私は何となく鏡に立った。瘦せた私の顔が変に黒みを帯びて其処にあった。それを眺めるのが苦痛なので眼をずらした。鏡面に松尾老人が金庫の前にしゃがんでいる処がうつった。老人の手が素早く動いて、札束をひとつ引抜いた。その瞬間を私の眼ははっきりとらえたのだ。私は思わず眼を閉じた。

 私の背後で、金庫の扉をしめる乾いた音がした。文字盤を廻す響きがそれにつづいた。私は眼を閉じたままでそれを聞いた。老人が立ち上る気配がした。

 動悸が次第に高まって来るのを感じながら、私は乱れた想念をまとめようとした。このまま、老人の所業を見逃せばどういうことになるのだろう。老人はうまいこと逃げ終せるか、または捕まるだろう。そして私は――私は、また表面は何でもない姿で此の事務所に勤めつづけるだろう。貧乏しているということに毎日腹を立てつづけながら、平凡な惨めな日々を過して行くだろう。

 私は眼をひらいた。

「松尾さん。もう金庫はしめたんかね」

「ええ、ええ」

 うちひしがれたような老人の声がした。

 私は全身からにじみ出る冷汗を感じながら、ゆっくり老人にむきなおると、私自身をも虐殺したいような切迫した思いにかられつつ、机を背にして蒼ざめた老人の方に一歩一歩近よって行った。

 

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 人の額に角を生ず・堀内玄逸墓表 / 堀内元鎧 信濃奇談~電子化注完遂

 

 人の額に角を生ず

 大河原田代といふ處に安右衞門といふ人あり。其母、七十餘〔あまり〕にして、額に一角を生じ、三年後、解脫〔げだつ〕して、又、生ず。「北窻瑣談」に、『備後國蘆内郡[やぶちゃん注:ママ。そのような旧郡はない。「蘆田郡(あしだのこほり)」の誤字か誤判読である。後注の引用を参照。]常村〔つねむら〕の農夫、八十餘にして、額に一つの角を生じ、翌年、解脫せり。漢の景帝の時、膠東〔こうとう〕下密〔かみつ〕の人、年七十餘、角を生ずと見えぬれば、古今、耆老〔きらう〕の人には、まゝある事にや』。

 

[やぶちゃん注:これは原本にはない。

「大河原田代」向山氏の補註に、『現、長野県下伊那郡大鹿村田代』とある。現在は旧地名が蘇っていて、長野県下伊那郡大鹿村大河原として、同村域の南部に当たっている(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「北窻瑣談」京の儒医橘南谿(宝暦三(一七五三)年~文化二(一八〇五)年)の遺著で文政一二(一八二九)年刊の随筆。これは、同書の巻之一の冒頭から十二条目にある。「国文学研究資料館」のオープン・データの同書の、ここで読める。電子化しておく。句読点を打った。読みは一部に限った。

   *

一 寛政四年庚亥(かのえゐ)[やぶちゃん注:これは寛政三年の誤り。一七九一年。]秋、備後國芦田郡(あしたこふり[やぶちゃん注:ママ。])常村の農夫、八十余歲にして、額(ひたひ)に一つの角(つの)を生じ、翌年、解脫(げだつ)せり。同二月、備中鴨方村(かもかたむら)西村拙斎翁より、文(ふみ)して申來る。唐土にも、漢の景帝の時、膠東(きやうとう[やぶちゃん注:ママ。])下密(かみつ)の人、年七十餘(よ)、角を生ず』といふこと見えぬれば、古今(こゝん)耆老(ぎらう[やぶちゃん注:ママ。])の人に、まゝ有事にや。

   *

この「芦田郡常村」というのは、現在の広島県福山市新市町(しんいちちょう)大字常である(グーグル・マップ・データ)。

「漢の景帝の時」前漢の第六代皇帝。在位は紀元前一五七年から紀元前一四一年まで。以下の話は、清の康熙帝が命じて編纂を開始させ、一七二五年に完成を見た百科事典「古今図書集成」に、

   *

景帝二年膠東人生角

按「漢書」「景帝本紀」不載。按「五行志」、『景帝二年九月、膠東下密人年七十餘、生角、角有毛。時膠東、膠西、濟南、齊四王有舉兵反謀、謀由吳王濞起。連楚、趙、凡七 國』。下密縣居四齊之中、角、兵象、上鄕者也。老人、吳王象也。年七十、七國象也。天戒若曰、人不當生角、猶諸侯不當舉兵以鄕京師也。禍從老人生、七國俱敗、示諸侯不寤。明年吳王先起、諸侯從之、七國俱滅。京房「易傳」曰、『冢宰專政、厥妖人生角』。

   *

とあるのを、中文維基文庫のこちらで見つけた。電子化したものは、そこに載るものを参考に、そこに載る原本画像と校合し、私が表記に手を加えたものである。

「膠東下密」漢代に現在の山東省済南市及び淄博(しはく)市一帯に設置された済南(さいなん)郡の内。但し、この地名は別々で、晋代に済南郡は平寿・下密・膠東・即墨・祝阿の五県を管轄した、とある。ここが済南市(グーグル・マップ・データ)で、東で淄博市と接する。しかし、上記の漢籍引用を見るに、やはり「膠東下密」とあるので、「膠東」が広域の旧地方名で、当時は「下密縣」がそこに含まれていたと考えた方がよさそうではある。

「耆老」六、七十歳の年寄り。「耆」は六十歳、「老」は七十歳の意。]

  

 

 堀内玄逸墓表

堀内玄逸名元鎧一名鮏字魚卿號菅齋父中邨元恒信州伊那人母北原氏家世業醫元恒初試業各處元鎧生于上穗長于大出既而元恒就仕高遠專任儒職元鎧從季父玄三受業于山寺業已成出爲松本堀内玄堂義子玄堂其仲父曩出嗣堀内氏者也翌年仲秋有疾荏苒不愈今玆己丑二月十四日終沒亨年二十有三葬于松本城北澤邨賢忠寺後山元鎧爲人貞信懿實口絕不道人之過惡善事繼母矢野氏及義父母未有疎意是以皆視之猶所生合族感賞他人亦聞其死莫不哀慟其祖淡齋翁以善俳諧歌聞元鎧亦好之元恒聞其疾病走徃視之實危篤也請題一句頷而揮毫蓋其舊題得意句也舍筆卽瞑悲哉已葬元恒左祖右還其墓曰嗚呼汝之不壽命也松本汝祖先墳墓所在汝今死首其丘其安之文政十二年二月高遠敎授中邨元恒識

 

[やぶちゃん注:底本では「于」を総て「干」とやらかしている。これは話にならないほど、誠にひどい。編者は判読や原稿完成を誰か別な者(漢文の知識が非常に低い)にやらせたのではないか? 解題を見ると、漢文原文を正しく訓読しているからである。前にも言ったが、これは凡そ学術書にあるまじき低レベルの杜撰である。「亨年」は原本もママで、編者は横に訂正注して『(享)』としている。そんな注を打つヒマがあったら、このいっぱいある「干」を「于」にさっさと直せよ! と文句を言いたくなる。最後の最後まで徹頭徹尾、頗る厭な電子化であった。これは若くして亡くなった元鎧の墓碑銘で、父元恒が記したものである。訓読を試みる。

   *

 堀内玄逸墓表

堀内玄逸〔ほりうちげんいつ〕、名、元鎧、一名、鮏〔セイ/シヤウ〕。字〔あざな〕は魚卿〔ギヨケイ〕。菅齋〔かんさい〕と號す。父は中邨元恒〔なかむらもとつね〕、信州伊那の人。母は北原氏。家、醫を世業とす。元恒、初め、業を各處に試む。元鎧〔げんがい〕、上穗〔うはぶ〕に生まれ、大出にて長ず。既にして、元恒、高遠が專任の儒職に就仕〔しうし〕し、元鎧は季父玄三に從ひ、山寺にて業を受く。業、已に成り、出〔しゆつ〕たる、松本の堀内玄堂が義子と爲〔な〕る。玄堂、其の仲父〔ちゆうふ〕、曩〔さき〕に出でて堀内氏を嗣げる者なり。翌年、仲秋、疾〔や〕める有り、荏苒〔じんぜん〕として愈えず。今、玆〔ここ〕に、己丑〔つちのとうし/きちう〕[やぶちゃん注:文政一二(一八二九)年。]二月十四日、終〔つひ〕に沒す。亨年二十有三。松本城の、北澤邨〔さはむら〕賢忠寺が後ろの山に葬る。元鎧、人と爲〔な〕り、貞信にして懿實〔いじつ〕、口〔くち〕、絕えて、人の過惡を道〔い〕はず、善〔よ〕く、繼母矢野氏及び義父母に事〔つか〕へ、未だ、疎意〔そい〕有らず。是れを以つて、皆、之れを視れば、猶ほ、生ずる所の合族〔がふぞく〕、感賞するがごとく、他人も亦、其の死を聞きて、哀慟せざる莫〔な〕し。其の祖淡齋翁、以つて俳諧・歌を善くするを聞き、元鎧も亦、之れを好めり。元恒、聞くならく、其の疾病〔しつぺい〕、走り徃〔ゆ〕き、之れを視るに、實〔まこと〕に危篤なるや、題を請ふて、一句に頷〔うなづ〕きて、揮毫す。蓋〔けだ〕し、其れ、舊題にして得意の句なりと。筆を舍〔す〕つるに、卽ち、瞑悲〔めいひ〕なるかな。葬〔はふり〕は已〔をは〕んぬ。元恒、左に祖〔ならひ〕、右に還り、其の墓に曰はく、「嗚呼〔ああ〕、汝、壽命せざるなり、松本の汝が祖先の墳墓の在〔ま〕す所へ、汝、今、死して、首〔かうべ〕、其の丘へ、其れ、之れを安ず。」と。

   文政十二年二月高遠敎授 中邨元恒 識

   *

別名や号から見ると、余程、元鎧は魚類が博物学的に好きだったように思われる。私は元恒は嫌いだが、或いは、元鎧とは話が合ったかも知れないな……

「上穗」長野県駒ヶ根市上穂南(うわぶみなみ)附近か(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「大出」長野県北安曇郡白馬村大出(おおいで)があるが、一寸、地理的に見て躊躇する(諏訪湖より遥かに北部分は本文中には全く出現しないことが大きな理由である)。

「季父」最も若い叔父。やはり医師であったことが、底本の向山氏の解題で判る。

「出〔しゆつ〕たる、松本の堀内」同じく底本解題によるならば、松本にあった中村家の出である堀内家を継いだ、ということらしい。

「仲父」叔父。

「荏苒」なすこともないままに歳月が過ぎてしまうさま。

「松本城の北、澤邨賢忠寺」現在の長野県松本市沢村にあった恐らくは曹洞宗の寺院。現存しない。明治初期に松本藩が行った廃仏毀釈の政策によって、賢忠寺は廃寺となったからである。松本市公式観光情報サイト「新まつもと物語」の「飛龍山賢忠寺跡・首貸せ地蔵尊」を見られたい。地図もある。何ということか!?!……元鎧は墓さえ存在しないのかも知れない!?!…………

「懿實」誠実。

「疎意」うとんじ、遠ざけること。

「猶ほ、生ずる所の合族、感賞するがごとく」ちょっと訓読に自信がない。底本解題によれば、ここは『皆の感賞するところであった』で、親族一同併せて生きた同時代人(たった二十二年間であったけれど)は皆、ということであろう。

「舍〔す〕つる」「捨つる」。

「瞑悲」目が眩むほどに悲しいこと。

 これを以って「堀内元鎧 信濃奇談」は総てが終わっている。……最後にせめて、元鎧の冥福を祈る…………

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 犬房丸墓

 

 犬房丸墓

 小出村にあり。工藤祐經が子なり。伊那郡に遠流せられて此に死したりとなん。【「新著聞集」・「千曲眞砂〔ちくまのまさご〕」・「溫知集」・「地名考」等に出づ。】

 按〔あんずる〕に、犬房丸〔いぬぼうまる〕遠流の事、「東鑑」・「曾我物語」等にも見えず。「藩翰譜」を考ふるに、祐經の男〔なん〕、祐時、童〔どう〕、犬房丸、日向國地頭職を賜ひ、今の飫肥〔おび〕城主、其子孫也。【「勢州四家記」を考ふるに、伊勢の工東〔くどう〕氏も、其子孫なり。】此にあるべきにあらず。何を誤傳〔あやまりつた〕へたるにや。

 

[やぶちゃん注:「犬房丸墓」「犬房丸」とは曾我兄弟の仇討ちで討たれた工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)の子である伊東祐時(文治元(一一八五)年~建長四(一二五二)年)の幼名である。頼朝は、生き残った曾我時致(ときむね)が語った仇討に至った心情を考慮し、彼を助命しようと考えたが、当時九歳であった犬房丸が泣いて訴えた結果、工藤一族に引き渡されて処刑されている。後、流罪になったという話も聞かない六十八歳で没した人物が、幼名で、墓というのは如何にも怪しい。長野県伊那市西春近小出にある日蓮宗深妙寺(グーグル・マップ・データ)には伝承の一つがある。同寺の公式サイトのこちらによれば、この伊那春近は鎌倉幕府直轄領であったとある。同サイト内に「工藤祐経・祐時父子供養の寺」があり、この伝承が詳細に検証されているので、是非、読まれたい。なお、犬房丸の同寺が供養している位牌には「感應院殿唐木前但州大守深圓俊光大居士」と記されている(画像有り)。「院殿」「大居士」とはとんでもなく振るった戒名であるが、同寺が依頼して、放射性炭素年代測定を行って貰ったところ、約六百年『程前の松材に紅殻で記された位牌であることがわか』ったとあり、さらに、『日本で院殿号の戒名が最初につけられたのは足利尊氏』である『から、尊氏以後に犬房丸の諡号が付けられ』ことが判るとあり、『足利尊氏以前の武将で院殿号』を持つ『戒名(法号)と位牌はすべて尊氏以後』に『作られたもの』ともある。この周辺には、ここだけでなく、複数の犬房丸伝説があって、例えば、ひろさく氏のブログ「季節の話題(長野県内の市町村)」の「伊那・犬房丸公の墓~工藤大和守祐時公~」によれば、『伊那市西春近の常輪寺境内』(曹洞宗。深妙寺の北北西九百メートル位置にある(グーグル・マップ・データ)。当寺では彼を開基とする)『にある犬房丸(工藤大和守祐時)の墓』の写真と、「大通院殿覺翁常輪大居士」という戒名を彫った顕彰碑を確認出来る。鎌倉史は私の守備範囲であるが、この「犬房丸伝説」は少なくとも史料的なものの中にはそれを裏付けるようなものはないと思われる。不思議としか言いようがない。所謂、超有名な「曾我物語」の敵役方を、父を殺された悲劇の少年犬房丸を積極的に庇う形でスピン・オフし、アレンジした伝承とも言うべきであろう。

「小出村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市小出』とある。長野県伊那市西春近小出は現在、一区・二区・三区に別れ(グーグル・マップ・データ)、深妙寺は三区、常輪寺は一区の内にある。

「新著聞集」俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「信州七嶌(ななしま)犬房丸塚」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点・記号を加えた。

   *

むかし、曾我兄弟夜討(ようち)の時、五郎時宗(ときむね)[やぶちゃん注:ママ。]生捕(いけどら)れしに、祐恒(すけつね)[やぶちゃん注:ママ。]が子、犬房丸(いぬぼうまる)、扇にて五郎が靣(つら)をうちける事を、右大将、きこしめされ、「誠にかの兄弟が振まひ、程こそあるまじきに、犬房が十歲にあまり、親の敵(かたき)とあらん者の、靣を搏(うつ)といふ事や、武士の道に疎(おろそ)かなり。かゝる不覺の者、我、召(めし)つかふ事、叶はじ。いづくにても、七嶌あらん所へ遠流(をんる)せよ。」との、御氣色(きしよく)、しきりなりし。「七嶋」とありしは、故ある事にや。幸ひ、信州伊奈郡(いなこほり)にこそ、大嶋・狐嶋・殿嶋・小出嶋・福嶋・飯嶋・松嶋とて、一所(いちしよ)に候と申たりしかば、上伊奈郡の内、小出・宮田・諏訪・赤木・中越(なかこし)、これを「治親五鄕(はるちかごきやう)」といふを、所領にたまはり、左遷せられ、家來、棠木(とうき)・城氏(じやううぢ)、二人、つきそひ奉りてありし。犬房、つゐに、赦免なくして、身まかりしを、小出嶋の上なる山際(やまぎは)に葬(はふむ)る。この塚、夜ごとに燃(もゆ)る事、むかしより、今に至て、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])侍らず。犬房の末葉(ばつよう[やぶちゃん注:ママ。])は、近比(ちかごろ)たへしかど、棠木氏は、今にありし。城氏の跡も、亦、此ごろ、殘りなく侍りしとなり。

   *

父を殺された数え九歳の少年が、かの頼朝が命を救っていしまいそうな仇の顔を、せめても、鉄扇で打ったからといって、頼朝がかくも不興がるだけでなく、遠流並みの左遷を命ずること自体が私には理解不能で、一読、作り話としか思えない。

「千曲眞砂」「千曲之眞砂」。江戸中期の郷土史家で俳人の瀬下敬忠(せじものぶただ)が宝暦三(一七五三)年)に完稿した信濃国の地誌。瀬下は信濃国佐久郡野沢村生まれで、岩村田藩信(濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩)御用達や村役人を勤め、郷士身分となった瀬下敬豊の三男であった。父から立羽不角流の俳諧の薫陶を受けるが、それに飽き足らず、元文四(一七三四)年に江戸に出、五色墨派の俳人松木珪琳に師事し、帰郷した。翌年、岩村田藩に仕官し、宝暦三(一七五三)年に致仕した。安永七(一七七八)年に小県郡(ちいさがた)に隠居し、「極月楼」と名付けた庵を結んだ。著作は数十に上るが、殊に生涯をかけて信濃の地理・歴史などの研究に打ち込み、本書はその集大成であった。

「溫知集」関盛胤著「伊那溫知集」か。

「地名考」吉澤好謙著「信濃地名考」か。

「曾我物語」軍記物語。作者不明。真名本(まなぼん:擬漢文体)十巻、大石寺本(たいせきじぼん)十巻、仮名第一次本十巻、同第二次本十二巻があり、原型は弘安八(一二八五)年十一月以前には成立していたとも推測され、「吾妻鏡」にこれに近い記事が載る。真名本・仮名第一次本は南北朝の十四世紀後半に、それぞれ原型を改訂増補して成立したものと考えられている。

「藩翰譜」新井白石著になる家伝・系譜書。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年成立。元禄一三(一七〇〇)年に甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したとされる。諸大名三百三十七家の由来と事績を集録し、系図を附したもの。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までの内容が収録されている、短期間で完成させたもので、事実誤認があり、白石自身が後に補訂を加えている。

「飫肥城主」飫肥城は日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥。グーグル・マップ・データ)にあった城で、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。ウィキの「飫肥城」によれば、『飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏』(つちもちし)『が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の』長禄二(一四五八)年、『九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続』(にいろただつぐ)『を飫肥城に入城させた』。『戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ』、『築城主の土持氏が治めていた』が、文明一六(一四八四)年、『日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り』、『飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦』さ『の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる』。永禄一〇(一五六七)年、『念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし』、元亀三(一五七二)年に『伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び』、『島津氏の支配となった』。『伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵』(すけたけ/すけたか)『が羽柴秀吉に仕え』、『九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により』、天正一五(一五八七)年に、再び、『飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど』、『巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした』とある。この日向伊藤氏は、まさしく、伊東祐時が鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられ、庶家を下向させたことが始まりである。参照したウィキの「伊東氏」の「日向伊東氏」によれば、『これらはやがて』、『田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら』、『日向に東国武士の勢力を扶植していった』とある。

「勢州四家記」江戸時代の軍記の一つ。当該記載は国立国会図書館デジタルコレクションの「群書類従」所収の冒頭に出る(右ページ最終行)。

「伊勢の工東氏」伊勢国に勢力を持った有力国人一族の長野工藤氏(ながのくどうし)のことであろう。ウィキの「長野工藤氏」によれば、『単に長野氏とも呼称されるが、元来は工藤氏を称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている』。『藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の』二『郡を給わり、その子・祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である』とある。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 旅情

 

 旅   情

       ――さすらへるミラノひとのうた。 

零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。

海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、

ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、

煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。

廣重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。

 

ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、

繪草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり

物(もの)あぶる騷(さや)ぎこもごも、

燒酎(せうちう)のするどき吐息(といき)

針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。

 

ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、

色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、

橫濱(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、

支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)に

みだらうたあはれに歌(うた)ふ。

 

ややありて月はのぼりぬ、

淸らなる出窓(でまど)のしたを

からころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。

鐵格子(てつかうし)ひしとすがりて

黃金髮(こがねがみ)わかきをおもふ。

 

數(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる

初戀(はつこひ)のうらはかなさは

かかる夜(よ)の黑(くろ)き波間(なみま)を

舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふ

わかうどが歌(うた)にこそきけ。

 

色(いろ)ふかき、ミラノのそらは

日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、

ここにして摘(つ)むによしなき

素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに

接吻(くちつけ)のかなしきもあり。

 

國を去り、昨(きそ)にわかれて

逃(のが)れ來し身にはあれども、

なほ遠く君をしぬべば、

ほうほう……と笛はうるみて、

いづらへか、黑船(くろふね)きゆる。

 

廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。

みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に

殘(のこ)る火は血のごと赤く、

腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、

そことなく淚をさそふ。

三十九年九月

 

[やぶちゃん注:「素馨(ジエルソミノ)」イタリア語「gelsomino」(ジェルソミーノ)で、ジャスミン(英語:jasmine)、シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属 Jasminum(タイプ種はソケイ Jasminum officinale)の香料を採るジャスミンの総称。ソケイ属は世界で約三百種がある。これは思うに、森鷗外のアンデルセンの翻訳「卽興詩人」(イタリアを舞台とした恋物語。明治二十五年から三十四年(一八九二年~一九〇一年)の約十をかけてドイツ語版から重訳して断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表、初刊版「即興詩人」は明治三五(一九〇二)年に春陽堂から刊行された)の中の「花祭」のパートで、カンツォーネを歌うシーンの歌詞の訳中に(岩波文庫版を持っているはずなのだが、見当たらぬので、国立国会図書館デジタルコレクションの大正三(一九一四)春陽堂刊の画像(ここ)を視認した)、

   *

„―Ah rossi, rossi flori,

Un mazzo di violi!

Un gelsomin d'amore―”

あはれ、赤き、赤き花よ。

堇(すみれ)の束(たば)よ。

戀のしるしの素馨(そけい)〔ジエルソミノ〕の花よ。)

この時あやしく咳枯しはがれたる聲にて、歌ひつぐ人あり。

„―Per dar al mio bene!”

(摘みて取らせむその人に。)

   *

とあるのをインスパイアしたものと推測する。]

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 檢校墓

 

 檢校墓

[やぶちゃん注:以下の文中の字空けはママ。]

 非持邨〔ひぢむら〕にあり。檢校豐平〔けんげうとよへい〕が墓なるべし。里人、あやまりて「盲人の墓」と思へるは、檢校の名に據〔よ〕るなり。「古今著聞集」に 『一條院御祕藏の御鷹ありけり。いかにも、鳥をとらざりけるを、よく、とりかひ、まゐらせし。叡感のあまり、所望申さんにしたがふべきよし仰下〔おほせくだ〕され、信濃國「ひぢの里」をぞ申〔まうし〕うけける。「ひちの檢校豐平」とは、是が事也』。是、かの檢校が墓たる事、疑ふべからず。

 

[やぶちゃん注:「非持邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡長谷村非持』とある。現在は長野県伊那市長谷非持(はせひじ:グーグル・マップ・データ航空写真)。高遠城跡の南東の山間部。「検校塚」(墓)はここから入ったところ(グーグル・ストリート・ビュー画像)で、航空写真のこの中央附近と思われる。「伊那市観光協会」公式サイトの「長谷エリア」の「史跡・名所」の「検校塚」に、『平安時代のこと、一条天皇秘蔵の鷹が獲物をまったく獲らず、どんな優秀な鷹飼も飼いあぐねていた。これを優秀抜群に飼いならした依田豊平は、その褒美として信濃国非持の里を与えられ、その地を治める検校となった。伝承では「検校豊平」は善政を行い、村人に敬愛されたと伝えられる。墓所である検校塚には明治』一五(一八八二)『年に区民の手により頌徳碑が建立された』とあり、長野県産業労働部営業局のサイト「しあわせ信州」の「はせさんぽ~検校豊平(けんぎょう とよひら)と非持の里ほか」に、『伊那市長谷非持の集落の中心には、鬱蒼とした社叢の中に千年の歴史を持つ諏訪社があります』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『創建時に社の南と北それぞれ』五百メートル『の地には、守護神として御社宮司神(ミシャグチ神、諏訪信仰の自然精霊)を祀り、南にトチノキ、北にハナノキが植えられたそうです。トチノキはご神木として神おろしをする神事があったと伝えられ、日本一と言われた大きさの「非持の巨トチ」として昭和』五四(一九七九)『年に台風で倒れるまで』、『集落を見守り続けました』。『社を創建した検校豊平』『には、以下のような物語が伝えられています』。『一条天皇の御世』(在位:寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)、『天皇御秘蔵の鷹が鳥をとらないので困っていたところ、鷹飼いの名人依田豊平が、この鷹がミサゴ腹(タカの一種のミサゴの雌とタカの雄の子)である事を見抜き、その性質に応じて見事に調教しました。天皇はこの上なくお喜びになり、豊平はほうびとして望みのとおり、まほらの地信濃の国ひぢの里に屋敷と田畑を与えられ、その地を治める「検校」(後の庄屋)に取り立てられました』『(古今著聞集第二十より)』。『国道から少し入った道のわきに小さな看板があり、田んぼの脇の道に入ります』。『道を折れると、民家のとなりに屋根に囲われて「検校塚(検校豊平の墓)」がありました』。『見つけにくい!』『長谷の隠れた重要史跡です』。『右が、古い四重の石塔の墓石です(もとは五輪塔であったそうです)』。『左の石碑は「検校霊神」とあり、神として祀られたものとされています』(引用元に写真有り)。『奥の検校塚の石碑は、明治』十五年四月に、『非持諏訪社氏子一同』が『力を合わせて建立したもので、題字は県知事大野誠、文と書は旧高遠藩の国学者岡村菊叟のものです』とあった。特に後者の記載を頼りに、前のグーグル・ストリート・ビューの位置を発見出来た。

『里人、あやまりて「盲人の墓」と思へるは、檢校の名に據〔よ〕るなり』ここは平安・鎌倉時代に置かれた荘園を管理する役人の職名。その後、室町以降、僧や視覚障碍者に与えられた最高官名として知られ、江戸時代には、専ら、後者のそれと認識されていたからである。

「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう)鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を、「神祇」・「釈教」・「政道」など三十編に分けて収める。以下の話は、」第巻二十「魚蟲禽獸 第三十」の七番目に配されてある、「一條天皇、ひぢの檢校豐平、よく鷹を飼ふ事」である。全文を引く。底本は、大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊のそれ(国立国会図書館デジタルコレクションのここから)のと、所持する新潮日本古典集成本と校合し、私が適切と思う方の本文表記を採った。

   *

 一條院の御時、御祕藏の鷹ありけり。たゞ、いかにも、鳥を、とらざりけり。御鷹飼(おんたかがひ)ども、面々(めんめん)に、とりかひ[やぶちゃん注:優れた鷹狩用の鷹に躾けようとすること。]けれども、すべて、鳥に目をだにかけざりければ、しかねて[やぶちゃん注:扱いかねて。]、件(くだん)の鷹を粟田口(あはたぐち)十禪師(じふぜんじ)の辻につなぎて、行人(かうじん)に見せられけり。

「若(も)し、おのづから、いふ事やある。」[やぶちゃん注:「或いは、ひょっとすると、上手く仕込むヒントを言い出す者がないとも限らぬ故。」。]

とて、人をつけられたりけるに、たゞの直垂上下(ひたたれかみしも)に、あみ笠きたるのぼりうど[やぶちゃん注:地方から京へ上って参った田舎侍。]、馬よりおりて、この鷹を立ち𢌞(まは)り、立ち𢌞りして、

「あはれ、逸物(いちもつ)や。上(うへ)なきものなり。たゞし、いまだ、とりかはれぬ[やぶちゃん注:少しも調教されていない。]鷹なれば、鳥をば、よもとらじ。」

といひて、過ぐるもの、ありけり。其時、御鷹飼、出でゝ、かの行人(かうじん)にあひて、

「只今、のたまはせつる事、すこしも、たがはず。これは御門(みかど)の御鷹也。しかるべくは、とりかひて、叡感にあづかり給へ。」

と、いへば、このぬし、

「とりかはん事、いとやすき事なり。われならでは、この御鷹、とりかひぬべき人、おぼえず。」

と、いへば、

「いと希有(けう)の事なり。すみやかに、このよし、叡聞にいるべし。」

とて、やどなどくはしく尋ね聞きて、御鷹すゑて[やぶちゃん注:腕に留まらせて。]參りて、このよし、奏聞(そうもん)しければ、叡感ありて、卽ち、件の男(をとこ)、めされて、御鷹を、たまはせけり。すゑてまかり出でて、よくとりかひて參りたり。

 南殿(なでん)[やぶちゃん注:紫宸殿。]の池の汀(みぎは)に候ひて、叡覽にそなへけるに、出御の後(のち)、池にすなご[やぶちゃん注:砂。]をまきければ、魚、あつまりうかびたりけるに、鷹、はやりければ、あはせてけり。卽ち、大(おほき)なる鯉を取りて、あがりたりければ、やがて、とりかひてけり[やぶちゃん注:そのまま褒美として鯉を鷹に食わせた。]。

 御門よりはじめて、怪しみ、目を驚かして、そのゆゑを、めしとはれければ、

「此御鷹は『みさご腹』の鷹にて候ふ。先(ま)づ、かならず、母が振舞をして、後(のち)に父が藝をば、仕(つか)うまつり候ふを、人、そのゆゑを知り候はで、今まで、鳥をとらせ候はぬなり。この後は、一つも、よも、にがし候はじ。究竟(くきやう)の逸物(いちもつ)にて候ふなり。」

と申ければ、叡感はなはだしくて、

「所望、何事かある、申さむに隨ふべき。」

由、仰せ下されければ、信濃國ひぢの郡(こほり)に、屋敷・田園などをぞ、申しうけける。「ひぢの檢校豐平(けんげうとよひら)」とは、これが事なり。大番役(おほばんやく)にのぼりける時の事なり。

   *

但し、「信濃國ひぢの郡」とあるものの、信濃に「ひぢの郡」という郡は古えにも存在しないようである。最後の「大番役」とは、内裏・院御所・摂関家などを警護するために地方武士が交替で務めた役職を言う。ただ、現代の辞書類も注釈も平然と「鶚腹(みさごばら)」を――ミサゴのとタカのの間に出来た子――と書いているのだが、

タカ目ミサゴ科ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetus(日本では留鳥として全国に分布するが、北日本では冬季に少なく、南西諸島では夏に少ない。西日本では冬季普通に見られる鳥だったが、近年、やや数が減少している。北海道ではほとんどの個体が夏鳥として渡来している、とウィキの「ミサゴ」にある)と、本邦で鷹狩に用いられた、

タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis

   タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos

   タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus

ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus

の間で、子が出来るだろうか? ウィキの「ミサゴ」には、『タカ科に含めることもあり、それでも単系統性からは問題ない。しかし、形態、核型、遺伝子距離、化石記録の古さから、科レベルに相当する差異があるとされる』『タカ科に含める場合、ミサゴ亜科 Pandioninae とし、タカ科の』二『つ』、『または』、『より多くの亜科の』一『つとする』とあり、所謂、交配種が生まれる可能性は極めて低いように思われ、交配種として掲げるページも存在しないようである。もし、あるとなれば、御教授願いたい。

2020/11/20

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 王墓

 

附 錄 

[やぶちゃん注:以下の文中の字空けはママ。] 

 王墓

 松島にあり。土人、傳へて 「敏達〔びだつ〕天皇の皇子賴勝親王を葬〔はうふり〕奉る處なり」といふ。「日本紀」及び「皇胤紹運錄〔こういんぜううんろく〕」等を考ふるに、賴勝親王といへるは見えず。近き比〔ころ〕、塚のほとりを堀〔ほり〕[やぶちゃん注:底本・原本もママ。]かへしけるに、「すゑもの」[やぶちゃん注:「陶物」(現代仮名遣:すえもの)。焼き物。]にて作りたる貴人のかた[やぶちゃん注:「形(かた)」或いは「模(かた)」。模型。]、あまた、出〔いで〕たり。こは殉死のかわりにつくりて、うづめし埴輪〔はにわ〕なるべし。此〔この〕あたり、木下の里に「天皇崎」・「后洞」など唱へ來りし地名もあれば、其所〔そのところ〕に住せし御方を葬り申せしにあらずや。何れにも高貴の御方の墳墓たるべきにぞ。又、この塚の東に、さゝやかなる塚ありて、石をおほへり。「龍宮塚」といふ。其石の下に、むかしは、穴ありて、此あたりの里人、まらうどなどありて、得まほしき調度・膳椀やうの品々を紙に書つけて、穴に入れおけば、其夜のうちに、塚のまへに出〔いだ〕し置〔おく〕事、古〔いにしへ〕より、近きころまで、しかありけるを、或時、心さがなき男、彼〔かの〕調度を得て用ひけるに、皆、古代のものなれば惜〔をし〕とや思ひけん、おのが家にひき置〔おき〕て、返さざりけるとぞ。偖〔さて〕、その後は、里人、例のごとくねぎけれども、一つも、いでこず、となん。此事は諸州に多くありて、「かくれ里」など、いひならはせり。「五畿内志」「囘國筆土產」等に見ゆ【本郡勝間村にある事は「木下蔭」に見え、木曾にある事は「木曾志略」に見ゆ。】。いとあやしき事にこそ。「五雜俎」に濟瀆廟の神および趙州廉頗の墓の事、見えて、是、鬼と人と市するなど、いふ。私〔わたくし〕にいふ。これは皇后の御塚なるべし。皇后、轉じて龍宮となりしならん。里人、あばかんとせしが、大〔おほき〕に祟〔たたり〕ありしとぞ。【さて、いふ、此塚の北に深澤川あり。こは上古深澤驛の名の殘れるなり。深澤驛は「延喜式」に諏訪郡に屬したれば、「地名考」に今の諏訪郡三澤を以て此にあつ、誤〔あやまり〕なり。此ほとりは「和名抄」の佐浦鄕にて、諏訪郡たる事を知らざりしなり。深澤川ありて深澤驛なきは、阿智川ありて阿智驛なきと同じ。異とするに足らず。】

 

[やぶちゃん注:「松島」長野県上伊那郡箕輪町松島(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。「王墓」=松島王墓古墳はここ。上伊那地方唯一の前方後円墳。サイド・パネルの説明版の画像を参照されたいが、そこにも確かに「伝説上」の「被葬者」として「敏達天皇の皇子賴勝親王」とあるんだが、元恒も言っているように、敏達天皇の皇子にそんな名前の人物はいないんだが? まあ、築造年代は六世紀中頃から後半とあって、敏達天皇の頃と一致は見る。

「日本紀」「日本書紀」。

「皇胤紹運錄」は天皇・皇族の系図「本朝皇胤紹運錄」(現代仮名遣:ほんちょうこういんじょううんろく)のこと。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた「帝王系図」など、多くの皇室系図を照合・勘案し、これに天神七代と地神五代を併せて、応永三三(一四二六)年に成立した(室町幕府第五代足利義量(よしかず)の治世)。参照したウィキの「本朝皇胤紹運録」によれば、当初、恐らくは後小松天皇の子称光天皇(在位:応永一九(一四一二)年~正長元(一四二八)年)までの『系譜が編纂され、また』、『本来は満季の祖父の』洞院公定が編纂した、かの「尊卑分脈」と『併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の』「歴代帝王紹運図」に倣ったものであるとある。

「埴輪」同古墳から出土した現在保存されている形象埴輪は「箕輪町誌(歴史編)」によれば、ごく僅かであるとある。或いは、ここで「あまた」掘り出されたとするものは、古物商などに売られてしまったものかも知れない。

「天皇崎」地名として現存しない模様である。

「后洞」同前。「きさきぼら」或いは「きさきどう」か。

「龍宮塚」岩崎清美「伊那の伝説」(昭八(一九三三)年山村書院刊)の「神樣に關する話」の中の「龍宮塚の椀貸穴」に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該開始部分の画像)、

   *

中箕輪村松島の北の端れに瓢形の古墳があって、これを王塚と稱して居る、敏達天皇の皇子賴勝親王の墓だと傳へられて居るが、それは分らない。その傍に龍宮塚と称ぶ[やぶちゃん注:「よぶ」。]小さい塚があつて、その蓋石[やぶちゃん注:「ふたいし」。]の下が穴になりそれが龍宮まで屆いて居ると云ふのである。お客のある時、龍宮へ賴んで入用の膳椀を貸して貰ふので大へんに重寶がられて居た所、一度借りたお椀を毀した[やぶちゃん注:「こわした」。]まゝで返さなかつたために、それからは如何に賴んでも貸して吳れぬようになつたと云って居る。

   *

とある。所謂、「椀貸伝説」である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』(全十五回分割)に詳しい。その『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 二』及び『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』には、この「龍宮塚」が出る。

「まらうど」客人。

「さがなき」性質(たち)が悪い。

「ねぎ」「労ぐ」「請ぐ」「犒ぐ」などと漢字を当て(特に「請ぐ」がここではよい)、神の心を慰め、その加護を願う。ことを言う。

「五畿内志」正しくは「日本輿地通志畿内部」(にほんよちつうしきないぶ)と称する。畿内五ヶ国の地誌(「河内志」・「和泉志」・「攝津志」・「山城志・「大和志」」を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌とされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。当初、編纂に当たっては日本全国の地誌を網羅することを念頭に置いていたが、結局、実現したのがこの畿内部のみであったことから、専ら「五畿内志」の略称で呼ばれる。享保一九(一七三四)年をクレジットとする巻首上書によれば、享保一四(一七二九)年から五年をかけて編纂作業が成されとあり、享保二十年から翌二十一年にかけて、大阪・京都・江戸で出版された(ウィキの「五畿内志」に拠る)。

「囘國筆土產」既注の「諸國里人談」の作者菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年の随筆或いは紀行。原文に当たれないので確認は不能。

「本郡勝間村」伊那市高遠町勝間。高遠城跡の対岸に当たる。先の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』に『同郡勝間村の布引巖』(ぬのびきいわ)とあるのが、それ。そこで注したが、再掲すると、サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌 下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用開始》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)。ストリート・ビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』るようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える。

「木下蔭」向山氏の補註に、『高遠藩の家老葛上源五兵衛が、領内の村々を巡検し、その見聞、古文書類の採訪などを詳記したもの。三巻』。『安永八(一七七九)年の成立』とある。

『木曾にある事は「木曾志略」に見ゆ』「木曾志略」は尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。元は「吉蘇志略」が正しい。後に尾張藩士で国学者でもあった稲葉通邦(みちくに 延享元(一七四四)年~享和元(一八〇一)年)が改訂した。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七』に、『信州木曾の山口村の龍ケ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松の樹を生じ形狀怪奇であつた。吉蘇志略には此事を記して「土人云ふ靑龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、後或其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩と云ふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るに皆意の如し、その後黠夫あり窺い見て大いに呼ぶ、水神水に沒して復見えずと濃陽志略に見えて居る。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)で、是も同じ書に山の半腹にある戸立石と云ふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、其末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女あり此岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後終にその事絶ゆとある』と出る。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻三の「地部一」にある以下の一節。

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「歲時記」、『務本坊西門有鬼市、冬夜嘗聞賣乾柴聲』。是鬼自爲市也。「番禺雜記」、『海邊時有鬼市、半夜而合、雞鳴而散。人與交易、多得異物』。又濟瀆廟神嘗與人交易、以契券投池中、金輒如數浮出、牛馬百物皆可假借。趙州廉頗墓亦然。是鬼與人市也。秦始皇作地市、令生人不得欺死人、是人與鬼市也。

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「鬼と人と市する」鬼(幽霊)が成す「市(いち)」のことで、中国の志怪小説ではお馴染み。私の敬愛する澤田瑞穂先生の「鬼市考」が、幸いなことにネットで読める(PDF。私は活字本で持っている)ので、是非、読まれたい。以上の内容も訳の形で出る。

「深澤川」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。そのまま、画面を右にずらして行くと、深沢川は北の沢川に合流する。さらに右にずらして拡大すると、王墓の北直近を北ノ沢川が流れていることが判る。或いは古くは北の沢川を「深澤川」と称していたのかも知れない。

「地名考」「佐久の三大郷土史家」の一人に数えられる地方史家で俳人の吉沢好謙(たかあき 宝永七(一七一〇)年~安永六(一七七七)年)が明和四(一七六七)年に編纂した「信濃地名考」か。疲れた。調べない。

『「和名抄」の佐浦鄕にて、諏訪郡たる事を知らざりし』「和名類聚抄」の巻七の「國郡部第十二」の「信濃國第九十一」に『諏訪郡 佐補【左布。】』とある。

「阿智川」天竜川の支流阿知川。]

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 小松氏墓 / 卷の下~了(残念ながら、まだ「附錄」がある)

 

 小松氏墓

 入の谷宇良邨〔いりのたにうらみら〕に小松氏の墓あり。土人、傳へて惟盛〔これもり〕の墓とす。「平家物語」に、惟盛は潛行して熊野浦に到り、海に沒入す、と見えたり。「國史略」に曰〔いはく〕、『惟盛、海に沒入するにあらず、晦跡〔かいせき/あとくらま〕して伊勢國安野郡〔あののこほり〕に潛匿〔せんとく/ひそみかくれ〕し、承元四年三月念八日〔ねんはちにち〕、五十三にて病沒す。邑中〔むらうち〕に、其子孫、存する者、二十一家、隷屬〔れいぞく〕の後〔あと〕二百五十餘〔よ〕戶〔こ〕あり』とな、ん。さらば、惟盛、海に沒入するにあらず。されど、此村に來れるにも、あらず。今、其墓の存するも、あやし【入谷のうちに、小松氏、多くありて、その子孫といふ。】。建福寺に僧文覺が穿〔うが〕てる池とて、あり。「新著聞集」に、『蓮華寺に文覺の墓あり』と見ゆ。僧文覺は實朝公の時に、惟盛の子六代を夾〔たすけ〕て反せしを、隱岐にぞ流しぬ。

[やぶちゃん注:以下の補註は底本ではポイント落ち二字下げ。原本にはない。]

〔元恆補註-按ニ「百鍊鈔」・「編年記」ニハ佐渡トアリ。〕

 高遠に其遺蹟の存するも心得られず。是、もと、六代の命を乞請〔こひうけ〕し事も見ゆれば、若〔もし〕くは、惟盛を供奉して此地に來れるにもあらん歟〔か〕。源爲朝が自殺せし事は「保元物語」に見ゆ。これも琉球へ渡りて、その子孫の人、其地を有〔いうし〕てり【「南島志」・「琉球事略」・「三國通覽」等に見ゆ。】。その他、朝比奈義秀が木曾に隱れ【「木曾志略」に見ゆ。】、源義經が韃靼〔だつたん〕へ遁〔のが〕れしの類〔たぐひ〕【「鎌倉實記」及び「蝦夷志」に見ゆ。】ならんと、先覺〔せんはく〕はいひしが、私〔わたくし〕に考〔かんがふ〕るに、山室邨〔やまむろむら〕遠照寺に持傳〔もちつた〕へる古證文に、「康曆二年六月小松四郞源盛義」と見へたり。その比〔ころ〕、此地に小松氏ありて、宇良邨の墓も、それ等〔ら〕の人なるべし。氏〔うぢ〕の同じきゆゑに、「惟盛」と誤りたるにあらずや。猶、尋ぬべし。上古の事、存するがごとく、亡〔ばう〕するが如く、實〔げ〕に大史氏の嘆〔なげき〕を起すに堪〔たへ〕たりき。

[やぶちゃん注:以下の補註は底本ではポイント落ちで、全体が二字下げ。原本にはない。]

〔元恒補註-長久寺に木主〔もくしゆ〕[やぶちゃん注:位牌。]あり、「一翁常夏大信士」としるす。里老、傳へて、「建保二甲戌〔かのえいぬ/かふじゆつ〕年卒」と、しるせり。「日本史」に『小松氏・色川氏は、その[やぶちゃん注:底本では編者注が「その」の右にあって『(惟盛の)』と附す。]裔なり』とあり。また、六代の子淸禀といふ薩摩の祚寢氏は、その孫なり、とぞ。

「日本史」ニ、『義秀不知其所終或曰戰死時ニ年三十八又曰安房長挾郡有朝夷名鄕相傳義秀逃來于此遂赴高麗延寶中使人問義秀事蹟※[やぶちゃん注:「※」=「示」+「仝」(同の異体字)。]對馬守宗義眞義眞質之朝鮮報曰朝鮮釜山浦絕影島義秀祠見在土人時祭之。

五井氏瑣語曰和田義盛敗死其子義秀逃入高麗猝襲釜山府虜其將韓思廉以爲先導[やぶちゃん注:対応する返り点「二」がないのはママ。]攻東萊城斬其將李邦群高麗王大愕乃遣使招安授討虜將軍淳和八年七十二歲死豐公伐朝鮮也其苗裔平睦明有在蔚山爲國戰。〕

 

信濃奇談卷の下 終

 

[やぶちゃん注:「宇良邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡長谷村浦』とある。長野県伊那市長谷浦か。強力な山中である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)が、その北の東直近の、長野県伊那市長谷市野瀬地区があり、宿「入野谷」があり、その近くには、焼肉屋「平家の里」があるから、この辺りということであろう。地図を見るだけで、平氏落武者伝説が生まれておかしくない隠田集落村という感じが強くしてくる。

「小松氏」「惟盛」平維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年:享年二十六)は清盛の長男重盛の嫡子で「小松中将」と称された。平家一門の嫡流として出世し、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際には追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」で、知られる通り、夜中、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った。しかし、翌年の三月の「尾張墨俣の戦い」で源氏を撃破し、その功により従三位・右近衛権中将となった。寿永元 (一一八二) 年には木曾義仲追討のために北国へ発向したが、「倶利伽羅合戦」(砺波山の戦い)で大敗、義仲が上京して平家一門が西国に落ちのびた時には、同じく「都落ち」したようであるが、その後の消息は不明(父の早世もあって、一門の中では孤立気味であった)。物語類では、「屋島の戦い」で平家の陣を抜け出し、高野山に向かい、そこで出家した後、熊野灘へ舟を出して入水して果てたと記す(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、この入水は絶望故ではなく、那智に多く見られた補陀落(ふだらく)渡海の変形とも考えられるが、孰れにせよ、私は維盛は一種の抑鬱障害を持っていたのではないかと疑っている。墓については、八ヶ岳原人氏のサイト「from八ヶ岳原人」の『壇ノ浦村と「平家の里」』によって現存することが判った。説明板のそれを引用させて戴く。

   *

 小松氏の先祖が、平の重盛であるか維盛であるか重清であるか明らかでない。しかし、この浦区の小松氏は平家の流れのものであることは確かであろう。小松氏とその側近であった西村氏がいっしょになって、春の彼岸の中日に先祖祭を行っている。(古くは陰暦の二月四日であった)

 その日は各戸で保存する赤旗を竹竿につけて持ち寄り、墓の生垣に立てられる。子供らは笹の葉に色紙を結んで墓の周囲を飾る。墓に花が供えられ、線香の煙がたなびく。

 墓前での先祖祭が終わると、集まった人々は年番の家(現在は公民館)へ行き「小松内大臣平重盛卿」と書いた掛軸を床前に掲げて、その前で盛大な祝宴を挙げる。

 この地区は古来浦村といわれ、古老は「檀ノ浦村」と自称したりした。小松氏一統の者は平家と同じように宇佐八幡宮を祭っている。

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次に、「長野県町村誌」の「長谷村」の抜粋。そこで「重清」というのが判る。

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 元禄年間浦村の一村を起す。昔時平氏潜伏の地にして一村ありて其称なし。

 浦村は、昔時(せきじ)平惟盛潜伏の地と云。依て往古は此地を壇の浦と云。亦曰(またいわく)、大永享禄の年間に、平重盛十九代の孫、小松左京大夫重森、此地に来り爰(ここ)に居す共云。其孫雪三郎重清、天正の年間に武田晴信に属し、爰に居す。夫(それ)より武田侯の領地たり。今浦の農民は皆小松氏なり。

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次に信濃史料刊行会の「新編信濃史料叢書」に収録された菅江真澄の紀行文「すわの海」の天明四(一七八四)年「廿六日」の条の抜粋。

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 とのしま(殿島)をたちて…、高遠にいたる…、

 此夕、井野岡何某という神司(かみづかさ)の家にやど(宿)る、あるじ(主)なにくれの物語りしけるに、いにしえ世中しずかならざるころ(※治承寿永の乱)、小松重盛きみ(君)の甥ぎみ刑部大輔なにがし(某)のうし(氏)、此山おくにかくれ住み給いしとなん、処をまえうら(前浦)という、いまも太刀、鉾、よろいなど持ち侍(はべ)ると、ところのもの(所の者)かた(語)りき、昔家七ツありしが、はや五十あまりにて、人もたやすく行きがたき道にて、なかなかおそろしき山里也けり、

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グーグル・ストリート・ビューで探してみたが、見当たらなかった。この付近にあると思われる。

「建福寺」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町にある』とある。臨済宗。高遠城跡の直近のここ同サイド・パネルの説明板によれば、『安元二年(一一七六)文覚商人が本堂裏手』の『「独鈷(どっこ)の池(いけ)」あたりに開創したのが始まりとされる』とある。

「蓮華寺」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町にある』とある。前の建福寺の東直近にある。日蓮宗。因みに、絵島生島事件で知られる絵島は、ここ高遠に流罪となり、この蓮華寺に墓がある。サイド・パネルの彼女の墓をリンクさせておく。

「國史略」江戸後期の儒学者で国史も詳しかった京都の巌垣松苗(いわがきまつなえ 安永六(一七七四)年~嘉永三(一八五〇)年)の著した歴史書。文政九(一八二六)年刊。神代から天正一六(一五八八)年の後陽成天皇の聚楽第行幸に至るまでを、漢文による編年体で述べたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を縦覧したが、以下がどこに書いてあるのか、判らなかった。悪しからず。

「伊勢國安野郡」伊勢国安濃郡(「安濃」は「あのう」「あの」孰れにも読み、また「安野」とも漢字表記した)。現在の三重県津市の一部に相当する。

「承元四年」一二一〇年。

「念八日」二十八日。「念」の字は中国音「niàn」で、「廿」の「niàn」と同音であるため、古くから「二十」の意味で用いた。

『「新著聞集」に、『蓮華寺に文覺の墓あり』と見ゆ』『「新著聞集」に出たり』俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「文覺旧蹟」(「旧」は原本のママ)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。63コマ目である。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。

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信州高遠の、文明寺、今、峯山寺(ほうざんじ)といふ。此寺の不動尊は文覺上人の自作なりといへり。建福寺には、「獨鈷水(どつこすい)」といへる井あり。これも上人のほりたまひしとかや。常恩寺、今は蓮華寺といふ。これには上人の塚ありし。此所にて身まかりたまひしにや。

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なお、文覚は「隱岐」ではなく、対馬への流罪で誤りである。これは元久二(一二〇五)年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられた結果であったが、実は対馬国へ流罪とされる途中の鎮西で客死している

「六代」平高清(承安三(一一七三)年?~?)は平維盛の嫡男で母は藤原成親の娘。ウィキの「平高清」によれば、木曾義仲の『攻勢の前に平氏が都落ちを決意したとき、維盛は都に慣れ親しんでいる妻を共に西国に落ち延びさせることは忍び難いとして、妻子を都に残して一門と共に西走する。このとき』、『維盛は妻に対して子供のことを頼むと共に、自らに何かあったら再婚してほしいと言い残した』。『六代は母と共に京都普照寺奥大覚寺北に潜伏していたが、平氏滅亡後の』文治元(一一八五)年十二月、『北条時政の捜索によって捕らえられた』。『清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところであったが、文覚上人の助命嘆願があって』、『処刑を免れ、その身柄は文覚に預けられることとなった』。『また、前述の維盛の妻(六代の母)は夫の死後に頼朝の信頼が厚い公卿の吉田経房と再婚しており、この事も六代の助命と関係している』可能性はある。文治五(一一八九)年、『六代は剃髪して妙覚と号』し、建久五(一一九四)年には『文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて異心無く出家したことを伝えた』。『源頼朝は平治の乱後、六代の祖父である平重盛が自身の助命のために尽力してくれた恩に報いるためとして六代を関東に滞在させ』、『その後』、『六代を招いて、異心がなければ』、『どこかの寺の別当職に任命しようと申し出ている』。『その後の六代について』は、「平家物語」などでは、『庇護者であった文覚が流罪となった後、弟子であったことから修行中であった六代も捕らえられて処刑されたとするが、その時期については』、『文覚が三左衛門事件に連座して流罪となった』正治元(一一九九)年のほか、『源頼朝が在世中であった』建久九(一一九八)年、建仁二(一二〇二)年、同三年、『またはそれ以降、場所も相模国田越川(多胡江河)、鎌倉六浦坂、同じく鎌倉の芝』(不詳。このような地名は鎌倉にははない)、『駿河国千本松原などとまちまちである点や』、『六代の処刑を伝える諸書が』、『いずれも文覚の弟子であった事をその理由に挙げながらも、主な処罰対象である文覚が流罪であるのに対し、従属的な立場にあった六代の方が』、『より重い死罪とされているという矛盾があり、また』、『実際に文覚の流罪を主導したと考えられている源通親らにはあえて六代を殺害する動機が見当たらないこと、さらに六代処刑の記事は』「平家物語」の『諸本以外では』、『いくつかの年代記や系譜類に限られ』ており、「吾妻鏡」などの『確実な史料でこれに触れたものが全くない等の点から、処刑の事実自体を疑問視する見解も存在する』。『逗子市桜山』『に六代の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地とされている』(ここ。グーグル・マップ・データ)『六代を最後として、清盛の嫡流は完全に断絶した』とある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓」も参照されたい。

『源爲朝が自殺せし事は「保元物語」に見ゆ』「保元物語」の巻尾にある「爲朝、鬼島ニ渡ル事竝(ナラビニ)最後ノ事」。

「琉球へ渡りて、その子孫の人、其地を有〔いうし〕てり」かなり知られた為朝伝説。ウィキの「源為朝」によれば、『琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき』、大正一一(一九二二)年には『為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている』とある。

「南島志」新井白石著の琉球地誌。享保四(一七一九)年刊。「国文学研究資料館」のデータ・セットの同書写本の「世系第二」の舜天王の条のこちら(左六行目から次の頁にかけて記されてある)。

「琉球事略」江戸中期の儒者で書物奉行を務め、幕府蔵書の校合等を担当した桂山義樹(かつらやまよしたね 延宝七(一六七九)年~寛延二(一七四九)年)の著した琉球の歴史・王統・習俗ほかについて記したもの。

「三國通覽」「三國通覽圖說」。天明五(一七八五)年に経世論家で「寛政の三奇人」の一人に数えられる林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書。日本に隣接する三国、則ち、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書(地図五枚有り。但し、地図は正確さを欠く)。彼は海防の必要性を説いた軍事書「海国兵談」がとみに知られる。

「朝比奈義秀が木曾に隱れ」朝比奈義秀(安元二(一一七六)年?~建保元(一二一三)年)鎌倉幕府創生の有力豪族の一人である和田義盛の三男。鎌倉幕府御家人中、抜群の武勇を以って知られ、正治二(一二〇〇)年、将軍源頼家が海辺遊覧の際、「水練の技を披露せよ」と命ぜられ、水中深く潜って、鮫を手取りにして人々を感嘆させたという。建保元年五月、父義盛が鎌倉で北条義時と戦った際 (和田合戦) 、和田方の勇士として奮戦し、将軍の居所の正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀の進路を、つとめて避けたと伝えられる。和田方が敗北するに及び、義秀は海路安房国へ向って逃走したが、その後は戦死したとも、行方不明となったともされる。なお、「源平盛衰記」は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった巴御前を娶って義秀が生れたと伝えているが、伝説の域を出ない。奮戦の様子は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」を読まれたい。

「木曾志略」尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。元は「吉蘇志略」が正しい。後に尾張藩士で国学者でもあった稲葉通邦(みちくに 延享元(一七四四)年~享和元(一八〇一)年)が改訂した。

「韃靼」タタール。北アジアのモンゴル高原及び、シベリアとカザフ・ステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての、幅広い地域にかけて活動したモンゴル系・テュルク系・ツングース系及びサモエード系とフィン=ウゴル系の一部などの、様々な民族を指す語として用いられてきた民族総称及び彼らが住んだ広域地名。

「鎌倉實記」洛下隱士(医師加藤謙斎とも)著で、享保二(一七一七)年刊。全十七巻の実録物或いは軍記物。「神奈川県立図書館」本書のデータPDF)によれば、『「序」には、源平の盛衰の記録には偽りや誤りが多く真実を伝えていないので、諸家に秘蔵されている信頼に足る歴史史料を入手し、真実の記録を心がけた、とある。しかし一方で、引用されている文献には現在まったく行方がつかめていない未詳のものも多いと堀竹忠晃は指摘している。また本書は、『金史別本』という史料には、義経が蝦夷を平定したあと』、『中国大陸に渡ったと記されている、と紹介したことで知られているが、現在はこの史料は偽書とされている』とある。

「蝦夷志」新井白石が著した本邦初の蝦夷(北海道)地誌で、享保五(一七二〇)年自序。序・蝦夷地図説・本文という構成で、本文はさらに蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太)、東北諸夷(千島列島)の三部から成り、巻末には人物や武具などの図が綿密、且つ、色彩豊かに描かれており、興味深い(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「先覺」学問・見識のある先輩。

「山室邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町山室』とある。ここ。高遠城跡の東北の山中。

「遠照寺」ここ

「康曆二年」一三八〇年。南北朝時代の北朝の元号。

「長久寺」長野県上伊那郡辰野町大字伊那富宮木横町のそれであろう。

「建保二甲戌年」一二一四年。源実朝(実権は執権北条義時)の治世。

「日本史」これは徳川光圀が着手した歴史書「大日本史」であろう。明暦三(一六五七)年に編纂を開始され、光圀の没十九年後、享保五(一七二〇)年に中途の本紀七十三巻・列伝百七十巻分が江戸幕府に献上されている(全部の完成は二百四十八年後の明治三九(一九〇六)年であった)。なお、「大日本史」というのは光圀死後の正徳五(一七一五)年に水戸藩主徳川綱條(つなえだ)による命名であって、それ以前は「本朝史記」「国史」「倭史」と呼ばれていた。

「小松氏」ここで、話者である元恒は、縷々語ってきた平維盛の末裔と称して信濃国に土着し、諏訪氏の家臣となった国人一族である信濃小松氏を念頭に置いていると読むべきであろう。或いは、以下に注する禰寝氏(ねじめし:改名して小松氏)をも含むか。ともかくも原本が示している「小松氏」とは広義であろう。

「色川氏」読みは「いろかわし」とも「いろがわ」とも。紀伊国色川(現在の那智勝浦町の北西部)における豪族・国人衆、・熊野水軍。桓武平氏の流れを汲み、「平」「清水」「色河」とも称する。ウィキの「色川氏」によれば、文治元(一一八五)年、『紀伊勝浦』で『入水したと見せかけて落ちのびた平維盛を色川郷』『の森に匿い、盛広、盛安の二児をもうけ、室町時代~戦国時代に続く紀伊国人衆色川氏の祖となったという』とある。

「六代の子淸禀といふ薩摩の祚寢氏は、その孫なり」「淸禀」は不詳。読みも判らぬが、「きよふち」とでも読んでおく。「祚寢氏」は「禰寝氏」(ねじめし)の誤りか、誤判読・誤植であろう。ウィキの「禰寝氏」によれば、『大隅国の有力国人、戦国大名、のち薩摩藩士の氏族』。『禰寝氏は中世には豪族として角、西本、池端、山本氏など、また近世初期では入鹿山、武などの別の名字を名乗る』二十『家門ほどの庶流を出した。同氏直系は江戸時代中期に先祖に当たると目された平重盛の号にちなみ』、『「小松氏」と改姓した。江戸期には、「歴代当主」の項に明らかなように古代・中世から続く連綿とした宗家の血の流れは途絶えたが、宗家を支える御三家、禰寝・松沢(庶流の最も古い一門)、禰寝・西本(時に西元とも)、禰寝・角などは他の庶家とともに一族の歴史的記憶に重要な役割を果たし続け、現在に至っている』。『大隅国禰寝院』(禰寝院北俣(禰寝北俣)・禰寝院南俣(禰寝南俣)に分かれ、前者を大禰寝院、後者を小禰寝院とも称した。禰寝院北俣は鹿児島県錦江町・鹿屋市南部、同南俣は南大隅町・錦江町田代に比定されている。治暦五(一〇六九)年の文書に「禰寝院」と見え、南北三村ずつに分かれていたことが知られている)『を領したことが、名字の由来である』。『江戸時代に直系は「平重盛の孫・平高清の末裔(まつえい)」であることを主張したが、鎌倉時代、室町時代の公式文書にはすべて「平姓」(平氏)ではなく「建部姓」(建部氏)で署名していること、平高清の没年と禰寝氏初代・清重の地頭職就任年が同年であることから見て疑わしい』。『平氏末裔を主張した背景には島津光久後室・陽和院殿の養家である平松家とのつながりが深くなったことが背景にあるのではという説がある』。『建部姓禰寝氏の先祖は遠く大宰府の在庁官人であり、禰寝氏(小松氏)が同じ鹿児島の島津氏よりも出自が古いことは歴然としている。このように史料をもって古代に遡りうる氏族は稀である』。『古代にあっては建部姓を』称し、『大宰府在庁官人であった。後に一族は郡司職についている』。十一『世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に遡ること』四『代前の藤原頼光に関わる史料が『禰寝文書』では最初の文書として上げられて』おり、これが治暦五年のそれである。『京で藤原氏全盛期のころ、建部姓の一族は、奥州にあって清原氏が藤原姓を名乗るように』、『大隅国にあって藤原姓を取っていた。頼光が子女に配分した所領は広大で、荘園としての禰寝院』『の規模をはるかに超え、絶大な権勢を保持した』とある。

「義秀不知其所絡或曰戰死時ニ年三十八又曰安房長挾郡有朝夷名鄕相傳義秀逃來于此遂赴高麗延寶中使人問義秀事蹟※對馬守宗義眞義眞之朝鮮報曰朝鮮釜山浦絕影島義秀祠見在土人時祭之。」(「※」=「示」+「仝」(同の異体字)。意味不明)訓読を試みるが、「※」は判らぬので、悪しからず。

   *

義秀は、其の終はれる所を知らず。或いは、戰死とも曰ふ。時に年三十八。又、曰はく、安房長挾郡(あはながさのこほり)に、朝夷名鄕(あさひながう)有り、相ひ傳ふ、「義秀、此(ここ)に逃げ來りて、遂に高麗(かうらい)に赴く。延寶[やぶちゃん注:一六七三年から一六八一年まで。]中、使人、義秀が事蹟、※對馬守宗義眞(そうのよしざね)に問ふに、義眞、之れを朝鮮に質(ただ)す。報じて曰はく、「朝鮮の釜山の浦、絕影島に義秀が祠〔ほこら〕見るに、土人、在りて、時に之れを祭る。」と。

   *

「對馬守宗義眞」対馬国府中(ふちゅう)藩第三代藩主宗義真(寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)。明暦三(一六五七)年に父が死去したため、家督を相続し、その時、従四位下・播磨守から、侍従・対馬守に任官した。彼は対馬府中藩の全盛期を築き上げ、藩の格式は十万石格にまで登りつめた(対馬府中藩の実質石高は一万石程度であったが、貿易収支が大きかったことが考慮された)。元禄五(一六九二)年に次男義倫(よしつぐ/よしとも)に家督を譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。しかし、晩年は義倫の早世や、竹島問題に於ける朝鮮との交渉難、さらに朝鮮貿易の収支減衰などの悪条件が重なり、対馬府中藩は衰退を始めた(以上はウィキの「宗義真」に拠った)。

「五井氏瑣語」五井氏の書いた「瑣語」(さご)の意。大坂の儒者五井蘭洲の書いた学事史談及び見聞雑記を記したもの。五井蘭洲(元禄一〇(一六九七)年~宝暦一二(一七六二)年)は大坂懐徳堂の助教となり、後に陸奥弘前藩に仕えたものの、再び懐徳堂に戻っって後身を指導した。「非物篇」を著わし、徂徠学を批判したことで知られる。

「曰和田義盛敗死其子義秀逃入高麗猝襲釜山府虜其將韓思廉以爲先導東萊城斬其將李邦群高麗王大愕乃遣使招安授討虜將軍淳和八年七十二歲死豐公伐朝鮮也其苗裔平睦明有在蔚山爲國戰。」訓読を試みるが、対応する返り点「二」がないのは「爲先導」に置いて読んだ。一部は勝手に返って読んだ。

   *

曰はく、和田義盛、敗死し、其の子義秀、逃げて、高麗に入り、釜山府を猝(には)かに襲ふも、虜(とりこ)となるも、其の將韓思廉、以つて先導と爲し、東萊城を攻む。其の將李邦群を斬り、高麗王、大きに愕(おどろ)き、乃(すなは)ち、遣使招安授、虜と將軍とを討つ。淳和八年[やぶちゃん注:不詳。高麗にはこのような元号はない。]七十二歲にして死す。豐公[やぶちゃん注:豊臣秀吉。]、朝鮮を伐(う)つや、其の苗裔平睦明(へいぼくめい)[やぶちゃん注:和田氏は桓武平氏。]有り、蔚山(ウルサン)に在(あ)り、爲(ため)に國と戰さす。

   *]

2020/11/19

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 春山

 

 春山

 伊那の郡〔こほり〕福岡といふ里に彥四郞といへる農あり。家、富榮えて、いと目出度〔めでたく〕暮しける。或時、都方より來りけるとて、春山〔しゆんざん〕といへる年若き僧、一宿せしに、いたはる事ありて、かりそめに、四、五日、休〔やす〕らひしに、定まれる時や至けん、今は早、枕もあがらず、湯水さへも咽〔のど〕をうるほさぬ程になりし時、彥四郞に、

「逢〔あひ〕申度〔まうしたく〕ぞ侍れ。願くは、沐浴して、服、改め、對面せばや。」と望〔のぞみ〕ければ、ひんなふは覺えけれど、その樣〔さま〕、氣高〔けだか〕う見へしまゝ、頓〔やが〕て沐浴し、服、改〔あらため〕て出向〔いでむき〕て對面しける。彼〔かの〕僧、申〔まうし〕けるは、

「主人の、此頃、馳走は、誠に、いつの世にかは忘れ侍るべきや。我は武者小路中納言殿の弟にて、歌行脚〔うたあんぎや〕せばや、と諸國を廻りしに、此處〔このところ〕に至り、かりそめの風心地〔かぜごこち〕にありしに、定業〔じやうごふ〕にやありけん、今は、はや、ながらふべうも覺えず。此上の結構には、此消息、都へ屆け給はれ。」

と申置〔まうしおき〕て、その朝〔あした〕の、露と消〔きえ〕ぬるこそ哀〔あはれ〕なれ。實に寬政三亥〔ゐ〕の正月二十三日にぞ有〔あり〕ける。

 都へ消息遣はしけるに、詞〔ことば〕はなくて、一首の歌をぞ、書〔かき〕たりける。

 志らぬ野の露とそ消る月花を

    雲井にめでし折もありしに

 武者小路殿、かなしびの餘りに、あはれ、いま、そのはらからの名の、うさにありとも告〔つげ〕で、消〔きゆ〕るはゝ木々。

 その塚、今、福岡にあり。

 

[やぶちゃん注:「春山」向山氏の補註に、『藤原友信』(宝暦一〇(一七六〇)年~寛政四(一七九二)年)、『三条右大臣藤原季晴の三男』。『水無瀬家を継ぎ、従四位上左近衛少将となる。安永五』(一七七六)『年位記返上、東山に幽居し、和歌を事とし、羽林院霞水、また、春山と号した。天明四』(一七八四)『年、諸国遊歴に出、寛政三年正月十三日』(元恒の日付は誤りということになる)『信州伊那郡福岡の福沢家にて歿。墓に霞水翁塚と記し、翌年、その霊を祀り』、『羽林宮と名づけ、いずれも現存する』とある。ところが、この父である藤原季晴という人物、ネットでは調べても、右大臣なのに一向に掛かってこない(一つ、伊那谷研究団体協議会の雑誌『伊那』(20051209)と標題する検索結果内に『水無瀬霞水翁春山 水無瀬友信 三, 宮下 一郎, 伊那, 1969年5月, 文学, 伝記, 近世, 水無瀬霞水春山, 駒ヶ根市福岡』という文字列を見出せるのだが、このリンクはXLSファイルと称しながら、安全なダウン・ロードが出来ない)。されば、この藤原友信も、そして、実兄「武者小路中納言殿」というのも全く判らぬ。識者の御教授を乞うものである。

「伊那の郡福岡」向山氏の補註に、『現、長野県駒ケ根市赤穂福岡』とある。ここ

「ひんなふは覺えけれど」恐らくは「びんなふ」で「びんなく」「便無く」かと思われる。「感心できない」「いたわしい」の意であろう。彦四郎は、春山の病が重く、そのようなことは「感心しない」、病身にはよくないと思ったという意か、春山自身が死期の近いことを察してそのように対面を申し出たのであろうことを思うと、あまりに「いたわしい」と思ったものの、意と思われる。

「主人の、此頃、馳走は」御主人のこの頃の御待遇は。

「志らぬ野の露とそ消る月花を雲井にめでし折もありしに」整序する。

 しらぬ野の露とぞ消ゆる月花(つきはな)を

    雲井(くもゐ)にめでし折りもありしに

「雲井」は宮中のこと。

「うさにありとも告〔つげ〕で、消〔きゆ〕るはゝ木々」これは「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)の帖に出る、空蟬の歌、

 數ならぬ伏屋(ふせや)に生(お)ふる名の憂(う)さに

    あるにもあらず消ゆる帚木

「かくも見すぼらしいあばら屋に生い立ちました私(わたくし)の身の儚さ故に、目には映っても、これ、触られることさえもない帚木のように、私はあなたの前から姿を消すので御座います」という謂いの歌をインスパイアしたものである。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 一瞥

 

 一   瞥

 

大月(たいげつ)は赤くのぼれり。

あら、靑む最愛(さいあい)びとよ。

へだてなき戀の怨言(かごと)は

見るが間(ま)に朽ちてくだけぬ。

こは人か、

何らの色(いろ)ぞ、

凋落(てうらく)の鵠(くぐひ)か、鷭(ばん)か。

後(しりへ)より、

冷笑(れいせう)す、あはれ、一瞥(いちべつ)。

我(われ)、こころ君を殺(ころ)しき。

三十九年七月

 

[やぶちゃん注:最終行は私は「こころ」の後に読点を打つか、字空けを施したいくはなる。

「鵠(くぐひ)」白鳥の古名。カモ目カモ科Anserinae 亜科に属する広義のハクチョウ類を指す。同亜科はハクチョウ属Cygnus・カモハクチョウ属 Coscoroba の二属に分かれ、ハクチョウ属にコブハクチョウCygnus olor・コクチョウCygnus atratus(和名の通り、ハクチョウ属であるが、成長するにつれて黒くなる)・クロエリハクチョウCygnus melancoryphus・オオハクチョウCygnus cygnus・ナキハクチョウCygnus buccinator・コハクチョウCygnus columbianus が、カモハクチョウ属にカモハクチョウ Coscoroba coscoroba がいるが、本来、古来から本邦に自然に飛来して来る種はオオハクチョウ Cygnus Cygnus とコハクチョウ Cygnus columbianus の二種のみであった。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 天鳶(はくちやう)〔ハクチョウ〕」を見られたい。

「鷭(ばん)」ツル目クイナ科 Gallinula属バン Gallinula chloropus。成鳥は黒い羽毛に蔽われるが、背中の羽毛は多少、緑色を帯びる。上記最後のそれからは、成鳥の場合はバンと二種を見間違えることはあり得ないが、オオハクチョウもコハクチョウも幼鳥は灰色を帯びるから、実際のそれらを遠目で見たならば(ここは実際の鳥ではないのだが)、バンと識別出来ない可能性はないとは言えない。博物誌は私の『和漢三才圖會第四十一 水禽類 鷭 (バン) 附 志賀直哉「鷭」梗概』を見られたい。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 よひやみ

 

 よひやみ

 

うらわかきうたびとのきみ、

よひやみのうれひきみにも

ほの沁むや、靑みやつれて

木のもとに、みればをみなも。

な怨みそ。われはもくせい、

ほのかなる花のさだめに、

目見(まみ)しらみ、うすらなやめば

あまき香(か)もつゆにしめりぬ。

さあれ、きみ、こひのうれひは

よひのくち、それもひととき、

かなしみてあらばありなむ、

われもまた。――月はのぼれり。

三十九年四月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 わかき日の夢

 

 わかき日の夢

 

水(みづ)透(す)ける玻璃(はり)のうつはに、

果(み)のひとつみづけるごとく、

わが夢は燃(も)えてひそみぬ。

ひややかに、きよく、かなしく。

四十一年五月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 なわすれぐさ

 

 なわすれぐさ

 

面帕(おもぎぬ)のにほひに洩(も)れて、

その眸(ひとみ)すすり泣くとも、――

空(そら)いろに透(す)きて、葉かげに

今日(けふ)も咲く、なわすれの花。

四十一年五月

 

[やぶちゃん注:「なわすれぐさ」シソ目ムラサキ科ワスレナグサ属 Myosotis の総称。和名「勿忘草」「忘れな草」はシンワスレナグサ(真勿忘草)Myosotis scorpioides に与えられているものの、園芸界で「ワスレナグサ」として流通している種は、ノハラワスレナグサ Myosotis alpestris・エゾムラサキ Myosotis sylvatica、或いはそれらの種間交配種である。

「面帕(おもぎぬ)」「顔面」とも書き、通常は「かほかけ(かおかけ)」と読む。婦人や貴人が頭からかける薄い絹などの布。婦人が帽子に取り付けて顔を覆う網や紗(しゃ)の布で、「ベール」(veil)のこと。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 かへりみ

 

 かへりみ

 

みかへりぬ、ふたたび、みたび、

暮れてゆく幼(をさな)の步(あゆみ)

なに惜(をし)みさしもたゆたふ。

あはれ、また、野邊(のべ)の番紅花(さふらん)

はやあかきにほひに滿つを。

四十年十二月

 

北原白秋 邪宗門 正規表現版 あかき木の實

 

 あかき木の實

 

暗(くら)きこころのあさあけに、

あかき木(こ)の實(み)ぞほの見ゆる。

しかはあれども、晝はまた

君といふ日にわすれしか。

暗(くら)きこころのゆふぐれに、

あかき木(こ)の實(み)ぞほの見ゆる。

四十年十月

 

2020/11/18

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 木乃伊

 

 木乃伊〔元恒補註-「物類品隲〔ぶつるゐひんしつ〕」には「質汗〔しつかん〕」を以て「みいら」とす。按〔あんずる〕に「質汗」は藏器の說に出づ。〕

[やぶちゃん注:以上の二行割注は底本の標題の下にポイント落ちである。原本にはない。標題を邪魔する感じなので、特異的にポイントを落した。]

 新野邨〔にいのむら〕に、いづれの比よりか、死人〔しびと〕の朽敗〔きうはい〕せざるあり。その姓名・履歷は知れる人、なし。たゞ「行者〔ぎやうじや〕」となん、呼來〔よびきた〕れり。是は越後弘智〔こうち〕法印の類〔たぐひ〕にやあらん【弘智が事、「東奥紀行」及〔および〕「北越奇談」等に見えたり。】。また、近き比に、諏訪の芹澤に死人を堀出〔ほりいだ〕せしが[やぶちゃん注:「堀」は原文もママ。]、棺などは、形もなく、皆、朽果〔くちはて〕ぬるに、尸〔かばね〕ばかりは乾枯〔かんこ〕して、そのままあり、是も、年古〔としふ〕りたる事にて、姓名などは知る人も、なし。【その尸は今もその里の泉澁院〔せんじふゐん〕にひめ置〔おき〕ぬ。】「南留別志〔なるべし〕」に見えたる、奧乃〔の〕秀衡〔ひでひら〕が、五百年の後までも朽敗せざりしは、棺槨〔くわんかく〕の制も備りければ、かくもありなん、こは棺も盡〔つき〕て、土の、膚〔はだへ〕にちかづきたるに、かくありしは、いとあやしき事にこそ。

 私〔わたくし〕にかむがふるに、蕃藥〔ばんやく〕の「木乃伊(みいら)」となんいふ物、卽〔すなはち〕、これならん。死〔しし〕たる人、數萬人のうちには、おのづから、かかるものもあるものなるべし。また、必〔かならず〕、寒國〔さむきくに〕にのみ限れる事にや。「職方外紀」に『歐邏巴〔えうろぱ〕の一地に、死者を山に移せば、その尸、千載〔せんざい〕朽〔くち〕ず』と見へ[やぶちゃん注:原本もママ。]、「采覽異言」に、『臥兒狼德〔ぐるうんらんでや〕の地は、殊に寒國にて、人・物の生ぜざるに、和蘭人〔おらんだじん〕、ある年、その國、開かんと、衣粧・屋具を備へていたりしに、一人も歸る事、なし。翌年、尋〔たづね〕ゆきて見るに、坐する者は坐し、臥する人は臥しながら、死して乾哺〔ほじし〕の如くにてありし』となん。これ等の類〔たぐひ〕、皆、その「木乃伊」といふものにて、信濃及び越後のごとき寒國には、たまたま、かうやうの[やぶちゃん注:ママ。「斯(か)く樣(やう)の」(斯様(かやう))の音変化であろう。]者、出來〔いできた〕るも、たとへば、蠶〔かひこ〕の中に殭蠶〔きやうさん〕の生ずる類〔たぐひ〕にぞ有〔ある〕べき。「萬國新話」にも、その說、見ゆ。「行力〔ぎやくりき〕にて、かくありし」などいふは拙〔つたな〕し。「紅毛雜話」及び「采覽異言」に、木乃伊は熱暍〔ねつえつ〕[やぶちゃん注:強烈な暑さ。]にて人の焦爛〔しやうらん〕したるなど、いひしは、蘭人の妄語を從(うけ)られしなるべし【『唐僧義好といふものも、死して後百年を經て、化〔くわ〕せざりし』と「和漢太平廣記」に見ゆ。】。

[やぶちゃん注:以下は原本の罫上外にある頭書。底本は一部に誤判読がある。]

西京雜記魏王子且渠家無棺槨但有石牀廣六尺長一丈石屛風牀下悉是雲母牀上兩屍一男一女皆年二十許俱東首裸臥顏色如生人又幽王家百餘屍縱橫枕籍皆不朽唯一男子餘皆女子。

皇朝類苑引倦遊雜錄曰華嶽張起谷岩石下有僵尸直髮皆完。

關氏が著せる「發墳志」に、『上州茂呂村の石室の中に尸ありて俯伏〔うつぶ〕せるがごとし』

「東奧紀行」に、『越後津川玉泉寺淳海上人の尸も百餘年腐敗せず』と見ゆ。

 

[やぶちゃん注:「木乃伊」最初に定義を「ブリタニカ国際大百科事典」から引いて示しておく(ミイラはポルトガル語「mirra」由来で、英語は「mummy」(マミィ))。自然的に、或いは人工的に防腐処置が施されて、乾燥・保存された死体。皮膚・筋肉を始めとして内臓・血管などが乾燥し、通常は萎縮した状態で保存される。皮膚は普通、革皮様化して硬く、強く萎縮し、黒色・黒褐色・褐色などになり、頭髪も残る。人体の水分は、通常の死後直後で約八十%であるが、これが五十%以下になると、細菌が繁殖せず、腐敗が進行しないので、ミイラ化する。ミイラ化が完成するまでの期間は、環境によりまちまちであるが、手足の指先や鼻の先端などから始まり、普通、数週間から数年かかる。できあがったミイラは、乾燥した状態で保管されると、そのままの形で長く原形を保つ。生前の損傷や索溝がよく残るため、紀元前十七世紀のミイラについてさえ、どのような凶器で加害されたかが調べられた例もある。古代エジプトやインカなどでは人工的なミイラ化が盛んに行なわれた。エジプトでは紀元前二千六百年頃から、キリスト教時代に至るまで続けられた。これは、来世において霊魂の宿るべき肉体が必要であるとする信仰に基づくもので、この信仰はエジプト・インカ・オセアニアなどに共通している。普通、脳髄と胃腸は除かれたが、心臓と腎臓はそのままで、体腔に樹脂・大鋸屑(おがくず)などを詰め、体全体を天然炭酸ソーダで覆って乾燥させ、洗浄・塗油の後、鼻などの突出した部分の保存に特別の注意を払いつつ、亜麻布で覆った。この作業に約七十日かかったという記録がある。ミイラ製作は古代から、エジプトの他にもアフリカ・南北アメリカ・オーストラリアなど各地の民族の間で認められおり、中国では広東省南華寺のミイラが、日本では岩手県中尊寺の藤原清衡以下四代のミイラが知られている。なお、一言言っておくと、屍蠟(しろう)をミイラの一種と勘違いしている人がいるが、それは誤りで、永久死体の一形態という点では同じであるが、こちらは低温環境で、しかも水や泥や泥炭などによって遺体が外気と長期間に亙って遮断された結果、腐敗菌が繁殖せずに腐敗を免れ、遺体内部の脂肪分が変性し、死体全体が蠟状若しくは堅めのチーズ状になったものを指す。則ち、ミイラとは異なり、乾燥した環境ではなく、極度に湿潤で気温が低い場所で生成されるものである。

「物類品隲」平賀源内撰で、宝暦一三(一七六三)年に刊行された新時代の博物書である。源内の現代の科学史上での業績の中でも主著とされているもの。源内が江戸湯島で開催した「物産会」(前年の宝暦十二年五月頃に源内主催で行われ、一千点以上の物品が公開された)の総集編とも言うべき著作で、水・土・鉱物・動植物などを対象に、広く薬用となるものを採り上げ、図版等を付し、それぞれに簡単な説明を加えたもの(以上は主に「京都外国語大学図書館」公式サイト内のこちらの解説に拠った)。「騭」は「持ち上げる」意で、「対象物品の質を評価して示す」という意味か。以下は、巻四の「木部」の「質汗」(国立国会図書館デジタルコレクションの原本の当該画像)で(読み易く書き換えた)、

   *

質汗 和名「ミイラ」。先輩、「木乃伊」を「ミイラ」とするは非なり。藏器曰はく、『質汗、西番に出づ。檉乳・松淚・甘草・地黃、并びに熱血を煎じ、之れを成す。番人、藥を試みるに、小兒を以つて、一足を斷ち、藥を以つて口中に納め、足を將(い)れ、之れを蹋(ふ)み、當時、能く走る者の、良なり』と云ふもの、卽ち、「ミイラ」なり。

   *

「藏器曰」以下は、時珍の「本草綱目」巻三十四の「木之一」の「質汗」からの引用である。「西番」は西蕃(西域の蛮族)に同じ。以下の「番」も同じ。「檉乳」は落葉小高木のナデシコ目ギョリュウ(御柳・檉柳)科ギョリュウ属ギョリュウ Tamarix chinensis から採取した樹脂。「松淚」松脂であろう。「熱血」は不詳。生きた動物から採取した血液か。にしても、後に続くそれは、いかにも恐るべき乱暴な治験である。これは香や薬物として古くから知られた「没薬(もつやく)」、ムクロジ目カンラン科コンミフォラ(ミルラノキ)属 Commiphora の樹木から分泌される赤褐色の植物性ゴム樹脂「ミルラ」(Myrrh)の附衍的な解釈説明であろう。ミルラは古代エジプトのミイラ製造に於いて、遺体の防腐処理のために使用されていたことが知られ、そもそも「ミイラ」の語源は、この「ミルラ」から来ているという説もある。源内は薬物としての「ミルラ」と、遺体変成(人工的処理も含む)としての「木乃伊(ミイラ)」を同一でないと言っているのである。

「新野邨」向山氏の補註に、『現、長野県下伊那郡阿南町新野』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。今まで登場した信濃地区では、最も南に位置する。

『死人〔しびと〕の朽敗せざるあり。その姓名・履歷は知れる人、なし。たゞ「行者〔ぎやうじや〕」となん、呼來〔よびきた〕れり』「阿南町役場」公式サイト内の「生きながらにしてミイラ(即身仏)になった(新野)」に写真入りで、『新野の行人様(ぎょうにんさま)は、本名を久保田彦左衛門(くぼた・ひこざえもん)といい、今から約』三百七十『年前の生まれで、怪力で背丈が』六『尺ほど』(約一・八〇メートル)『の大男でした。真面目な男でしたので、多くの人に親しまれておりましたが、あるとき、山にまきを取りに行った留守中に家が火事になり、一瞬にして最愛の妻と子どもを失いました。深い悲しみに暮れ、この世の無常を感じた彦左衛門は神仏の力にすがることを思いつき、修行僧となり、厳しい諸国巡業の旅を』十七『年間続けました。新野に帰って来て妻と子どもの』十七『回忌を済ませると、瑞光院の裏山にある新栄山を最後の修行の場として、山頂に石室を作り、その中で念仏を唱えて自ら断食死して即身仏(ミイラ)となりました』。貞享四(一六八七)年『のことでした』と、時制も氏名も明記されてある。場所はここ。本書が書かれたのは、文政一二(一八二九)年である。現在、かくも口碑が伝わっているにも拘わらず、そうしたものをろくに採取もせずに、「どこの馬の骨とも判らぬ」的な物言いをする元恒が、やはり、私は大嫌いである。

「越後弘智法印」新潟県長岡市寺泊野積(のづみ)にある真言宗海雲院西生寺にある、日本最古の即身仏として知られる僧。公式サイトの説明によれば、現在、』『全国に約』二十四『体の即身仏がお祀りされてい』るが、『そのほとんどの即身仏が江戸時代以降に修行された行者』のもので、それに対し、『唯一、弘智法印即身仏だけが江戸時代からさらに』三百『年さかのぼった鎌倉時代の即身仏で、今から約』六百四十『年前のものとされてい』るとある。弘智法印の詳しい事績はリンク先を見られたいが、生まれは千葉県八日市場市(現在の匝瑳(そうさ)市)で、入定は貞治二(一三六三)年十月二日とある(入定自体は南北朝時代)。

「東奥紀行」(とうおうきこう)は江戸中期の地理学者・漢学者であった長久保赤水(せきすい 享保二(一七一七)年~享和元(一八〇一)年:本名は玄珠。赤水は号。常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。自身は農民出身であったが、遠祖は大友親頼の三男長久保親政で、現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる)著。宝暦一〇(一七六〇)年に水戸を出発し、塩釜・松島から奥羽・北陸を廻った際の紀行文。地誌的資料として優れる。寛政四(一七九二)年の刊本が早稲田大学図書館「古典総合データベース」で視認できるPDF・漢文体)。その30コマ目の「北越七奇探るの記」に、『六日。即身佛、三島郡野積村最上寺に在り』(傍線と寺名は原文のママ)とある。

「北越奇談」私の「北越奇談 巻之六 人物 其三(僧 良寛 他)」を参照されたい。なお、「奥の細道」には記されていないが、「曾良随行日記」によって、芭蕉も拝観していることが判る。私の『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 57 出雲崎 荒海や佐渡によこたふ天河』の私の注を見られたい。

「諏訪の芹澤」次の寺から長野県茅野市北山芹ケ沢のことであることが判った。

「泉澁院」上の地図を拡大されたい。但し、そのミイラ化したものと思われるそれは現存しない模様である。

「南留別志」荻生徂徠が書いた考証随筆。宝暦一二(一七六二)年刊。元文元(一七三六)年「可成談」という書名で刊行されたが、遺漏の多い偽版であったため、改名した校刊本が出版された。題名は各条末に推量表現「なるべし」を用いていることによる。四百余の事物の名称について、語源・転訛・漢字の訓などを記したもの。

「職方外紀」世界地理書。著者はイタリア人のイエズス会宣教師で、明代に活躍したアレーニ(Giulio Aleni 一五八二年~一六四九年)中国名・艾儒略(がいじゅりゃく))。一六二三年に漢文で著された地理図誌で、かの同じイタリア人イエズス会員でカトリック教会司祭マテオ・リッチ(Matteo Ricci 一五五二年~一六一〇年:中国名・利瑪竇(りまとう))の「万国図志」に基づいて増補したものとされる。全五巻で、巻一はアジア、巻二はヨーロッパ、巻三はアフリカ、巻四はアメリカ及びメガラニカ(当時、南方にあると考えられていた大陸。探検家マゼランにちなむ名称)、巻五は海洋に関する内容となっている。李之藻(りしそう)編「天学初函」(一六二八年刊)理編に収められており、キリスト教禁教の関係から江戸時代に印刷されることこそなかったが、多数の写本が残っており、江戸時代の世界地理学に大きな影響を及ぼした著作である。以下は、早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらで原本が見られPDF)、その巻二の「西北海諸島」の項に(72コマ目から73コマ目にかけて)、

   *

近有一地死者不殮但移其尸於山千歲不朽子孫無能認識地

   *

とある。「無」は「亠」に「灬」であるが。「無」でよいかどうかは判らない。「不殮」は「葬らず」の意。場所がよく判らないが、スイスのような氷河地形の氷河が残っている地帯ならば、これは腑に落ちる。

「采覽異言」新井白石が、宝永五(一七〇八)年に布教のために潜入して捕縛されたイタリア人宣教師ジョバンニ・シドッチ(Giovanni Battista Sidotti 一六六八年~正徳四年十月二十一日(一七一四年十一月二十七日)はを尋問して得た知識などを基に著わされた日本最初の組織的な世界地理書。マテオ・リッチの「坤輿万国全図」や、オランダ製世界地図等、多くの資料を用い、 各州・名国の地理を説明しながら、所説に典拠を明らかにしている。全巻を通じて、世界各地の地名その他の地理的称呼は、マテオ・リッチの漢訳にならっており、「欧羅巴(エウロパ)」(ヨーロッパ・巻之一)・「利非亜(リビア)」(アフリカ・巻之二)・「亜細亜(アジア)」(巻之三上下)・「南亜墨利加(ソイデアメリカ)」(南アメリカ・巻之四)・「北亜墨利加(ノオルトアメリカ)」(北アメリカ・巻之五)の順に、整然と分類された世界各国の地理が漢文で書かれている。正徳三(一七一三)年の成稿であるが、その後も加筆が続けられ、享保一〇(一七二五)年に最終的に完成した(以上はウィキの「采覧異言」に拠った)。

「臥兒狼德」底本は編者のルビで『くるうんらんじや』とあるが、私は以下に電子化した「采覧異言」に載る表記をひらがなにして使用した。これは北アメリカ大陸の北東部にある世界最大の島でデンマーク領であるグリーンランドを指す。「采覧異言」には(国立国会図書館デジタルコレクションの明一四(一八八一)年白石社刊の活字本の当該条を視認した。但し、誤植と思われる部分が複数個所あり、それは別に早稲田大学図書館「古典総合データベース」の文政三(一八二〇)年の写本PDF)で確認(27コマ目)、補正した)、

   *

グルウンランデヤ

  臥兒狼德【又作臥蘭的亞。】

 地最荒濶。南阻二歐邏巴北海一。北接㆓亞墨利加北界一。東西不ㇾ知其所一ㇾ極也。地氣寒凍。不ㇾ生人物。和蘭人。時逐海鯨。到ㇾ此而捕ㇾ之云。【和蘭人說。[やぶちゃん注:中略。鯨・ウニコル(イッカクのこと)などの話が載る。]古老相傳。昔本國人。踰ㇾ海[やぶちゃん注:「海を踰(こ)えて」。]止ㇾ此。衣糧屋具。凡可ㇾ禦ㇾ寒之物。無ㇾ不ㇾ備。明年有ㇾ人到ㇾ此。見其坐者坐死。臥者臥死。無ㇾ有一人活者。屍如乾脯。不ㇾ腐不ㇾ爛。土氣寒凍。若ㇾ此之甚。[やぶちゃん注:後略。]】

   *

「蠶〔かひこ〕の中に殭蠶〔きやうさん〕の生ずる類〔たぎひ〕」まず、私の「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 蠶」に目を通された上で、次の項である「和漢三才圖會卷第五十二 蟲部 白殭蠶」を読まれたい。そこで私はまさにこの「白殭蠶」というカイコの病変現象を自分なりに追跡しているからである。

「萬國新話」医者で戯作者・蘭学者でもあった森島中良(ちゅうりょう 宝暦六(一七五六)年?~文化七(一八一〇)年)の書いた世界地誌の蘭学書。寛政元(一七八九)年刊。彼は平賀源内の門人で、文体も源内のそれに酷似させたことから「平賀風(ひらがぶり)」とまで呼ばれた。以上は、巻之一の「石に化したる人の話」(原本目次の表記)と思われるが(早稲田大学図書館「古典総合データベース」のこちらの原本の巻之一PDF)の19コマ目から20コマ目)、それを読む(本文は「石人」)と、「納多理亞」という国(不詳。中近東らしい)の山中から石に化した人が出てきたと始まり、最後で『越後の國にある所の弘智法印も石人の一種なるべし』と言っているだけで、元恒の言っていることと同説なんぞではない。見当違いも甚だしい。

『「行力〔ぎやくりき〕にて、かくありし」などいふは拙〔つたな〕し』見えてきたね、排仏君元恒!

「紅毛雜話」先の森島中良の随筆。寛政八(一七九六)年刊。その巻二の「木乃伊」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF)の141516コマ目(図入り)で視認出来る。

「義好」不詳。

「和漢太平廣記」藤井懶斎著の随筆「閑際筆記 和漢太平廣記」。正徳五(一七一五)年序。刊本を持たず、ネットの画像で縦覧したが、発見出来なかった。悪しからず。

「西京雜記」(せいけいざっき)は前漢の出来事に関する逸話を集めた書物で、著者は晋の葛洪ともされるが、明らかでなく、その内容の多くは史実とは考えにくく、小説と呼ぶべきものに近い。

「魏王子且渠家無棺槨但有石牀廣六尺長一丈石屛風牀下悉是雲母牀上兩屍一男一女皆年二十許俱東首裸臥顏色如生人又幽王家百餘屍縱橫枕籍皆不朽唯一男子餘皆女子」国立国会図書館デジタルコレクションの元祿三(一六九〇)年刊の版本の当該部(左頁四行目から)を見て(訓点が雑で殆んど役に立たない)訓読(読みは私が添えた)してみる。

   *

魏王子且渠(かつきよ)が家、棺槨、無く、但だ、石牀(せきしやう)の、廣さ六尺、長(た)け一丈なる石屛風、有り。牀の下、悉く、是れ、雲母たり。牀の上に兩屍あり、一男一女。皆、年二十許り、俱に東に首(かうべ)して、裸にて臥す。[やぶちゃん注:原文ではここに、「衣・衾、無く、肌膚(ひふ)のまま」と読むべきかの一節がある。]顏の色、生ける人のごとし。[やぶちゃん注:以下、中略されている。画像を見られたい。再開は次の頁の六行目からである。]又、幽王の家、[やぶちゃん注:有意な中略有り。]百餘りの屍、縱橫して、相ひ[やぶちゃん注:原文で補った。]枕して、籍(せき)す[やぶちゃん注:整然と並んでいるという意か。]。皆、朽ちず。唯だ一男子のみに、餘りは皆、女子たり。[やぶちゃん注:下略されている。]

   *

「皇朝類苑」南宋の一一四五年に江少虞が編した類書(百科事典)。

「倦遊雜錄」宋の張師正(一〇一六年~?)撰の小説集。

「華嶽張起谷岩石下有僵尸直髮皆完」無理矢理、訓読すると、『華嶽の張起谷の岩石の下、僵尸(きやうし)有り。直髮にして、皆、完(まつた)し』。私の世代あたりは、一発で「殭屍」、広東語音写「キョンシー」と読み換えられる。中国の死体妖怪の一種で、死後硬直した死体であるにも拘わらず、長い年月を経ても腐乱せず、動き回ることで知られる。個人的には非常に古い民俗社会の考え方で、人体は魂魄の入れ物に過ぎず、死体には邪悪な気が入り込みやすいとするものがルーツと思う。

『關氏が著せる「發墳志」』上野(こうずけ:群馬県)伊勢崎藩家老の関重嶷(せきしげたか 宝暦六(一七五六)年~天保七(一八三七)年:地誌執筆(「伊勢崎風土記」)や自然災害記録(天明三(一七八三)年の浅間山噴火記録「沙降記」)及び古墳発掘調査などで知られ、史学にも精通した)が著した「発墳暦」(はっぷんれき)のことであろう。

「上州茂呂村」群馬県伊勢崎市茂呂町(もろまち)

「越後津川玉泉寺」新潟県東蒲原郡阿賀町(あがまち)津川に現存する。

「淳海上人」寛永一三(一六三六)年の入定であるが、明治一三(一八八〇)に火災で消失しており、現在は遺骨だけが安置されている。玉泉寺は真言宗で淳海上人は「火除け」にご利益があるとされて信仰されていたという。寛永十三年九月入寂で、七十八歳であった。サイト「即身仏のページ」の「第四章 思想背景ごとにみた即身仏 湯殿山系」の「淳海上人」によれば、高野山の偏照光院で慶長六(一六〇一)年八月に伝法灌頂を受けという。『淳海上人の特徴として、土中入定をしていない点と』、『堂に安置されたという点があげられ』、『これらの特徴は平安時代の初期即身仏や高野山系即身仏と共通するものであ』り、『淳海上人の安置される寺の親戚筋の寺院のすぐ近くに弘智法院の西生寺があること、高野山と湯殿山両方で修行したことなどから、淳海上人が近畿から東北へと即身仏信仰を伝播させた役割を果たしたものとみられる』とある。

 正直、私は即身成仏には一種の真正の異常性欲としてのマゾヒズムを感じ、全く、興味がない。寧ろ、それに直前に失敗した人間らしい僧にこそ惹かれる。それは、例えば、定小幡宗左衞門の定より出てふたゝび世に交はりし事 附やぶちゃん訳注その他を見れば判る。悪しからず。お休みなませ――]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 晩秋

 

  晚   秋

 

神無月、下浣(すゑ)の七日(しちにち)、

病(や)ましげに落日(いりひ)黃ばみて

晚秋(ばんしう)の乾風(からかぜ)光り、

百舌(もず)啼かず、木の葉沈まず、

空高き柿の上枝(ほづえ)を

實はひとつ赤く落ちたり。

刹那(せつな)、野を北へ人靈(ひとだま)、

鉦(かね)うちぬ、遠く死の歌。

君死にき、かかる夕(ゆふべ)に。

三十九年五月

 

[やぶちゃん注:一行目は、「下浣」は「かくわん(かかん)」(「げかん」とも読む)で「下澣」とも書き、毎月の二十日以後の当該月の下旬を指す。従って、これは十月二十七日を指示する。但し、これは最後に登場するかのように見える「かかる夕」べ「に」「死」んだ「君」という具体な特定の誰かを指すものではないようである(当時までの白秋の関係者にこの忌日を確認出来ない)。則ち、この導入の一行自体が「晩秋」という絵に最初の放たれた一筆であって、「神無月」(神のいない月)「下浣(すゑ)」(末世)「の七日」(終末期・仏教の地獄の審判の「七」を含む月の最後)という心理的に閉塞された条件が成形されたと言ってもよいのである。そうした観点から見ると、この一篇は一行読み進めるごとに驚くべき重層性で我々を晩秋の奈落に引きずり込んでゆくのである。]

Bannsyu1

北原白秋 邪宗門 正規表現版 凋落

 

 凋   落

 

寂光土(じやくくわうど)、はたや、墳塋(おくつき)、

夕暮(ゆふぐれ)の古き牧場(まきば)は

なごやかに光黃ばみて

うつらちる楡(にれ)の落葉(らくえふ)、

そこ、かしこ。――暮秋(ぼしう)の大日(おほひ)

あかあかと海に沈めば、

凋落(てうらく)の市(いち)に鐘鳴り、

絡繹(らくえき)と寺門(じもん)をいづる

老若(らうにやく)の力(ちから)なき顏、

あるはみな靑き旗垂れ

灰濁(はひだ)める水路(すゐろ)の靄に

寂寞(じやくまく)と繫(かか)る猪木舟(ちよきぶね)、

店々の裝飾(かざり)まばらに、

甃石(いしだたみ)ちらほら軋る

空(から)ぐるま、寒き石橋。――

鈍(にぶ)き眼(め)に頭(かしら)もたげて

黃牛(あめうし)よ、汝(な)はなにおもふ。

三十九年八月

 

[やぶちゃん注:「絡繹(らくえき)と」人馬の往来などが、絶え間なく続くさま。

「猪木舟(ちよきぶね)」現代仮名遣「ちょきぶね」の「ちょき」は「猪牙」と書くのが一般的。舳先が細長く尖って、猪の牙のように見える、屋根無しの小さな舟の名称。主に江戸市中の河川で盛んに使われたが、浅草山谷(さんや)にあった吉原遊廓に通う遊客が、これをよく使ったため、「山谷舟」とも呼ばれた。長さが約三十尺(九・〇九メートル)、幅四尺六寸(一・三九メートル)と細長く、また、船底を絞ってあるため、左右に揺れやすい欠点があるが、逆に櫓で漕ぐ際の推進力が十分に発揮され、速度が速く、狭い河川でも動き易く、特に小回りが利いた。参考にしたウィキの「猪牙舟」によれば、『語源は、明暦年間に押送船の船頭・長吉が考案した「長吉船」という名前に、形が猪の牙に似ていることとをかけて猪牙と書くようになったという説』『と、小早いことをチョロ・チョキということからつけられたとする説』の二つがある、とある。

「黃牛(あめうし)」「あめうじ」とも呼んだ。飴色或いは黄色の毛色の牛で、古くは神聖にして立派な牛として貴ばれたというのが辞書的解説であるが、飴色の「あめ」とは「雨」で、大陸では雨乞いの際、天空の神に神聖な黄色の牛を生贄として捧げたことに由来するようである。]

2020/11/17

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 三婦人

 

 三婦人

 元文の比、本鄕の里に「きよ」・「龜」とて、二人の女〔をみな〕、ありける。いかなる人にか學ひけん、歌よみ習〔ならひ〕てけり。ある時、西岸寺といふ古刹の前に、二人して櫻を詠〔なが〕め、歌よみて樂〔たのし〕み居〔をり〕けるに、七久保村にも、「さん女〔ぢよ〕」とて、是も同じく、歌、讀〔よみ〕けるが、その事を傳へ聞〔きき〕て、二人の許ヘ、一首を贈りける。

  色も香も盛りと聞し花にまた

     こと葉の花のいろも添ふらん

                 さん女

 二人、直〔ぢき〕に、返歌、遣しける。

  吹風に散らはをしけんさくら花

     はや來て見ませ咲のさかりを

                 淸 女

  もろともに見てそ嬉しき此寺の

     はなのむしろにこよまとゐせん

                 龜 女

 それより、さん女、肴〔さかな〕などものして、尋〔たづね〕ゆき、終日〔ひもすがら〕、三人して、興じけるとなり。

 後に、また、「源氏」の題にて、三人、歌よみ、「源氏三枕〔みつまくら〕」となん、名づけて、今の世迄も傳へり。

 むかし、王德の盛〔さかり〕に在〔ま〕せし御時〔おほんとき〕、文華〔ぶんくわ〕行はれけるに、婦人の文才ありしは、稀なり。

 一條天皇の御時に、「朕〔ちん〕が人才を得し事は、前朝に恥かしからず」と誇らせ給ひしと聞ゆる御代にも、淸少納言・赤染右衞門等、わづかに、六、七人に過〔すぎ〕ざりき。まいて水篶〔みすず〕かる信濃の山深き里は、その頃までも、士君子の外は、男子さへ物知り、うたよむ事、まれなりし【「春湊浪語〔しゆんさうらうご〕」に載する、木曾義仲が男〔だん〕義高が、歌、讀〔よみ〕けるよし。また、近き頃、飯田城主脇坂侯、歌よみ給へる、名こそ、高けれ。もとより、武門高貴の御方は斯〔かく〕もありなん。いかで、農婦に、その技倆ある事、望〔のぞま〕んや。】

 今や、文華行はるゝ目出度〔めでたき〕昇平〔しようへい〕の御代にあたりて、かゝる邊鄙〔へんぴ〕の賤しき婦人まで、かゝる樣〔さま〕ありしも、いとめづらし。

 さん女は、殊に貧しく、すこしの店をひらき、往來の人に茶・酒など賣〔うり〕て業〔なりはひ〕としたりとなん。

 

[やぶちゃん注:和歌は手を加えずに表記したが、ブラウザでの不具合を考え、下句を分離させて示した。

「元文の比」一七三六年から一七四一年まで。徳川吉宗の治世。

「本鄕の里」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡飯島町本郷』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「きよ」向山氏の補註に、『河野清女(一七一〇-一七八八)、飯島村杉屋宮下七郎左衛門の女、河野太兵衛の妻。飯田の国学者依田梅山に師事、白隠禅師について禅を学ぶ』とある。サイト「箕輪町誌のデジタルブック 歴史編」の「箕輪町誌(歴史編)」の「第二節 和歌」によれば(デジタルブックで校合した)、

   《引用開始》

 『伊那歌道史』によると、依田梅山は天和元年(一六八一)江戸詰高遠藩士依田清大夫正伸の嫡男として生まれ、幼名は竹松、後に源之進または大沖(たいちゅう)といった。壮年のころ、建部丹波守に仕え、寺社用人として十人扶持を給せられたが、建部の死去を機に浪人の身の上となり、たまたま飯田藩士高沢丹下がその甥である縁故をたよって飯田に来て、元文・寛保のころ飯田知久町に仮寓して、近隣の志あるものに国学・和歌を教授した。また、高遠や飯島などへ招かれ、ようやくこの地にも和歌がゆきわたる機運になった。その門下に大出の井沢正恰(まさよし)がいた。このころ、依田梅山などのように諸国を巡歴して語学技芸を教え、ひいては、農村への文化普及をうながした人々の中に法印歌人鳳鳥がおり、「箕輪といえる里へあやしき法印の笈(おい)かけてさすらへ来れるあり、いずこよりいかなる人にやと尋ねけるに都方のものなり。西国三十三ヶ所の観世音を拝みめぐり、なほ当国善光寺へ志し来れりと。名は鳳鳥ときこゆけれどまことはあかさず。井沢なにがしの家にとどまりて、家の娘に琴など教へ(後略)」と飯田の福住世貞によって書き残されているので、箕輪町では、和歌はこのころからはじまったと思われる。

   《引用終了》

とある人物である。

「龜」向山氏の補註に、『桃沢亀(一七一一-一七五七)、片桐村松村理兵衛の女、桃沢喜左衛門の妻、歌人桃沢夢宅は』、『その子である。依田梅山に師事、白隠禅師について禅を学ぶ』とある。「片桐村」は飯島町本郷の南の直近の上伊那郡中川村片桐であろう。

「西岸寺」飯島町本郷に現存する。臨済宗。まさにこの三人所縁の桜が現存する。サイト「巨樹と花のページ」の「伊那三女ゆかりの桜」によれば、幹周三・八〇メートル、樹高七メートルで、樹齢は四百年とある(写真有り)。

「七久保村」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡飯島村七久保』とある。現在は上伊那郡飯島町七久保。前の飯島町本郷と飯島町片桐の西に当たり、同地区の西部の大半はこの地区の木曾山脈の東側の一部を成す。

「さん女」向山氏の補註に、『那須野さん(一七〇五-一七五八)』とされ、『三十四歳のとき夫に死別、金鳳寺(現、長野県伊那市富県)の住職鉄文禅師につき』、『悟の境にいたり、後』、『鉄文の命をうけ』、『宝暦二年』(一七五二年)に『駿河国原宿に白隠禅師を尋ねている。依田梅山に師事。その女が上原氏に嫁したため』(再嫁ということであろう)、『上原さん』、『とも伝えている』とある。伊那市富県の金鳳寺はここに現存する。

○以下、三人の歌を整序して示す。「さん女〔ぢよ〕」の一首。

 

 色も香も

   盛りと聞きし

  花にまた

    言葉(ことば)の花の

     色(いろ)も添ふらん

 

次に「淸女〔きよぢよ〕」の一首。

 

 吹く風に散らば

   惜(を)しけん

  櫻花

    はや來て見ませ

        咲きの盛りを

 

次に「龜女〔かめぢよ〕」の一首。

 

 諸共(もろとも)に

     見てぞ嬉しき

    此の寺の

     花(はな)の莚(むしろ)に

      來(こ)よ團居(まどゐ)せん

 

龜女の歌の「まどゐせん」とは、「三人で車座(くるまざ)になり、楽しみましょう」という誘いである。

「源氏三枕」向山氏の補註に、『源氏物語についておのおの百首の歌を詠み、依田梅山が選をしたもの。さん女四十六首、かめ女三十五首、きよ女三十五首がとられている。延享二(一七四五)年の成立』とある。

「文華」華麗な詩文作品。

「水篶〔みすず〕かる信濃」「水篶〔みすず〕かる」は信濃の枕詞(但し、近世以降)。「いはな」の私の注を参照。

「春湊浪語」江戸後期の土肥経平の考証随筆。以下は、下巻(巻之八)の冒頭にある「志水冠者」。ネット開始直後からお世話になっている個人サイトTaiju's Notebook」の「日本古典文学テキスト」の同書の縦書電子化から引用させて戴く。一部の漢字を正字化し、読点と推定の読みを歴史的仮名遣で追加した。

   《引用開始》

志水冠者

木曾義仲の嫡子志水冠者義高、鎌倉へ參るとて木曾を旅立(たびだち)けるに、母や、めのとに、「我、かへりまいらん[やぶちゃん注:サイト主による原本のママ表記がある。]程の形見」とて、七番の笠懸(かさがけ)を射てみせて、打立(うちたち)ける。其旅中にて、志水冠者、

 

  はやきつる道の草葉や枯(かれ)ぬらん

     あまりこがれて物を思へば

 

 供に有(あり)ける海野小太郞幸氏(ゆきうじ)、かへし、

 

  思ひには道の草葉のよも枯(かれ)じ

     淚の雨のつねにそゝげば

 

 とよみし。此時、志水冠者も幸氏も、共に十一歳なりし事、「源平盛衰記」にみへたり。志水冠者、かゝる年のほどにて、我家のわざながら、作法ある笠懸を射覺え、和歌を翫(もてあそ)ぶ事などの、かく有(あり)しこと、あながちに[やぶちゃん注:サイト主によって『原文「あながらに」』を訂した旨の割注がある。])田舍び、かたくなならん父の傍(かたはら)にて生立(おひいで)たる男兒も、仕る童(わらはべ)[やぶちゃん注:幸氏を指す。彼は義高の脱出の際には彼に変装して発覚を遅らせた。後に頼朝から忠臣として評価され、幕府に士官させている。]も、いかで、かゝるやさしき翫ごとの有(ある)べき。是等にておもへば、義仲のひがみ、かたくななることを、「平家物語」等に無下(むげ)に書(かき)たれども、さまでは、なかりけるならん。是は平家都落の跡へ、義仲、入(いれ)かはりて、法皇御所法住寺殿を攻破(せめやぶ)り、關白松殿(まつどの)の姬君を、押(おし)て妻とせし類(たぐひ)の暴逆の甚しかりければ、堂上(だうしやう)・地下(ぢげ)より下(しも)ざまに至り、あくまで木曾を惡(にく)みて、ことごと敷(しく)しるせしにぞ。志水冠者も、年を經ず、鎌倉にて、右大將家の爲(ため)に殺されし。いとおしくも[やぶちゃん注:サイト主による原本のママ表記がある。]、あはれにもある事なり。

   《引用終了》

私は大の義高のファンである。何度も常楽寺裏の荒れ果てた塚に墓参りもした。彼については幾つも書いているが、ここは「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」をリンクさせるに留めよう。

「飯田城主脇坂侯」安土桃山から江戸前期にかけての大名で歌人。伊予国大洲藩二代藩主、後に信濃国飯田藩初代藩主となった脇坂安元(天正一二(一五八四)年~承応二(一六五四)年)。生前当時から武家第一の歌人とされた教養人であり、和漢書籍数千巻を蔵し、著作も多い。儒学をかの林羅山に学んだが、逆に、安元が羅山に歌道を教えるという師弟関係にもあった。詳しくは参照したウィキの「脇坂安元」を見られたい。

「昇平」世の中が平和でよく治まっていること。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 砂道

 

  砂   道

 

日の眞晝(まひる)、ひとり、懶(ものう)く

眞白なる砂道(さだう)を步む。

市(いち)遠く赤き旗見ゆ、

風もなし。荒蕪地(かうぶち)つづき、

廢(すた)れ立つ礎(いしずゑ)燃(も)えて

烈々(れつれつ)と煉瓦(れんぐわ)の火氣(くわき)に

爛(ただ)れたる果實(くわじつ)のにほひ

そことなく漂(ただよ)ひ濕(しめ)る。

 

數百步、娑婆(しやば)に音なし。

 

ふと、空に苦熱(くねつ)のうなり、

見あぐれば、名しらぬ大樹(たいじゆ)

千萬(ちよろづ)の羽音(はおと)に糜(しら)け、

鈴狀(すずなり)に熟(う)るる火の粒

潤(しめ)やかに甘き乳(ち)しぶく。

樂欲(げうよく)の渴(かわき)たちまち

かのわかき接吻(くちつけ)思ひ、

目ぞ暈(くら)む。

 

     眞夏の原に

眞白(ましろ)なる砂道(さだう)とぎれて

また續く恐怖(おそれ)の日なか、

寂(せき)として過(よ)ぎる人なし。

三十九年八月

 

[やぶちゃん注:最終連は、読みを排除すると、

   *

     眞夏の原に

眞白なる砂道とぎれて

また續く恐怖の日なか、

寂として過ぎる人なし。

   *

と、文字列が下で並んで、視覚上でもコーダとなっていることが判る。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 微笑

 

  微   笑

 

朧月(ろうげつ)か、眩(まば)ゆきばかり

髮むすび紅(あか)き帶して

あらはれぬ、春夜(しゆんや)の納屋(なや)に

いそいそと、あはれ、女子(をみなご)。

 

あかあかと据(す)ゑし蠟燭(らふそく)

薔薇(さうび)潮(さ)す片頰(かたほ)にほてり、

すずろけば夜霧(よぎり)火のごと、

いづこにか林檎(りんご)のあへぎ。

 

嗚呼(ああ)愉樂(ゆらく)、朱塗(しゆぬり)の樽(たる)の

差口(だぶす)拔き、酒つぐわかさ、

玻璃器(ぎやまん)に古酒(こしゆ)の薰香(かをりか)

なみなみと……遠く人ごゑ。

 

やや暫時(しばし)、瞳かがやき、

髮かしげ、微笑(ほほゑ)みながら

なに紅(あか)む、わかき女子(をみなご)。

母屋(もや)にまた、おこる歡語(さざめき)……

三十九年八月

 

[やぶちゃん注:本パート標題「古酒」は本詩に基づくものであろう。

「朧月(ろうげつ)」朧(おぼ)ろ月(づき)。

「差口(だぶす)」酒樽(さかだる)の栓。小学館「日本国語大辞典」に、「だぶそ」で見出しし、方言として、最初に「樽の栓」を挙げて、用例として『だぶそを抜く』として、採取地を山口県大島・高知県を示し、「だぶし」として対馬を、「だぶす」として高知県を例示している。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 玻璃罎

 

  玻 璃 罎

 

うすぐらき窖(あなぐら)のなか、

瓢狀(ひさごなり)、なにか湛(たた)へて、

十(とを)あまり圓(まろ)うならべる

夢(ゆめ)いろの薄(うす)ら玻璃罎(はりびん)。

 

靜(しづ)けさや、靄(もや)の古(ふる)びを

黃蠟(わうらふ)は燻(くゆ)りまどかに

照りあかる。吐息(といき)そこ、ここ、

哀樂(あいらく)のつめたきにほひ。

 

今(いま)しこそ、ゆめの歡樂(くわんらく)

降(ふ)りそそげ。生命(いのち)の脈(なみ)は

ゆらぎ、かつ、壁にちらほら

玻璃(はり)透(す)きぬ、赤(あか)き火の色。

三十九年八月

 

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 大蛇

 

 大蛇

 天正の頃、大かや村に、大蛇、住〔すみ〕けるよし聞えければ、高遠の藩士に井深九郞兵衞〔ゐぶかくろべゑ〕といへる人あり、

「打平〔うちたひらぐ〕べし。」

と、大刀〔だいたう〕提げて尋〔たづね〕ゆきけるに、叢〔くさむら〕の中に、眠居〔ねむりゐ〕たり。

 なんなく、首〔くび〕をうち落しければ、あな、おそろし、胴の動く響〔ひびき〕、地震〔ぢしん〕のごとし。

 其首、飛揚〔とびあが〕り、井深を目がけて追來〔をひきた〕る。

 井深は小澤〔をざは〕の阪〔さか〕まで逃行〔にげゆき〕しが、

『今は、かうぞ。』

と踏留〔ふみとどま〕り、身をひらきて切倒〔きりたふ〕し、其身も、そこに組死〔くみじに〕しけるが、漸〔やうやう〕いたはり、快復しけるとぞ、「新著聞集」に見へたり。

 今、按ずるに、梨木村に「大蛇洞」と唱ふる地あり。大かや村に近ければ、大蛇の住〔すみ〕しは、其地にや有〔あり〕けん。

 また、小平内記が、天龍川にて、大蛇切〔きり〕し事、「小平物語」に見ゆ。

 今も稀には、大蛇、出〔いづ〕る事あり。近きころ、松島および小河内の里人、深山に入〔いり〕て大蛇を見て、逃〔にげ〕かへりし者あり。

 我〔わが〕信州は、山より山の深ければ、かゝる非常の物も住〔すみ〕ける、と見えたり。いとおそろしき事どもなり。

 

[やぶちゃん注:「天正の頃」一五七三年から一五九二年。

「大かや村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市西箕輪大萱』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「藩士」これは江戸より前の話であって当時、「藩士」とは呼ばない。「高遠の城主の家士」辺りであるべきだろう。

「井深九郞兵衞」先に誰の家臣かを考証する。当時の初期の高遠城主は、武田信玄の実弟武田信廉、武田勝頼異母弟仁科盛信(信盛)。天正一〇(一五八二)年二月の織田信長の本格的な武田攻め(甲州征伐)で盛信は戦死し、城は落城、直後に武田氏は滅亡した。その後の信濃伊那郡は織田家臣毛利長秀が支配したが、織田氏時代の城主は不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかどうかさえ疑問視されている。同年六月に「本能寺の変」が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生する。上伊那郡にあっては、諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(現在の長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰したが、藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子の頼広とともに自害した。その後は徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年七月十五日までに高遠城を奪還しえいる。その後は家康方の保科正直保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方に寝返った小笠原貞慶が攻めたが、撃退されている(以上は主にウィキの「高遠城」を参考にした)。天正後期の戦乱の最中に大蛇退治もあるまいから、武田時代の話という設定であろうなどと思っていたが、以下に示す原拠(そこで『信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時』と始まる)から、保科正光(彼は後に初代高遠藩主となり、従五位下で肥後守を叙されているからである)の家士(という設定)であることが判明した。保科正光(永禄四(一五六一)年~寛永八(一六三一)年)は甲斐武田氏の元家臣で家康に寝返った保科正直(後述する)の長男として生まれ、天正十年の武田氏滅亡後は、武田勝頼の人質になっていたのを、井深重吉(後注する)によって救出され、家康に従い、高遠城を預かった。天正十二年の「小牧・長久手の戦い」や、天正十八年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東移封に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。天正十九年の「九戸政実の乱」の鎮圧にも参加し、天正二十年からの「文禄・慶長の役」においても家康に従って、肥前名護屋城に在陣した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、東軍に属して遠江浜松城を守備し、戦後二ヶ月ほどは越前北之庄城に城番して派遣されていたが、同年十一月に旧領に戻され、高遠藩二万五千石を立藩し初代高遠藩主となった(ここはウィキの「保科正光」に拠った)。父の保科正直(天文一一(一五四二)年~慶長六(一六〇一)年)についても簡単に述べておくと。信濃の国衆の一人で、もとは甲斐武田氏の家臣であったが、後に家康の家臣となった。天正一〇(一五八二)年の織田・徳川連合軍の「甲州征伐」に際しては、武田方として飯田城に籠城し、二月十四日に織田信忠による攻勢を受け、坂西織部亮・小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡し、そこで仁科盛信とともに籠城していたが、結局、高遠城を退去し、実弟内藤昌月(まさあき)を頼って、上野箕輪城へ逃れた。「本能寺の変」以後の「天正壬午の乱」にあっては、昌月とともに後北条氏に組みし、正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。しかし、その後、甲斐に於ける「黒駒合戦」で家康が優勢に経つと、依田信蕃・木曾義昌ら、他の信濃国衆とともに徳川方に転じた。北信濃を除く武田遺領を家康が確保すると、二万五千石を領した。天正一二(一五八四)年に「小牧・長久手の戦い」が起きると、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は、正直・諏訪頼忠・小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したものの、充分な戦果を上げられず、正直を抑えに残して撤退した。天正一三(一五八五)年には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る「上田城攻め」(第一次上田合戦)に従軍して活躍、その後、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となることで、力を伸ばした。天正一七(一五八九)年に秀吉が京都大仏を造営するに当たっては、家康の命で、富士山の木材伐採を務めている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。慶長六(一六〇一)年九月二十九日、高遠城で死去。享年六十であった(以上はウィキの「保科正直」に拠った)。さすれば、本篇の時制設定は天正(二十年まである)の十年以降の後半ということになる

 さて。問題は主人公である。先の記した正光を救った人物に保科家重臣であった井深茂右衛門重吉がいた。その子茂右衛門重光は高遠藩第二代藩主保科正之(第二代徳川幕府将軍徳川秀忠の四男で正光の養子となった)の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっており、他に参加を許されたのは山崎闇斎・吉川惟足・服部安休(森蘭丸の孫)など僅か七名であった。まずは、この保科家重臣の井深家の誰かであると考えるべきであろう。ウィキの「井深宅右衛門」(幕末から明治にかけての元会津藩士で地方官吏・教育者であった井深家の末裔)の「井深家」の項によれば、『室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により』、『主家の小笠原氏が出奔したため』、『隣接地の武田側領主である大日方氏に仲介を依頼して武田氏に従属した』とある。因みに、この井深家の末裔には、「SONY」の創業者の一人である井深大(まさる)もいる。

「小澤の阪」大萱の南方直近の長野県伊那市小沢であろうが、「阪」(坂)は判らぬが、貫流する小沢川の直近の左岸部分は丘陵地になっているから、そこへの登り口ということであろうか。

「今は、かうぞ。」「今は、これまで!」「最早、最期ぞ!」の意。

「新著聞集」俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勇烈篇第七」の「信州高遠大蛇を斬害す」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第七・八・九巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。踊り字「〱」は正字化した。標題には訓読文を添えた。

   *

 ○信州高遠斬害大蛇(信州高遠 大蛇を斬害(ざんがい)す)

信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時、伊奈郡(いなこをり[やぶちゃん注:ママ。])蓑輪の中、大茅原(かやはら)に、大蛇、幡居(わだかまり)けるよし、鷹匠頭井深九郞兵衞に、組下くみした)より告(つげ)ければ、「さるもの、見とゞけ置(をく[やぶちゃん注:ママ。])べし」とて、草むら深く、わけ入りしに、大蛇、眠(ねむ)り入り、劓(いびき)[やぶちゃん注:漢字はママ。これでは「鼻削ぎ」の刑である。]の音は、臼(うす)をひくがごとく、ちかぢかと忍びより、雜作(ざうさ)なく、首(くび)をうち落しければ、頸(くび)、たちまち、地にかぶりつき、胴のうごく事、地震(ぢしん)のごとくにて、切口(きりくち)より、白き氣(き)の立けるが、俄かに天かき曇り、雷電(らいでん)四方にひらめき、雨、大河をうつすがごとし。九郞兵衞も、『すはや、身の大事ぞ』とおもひ、急ぎ立かへり、小澤(こさは)の坂を下る所に、大虵(じや)、跡より、一さんに追かけ來れり。『今は、遁(のが)れじ』とおもひ、拔設(ぬきまうけ)たる刀を以て、ひらひて、切倒す。その身も絕死(ぜつじ)しけるを、人〻、あつまり、漸くに連(つれ)かへれり。百日ばかりやみて、快氣しけり。雨、晝(ひる)、やみ、間もなく、三日、ふりしかば、信州一國は洪水にて、所所、損亡せり[やぶちゃん注:ここはシークエンスが大蛇退治の直後に戻っている。]。晴(はれ)てのち、かの地に徃〔ゆき〕てみれば、頸(くび)は茅原(かやはら)にあり、胴は小澤にありし。見る人ごとに、身の毛竪(けよ)だちて、恐れり。

   *

「梨木村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市西箕輪梨木』とある。梨ノ木(なしのき)と表示する。ここ。地区の北西が経ヶ岳の山麓になっている。

『梨木村に「大蛇洞」と唱ふる地あり』確認出来ない。

『小平内記が、天龍川にて、大蛇切〔きり〕し事、「小平物語」に見ゆ』「小平物語」は「河童」で既出既注であるが、再掲する。向山氏の補註に『小平向右衛門』(慶長一〇(一六〇五)年~元禄(一六九六)年)『が、天文以来の甲信戦乱の有様や、その一族の動静を物語風に筆録したもの。向右衛門は』『兄、伊太夫の養子となり、長じて漆戸向右衛門正清と改め、江戸に出て幕府に仕え、致仕後、小河内(現、長野県上伊那郡箕輪町小河内)に住み、貞享三(一六八六)年』に『この物語を書』いたとある。本書が続編に含まれている信濃地誌「蕗原拾葉」の正編にこの「小平物語」は含まれており、幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている昭和一〇(一九三五)年長野県上伊那郡教育会編の「蕗原拾葉」第一輯のここから次のページにかけてで当該談を視認出来る。この話は、同書の「第三十一 天流川[やぶちゃん注:ママ。]由來柴太兵衞河童ヲ捕フル事 附タリ漆戶右門大蛇ヲ殺ス事」に含まれている。その部分だけを電子化しておく。原文は漢字・カタカナ・ひらがな交じりであるが、カタカナはひらがなに直し、さらに一部の助詞・助動詞相当の漢字をひらがなにして(対象さされば判る)、句読点・濁点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で附した。なお、既にお判りの通り、元恒の謂いには誤りがある。大蛇退治をしたのは漆戸右門(うるしどうもん)という武士であり、以下の最後にある通り、小平内記は漆戸の家の近くの住人であったというだけのことで登場しているに過ぎない。

   *

去る程に、「羽場の淵」[やぶちゃん注:先の「河童」の話の舞台。]より十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]計り河下に「同善淵」迚(とて)、凄冷敷(すさまじき)淵、水上(みなかみ)靑く、あたかも身の毛も悪寒するがごときなり。七月下旬、家士に鵜(う)を遣はせて、漆戶右門、見物して居(を)る處に、折節、小雨降り、鵜、一圓に進まず。兎角、河原へ飛上りける。家來共(ども)、言ふ、「淵の内に大木の樣なるもの見へ[やぶちゃん注:ママ。]候」と。鵜遣ひの者、陸(をか)へ上りければ、右門、怪敷(あやしく)思ふて、陸には、大炬火(おほたいまつ)を燈させ、自身も炬火をもち、鵜繩を取(とり)て、淵岸(ふちぎし)へ出(いで)、鵜を追入(おひいれ)けれども、是れにても、一圓、進まず。暴(にはか)に、風、吹き、漣(さざなみ)、頻りに打ち入るなり。右門、不思議におもひ、松明(たいまつ)を振り立て見れば、何とも知らず、獅子の頭(かしら)の如くなるに、兩眼、日月の如くにて、口をあき、沖の方より、右門を目懸け、間近く來りければ、左の手に松明をふり立て、二尺二寸の大脇差を拔きければ、口をあひて、掛りける處を、左の手に持ちたる松明串(たいまつぐし)を口え[やぶちゃん注:「へ」であろう。]火共(とも)に突込(つつこみ)ければ、水をはたき、淵、鳴動して、見へざるなり[やぶちゃん注:ママ。]。夫(それ)より、右門、下々(しもじも)、召し連れ歸りけり。明朝、彼(かの)淵を見れども、何事、なし。三里許り下(しも)の「眼田河原」[やぶちゃん注:頭書があり、『眼田河原は澤渡村下の河原を言(いふ)』とある。]といふ處に流れ上(あが)る。其の長さ十間[やぶちゃん注:十八メートル二十センチメートル弱。]計りの大蛇なり。鬣(たてがみ)[やぶちゃん注:鱗が逆立っていたものか。]の長さ四尺、左右に六本の牙、上下に四枚、牛の齒の如く小齒あり。首、半分、切れ、炬火串を嚙(かみ)、死(しし)たりける。「前代未聞の見物」と、貴賤、群集(ぐんじゆ)せり。扨、右門主從、蛇毒(じやどく)に當り、煩ひぬ。小平内記、上(かみ)[やぶちゃん注:昔。]、漆戶の家舗(やしき)より、六、七丁、河上なり。天正年中の事なり。

   *

「眼田河原」は恐らく伊那市西春近沢渡であろう。中央上部が羽場(同善淵の位置は確定できないが、個人的には記載の距離表示から、この辺りかな? と推定している)であるから、えらく川下に流されたものである。実測で二十キロメートル近く離れている。

「松島」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡箕輪町松島』とある。ここ

「小河内」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡箕輪町小河内』とある。ここ(これのみ「Yahoo!地図」)。]

2020/11/16

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 鸂鷘

 

 鸂鷘

 むかし、いづれの頃にや、貝沼の里に、一人の武夫〔ぶふ〕ありて、ある日、鸂鷘〔をしどり〕一つがひ居〔ゐ〕たるを見、弓もて、その雄鳥〔をどり〕を射取〔いとり〕けり。

 程經て後〔のち〕に、また、䳄鳥〔めどり〕を捕〔とらへ〕けるに、あな、あはれや、はじめに取〔とり〕ける雄鳥の首と見へて、翼の中に、いだきて、あり。

 「鸂鷘は、必〔かならず〕、かくあるものなり」と貝原翁の說にも見ゆ。

 彼〔かの〕武夫、是を見て、大〔おほき〕に感悟〔かんご〕し、弓矢、捨てゝ、僧となれり。後に一寺を建立す。今の鴛鴦山東光寺、是なり、といふ【おしどりは漢名「鸂鷘」なるを、本邦にては往古より「鴛鴦」の字をもちひ來れるなり。】。

 䳄鳥の讀〔よめ〕る歌とて、

 日暮なはいさとさそひし貝沼の

    眞菰かくれのをしのひとり寢

といひ傳ふるは、「著聞集」の、みちのくの國、「あかぬま」にて、おしとりの讀る歌に、

 日暮なはさそひしものをあかぬまの

    眞菰かくれのひとり寢そうき

といふを剽竊〔ひやうせつ〕したるなり。歌の樣〔さま〕も殊に拙〔つたな〕し。「沙石集〔させきしふ〕」および「故事因緣集」等に載〔のり〕たるを見れば、この歌の事、下野國、近江國などにも見えたり。たゞ「著聞集」を正說とすべし。貝沼の歌、とるに足らず。

[やぶちゃん注:以下、全体が二字下げでポイント落ち。原本にはない。全漢文なので、そのままに示す。]

〔元恒補註-成化六年十月淮安鹽城大湖漁人見鴛鴦交飛獲其雄享之䳄戀々飛鳴竟救沸湯中而死漁人悲其意爲弃羹不食人稱之曰列鴛〕

 

[やぶちゃん注:「鸂鷘」主文話柄中の舞台は日本であり、されば、これはカモ目カモ科オシドリ属オシドリ Aix galericulata としてよい。博物誌は私の「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鴛鴦(をしどり)」を見られたいが、実は良安は続けて「和漢三才圖會第四十一 水禽類 鸂𪄪(おほをしどり)〔オシドリの大型雌雄個体か〕」を別項立てしている。中国にオシドリ属の別種が絶対いないとも断定は出来ないが、私は本邦には同属別種はいないと思うので、特にそれを問題にしないでよい(寺島良安は標題に反して本草系の部分は「三才図会」ではなく、明の李時珍の「本草綱目」を基本として記しているために、このような二項立てとなってしまっているのだが、後者では良安自身が最後に『按ずるに、鸂𪄪【鴛鴦の類の大なる者。】未だ之れを見ず』と言い添えているぐらいで、しかも、その際にも私は調べてみたが、現在、鳥類学に於いて中国に本邦にいる上記オシドリ以外の種は認められてない、存在しないことになっている(向後、DNA解析等でどうなるかは判らぬが)。但し、ここで雰囲気をぶち壊すことは覚悟の上で言い添えておくと、オシドリは「おしどり夫婦」ではない。彼らは冬毎に、毎年、パートナーを替えるし、抱卵も雛を育てるのも総て♀のみが行い、♂が協力することはないのである。なお、この見かけない「鸂鷘」(「鸂」は音「ケイ」、「鷘」は「チョク」)という漢字であるが、個人ブログ「動植物の漢字―漢和辞典は正しいか」の『鳥の名の漢字(33)「鸂」』によれば、

「新字源」(角川書店)『鸂鷘(けいちょく)は、おしどりに似てやや大きく、美しい色彩のある水鳥。紫鴛鴦。』

「新漢語林」(大修館書店)『鸂鷘(ケイチョク)は鳥の名。むらさきおしどり。』

「漢辞海」(三省堂)『鸂鶒は、鴛鴦に似て紫色の水鳥。紫鴛鴦。』

「漢字源」(学研)『鸂鶒(ケイチョク)とは、水鳥の名。オシドリに似るが、やや大きい。羽は紫色。いつもカップルをなして水に浮かぶ。別名、紫鴛鴦シエンオウ。▽今名は未詳。一説では、カワアイサ、または、キンクロハジロに当てる。』

と引用された上で、以下のように考察されておられる(学名は斜体に代え、欧文の一部の前後に半角空けを施し、省略を示す「・」の三点は三点リーダに代えた。アラビア数字は半角に代えた)。

   《引用開始》

「おしどりに似た水鳥」で四辞典が一致。ただし新漢語林は「むらさきおしどり」とするが、こんな和名の鳥がいるのか疑問。漢辞海ではカワアイサまたはキンクロハジロの一説を付す。

鸂鶒(鷘)で一語。ただしもとは[式+鳥]の一語で、後に棲息場所を示す渓をかぶせ、鳥偏をつけて鸂鷘・鸂鶒・鸂䳵となったと思われる。鸂鶒は古典に頻出するが、いまだに正体が不明である。

『臨海異物志』(三国呉・沈瑩)に「鸂鶒は水鳥。毛、五色有り。短狐を食ふ。其の渓中に在れば、毒気無し」とある。ついで六朝の文献に出る。左思・呉都賦に「渓䳵…其の上に泛濫す」とあり、李善の注に「鸂鶒は水鳥なり。色は黄赤。斑文有り。短狐を食ふ。虫水中に在れども毒無し。江東の諸郡皆之れ有り」とある。

唐代では紫鴛鴦の別名でも盛んに詩文に登場する。また唐代から本草にも入れられた。実在の鳥であることは疑いない。

同定には三つの説がある。

(1)『中国動物志・鳥綱』では、Mergus merganser に同定する。これはカモ科ウミアイサ属のカワアイサである。中国名は普通秋沙鴨。70センチほど。頭と頸は緑黒色、胸と腹は白色。

(2)リードや鄭作新らは Aythya fuligula に同定する。これはカモ科ハジロ属のキンクロハジロである。中国名は鳳頭潜鴨。43センチほど。頭部は紫色の光沢があり、頭頂から冠羽が垂れ下がる。

(3)『中国動物志・鳥綱』では繁殖中の鴛鴦とも推測している。そうすると鸂鶒もオシドリということになる。オシドリの雄は繁殖期には色が変わるという。

『本草綱目』で述べられている「首に纓(ひも)有り」という特徴に注目するとキンクロハジロの可能性がある。キンクロハジロの英語名は tufted(ふさ状の) duck である。

[正しい語釈](案)

鸂鶒(鸂鷘)。カモ科ハジロ属の鳥の名。河川・湖沼に棲息。頭部は紫色の光沢があり、頭頂から冠羽が垂れ下がる。昆虫や甲殻類などを食べる。キンクロハジロ。別名、紫鴛鴦・渓鴨。Aythya fuligula

典拠:『臨海異物志』(三国呉・沈瑩)「鸂鶒は水鳥。毛、五色有り。短狐を食ふ。其の渓中に在れば、毒気無し」、『本草綱目』巻四十七「形小にして鴨の如し。毛、五采有り。首に纓有り。尾に毛有り船の柁の如し」

   《引用終了》

最後に掲げられた「鸂」をカモ目カモ科ハジロ属キンクロハジロ Aythya fuligula に比定同定するのは、ちょっと留保したい気がする。属が異なるものの、オシドリと確かに「形」は似ている。しかし、オシドリより大きくはならない。同じくらいである。ところが、「本草綱目」では「其形大于鴛鴦而色多紫。亦好並遊、故謂之紫鴛鴦也」と言い、「人家宜畜之。形小如鴨毛。有五采。首有纓、尾有毛、如船柁形」(最後の部分は確かにキンクロガジロの繁殖期の♂の後頭に出る羽毛の伸長した冠羽をよく説明しているようには見える)とあって、羽毛が五彩に彩られているとあるのは、「臨海異物志」でも同じであるのだが、キンクロハジロ(金黒羽白:この漢字名は目が黄色いことを含むが)は白黒のツートン・カラーであって、画像検索で同学名でいくら見ても、世界中の同種の写真を見たが、そのような多彩色の個体変異は一枚も認められないからである。キンクロハジロは本邦の近くではユーラシア大陸北部のシベリア等で繁殖し、冬季になると、九州以北に越冬のために冬鳥として飛来し、北海道では少数が繁殖する。「日本野鳥の会」のデータでは長野県で三例の撮影例がある)因みに、カモ目カモ科ウミアイサ属カワアイサ Mergus merganser はオシドリに似ていないと言わぬが、嘴が有意に尖っており、混同する可能性は私はあり得ないと思う(私は鴛鴦に似ているとは決して言わないだろうということである。因みにカワイアイサの現代中文名は「普通秋沙鴨」である。本種は本邦の近くではユーラシア大陸中北部で繁殖しているが、本邦へは冬鳥として九州以北に渡来するものの、北日本の方が渡来数が多い。北海道では留鳥として少数が繁殖している。「日本野鳥の会」のデータでは長野県で五例の撮影例がある)。私が下線を引いたのは、それほど稀だという意味であり、私はこの話が事実として、信濃で信じられたとせば、それは、キングロハジロでも、カワアイサでもなく、正真正銘のオシドリだったと言いたいからである。

 なお、ブログ主も疑義を述べておられるように、ムラサキオシドリなどというケッタイな種は存在しない。

 さて。本篇は一読、読まれたことがある方が多い動物奇譚であろう。私が最初に読んだのは、小学校三年生の時、小泉八雲の「怪談・奇談」の一つとしてであった。私の「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」を見られたい。そこで私は八雲が原拠とした「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう:鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を、「神祇」・「釈教」・「政道」など三十編に分けて収める)の「卷第二十 魚虫禽獸」の「馬允某(むまのじようなにがし)、陸奥國赤沼の鴛鴦(をしどり)を射て出家の事」を電子化し、さらに先行する類話である、平安末に成立した「今昔物語集」の巻第十九の「鴨雌見雄死所來出家語第六」(鴨(かも)の雌(めどり)、雄(をどり)の死せる所に來たるを見て出家する語(こと)第六)及び、逆に「古今著聞集」を下敷きとしたものと考えられる「沙石集」(鎌倉時代の仏教説話集。全十巻。無住一円著。弘安六(一二八三)年成立)の「鴛の夢に見ゆる事」を電子化してある。元恒は伝承が焼き直しで如何にも出来が拙(まず)いと文句を言っているが、では、そうさ、私の「谷の響 五の卷 二 羽交(はがひ)に雄の頸を匿す」は如何かな? 恐らくは元恒が気に入らないのは、彼が排仏派で、主人公があっさり出家するのが気にくわないだけだろうと思うがね。

「貝沼の里」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市貝沼』とある。現在は長野県伊那市富県貝沼(とみがたかいぬま)で、同地区内に限定すると、グーグル・マップ・データ航空写真では、ここの山中に、ロケーションに持ってこいな有意な大きさの池はあるんだけど、後の記載(東光寺)からは、ここではないんだな、残念ながら。

「武夫〔ぶふ〕」武士。

「䳄鳥」♀の鳥。

『「鸂鷘は、必〔かならず〕、かくあるものなり」と貝原翁の說にも見ゆ』「大和本草」巻之十五の「水鳥」の部には、やはり良安と同じく「鴛鴦」と「鸂鷘」が並んで項立てされてある。訓読し、カタカナの一部をひらがなに代え、一部に記号や送り仮名を施した。中村学園大学図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」のそれPDF)の12から13コマ目にかけてを用いた。〔 〕は私が推定で読みを附した。

   *

鴛鴦(ヲシ) 雌雄、相ひ愛して、相ひ離れず、他鳥に異れり。東垣曰はく、『其れ、一を失へば、則ち、朝夕、思慕し、憔悴して死す。昔、獵夫、弓を以つて、其の雄の首を射切る。其の翌年、又、其の水邊を通る時、䳄、只、一隻あるを、射殺して、見るに、翅の内に、去年、射たりし雄の首を、いだけり』。○尾の羽は舩のかぢの如くなり。頭に白き長毛ありて、尾に至る。○東垣曰はく、『其の肉を食へば、人をして大風[やぶちゃん注:「たいふう」で、ハンセン病の古名。]を患はしむ』。

鸂鷘(オホヲシドリ) 「本草」に、『形、小、鴨(アヒル)のごとし。毛に五采有り。首に、纓〔えい〕、有り。毛、有り、舩の柁(かぢ)の形の如し。 今、按ずるに、鸂鷘は世俗に所謂、「ヲシドリ」なり。鴛鴦より大なり。一類、別種なり。雄の形、水草。言ふ所の如し。五采、處々にあり。首に靑白の長毛、後ろに埀る。腹、白し。わきに長毛あり。觜、雁のごとく、脚、赤く、水かき、あり。尾の羽、舩の柁のごとし。是れ、俗に「思羽〔おもひばね〕」と云ふ。翅の末、翠(みどり)なり。小鳧〔こがも〕より大なり。䳄〔めどり〕は、文采〔もんさい〕なし。翅も翠羽〔みどりば〕あり。頭〔かしら〕、雁のごとく、背の色、灰黒色。腹、白く、思羽、なし。

   *

「日暮なはいさとさそひし貝沼の眞菰かくれのをしのひとり寢」和歌は特異的にそのまま表記した。整序しておく。

日暮なばいざとさそひし貝沼の

   眞菰(まこも)隱(がく)れの鴛鴦(をし)の獨り寢

「日暮なはさそひしものをあかぬまの眞菰かくれのひとり寢そうき」同前。

日暮なばさそひしものをあかぬまの

   眞菰隱れの獨り寢ぞ憂き

和歌嫌いの私にはインキ臭い原恒の優劣の比較感覚が――とんと――判りませぬわ――

「鴛鴦山東光寺」長野県伊那市富県貝沼に現存する(グーグル・マップ・データ)。曹洞宗。Jing氏のサイトの「昔むかしのお話し」の「真菰ヶ池の鴛鴦」によれば、この寺の下に「眞菰ヶ池(まこもがいけ)」という池があり、それが本作のロケーションとする(この池は、グーグル・ストリート・ビュー他で見る限り、現存しないようである)。また、個人ブログ「壁紙自然派」の『地名こぼれ話17(4)・沙石集と下野の国の「おしどり物語」』では、この類話を蒐集しておられるようだ(ただ、『長野県伊那市富県の鴛鴦山東光寺も曹洞宗寺院で、前日のブログで紹介した』とあるのだが、その「前日」の記事の検索が上手くできない)。

『おしどりは漢名「鸂鷘」なるを、本邦にては往古より「鴛鴦」の字をもちひ來れるなり』しっっ知ったかぶるんじゃねえよ! 元恒! 白居易の「長恨歌」は、どう、な、る、ん、だ、よ、ッツ!?!

「故事因緣集」説話集「本朝故事因緣集」。元禄二(一六八九)年刊。著者未詳。当該話は巻之五の冒頭の「百十七 阿曽沼氏因果」。場所は「安藝國」で主人公は「中村城主阿曽」とする。「国文学研究資料館」のオープン・データの同書のここで読める。

「下野國」先の私の「小泉八雲 をしどり (田部隆次訳) 附・原拠及び類話二種」で示した「沙石集」版のそれが、下野の「阿曾沼」を舞台とする。

「近江國」の類話譚は知らない。識者の御教授を乞う。

「成化六年」明の憲宗の治世の元号で、一四七〇年。以下は、明末清初に張潮が撰した文言短編小説集「虞初新誌」の「鴛鴦」。

   *

成化六年十月、鹽城天縱湖漁父、見鴛鴦甚多。一日、弋其雄者烹之。其雌者隨棹飛鳴不去。漁父方啓釜、卽、投沸湯中死。

   *

「鹽城」は現在の江蘇省塩城市で、「天縱湖」は恐らく現在の鹽都縣大縱湖のことではないかと思われる(孰れもグーグル・マップ・データ)。]

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 仙人床

 

 仙人床

 木曾上松〔あげまつ〕宿、寢覺〔ねざめ〕の里は、土俗、傳へて、「浦島太郞が住ける地なり」といひ、また、「『三歸翁』となんいへる隱者の住〔すみ〕ける處なり」とも、いふ。浦島が事は既に「俗說辨」等に見えたれば、此に論ぜず。

 「三歸翁」は、私〔わたくし〕に思ふに、「三喜翁」にあらずや。「雍州府志」に『寬正年中武藏國河越道尊諱三喜者自號範翁又稱支山人中年大明留居十二年學東垣丹溪之術遂携醫家之方書本朝療蒼生。此人の、亂世を厭ひて、この深山の中にかくれ、終はられしも知るべからず。今、「みかへり翁」と唱ふるは、「三喜」を「三歸」となし、遂に、訓じて「見歸り」となせしならん歟〔か〕。湯舟澤に吉田兼好が宅趾〔たくし〕あり。【兼好が木曾に住せし事は「吉野拾遺」に見ゆ。】兼好を誤りて「ゑんかう屋鋪」となし、遂に轉じて「猿屋鋪〔さるやしき〕」など唱ふるがごとし。【此事は松平君山が「木曾史略」に詳〔つまびらか〕なり。】

 再〔ふたたび〕按ずるに、三喜翁を、土人、推〔お〕して神仙となし、これを假稱して「浦島」など呼〔よび〕たりしを、遂に「此〔この〕兩人、住せし」と、あやまり傳へしにあらずや。【浦島は雄略帝の時の人なり。「日本紀」・「續日本紀」・「扶桑略記」・「膾餘雜錄〔かいよざつろく〕」等に見ゆ。今、丹後の國網野の社〔やしろ〕、浦島を祭れる處なりと、「怪談故事」に見ゆ。さらば、木曾にあるべきにあらず。】

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げでポイント落ち。原本にはない。]

〔元恒補註-「增補燈下集」に「三歸寬中圓」とて「備急丸」の變方〔へんはう〕あり。「本朝醫談」に、『こは「三喜」なるべきに、「三歸」とあるは呼聲〔こせい〕の近き故』と見えたる。

また天文の頃、三喜昌經といふ人あり。その著せる醫書一部あり。近頃に、「天文醫按」と名付て上木す。

「玉石雜誌」に『落合驛ニテ霧原山ヲ東北ノ方二里計ニ見ル。落合ヨリ霧原山ニカヽリ御阪ニイタル、卽大井驛ノ千駄林ニ出ル道、コレ也。其間ニ兼好法師宅地アリ。今ハ田圃トナリテ、空ク兼好庵ノ字ヲ殘ストイフ。猿喉屋敷ト同キヤ否ヲ知ラス』。〕

 

[やぶちゃん注:「仙人床」(「せんにんどこ」と読んでおく)以下の「寝覚(ねざめ)の床」の異名。

「木曾上松宿寢覺の里」現在の長野県木曽郡上松町(あげまつまち)上松にある木曽川の水流によって花崗岩が侵食されて生じた自然景勝「寝覚めの床」(グーグル・マップ・データ航空写真)。ウィキの「寝覚の床」により引く。『かつては急流であったが、上流に設けられた木曽ダム』(昭和四三(一九六八)年に運転開始)『などにより』、『水位が下がったために、水底で侵食され続けていた花崗岩が現在は水面上にあらわれている。水の色はエメラルドグリーンである』。『中山道を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ』ている。』『寝覚の床の中央に』は「浦島堂」があり、一説に、『上松町臨川寺の縁起によれば、その弁才天像を祀ったのが』その『寺であるという』。『地質は、中生界』(中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前の恐竜が跋扈していた時期にほぼ一致する)に堆積した地層)『の粗粒黒雲母花崗岩』『である。露出岩盤には方状節理が見られる』。『各段の高さと幅はそれぞれ数』メートルあり、『最上段は現河床からの比高が約』二十メートルある。『岩盤は約』一万二千年前に』『露出した』。以下、「三返りの翁」の項。『民間伝承によれば、寝覚の里には三返りの翁(みかえりのおきな)という、長寿の薬を民に供していたされる伝説上の人物が住んでいた』とされ、『室町後期の成立』『とされる謡曲』「寝覚」が『この伝承に基づいている。この作品のあらすじでは、長寿の薬のことを耳にした延喜』(九〇一年~九二三年)『当時の天皇』(醍醐天皇)『が、その風聞を調べてくるように寝覚の里まで勅使を遣わすと、翁が医王仏』(薬師如来の別名)『の権現であると名乗り、その秘薬を献上する。翁はすでに千年来、寝覚の床に住んでいるが、薬を使って』三『度若返ったので「三返りの翁」の名称がついたのだと説明される』。以下、「浦島太郎伝説」の項。『この地と浦島太郎を結びつけた古い記録としては、沢庵和尚が』「木曾路紀行」(出羽国上山(かみのやま)に「紫衣事件」に絡んで流罪となっていたのが、許されて、江戸に滞留が終わった、寛永一一(一六三四)年の紀行)の中で『「浦島がつり石」なる岩に言及している』。『貝原益軒も』「木曾路之記」の中で貞享二(一六八五)年)の旅中に「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記している』。但し、『浦島がこの地に来た事実については懐疑的である』。伝承類では、『浦島太郎が竜宮城から帰ってきたのち、この寝覚の地で暮らした次第をありありと描いた伝説も作られている』。『臨川寺 (上松町)建立の由来を語る』「覚浦嶋寺略縁起」によれば、『浦島太郎は竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書』(仙術法等を記した神の書いた書)『をもらって帰り、日本諸国を遍歴したのち、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。ここであるいは釣りを楽しみ、霊薬を売るなどして長年暮らしていたが、あるとき』、『里人に竜宮の話をするうち』、『玉手箱を開けてしまい、齢』(よわい)三百歲の『老人と化してしまった。天慶元』(九三八)『年この地から姿を消したという』。『以上の』「略縁起」の『伝説は、現存最古のものでも』、宝暦六(一七五六)年の『改版本であるが』、『おおまかな伝説としては、近世初頭以降に語り継がれてきたものと考えられる』。『また』、『巷説によれば、浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという』。『ある頃をさかいに』、『寝覚の床の浦島太郎と』、『前述の三返りの翁は同一視されるようになって』ゆき、「略縁起」にも『やはり、浦島太郎が「見かへりの翁」と呼ばれていたことが記されている』。『古浄瑠璃「浦嶋太郎」の舞台も上松の宿場で、浦島太郎は、海から遠い山中の木曾山中に住み、木曾川で釣り糸を垂らして暮らしていたとする』とある。

「俗說辨」神道家・国学者で井沢蟠竜長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考証随筆「広益俗説弁」。その「正編巻十」の「士庶」の冒頭にある、「浦島子蓬萊にいたり三百四十餘年を經る說」がそれ(国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年「続国民文庫」版の当該話の画像)。

「雍州府志」山城国(現在の京都府南部)に関する最初の総合的体系的地誌。歴史家の黒川道祐によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年に書かれた。

『寬正年中武藏國河越道尊諱三喜者自號範翁又稱支山人中年大明留居十二年學東垣丹溪之術遂携醫家之方書本朝療蒼生』勝手流で訓読する。

   *

寬正〔かんしやう〕年中、武藏國河越に道尊〔だうそん〕、諱〔いみな〕三喜なる者、有り。自ら範翁と號す。又、支山人と稱す。中年に及び、大明〔だいみん〕に入り、留まり居〔を〕ること十二年、東垣・丹溪の術を學び、遂に醫家の方書を携へて本朝に歸り、蒼生〔さうせい〕を救療〔きうりやう〕す。

   *

ここに出た人物は実在した医師田代三喜(たしろさんき 寛正六(一四六五)年~天文一三(一五四四)年)である。後世派医学の開祖で、広く「医聖と」称された。既に出た曲直瀬道三・永田徳本などと並んで、日本に於ける中医学の中興の祖の一人とされる。ウィキの「田代三喜」によれば、三喜は通称で、名は導道、字(あざな)を祖範といった。範翁・廻翁・支山人・意足軒・日玄・善道など、多くの号がある。三喜は源平時代の武将である田代信綱の八世の孫田代兼綱の子として、武蔵国川越の西方、越生(おごせ)で生まれた。田代氏は伊豆国の豪族であったが、兼綱の代に武蔵国に移住していたという。文明一一(一四七九)年に『鎌倉の妙心寺で僧になる』(とあるが、鎌倉には今も昔も妙心寺などという名の寺はない。甚だ不審。別な資料では妙心寺派とあるが、鎌倉の妙心寺派というのはすぐに思い当たらない)。長享元(一四八七)年から明応七(一四九八)年、『明に渡る。当時大陸では金・元代に李東垣、朱丹渓の流れを汲む当流医学が盛隆を極めており、三喜は僧医月湖に師事しこれらの医学を学んだ』。『なお』、『宮本義己は実際の遣明船の派遣年度を精査し』、永正三(一五〇六)年に『堺から渡明し』、大永四(一五二四)年に『帰国したとしている』。『帰国してしばらくは下野国足利に住し』たが、永正六(一五〇九)年、『古河公方』(足利政氏。成氏の子で第二代)『に招聘されて下総国古河に移る。ここで僧籍を離れ』、『妻を迎える。また同年には』(恐らく同地古河で)『猪苗代兼載』(けんさい 連歌師)『を治療した事が知られる』。大永四(一五二四)年、『武蔵国に帰る。関東一円を往来して医療を行い』、『多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。「足利の三帰」「古河の三喜」という異称を得ている』。享禄四(一五三一)年には当時、『足利学校に在籍していた曲直瀬道三と佐野市赤見で出会う。三喜は道三をよき後継者とみなして医術を指導した』。『三喜は死期近い病床で』も、『なお』、『口述を続け』、七十九歳で没した、とある。

「寬正」は一四六〇年から一四六六年まで。室町幕府将軍足利義政の治世であるが、「応仁の乱」勃発の直前。「東垣」は金・元代の医家李杲(りこう 一一八〇年~一二五一年) 金元医学四大家の一人。東垣は号。河北省正定県の人。幼時より医薬学を好み、張元素に師事し、その知識・技術を総て得た。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の折り以外は診てもらえなかったというが、神医と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激、飲食の不摂生、生活の不規則、寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾(ひ)と胃(現在の消化器全般)を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。「脾胃論」ほか多くの著作がある。以下の朱震亨(しゅしんこう)と併せて「李朱医学」と称される。「丹溪」元代の医師朱震亨(一二八一年~一三五八年)。前の李杲とともに金元四大家の一人とさえっる。丹溪は号。初め儒学を学んだが、後に医学に転じ,羅知悌(らちてい)のもとで李杲の系統の医学を学んだ。著書に「格致餘論」・「丹溪心方」などがある。「蒼生」は人民のこと。

「湯舟澤に吉田兼好が宅趾あり。【兼好が木曾に住せし事は「吉野拾遺」に見ゆ。】」「吉野拾遺」(室町時代に書かれた南朝(吉野朝廷)関連の説話集。作者は松翁とするが、人物不詳)などに記されたもので、晩年の兼好法師が木曽の、現在の中津川市湯舟沢神坂(みさか)(ここ(グーグル・マップ・データ))の地に庵を結んだという、所謂、吉田兼好が後二条天皇崩御後に出家して行脚漂泊したとする伝承の一つで、ここで没したという言い伝えもあるようだ。こちらのページ(個人サイトと思われる)によれば、「兼好庵跡」として顕彰された場所があることが判る。そこに、兼好はこの地の風光に惹かれ、 

 思ひたつ木曾の麻布あさくのみそめてやむべき袖の色香は 

と詠んで、庵を結んで、暫し、住んでいた。ある時、国守が多くの家来を従えてこの庵の辺りまで来て、鷹狩りをする様子を見て、 

 ここも又浮世也けりよそながら思ひし儘(まま)の山里もがな 

と詠んで、この地を去った、とある。

「猿屋鋪〔さるやしき〕」「ゑんやしき」かも知れないが、面白くないので「さる」と読んだ。

『松平君山が「木曾史略」』松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)は儒者で尾張名古屋藩書物奉行。藩命で「士林泝洄」(しりんそかい)「張州府志」を編集した。著作はほかに注疏である「孝経直解」、本草書「本草正譌」、詩文集「三世唱和」など多数。本姓は千村。名は秀雲。君山は号の一つ。「木曾史略」は正しくは「吉蘇志略」で宝暦七(一七五七)年作の木曾地区を巡回調査した地誌。「国文研データセット」に同書を発見、この右頁に「宅址 兼好法師菴」とある。但し、君山は「所在を知らず」とし、一説に霧原山の山中とし、呼称を「猴屋敷」(やはり「さるやしき」と読みたい)として出だし、まさに「兼好」と「猿猴」の音が「相ひ近き」故に「訛」(なま)ったもの、と推定している。

「雄略帝」記紀で第二十一代天皇。允恭天皇の皇子とされ、名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。大和朝廷の勢力を拡大したとされる。四七八年に宋に使いを送った倭王武に比定する説がある。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「膾餘雜錄」永田善斎(ながたぜんさい 慶長二(一五九七)年~寛文四(一六六四)年:江戸前期の儒者。京生まれ。初め藤原惺窩に、後に林羅山に学んだ。駿府で徳川頼宣(よりのぶ)に仕え、頼宣の紀伊転封に伴い、和歌山藩で教えた。名は道慶)が書いた漢文体の考証随筆。

「丹後の國網野の社〔やしろ〕浦島を祭れる處なり」これは京都府京丹後市網野町(ちょう)網野にある網野神社(グーグル・マップ・データ)を指すと思われる。この神社は祭神として、日子坐王(ひこいますのかみ:開化天皇第三皇子にして景行天皇の曾祖父)・住吉大神・水江浦嶋子神(みずのえのうらしまこのかみ)を祀る。公式サイトの解説に、『水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園(その)という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています』。『網野には他にも嶋子をお祀りした嶋児神社(しまこじんじゃ 網野町浅茂川)や六神社(ろくじんじゃ 網野町下岡)』(しもおか:ここ。網野神社の南西一キロメートル強の位置にある。グーグル・マップ・データ)、『嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺(しわ)を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる』「しわ榎(えのき)」(『網野銚子山古墳に存在)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております』とある。「しわ榎」は網野神社の南東七百メートルほどの位置にあったが、現在は残念ながら根元部分のみが残る(同グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。なお、丹後半島では、その半島先頭附近にも、有名な浦島所縁の神社として京都府与謝郡伊根町本庄浜にある浦嶋神社(宇良(うら)神社とも呼ぶ)がある(グーグル・マップ・データ)。

「怪談故事」春鶯廊元編の「本朝怪談故事」(正徳六(一七一六)年)の第一巻の「神社門」の「十五網野の社、亀を愛す」である。「国文学研究資料館」のオープン・データのこちらから画像で読める。

「增補燈下集」医師岡本(啓迪院)玄治著の処方解説書。

「備急丸」「金匱要略」に「三物備急丸」(さんもつびきゅうがん)が載り、刺すような激しい腹痛で便通がない場合の、峻下剤である。

「本朝醫談」江戸後期の医師で、幕府医官奈須恒隆の養子となった奈須恒徳(なすつねのり安永三(一七七四)年~天保一二(一八四一)年:多紀元徳に学び、後に曲直瀬(まなせ)正盛の学説を研究、また、日本の古医書の研究を進め、「捧心方」・「大同類聚方」・「万安方」などの室町以前の医書の校訂を行った。本姓は田沢)の著作。以下は文政五(一八二二)年板行の原本のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。左頁二行目割注に出る)。

「呼聲〔こせい〕の近き故」発音が似ているため。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。戦国時代。

「三喜昌經」不詳。

『近頃に、「天文醫按」と名付て上木す』ますます不審。出版されており、著者名も判っており、書名も書かれてあるのに、ネットに全く掛かってこないというのは、どういうことだろう?【同日夜追記】T氏より以下のメールを頂戴した。比定同定の候補本である。

   《引用開始》

「天文醫按」は、『醫按』は正しい書名の一部で、出版が文政の近くの年であると考え、ネットで「醫按」の検索をかけたところ、こちらに、

「石山居士醫按」八巻。明・汪機著。明・陳桷較勘。日本・松氏校點。林喜兵衛。文化二(一八〇五)年。

と書誌を記す東京大学医学部蔵本が出てきました。汪機はこちらによれば、

汪機、字(あざな)は省次、祁門(きもん)(今の安徽省祁門)朴墅(ぼくしょ)の人。居が石山にあったので石山居士と号し、汪石山と呼ばれ、明の天順七(一四六三)年に生まれ、嘉靖一八(一五三九)年に卒した。享年七十六歳。(中略)「石山医案」「外科理例」「針灸問答」「医学原理」などの著述が有名で、「石山医案」全三巻は汪機の門人陳桷が明の正徳一四(一五一九)年に汪氏の臨床ノートを編集したもので、汪機が脈診と望診に優れ、四診合参を重視した特徴がよく現われている。

と書かれています。「石山醫案」(四庫全書本)がこちらに出ています。「三喜」は全く関係ないのですが、「近頃に」、「 醫按」と名付て「上木す」からの推論です。

   《引用終了》

初っ端から完全に和書(本邦の医師の書いた)の医学書と思い込んで考えて調べていた私が間違っていた。何時も乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「玉石雜誌」栗原(柳菴)信充(のぶみつ)編で栗原(信兆)信晁(のぶあき)図画并びに校閲になる人物伝中心の考証随筆「先進繡像玉石雜誌」。天保一四(一八四三)年から嘉永元(一八四八)年刊。栗原信充(寛政六(一七九四)年~明治三(一八七〇)年)は 江戸後期の故実家。甲斐源氏末裔であることから、晩年は武田姓を名乗った。江戸幕府奥御右筆を務めた父和恒の関係で、父の同僚屋代弘賢と弘賢の知己平田篤胤から国学を、柴野栗山から儒学を学んだ。幼少より、弘賢の不忍文庫の膨大な蔵書の閲覧を許され、成人後は弘賢が幕命により編纂していた「古今要覧」の調査に加わるなど、広く知識を得る環境に恵まれた。全国を巡って資料を訪ね、諸家と交わる調査によって、実見によって文物を理解する学を旨とした。後、弘賢の病死によって「古今要覧」の製作は中止されてしまうが、それまでの蓄積は自著の形で世に示した。特に力を注いだ武具・馬具類に関する著作「甲冑図式」・「刀剣図式」「弓箭図式」等は幕末武士の教養書として重用された。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に刊本を発見、正編の第五PDF)にある「兼好法師」のパートの、34コマ目に見出せた。なお、そこに恙なく、「猿屋敷(さるやしき)」のルビも見出せた

「落合驛ニテ霧原山ヲ東北ノ方二里計ニ見ル。落合ヨリ霧原山ニカヽリ御阪ニイタル、卽大井驛ノ千駄林ニ出ル道、コレ也。其間ニ兼好法師宅地アリ。今ハ田圃トナリテ、空ク兼好庵ノ字ヲ殘ストイフ。猿喉屋敷ト同キヤ否ヲ知ラス」読み易く書き換えておく。

   *

 落合驛にて、霧原山〔きりはらやま〕を東北の方、二里計りに見る。落合〔おちあひ〕より、霧原山〔きりはらやま〕にかゝり、御阪〔みさか〕にいたる。卽ち、大井驛の千駄林〔せんだばやし〕に出づる道、これなり。其の間〔かん〕に「兼好法師〔はうしの〕宅地」あり。今は田圃〔でんぽ〕となりて、空しく「兼好庵」の字〔あざな〕を殘すといふ。「猿喉屋敷〔ゑんこうやしき〕」と同じきや否(いなや)を知らず。

   *

「落合驛」中山道四十四番目の宿場で、美濃国恵那郡落合村(現在の岐阜県中津川市落合)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「霧原山を東北の方、二里計りに見る」霧原山という山名は現認出来ない。落合宿からこの直線距離が正しいとするなら、妻籠宿の西南にある高土幾山(たかときやま)が相当するが、異名山名としても見出せない。ただ、気になるのは、落合宿から東に向かうと、湯舟沢川の流域(奥で南東に遡上する)に多数の「霧」を含む地名を見出せることである(グーグル・マップ・データ)。「霧ヶ城跡」「神坂霧ヶ原小水力発電所」等である。しかもこの霧ヶ城跡の西直近に「兼好法師塚」があり、南東の少し先には「吉田兼好の墓」まであるのである(孰れも岐阜県中津川市神坂。二つのリンクはともにグーグル・マップ・データ航空写真。なお、前者はサイド・パネルの説明板によれば、中央自動車道建設のため、ここに移転されたものとある)。当初は霧ヶ城を霧原山と呼んでいるのではないかと思ったが、ここは落合宿から四キロメートル強しか離れていないし、真東だから、違う。

「御阪」思うに、これは前注に示した場所、則ち、「神坂」の判読の誤りか誤植ではないかと疑うものである。

「大井驛」大井宿はここ(岐阜県恵那市大井町(ちょう)。グーグル・マップ・データ)。位置が全く明後日の方角(落合宿の遙か南西)で不審。

「千駄林」現在の岐阜県中津川市千旦林(せんだばやし)。古くは千駄林とも書いた。やはり方角位置が兼好伝承遺跡と合わず、不審。これは或いは、かつての兼好遺跡は落合宿と大井宿の間にあったことを示すのかも知れない。地誌製作の巡視を任務とした栗原が、いい加減なことを書くとは思われないからである。

北原白秋 邪宗門 正規表現版 立秋

 

  立   秋

 

憂愁(いうしう)のこれや野の國、

柑子(かうじ)だつ灰色のすゑ

夕汽車(ゆふぎしや)の遠音(とほね)もしづみ、

信號柱(シグナル)のちさき燈(ともしび)

淡々(あはあは)とみどりにうるむ。

 

ひとしきり、小野(をの)に細雲(ほそぐも)。

南瓜畑(かぼちやばた)北へ練(ね)りゆく

旗赤き異形(ゐぎやう)の列(れつ)は

戱(おど)けたる廣告(ひろめ)の囃子(はやし)

賑(にぎ)やかに遠くまぎれぬ。

 

うらがなし、落日(いりひ)の黃金(こがね)

片岡(かたおか)の槐(ゑんじゆ)にあかり、

鳴きしきる蜩(かなかな)、あはれ

誰(たれ)葬(はふ)るゆふべなるらむ。

三十九年八月

 

[やぶちゃん注:「異形(ゐぎやう)」のルビはママ。

片岡(かたおか)」のルビはママ。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 ひらめき

 

 ひらめき

 

十月(じふぐわつ)のとある夜(よ)の空。

北國(ほつこく)の郊野(かうや)の林檎

實(み)は赤く梢(こずゑ)にのこれ、

はや、里の果物採(くだものとり)は

影絕えぬ、遠く灯(ひ)つけて

ただ軋(きし)る耕作(かうさく)ぐるま。

欝憂(うついう)に海は鈍(にば)みて

闇澹(あんたん)と氷雨(ひさめ)やすらし。

灰濁(はひだ)める暮雲(ぼうん)のかなた

血紅(けつこう)の火花(ひばな)ひらめき

燦(さん)として音(おと)なく消えぬ。

沈痛(ちんつう)の呻吟(うめき)この時、

闇重き夜色(やしよく)のなかに

蓬髮(ほうはつ)の男蹌踉(よろめ)き

落淚(らくるゐ)す、蒼白(あをじろ)き頰(ほ)に。

三十九年八月

 

2020/11/15

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 德本翁

 

 德本翁

 德本〔とくほん〕翁は長田〔ながた〕氏、乾室〔けんしつ〕と號し、また知足齋とも號しぬ。いづれの國の人とも知らず、或〔あるい〕は美濃といひ、或は三河といふ。醫に達し、よく「汗吐下〔かんとげ〕」の方を用ひ、巴豆〔はづ〕・附子〔ぶし〕・輕粉〔けいふん〕の如き劇劑といへども、其證ある時には瞑眩〔めんけん/めんげん〕[やぶちゃん注:漢方治療に於いて治癒する前に一時的に高熱・下痢・発疹などの症状が現れることを言う語。]を恐れずして用ひけるとなり。世の人、或は、「攻劇家」と名付〔あづけ〕て恐るゝ者もありけるが、沉痾・痼疾〔ちんあ・こしつ〕[やぶちゃん注:宿痾に同じ。長く治らない病気。]の癒難〔いえがた〕き病〔やまひ〕も、その手に愈〔いゆ〕るもの多ければ、世に「甲斐德本〔かひのとくほん〕」と呼〔よび〕しとなり。一貼〔いつてふ〕の藥の價〔あたひ〕、かならず、「十八錢」と定めり。ある時、乞士〔こつし〕[やぶちゃん注:比丘(びく)。出家得度して具足戒を受けた男子の修行僧。]の、病ありて藥を乞〔こひ〕しに、

「十八錢有〔ある〕や。」

と問ふ。

「なし。」

と答ふれば、

「汝、我〔わが〕藥を飮〔のむ〕事、あたはず。命〔いのち〕なり。死ね、死ね。」

と、いひしも、おかし[やぶちゃん注:ママ。]。

 また、或時、高貴の御方、病ありて召〔めさ〕れしに、御藥〔おんくすり〕、調獻〔てうけん〕し奉り、典藥の人々、治〔ぢ〕する事、あたはざりし御病〔おんやまひ〕、日あらずして、平愈し給ふ。

「厚く賞を賜〔たまは〕るべし。」[やぶちゃん注:これはその高貴な方の側近の者の謂いであろう。]

と、ありしかども、例の十八錢のつもり、受得〔うけえ〕て、去りぬ[やぶちゃん注:「つもり」は処方した数服の薬の分だけ、その一貼十八銭の倍数分の意であろう。]【一說にいふ。山梨郡に「德本屋敷」といふあり。これは 上より恩賞の事、强〔しひ〕て仰有〔おほせあり〕ければ、「さらば、友人の家敷〔やしき〕のなきものあり。此〔この〕ものに家宅〔かたく〕賜はるべし。」と望〔のぞみ〕しより、賜はる處なり、といふ。實〔じつ〕にや。[やぶちゃん注:字空けは底本・原本のママ。]】。

 後に、信濃に來りて、寬永庚午〔かのえうま/かうご〕の二月十四日、諏訪東堀にて終れり。墳墓あり。碑面題して「乾室德本庵主」と見ゆ。その持てる釜とて、今も東堀の御子柴〔みこしば〕氏に、ひめ置〔おき〕ぬ。遠き國までも聞傳〔ききつた〕へて、醫に志〔こころざし〕ある人は尋來〔たづねきた〕りて、請得〔こひえ〕て觀るもの、絕〔たえ〕ず、となん。

 德本の著〔あらは〕せる「梅花無盡藏」といふものあり、先子〔せんし〕淡齋、深くこれを愛し、

「仲景の規矩〔きく〕にかなヘり、宋の張子和に比すべし。」

と、いへり。

 療術の奇なるのみならず、その行ひ樣も、世の人にこよなう替りて、種々、めづらかなる事ども、今も口碑に存する事、すくなからず。「近世奇人傳」及び「醫家小傳」等にも見ゆ。

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げポイント落ち。原本にはない。そのままで電子化した(一部に記号は追加した)。鍵括弧と読みを挿入した。]

〔元補註-山梨郡今井邨〔むら〕に德本屋敷ありといふ。

「本朝醫談」に、『予が藏する所の本卷尾に、天文十九庚戌〔かのえいぬ/かうじゆつ〕七月十二日雖知若齋道三[やぶちゃん注:後注するが、「若」は「苦」の誤字か、判読の誤りである。]を初〔はじめ〕として、永祿祇曉・天正露白齋等〔など〕の名あり。德本の名、見えず。且〔かつ〕「授蒙臣功方」[やぶちゃん注:後注するが、恐らく「授蒙聖功方」の誤字か、書写の誤り或いは判読の誤りである。]を以て考〔かんがふ〕るに、「无盡藏〔むじんざう〕」の書は、德本、これを雪門〔せつもん〕に傳〔つたて〕たる也。新に著〔しる〕したることは、あらず』。〕

 

[やぶちゃん注:「德本翁は長田氏、乾室と號し、また知足齋とも號しぬ」「長田德本」は「永田德本」とも書く。生没年未詳で、戦国末期から江戸前期の医家として名高いが、市井の一医師として生き、伝記・所説とも不確かな部分が多い。出生地は不明だが(一説に愛知県碧南市音羽町とする)、永正年間(一五〇四年~一五二一年)に生まれ、寛永年間(一六二四年~一六四四年)に没し、百十七歳又は百十八歳の長寿であったという(一説には永正一〇(一五一三)年生まれで、寛永七(一六三〇)年没とする)。知足斎・乾堂・乾室と号した(後者二種の「乾」の読みが不明であるが、「乾坤一擲」のそれで「けん」と読みたい。本文はそれで振った)。長田徳本とも書く。戦火を逃れて諸国を巡遊し、その間、甲斐国に最も長く滞留したことから、「甲斐徳本」(かいのとくほん)とも呼ばれた。初め、当時、盛んであった後世家医方(ごせいかいほう:金・元代と、それ以後の医家の処方を祖述する医術の称。劇薬を避け、穏やかな薬を用いる点を特色とする。十五世紀末に田代三喜が明より齎し、門人の曲直瀬道三(まなせどうさん)と、その子玄朔によって体系化された。五行説・運気論に従うが、経験主義的な古方家の台頭や蘭学の移入によって廃れた)を学んだが、これに飽き足らず、独自の医説を建て、後漢末期の、今も「医聖」と称えられている官僚で医師であった張仲景(張機(一五〇年~二一九年)。仲景は字(あざな)。個々の患者の症状に応じて、独創的な治療を試みたとされ、古代から伝わる医学の知識と自らの経験をもとに「傷寒雜病論」(後に「傷寒論」と「金匱(きんき)要略方論」に分割された)を著し、これは後々まで、漢方医学の最も重要な文献となった)の医説によるべきことを主張した。疾病は鬱滞に起因し、多くは風寒によって発病すると説き、いわゆる汗・吐・下・和の治療法を唱え、作用の激しい薬を用いて病気を攻撃することを主旨とした。張仲景の「傷寒論」の中にある諸処方は、事実上、彼によって初めて本邦で行われたと言える。独自の処世訓をもち、医家の風俗矯正に熱心であった。「醫之辯」・「知足齋醫鈔」・「梅花無盡藏」(徳本流の医書。知られた同名異書に、室町中期の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)の詩文集があるので注意されたい)等の著作がある(主文は小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「汗吐下〔かんとげ〕」基本的な漢方治療法の一つ。発汗させ、吐き出させ、下瀉させることを指す。則ち、発汗剤・催吐剤・瀉下剤を用いることを言う。

「巴豆〔はづ〕」キントラノオ目トウダイグサ科ハズ亜科ハズ連ハズ属ハズ Croton tiglium の種子を漢方で「巴豆」と呼び、「神農本草經下品」や「金匱要略方論」に掲載されている漢方薬で、強力な峻下作用があるが、本邦では毒薬・劇薬に指定されているため、通常は使用されない。種子から取れる油はハズ油(クロトン油)には多種のエステルが含まれており、精製されたそれは皮膚に附着すると、炎症を起こすほど強い。

「附子」モクレン亜綱キンポウゲ目キンポウゲ科トリカブト属 Aconitum のトリカブト類。「ぶす」でもよいが、通常は生薬ではなく、毒物としてのそれを指す場合に「ぶす」と呼ぶので、ここは「ぶし」と読んでおくべきであろう。本邦には約三十種が自生する。漢方ではトリカブト属の塊根を「附子」(ぶし)と称して薬用にする。本来は、塊根の子根(しこん)を「附子」と称するほか、「親」の部分は「烏頭」(うず)、また、子根の付かない単体の塊根を「天雄」(てんゆう)と称し、それぞれ。運用法が違う。強心作用・鎮痛作用があり、他に皮膚温上昇作用・末梢血管拡張作用による血液循環改善作用を持つ。しかし、毒性が強いため(主成分はアコニチン(aconitine)で、経口から摂取後数分で死亡する即効性があり、解毒剤はない)、附子をそのまま生薬として用いることは殆んどなく、「修治」と呼ばれる弱毒化処理が行われる。

「輕粉」古くに中国から伝えられた薬物で、駆梅薬や白粉(おしろい)の原料にした白色の粉末。塩化水銀(Ⅰ)(「甘汞」 (かんこう)とも呼ぶ)が主成分で、水に溶け難く、毒性は見かけ上は比較的弱いが、習慣的に使用することで水銀中毒を発症する。「水銀粉 (はらや)」「伊勢おしろい」とも呼ぶ。

「寬永庚午〔かのえうま/かうご〕の二月十四日」寛永七年二月十四日はグレゴリオ暦一六三〇年三月二十七日。

「諏訪東堀」長野県岡谷市長地柴宮(おかやしおさちしばみや)周辺と思われる(グーグル・マップ・データ)。

『墳墓あり。碑面題して「乾室德本庵主」と見ゆ』平松洋氏のサイト「いぼとり 神様・仏様」の「永田徳本の籃塔(らんとう)・イボ神様 岡谷市長地柴宮・尼堂淨苑(尼堂墓地)」によって位置が判明した。先の岡谷市長地柴宮にある「尼堂墓地」で、この辺り(墓地北東部。グーグル・マップ・データ航空写真)にあるらしい。変わった形の墓である。蒼流庵主人氏のブログ「蒼流庵随想」の「永田徳本の墓~長野漢方史跡~」もお薦めである。また、「徳本薬草のまち 岡谷」という、永田徳本の生き方を学び、触発された有志による新事業展開プロジェクトの独立サイトも見つけた!

「その持てる釜とて、今も東堀の御子柴〔みこしば〕氏に、ひめ置〔おき〕ぬ。遠き國までも聞傳〔ききつた〕へて、醫に志〔こころざし〕ある人は尋來〔たづねきた〕りて、請得〔こひえ〕て觀るもの絕〔たえ〕ず、となん」――私はここを読んだ時、非常に不思議な気持ちになった。私は十数年前に遡るが、不思議な夢を見たことがあるからである。――それは――田舎で、私は、さる有名な医師の持っていた釜を持っているという人を訪ねて、桃の花の咲くそこへやってきたのであった。しかし、出てきた和装の女性は「もうとうの昔に穴が空いて壊れてしまいましたによって捨ててしもうたので御座います」と答えた。私は桃の花の満開の下を空しく帰ったのである。――

「先子〔せんし〕淡齋」話者中村元恒の実父(筆者元鎧の祖父)中村淡斎(宝暦六(一七五六)年~文政三(一八二〇)年)。医師にして伊那地方の著名な俳人であった。家代々の医業を継ぎ、江戸で桃井桃庵らに、京都で中西深斎・吉益東洞に古医方を学んだ後、郷里信濃伊那で開業した。また、俳諧では、かの加舎白雄の門人となった。本姓は吉川、名は元茂、医号は昌玄。別号に伯先・坎水園。著作に「古方薬品考」、俳書「祭草」等がある。

「仲景」私の冒頭注の太字下線部を参照されたい。

「宋の張子和」中国の医家であるが、「宋」は誤り(南宋と金は並立はしたが)で金・元医学の四大家の一人。名は従正。現在の河南省の出身で、医学に精通し、ことに古代の医書とされる「素問」(そもん)・や「難経」(なんぎょう)の学に優れていた。劉河間(りゅうかかん)の説を重んじ、寒涼剤を多く用いた。疾病の原因は「風寒暑湿火燥」の天の六気、「霧露雨雹氷泥」の地の六気、「酸苦甘辛鹹淡」などの外部の邪気が体内に侵入することによって発生すると考え、邪気の排除を力説した。「汗吐下」の三法によって攻撃する治療法を用い、ことに下剤をよく使用したので「攻下(こうげ)派」と呼ばれている。金の興定年間(一二一七年~一二二二年)に太医院(たいいいん:医療を司る国の役所)に召補されたが、まもなく辞して去った(ここは小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「近世奇人傳」「近世畸人傳」。近世の諸階層の特色ある人物百余名の伝記。正続各五巻。初版は京都で、正編は伴蒿蹊著に成り、寛政二(一七九〇)年刊(続編は三熊思考編で同 十年刊)。職業・貴賤を問わず、一芸一行に優れた者を「奇」とし、隠士・文士を多く扱うが、無名の町民・農民をも含む。記載は正編の第五巻。以下に所持する一九四〇年刊の岩波文庫版(森銑三校註)「近世畸人傳」で電子化して示す。一部で推定で読みを示し、記号を追加した。

   *

 德本は永田氏、伊豆・武藏の間を行〔ゆき〕めぐり、藥籠を負〔おひ〕て、「甲斐の德本一服十六錢」と呼〔よばひ〕て賣〔うり〕ありく。江戶に有〔うり〕ける時、大樹君[やぶちゃん注:徳川将軍の異名。]、御病あり、典藥の諸醫、手を盡せども、しるしなかりけるに、誰〔たれ〕かまうしけん、德本を召〔めし〕て療ぜしめ給ふに、不日〔ふじつ〕にして平〔たひら〕がせ給ふ。されば、賞として、いろいろのものを下し賜りけれども、敢てうけず、たゞ、例の一貼十六文に限る藥料をのみ、申下〔まうしくだ〕したりければ、其淸白を稱しあへり。されば上〔かみ〕[やぶちゃん注:当該療治を受けた将軍。]にもしろし召〔めし〕けん、「何にまれ、願事〔ねがひごと〕あらば、申べき」よし、頻〔しきり〕に命ぜられしかば、「さらば、我友のうちに家なきを悲しぶものあり。是に家を賜らば、なほ、吾に賜はるがごとくならん」と、まうしゝほどに、卽〔すなはち〕、甲斐國山梨郡の地に金を添〔そへ〕て賜りぬ。やがて其ものを呼〔よび〕てとらせ、其身は、また、藥を賣〔うり〕て行へしらずなりぬ。彼〔かの〕地は「德本屋敷」とて、今も殘れりとぞ。此老〔らう〕の著述、「梅華無盡藏」と號す。近年、刻に付〔つけ〕り。藥方、古〔いにしへ〕によらず、頗〔すこぶる〕奇也。藥名も一家の隱名〔いんめい〕をもちゆ。

   *

「醫家小傳」不詳。

「山梨郡今井邨」山梨県甲府市上今井町と下今井町がある(グーグル・マップ・データ)。その辺りと思われる。

「本朝醫談」江戸後期の医師で、幕府医官奈須恒隆の養子となった奈須恒徳(なすつねのり安永三(一七七四)年~天保一二(一八四一)年:多紀元徳に学び、後に曲直瀬(まなせ)正盛の学説を研究、また、日本の古医書の研究を進め、「捧心方」・「大同類聚方」・「万安方」などの室町以前の医書の校訂を行った。本姓は田沢)の著作。以下は文政五(一八二二)年板行の原本のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。右頁中央に出る)。

「天文十九庚戌」一五五〇年。

「雖知若齋道三」戦国から安土桃山時代の医師曲直瀬道三(まなせどうさん 永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)。道三は号。諱は正盛(しょうせい)で、他に雖知苦斎(すいちくさい)の医号を持つから、これは「苦」の誤字か、書写の誤りか、誤判読と推定される。本姓は元は源朝臣(宇多源氏)で、後に橘朝臣を名乗り、今大路家の祖とされ、日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と称される人物である。

「永祿祇曉」医師名であるが、不詳。どうも、次の「天正露白齋」とともに、元号と同じものが頭にあるのは姓として不審。「永祿」の「祇曉」ではないか? 永禄は一五五八年から一五七〇年までの元号である。

「天正露白齋」医師名であるが、不詳。同前で、「天正」の「露白齋」ではないか? 天正はユリウス暦一五七三年からグレゴリオ暦一五九三年(ユリウス暦では前年)。

「授蒙臣功方」先の原文を見ると、「授蒙聖功方」となっている二〇一四年に「第三十四回国際眼科学会(World Ophthalmology Congress:WOC)」に合わせて行われた展示会「本でたどる眼科の歴史」のリストに、曲直瀬道三の医書で「辭俗功聖方」という著作があり、その『内容はこの「授蒙聖功方」とよく似ている』とし、「辞俗功聖方」には『刊本がないため、これが先に著わされ、それを改題したものが古活字版始め、数種の整版、写本のある』「授家聖功方」で『あろうかという説が出されている。道三は医学の修得の階梯を定め』、「美濃医書」以下、九つに及ぶ医書を書いており、『これによれば』、「授蒙聖功方」は第二『段階の本であり、初学者向けの医書と考えられる』とある。これであろう。

「雪門」医師の門派らしいが、不詳。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 大寺

 

 大   寺

 

大寺(おほてら)の庫裏(くり)のうしろは、

枇杷あまた黃金(こがね)たわわに、

六月の天(そら)いろ洩るる

路次(ろじ)の隅、竿(さを)かけわたし

皮交り、襁褓(むつき)を乾(ほ)せり。

そのかげに穢(むさ)き姿(なり)して

面子(めんこ)うち、子らはたはぶれ、

裏店(うらだな)の洗流(ながし)の日かげ、

顏靑き野師(やし)の女房ら

首いだし、煙草吸ひつつ、

鈍(にぶ)き目に甍(いらか)あふぎて、

はてもなう罵りかはす。

凋(しを)れたるもののにほひは

溝板(どぶいた)の臭氣(くさみ)まじりに

蒸し暑(あつ)く、いづこともなく。

赤黑き肉屋の旗は

屋根越に垂れて動かず。

はや十時、街(まち)の沈默(しじま)を

しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、

しらじらと日は高まりぬ。

三十九年八月

 

[やぶちゃん注:「野師(やし)」は香具師(やし)・的屋 (てきや) に同じ。盛り場や寺社の縁日・祭礼などに露店を出して商売をしたり、見世物などの興行をしたりする人。

「しめやかに沈(ぢん)の香しづみ、」の「沈(ぢん)の香」は、言わずもがなであるが、表面的にはその大寺院から漂ってくる抹香の香りを「ぢんのか」(実際の高級な沈香(じんこう)ではない)と言ったもので、それよりも、遙かに感覚的な詩語としての装飾音として使用されていると私は思う。則ち、前行の午前十時の「まち」の「しじま」の持つ「チ」「シ」「ジ」音が、「しめやかにぢんのしづみ」の「シ」「ヂ」「シヅ」へと、さらに最終行の「しらじらと」の「シ」「ジ」音へと、それらの音が、水面の波紋のように不思議に広がって、ハレーションを起こしながら、ティルト・アップして太陽を捉え、画像がホワイト・アウトしてゆく仕掛けとなっているのだと思う。]

Oodera1

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 守屋嶽

 

 守屋嶽

 守屋嶽〔もりやだけ〕は藤澤片倉村の北にあたりて、諏訪郡に境〔さかひ〕し、頂〔いただき〕に石の祠〔ほこら〕ありて「守屋大明神」となん、稱し來れり。春秋の祭祀、おこたらず、靈驗もあらたなりとも、世の人、何の神たる事を知るもの、なし。私〔わたくし〕にこれをかむがふるに、あかれる世に、今の藤澤の地は、三峯川〔みぶがは〕を限りて、川下までも諏訪郡に屬したれば、諏訪の神領たる事、あきらけく、且〔かつ〕、守屋嶽は諏訪明神の祠〔やしろ〕のうしろにあたりて、その峯、鉾持山〔ほこぢやま〕に續けり。さらば、軍〔いくさ〕終りて後、諏訪明神の持給〔もちたま〕ヘる弓矢と鉾〔ほこ〕とをもて、其山に藏〔をさ〕め給ひ、再〔ふたたび〕用ひまじき事を示し、かつは鎭守となし、これをもて、「守矢」と稱し、「鉾持」と稱したまへるにぞ有〔ある〕べき。傳ヘ聞〔きく〕、藤原鎌足朝臣の具足を多武峯〔たふのみね〕に藏め給へるも、かゝる例〔ためし〕に據〔よ〕られしにや。【長門の國豐浦宮の巽〔たつみ〕にあたりて小山あり、此山に仲哀帝の御墓所とてあり。此〔これ〕則〔すなはち〕御太刀を納置〔をさめおき〕奉りたる所とかや。又、豐浦宮より、五、六里ばかり北にあたりて、「豐浦山」といふ所あり。此山にも仲哀天皇の御太刀を納めたりと言傅へて靈驗ありとぞ。豐浦宮傳說に見へたるよし、八幡宮本紀に見えたり。】

 たゞし、諏訪に守屋氏ありて、守屋大連〔もりやのおほむらぢ〕の子孫と唱へ、此神をもて、守屋大連を祭れりと心得たるは、古傳を失ひて、名に付〔つき〕て設〔まうく〕る說なり。是は明神に從ひ參らせて弓矢掌〔つかさど〕る大臣の後なるべく、且〔かつ〕、片倉村および遠近〔をちこち〕に守屋氏の殊に多きは、此大臣に屬せし人の孫〔そん〕なるべき事、疑なし。鉾持は後に伊豆・箱根・三島を勸請し、其時に鉾を掘出〔ほりいだ〕し、是より、名とせしと心得、守屋嶽を守屋大連を祭れりと思へるは、あたら神代〔しんだい〕の舊地を失ひぬる。惜〔をし〕めりといふべし。【余、別に「鉾持事略」を作りて、詳〔つまびらか〕に述〔のべ〕たれば、此に贅せず。】

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げポイント落ち。原本にはない。]

〔元恒補註-今も神長官にては「矢の守〔もり〕」を用〔もちふ〕。〕

 

[やぶちゃん注:「守屋嶽」現在の守屋山。標高千六百五十メートル。山頂はここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下表示無きものは同じ)。北に諏訪湖を見下ろす(サイド・パネル写真)。以下の高遠町(たかとおまち)藤澤片倉と長野県諏訪市湖南との境に当たり、東に稜線を行くと、守屋山中嶽を経て、守屋神社奥宮(ここは藤澤片倉内。標高千六百三十一メートル)に至る。「石の祠〔ほこら〕」(ここは明らかな石の小さな祠(ほこら)であるから、「後の諏訪明神の祠〔やしろ〕」と読みを差別化した)とあるのは、最後のサイド・パネルの、このアップ写真を見られたい。ちゃんと祠の前に二張りの半弓が供えられてある。守屋神社本殿はここであるが、本殿は同サイド・パネルで見ると、鞘殿の状態で、祭祀は続いているが(奥宮のサイド・パネルでは二〇一四年撮影の神主による祭祀の様子がある)、正直、かなり荒れた感じである。八ヶ岳原人氏のサイト「諏訪大社と諏訪神社」の「物部守屋を祀る物部守屋神社」が非常に優れた探勝をされてあるので見られたい。そこには、二〇一四年と二〇一九年の探査とされておられるが、本殿の中の様子は強烈な荒れ方で(写真有り)、記者も呆れておられる。本殿内には安置という感じではない、ただの棒状の石(所謂、古代の「石棒」ではない、とされておられる)が突っこまれてある(写真有り)。『拝殿と本殿の延長線上に石祠』(既に笠のみ)があり、その『石祠の大棟に刻まれた「丸に三つ柏」』の紋があり、『拝殿前の大灯籠や神庫でも見られ』ること『から』、これが『守屋神社の神紋に間違い』ないとされ、『原初は、この場所が守屋神社の中枢部であったことが考えられ』、その左にある御神燈があって、『奉納年はありませんが「本願片倉郷守屋入道物部義近」と刻まれています。「物部守屋神社」ですから』「守屋と物部」が『あってもおかしくありませんが、私には「仏門に入って守屋入道と名乗った物部義近さんが願を掛けた」としか解釈できません。入道はともかくとして、地元「片倉」には物部姓の人がいたのでしょうか』とある。また、『鳥居額に「従六位物部連比良麿謹書」と彫られています。その「比良麿」をネットで検索してみ』たところ、『ヒットした物部氏の系図に、物部神社(石見国一之宮)の歴代神職が金子家と書かれています。明治に世襲制が廃止された関係でしょうか、末尾の位置に「有卿(ありのり)」と「比良麿」が見つかりました。有卿が直系で、「物部神社神職・金子有卿 男爵 石見国造 物部連 饒速日命後裔」とあります』とある。さらに、「物部守屋神社の由緒」の項には、『案内板がないので、昭和』一七(一九三三)『年発行の宮下一郎編著』の「藤澤村史』から、「明治一〇(一八七七)年の書き上げ」とある「守屋神社」が電子化されており、そこでは「守矢社」となっているとある。

   《引用開始》

守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、

由 来

(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したるは、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべく)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼(かいじん)せしと申傳(伝)へり、

社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、

山王小社同所にあり(社地略)

権現山神小社同所にあり(社地略)

山神小社同所にあり(社地略)

   《引用終了》

また、「守屋神社の石室」の項では、「藤澤村史」の「藤澤の概観」の条では、『伝説として「一、洩矢神守屋大臣伝説・二、物部守屋伝説」を挙げ、「三、守屋山は諏訪大神の弓矢を埋めし地と云説」として《祠に弓矢を埋めた。矢を守る→守矢→守屋》という話を紹介して』あるとされ、『ここでは、諏訪教育会』編の「復刻 諏訪史料叢書」に載る二書から、その一部を転載しておられる。

   《引用開始》

守矢氏神長官たる事

 神長官守屋氏(守矢氏にも作る)ある人のいう自ら誤りて後代の子孫物部氏守屋の子孫という大なる僻事(ひがごと)なり、中村中叟高遠の儒醫は大神の弓矢を掌(つかさど)りし大臣の子孫なりと考えし未だつくさゞるに似たり、守屋が嶽は大神の持給いし弓矢を蔵しという、

             『洲羽事跡考』

一、鳳凰が嶽

守矢が嶽鞍掛が嶽につゝいて有り。岐岨路記に上諏方の向の山を鳳凰が嶽という、その西の山を守矢が嶽というとかけり。守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣(せっこう)に神劍を納む。御手洗(みたらし)の水あり。旱魃の節雩行(うぎょう※雨乞い)にこの水を以すれば、必雨ふると云。

            『諏方かのこ』

   《引用終了》

以下、『「守屋山(頂)に弓矢または剣を納めた石匣がある」と読めますが、現在それに相当するのは守屋神社里宮本殿下の石室しかありません。それは、剣や弓矢を納めるには格好の大きさですから、石匣と見なすこともできます。しかし、伝承に合わせて石室を造った可能性もありますから、何とも言えません』と擱筆しておられる。「ブリタニカ国際大百科事典」の物部守屋(もののべのもりや ?~用明二(五八七)年:河内)は古代の豪族で物部尾輿(おこし)の子。敏達元(五七二) 年に大連 (おおむらじ) となり、排仏派として、崇仏派の大臣蘇我馬子と対立していた。同十四年に諸国に疫病が流行すると、守屋は、この疫病の流行を「馬子が仏像を礼拝し、寺塔を建立したためである」として、寺塔を焼き、仏像を難波堀江に捨てた。その後、用明天皇が危篤に陥り、群臣に崇仏の可否を問うと、守屋は排仏を説いたが、天皇が馬子の崇仏の説を採用したため、両者の対立はますます激しくなった。用明天皇が没すると、守屋は穴穂部皇子を即位させようとしたが、皇子は馬子らのために殺され、さらに守屋も泊瀬部皇子 (はつせべのみこ:後の崇峻天皇) や聖徳太子らを味方に引き入れた馬子によって滅ぼされた(「丁未の乱」(ていびのらん))。以後、物部氏は衰退に向い、守屋の所有にかかる奴婢や邸宅は、四天王寺などに施入されて、その奴婢・田荘となった、とある。なお、ウィキの「守屋山」(そこでは「もりやさん」と読んでいる)によれば、『伝承によると旧名を「森山(もりやま)」という。古文書には「守屋ヶ嶽」「守矢が岳」という名称も見られる』。『諏訪地方の人々には守屋山を含めた伊那側の山並みを「西山」とも呼ばれている』。『伊那山地の最北部にあり、山頂からは、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、八ヶ岳連峰といった山々が眺望できる。清流とうたわれる沢川の水源で、もみじ湖(箕輪ダムの人造湖)を経て』、『天竜川に注ぐ』。『緑色凝灰岩でできているこの山は、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交わる地点にあたり、地質学的にきわめて重要な地域である』。『東峰には山頂から少し下ったところに石祠があり、古絵図には「守矢大臣宮」「守矢大神」という名で描かれている。現在は南麓にある守屋神社(伊那市高遠町藤澤区片倉)の奥宮とされている』。『その名称から「モリヤ」という神(洩矢神あるいは物部守屋)が宿る山として信仰を集めた』。『守屋山の神が怒ると雨をもたらすと信じられ、過去には干天が続くと』、『雨乞いとして山頂の祠を谷底に突き落とす習慣があった。現在は祠が柵で囲ってあるのはこれを防ぐためである』(これ凄過ぎ! 御霊の零落っぽい!)「おじり晴れ 守屋へ雲を 巻き上げて 百舌鳥(もず)きち鳴かば 鎌を研ぐべし」(「おじり」は注釈に『諏訪湖の尻、つまり釜口水門から天竜川へ流れ落ちる方面を指す』とある)という『諺で言われているように、山頂に雲がかかると』、『必ず雨が降ると信じられていたことから、諏訪盆地や伊那谷に住む人々には古くから気象の予知に用いられた』。『祠に向かって右側にある岩も磐座』(いわくら)『として信仰の対象であった。かつては守屋山の西側に住む人たちが旧』六『月朔日に登山して、祠を拝した後に磐座を』七『回まわって』、『諏訪上社へ参拝するという行事を行い、これを「御七堂」』(みしちどう)『と呼んだ』。『磐座の表面には文字らしきものが彫ってあり、祈雨や五穀豊穣を願うまじないの痕跡ではないかと思われる』。『近年諏訪上社の神体山とされるが、もともと諏訪明神(建御名方神)の神体は諏訪氏出の大祝』(おおほうり:昔の諏訪大社の最高位の神官を指す)『であり、歴史的に守屋山を神体とした記録はない。それどころか、山頂の石祠には御柱がなく、諏訪に背を向けている』。『ただし、宝治』三(一二四九)年『に書かれたと』される「諏訪信重解状」には、『諏訪明神が守屋山の麓に降臨して、この地を治めていた守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした後、上社を構えたという伝承が書かれているため』、『必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない』。天正一〇(一五八二)年三月、『織田信忠の軍勢が上社を焼き討ちした時、神官たちが神輿を担ぎ出し』、『守屋山へ避難したと言われている。この事跡に関係する地名(御輿坂、権祝昼飯場など)が山中に残っている』。寛政一二(一八〇〇)年、『白銅製の八稜鏡が山に発見され、天正の兵乱の際に紛失した宝物だろうということで』、『上社に寄進された。この鏡は現在は上社本宮の宝物殿に収蔵されている』。『御柱祭の時に建て替えられる』二『つの宝殿の網代天井の一部には、山中の一角に生えている「穂無し萱」が古くから使用されている』。以下、「守矢氏と物部氏との関係」の項。『諏訪上社に神長(かんのおさ)という筆頭職に就いた守矢氏の家伝によると、物部守屋の次男の武麿(弟君(おとぎみ)とも)が』、「丁未の乱」の後、『守屋山に逃れて、やがて守矢氏へ養子入りして』、『神長となった』。『なお、守矢氏へ養子入りしたといわれる平忠度の子についても』、『まったく同じ伝承が語られている。これらには、神長となる者が通過儀礼として聖地とされた守屋山に籠っていた事が反映しているのではないかと指摘されている』。『物部守屋を祀る守屋神社が立つ伊那市の片倉地区にも、物部守屋の子孫と名乗る守屋姓の家が多く存在する』。『また、山中には鍛冶技術を持った物部氏とは関係があると思われる「鋳物師(いもじ)ヶ釜」の地名が残っている』。『諏訪上社一帯を描いた伝』「天正の古図」から、『山中には東日本に知られる風神「風の三郎」を祀る「三郎宮」がかつてあったことが分かる。諏訪上社にはこの社に対する神事が見当たらないため、この痕跡は民間信仰跡だと推測される』。『製鉄には風が必要とされたため、鋳物師ヶ釜にいたと思われる鍛冶屋や鋳物師が祀った風の神がそのルーツだったと考えられる』とある。

「藤澤片倉村」底本の向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町藤沢片倉。この藤沢川に沿う一帯の地を、江戸時代、藤沢郷ととなえた』とある。現在は伊那市高遠町藤澤片倉(グーグル・マップ・データ)。

「あかれる世」「開(あ)かれる世」。古代大和朝廷の開闢(かいびゃく)後。

「三峯川」三峰川(みぶがわ)は『長野県伊那市を流れる川で、天竜川水系の一級河川。天竜川水系における最大の支流』。『流路延長は』五十六・八『キロメートル、流長野県伊那市の南東部に位置する南アルプス仙丈ヶ岳』『の南西に源を発し、塩見岳に向か』って南流し、『巫女淵地点で大きく蛇行して塩見岳の北西で反転北流し、以後はフォッサマグナに沿い小瀬戸峡を形成しながら流れ、美和ダム地点を通過すると城下町・高遠に入る。高遠城址付近で藤沢川を合わせると』、『流路を西に変え、河岸段丘・扇状地を形成しながら』、『伊那市東春近』(ひがしはるちか:伊那市役所南西約一キロメートル)『で天竜川へ合流する』。『流域は急峻な地形のため、古くから「暴れ川」として知られ』た、とウィキの「三峰川」にある。グーグル・マップ・データのこの中央部が全流域となる。

「守屋嶽は諏訪明神の祠〔やしろ〕のうしろにあたりて」信濃國一之宮諏訪大社の下社春宮・秋宮が守屋山の真北(直線で十二キロメートル前後)にあり、上社はそこから東へ少しずれた位置にあることが、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)で判る。

「鉾持山」山名としては確認出来ないが、守屋山から稜線伝いに、直線で十四キロメートルほど南南西に行った位置に、伊那市高遠町西高遠鉾持(ほこじ)がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。読みは現在の地名で歴史的仮名遣で示した。ご夫婦のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「鉾持(ほこじ)神社」の解説板(写真も有る)によれば、『伝承によれば、伊那郡を治めていた諏訪の国主が養老年間』(七一七年~七二四年)『に、武運長久・国土安全を願い、高遠の地に伊豆・箱根・三島の三社を祀り、神祠を建立して神事を行ったのが創立起源とされる』。『この地に移されたのは文治年間』(一一八五年~一一九〇年)『で、その時、土中から「霊鉾」が発掘されたので、鉾持神社と名づけられ、その鉾を御神体として祀り』、『鉾持三社大権現と尊称した』。『高遠城の守護神として歴代城主の信仰が厚く、高遠氏、武田氏、岩崎氏、保科氏などから与えられた寄進状は今も保存されている』。『このほか廃藩後に、内藤家、伊沢家から寄進された鎧、明珍の兜、備前長船の銘刀など多くの社宝を蔵している』とある。物部も守屋も全く登場しない。

「軍〔いくさ〕終りて後」前注で引用したウィキの「守屋山」の終わりの部分を参照されたい。史実上、守屋は「丁未の乱」で弓矢で射殺(いころ)されるが、その戦闘の場所は渋川郡阿都(あと:後の河内国の内)で、逆に彼を射殺した迹見赤檮(とみのいちい:押坂彦人大兄皇子(彦人皇子)又は聖徳太子の舎人)が、その矢を埋めたとされる「鏑矢塚(かぶらやづか)」と、その弓を埋めたとされる「弓代塚(ゆみしろづか)」、さらには「守屋首洗池」・「物部守屋の墓」が、現在の大阪府八尾市南太子堂(グーグル・マップ・データ)にある(迹見赤檮発箭地(はっせんち)史蹟)と、ウィキの「物部守屋」にあるから、恐らくは、この伝説が、八ヶ岳原人氏の引用された「洲羽事跡考」の如く、混同や誤認或いは確信犯の偽説形成と変形を起こして出来上がったものと私には思われる。

「藤原鎌足朝臣の具足を多武峯〔たふのみね〕に藏め給へる」多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山(グーグル・マップ・データ)。但し、具足ではなく、鎌足の没(天智天皇八(六六九)年)から九年後の天武天皇七(六七八)年に、彼の長男で僧であった定恵(じょうえ/じょうけい)が唐から帰国後、摂津国安威(あい)に葬られてあった父の遺体を大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが現在の談山(だんざん)神社の発祥とされる。こういうのを読むと、鎌倉トンデモ(と私は思っている)語源説に、「詞林采葉抄」にある、『鎌倉とは「鎌を埋(うづ)む倉」と云ふ詞(ことば)なり。其濫觴は、昔し、大織冠鎌足、いまだ鎌子(かまこ)と申せし比、宿願の事(こと)ましますにより、鹿島參詣の時、此由比里(ゆひのさと)に宿し給ひける夜(よ)、靈夢を感じ、年來(としごろ)所持し給ひける鎌を、今の大藏(おほくら)の松岡(まつがをか)に埋み給ひけるより、鎌倉郡(かまくらこほり)と云ふ。之れに因りて、思ふに、歌に「鎌倉山の松」とよみつゞくること、鎌を埋む所、松岡なればなり』を思い出すね(私の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」の初めの部分から。光圀も元恒と同じく強烈な排仏派で、生涯ただ一度の長旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘である)である鎌倉への途次、六浦で地蔵を縛って引き倒して損壊するなどの乱暴狼藉を働いている)。

「長門の國豐浦宮の巽〔たつみ〕」(南東)「にあたりて小山あり、此山に仲哀帝の御墓所とてあり」「長門の國豐浦宮」山口県下関市長府宮の内町(ちょうふみやのうちちょう)にある忌宮(いみのみや)神社は、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮(あんぐう)である「豊浦宮」の跡とされる。その真南(南東ではない)ここ(グーグル・マップ・データ)に仲哀天皇(日本武尊の子で神功皇后の夫。但し、実在性は定かでない)殯殮地(ひんれんち/かりもがりのち:仮殯宮(かりもがりのみや)(死んでも蘇生を信じ、一定期間、遺体を安置する場所を「殯の宮」と呼ぶ。事実上はここでは「仮埋葬地」の意)の地)がある。

『豐浦宮より、五、六里ばかり北にあたりて、「豐浦山」といふ所あり』この山名は現在は見当たらない。但し、方位と距離から見て、下関市豊浦町大字川棚(かわたな)の地区附近が一つの候補とはなろうと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「八幡宮本紀」貝原好古(よしふる 寛文四(一六六四)年~元禄一三(一七〇〇)年:儒者で、貝原楽軒の長男で、叔父貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)の養子となった。益軒とともに筑前福岡藩に仕え、藩命で益軒の「筑前国続風土記」の編集を助けたが若くして亡くなった)が元禄二(一六八九)年に成した八幡宮記事伝承の集成と神道の八幡伝説を中心に検証した書。貝原益軒は元恒同様、排仏派で、好古も同じ立場にあった。

「諏訪に守屋氏ありて、守屋大連〔もりやのおほむらぢ〕の子孫と唱へ、此神をもて、守屋大連を祭れり」同前のウィキの「守屋山」の引用の終わりを参照。

「古傳を失ひて、名に付〔つき〕て設〔まうく〕る說なり。是は明神に從ひ參らせて弓矢掌〔つかさど〕る大臣の後なるべく、且〔かつ〕、片倉村および遠近〔をちこち〕に守屋氏の殊に多きは、此大臣に屬せし人の孫〔そん〕なるべき事、疑なし」この辺りの地方豪族の有力者が神器を含み実用の武器装備の調達・備蓄の担当者が「大臣」を名乗り、神の矢を守ることをシンボルとして「守矢」を名とし、それが、歴史上の有力豪族である「守屋」の名にスライドしたということ。

「伊豆・箱根・三島を勸請し」それぞれ権現。但し、「伊豆」は「伊豆山」が正しい。

「鉾持事略」中村元恒と子の元起(元鎧の弟)「蕗原拾葉」に含まれているかと思ったが、ネット検索では出てこない。

『今も神長官にては「矢の守〔もり〕」を用〔もちふ〕』諏訪大社の当時の神官長(大祝)は別称で「矢の守」を用いるということか。]

2020/11/14

北原白秋 邪宗門 正規表現版 軟風

 

  軟   風

 

ゆるびぬ、潤(うる)む罌粟(けし)の火は

わかき瞳の濡色(ぬれいろ)に。

熟視(みつ)めよ、ゆるる麥の穗の

たゆらの色のつぶやきを。

 

たわやになびく黑髮の

君の水脈(みを)こそ身に翻(あふ)れ。――

うかびぬ、消えぬ、火の雫(しづく)

匂の海のたゆたひに。

 

ふとしも歎(なげ)く蝶のむれ

ころりんころと……頰(ほ)のほめき、

觸(ふ)るる吐息(といき)に縺(もつ)るれば、

色も、にほひも、つぶやきも、

 

同じ音色(ねいろ)の搖曳(ゆらびき)に

倦(うん)じぬ、かくて君が目も。――

あはれ、皐月(さつき)の軟風(なよかぜ)に

ゆられてゆめむわがおもひ。

四十年六月

 

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 疱瘡

 

 疱瘡

 御嶽〔おんたけ〕の里は福島宿の西にあたり、山深き所なり。むかしより、その里の人、疱瘡を、やまず。たまたま壹人貳人〔ひとりふたり〕病む者あれば、これを「飛疱瘡〔とびはうさう〕」と名付〔なづけ〕て、遠き所に出〔いだ〕しをき、疱瘡を病〔やみ〕し人をつけ、介抱させ、日を經て後に、家に歸しぬ。かくすれば、その處に傅染するといふ事なしとぞ。

 甲斐國に橋本宗壽〔はしもとそうじゆ〕といへる醫士あり。其說にいふ。

「いづれの所にても、御嶽のごとくにせば、疱瘡の種は盡〔つき〕ぬべし。此病〔やまひ〕、中華にては、晋、建武〔けんぶ〕中 本邦にては 聖武帝の時より、はじまりぬ[やぶちゃん注:字空けは底本・原本のママ。以下、同じ。]。その以前の人は、やまずして濟〔すみ〕ぬ。天行疫氣〔てんかうえきき〕にもあらず、又、胎毒〔たいどく〕の内より發する病にもあらず、人より人に傅染する病なれば、避〔さけ〕て免〔まぬかる〕べきものなり。」

とて、「斷毒論」三卷、作りて出〔いだ〕しぬ。

 御嶽の里ばかりにもあらず。信州にても秋山の里、また飛驒の白川、美濃の苗木、伊豆の八丈島、越後の妻有〔つまり〕、紀伊の熊野、周防〔すはう〕の岩國、伊與[やぶちゃん注:ママ。]の露峯、土佐の別枝〔べつし〕、肥前の大村ならびに五島・[やぶちゃん注:この中黒点は底本のもの。]肥後の天草等にても疱瘡はやまず、となん。

 韃靼〔だつたん〕の、疱瘡をやまざる事は「五雜俎」にもいへり。

 さらば、橋本氏の說にしたがはんには、その種の盡〔つく〕まじきにもあらず。されど、止むべからざるの勢〔いきほひ〕あり。

 橋本氏、その一つを知りて、その二を、しらず。天地の間、正邪ならび行はるゝ事、疱瘡のみにあらず。異端の道を害する周に、楊・墨〔やう・ぼく〕[やぶちゃん注:楊朱と墨子。]あり。漢に老〔らう〕[やぶちゃん注:老子。]あり。南北朝の間に佛〔ぶつ〕[やぶちゃん注:仏教。]あり。其世の賢人、孟子をはじめ、つとめてこれを防ぎしが、その時には、やまざりし。

 今 本邦にては楊・墨と老とは、絕〔たえ〕て、なし。ひとり、佛の盛んなる事、前代に越〔こえ〕たり。これ、もと、耶蘇宗を禁〔きん〕ぜんとて、邪〔じや〕を假〔かり〕て邪を防ぎ、盜〔とう〕を假て、盜を防ぎ給ひし一時の權略〔けんりやく〕に出〔いで〕たれども、永き國家の政典とはなれり。今、聖賢の人、上に在〔ま〕して、ふかく、是を憂へ、歎かせ給へども、又、時勢にて除き得〔う〕べからず。疱瘡の毒の、國に充〔みち〕たる、また、佛の、國にあるがごとし。今人〔きんじん〕の力もて、いかでかは斷〔だん〕ずるべきや。橋本氏の志、また愍〔あはれ〕むべし。

 「五雜俎」に、『韃靼の疱瘡なきは、鹽・酢〔しほ・す〕を食はざる故なり』と見えたるを、東涯翁の說に、「八丈嶋は海濤〔かいたう〕の中にありて、日每〔ひごと〕に鹽を食すれども、疱瘡は、なし」。また、ある說に、これは其地に「あした」といへる草あり。これを食するゆゑなり、と、いへり。東涯翁いふ、

「筑〔ちく〕の彥山〔ひこさん〕に『あした』は、なし、されど疱瘡は、なし」

と、いへり。これ等、疱瘡の、人より人に傳染する病といふ事は知らざるなり【吉益〔よします〕氏の「醫斷」に、『疱瘡は東漢にはじまる』といへるは、晋の建武と年號の同じき故にあやまるなり。晋にはじまる事は、「肘後方〔ちうごはう〕」に見へたれば、したがふべし。再〔ふたたび〕按ずるに、「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり。〔元恒補註-按〔あんずる〕に、これ、「外臺」に搗るなり。〕[やぶちゃん注:底本に拠り、表記法もそのままに写した。「搗」は不審。後の私の注を参照されたい。但し、原本には最後のこの元恒の補註はない。]】。

 かゝる無用のもの、世にありて、人々、その害を免れざるに、今は、人の役目と心得て、其病の遲きを憂ふは、いかにぞや。佛の、國政にあづかりて、なくてすまざる物と、おもへるにおなじ。うたてし。橋本氏の憂〔うれひ〕もまた、宜〔むべ〕なる哉〔かな〕。

 「あした」は鹹草〔しほぐさ〕なり。「大和本草」に見ゆ。一日〔いちじつ〕の内に長ずれば、「あした」とは、いふなり。【一說に「あした」は「都管草」なりといへるは誤〔あやまり〕なり。蘭山翁の說に見ゆ。】いま、此種、吾〔わが〕藩にも傳へ來りて、賞翫す。こゝに、その圖を、あらはす。「七島日記」にも圖あり。たゞし、その「日記」には『花の色、白し』と見へたれど、吾藩にある處は黃なり。

 

Asita

 

[やぶちゃん注:底本の挿絵。原本のそれはこちらしかし、この挿絵、何だか、アシタバには見えないんですけど? 第一、こんな一本立ちの菊みたいな咲き方、せえへんで? 傘形花序でっせ(グーグル画像検索「アシタバ 花」)? 葉も鋸歯があるのはええけど、やけに細いし、葉脈が細か過ぎる。ホンマにこれ、実写したんかいって感じ?!? 実際のアシタバだったとすると、元恒には博物画の才能はゼロと言わざるを得ない気がするんですけど!?!

 以下、底本では二字下げポイント落ち。そのままに写す。但し、原本には全くない。]

〔元恒補註-「垁囊抄〔あいなうしやう〕」[やぶちゃん注:「垁」はママ。私の後注を必ず参照のこと。]、疱瘡の初〔はじめ〕を記して云〔いふ〕。『源順〔みなものとしたがふ〕、「疱瘡」と書〔かき〕、疫病也。筑紫の者、魚を賣りける舟、難風〔なんぷう〕に逢〔あひ〕て新羅國に着〔つき〕、其人、うつり病〔やみ〕て歸りける』が、次第に、五畿内・帝都に流布しけるなり。「外臺祕要」、『永徽四年、此瘡從西域東流干海内』。〕[やぶちゃん注:最後の「外臺祕要」の「干」はママ。後で原文を示すが、言わずもがな、「于」の誤りである。悪いが、この底本の判読・校合は、学術書としては、ちと、ひどいレベルである。

〔元恒補註―「續紀〔しよくき〕」に、『天平七年自夏至冬天下患豌豆瘡【俗疱瘡】、夭死者多』。本居翁曰、「これ、皇國にて疱瘡のはじめか。されど、こゝの記〔しる〕しざま、はじめてとも聞へざるがごとし」

又、延曆九年にも、『秋冬、京畿、男女三十已下悉發豌豆瘡臥ㇾ疾者多シ、其甚者死天下諸國往々而在』と見ゆ。本居曰、「此瘡の名、これより後の書には、「皰瘡〔はうさう〕」といヘり。「疱瘡」、同じことなり。今の世にも「いも」といふ。昔も「かさ」といへるは、「いもがさ」の省〔はぶ〕きか」

「本草」、『鹹草、扶桑東有、女國產鹹草而、氣香味、鹹。彼人、食之。〕

 

[やぶちゃん注:「疱瘡」天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注を参照されたい。ここに出る疱瘡が殆んど発生しないという場所は、相対的に当時の大きな都会地から離れた(というより隔絶した)山間や島嶼であるから、感染者流入が概ね遮断されている傾向にあるということで腑に落ちる。食性その他云々は、見当違いである。

「御嶽」向山氏の補註に、『現、長野県木曾郡王滝村・三岳村・開田村。御嶽(おんたけ)は木曾御嶽山をさす』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。

「福島宿」向山氏の補註に、『中山道の宿駅、木曾統治の中心地。現、長野県木曾郡福島町』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。御嶽山の南東の渓谷地。

「飛疱瘡〔とびはうさう〕」天然痘が撲滅された今、ネット上ではこの言葉は検索に掛かってこない。

「橋本宗壽〔はしもとそうじゆ〕」読みは医師名なので音読みしたに過ぎない。これは、後に著書として「斷毒論」が出ることから、「橋本伯壽」の誤りであることが判る。橋本伯寿(はくじゅ ?~天保二(一八三一)年)は甲斐国市川大門村の曾祖父以来続いた医家に生まれた。名は徳、号は三巴・節斎、通称は保節。長崎に遊学し、吉雄耕牛・志筑忠雄に蘭学を学び、帰途、大村・天草を訪れ、天然痘患者の厳重な隔離による避痘効果を体験した。さらに多くの実見によって隔離法による伝染病の予防対策を提唱、文化七(一八一〇)年に「断毒論」を著わし、天然痘・梅毒等の伝染説を唱道した。避痘隔離法の法令化を甲府勤番支配役所に請願した書の中で、医学館の痘科教授池田瑞仙の説を批判したことから、「断毒論」の版木を押収されるという、筆禍も受けている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。

「晋、建武〔けんぶ〕中」東晋の元帝司馬睿(しば えい)が晋王であった時の元号で、東晋の最初の年号。三一七年~三一八年。但し、ウィキの「天然痘」によれば、『中国では、南北朝時代の斉が』、四九五『年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後』、『短期間に中国全土で流行し』、六『世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』とあり、橋本のそれは百七十八年も早い。彼は後で、この出典を「肘後方〔ちうごはう〕」(ちゅうごほう:西晋・東晋の道教研究家で著述家の葛洪(かっこう 二八三年~三四三年)が書いたとされる「肘後備急方」であろう。簡単な処方だけを集めた処方集である)とし、平凡社「世界大百科事典」の「天然痘」には、発源地については諸説あるが、最も有力なのはインドとされており、それが古代民族の移動交流にともなって世界各地に伝播していった。中国には紀元前一二〇〇年から紀元前一一〇〇年頃に流入したともされるが、中国の医書「肘後方」によると、南斉の建武年間(五世紀末)に「虜瘡(りょそう)」と呼ばれる疫病が流行した、とあって、これが痘瘡と特定出来る最初の記録とされている。恐らくはインドから仏教が伝播していった経路とほぼ同じ道、つまり、「シルク・ロード」を辿って中国に入ってきたと思われる、とあるので不審は一応は氷解した。

「聖武帝」在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年。ウィキの「天然痘」によれば、『渡来人の移動が活発になった』六『世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』(とあるので、橋本の謂いよりもこちらは前である可能性が高い)。「日本書紀」には『「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』。敏達天皇十四年八月十五日(五八五年九月十四日)に崩御した『敏達天皇の』死因も『天然痘の可能性が指摘されている』。七三五年から七三八年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。この時の天然痘について』は、「続古事談」などの『記述から、当時』、『新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている』。『奈良の大仏造営のきっかけの一つが』、『この天然痘流行である。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった』。十六『世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。上田秋成は』天然痘の後遺症で『両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。天皇も例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る』。『源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残した』とある。

「天行疫氣」「天行」は、「時節によって流行する病気・流行病(はやりやま)い」で、「疫氣」も「伝染して流行する疫病」の意。

「胎毒」狭義には、乳幼児の頭や顔に発症する皮膚病の俗称。母体内で受けた毒が原因と考えられていた結果、こうした名称で呼ばれた。現代医学では脂漏性湿疹(皮脂の過剰分泌による湿疹。分泌機能の異常・皮脂成分の問題・細菌感染(黴(かび)の一種である癜風菌(でんぷうきん:菌界担子菌門クロボキン亜門モチビョウキン(マラセチア)綱マラセチア科マラセチア属マラセチア・フルフル Malassezia furfur:マラセチア毛包炎の病原体の一種として知られる菌。多汗症の人や力士に多いとされる。面皰(にきび)に酷似するが、体幹に多く発生する。夏に首より下に発生する面皰様の腫脹の殆んどはこのマラセチア毛包炎とされる)が近年疑われている)・皮脂と発汗のバランス異常等の体質的要因によるもので、重症化はしないものの、それほど簡単には療治出来ない)・急性湿疹(接触皮膚炎。所謂、アレルギ物質の接触による広義の「かぶれ」)・膿痂疹 (のうかしん) 性湿疹膿痂疹(細菌(Bacteria)の黄色ブドウ球菌(フィルミクテス門 Firmicutes バシラス綱 Bacilli バシラス目 Bacillales ブドウ球菌科ブドウ球菌属黄色ブドウ球菌 Staphylococcus aureus)や化膿連鎖球菌(バシラス綱ラクトバシラス目 Lactobacillales ストレプトコッカス科 Streptococcaceae 連鎖球菌属化膿連鎖球菌 Streptococcus pyogenes)又はこの両者によって引き起こされる皮膚感染症。黄色い「かさぶた」(痂皮(かひ))を伴った糜爛(びらん)が発生するほか、時に黄色い液体が詰まった小水疱が形成される。また、膿瘡(のうそう)という皮膚にかなり深い爛(ただ)れを引き起こす重症症状もある。前の二種に対し、これのみ、ヒト伝染性疾患である)などを指す。

「秋山の里」南北にかなりの広域。現在の長野県下水内郡栄村の旧秋山郷地区で、ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。

「美濃の苗木」現在の岐阜県中津川市苗木

「越後の妻有〔つまり〕」新潟県十日町市と津南町からなる広域で、現在も里山が残り、棚田の景観で知られる。ここ

「伊與」(伊豫)「の露峯」愛媛県上浮穴郡(かみうけなぐん)久万高原町(くまこうげんちょう)露峰(つゆみね)

「土佐の別枝〔べつし〕」高知県吾川郡(あがわぐん)仁淀川町(によどがわちょう)別枝(べっし)

「肥前の大村」長崎県大村市

「韃靼〔だつたん〕」タタール。北アジアのモンゴル高原及び、シベリアとカザフ・ステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての、幅広い地域にかけて活動したモンゴル系・テュルク系・ツングース系及びサモエード系とフィン=ウゴル系の一部などの、様々な民族を指す語として用いられてきた民族総称。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻五の「人部一」の以下の一節。

   *

韃靼種類、生無痘疹、以不食鹽、醋故也。近聞其與中國互市、間亦學中國飮食、遂時一有之、彼人卽舁置深谷中、任其生死絕跡、不敢省視矣。一云、不食豬肉故爾。

   *

「楊墨」楊朱(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。字は子居。楊子と通称される。伝記は不明であるが、一説に、衛 (河南省) 又は秦 (陝西省) の人で、老子の弟子と伝えられ、徹底した個人主義 (「爲我」) と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆の一人で、人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にあることを説いたとされる。「呂氏春秋」中に、その遺説が散見される。墨子(紀元前470年頃~紀元前三九〇年頃)は同じく戦国時代の思想家。墨は姓、名は翟(てき)。一説に、「墨」は入墨の刑で、墨子は受刑者であったことを意味し、社会や反対派が彼を卑しんで呼んだことに始まるともいう。墨子の事跡は明らかでないが、魯に生まれて、宋に仕えたという。封建制を是認し、道徳を尊重するなど、儒家と一致する主張が少なくない。しかし、儒家の礼説が繁雑で、財を尽くし、民を貧しくする有意な弊害を非として、反動的に礼楽を軽視し、勤労と節約を旨としたことで知られる。

「南北朝の間に佛あり」中国への本格的な仏教伝来は後漢(二五年~二二〇年)の頃であったが、魏晋南北朝時代(後漢末期の「黄巾の乱」(一八四年)から始まり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期。一八四年から五八九年)に独自の発展を始め、唐代に発展し、多くの宗派が形成されたことを「嚆矢」として特にかく言ったものものであろう。

「疱瘡の毒の、國に充〔みち〕たる、また、佛の、國にあるがごとし」「疱瘡の疫毒が日本中に蔓延するのは、また、これ、仏教が日本国に蔓延(はびこ)っていることと同じである」の意。本篇を読むに、元恒が強烈な排仏派であったことが判る。

「東涯翁」既出既注であるが、再掲しておく。伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は京都出身の儒者で、名は長胤(ながつぐ)。古義学派の創始者である伊藤仁斎の長男として、父の家塾「古義堂」を守り、多数の門人を教えた。父の著作の刊行に務め、古義学を集大成した。また、中国の儒教史・語学・制度を、日本と対比させつつ、研究し、膨大な著述を成した。書名がないので、引用元を調べる気にはならない。

『「あした」といへる草』セリ目セリ科シシウド属アシタバ Angelica keiskei。近年、スーパーでも見かけるようになった。ウィキの「アシタバ」によれば、『和名アシタバ(明日葉)の名は、強靱で発育が早く、「今日、葉を摘んでも明日には芽が出る」と形容されるほど生命力が旺盛であることに由来する』。『野菜としてアシタバが常食される八丈島は、産地として有名なことから八丈草の名でも呼ばれている』。『伊豆大島系と八丈島系の系統が存在しており、伊豆諸島でも島毎に多少形状が異なるとされる。茎の色で伊豆大島産のものを「赤茎」、八丈島産のものを「青茎」と呼ぶ。また、御蔵島産のものは他の島に比べ、茎が太いとされる』とあり、『特徴的な成分としては、カルコン』(chalcone:芳香族ケトンの一種) 類(キサントアンゲロール:Xanthoangelol:体内に於ける脂質燃焼促進効果を持つ)や芳香物質として知られるクマリン(coumarin:桜の葉に代表される植物性芳香成分の一種)類を『含み、これらは抗菌作用を持つ。中国でも薬用に用いられており、古くは明の時代に編纂された』李時珍の本草書「本草綱目」に『その名が見られる』。『日本では江戸時代中期に貝原益軒の』「大和本草」(後で電子化する)で『八丈島の滋養強壮によい薬草として紹介されている』。但し、『収穫時期及び生育年数や系統により、含有している成分や構成比には差異があ』り、あたかも『万能薬のように言われることもあるが、俗信の域を出ないものも多い』ともある。なお、ここでアシタバを食べるために八丈島の民は疱瘡に罹患しないというのは、寺島良安の「和漢三才図会」にも載る。所持する原本画像をもとに訓読して電子化する。巻第九十九の「葷草類」(くんそうるい:臭いの強い草本類)にある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像(HTML単一画像)を示すと、これ。読みは私の推定。

   *

あしたば 【正字、未だ詳らかならず。】

△按ずるに、此の草、八丈島より出づ。苗、尺許り。茎・葉、畧(ほぼ)三葉芹(みつばぜり)に似て、三椏(みつまた)、三葉。靣(めん)、深(ふかき)青にて、背、青白(せいはく)色。甚だ光滑(くわうかつ)にして、細(さい)なる鋸齒(きよし)有り。凡(およ)そ、莖・葉、柔らかく脆(もろ)き草は、冬、凋まざる無し。此の草、四時(しじ)、凋まず、以つて異と爲(な)す。其の葉、新舊、相ひ交じる。嫩葉(わかば)を取りて、煠(ゆ)でて食ふ。味、淡く甘し。三年を經(ふ)る者、小花を開く。相ひ傳ふ、「小兒、之れを食へば、能く痘疹(とうしん)を免(まぬか)る」と。未だ是非を知らざるなり。

   *

「筑〔ちく〕の彥山〔ひこさん〕」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九メートル。ここ

『吉益氏の「醫斷」』吉益東洞 (よしますとうどう 元禄一五(一七〇二)年~安永二(一七七三)年)は安芸国山口町(現在の広島市中区橋本町付近)出身の漢方医で、古方派を代表する医であり、日本近代医学中興の祖とされる。名は為則、通称は周助。初め、東庵と号し、後に東洞とした。「傷寒論」(後漢末から三国にかけて張仲景が編纂した伝統中医学の古典。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心)を重視するが、その中の陰陽五行説さえも後世の竄入(ざんにゅう:誤って紛れ込んだもの)とみなし、観念論として排した。三十歳の頃、「萬病は、唯、一毒、衆藥は、皆、毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去つて、体、佳なり」と「万病一毒説」を唱え、すべての病気が一つの毒に由来するとし、当時の医学界を驚愕させた。この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤(しゅんざい:劇薬)を用いる攻撃的な治療を行った。後の呉秀三や富士川游はこの考え方を近代的で西洋医学に通じるもの、と高く評価している。著書には当時のベストセラーとなった「類聚方」・「薬徴」・「薬断」などがあり、「東洞門人録」によると、門弟も五百四十六名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。かの華岡青洲は彼の弟子である(以上はウィキの「吉益東洞」に拠った)。「醫斷」は彼の医説を鶴元逸が纏めたもので、宝暦九(一七五九)年刊行した、やはり「万病一毒説」に基づくもので、非常な反響を呼んだ医書の一つであった。

「東漢」後漢(二五年~二二〇年)のこと。後漢の光武帝劉秀の治世に、晋と同じ「建武」が後漢最初の年号として、二五年から五六年まで使われた。

『「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり』そもそも元恒がわざわざ指摘したのは正しく、「本草綱目」巻四には「疱瘡」の項があるが、このような記載はない。しかもこの謂いは異様にヘンで、「唐の高祖」「永徽四年」なんておかしい。高祖は初代皇帝李淵のことだ。「永徽」は唐の第三代皇帝高宗(李治(りち))の治世の年号だっつーの! 六五三年だ! 底本にある元恒の補註とする「按〔あんずる〕に、これ、外臺に搗るなり」とあるが、この「搗る」は甚だ不審で、思うに「據る」(よる)の誤字か誤判読ではないかと思う。さてもその場合、前の「外臺」は「外臺祕要」(げだいひよう)と考えられる。即ち、この補注自体が非常に不親切なもので(流石は元恒って感じ)、これは伊藤東涯の書いたもの、或いは吉益の「醫斷」(恐らくは後者)にそう書いてあるが、そう書いてある原拠は「本草綱目」ではなくて、「外台秘要」の誤りだ、と言っているらしい。「外台秘要」は六朝から唐代にかけて用いられていた薬の処方を集めたもので、編者は唐の玄宗の末年に、河南省安陽の太守であった王燾が記したものであって、天宝 一一(七五二)年の自序がある。本書は引用文に必ず出典が明記されていることから、当時の医書を知るうえでも貴重な資料となる。但し、現存する伝本には当初の完全なものはない。北宋期の刊本が現存するものの、流布本は山脇東洋が明時代の刊本をもとに延享三(一七四六)年に復刻したもので、元恒もそれに「據(拠)」って記したものであろう。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「唐王燾先生外台秘要方」王燾撰・林億ら上進本(慶応二(一八六六)年山田業広の藍書入れがある)を調べたところ、こちら33コマ目の「天行發瘡豌豆」(わんず)「疱瘡方一十一首」の前書に、

   *

云、永徽四年、此瘡從西域、東流于[やぶちゃん注:ハイ。「干」じゃありません。]海内、但煑葵菜葉蒜虀、啖之則止、鮮羊血入口亦止、初患急食之、少飯下菜亦得【出第二巻中】

   *

とある。「虀」は植物ではなく、「膾(なます)」或いは「あえる」の意(前者であろう)。

「人の役目と心得て、其病の遲きを憂ふは、いかにぞや」「人は必ず一生のうちに疱瘡に罹るもの」と考えていたことが判る。これは思うに、多くの人々は、疱瘡を麻疹(はしか)と混同していたのではなかろうか。

「佛の、國政にあづかりて、なくてすまざる物と、おもへるにおなじ」強烈だね。仏教を天然痘と同じい病悪であると言っているのである。

「橋本氏の憂もまた宜なる哉」これは橋本の天然痘の深刻な疾患に認識や避痘隔離の考え方に賛同しているのではない。それは橋本が撲滅など出来ない天然痘を隔離することで滅ぼせないかと苦心惨澹しているのと同じで、それは、糞のような仏教が国政にまで幅をきかせている現状は間違っているが、仏教を日本から排することは最早出来ないという私の憂いと同じようなものだ、と言っているのである。やっぱり、この元恒、いやなオッサンだと思う。橋本は先に示した通り、版木押収という事件に巻き込まれたが、ここでかくも嘯いている元恒は、後に彼の門人らが、藩士の開墾事業参加を、武士が百姓の真似をすることは恥ずべきことだと訴えて、結果、彼らの師であった元恒とその一家を山中に流謫し、書信交換さえ禁じられ、二年後にそこで病死したことを考えれば、哀れなものと言わざるを得ない。

『「あした」は「鹹草」〔カンサウ〕なり』「鹹草」はアシタバの漢名異名の一つ。「鹹」(訓は「しおからい」)は、恐らく海岸近くに生えることによるものと思われる。植物体自体が塩辛いというより、植生上、個体に塩分が附着するからやや塩辛くなるということか。

『「大和本草」に見ゆ』「大和本草」巻之五の「草之一」にある。以下に中村学園大学図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」のこちらPDF)の37から38コマ目にかけてあるもので電子化する。カタカナの一部をひらがなにし、句読点・記号・濁点・改行を配し、読みの一部を推定して添えたり、送り仮名で出して、漢文脈部分は訓読し、読み易くした。

   *

鹹草(アシタ) 「アシタ」と云ふ草、八丈が島の民、多くうへて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、朝夕の粮(らう)に充つ。彼の嶋、米穀なき故なり。江戸諸州にも「アシタ」をうふ。葉は前胡(ぜんこ)・防風に似たり。各(おのおの)、三葉、分る。莖、微紅(びこう)、小なる者、紅(あか)からず、微(かす)かに香氣有りて、微かに辛し。「本草綱目」三十二巻、「鹽麩子」(えんふし)の「附録」に、「鹹草」を載せたり。曰はく、『扶桑の東に女國(ぢよこく)有り、鹹草を產す。葉、邪蒿(じやかう)に似にて、氣、香(かぐはし)く、味、鹹(しほから)し。彼の人、之れを食ふ』。

○今、案ずるに、是れ、「アシタ」なるべし。八丈嶋は日本の東にあり、昔は女人のみ、之れ、有りと云ひ、「女護(によご)の嶋」と云ふ。『扶桑の東に女國』といへるは、八丈嶋なるべし、「後漢書」の「東夷傳」に曰はく、『海中、女國有り、男、無し。其の國、神井有り。之れを闚(うかゞ)へば、輙(すなは)ち、子を生ず』。八丈嶋、女國なる叓(こと)を「北条五代記」に詳(つまびら)かにいへり。

   *

語注する。

・「前胡」双子葉植物綱バラ亜綱セリ目セリ科シシウド属ノダケ Angelica decursiva。根を薄く切って日干しにしたものを「前胡」と称し、生薬とする。

・「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata

・『「本草綱目」三十二巻、「鹽麩子」の「附録」に、「鹹草」を載せたり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年風月莊左衞門板行本の訓点附き本のここ(右ページ第一行下方)。なお、この「鹽麩子」というのは、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis を指す。

・「邪蒿」セリ目セリ科セリ亜科イブキボウフウ属 Seseli の種群。代表種はイブキボウフウ Libanotis coreana で本邦にも分布する。

・「後漢書」後漢(二五年~二二〇年)朝についての史書であるが、成立はずっと後の五世紀南北朝期の南朝宋の時代。編者は范曄(はんよう 三九八年~四四五年)。

・「北条五代記」後北条氏五代(北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。全十巻。後北条氏の旧臣で「小田原合戦」の籠城戦を体験したという三浦茂正(法名・三浦浄心)の著書である「慶長見聞集」から、後北条氏に関わる記事を、後に茂正の旧友と称する人物が抄録したもの。後北条氏の盛衰を項目を立てて記載しているものの、史料として使用するには検討が必要である。成立は元和年間(一六一五年~一六二四年)とされているが、現在の刊本はそれより後の寛永期(一六一五年~一六二四年)のものと、さらに後の万治期(一六五八年~一六六一年)のものがあり、前者は七十四条からなるが、後者はそれよりも少なく、内容も多少異なっている(以上はウィキの「北条五代記」に拠った)。「国文研データセット簡易Web閲覧」のこちらに全画像があり、当該部分は第五巻の「四 八丈嶋渡海の事」ここと、ここと、ここと、ここであるが、流石に、脱線も甚だしいので電子化する気はない。

『一說に「あした」は「都管草」なりといへるは誤〔あやまり〕なり。蘭山翁の說に見ゆ』「本草綱目」巻十三の「草之二」に「都管草」がある。先と同じ訓点版(ここ)を訓読の参考にした。

   *

都管草【宋「圖經」。】

[集解]頌曰、『都管草生宜州田野、根似羌活頭、歲長有節。苗高一尺許、葉似土當歸、有重臺。二月、八月採根,陰乾。施州生者作蔓,、又名香球、蔓長丈餘、赤色、秋結紅實、四時皆有、采其根枝、淋洗風毒瘡腫』。時珍曰、『按、范成大「桂海志」云、「廣西出之、一莖六葉」』。

根[氣味]苦、辛、寒。無毒。

[主治]風腫癰毒赤疣、以醋摩塗之。亦治咽喉腫痛、切片含之、立愈【蘇頌】。解蜈蚣・蛇毒【時珍】。

  *

都管草【宋「圖經」。】

[集解]頌(しやう)曰はく、『「都管草」、宜州(ぎしう)[やぶちゃん注:現在の広西チワン族自治区河池市宜州区(グーグル・マップ・データ)。]の田野に生ず。根、羌活(きやうかつ)[やぶちゃん注:せり科Notopterygium 属キョウカツ Notopterygium incisum。本邦には植生しない、]に似、頭、歲(とし)ごとに長じて、節、有り。苗の高さ一尺許り、葉、土當歸(どたうき)[やぶちゃん注:先に出たノダケ。]に似て、重(かさ)なれる臺(うてな)有り。二月・八月に、根を採り、陰乾す。施州(ししう)[やぶちゃん注:現在の湖北省恩施市(グーグル・マップ・データ)。]に生ずる者は、蔓を作(な)す。又、「香球」と名づく。蔓の長さ、丈餘、赤色。秋、紅き實を結ぶ。四時、皆、有り、其の根・枝を采り、風毒・瘡腫を淋洗(りんせん)す』。時珍曰はく、『按ずるに、范成大が「桂海志」に云はく、「廣西に之れ出ず。一莖、六葉。」と。』。

根[氣味]苦〔く〕、辛〔しん〕、寒〔かん〕。毒、無し。

[主治]風腫・癰毒〔ようどく〕・赤疣〔せきぜい〕、醋(す)を以つて、摩(ま)して、之れを塗る。亦、咽喉の腫痛を治するに、切り片(へん)にして之れを含めば、立ちどころに愈(い)ゆ【蘇頌〔そしやう〕。】。蜈蚣(むかで)・蛇の毒を解す【時珍。】。

   *

さても、元恒が言っているのは小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」である。国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」巻之九の「草之二」の当該部の画像をもとに電子化する。一部のカタカナはひらがなにし、句読点・記号を附した。読みは推定で添えた。

   *

都管草  詳らならず。

 「ハチゼウサウ」に充(あて)る古説は穩(をん)ならず。「八丈サウ」は「果部」、「鹽麩子(フシノキノミ[やぶちゃん注:原本のルビのママ。])」の「附錄」の「鹹草」に近し。

   *

確かに「穩ならず」というのは「穏当ではない」ということで、同定比定に否定的ではあるように見えるんや……だけどねぇ……元恒先生よ……その舌の乾(ひ)ぬ間に、蘭山先生……「本草綱目」の「鹹草」に記載されているものに近い……って言っちゃてるわけなんだよね? 「鹹草」は――さっき見たよね? それって、女護が島とされた八丈島の明日葉でしょうが? 序でに、現代の中文サイトのアシタバについて記したこのページを、ご覧な。そこで、「咸草」ってあるでしょ? それが「鹹草」だよ。この中国人は、鹹草=アシタバに比定してるわけ。それにさ、決定的なのがあるよ! そこにある出所不明の江戸のものらしい図譜の写真を、よ~う、見てみいな!――都管草(トクワンサウ)【八丈草 アシタバ】――って書いてありまっせ?

「七島日記」小寺応斎なる人物の紀行日記らしい。寛政八(一七九六)年の成立という。但し、見た刊本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」)の序(別人)は文政七(一八二四)年の序であった。その「上」巻PDF)の14コマ目の終わり辺りから15コマ目に八丈島の「鹹草(あしたくさ)」の記載があり、「中」巻(同前)の14コマ目にもあるのだが、花の色の記載はない。下巻のここにHTML単一版)「鹹草」の絵がある。

『その「日記」には『花の色、白し』と見へたれど、吾藩にある處は黃なり』アシタバの花は淡い黄色で、遠目には白くも見える。

「垁囊抄」「塵添壒囊鈔」(じんてんあいのうしょう)のことであろう。単に「壒囊抄」とも呼ぶ。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書である。因みに言っておくが、「垁」は音「チ・ジ」で城壁の面積の単位で、「一垁」は長さ三丈・高さ一丈である。「雉」と同字であるが、「壒」(「土煙」の意)とは通字でも何でもない。なお、同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻三の二十三条「モカサト云字ハ何(イカ)ニ」である(標題は前ページ)。そこでは痘瘡の流行にニラとネギとを食すことで効果があった旨の記載がある。

『源順〔みなものとしたがふ〕、「疱瘡」と書〔かき〕、疫病也』「和名類聚抄」の巻第三の「形体部第八 瘡類第四十一」に(ひらがなの読みは私の推定)、

   *

皰瘡(モカサ) 「唐韻」云はく、『皰【「防」・「敎」の反。】]、面瘡なり』と。「類聚國史」に云はく、『仁壽二年、皰瘡(はうさう)、流行して、人民、疫死す【皰瘡、此の間、「裳瘡(もがさ)」と云ふ。】。

   *

ここ出る「類聚國史」は編年体である「六国史」の記事を、菅原道真が、中国の類書に倣う形で分類・再編集した歴史書。寛平四(八九二)年完成。「仁壽二年」八五二年。

「外臺祕要」前の『「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり』の注で既注で、正しい原文もそこに載せてある。

「續紀」「續日本記」(しょくにほんぎ)。平安初期に菅野真道らによって編纂された勅撰史書。「日本書紀」に続く「六国史」の第二。延暦一六(七九七)年に完成した。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年までの九十五年間の歴史を扱う。全四十巻。

「天平七年」七三五年。

「自夏至冬天下患豌豆瘡【俗疱瘡】、夭死者多。」「夏より冬に至り、天下、豌豆瘡(わんづかさ)を患ひ【俗に疱瘡〔と〕曰ふ。】、夭死(えうし)する者、多し。」。読みと「〔と〕」は私が補った。

「延曆九年」七九〇年。同じく「續日本紀」の延暦九年の条にあり、「豌豆瘡」の後にやはり『俗云裳瘡』という割注が入っている。

「秋冬、京畿、男女三十已下悉發豌豆瘡臥ㇾ疾者多シ、其甚者死天下諸國往々而在」「秋・冬、京畿、男女(なんによ)、三十已下(いか)、悉(ことごと)く豌豆瘡を發し、疾(や)み臥(ふ)す者、多シ。其の甚だしき者、死す。天下、諸國、往々にして、在(あ)り。」。皮肉だ。今と同じで「往々にして」(これは無論、「おうおうにして」で、「物事が頻繁に発生する傾向があることを言う副詞だが、それはこの場合、「往来」することによって齎されるのである)、天然痘が日本国中に伝播されていったのである。

「いも」疱瘡に罹り、死なずに済んだが、全身に出来たそれが、醜い痘痕(あばた)となって残った場合のものを、かく呼んだ。「芋」この子のようにブツブツと突出していたり、皮膚が正に「芋」のような色などに変色して斑紋を成したのである。]

2020/11/13

北原白秋 邪宗門 正規表現版 日ざかり

 

  日ざかり

 

嗚呼(ああ)、今(いま)し午砲(ごはう)のひびき

おほどかにとどろきわたり、

遠近(をちこち)の汽笛(きてき)しばらく

饑(う)うるごと呻(うめ)きをはれば、

柳原(やなぎはら)熱(あつ)き街衢(ちまた)は

また、もとの沈默(しじま)にかへる。

 

河岸(かし)なみは赤き煉瓦家(れんぐわや)。

牢獄(ひとや)めく工場(こうば)の奧ゆ

印刷(いんさつ)の響(ひびき)たまたま

薄鐵葉(ブリキ)切る鋏(はさみ)の音(おと)と、

柩(ひつぎ)うつ槌と、鑢(やすり)と、

懶(もの)うげにまじりきこえぬ。

 

片側(かたかは)の古衣屋(ふるぎや)つづき、

衣紋掛(えもんかけ)重き恐怖(おそれ)に

肺(はひ)やみの咳(しはぶき)洩(も)れて、

饐(す)えてゆく物のいきれに、

陰濕(いんしつ)のにほひつめたく

照り白(しら)み、人は默坐(もくざ)す。

 

ゆきかへり、やをら、電氣車(でんきしや)

鉛(なまり)だつ體(たい)をとどめて

ぐどぐどとかたみに語り、

欝憂(うついう)の唸(うなり)重げに

また軋(きし)る、熱(あつ)く垂れたる

ひた赤(あか)き滿員(まんゐん)の札(ふだ)。

 

恐ろしき沈默(しじま)ふたたび

酷熱(こくねつ)の日ざしにただれ、

ぺんき塗(ぬり)褪(さ)めし看板(かんばん)

毒(どく)滴(た)らし、河岸(かし)のあちこち

ちぢれ毛(げ)の瘦犬(やせいぬ)見えて

苦(くる)しげに肉(にく)を求食(あさ)りぬ。

 

油(あぶら)うく線路(レエル)の正面(まとも)、

鐵(てつ)重(おも)き橋の構(かまへ)に

雲ひとつまろがりいでて

くらくらとかがやく眞晝(まひる)、

汗(あせ)ながし、車曳(ひ)きつつ

匍匐(は)ふがごと撒水夫(みづまき)きたる。

三十九年九月

  

[やぶちゃん注:これはまさに映像にしてみたい強い欲求に駆られる。各連の対象のアップとそのモンタージュ、視聴嗅覚の総てが否応なしに動員されるカット・バック――これは他の追従を許さぬ、一見、強烈なリアリズムを持ったシュールレアリスムの映像と言ってもよいように私は感ずる。]

Hizakari

2020/11/12

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 駒嶽

 

信濃奇談 卷の下

堀内元鎧 錄

 

 駒嶽

 

Kisokoma

 

[やぶちゃん注:本篇中ほどにある見開きの駒ヶ岳の図。原本はこちら。底本の上図は擦れがひどく見るに堪えない(特に図中のキャプションは一部が見えなくなってしまっている)ので必ず鮮明で綺麗な原本で見られたい(早稲田大学図書館「古典総合データベース」は画像の引用使用を一切認めていないので示すことは出来ない)。図中に書き入れられた漢詩(図の右端)と和歌(図の左端)は以下。

   *

勒駒嶽銘

  源俊豈

靈育神駿

高逼天門

永鎭封域

維嶽以尊

 

 

     藤原家經

風こしの峯のうへ

   にて見るときは

  雲はふもと

    のものにそ

      ありける

   *

図に附されたキャプションは右から、

   *

             ハイ松

        農池〔のうがいけ〕

  天狗嶽〔てんぐだけ〕

     勒銘山〔ろくめいざん〕

 錫杖岩〔しやうじやういは〕

   *

である。

・「ハイ松」は裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila の群落を指す一般名詞である。

・「農池」は「濃ヶ池」(のうがいけ)で、中央アルプス唯一の氷河湖の姿を残すものである。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、残雪で池は見えない)。この池の標高は二千六百五十メートルである。

・「天狗嶽」前の濃ヶ池と伊那前岳の位置から、これが中央アルプス木曾山脈の主峰である木曽駒ケ岳(標高二千九百五十六メートル)かと初めは思った(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)のだが、わざわざ別名で記すのもおかしいと気がついて、地図と首っ引きで考えてみたところが、実はこの絵には不思議なことに木曾駒ケ岳は描かれていないというか、名指されていない。これ、「駒嶽」という文章標題にしてヘンな絵図なのあった(正直、またしてもガックリさせられた)。この「天狗嶽」とは、天狗岩(グーグル・マップ・データ航空写真)のことである。この俯瞰図は、まず、パースペクティヴがおかしく(これは時代と描いた人の能力の問題で仕方がない)、しかも南北のピークの位置関係が妙に引き伸ばされてしまっているようなのである(一点透視図になっていない。寧ろ、三つのピークを左・中央・右で俯瞰位置をそれぞれにズラして描いている。本来は、「錫杖岩」(後に注する通り、現在の宝剣岳)のすぐ右手にくっついて「天狗岩」は描かれなくてはならない(前の天狗岩を参照)。木曾駒ケ岳はこの妙な引き延ばしによるなら、図の右手の遙か外にあることになるのである。

・「勒銘山」伊那前岳(グーグル・マップ・データ航空写真)。その近くの稜線に先の漢詩を刻んだものがあり、それを顕彰する碑(昭和初期建立)もある。上記リンク先のサイド・パネルの写真で後者の碑が見られる。標高は二千八百八十三メートル。

・「錫杖岩」恐らくこれは木曾駒ケ岳から天狗山荘を抜けて南位置にある宝剣岳であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高は二千九百三十一メートル。サイト「宮田村インターネット博物館」の「駒ヶ岳(千畳敷カール・宝剣岳・中岳・本岳・前岳)」には、『古くは錫丈』(しゃくじょう)『岳または』剣ヶ峰(けんがみね)『と称した。この岩の西方に突出』『して天狗岩がある』とあり、写真で見ると、本当に天狗の横顔に見えるのに吃驚した。その天狗岩が天狗嶽ではないかと思われる方もあろうが、位置的に有り得ない。そもそも木曾駒ケ岳を書いているのに、付図に木曾駒ケ岳が描かれないということはあり得ないからである。

 漢詩は向山氏の「勒駒嶽銘」補註に、『永は長が正しい』とあるので、それで訂した。サイト「宮田村インターネット博物館」の「勒銘石」(ろくめいせき)にある訓読を参考にしつつ、一部は独自に訓読した。

   *

勒駒嶽(ろくくがく)の銘

           源俊豈(げんしゆんがい)

靈(れい) 神駿(しんしゆん)を育(はごく)み

高く 天門に逼(せま)る

永く 封域(ふういき)を鎭(しづ)め

維(こ)れ 嶽(がく) 以つて 尊(たつと)し

   *

この漢詩は上記リンク先他によれば、天明四(一七八四)年七月二十五日に当時の高遠藩郡代であった阪本天山(さかもとてんざん 寛保二(一七四二)年~享和三(一八〇三)年:源俊豈(みなもとのとしやす))が宮田村から駒ヶ岳検分のために登攀、『藩士及びお供合わせて』十六『をもって、地元の村役人ほか』、『人足・石工など』六十『余人』という驚くべき数の一行で、『太田切川』(截田渓渓谷(たぎりがわけいこく)の『中御所谷を経ヘて登』り、『日暮れて千畳敷の末端』の「日暮(ひぐらし)の大滝」『付近に野営』『した。道に窮』したが、『北方の前岳斜面をたどり』、『稜線』『に至』ることができ、『眺望絶佳』、『近くには濃ヶ池方面、遠くは伊那谷、高遠方面が眺』『められた』。天山は『ただちに詩を詠』じ、『門人岡村忠彝』(おかむらただつね)『をして篆書』『せしめ、石工をして』その場で岩面にその詩を『彫らせた』とあり、それは現在も残っていることが、添えられた写真で判る。必見!

 和歌は頭書にある通り、「詞花和歌集」(平安後期の勅撰和歌集。「八代集」の第六。崇徳院の院宣によって藤原顕輔が撰し、仁平元(一一五一)年頃に成立した)の巻第十の「雜下」にある一首(三八九番)、

   *

  信濃の守(かみ)にてくだりけるに、
  「風越(かざこし)の峰」にて。

風(かざ)こしの峰(みね)のうへにてみる時は

   雲はふもとのものにぞありける

   *

で、「風越の峰」(「かざごし」とも読む)は信濃国の歌枕で、長野県南部の飯田市の西方にある木曾山脈の一峰(但し、先の連峰からは東にやや離れた位置にある)。標高千五百三十五メートルで「権現山」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。作者の藤原家経(正暦三(九九二)年~天喜六(一〇五八)年)は平安中期の貴族で学者・歌人・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)。参議で漢詩人として知られる藤原広業(ひろなり)の長男。官位は正四位下・式部権大輔。彼は実際に長元五(一〇三四)年二月八日に信濃守に叙されている。]

 

 駒嶽〔こまがたけ〕は宮田〔みやだ〕の西にあたりて、羽廣山〔はびろやま〕、宮所村〔みやどころ〕の龍崎〔りゆうがさき〕までも、山脈、打〔うち〕つゞきけり。

 その處に、觀音ありて、馬の疾〔やまひ〕を守り、馬の疾ある時に、その土〔ど〕の人、祈れば、かならず、效あり、といふ。

 私〔わたくし〕にいふ。是〔この〕名、山靈〔さんれい〕、秀〔しう〕の德の及べるなり。

 山の頂〔いただき〕に大〔おほい〕なる駒の住〔すみ〕けるよし、寬永中に、尾州の有司〔いうし〕、上〔かみ〕の命を請〔うけ〕て山廻りせし時に、絕頂にて、駒の雲に登りしを見たると「新著聞集」に出たり。其後〔そののち〕にも、頂に、尾毛〔びまう〕の、木の枝にかゝり、あるひは馬糞(〔ば〕ふん)[やぶちゃん注:「ふん」のみ底本のルビ。但し、原本にはルビはない。]などの有〔あり〕しを見たるといふ事、安藤氏の記、及〔および〕「囘國筆土產」等に見へたり。世の人、あやしう思ふめれど、名山の德、もとより、人の智力もて測り知れざる事の多ければ、おのずから[やぶちゃん注:原本もママ。]靈物を產すまじきにもあらず。天正の頃、織田公、天下の諸侯を募りて駒嶽を狩し、「良馬を得て、軍用に備へん」と謀〔はか〕り給ひしが、不慮にして生害〔しやうがい〕せさせ給ひ、その事、止〔やみ〕たりと、「三季物語」に見へたるを、「みだりに神物を得〔え〕まく慾〔ほつ〕したまひしゆゑに、その咎〔とが〕を得給ひしなり」と後の人、評しき。「囘國筆土產」には『駒の形、小なり』といひ、「新著聞集」には『大なり』といふ。もとより神物なれば、大ともなり、小ともなり、變幻きわまりなきものにや。

[やぶちゃん注:以下は底本の罫外にある頭書。原本画像はこちら。]

 「風越〔かざこし〕の峯」も、飯田より宮所迄の一山〔いつさん〕の總稱なるべし。今の「白山の峯」のみ「風越」と心得たるは誤〔あやまり〕なり。「詞華集」、家經〔いへつね〕が歌、徵〔ちやう〕すべし。

 

[やぶちゃん注:まず、またまた呆れるのは、この木曾駒ケ岳に限らず、広く多くの駒ヶ岳の由来が、農事を占うための、山腹に現われる「駒(こま)の雪形(ゆきがた)」であることを、少しも元恒が説明しようとしていないことである。しかも、民の無知をせせら笑(わろ)うた冷徹な現実主義者のはずの元恒が、山の神霊なんてもの霊験あらたかなるを、ここではミョーに尊んでいるのにも――「何これ?」――って感じなのだ。民草を馬鹿にするから、彼らから話を聴かぬ。だから、「駒」は残雪の形であるという、農民なら誰もが知っていることに思い至らぬ。文字通り、「馬」鹿は死ななきゃ治らないという奴さね。

「宮田」向山氏の補註に、『長野県上伊那郡宮田村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。拡大されると判るが、権現山を除いた前記の峰や池はこの地区内及び境界線上に含まれる。現在の村名は「みやだ」と濁るので、本文でもそれに従った。

「羽廣山」向山氏の補註に、『長野県伊那市羽広に仲仙寺があるが、その奥の院といわれる経ケ岳をさすものと思われる』とある。正確には現在は長野県伊那市西箕輪羽広(にしみのわはびろ)である。天台宗羽広山普門教院仲仙寺(ちゅうせんじ)は慈覚大師円仁が弘仁七(八一六)年に開基した寺で、古くから「馬の観音様」として親しまれ、各所から馬の健康安全を願って馬を連れての参詣が盛んであった、と公式サイトにある。これこそ、本文の「その處に、觀音ありて、馬の疾を守り、馬の疾ある時に、その土の人、祈れば、かならず、效あり、といふ」というのと合致する。木曽駒ヶ岳の東北の麓に当たり、親和性がある。また、同サイトの「縁起」には、慈覚『大師が比叡山で見た夢の中で「信濃の国の大神護山(だいじんごさん)へ登り観音様の像を造り奉れ」と告げられ、大神護山に登ると夕方になって明るく光る木を見つけ、この木を』十七『日間彫り続けると、十一面の救世観音の姿が顕れました』。『大師は大神護山にこの仏像を奉納し、残りの木片にお経を書いて奉納されました』。『このことからこれより後』、大神護山は『経ヶ岳と呼ばれています』とあるので、経ヶ岳は寺からはかなり離れているが(グーグル・マップ・データ航空写真左上に経ヶ岳、右下に仲仙寺を配した。直線でも五キロメートル半ほどある)、木曽駒から木曾山脈内の一つとして本文で記している以上、向山氏の謂いは正しい。

「宮所村」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡辰野町宮所』とある。「辰野町」は「たつのまち」で、「宮所」は「みやどころ」と読む。思うに、そこの「龍崎」というのは、現在の同地区の西直近の辰野町伊那富(いなとみ)にある龍ヶ崎城跡であろう。グーグル・マップ・データ航空写真のこちらで見て貰うと、左下方の「木曽山脈」のランド・マークが木曾駒ケ岳で、そこから尾根を東北に見てゆくと、経ヶ岳を経て、右上の端で峰を下った先に龍ヶ崎城跡があって、謂いが腑に落ちるのである。龍ヶ崎城はサイド・パネルの説明版を見るに、主郭跡は標高八百五十六メートルの山頂にあるとある。築城年は寛正五(一四六四)年よりも前とある。しかしこの説明版、ヒド過ぎる。「寛正」を「寛政」と書いている

「寬永」一六二四年から一六四五年まで.

「尾州の有司」尾張藩の役人。

『「新著聞集」に出たり』俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「信州岳化ㇾ馬入ㇾ雲」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。

   *

   信州駒が嶽馬(むま)化(け)して雲に入る

寬文四年に、尾州より木曽路順見の事ありし。大目付佐藤半太夫、勘定方天野四郞兵衞、金役(かねやく)[やぶちゃん注:金銭出納役。会計係。]天野孫作(まごさく)、材木役都築(つゞき)彌兵衞、小目付眞鍋茂太夫(もたいふ)等(とう)なり。木曽案内とて、前の日に山村甚兵衞(じんひやうへ[やぶちゃん注:ママ。])殿、家來二人、所の百姓を召(めし)つれ、駒(こま)が嶽(だけ)の麓より、道筋をふみわけしに、峨々たる嶮し巖(けんがん)、やうやくに蘿葛(らかつ)[やぶちゃん注:蔓性植物の総称。]をよぢて、のぼるべき[やぶちゃん注:ママ。]。大なる芦毛(あしげ)馬の、首の毛も、尾も、地にたれひき、眼(まなこ)のひかりは鏡をかくるがごとく、其形相(けいさう)、見る人、身の毛竪(よだち)て、おそろし。然(しか)るに、かの馬(むま)、人影を見て、岑(みね)の中央まで、しづかに登りしが、劇(にはか)に[やぶちゃん注:底本では、「劇」は「處」+「刂」であるが、このような漢字は知らないので、所持する吉川弘文館随筆大成版の「劇」となっているのを採用した。]雲たち覆ひ、行方しれずなりし。その蹄(ひづめ)のあとを見けるに、尺にあまりしと也。此山の東の方に、駒のかたちしたる大石あり。春に至て、雪のきゆる事、此石よりはじまるとなり。

   *

「尾毛」馬の尾の長い毛。

「安藤氏の記」向山氏の補註に、『「駒ヶ岳一覧記」、元文元(一七三六)年八月、高遠藩士安藤太郎兵衛政陽』(読み不明)『が、代官内藤庄右衛門らと共に、唇出村加ら権厦ヅルネを経て駒ケ嶽に登山、山中二泊、つぶさに検分をした報告書』とある。また、「日本アルプス登山ルートガイド」の「中央アルプス」の「木曽駒ヶ岳」にある「江戸時代後期に盛んになる修験道と尾張徳川家、高遠藩による検分登山」の「伊那側」に、『江戸時代前期の僧であり仏師でもあった木食但唱』(たんしょう)『上人が駒ヶ岳山中に籠り修行したこと』、宝永七(一七一〇)年に『小出村(現在の伊那市)の農民が濃ヶ池で雨乞いをした記録なのが残っています』。『江戸時代』、『高遠藩では』三『回の検分登山を行っています。山林資源の開発で木曽側の尾張徳川家との境界争いが起こるようになり』、『そのため』に『絵地図の作成や利用が盛んになった』からで、まさに一回目が、この『高遠藩郡代の安藤太郎兵衛政陽らの一行が』、検分の『ために小出村から権現山・将棊頭山を辿り』、『山頂に登っています。頂上付近に岩鳥(雷鳥)が沢山いたこと、岩鹿(カモシカ)などを観察したことが「駒ヶ嶽一覧之記」に詳しく記載されています』。二『回目は』宝暦六(一七五六)年で、『高遠藩郡代の阪本運四郎英臣らの一行が、宮田村から大田切川を遡上し、権現山経由で尾根筋を登り』、『山頂に立っています。歩数で距離を測るなどして絵地図を作成』し、『「騒ぐと山が荒れる」という言い伝えがある尺丈ヶ岳(宝剣岳)の岩に向けて鉄砲を放ってみたり、「毒水」と言われていた濃ヶ池の水を飲んでみたりしたが、何も起こらなかったと「後駒ヶ嶽一覧之記」に記載しています』。三『回目は』天明四(一七八四)年で、やはり既に記した『高遠藩郡代の阪本孫八』俊豈『(天山)等の一行が、宮田村から検分登山を行っています。天山は伊那前岳の稜線で即興で』先に示した漢詩を『詠み、勒銘石に刻んだことが「登駒ヶ嶽記」に記されています』とある。このサイト、山屋のサイトとあなどるなかれ!

「囘國筆土產」既出既注の「諸國里人談」の作者菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年の随筆或いは紀行。原文に当たれないので確認は不能。

「天正」一五七三年から一五九二年。

「生害」自害。織田信長が「本能寺の変」で自死したのは天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)で享年四十九であった。

「三季物語」江戸中期に書かれたものらしいが作者不詳。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらで『「三季物語」に係る文献を教えてほしい』という質問への回答に、『「織田信長に関して『木曽路名所図会』が『三季物語』の孫引きの話を記述している」のは、巻之三の駒嶽に関する「三季物語に、天正の頃、織田右丞相、甲州を征伐して、軍をめぐらし、諸将に向って、われ聞けり、信州駒嶽に、四百年来に及ぶ神馬あり」の部分』であろうとし、「国書総目録」第三巻(岩波書店一九六五年刊)には、「三季物語」という『和書が記載されて』おり、『二巻からなる和書で、当時の東京教育大学、名古屋市立鶴舞図書館、名古屋市蓬左文庫が写本を所蔵していたことが分か』ったが、『復刻や活字化されたものについては記載が』なく、『これをもとに確認したところ、現在』は『筑波大学中央図書館、名古屋市立鶴舞中央図書館の河村文庫、名古屋市蓬左文庫が所蔵してい』るものの、『いずれでもデジタル化によるインターネットへの公開はされていないようで』あるとし、『そのため』、『各館で所蔵しているこの』「三季物語」が、確かに「木曽路名所図会」で『触れているものと同一かの判断はでき』ないとある。最後に、「三季物語」を『紹介した文献』として、『中央獣医会雑誌』(第四十三巻第八号・一九三〇年)に『掲載された、小平雪人氏の記事が見つか』ったとし、それは「木曽路名所図会」と同様の箇所を引用しているとして、当該記事PDF)がリンクされてある。されば、せめてもと、江戸中・後期の読本作者・俳人で、まさに「名所図会」シリーズの立役者としてとみに知られる秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)が文化二(一八〇五)年に刊行した「木曾路名所圖會」を早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の第三巻PDF)を調べた。28コマ目から29コマ目にあった。以下に視認して電子化する(句読点を配し、漢文体部分は訓読した。字の大きさが異なるが、一部を除いて無視した。読みは一部にとどめた)。

   *

駒嶽(こまがだけ)【木曽の東嶽なり。其髙さ數千仭(すせんじん)、數峯(すほう)連續して、其一峰(いつほう)の巓(いたゞき)に石あり。形、こ馬のごとしといふ。】

或記に云(いはく)、此山に神馬(しんめ)あり。「三季物語」に、『天正の頃、織田右丞相(うせうじやう)、甲州を征伐して、軍(いくさ)をめぐらし、諸將に向つて「われ、聞(きけ)り。信州駒嶽に四百年來に及ぶ神馬あり。

「續日本記」云天平十年八月信濃の國に神馬を獻ず。黑身・白髪の尾あり

斯くの如く旧記あれば、明年諸州の軍卒を集(あつめ)て、駒嶽を圍んで、これを狩(かり)得んと思ふ。むかし、右大將の、冨士の牧狩(まきがり)に倣ふべし。」聞□□[やぶちゃん注:ルビもあるが、判読不能。]支度に及ぶ所、其年の六月、明智光秀が爲に弑(しい)せらる。其事、輟(やめ)り。』。此山、三峯(さんほう)あり。三つの内、第一に髙きを「大嶽(おほだけ)」といふ。極(きはめ)て大山(だいさん)なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に遠方より鮮(あざやか)に見ゆ。木曾山の中(うち)なり。山上の雪、六月土用の前に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])て八月に又積る。駒が嶽の麓を「大原」といふ。其所に川筋ありて、駒が嶽より流るゝ水なわ、駒が嶽の山脉上(みやくうへ)、伊奈宮處(どころ)にいたる。奥に今村といふありて、龍飼山(りうかひさん)などいふ寺あり。寛永の頃、飯田城主脇坂矦(わきさかこう)、箕輪の陣屋に止宿ありて殿(との)、邑(むら)の八幡の森へ狩に出られ、駒が嶽を臨(のぞみ)見て詠ず。

 □□[やぶちゃん注:判読不能。]尾もしろし頭(かしら)も白(しろ)し駒が嶽(だけ)かんのつよさに雪のはやさよ

   *

判読不能部分に識者の御教授を乞う。

「變幻きわまりなきものにや」お前は馬鹿かい。

「白山の峯」現在の長野県飯田市上飯田にある白山社奥社(長野県飯田市滝の沢)の西直近にある風越山(標高千五百三十五メートル)のことか(グーグル・マップ・データ)。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 解纜

 

   解   纜

 

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――

ここ肥前(ひぜん)長崎港(ながさきかう)のただなかは

長雨(ながあめ)ぞらの幽闇(いうあん)に海(うな)づら鈍(にぶ)み、

悶々(もんもん)と檣(ほばしら)けぶるたたずまひ、

鎖(くさり)のむせび、帆のうなり、傳馬(てんま)のさけび、

あるはまた阿蘭船(おらんせん)なる黑奴(くろんぼ)が

氣(き)も狂(くる)ほしき諸ごゑに、硝子(がらす)切る音(おと)、

うち濕(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時 ― ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騷擾(さやぎ)。

 

解纜(かいらん)す、大船あまた。

あかあかと日暮(にちぼ)の街(まち)に吐血(とけつ)して

落日(らくじつ)喘(あへ)ぐ寂寥(せきれう)に鐘鳴りわたり、

陰々(いんいん)と、灰色(はいいろ)重き曇日(くもりび)を

死を告(つ)げ知らすせはしさに、響は絕(た)えず

天主(てんしゆ)より。――闇澹(あんたん)として二列(ふたならび)、

海波(かいは)の鳴咽(おえつ)、赤(あか)の浮標(うき)、なかに黃(き)ばめる

帆は瘧(ぎやく)に――嗚呼(ああ)午後七時――わなわなとはためく恐怖(おそれ)。

 

解纜(かいらん)す、大船(たいせん)あまた。――

黃髮(わうはつ)の伴天連(ばてれん)信徒(しんと)蹌踉(さうらう)と

闇穴道(あんけつだう)を磔(はりき)負ひ驅(か)られゆくごと

生(なま)ぬるき悔(くやみ)の唸(うなり)順々(つぎつぎ)に、

流るる血しほ黑煙(くろけぶ)り動搖(どうえう)しつつ、

印度、はた、南蠻(なんばん)、羅馬、目的(めど)はあれ、

ただ生涯(しやうがい)の船がかり、いづれは黃泉(よみ)へ

消えゆくや、――嗚呼(ああ)午後七時――欝憂(うついう)の心の海に。

三十九年七月

 

[やぶちゃん注:第一連最終行「うち濕(しめ)り――嗚呼(ああ)午後(ごご)七時ひとしきり、落居(おちゐ)ぬ騷擾(さやぎ)。」の後のダッシュ一字分はママ。他のダッシュに比しても明らかに前後に半角の空隙がある。一篇中の対句から見ても、単なる誤植の可能性が高く、後発の白秋自身の編集になる昭和三(一九二八)年アルス刊の「白秋詩集Ⅱ」(国立国会図書館デジタルコレクション当該詩篇の画像)では通常の「――」になっているが、ここはあくまで見た目上の再現を優先した。「灰色(はいいろ)」のルビはママ。

「蹌踉(さうらう)と」足もとがしっかりせず、よろめくさま。

「闇穴道(あんけつだう)」唐の玄宗の護持僧であった一行阿闍梨(いちぎょうあじゃり)が楊貴妃との仲を疑われ、果羅(から)の国(未詳。「大唐西域記」巻一の覩貨邏(とから)国の略称か。重罪の者が流される国という。現在のアフガニスタン北部のアム河上流にあったともされる)に送られた時に通ったとされる重罪の咎人を送るに通させた難道の名。「平家物語」の巻第二の「一行阿闍梨」には、『件(くだん)の國には三つの道あり。「輪池道(りんちだう)」とて御幸(ごかう)の道、「幽地道(いうちだう)」とて雜人(ざふにん)の通ふ道、「闇穴道」とて重科(ぢゆうくわ)の者を遣はす道なり。この暗穴道と申すは、七日七夜、月日の光も見ずして行く所なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、件の闇穴道へ遣はさる。冥々(みやうみやう)として人もなく、行步(ぎやうぶ)に前途(せんど)迷ひ、森々として、山、深し。ただ、澗谷(かんこく)に鳥の一聲(ひとこゑ)ばかりにて、苔の濡れ衣(ぎぬ)、干しあへず。無實の罪によつて遠流(をんる)の重科を被ぶることを、天道(てんだう)、哀れみ給ひて、九曜(くえう)の形を現じつつ、一行阿闍梨を守り給ふ。ときに、一行、右の指を食ひ切りて、左の袖に九曜の形を寫されけり。和漢兩朝(わかんりやうてう)に、眞言の本尊たる「九曜の曼荼羅」、これなり』とある。「九曜」とは大きな丸の回りを八つの小さな丸が取り巻く九曜紋で、古代インド以来の九曜星信仰という日・月・火・水・木・金・土の七曜に羅睺(らご/らごう:もとは日月を蔽って蝕を起こすとされた悪魔星で、仏教では阿修羅を当て、青牛に乗り、また犬の形象を持って描かれることもあった)と計都(けつ:日月を両手に捧げ、青龍に乗って憤怒の形相をした神像で表わされる。彗星のことともされる)の二星を加えたもので、仏教では天地四方を守護する仏神としての信仰と、妙見信仰の星辰崇拝との関わりから、土星を中央に、水と火、日と月、木と金、羅と計が対称に配され、仏教では羅睺を不動明王・土曜を聖観音・水曜を弥勒・金曜を阿弥陀・日曜を千手観音・火曜を虚空蔵、計都を釈迦、月曜を勢至、木曜を薬師とし、これを図像化したものを「九曜曼陀羅」と称し、平安時代には真言の本尊として崇拝された。特に道祖神的な信仰として好まれ、公家の牛車などの多くにこれが描かれたと伝えられる。但し、玄宗の護持僧一行が生きたのは貴妃が入内する前で、彼が流罪となった事実も全くなく、これは後世にでっち上げられた俗説に過ぎない。

 本詩篇は「一八四」ページ(右ページ)で終わり、見開きの左側には、以下に示した石井柏亭の挿絵「硝子吹く家」(本詩集最終ページにある挿絵等のリストにこの名で出る)がある。]

 

Garasuhukuie

2020/11/11

北原白秋 邪宗門 正規表現版 驟雨前

 

  驟 雨 前

 

長月(ながつき)の鎭守(ちんじゆ)の祭(まつり)

からうじてどよもしながら、

雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、

蒸しなやむ濃(こ)き雲のあし

をりをりに赤(あか)くただれて、

月あかり、稻妻(いなづま)すなる。

 

このあたり、だらだらの坂(さか)、

赤楊(はん)高き小學校の

柵(さく)盡きて、下(した)は黍畑(きびばた)

こほろぎぞ闇に鳴くなる。

いづこぞや女聲(をみなごゑ)して

重たげに雨戶(あまど)繰(く)る音(おと)。

 

わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こきり)は

馬やどののこるあかりに

幻燈(げんとう)のぼかしのごとも

蒸し靑(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)

ふたつみつ泥(どろ)にまみれて

ひそやかに影を落(おと)しぬ。

 

泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ

生(なま)ぬるく、重き空氣(くうき)に

新しき木犀(もくせい)まじり、

馬槽(うまぶね)の臭氣(くさみ)ふけつつ、

懶(もの)うげのさやぎはたはた

暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。

 

足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)り

しとしととまへを人かげ、

おちうどか、はたや、六部(ろくぶ)か、

背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、

靑き火の消えゆくごとく

呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。

 

生騷(なまさや)ぎ野をひとわたり。

とある枝(え)に蟬は寢(ね)おびれ、

ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば

洞(ほら)圓(まろ)き橋臺(はしだい)のをち、

はつかにも斷(き)れし雲間(くもま)に

月黃(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。

 

夜(よ)の汽車の重きとどろき。

凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、

黑烟(くろけぶり)深(ふか)き峽(はざま)は

一面(いちめん)に血潮ながれて、

いま赤く人轢(し)くけしき。

稻妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。

三十九年九月

 

[やぶちゃん注:本篇はある意味で、本詩集の中では非常に珍しい、凄絶なシークエンスを波状的に畳み上げたホラー詩篇と称してよい、素敵に慄っとする一篇である。

「赤楊(はん)」ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica。古名は「榛(はり)」。「楊」(やなぎ)に似ているとは私は思わないが、「赤」は樹皮が紫褐色から暗灰褐色を呈すること、冬の十一月から四月頃に、葉に先だって単性花をつけるが、同種は雌雄同株で、雄花穂は枝先に一~五個つき、黒褐色の円柱形で、尾状に垂れ下がる。一方、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び、雄花穂の下部の葉腋に、同じく一~五個をつける(但し、花はあまり目立たない)こと、その樹皮や果実が昔から褐色の染料として使われていることから、腑に落ちる。湿気に非常に強く、湿原のような過湿地にあっても森林を形成する数少ない樹木である(以上はウィキの「ハンノキ」を参考にした)。

「六部(ろくぶ)」六十六部の略。「法華経」を六十六回書写して、一部ずつを日本の全六十六ヶ所の霊場(当初は各国の国分寺。但し、後は六十六国の内訳を知りたければ、ブログ「礫川全次のコラムと名言」の「日本六十六か国とその唐名・その2」を見られたい。この礫川全次(こいしかわぜんじ)氏には、三十代の初め、著作読者カードで詳細な賛同を書いたところ、直筆の葉書で「歴史民俗学研究会」への入会のお誘いを受けた。妻が手術を受けた頃で、結構、やんちゃな連中の多い学校に勤めていたので、丁重に辞退したが、懐かしく思い出される)の霊場に納めて歩いた行脚僧・巡礼者。室町時代にはあったことが判っているので、そこらが始まりらしい。江戸時代には、白か鼠木綿の着物に、同色の股引・手甲・甲掛(こうがけ:草鞋(わらじ)を履く際には甲に紐を巻き付けるため、旅などで長時間履き続けると、甲や側面に擦過傷が生じる。主にそれを防ぐための履き物で、足袋によく似ているが、底がない。材料はやはり木綿で、強度を増すために刺子(さしこ)にすることが多かった)・脚絆をつけ、天蓋と仏像を入れた厨子を背負って、帯の前に出した小さな畳につけた鉦(かね)を鳴らし、鈴を振り、読経しながら、家々を回って米銭(べいせん)を報謝として乞うて回国して歩く単なる回国聖・遊行聖となってしまったが(男だけでなく女もいた)、この呼称は生き残った。中には江戸から出ない偽者の乞食がおり、「仲間六部」と呼ばれた(以上は主に三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊の「六十六部」の解説を参考にした)。一般には怪談落語の傑作「もう半分」で知られる、所謂「六部殺し」という怪奇譚群が頭に上りやすく、白秋自身、それを意識に昇らせるための確信犯の用語であるようにも私には見える。

「橋臺(はしだい)」橋梁の両端を支える部分を指す。]

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 河童 / 信濃奇談 卷の上~了

 

 河童

 羽場村〔はばむら〕に天正の比〔ころ〕、柴河内〔しばかふち〕といふ人、住〔すみ〕ぬ。ある時、馬を野飼〔のがひ〕にして、天龍川の邊〔あたり〕にはなち置〔おき〕けるを、河童といふもの、

『此馬、取〔とら〕ん。』

と、手綱とらへて牽〔ひき〕けるに、さながら、自由にもならず、かなたこなたへ行〔ゆく〕を、かの河童、繩をとらへかねてや、おのが腰に卷〔まき〕て、川へ引入〔ひきい〕れんとするに、馬は、

『ひかれじ。』

と、あらそひいどみけるが、河童、

『かくては、かなはじ。』

とや思ひけん、かの手繩を、だんだんに、おのが身にまとひつけて、力のあらんかぎり、あらそひ、引く。

『今少し、此水の中へ引入〔ひきいれ〕たらんには、いかに大きなる馬なりとも、とらでやは置〔おく〕べき。』

と、いどむうち、時うつり、日、くれたり。

 寔〔まこと〕や、小は大にかなひがたく、終〔つひ〕に、馬は、走り出して、おのが家へはしり來〔きた〕る。

 河童は、繩をいく重〔え〕も身にまとひたれば、とくに、いとまなく、ひかれ來〔きた〕るざま、人々、はしり出て、

「あなめづらし、希有〔けう〕の事哉〔かな〕。」

と集ひよりて、きびしくしばりつなぎて、厩〔むまや〕の柱にくゝりつけ置〔おき〕ぬ。

 あるじ、仁心ある人にて、無益に殺すも、さすがにあはれみて、繩、解〔とき〕て、はなちけり。

 その後〔のち〕、その恩を報ぜんにや、川魚など取〔とり〕て、戶口におきし事、度々ありし、と「小平物語〔こだひらものがたり〕」に見へたり。

 今も猶、里老は語り傅ふ。近き比にも、河童の小兒など、取〔とり〕ける事、多くあり。

 「河童」とかきて、「かつぱ」とよぶは、「かはわつぱ」の略なり。

 「本草」、『「溪鬼蟲〔けいきちゆう〕」の「附錄」に、「水虎〔すいこ〕」といへるは、此たぐひにや』と、貝原翁、いへり。

 私〔わたくし〕にいふ。是、水獺〔かはをそ〕の老〔おひ〕たるものにや。

 貝原翁、又、いふ。「淮南子〔ゑなんじ〕」に『魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯』。「左傳注疏」に『魍魎は川澤〔せんたく〕の神なり』と見えたる、この河童に似たり」

 

信濃奇談卷之上終

 

[やぶちゃん注:この話は『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2)』に引かれており、そこで私が注を附してあるので参照されたいが、そこでも引かせて戴いた、柴徳昭氏のサイト「Local History Archive Project」の「新蕗原拾葉/地域の歴史資料をアーカイブ・閲覧ライブラリー」が非常に詳しく、後に出る「小平物語」の抄出と訳もある。この話の部分はそこにはないが。先のリンク先(私の柳田のそれ)で引用したが、本篇の河童の話は独立項「言い伝え」のパートに「羽場淵のカッパ伝説(戦国)」としてあり、サイト主の柴氏(柴氏の後裔であられるのかも知れない)の優れた考証も添えられてあるので、まずはそちらを見られたい。なお、河童は言わずもがな、私の怪奇談にはそこら中にあるし、上記にリンクさせたものを含め、カテゴリ「柳田國男」では、「山島民譚集(河童駒引・馬蹄石)」の電子化注も終わっている。

「羽場村」向山氏の補註に『現、長野県上伊那郡辰野町羽場』。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の町域では、北部が天竜川沿いに当たる。

「天正の比」一五七三年から一五九二年。

「柴河内」これは「柴河内守」の名乗りの略。先の柴徳昭氏のサイトの「小平物語」「人物相関」の系図を見るに、柴姓で「太兵衞」とを名乗ったのは、柴清五郎の子で、「小平物語」によれば、この主人公であるが、『河内守の子』(ということは清五郎は河内守ということになるが、調べた限りでは史料にはない)であり、慶長二〇(一六一五)年の『大坂夏の陣で討死』したとする。別資料では『柴太兵衛盛次』と名を出し、『保科家に仕え』、『大坂夏の陣で討死』とし、さらに『河内守氏清から百年後の人』物とする。この河内氏清というのは柴河内守、天正一〇(一五八二)年の織田信長侵攻(武田氏が滅亡した「天目山の戦い」)の際に武田方の羽場城を守った人物であろう。とすると、この河童伝説の「柴河内」は、この柴河内守氏清の可能性も出てくる。しかし、この氏清から百年後の人物とするのも時制上、これ、腑に落ちない。伝承であるから、この辺りの詮索はあまり意味はないとも言えるか。個人的には前者の方がそれらしくは思われる。

「小平物語」ネット上では如何なる異なる方の記載したページを見てもルビが振られていないので、かく読んでおいた。向山氏の補註に『小平向右衛門』(慶長一〇(一六〇五)年~元禄(一六九六)年)『が、天文以来の甲信戦乱の有様や、その一族の動静を物語風に筆録したもの。向右衛門は』『兄、伊太夫の養子となり、長じて漆戸向右衛門正清と改め、江戸に出て幕府に仕え、致仕後、小河内(現、長野県上伊那郡箕輪町小河内)に住み、貞享三(一六八六)年』に『この物語を書』いたとある。本書が続編に含まれている信濃地誌「蕗原拾葉」の正編にこの「小平物語」は含まれており、幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている昭和一〇(一九三五)年長野県上伊那郡教育会編の「蕗原拾葉」第一輯のここから当該談を視認出来る。縦覧するに、所謂、軍紀物である。この話は、同書の「第三十一 天流川[やぶちゃん注:ママ。]由來柴太兵衞河童ヲ捕フル事 附タリ漆戶右門大蛇ヲ殺ス事」に含まれており、この条は他の実録(風)の内容とは性質を異にする面白い条である。関連する部分だけを電子化しておく。原文は漢字・カタカナ・ひらがな交じりであるが、カタカナはひらがなに直し、さらに一部の助詞・助動詞相当の漢字をひらがなにして(漢文訓読の定石に従ったまでのこと。原文と対象さされば判る)、句読点・濁点を打ち、段落を成形し、推定で読みを歴史的仮名遣で附した。

   *

 爰に柴太兵衞(しばたひやゑ)迚(とて)、信玄公の幕下成(なり)しが居(をり)、住(すまひ)は羽場と云ふ處の、然(しか)も、屋敷下(しも)、天流川に、大き成(なる)淵(ふち)有(あり)。

 或時、太兵衞、丈(た)け三寸(みき)[やぶちゃん注:馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺三寸(一・三〇メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。]の名馬なりしが、頃は六月中旬、彼(かの)淵にて右の馬を冷しぬるが、馬の尾に、何やらん、怪(あやしき)者、付(つき)ければ、馬、頻(しきり)に驚(おどろく)。舍人(とねり)などを踏倒(ふみたふ)し、逸散(いつさん)に厩に歸(かへり)ぬ。

 太兵衞、折節、厩に行(ゆき)て馬を見る處に、年の程十四、五なるが、馬屋より、欠出(かけいだ)し、門前指(さし)て、飛(とん)で行(ゆく)。

 日、沒しければ、物合(ものあひ)[やぶちゃん注:視野内の見た目の様態。]も聢(しか)と見えざる處に、太兵衛、自ら追欠(おひかけ)て留(とど)め、火を燈(とも)し、能(よく)見れば、物統(ものすべ)て猿のごとし。

 頭(かしら)、凹(おう)にて紅毛〔あかげ〕、胴・手足、共に薄黑色。骨、太く逞しく、爪、長(ながく)、少(すこし)曲れり。力も三人力(さんにんりき)程はあり。右の手を挽(ひき)て見れば、左の手、右へ出る。左右共に斯(かくの)ごとし。

 左有(さあり)て、獄籠(ごくろう)[やぶちゃん注:竹で編んだ駕籠状の拘束監禁具。囚人の移送などに用いた。]に入置(いれおき)ける。各(おのおの)先方(さきがたの)[やぶちゃん注:先ほどまでともにいた家来の、という意味か。]侍を呼集(よびあつめ)見せらるゝに、人に非ざる獸なり。

 彼(か)の獣、云(いふ)は、

「『これ、馬名ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「名馬ゆゑ」。]、龍宮へ來(きた)れ』との事にて、此くのごとし。」

と言(いひ)て泪(なみだ)を流し、詫言(わびごと)す。

「命を助け給はらば、其かはりには柴一統に仇(あだ)をなし申間敷(まうすまじき)。何にても御用の魚を參(まゐ)らせん。」

との約諾なり。

「此淵に萬歳(まんさい)住む「河童」いふ獸なり。」

と申(まうす)に依(よつ)て、助け、又、夫(それ)より、大分、魚を淵の端に出(いだ)し置(おく)となん。

「二十ケ年程、『魚年貢(うをねんぐ)』を取(とり)し。」

と太兵衞のはなしを、某(それがし)十七[やぶちゃん注:異本は「十歲」とある旨の右注記が有る。]の時、聞くなり。[やぶちゃん注:中略。]太兵衞は「大坂(おほさかの)陣」の時、保科殿内(うち)にて、討死なり。

   *

元鎧の文(元恒の話)より遙かに読み物として優れている。特に河童の特異属性としての左右の手が繋がっている「通臂(つうひ)」であることを示す怪異描写は卓抜で、何故、原話をちゃんと採らなかったのか? と頗る訝しく思うほどである。さらに言えば、要するに、生半可に現実主義者だった元恒は河童の正体はカウウソであって、妖怪でも妖獣でも何でもないと高を括っていたのだろう。そんな倨傲に振舞うから――「流」謫されて――干された河童――にされちまったんじゃあ、ねえんかい?

『「本草」、『「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎〔すいこ〕」といへるは、此たぐひにや』と、貝原翁、いへり』貝原益軒の「大和本草」の巻十六の「獸類」に以下のようにある。底本は中村学園図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」の同巻PDF)の21コマ目を視認し、私のカテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】』の凡例と同じ仕儀で電子化した(但し、原文電子化は省略した)。

   *

【和品】[やぶちゃん注:以上は本文罫外の頭書。【 】は私が本文と区別するために施した。]

河童(かはたらう) 處々、大河にあり。又、池〔の〕中にあり。五、六歳の小兒のごとく、村民・奴僕の獨行する者、往々、河邊に於いて之れに逢へば、則〔すなはち〕、精神昏冒〔こんばう〕すと云〔いふ〕。此物、好んで、人と相〔あひ〕抱〔いだ〕きて、力を角〔きそ〕ふ。其の身、涎〔よだれ〕、滑〔かつ〕にして捕り定めがたし。腥臭〔なまぐさきにほひ〕、鼻に満つ。短刀(わきざし)にて刺さんと欲すれども、中〔あた〕らず。力を角〔きそ〕ふて、人を水中に引き入れて殺すこと、あり。人の勝つこと、あたはざれば、水に沒して、見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。其の人、忽ち、恍惚として夢のごとくにして、家に歸る。病むこと一月〔ひとつき〕許り、其の症、寒熱・頭痛・偏身疼痛。爪にて抓(かき)たるあと、之れ、有り。此の物、人家に、往々、妖を爲す。種々、怪異をなして人を悩す叓〔こと〕あり。狐妖に似て、其の妖、災ひ、猶ほ、甚し。「本艸綱目」、「蟲部」「濕生類」「溪鬼蟲」の「附錄」に水虎あり。此れと相ひ似て、同じからず。但〔ただ〕、同類別種なるべし。於中夏の書に於いて、予、未だ此の物有るを見ず。

   *

益軒の言っているのは、「本草綱目」の「蟲之四」にある。「溪鬼蟲」の「附錄」にある、

   *

水虎【時珍曰、『「襄沔記」云、『中廬縣有涑水注沔中有物。如三四歲小兒、甲如鱗鯉。射不能入。秋曝沙上膝頭。似虎掌爪、常没水出膝示人。小兒弄之、便咬。人人生得者、摘其鼻可小小使之。名曰「水虎」。】

   *

水虎【時珍曰はく、『「襄沔記(じやうべんき)」に云はく、『中廬縣に涑水(そくすい)有り[やぶちゃん注:山東省に実在する川。]。「注」[やぶちゃん注:恐らくは古い地誌として知られる、北魏の「水経注」(すいけいちゅう:酈道元(れき どうげん 四六九年~五二七年)撰で、五一五の成立と推定される )のことと思う。]に、「沔の中に物有り。三、四歲の小兒のごとく、甲、鱗鯉(こひ)のごとく、射ても入る能はず。秋、沙上に膝頭(ひざがしら)を曝す。虎の掌の爪に似、常に水に没し、膝を出だし、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、咬(か)む。人人(ひとびと)、生(しやう)にて得るものは、其の鼻を摘(つま)みて、小小(しやうしやう)、之れを使ふべし。名づけて「水虎」と曰ふ』と。】

   *

とあるのを指す。まあ、これは、河童に似てるっちゃ、似てるかも知れんが、河童のルーツとは私には思われんね。

「水獺〔かはをそ〕」江戸以前の民俗社会では、獺(日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon)は狐狸に次いで人を化かす妖獣とされてきた経緯がある(そこに安易に通底してしまうところにこそ原恒の弱さがあると言える)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を読まれたい。

「淮南子」前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。

「魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯」「魍魎の狀(かたち)は三歲の小兒のごとく、赤黑色。赤き目、長き耳、美しき髯(ひげ)。」。これは、現在の「淮南子」には見当たらないようである。ただ、「中國哲學書電子化計劃」で「蛧」(「魍」の異体字)の検索結果を参考にすると、「説文解字」の「蟲部」に『魍魎、山川之精物也。淮南王說、「魍魎。狀如三歲小兒、赤黑色。赤目、長耳、美髮」。』とあり、また、「康熙字典」の「蟲部 六」の「魍」に『「唐韻」文兩切。「集韻」文紡切。竝音網。「說文」蛧蜽也。淮南王說、「魍魎、狀如三歲小兒。赤黑色。赤目、長耳、美髮」。』と出るので、或いは原「淮南子」にはあったものかも知れぬ。但し、そこでは孰れも「美髯」(びぜん)ではなく、「美髮」である。しかし、調べたところ、「説文解字繋傳」では、「美髯」となっている。

「左傳注疏」「春秋左傳注疏」。明の暫缺(ざんけつ)が「春秋左氏傳」を注釈したもの。以下は、巻二十一で「春秋左氏傳」の「宣公三年」の条にある、故事成句の「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」(権威ある人の実力を疑う。統治者を軽んじて、その地位を奪おうとするの喩え)の元となった部分の前半、

   *

昔、夏之方有德也、遠方圖物、貢金九牧、鑄鼎象物、百物而爲之備、使民知神姦。故民入川澤山林、不逢不若。螭魅罔兩、莫能逢之。用能協于上下、以承天休。

   *

 昔、夏の方(かた)に、德、有らんとするや、遠方をば物に圖(ゑが)き、金を九牧(きうぼく)[やぶちゃん注:中国全土の古名。]に貢がしめ、鼎を鑄(い)て物に象(かたど)る。百物にして之れが備(そなへ)と爲し、民をして神姦を知らしむ[やぶちゃん注:神意と邪悪な怪異を区別出来るようにさせた。]。故に民は川澤(せんたく)山林に入りても、不若(ふじやく)[やぶちゃん注:邪悪なものの異変。]に逢はず、螭魅罔兩、能く之れに逢ふことも莫(な)し。用(も)つて能く上下(じやうか)を協(かな)へ、以つて天休(てんきう)[やぶちゃん注:天祐。天の助け。]を承(う)く。

   *

の「螭魅罔兩」(魑魅魍魎)に注した中に、

   *

螭魅山林異氣所生螭魁既山林之神則罔兩宜爲川澤之神故以爲水神也

   *

「螭魅」は山林の異氣の所生なり。螭魁は既に山林の神にて、則ち、「罔兩」は宜(よろ)しく川澤の神と爲すべし。故に以つて水神と爲すなり。

   *

これを見るに、注釈者である暫缺は自然界のシャーマニックな精霊をひっくるめて、「神であるが、人にとっては有害な仕儀を成す」と解釈していたことが判る。

「この河童に似たり」安易に過ぎる。本邦の河童を漢籍の「河伯」が元とする説もあるが、河童との強い共属性がなく、私は河童は殆んど本邦で誕生した水怪であると私は考えている。西日本(特に九州)の河童伝承の中には、河童は中国から渡ってきたとするものがあり、ウィキの「河伯」によれば、『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり』、『河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とするが、私は支持しない。]

2020/11/10

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 いはな

 

 いはな 

Iwana 

[やぶちゃん注:底本の挿絵。原本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単一HTML画像)はこちらで、後者の方が遙かに細部が見える。後者を必ず見られたい。]

 

 伊那郡〔いなのこほり〕の人、或時、木曾へ行〔ゆく〕とて、萱平〔かやひら〕といふ所を通りけるに、すゞ竹、いくらとなく生ひ茂り、木曾川の流れを、おほへり。

 其竹の一葉、枝ながら、「いはな」といふ魚に化したる有〔あり〕。

 其人、折取〔をりとり〕て持歸〔もちかへ〕りけり。いとめづらかなる事なれば、そこ爰〔ここ〕にがり、傅へて、我家にも持來〔もちきた〕れり。

 「いはな」は鰧魚(あめ)の類〔るゐ〕にて、山深き川に生ずめり。是〔これ〕、無情の有情〔うじやう〕と變るものにして、陳麥〔ひねむぎ〕の蝶となり、稻米〔こめ〕の蠹〔きくひむし〕となり、薯蕷〔やまいも〕の鰻鱺〔うなぎ〕となり、腐草〔くされぐさ〕の螢となり、爛灰〔らんばひ〕の蛇となるの類〔たぐひ〕なるべし。友人安田氏、「栗の枝の、垣に用ひたるが、土に付〔つき〕たる所、虫に化したるを見たり」と、なん。【山蓼〔やまたで〕は和名「わくのて」なり。是も時には石龍子〔とかげ〕に化しぬ。よりて、又、「とかげ草」ともいふと、なん。朽瓜〔くちうり〕の魚と化しぬる事は「列子」にも見えたり。】

 

[やぶちゃん注:底本は何箇所かに歴史的仮名遣の誤りがあるが、原本を見ると、正しいので、そちらを採用した。仏教では「四生」(ししょう:歴史的仮名遣:ししやう)と称して、生き物の生れ方を以下の四類に分類した。「胎生」(たいしょう:母胎中で体を形成して生れた生き物) ・「卵生 」(らんしょう:卵の形で生れて発生する生き物)・「湿生」 (しっしょう:湿気(しっけ)のある場所でその湿気(しっき)から生れた生き物)・「化生」 (けしょう:過去世の業(ごう)の力によって生れた生き物で、天・地獄・中有(ちゅう)の時空間に存在する天人・餓鬼その他の存在体を指す) である。この考え方は江戸以前の本草学にも強い影響を与え、母胎や卵などからでなく、見かけ上、何もない時空間に忽然として生まれたり、本来は無情である植物や、無生物である物質、或いはある動物が変化して全く別の動物に変化する場合があると考え、それが一種の広義の「化生」(けしょう:歴史的仮名遣:けしやう/或いは「かせい」)という概念を捨てられなかった本草学者が近世末まで有意に多く存在した(無論、そうした非科学的な認識を否定した学者もいる)。ここもその広義の「化生(けしょう/かせい)説」に基づいた記載である。本草学者でさえそうなのだから、伝承や俗説には無数にこの記載が見られる。ここではまず、主文で植物の「すゞ竹」(実は底本・原本ともに「すゝ竹」であるが、これだと、植生した竹ではなく、屋根裏などに使用された竹材が年経て黒く煤けた状態になったものを指す一般名詞となるが、底本は濁音表記が殆どないこと、実際に生えている竹であることから、濁音化させ、種としての日本固有種の単子葉植物綱イネ目イネ科タケ亜科スズタケ属スズタケ Sasamorpha borealis に比定同定してよい。漢字では「水篶」「美篶」と書き、「みすず刈る」は「信濃」の枕詞である(但し、近世以降)。スズダケは信濃(長野県)の南部に多く植生するから、ロケーションとしても問題ない訳である)が淡水魚の「いはな」(岩魚(いわな)。本邦には硬骨魚綱サケ目サケ科イワナ属イワナ Salvelinus leucomaenis・日本固有亜種ニッコウイワナ Salvelinus leucomaenis pluvius・日本固有亜種ヤマトイワナ Salvelinus leucomaenis japonicus が棲息する)に化生したとするのであるが、実はイワナの変化(へんげ)は、これまた、枚挙に暇がない。竹がイワナになるどころか、イワナが人に化けるのである。その最たるものは、「想山著聞奇集 卷の參 イハナ坊主に化たる事 幷、鰻同斷の事」であろう。そこで私が注した内容が、かなりここでの内容と重なるので、一読されたい。私の好きな話である。なお、私は当初、この話を読んだ時、昆虫類に寄生し(特にカマキリに高い頻度で寄生しており、私が以前に読んだものでは、七割以上が寄生されている)、その中間宿主としてイワナにも寄生する脱皮動物上門類線形動物門線形虫(ハリガネムシ)綱 Gordioidea が弱ったイワナの肛門から出て、川流れに浸っていたスズタケの葉に巻き付いたものであろうか、と考えた。しかし、底本のぼやけた薄いそれでは判らぬが、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の単一HTML画像の挿絵を見ると、イワナは尾を下にしてぶら下がっていることが判る。されば、仕切り直しで、これは恐らくイワナがスズタケに止まっていた昆虫類を摂餌しようとして飛び上がったものの、スズタケの枝の節か何かを、一緒に呑み込んでしまい、そのまま引っ掛かってぶら下がったものと考える。カラスなどがその頭部を突っつき、そこが壊死して笹の葉に癒着すれば、一丁上がり! イワナは摂餌対象を選ばず、意外にも貪欲なことで知られ、陸生昆虫や小・中型の蛇などにも食らいつくことで知られる(小学生の時にぼろぼろになるまで愛読していた「魚貝の図鑑」に、蛇を飲み込でいるイワナの肛門から蛇の前部が飛び出している図を今も忘れられない)。また、テレビ番組で、古式のイワナ漁を見たことがあるが、昆虫(何だったかは忘れたが、恐らくはトンボかガガンボではなかったかと思う)を釣り針の先に引っ掛け、渓流の水面より十センチメートルほど上げた位置に差し出してイワナを狙っている映像を見たことがあり(確か掛からなかったが)、イワナ釣りのサイトを見ると、事実、コオロギ・バッタ・トンボなどを餌に使うと記されてあった。

「萱平〔かやひら〕」向山氏の補註に、『現、長野県木曾郡楢川村萱平』とある。現在は塩尻市内で、この付近に転々と旧地名楢川を冠した施設が並ぶ(グーグル・マップ・データ)。

「木曾川」同前で『木曾の川の意。現、奈良井川』とある。前のリンク先を拡大すると、楢川地区の南西直近で木曽川に合流する奈良井川を確認出来る。

「鰧魚(あめ)」珍しい原本のルビ。但し、「鰧」は本邦では海産のゴッツう怖い(が美味い)条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目フサカサゴ科(或いはオニオコゼ科)オニオコゼ亜科オニオコゼ属オニオコゼ Inimicus japonicus を筆頭としたオコゼ類を指す漢字で不審であるが、しかし、貝原益軒はこれを「大和本草」で、琵琶湖にのみ棲息する本邦固有種の条鰭綱サケ目サケ科サケ亜科タイヘイヨウサケ属サクラマス(ヤマメ)亜種ビワマス Oncorhynchus masou rhodurus に使用している(私の「大和本草卷之十三 魚之上 鰧魚 (ビワマス)」を参照)。而して、そこで私が注したように、これは彼が明の李時珍の「本草綱目」に依拠して考証しているための錯誤と私は考えている(彼に限らず、江戸以前の本草学者の殆んどは「本草綱目」をバイブルのように崇め祀っていた)。調べてみるに、「本草綱目」のの「鰧魚」は「鱖魚」の附録に含まれており、現代中国語では全く別種の淡水魚、鰭上目スズキ目スズキ亜目 Percichthyidae 科ケツギョ属ケツギョ Siniperca chuatsi を指し、本邦にはいないのである。ウィキの「ケツギョ」の写真を見て貰うと判るが、体側の紋といい、背鰭の棘といい、かなり淡水魚離れした恐ろしげな魚体である。さすれば、これがイワナの仲間ではないし、そんなのはイワナに可哀そうなのだ。ここでは益軒も元恒も所謂、広義のマス或いはサクラマスの仲間を総じて「鰧魚」と言っているととるべきであろう。而して、「あめ」とは「あめのうを」の略で、これは現行でも条鰭綱サケ目サケ科タイヘイヨウサケ属サクラマス亜種サツキマス Oncorhynchus masou ishikawae の河川残留型(陸封型)であるアマゴの異称であり、先に示したビワマスの別称でもあるのである。

「陳麥〔ひねむぎ〕」前の年以前に収穫されて保存された古いムギのことを指す。「ひね」は「陳(ひね)ねこびる」のそれで「いかにも古びている」の意である。以下、変ずる前の対象が、年を経ていたり、虫が湧いたり、古かったり、腐ったりしたものであるという通属性を持つのが、古人が、見かけ上、それらが変じたとするの認識に腑に落ちるものではあるのである。

「蠹〔きくひむし〕」音は「ト」だが、これは流石にルビを振らないのはダメ。何故なら、複数の昆虫を指すからである。第一義としては現行の昆虫学で言うところの昆虫綱鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目 Cucujiformia 下目ゾウムシ上科キクイムシ科 Scolytidae に属する「木喰虫」を指す。次に第二義としてシミ目 Thysanura のシミ類を指すのだが、しかし、問題は狭義のキクイムシ類は殆どが木材に貫入して食害し、米にはたからないし、シミも書物や衣類にたかるばかりで、米の中に見ることはない。さすれば、これは米の中にいるキクイムシのような虫、即ち、本種は所謂、「穀象虫」、即ち、コクゾウムシである(本邦に棲息する種としては鞘翅(コウチュウ(甲虫))目多食(カブトムシ)亜目ゾウムシ上科オサゾウムシ科オサゾウムシ亜科コクゾウムシ族コクゾウムシ属コクゾウムシ Sitophilus zeamais 及びココクゾウムシ Sitophilus oryzae の二種が代表)。しかし、流石にこれを「こくぞう」と読む気には、私は、なれない。されば、通常のそれで読んだ。

「薯蕷〔やまいも〕の鰻鱺〔うなぎ〕となり」これも超有名な化生例の一つである。私は「譚海 卷之一 榮螺海老に化し山の芋うなぎに化せし事」の注で、『ものの本には、古くから鰻は幼魚や卵が発見されず、生活史が謎であったことからこうした伝承が生まれたとするが、如何? この言い伝えは古くからあり、古えの人々は大概の生物の細かなライフ・サイクルには興味もなかったから、あえて鰻を特定して言上げする必要はあるまい。近代以降、成魚が淡水魚でありながら、東シナ海の深海底で卵を産み、幼体が遠距離を遊泳して本邦の河川に立ち戻るという驚くべきウナギの生態に接した者が、その驚愕を「山の芋鰻になる」というあり得ないことを指す諺の由来に、まことしやか付会させたに過ぎないというのが私の主張である。ここにある化生過程の実物というのも、案外、例の人魚の木乃伊(ミイラ)――猿の上半身と鯉辺りの下半身の干物を接合したような代物――よろしく、枯れた山芋に干した鰻を繫いだ木乃伊であったのではあるまいか?』と述べた、ミミクリーからの同情不能な化生説である。

「腐草〔くされぐさ〕の螢となり」これは根が深い。「七十二候」の「第二十六候」として「芒種」の「次候」五月節(旧暦四月後半から五月前半)頃を、本邦では「腐草爲螢」(ふそういけい:腐れたる草、螢と爲(な)る)とするからである。現在の六月十日から同十五日相当。古くは暑さに蒸れて腐った草や竹の根が蛍になると信じられていたことによる。これは彼らが完全変態をし、しかも幼虫が似ても似つかない不気味な形をした水棲であることが、古えの人々の認識としては、寧ろ、トンデモない法螺話にしか思われなかったに違いないからであろう。

「爛灰〔らんばひ〕の蛇となる」古い灰の山から蛇が抜け出てくれば、そうも言われよう。

「安田氏」不詳。

「栗の枝の、垣に用ひたるが、土に付〔つき〕たる所、虫に化したるを見たり」どんな虫か言うて呉れんと同定出来へんがな。

『山蓼は和名「わくのて」なり』ナデシコ目タデ科ミチヤナギ亜科Persicarieae 連 Persicariinae 亜連 Persicarieae 連イヌタデ属 Persicaria に属するタデ類の総称。「わくのて」はしかし、小学館「日本国語大辞典」では「わくのて」はキンポウゲ目キンポウゲ科センニンソウ属ボタンヅル Clematis apiifolia(牡丹蔓)の方言とする(仙台・駿河)。前者の代表種はイヌタデ属イヌタデ Persicaria longiseta・ハナタデ Persicaria posumbu で、私両者の画像を見るに、前者のタデ類が蜥蜴(とかげ)にはなりそうだと思う。

「石龍子〔とかげ〕」爬虫綱有鱗目スキンク下目 Scincomorpha トカゲ科 Scincidae のトカゲ類。現代中国語ででも同科を「石龍子科」とする。

『朽瓜〔くちうり〕の魚と化しぬる事は「列子」にも見えたり』戦国時代(紀元前四七五年~紀元前二二一年)の道家の思想家列子(生没年未詳:名は禦寇(ぎょこう)。鄭(てい:河南省)の人。「荘子」中に説話が見え、「呂氏春秋」によれば虚を尊んだとされ、唐代には「沖虚真人」(ちゅうきょしんじん)と追号された)が書いたとされる道家思想書。八編。但し、現行本は前漢末から晋代にかけて成立した偽書とされる。故事・寓言・神話を多く載せ、唐代には道教教典として尊ばれ、「沖虛眞經」(ちゅうきょしんけい)と別称された。その「天瑞」篇に以下のように出る。訓読と補注は一九八七年岩波文庫刊小林勝人(かつんど)訳注「列子」を参考にした(同書は新字・現代仮名遣)が、必ずしもそれに従ってはいない。

   *

子列子適衞、食於道。從者見百歲髑髏、攓蓬而指、顧謂弟子百豐曰、「唯予與彼知而未嘗生未嘗死也。此過養乎。此過歡乎。種有幾、若䵷爲鶉、得水爲藚、得水土之際、則爲䵷蠙之衣。生於陵屯、則爲陵舄。陵舄得鬱栖、則爲烏足。烏足之根爲蠐螬、其葉爲胡蝶。胡蝶胥也、化而爲蟲、生竈下、其狀若脫、其名曰鴝掇。鴝掇千日、化而爲鳥、其名曰乾餘骨。乾餘骨之沫爲斯彌。斯彌爲食醯頤輅。食醯頤輅生乎食醯黃軦、食醯黃軦生乎九猷。九猷生乎瞀芮、瞀芮生乎腐蠸。羊肝化爲地皋、馬血之爲轉鄰也、人血之爲野火也。鷂之爲鸇、鸇之爲布穀、布穀久復爲鷂也。鷰之爲蛤也、田鼠之爲鶉也、朽瓜之爲魚也、老韭之爲莧也。老羭之爲猨也、魚卵之爲蟲。亶爰之獸、自孕而生、曰類。河澤之鳥、視而生、曰鶂。純雌其名大腰、純雄其名稺蜂。思士不妻而感、思女不夫而孕。后稷生乎巨跡、伊尹生乎空桑。厥昭生乎濕、醯雞生乎酒。羊奚比乎不筍久竹生靑寧、靑寧生程、程生馬、馬生人。人久入於機。萬物皆出於機、皆入於機。

   *

 子列子(しれつし)、衞に適(ゆ)き、道に食す。從(かたは)らに百歲の髑髏(どくろ)を見る。蓬(よもぎ)を攓(ぬ)きて指(ゆびさ)し、顧みて弟子(ていし)百豐(ひやくほう)に謂ひて曰はく、

「唯だ、予と彼とのみ知れり、未だ嘗つて生きず、未だ嘗つて死せざるを。此れ、過(はた)して養(うれ)ふるか、此れ過して歡べるか。種(しゆ)には幾(き:変転する霊妙な働き)有り、䵷(かはづ:カエル)の鶉(うづら)となるがごとし。水を得ば、藚(けい:微塵の水垢)と爲(な)り、水土の際(きは)を得ば、則ち、䵷蠙(あひん:水生の青苔の一種)の衣(い)と爲り、陵屯(をかのうへ)に生ぜば、則ち、陵舄(りやうせき:水草のオモダカ)と爲る。陵舄、鬱栖(うつせい:腐った土)を得ば、則ち、烏足(うそく:草の名。具体種は不詳)と爲り、烏足の根は蠐螬(せいさう:地虫。カブトムシ・コガネムシの幼虫)と爲り、其の葉は胡蝶と爲る。胡蝶は胥(しばら)くするや、化して蟲と爲り、竈(かまど)の下に生ず。其の狀(かたち)は脫(ぬけがら)のごとく、其の名は鴝掇(くたつ:虫の名。具体種は不詳)と曰ふ。鴝掇、千日にして、化して鳥と爲る。其の名は乾餘骨(かんよこつ)と曰ふ。乾餘骨の沫(よだれ)は斯彌(しび:虫の名。微細なヌカカの類とされる。以下の変態後のそれも同じく小さな虫)と爲り、斯彌は食醯頤輅(しよくけいろ)と爲り、食醯頤輅は食醯黃軦(しよくけいこうきよう)を生じ、食醯黃軦は九猷(きうゆう)を生ず。九猷は瞀芮(歴史的仮名遣不詳。小林氏は「ぼうぜい」とする)を生じ、瞀芮は腐蠸(ふくわん:瓜の中の黄色い虫)を生ず。羊(ひつじ)の肝(きも)は化して地皋(どろつち)と爲り、馬の血の轉鄰(ひのたま:燐火)と爲る。人の血の野火(おにび)と爲る。鷂(たか)の鸇(はやぶさ)と爲り、鸇の布穀(ふふどり:カッコウ)と爲り、布穀は久しくして復た、鷂と爲る。鷰(つばめ)の蛤(はまぐり)お爲り、田鼠(もぐらもち)の鶉と爲り、朽ちたる瓜の魚なり、老いたる韭(にら)の莧(ひゆ:ナデシコ目ヒユ科 Amaranthaceae の類。観賞用に栽培されたケイトウやハゲイトウの起原植物)と爲る。老いたる羭(めひつじ)の猨(さる:テナガザル)と爲り、魚の卵(たまご)の蟲と爲る。亶爰(せんゑん:山の名)の獸、自(おのづ)ら孕みて生むを、類(るゐ)と曰ひ、河澤(かたく)の鳥、視るのみにて生むを、「鶂(げき)」と曰ふ。純雌のみなるは、其の名を大腰(たいよう:カメの一種)とし、純雄のみなるは、其の名を稺蜂(ちほう:腰の部分が締まったスマートなハチ)とす。思士(しし:思い詰めた男)は妻あらずして感じ、思女(しぢよ)は夫あらずして孕む。后稷(こうしよく:周王朝の始祖とされる伝説上の農業神の男性。母親の姜原 (きょうげん) が巨人の足跡を踏み、妊娠して生まれたとされる)は巨(おほ)きなる跡(あしあと)に生まれ、伊尹(いゐん:殷王朝初期の伝説的宰相。湯王を助け、夏の桀王を討って天下を平定した。彼は有莘氏(ゆうしんし:殷の湯王の妃の氏族)の女が桑を摘んだ際、空ろな桑の中から(或いは大洪水の際に彼女自身が桑の大木と化し、その洞(ほら)の中から)嬰児を得、その子が王に献じぜられ、後の伊尹となったという伝説がある)は空(うつろ)なる桑(くは)に生まる。厥昭(けつせう:ホタル或いはトンボ)は濕(しつ)に生じ、醯雞(けいけい:虫。ヌカカ或いはブヨの類)は酒に生じ、羊奚(ようけい:草の名という)は、筍(たけのこ)のはえざる久しき竹に比(つる)みて、靑寧(せいねい:虫の名という)を生じ、靑寧は程(てい:豹。ヒョウ)を生じ、程は馬を生じ、馬は人を生む。人、久しくして機に入る。萬物、皆、機より出でて、皆、機に入る」と。

   *]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 舖石

 

  舖   石

 

夏の夜(よ)あけのすずしさ、

氷載せゆく車の

いづちともなき軋(きしり)に、

潤(うる)みて消ゆる瓦斯(がす)の火。

 

海へか、路次(ろじ)ゆみだれて

大族(おほうから)なす鵞(が)の鳥

鳴きつれ、霧のまがひに

わたりぬ――しらむ舖石(しきいし)。

 

人みえそめぬ。煙草(たばこ)の

ただよひ濕(しめ)るたまゆら、

辻なる窻の繪硝子(ゑがらす)

あがりぬ――ひびく舖石(しきいし)。

 

見よ、女(め)が髮のたわめき

濡れこそかかれ、このとき

つと寄(よ)り、男、みだらの

接吻(くちつけ)――にほふ舖石(しきいし)。

 

ほど經て窻を閉(さ)す音(おと)。

枝垂柳(しだれやなぎ)のしげみを、

赤き港の自働車(じどうしや)

けたたましくも過(す)ぎぬる。

 

ややあり、ほのに緋(ひ)の帶、

水色うつり過(す)ぐれば、

縺(もつ)れぬ、はやも、からころ、

かろき木履(きぐつ)のすががき。

四十年九月

 

2020/11/09

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鸚鵡石

 

 鸚鵡石

 大草〔おほくさ〕に「鸚鵡石〔あうむいし〕」あり。人、其傍〔かたはら〕にて笑語〔せうご〕すれば、かならず、そのごとくに應ぜり。中尾村にも「木魂石〔こだまいし〕」と名付〔なづけ〕たる地ありて、是〔これ〕も、其聲、相〔あひ〕應ぜり。伊勢にも市野瀨谷に「鸚鵡石」あり。東涯翁の「遊勢志」に見へたり。唐〔とうの〕鄭常〔ていじやう〕が「洽聞記〔かふぶんき〕」に、「響石〔きやうせき〕」といへる、これと、またく、おなじ。又、按ずるに、「雲林石譜」に見えたる「鸚鵡石」は、「その形の似たるもて名付し」といふ儘〔まま〕に、「盍簪錄〔こふしんろく〕」に出〔いで〕たり。近頃、志摩國にても聲の應ずる石ありて、「新鸚鵡石」と名づけたる事、「囘國筆土產〔くわいこくふでみやげ〕」に見ゆ。

 

[やぶちゃん注:「鸚鵡石」の「石」は「せき」と読んでいるかも知れない。所謂、地形上の特質から、特定位置や範囲内で岩や岸壁に発声すると、それが反響したり、或いは増幅されて、少し離れた、本来ならば、聴こえてこない場所でその発声音がかなりはっきりと聴こえる、一種、山彦に類似した現象起こすことを述べている。これは例えば、柳田國男が『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇』で椀貸伝説を語っている最中、関連して、やや脱線する形で各地の「鸚鵡石」「木魂石」「ヨバリ石」「ホイホイ石」「物言石」「呼石」「言葉石」「答へ石」「三聲返しの石」と並べたてたのは微笑ましく、私も興味がある。こうした鸚鵡石のようなものが椀貸の際の取次ぎ役となっていたケースがあると柳田が言っているのは、椀貸伝承の多くが岩場の洞穴や石製の古塚などをその舞台としていることを考えると、反響音が特に生じやすい点で非常に腑に落ちるのである。ここで元恒の挙げている伊勢のそれ、現在の三重県度会郡度会町南中村に現存する「鸚鵡石」は俳人で作家の菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる俗話集「諸國里人談卷之二 鸚鵡石」にも出るので、それはそちらの私の注を読まれたい。また、金沢の伊勢派の俳人で随筆家(歴史実録本が多い)であった堀麦水(享保(一七一八)年~天明三(一七八三)年)の加賀・能登・越中、即ち、北陸の民俗・伝承・地誌・宗教等の奇談を集成した奇談集「三州奇談」の「卷之二 三湖の秋月」にも現在の石川県小松市大領中町にあった「鸚鵡石」の話がちらりと出る。ただ、ここは小高い部分ではあるが、原野で特定方向に向かって話すと、二度に亙って反響するという場所的には特異な例である。ともかくも、以上のリンク先で注したことをここで繰り返す気にはならないだけであるからして、まずはまそれらをお読みあれ。

「大草」向山氏補註に、『現、長野県上伊那郡中川村大草』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)

「中尾村」同じく、『現、長野県上伊那郡長谷村中尾』とある。そこは現在の伊那市長谷中尾地区と思われる。

『伊勢にも市野瀨谷に「鸚鵡石」あり』瓢簞から駒が出たのだ! ここの注を先の柳田國男の「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 一〇へのリンクで簡略化しようと思って、再度、そこで二年九ヶ月前に自分で注した内容を確認して見たら、どうも「ヘン」なのである。そこで三時間ばかり調べてみて、私の注のそこでの「鸚鵡石」の現在地の同定比定は誤りであり(二年九ヶ月の間、誰もそれを指摘してはこなかった)、柳田が『鸚鵡石は伊藤東涯翁の隨筆で有名になつた伊勢度會郡市之瀨の石であるが、此附近にも尙二三の同名の石があつた』という謂いが正しかったことが(少なくとも、もう一つ、今も、ある、ということが)、この「信濃奇談」の元恒の謂いによってはっきりと調べ直せたのである。詳しくは、リンク先の改稿注(太字にした)を是非、読まれたいのだが(迂遠であるが、私の考証過程がよく判るように記載し、立証資料の細かなリンクも張ってある)、結論から言うと、ここで元恒が言っているそれは、三重県度会郡度会町南中村(グーグル・マップ・データ)にあり、国土地理院図の三百六十一メートルのピーク附近である。グーグル・マップ・データで切り替えて、同航空写真のここがそれで、そこで、ストリート・ビュー・マークを画面中央にスライドさせると、青いドットが四つほど点ずる。左上の三つ固まったそこにストリート・ビュー・マークを移すと、そこに巨大な岩壁が眼下に出現するが、それが正しく、ここで元恒が言う「市野瀨谷」の「鸚鵡石」なのである。実は、その群から少し離れた右にある点にストリート・ビュー・マークを落すと「おうむ石」と書かれた看板と、尾根の奥に続く階段の画像が出る。左角にある画像タイトルを見られよ。「おうむ石(鸚鵡石/オウムセキ)」と書いてある。実は当初、この「鸚鵡石」というのは現在の志摩市磯部町恵利原にある、知られた「鸚鵡岩」(ここ(グーグル・マップ・データ))であろう(ここも旧度会郡域ではある)と私は考えたのである。「伊勢志摩きらり千選」のこちらこちらでもここが「鸚鵡石」として詳しく説明されており、伊勢の鸚鵡石としては、現在はここがとみに知られているからであった。ところが、今日、再度、この同定を検証してみた。すると――どうもおかしい――のだ。何がおかしいかと言えば、この柳田の言う「度會郡市之瀨」という地名が旧地名として、現在の志摩市磯部町恵利原と一字一句として全く一致しないことなのである。都市辺縁部の急速な変化を示す場所や新興市街地ならいざ知らず、正直、このような山間部で、何もかも、ごっそり、地名が変わってしまうということは普通はあり得ない。加えて本篇の元恒の最後の『近頃、志摩國にても聲の應ずる石ありて、「新鸚鵡石」と名づけたる事、「囘國筆土產」に見ゆ』という言葉だったのだ!――ここのところ、元恒に対する批判ばかりしてきたが、今回は謝意を表したい気がした――ともかくも、以下、やはり、私のリンク先の改稿注を読まれんことを強くお薦めする。

「東涯翁」江戸中期の儒学者伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)。名は長胤(ながつぐ)、東涯は号。知られた儒学者伊藤仁斎の長男で、その私塾古義堂二代目。古義学興隆の基礎を築き、父仁斎の遺した著書の編集・刊行に務め、自らも「訓幼字義」などを刊行した。中国語・中国制度史・儒教史などの基礎的な分野の研究にも力を入れ、また、新井白石・荻生徂徠らとも親交が深かった。

「遊勢志」書名は「勢遊志」が正しい享保一五(一七三〇)年序・刊の伊勢紀行。そのここ(国立国会図書館デジタルコレクションの百十一年後の天保一二(一八四一)年の再刻版)から(左頁四行目から次の頁とその次の頁にかけてで、東涯は漢詩も添えて、この現象を非常に面白がっている)。さてもその冒頭を見逃してはいけない! 「行くこと、二里許(ばかり)にして中村に至(いたる)。山川、紛紏(ふんきう)、所謂(いはゆる)鸚鵡石、有り」(原文は訓点附き漢文。訓読し、読みは私が推定で附した)とあるのだ。「中村」なのだ! 恵利原ではないのだ! 中村地区に或いは別に「鸚鵡石」がまだあった可能性がないとは言えぬが、まず、私はここが東涯の行ったそれである、と考えている。なお、同書の最後には、同行したと思しい漢詩人らの詩篇が添えられてあり、鸚鵡石の彼らに与えた感動が並々ならぬものであったことが判る。

「鄭常」(?~七八七年:盛唐末から中唐初期)撰の「洽聞記」は志怪小説集。「太平廣記」の「石」の部に「石響」として、

   *

南嶽岣嶁峯、有響石、呼喚則應、如人共語、而不可解也。南州南河縣東南三十里、丹溪之曲、有響石、高三丈五尺、闊二丈、狀如臥獸。人呼之應、笑亦應之、塊然獨處、亦號曰獨石也(出「洽聞記」)。

   *

と引かれてある。

「雲林石譜」宋の愛石家の杜綰(とわん)撰。その巻の下に「鸚鵡石」として、

   *

荆南府、有石、如巨碑、峙路隅、率皆方形。其質淺綠、不甚堅。名鸚鵡石。擊取以銅盤磨其色可靖。笙器皿紫色、亦堪作硯、頗緻發墨。

   *

しかし、ここには形状がオウムに似ていると直接には書いてはいない。しかし「率皆方形。其質淺綠、不甚堅」という部分には親和性があると言えるようには思われる。

「盍簪錄〔こふしんろく〕」(こうしんろく:「盍簪」とは「友人同士が寄り集まること」を謂う語)既出既注であるが、再掲する。先の伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は彼の記した漢文体の雑記随筆。抄写本を見たが、かなり雑然とした書き方である。【2020年11月10日改稿・追記】当初、原文に当たれないと記していたが、何時もお世話になるT氏が、「国文学資料館」にある同書の写本(画像)から、当該頁(ここの右頁三行目。直前が前に示した「鎌鼬」の記載である。第四巻の「雜載編」中)を指示して呉れた上、判読・電子化したものをも添えて下さった。以下に感謝して添付(一部に私が手を加えた)する。

   *

勢州山田西南四里許、沿宮川而上、有市瀨村、又行可半里、有巨石、長五六丈、人隔溪而言、或呼、則石亦作声相応擊鼓弾阮咸、石亦做其声応和、土人呼爲鸚鵡石、或云、石中空虛而待響、恐東坡所云石鐘之類、今人呼于大屋之中、則作䆖䆵之声、石之応人、或此理也【丙申三月

   *

しかし、これを見るに、元恒の言うようには(形が鸚鵡に似ているからかく呼称した)書かれていない。というより、既に見た通り、東涯は実際に現地に遊び、その反響現象を興味深く観察しているわけで、この部分の元恒の言い方は腑に落ちない。なお、「東坡所云石鐘」は、蘇東坡の「石鐘山記」という文を指す。個人ブログ「中国武術雑記帳 by zigzagmax」の「蘇東披『石鐘山記』」に原文と梗概が記されてある。石鐘山は鄱陽湖と長江の合流点にある海抜五十四mの岩山で、その形が鐘の形をしており、しかもそこの石を敲くと金属音がすることから、この名がついたという。

「囘國筆土產」ここで既注の「諸國里人談」の作者菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年の随筆或いは紀行。原文に当たれないので確認は不能。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 煙草

 

 煙   草

 

黃(き)のほてり、夢のすががき、

さはあまきうれひの華(はな)よ。

ほのに汝(な)を嗅(か)ぎゆくここち、

QURACIO(キユラソオ)の酒もおよばじ。

 

いつはあれ、ものうき胸に

痛(いたみ)知るささやきながら、

わかき火のにほひにむせて

はばたきぬ、快樂(けらく)のうたは。

 

そのうたを誰かは解(と)かむ。

あえかなる罪のまぼろし、――

濃(こ)き華の褐(くり)に沁みゆく

愛欲(あいよく)の千々(ちぢ)のうれひを。

 

向日葵(ひぐるま)の日に蒸すにほひ、

かはたれのかなしき怨言(かごと)

ゆるやかにくゆりぬ、いまも

絕間(たえま)なき火のささやきに。

 

かくてわがこころひねもす

傷(いた)むともなくてくゆりぬ、

あな、あはれ、汝(な)が香(か)の小鳥

そらいろのもやのつばさに。

四十年九月

 

[やぶちゃん注:「すががき」「淸搔」。二度、既出既注であるが、再掲する。幾つかの意味があるが、原義を当てる。和琴(わごん)の手法の一つで、全部の弦を一度に弾いて、手前から三番目又は四番目の弦の余韻だけを残すように、他の弦を左指で押さえるもの。

QURACIO(キユラソオ)」この綴りは何語をもとにしているのか不審。リキュールの一種である Curaçao(フランス語)であることは疑問の余地はない。やはり複数回既出既注であるが、再掲しておく。古くからオランダが主産地で、現在もオランダ自治領であるカリブ海のクラサオ(キュラソー)島特産のビター・オレンジの未熟果の果皮を乾燥させ、基酒であるラムに浸出したもの。フランス産キュラソーはブランデーを基酒とする。オレンジ色のオレンジ・キュラソーや無色のホワイト・キュラソーなどがあり、アルコールは約四十度と高く、カクテルによく用いられる。ブルー・キュラソーの色がよく知られるが、オレンジ・キュラソーを樽熟成させたものは褐色を帯びる。

「怨言(かごと)」「託言(かごと)」。複数回既出既注。古語で「不平・愚痴・恨みごと」の意がある。]

2020/11/08

畔田翠山「水族志」 ホウザウダヒ (クロホシフエダイ)

 

ホウザウダヒ

大和本草曰寳藏ダヒ海魚ナリ其口嚢ノ口ヲ括ルカ如シ偏鄙人帶腰火打嚢ヲ寳藏ト云此魚ノ口似之常ノ「タヒ」ヨリ身薄ク味淡クシテヨシ色淡白不紅尾ニ近キ處黑㸃多シ牙ハ口中ニカクレテ口ヨリ見ヱ[やぶちゃん注:ママ。]ス尾ニ岐ナク直ニ切ルガ如シ常ノ「タヒ」ニ異レリ一種形狀「コロダヒ」ニ似テ細長頭短ク圓ク口小ニ乄鷹ノ羽ノ口ノ如シ口内赤色身薄扁淡靑黑色ニ微淡紅ヲ帶腹白色淡藍ヲ帶鱗淡黑色遍身黃色ノ黑㸃アリ背ノ㸃淡黑色ヲ帶尾岐少ナク淡黑色ニ乄黑星㸃アリ尾端黑也脇翅淡黑色腹下翅淡黑色ニシテ竪ニ黑斑アリ背鬣上下ヲ不分尾上迄連續シテ淡黑色ニ乄黑色ノ星㸃アリテ端黑色也一種同形ニ乄尾鬣ニ黑星㸃アリテ身ニ黑色ノ太キ斜文背ニ一條眼後ヨリ尾ニ至リ一條其下ニ一條アリ下ニアルハ色淺シ其身長ク扁シ「コロダヒ」ノ子ノ紋ノ如シ「コロダヒ」ハ身此魚ヨリ短ク厚シ味亦此魚ニ勝レリ

 

○やぶちゃんの書き下し文

ホウザウダヒ

「大和本草」に曰はく、『「寳藏ダヒ」 海魚なり。其の口、嚢〔ふくろ〕の口を括〔くく〕るがごとし。偏鄙〔へんぴ〕の人、腰に帶ぶる火打嚢〔ひうちぶくろ〕を「寳藏」と云ふ。此の魚の口、之れに似る。常の「タヒ」より、身、薄く、味、淡くして、よし。色、淡白、紅〔あか〕からず。尾に近き處、黑㸃、多し。牙〔は〕は口中にかくれて、口より、見ゑず。尾に、岐、なく、直〔ちよく〕に切るがごとし。常の「タヒ」に異れり』と。

一種、形狀、「コロダヒ」に似て、細長、頭、短く、圓〔まろ〕く、口、小にして、鷹の羽の口のごとし。口の内、赤色。身、薄く扁〔へん〕し、淡靑黑色に微淡紅を帶ぶ。腹、白色、淡藍を帶ぶ。鱗、淡黑色。遍身、黃色の黑㸃あり。背の㸃、淡黑色を帶ぶ。尾、岐、少なく、淡黑色にして、黑き星㸃あり。尾の端、黑なり。脇翅〔むなびれ〕、淡黑色。腹の下の翅〔ひれ〕、淡黑色にして、竪〔たて〕に黑斑あり。背鬣〔せびれ〕、上下を分かたず、尾の上まで連續して、淡黑色にして黑色の星㸃ありて、端、黑色なり。

一種、同形にして、尾鬣〔をびれ〕に黑星の㸃ありて、身に黑色の太き斜文〔しやもん〕、背に一條、眼の後ろより尾に至り、一條、其の下に一條あり。下にあるは、色、淺し。其の身、長く扁〔ひらた〕し。「コロダヒ」の子の紋のごとし。「コロダヒ」は、身、此の魚より短く、厚し。味も亦、此の魚に勝れり。

 

[やぶちゃん注:次にリンクさせた「大和本草」の注で、私は、

   *

体が扁側し、尾に近い位置に明白な黒点があり(但し、益軒はそれが多くあると言っているのが悩ましいのだが)、さらに歯が「口中にかくれて」いて、普通の状態では見えない(これが大事!)『尾に岐(また)』がなく(中央の凹みと上下の伸長が全くない)『直ちに切れたるがごと』き尾鰭を持つ点で、これは

スズキ目スズキ亜目フエダイ科フエダイ属クロホシフエダイ Lutjanus russellii

と断定していいように私は思う。ぼうずコンニャク氏の「市場魚貝類図鑑」のロホシフエダイのページを是非、見られたい。そこに上顎上顎の口内のイッテンフエダイ(同属のフエダイ属イッテンフエダイ Lutjanus monostigma)との比較画像がある。上顎の近心部の前歯がクロホシフエダイにはないのだ! なお、ぼうずコンニャク氏の解説によれば、本種は『シガテラ毒を持つ確率の高い魚』とある。要注意!

   *

と同定した。これを変更するつもりはない。

『「大和本草」に……』『大和本草卷之十三 魚之下 棘鬣魚(タヒ) (マダイを始めとする「~ダイ」と呼ぶ多様な種群)』に出る。

   *

「寳藏鯛」 常に鯛より身薄く、味、淡くして、よし。色、淡白、紅ならず。尾に近き處、黑㸃、多し。牙は口中にかくれて、口より見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。尾に岐(また)、なく、直ちに切れたるがごとし。常の鯛に異れり。

   *

というより、主文全部を「大和本草」から引くのは、ちょっとまずくありませんか? 畔田先生?

「コロダヒ」スズキ目スズキ亜目イサキ科コロダイ属コロダイ Diagramma picta である。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のコロダイのページを見て戴きたいが、その「由来・語源」の項に、「ころだい」という和名は「胡廬鯛」で、『「ころだい」は和歌山県での呼び名を標準和名にしたもの』とあり、『和歌山県では猪の子供を「ころ」と呼び、コロダイの稚魚にある斑紋が』『その猪の子供のものに似ているため』とあり、メインの写真の下に、幼魚の写真が二枚あるので確認されたい。成魚とは驚くばかりに似ていない。而して、畔田がここで、二箇所で言っている「コロダヒ」は、後は『「コロダヒ」の子の紋のごとし』と言っているからいいとして、こののそれも成魚ではなく、幼魚を指しているのではないかと私は考える。而して、「㋑」」ともに背鰭の形状や尾の黒点、及び、「」では斜体紋の数が気になるが、私はスズキ目スズキ亜目タカノハダイ科タカノハダイ属ミギマキ Goniistius zebra を候補の一つとして挙げてよいのではないかと思っている。「ぼうずコンニャクの市場魚類図鑑」のミギマキのページを見られたい。にしても、「クロホシフエダイ」の一種には見えないのが、致命的だな……三、四日はあれこれと比定同定を考えてみたのだが、もう、疲れた。悪しからず。これで暫くは放置しておく。]

谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年八月号『經濟往來』発表。正しくは表記は谷崎潤一郞である。

 私は佐藤春夫が大好きで、谷崎潤一郎は人間的に大嫌いである。作家としては、小説では「蘆刈」に心打たれた以外は特に感心したものがない。若い時、期待して蒐集しては片っ端から読んだ彼の怪奇幻想系の小説群も、これがまた、悉く縁日の見世物並みにキッチュな作り物であったことに激しく失望したことが、『裏切られた』という残感覚として私に根を張ってしまったのが原因と思われる。但し、「陰翳禮讃」を筆頭とする随筆類はなかなかに優れており、着眼点の面白さという点で、まず他の追従を許さぬ感がある。特に谷崎の変態的なものへの確信犯的嗜好が、フロイトの言う肛門期的パワーを以って十二分に発揮された本篇は私の一押しの作品である。とっくに誰かが電子化しているだろうとずっと思っていたが、最近、ふと気になって捜してみたが、これ、見当たらない。或いは、健全な方々には、本篇の、文字通り、臭ってくるようなスカトロジスム的雰囲気が躊躇させているのかも知れない。されば、電子化することとした。好きでない作家でもあるので、一発で放(ひ)り出したいから、注は一箇所を除いて附さなかった。なお、文中に出る「大正便所」の構造は頭には描けるが、どのようなものかはネットでもよく判らなかった(貯留槽と汲取槽に分けて一定期間貯留させることによって屎尿内部で寄生虫や病原体等を自壊させる構造の便所である「厚生省式改良便所」の解説の中に名前だけはあった)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの昭一四(一九三九)年創元社刊の「陰翳禮讃」の当該作の画像を視認した。

 段落の頭に字下げがないのはママである。踊り字「〱」は正字化した。因みに、標題からして「厠のいろいろ」の「いろいろ」の後半は踊り字「〱」である。底本本篇には一切ルビがないが、一部、若い諸君向けに読みを( )で推定で歴史的仮名遣で附した。無論、標題は「かはやのいろいろ」と読む。なお、「糞溜」は「ふんだめ」でいいとも思ったが、「くそだめ」「こえだめ」と読んでいないという断定は出来ないのでルビを附さなかった。]

 

 

厠のいろいろ

 

 

       ○

厠で一番忘れられない印象を受け、今もをりをり想ひ起すのは、大和の上市(かみいち)の町で或る饂飩屋(うどんや)へ這入つたときのことである。急に大便を催したので案内を乞ふと、連れて行かれたのが、家の奧の、吉野川の川原(かはら)に臨んだ便所であつたが、あゝ云ふ川添ひの家と云ふものは、お定りの如く奧へ行くと一階が二階になつて、下にもう一つ地下室が出來てゐる。その饂飩屋もさう云ふ風な作りであつたから、便所のある所は二階であつたが、跨ぎながら下を覗くと、眼もくるめくやうな遙かな下方に川原の土や草が見えて、畑に菜の花の咲いてゐるのや、蝶々の飛んでゐるのや、人が通つてゐるのが鮮やかに見える。つまりその便所だけが二階から川原の崖の上へ張り出しになつてゐて、私が踏んでゐる板の下には空氣以外に何物もないのである。私の肛門から排泄される固形物は、何十尺の虛空を落下して、蝶々の翅や通行人の頭を掠(かす)めながら、糞溜へ落ちる。その落ちる光景までが、上からありあり見えるけれども、蛙(かはづ)飛び込む水の音も聞えて來なければ、臭氣も昇つて來ない。第一糞溜そのものがそんな高さから見おろすと、一向不潔なものに見えない。飛行機の便所へ這入(はい)つたらこんな工合なのではないかと思つたが、糞の落ちて行く間を蝶々がひらひら舞つてゐたり、下に本物の菜畑があるなんて、洒落た厠がまたとあるべきものではない。但し、此の場合厠へ這入つてゐる者はよいが、災難なのは下を通る人たちである。廣い川原のことだから家の裏側に沿うて畑があつたり、花壇があつたり、物干し場があつたりするので、自然その邊を人がうろうろする譯だが、始終頭の上に氣を配つてもゐられまいから、「此の上に便所あり」とでも棒杭を立てゝ置かなかつたら、ついうつかりして眞下を通ることもあらう。とすると、どんな時に牡丹餅の洗禮を受けないとも限らないのである。

       ○

都會の便所は淸潔と云う點では申し分がないけれども、かう云つたやうな風流味がない。田舍は土地がゆつたりとしていて、周圍に樹木が繁つてゐるから、母屋(おもや)と厠とを切り離してその間を渡り廊下でつないでゐるのが普通である。紀州下里の懸泉堂(佐藤春夫の故鄕の家)は建坪は少いが、庭は三千坪からあるのだと聞く。私が行つたのは夏であつたが、庭の方へ長い渡り廊下が突き出てゐて、その端にある厠が、こんもりした靑葉の蔭に包まれてゐた。これだと臭氣などは忽ち四方のすがすがしい空氣の中へ發散してしまふから、四阿(あづまや)にでも憩(いこ)つてゐるやうな心地がして、不淨な感じがしないのである。要するに、厠はなるたけ土に近く、自然に親しみ深い場所に置かれてあるのがよいやうである。叢の中で、靑天井を仰ぎながら野糞をたれるのとあまり違はない程度の、粗朴な、原始的なものほど氣持がよいと云ふことになる。

       ○

もう二十年近くも前のことだが、長野草風畫伯が名古屋へ旅行をして歸つて來ての話に、名古屋と云ふ都會はなかなか文化が進んでゐる、市民の生活程度も大阪や京都に讓らない、自分はそれを何に依つて感じたかと云へば、方々の家へ招かれて行つた時に、厠の匂ひを嗅いでさう思つたと云ふのである。畫伯の說に依ると、どんなに掃除のよく行き屆いた便所でも、必ずほんのりと淡い匂ひがする。それは臭氣止めの藥の匂ひと、糞尿の匂ひと、庭の下草や、土や、苔などの匂ひの混合したものであるが、而(しか)もその匂ひが一軒々々少しづゝ違つてゐる、上品な家のは上品な匂ひがする。だから便所の匂ひを嗅げば、ほゞその家に住む人々の人柄が分り、どんな暮しをしてゐるかゞ想像できるのであつて、名古屋の上流の家庭の厠は槪して奧ゆかしい都雅(とが)な匂ひがしたと云ふ。なるほど、さう云はれてみると、便所の匂ひには一種なつかしい甘い思ひ出が伴ふものである。たとへば久しく故鄕を離れてゐた者が何年ぶりかで我が家へ歸つて來た場合、何よりも便所へ這入つて昔嗅ぎ馴れた匂ひを嗅ぐときに、幼時の記億が交々(こもごも)よみがへつて來て、ほんたうに「我が家へ戾つて來たなあ」と云ふ親しみが湧く。又行きつけの料理屋お茶屋などについても、同樣のことが云へる。ふだんは忘れてゐるけれども、たまに出かけて行つてその家の厠へ這入つてみると、そこで過した飮樂の思ひ出がいろいろと浮かんで來、昔ながらの遊蕩氣分や花柳情調が徐(おもむ)ろに催して來るのである。それに、さう云ふと可笑しいが、便所の匂ひには神經を鎭靜させる効用があるのではないかと思ふ。便所が瞑想に適する場所であることは、人のよく知る通りであるが、近頃の水洗式の便所では、どうもそれが思ふやうに行かない。と云ふのは、他にもいろいろの原因があるに違ひないが、水洗式だと、淸潔一方になつてしまつて、草風氏の所謂上品な匂ひ、都雅の匂ひのしないことが、大いに關係してゐるのであらう。

       ○

志賀君が、故芥川龍之介から聞いたと云つて話された話に、倪雲林(げいうんりん)の厠の故事がある。雲林と云ふ人は支那人には珍しい潔癖家であつたと見えて、蛾の翅を澤山集めて壺の中へ入れ、それを厠の床下へ置いて、その上へ糞をたれた。つまり砂の代りに翅を敷いたフンシのやうなものだと思へば間違ひはないが、蛾の翅と云へば非常に輕いフワフワした物質であるから、落ちて來た牡丹餅を忽ち中へ埋めてしまつて見えないやうにする仕掛けなのである。蓋(けだ)し、厠の設備として古來このくらゐ贅澤なものはあるまい。糞溜と云うものはどんなに綺麗らしく作り、どんなに衞生的な工夫をしたところで、想像すると汚い感じが湧いて來るものだが、此の蛾の翅のフンシばかりは、考えても美しい。上から糞がポタリと落ちる、パツと煙のやうに無數の翅が舞ひ上る、それが各々パサパサに乾燥した、金茶色の底光りを含んだ、非常に薄い雲母(きらら)のやうな斷片の集合なのである、さうして何が落ちて來たのだか分らないうちにその固形物はその斷片の堆積の中へ吞まれてしまふ、と云ふ次第で、先の先まで想像を逞(たくま)しうしてみても、少しも汚い感じがしない。それともう一つ驚くのは、それだけの翅を蒐集する手數である。田舍だつたら夏の晚にはいくらでも飛んで來るけれども、今も云ふやうな目的に使用するのには、隨分たくさんの翅が必要なのである。さうして恐らくは、用を足す每に一遍々々新しいのと取り換へなければなるまい。されば大勢の人手を使つて、夏の間に何千匹何萬匹と云ふ蛾を捕へて、一年中の使用量を貯へてゞも置くのであらう。とすると、とても贅澤な話で、昔の支那ででもなかつたら實行出來さうもないことである。

[やぶちゃん注:ここで谷崎がカタカナで記した「フンシ」であるが、これは恐らく名詞の「糞仕」である。小学館「日本国語大辞典」の『ふんし【糞仕】』に、『「し」は動詞「する(為)の連用形から。「仕」はあて字』とし、『犬や猫が糞尿をすること。また、その場所。普通、砂を入れた箱をあてがう』とあり、用例から江戸中期以降の語である。谷崎は「糞仕」の「仕」が当て字であることが判っており、しかし、そうした動物用の「おまる」を指すような「し」という発音の漢字が浮かばなかったために、かく表記したものと思われる。]

       ○

倪雲林の苦心は、自分のたれたものを、絕對に自分の眼に觸れさせないやうにした、と云ふところに存するのであらう。勿論普通の厠であつても、好んで見ようとしなければ見ないで濟ませるやうなものゝ「恐いもの見たさ」ではなくて「汚いもの見たさ」とでも云ふか、見える所にある以上はどうかした拍子に見ることがある、だから矢張見えないやうな設備をするのに越したことはないが、一番簡單な方法は床下を眞暗にすることだと思ふ。これは何でもないことで、汲取口の蓋をかつちり外れないようにさへして置けば、もうそれだけでも可なり光線が防げるのだが、近頃はさう云ふ注意を怠つてゐる家が多い。尙その上に、床と溜との距離を遠くして、上部からの光線が屆かないやうにすることである。

       ○

水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭でもハツキリ見ることになる。殊に西洋式の腰掛でなく、跨ぐようにした日本式のでは、水を流すまではすぐ臀(しり)の下にとぐろを卷いてゐるのである。これは不消化物を食べた時など容易に發見することが出來て、保健の目的には叶ふけれども、考へて見れば不作法な話で、少くとも雲鬢花顏(うんびんくわがん)の東洋式美人などには、かう云ふ便所へ這入つて貰ひたくない。やんごとない上﨟などゝ云ふものは、自分のおいどから出るものがどんな形をしてゐるか知らない方がよく、噓でも知らない振りをしてゐて貰ひたい。そこで、假に私が好きなやうに便所を作るとすれば、矢張水洗式を避けて、昔風のものにするが、出來るなら糞溜を便所の位置から離れた所、たとへば裏庭の花壇や畑などのある方へ持つて行く。つまり、便所の床下からそこまで多少の勾配をつけて、土管か何かで汚物を送り込むようにするのである。かうすれば床下は明りのさし込む口がないから、眞暗になる。瞑想的な、都雅な匂ひはほんのりするかも知れないが、不愉快な惡臭は絕對にしない。又、便所の下から汲み取るのでないから、用の最中に慌てゝ外へ逃げ出すやうな醜態を演ずる心配がない。野菜や花などを作る家では、かうして溜を別にした方が肥料を得るにも便利である。たしか大正便所と云ふのが此の式であつたかと思ふが、土地をゆつくり使ふことの出來る郊外であつたら、水洗式より此の方をおすゝめしたいのである。

       ○

小便所は、朝顏へ杉の葉を詰めたのが最も雅味があるけれども、あれもどうかと思ふのは、冬だと夥(おびただ)しい湯氣が立つのである。それはその理窟で、杉の葉があるために流れるものが流れてしまはずに、悠々と葉と葉の間を傳はつて落ちるからであるが、放尿中生暖い湯氣が盛んに顏の方へ昇つて來るのは、自分の物から出るのだからまだ辛抱ができるとしても、前の人のすぐあとなどへ行き合はせると、湯氣の止むのを氣長に待つてゐなければならない。

       ○

料理屋やお茶屋などで、臭氣止めに丁子(ちやうじ)を焚いてゐる家があるが、矢張厠は在來の樟腦(しやうなう)かナフタリンを使つて厠らしい上品な匂をさせる程度に止(とど)め、あまり好い薰りのする香料を用ひない方がよい。でないと、白壇(びやくだん)が花柳病の藥に用いられてから一向有難味がなくなつたやうになるからである。丁子と云へば昔はなまめかしい連想を伴ふ香料であつたのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまひである。丁子風呂などと云つたつて、誰(たれ)も漬かる奴がなくなつてしまふ。私は丁子の香を愛するが故に、特に忠告する次第である。

       ○

學校で、「便所へ行きたい」と云ふことを英語では「アイ・ウオント・トウー・ウオツシユ・マイ・ハンヅ」と云ふのだと敎はつたけれども、實際はどうであらうか。私は西洋へ行つたことはないが、支那で天津の英國人のホテルヘ泊まつた時、食堂のボーイに「ホエア・イズ・トイレツト・ルーム?」と小聲できいたら「W・C?」と大きな聲で聞き返されたのには面食(めんくら)つた。それよりもつと困つたのは、杭州の支那人のホテルで俄かに下痢を催したので、「便所は」と云ふと、ボーイがすぐに案内してくれたのはよいが、生憎そこには小便所しかないのである。私はハタと當感した。なぜなら「大便所」と云ふ英語を敎はつてゐなかつたからである。で、「もう一つの方だ」と云つてみたけれども、ボーイは悟つてくれないのである。外のことなら手眞似でも說明できようが、此奴(こいつ)は眞似をする勇氣がない、そのうちに愈々催して來るし、よくよく困つた經驗があるので、かう云ふ場合に使ふ英語を覺えておかうと思ひながら、實は今以て知らないのである。

       ○

使用中の厠を間違へて開けて、「あ、誰か這入つてる」と叫ぶことがある、此の場合の「誰か這入つてる」を英語で何と云ふか知つてるですか、――と云ふ質問を、ずうつと前に或る席上で近松秋江氏が發したことがある。多分秋江氏は、ホテルか何處かの便所で西洋人の使つた言葉を聞いたのであらう。そう云ふ場合には「サムワン・イン」と云ふですな、――と、そのとき秋江氏は敎へてくれたが、爾來二十有餘年に垂(なんな)んとするけれども、まだ此の英語は實地に應用する機會がない。

       ○

濱本浩君が改造社の社員として京都に出張してゐる時分、或る時岡本の私の家を訪ねた歸りに、梅田から京都行の汽車の中で便所に這入つたが、ドーアを强く締めた拍子に握りの金具が落ちてしまつたので、今度は開けることが出來なくなつた。怒鳴つても叩いても、進行中の汽車の中では聞きつけてくれる譯がない。仕方がないので、當分は外へ出られないものと覺悟をきめ、落ちた金具を拾ひ上げて、その先でコツコツとドーアを叩いてゐた。すると乘客の誰かが氣がついて車掌に知らせたものらしく、京都へ着く前に開けて貰ふことが出來たと云ふ。私は此の話を聞いてから、汽車の便所へ這入る時にはドーアの開閉を亂暴にせぬやう、特に心を配ることにしてゐる。普通列車であつたら、最寄りの驛へ停まつた時に窓を開けて救ひを求める法もあるが、夜汽車の急行などでかう云ふ災難に遇ふと、何時間立ち往生をさせられるか分らないからである。

 

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 浮巖

 

 浮巖

 赤須村〔あかすむら〕の東の、天龍川中〔かわなか〕に大〔おほい〕なる石あり。その頂〔いただき〕、すこしく水面にあらはれたるに、何ほどの洪水にても、常のごとく、同じやうにのみ見ゆるを、土人、「浮巖〔うきいは〕」と名付〔なづけ〕て、「水に隨〔したがひ〕て浮沉〔うきしづみ〕す」と、いへり。いと、あやしきことなりける。

 「五雜俎」及び「琅琊代醉篇〔らうやだいすいへん〕」に、「地肺〔ちはい〕・浮玉〔ふぎよく〕」といふもの、水にしたがひ、高下〔かうげ〕するよし、見ゆ。かかる事もあるものにや。「海内奇觀〔かいだいきかん〕」に、『浮山在安慶府城縣東九十里』と見えたるも、かゝるものなるべし。

 

[やぶちゃん注:現存するかどうかを調べようと、検索を掛けたところ、国立国会図書館デジタルコレクションの「日本傳說叢書 信濃の卷」(藤沢衛彦編・日本伝説叢書刊行会発行・大正六(一九一七)年)が掛かってきた。「水神・森林傳說」のパートのここの「浮巖」であるが、これ、殆んど総てが本「信濃奇談」を訳しただけのもので、最後に「海内奇觀」を引いた後を、『と見えているゐるのは、何の類(たぐひ)か知らないが、土地の人は、此浮巖(うきいは)の下に主(ぬし)が住んでゐると信じてゐる。(口碑)』(最後の丸括弧は二行割注)とあるだけがオリジナルで、その前の部分は丸々、本篇を使った訳なのである。それで「口碑」はおかしいだろ?! 大体、口碑なのに「五雜爼」や「琅琊代醉篇」「海内奇觀」なんて引用書が出るのはあり得ないよ! 実は、前のページには次に出る「鸚鵡石(あうむいし)」の項があるのだが、そこでは、ちゃんとオリジナルな内容を記しつつ、『「信濃奇談」に記されてゐる』と書いてあるのだ。これでは元恒・元鎧が如何にも可哀そうだ! ちゃんと「信濃奇談」にある、と書け! 藤沢衛彦! なお、因みにこの「浮巖」なるものは現存しないようである。

「赤須村」底本向山氏の補註に、『現、駒ケ根市赤須』とある。現在は赤須町とその東北に接して赤須東があるが、そこから最短で二・五キロメートル弱の位置に天竜川が南北に流れる(グーグル・マップ・データ)。

「五雜俎」「鹽井」の私の注を参照されたい。

「琅琊代醉篇〔らうやだいすいへん〕」同前。

「地肺〔ちはい〕・浮玉〔ふぎよく〕」前者は「五雜爼」の巻四の「地部二」に、

   *

荊州濟江西岸有地肺、洪潦常浮不沒、其狀若肺焉。故名。駱賓王吸金丹於地肺、卽此也。或云終南山、亦曰地肺。一云、太一山。

   *

とあった。また、南唐(九三七年~九七五年)の官僚であった劉崇遠の撰になる「金華子雜編」に、「地肺浮玉」の文字列を発見した。原本画像を参考にして写した。下線太字や句読点その他は私が勝手に附したものである。

   *

自登州岸一洲渡海卽至島。島有五所、卽禹貢之羽山、西漢梅福、自九江尉去隱爲吳門卒。今山陰有梅鄕。秋水汎溢時、南北二城、皆、有濡足之患。惟中潬屹然如故。相傳此潬隨水高下者所謂地肺浮玉者。「楞嚴經」云、「乾爲洲潬溼爲巨海」。

   *

よく判らぬ部分が多いのだが、「登州」は唐代から明初にかけて、現在の山東省煙台市と威海市にまたがる地域に置かれた州である。山東半島の大部分と言ってよい。「潬」は砂州を指す語で、「溼」は「濕(湿)」の同字であるから、どうもここに書かれたものが岩ではなく、砂の塊りである。「楞嚴經」は「りょうごんぎょう」と読み、「大佛頂如來密因修證了義諸菩薩万行首楞嚴經」の略称で現行では「首(しゅ)楞厳経」とも呼ばれる。全十巻。般刺密帝(ばんらみたい)訳で禅法の要義を説いたものである。私は寧ろ、「濡足之患」というのに目が惹かれる。これは或いは風土病のようなものではなかろうか?

「海内奇觀」明楊爾曾編になる図入りの地理書か。

「浮山在安慶府城縣東九十里」「浮山は安慶府城縣の東、九十里に在り」。よく判らぬが、現在の安徽省銅陵市樅陽県浮山鎮に浮山(現在は安徽浮山国家地質公園か。グーグル・マップ・データ)という名勝地がある。ももたろう氏のブログ「ももたろうの中国ぶらり旅日記」のこちらに、「浮山」の解説(写真一枚あり)があり、『安慶市樅陽県の北の』三十六キロメートル『の所にあります』。『観光地区の総面積は』二百平方キロメートル『あり、安徽省五大名山の』一『つで、全国名山洞』三十六『のうちの一つに数えられています』。『蛙や白鳥に似た怪石(変わった石)や』七十二『の洞穴などがあります』。『浮山は約』一『千年前の南朝の頃、仏教の景勝地として、天台宗の創立者の智者大師が「浮山寺」を建設しました』。『その後、曹洞宗7代祖の遠禄禅師が浮山に入り、領地を広げ』、『宋仁宗の敕建華俨寺』(ちょくけんかげんじ)『を造りました』。『その後も増設を繰り返し、一時は僧・尼あわせて』千『人を超えるほど』、『繁栄していたそうです』とある。これは元恒先生、これは怪異でも何でもありませんよ。ネットで現地の画像を何枚か見ましたら、「なるほど!」と判りました。下方部分に多数の洞窟が掘られたために、岩塊群の下方部分が奥に抉れるようになっていて、岩山全体が浮いたように見えるからだと思いますぜ。]

北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「古酒」・辞・戀慕流し

 

Kosiyu

 

   古  酒

 

[やぶちゃん注:パート標題と石井柏亭の挿絵。亀の形を模した吹き出しを持った手水鉢のようである。「古酒」は迷ったが、以下の辞を読むに、これのみ「ふるざけ」と読むのはおかしいと感じたので、「こしゆ」と読んでおく。]

 

 

こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神經には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウ井スキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂强き味覺の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の窻より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の珍酡の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる樣々の夢と匂とに執するのみ。

 

[やぶちゃん注:以上は「古酒」のパート表題の裏、見開き右ページにごくポイント落ちで印刷された辞。

「白耳義」ベルギー(オランダ語:België/フランス語:Belgique)。

「フアンドシエクル」フランス語の「fin de siècle」(ファン・ダァ・シィエクル)フランスなどで文芸方面に於いて退廃的傾向が強く現われた「世紀末」の意。

「柑桂酒」音で読めば「かんけいしゆ」であるが、前に徴すれば、白秋高い確率で「キユラソオ」と読んでいる。「Curaçao」(フランス語)でリキュールの一種。古くからオランダが主産地で、現在もオランダ自治領であるカリブ海のクラサオ(キュラソー)島特産のビター・オレンジの未熟果の果皮を乾燥させ、基酒であるラムに浸出したもの。フランス産キュラソーはブランデーを基酒とする。オレンジ色のオレンジ・キュラソーや無色のホワイト・キュラソーなどがあり、アルコールは約四十度と高く、カクテルによく用いられる。ブルー・キュラソーの色がよく知られるが、オレンジ・キュラソーを樽熟成させたものは褐色を帯びる。ここで出た二箇所のそれは、後者はそのままであるが、前者は、その色を想像の航海する帆船の色に転じたものである。

「喇叭」「らつぱ」(ラッパ)。

「茴香酒」そのまま読むなら、「ういきやいしゆ(ういきょうしゅ)」であるが、前に徴すれば、白秋高い確率で「アブサン」と読んでいる。「absinthe」(フランス語)。音写するなら「アプサァント」。古くからフランス・スイス・チェコ・スペインなどを中心にヨーロッパ各国でニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium)・アニス(英語 anise。双子葉植物綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum)・ウイキョウ(セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare)などを中心に複数のハーブやスパイスを主成分として作られてきたアルコール度の高い(四十~八十九%)薬草系リキュールの一つ。元はギリシア語の「ヨモギ」を意味する「アプシンシオン」に由来する。

「キユムメル」キュンメル。「Kümmel」(ドイツ語)。リキュールの一種。名称はヒメウイキョウ(キャラウェイ:caraway)のドイツ語。キャラウェイの香りが強い無色の酒で、他にコリアンダー・アニス・レモンなどの香味を精製アルコールに配合してある。初め、バルト海岸のリガで造られ、オランダ・フランス・北ヨーロッパへと普及した。香りの強さやアルコール分・糖分の含有量によって三タイプがある。糖分十~二十%、アルコール度数四十度。

「嚠喨」「りうりやう(りゅうりょう)」と読む。楽器・音声が冴えてよく響くさま。

「類」「たぐひ」と読んでおく。

「火酒」「くわしゆ(かしゅ)」であるが、「ウオツカ」或いは「ウオトカ」(ロシア語:vodka)と読みたい気はする。

「阿刺吉」「あらき」(オランダ語:Arak:アラック)で、オランダの火酒の一種。

「珍酡」「ちんた」(ポルトガル語:Vinho-tinto:ヴィーニョ・ティント:「Vinho」が「ワイン」、「tinto」は「赤」の意)で、ポルトガル産の赤葡萄酒の名。

「和蘭」オランダ。]

 

 

 戀慕ながし

 

春ゆく市(いち)のゆふぐれ、

角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透き

うつらふ色とにほひと

見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。

 

しばしは雲の縹(はなだ)と、

灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、

また行く素足(すあし)しらしら、――

あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。

 

古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の

物燒く薰(くゆり)いつしか

薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく

紅(あか)き音色(ねいろ)の搖曳(ゆらびき)。

 

このとき、玻璃(はり)も眞黑(まくろ)に

四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、

獸(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)

過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。

 

ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)の

はやも見わかぬかなしさ。

れんほ、れれつれ、消えぬる

戀慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。

四十年二月

 

[やぶちゃん注:「戀