疱瘡
御嶽〔おんたけ〕の里は福島宿の西にあたり、山深き所なり。むかしより、その里の人、疱瘡を、やまず。たまたま壹人貳人〔ひとりふたり〕病む者あれば、これを「飛疱瘡〔とびはうさう〕」と名付〔なづけ〕て、遠き所に出〔いだ〕しをき、疱瘡を病〔やみ〕し人をつけ、介抱させ、日を經て後に、家に歸しぬ。かくすれば、その處に傅染するといふ事なしとぞ。
甲斐國に橋本宗壽〔はしもとそうじゆ〕といへる醫士あり。其說にいふ。
「いづれの所にても、御嶽のごとくにせば、疱瘡の種は盡〔つき〕ぬべし。此病〔やまひ〕、中華にては、晋、建武〔けんぶ〕中 本邦にては 聖武帝の時より、はじまりぬ[やぶちゃん注:字空けは底本・原本のママ。以下、同じ。]。その以前の人は、やまずして濟〔すみ〕ぬ。天行疫氣〔てんかうえきき〕にもあらず、又、胎毒〔たいどく〕の内より發する病にもあらず、人より人に傅染する病なれば、避〔さけ〕て免〔まぬかる〕べきものなり。」
とて、「斷毒論」三卷、作りて出〔いだ〕しぬ。
御嶽の里ばかりにもあらず。信州にても秋山の里、また飛驒の白川、美濃の苗木、伊豆の八丈島、越後の妻有〔つまり〕、紀伊の熊野、周防〔すはう〕の岩國、伊與[やぶちゃん注:ママ。]の露峯、土佐の別枝〔べつし〕、肥前の大村ならびに五島・[やぶちゃん注:この中黒点は底本のもの。]肥後の天草等にても疱瘡はやまず、となん。
韃靼〔だつたん〕の、疱瘡をやまざる事は「五雜俎」にもいへり。
さらば、橋本氏の說にしたがはんには、その種の盡〔つく〕まじきにもあらず。されど、止むべからざるの勢〔いきほひ〕あり。
橋本氏、その一つを知りて、その二を、しらず。天地の間、正邪ならび行はるゝ事、疱瘡のみにあらず。異端の道を害する周に、楊・墨〔やう・ぼく〕[やぶちゃん注:楊朱と墨子。]あり。漢に老〔らう〕[やぶちゃん注:老子。]あり。南北朝の間に佛〔ぶつ〕[やぶちゃん注:仏教。]あり。其世の賢人、孟子をはじめ、つとめてこれを防ぎしが、その時には、やまざりし。
今 本邦にては楊・墨と老とは、絕〔たえ〕て、なし。ひとり、佛の盛んなる事、前代に越〔こえ〕たり。これ、もと、耶蘇宗を禁〔きん〕ぜんとて、邪〔じや〕を假〔かり〕て邪を防ぎ、盜〔とう〕を假て、盜を防ぎ給ひし一時の權略〔けんりやく〕に出〔いで〕たれども、永き國家の政典とはなれり。今、聖賢の人、上に在〔ま〕して、ふかく、是を憂へ、歎かせ給へども、又、時勢にて除き得〔う〕べからず。疱瘡の毒の、國に充〔みち〕たる、また、佛の、國にあるがごとし。今人〔きんじん〕の力もて、いかでかは斷〔だん〕ずるべきや。橋本氏の志、また愍〔あはれ〕むべし。
「五雜俎」に、『韃靼の疱瘡なきは、鹽・酢〔しほ・す〕を食はざる故なり』と見えたるを、東涯翁の說に、「八丈嶋は海濤〔かいたう〕の中にありて、日每〔ひごと〕に鹽を食すれども、疱瘡は、なし」。また、ある說に、これは其地に「あした」といへる草あり。これを食するゆゑなり、と、いへり。東涯翁いふ、
「筑〔ちく〕の彥山〔ひこさん〕に『あした』は、なし、されど疱瘡は、なし」
と、いへり。これ等、疱瘡の、人より人に傳染する病といふ事は知らざるなり【吉益〔よします〕氏の「醫斷」に、『疱瘡は東漢にはじまる』といへるは、晋の建武と年號の同じき故にあやまるなり。晋にはじまる事は、「肘後方〔ちうごはう〕」に見へたれば、したがふべし。再〔ふたたび〕按ずるに、「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり。〔元恒補註-按〔あんずる〕に、これ、「外臺」に搗るなり。〕[やぶちゃん注:底本に拠り、表記法もそのままに写した。「搗」は不審。後の私の注を参照されたい。但し、原本には最後のこの元恒の補註はない。]】。
かゝる無用のもの、世にありて、人々、その害を免れざるに、今は、人の役目と心得て、其病の遲きを憂ふは、いかにぞや。佛の、國政にあづかりて、なくてすまざる物と、おもへるにおなじ。うたてし。橋本氏の憂〔うれひ〕もまた、宜〔むべ〕なる哉〔かな〕。
「あした」は鹹草〔しほぐさ〕なり。「大和本草」に見ゆ。一日〔いちじつ〕の内に長ずれば、「あした」とは、いふなり。【一說に「あした」は「都管草」なりといへるは誤〔あやまり〕なり。蘭山翁の說に見ゆ。】いま、此種、吾〔わが〕藩にも傳へ來りて、賞翫す。こゝに、その圖を、あらはす。「七島日記」にも圖あり。たゞし、その「日記」には『花の色、白し』と見へたれど、吾藩にある處は黃なり。
[やぶちゃん注:底本の挿絵。原本のそれはこちら。しかし、この挿絵、何だか、アシタバには見えないんですけど? 第一、こんな一本立ちの菊みたいな咲き方、せえへんで? 傘形花序でっせ(グーグル画像検索「アシタバ 花」)? 葉も鋸歯があるのはええけど、やけに細いし、葉脈が細か過ぎる。ホンマにこれ、実写したんかいって感じ?!? 実際のアシタバだったとすると、元恒には博物画の才能はゼロと言わざるを得ない気がするんですけど!?!
以下、底本では二字下げポイント落ち。そのままに写す。但し、原本には全くない。]
〔元恒補註-「垁囊抄〔あいなうしやう〕」[やぶちゃん注:「垁」はママ。私の後注を必ず参照のこと。]、疱瘡の初〔はじめ〕を記して云〔いふ〕。『源順〔みなものとしたがふ〕、「疱瘡」と書〔かき〕、疫病也。筑紫の者、魚を賣りける舟、難風〔なんぷう〕に逢〔あひ〕て新羅國に着〔つき〕、其人、うつり病〔やみ〕て歸りける』が、次第に、五畿内・帝都に流布しけるなり。「外臺祕要」、『永徽四年、此瘡從二西域一東流干海内』云云。〕[やぶちゃん注:最後の「外臺祕要」の「干」はママ。後で原文を示すが、言わずもがな、「于」の誤りである。悪いが、この底本の判読・校合は、学術書としては、ちと、ひどいレベルである。]
〔元恒補註―「續紀〔しよくき〕」に、『天平七年自夏至冬天下患二豌豆瘡一【俗ニ曰フ二疱瘡一】、夭死者多』。本居翁曰、「これ、皇國にて疱瘡のはじめか。されど、こゝの記〔しる〕しざま、はじめてとも聞へざるがごとし」云云。
又、延曆九年にも、『秋冬、京畿、男女三十已下悉發二豌豆瘡一臥ㇾ疾者多シ、其甚者死天下諸國往々而在』と見ゆ。本居曰、「此瘡の名、これより後の書には、「皰瘡〔はうさう〕」といヘり。「疱瘡」、同じことなり。今の世にも「いも」といふ。昔も「かさ」といへるは、「いもがさ」の省〔はぶ〕きか」云云。
「本草」、『鹹草、扶桑東有、女國產鹹草而、氣香味、鹹。彼人、食之。〕
[やぶちゃん注:「疱瘡」天然痘。「耳囊 卷之三 高利を借すもの殘忍なる事」の「疱瘡」の注を参照されたい。ここに出る疱瘡が殆んど発生しないという場所は、相対的に当時の大きな都会地から離れた(というより隔絶した)山間や島嶼であるから、感染者流入が概ね遮断されている傾向にあるということで腑に落ちる。食性その他云々は、見当違いである。
「御嶽」向山氏の補註に、『現、長野県木曾郡王滝村・三岳村・開田村。御嶽(おんたけ)は木曾御嶽山をさす』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。
「福島宿」向山氏の補註に、『中山道の宿駅、木曾統治の中心地。現、長野県木曾郡福島町』とある。ここ(グーグル・マップ・データ)。御嶽山の南東の渓谷地。
「飛疱瘡〔とびはうさう〕」天然痘が撲滅された今、ネット上ではこの言葉は検索に掛かってこない。
「橋本宗壽〔はしもとそうじゆ〕」読みは医師名なので音読みしたに過ぎない。これは、後に著書として「斷毒論」が出ることから、「橋本伯壽」の誤りであることが判る。橋本伯寿(はくじゅ ?~天保二(一八三一)年)は甲斐国市川大門村の曾祖父以来続いた医家に生まれた。名は徳、号は三巴・節斎、通称は保節。長崎に遊学し、吉雄耕牛・志筑忠雄に蘭学を学び、帰途、大村・天草を訪れ、天然痘患者の厳重な隔離による避痘効果を体験した。さらに多くの実見によって隔離法による伝染病の予防対策を提唱、文化七(一八一〇)年に「断毒論」を著わし、天然痘・梅毒等の伝染説を唱道した。避痘隔離法の法令化を甲府勤番支配役所に請願した書の中で、医学館の痘科教授池田瑞仙の説を批判したことから、「断毒論」の版木を押収されるという、筆禍も受けている(以上は「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「晋、建武〔けんぶ〕中」東晋の元帝司馬睿(しば えい)が晋王であった時の元号で、東晋の最初の年号。三一七年~三一八年。但し、ウィキの「天然痘」によれば、『中国では、南北朝時代の斉が』、四九五『年に北魏と交戦して流入し、流行したとするのが最初の記録である。頭や顔に発疹ができて全身に広がり、多くの者が死亡し、生き残った者は瘢痕を残すというもので、明らかに天然痘である。その後』、『短期間に中国全土で流行し』、六『世紀前半には朝鮮半島でも流行を見た』とあり、橋本のそれは百七十八年も早い。彼は後で、この出典を「肘後方〔ちうごはう〕」(ちゅうごほう:西晋・東晋の道教研究家で著述家の葛洪(かっこう 二八三年~三四三年)が書いたとされる「肘後備急方」であろう。簡単な処方だけを集めた処方集である)とし、平凡社「世界大百科事典」の「天然痘」には、発源地については諸説あるが、最も有力なのはインドとされており、それが古代民族の移動交流にともなって世界各地に伝播していった。中国には紀元前一二〇〇年から紀元前一一〇〇年頃に流入したともされるが、中国の医書「肘後方」によると、南斉の建武年間(五世紀末)に「虜瘡(りょそう)」と呼ばれる疫病が流行した、とあって、これが痘瘡と特定出来る最初の記録とされている。恐らくはインドから仏教が伝播していった経路とほぼ同じ道、つまり、「シルク・ロード」を辿って中国に入ってきたと思われる、とあるので不審は一応は氷解した。
「聖武帝」在位は神亀元(七二四)年~天平勝宝元(七四九)年。ウィキの「天然痘」によれば、『渡来人の移動が活発になった』六『世紀半ばに最初のエピデミックが見られたと考えられている。折しも新羅から弥勒菩薩像が送られ、敏達天皇が仏教の普及を認めた時期と重なったため、日本古来の神をないがしろにした神罰という見方が広がり、仏教を支持していた蘇我氏の影響力が低下するなどの影響が見られた』(とあるので、橋本の謂いよりもこちらは前である可能性が高い)。「日本書紀」には『「瘡(かさ)発(い)でて死(みまか)る者――身焼かれ、打たれ、摧(砕)かるるが如し」とあり、瘡を発し、激しい苦痛と高熱を伴うという意味で、天然痘の初めての記録と考えられる(麻疹などの説もある)』。敏達天皇十四年八月十五日(五八五年九月十四日)に崩御した『敏達天皇の』死因も『天然痘の可能性が指摘されている』。七三五年から七三八年にかけては西日本から畿内にかけて大流行し、「豌豆瘡(「わんずかさ」もしくは「えんどうそう」とも)」と称され、平城京では政権を担当していた藤原四兄弟が相次いで死去した(天平の疫病大流行)。四兄弟以外の高位貴族も相次いで死亡した。こうして政治を行える人材が激減したため、朝廷の政治は大混乱に陥った。この時の天然痘について』は、「続古事談」などの『記述から、当時』、『新羅に派遣されていた遣新羅使の往来などによって同国から流入したとするのが通説であるが、遣新羅使の新羅到着前に最初の死亡者が出ていることから、反対に日本から新羅に流入した可能性も指摘されている』。『奈良の大仏造営のきっかけの一つが』、『この天然痘流行である。「独眼竜」の異名で知られる奥州の戦国大名、伊達政宗が幼少期に右目を失明したのも天然痘によるものであった』。十六『世紀に布教のため来日したイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、ヨーロッパに比して日本では全盲者が多いことを指摘しているが、後天的な失明者の大部分は天然痘によるものと考えられる』。『ヨーロッパや中国などと同様、日本でも何度も大流行を重ねて江戸時代には定着し、誰もがかかる病気となった。儒学者安井息軒、「米百俵」のエピソードで知られる小林虎三郎も天然痘による片目失明者であった。上田秋成は』天然痘の後遺症で『両手の一部の指が大きくならず、結果的に小指より短くなるという障害を負った。天皇も例外ではなく、東山天皇は天然痘によって崩御している他、孝明天皇の死因も天然痘との記録が残る』。『源実朝、豊臣秀頼、吉田松陰、夏目漱石は顔にあばたを残した』とある。
「天行疫氣」「天行」は、「時節によって流行する病気・流行病(はやりやま)い」で、「疫氣」も「伝染して流行する疫病」の意。
「胎毒」狭義には、乳幼児の頭や顔に発症する皮膚病の俗称。母体内で受けた毒が原因と考えられていた結果、こうした名称で呼ばれた。現代医学では脂漏性湿疹(皮脂の過剰分泌による湿疹。分泌機能の異常・皮脂成分の問題・細菌感染(黴(かび)の一種である癜風菌(でんぷうきん:菌界担子菌門クロボキン亜門モチビョウキン(マラセチア)綱マラセチア科マラセチア属マラセチア・フルフル Malassezia furfur:マラセチア毛包炎の病原体の一種として知られる菌。多汗症の人や力士に多いとされる。面皰(にきび)に酷似するが、体幹に多く発生する。夏に首より下に発生する面皰様の腫脹の殆んどはこのマラセチア毛包炎とされる)が近年疑われている)・皮脂と発汗のバランス異常等の体質的要因によるもので、重症化はしないものの、それほど簡単には療治出来ない)・急性湿疹(接触皮膚炎。所謂、アレルギ物質の接触による広義の「かぶれ」)・膿痂疹 (のうかしん) 性湿疹膿痂疹(細菌(Bacteria)の黄色ブドウ球菌(フィルミクテス門 Firmicutes バシラス綱 Bacilli バシラス目 Bacillales ブドウ球菌科ブドウ球菌属黄色ブドウ球菌 Staphylococcus aureus)や化膿連鎖球菌(バシラス綱ラクトバシラス目 Lactobacillales ストレプトコッカス科 Streptococcaceae 連鎖球菌属化膿連鎖球菌 Streptococcus pyogenes)又はこの両者によって引き起こされる皮膚感染症。黄色い「かさぶた」(痂皮(かひ))を伴った糜爛(びらん)が発生するほか、時に黄色い液体が詰まった小水疱が形成される。また、膿瘡(のうそう)という皮膚にかなり深い爛(ただ)れを引き起こす重症症状もある。前の二種に対し、これのみ、ヒト伝染性疾患である)などを指す。
「秋山の里」南北にかなりの広域。現在の長野県下水内郡栄村の旧秋山郷地区で、ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「美濃の苗木」現在の岐阜県中津川市苗木。
「越後の妻有〔つまり〕」新潟県十日町市と津南町からなる広域で、現在も里山が残り、棚田の景観で知られる。ここ。
「伊與」(伊豫)「の露峯」愛媛県上浮穴郡(かみうけなぐん)久万高原町(くまこうげんちょう)露峰(つゆみね)。
「土佐の別枝〔べつし〕」高知県吾川郡(あがわぐん)仁淀川町(によどがわちょう)別枝(べっし)。
「肥前の大村」長崎県大村市。
「韃靼〔だつたん〕」タタール。北アジアのモンゴル高原及び、シベリアとカザフ・ステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての、幅広い地域にかけて活動したモンゴル系・テュルク系・ツングース系及びサモエード系とフィン=ウゴル系の一部などの、様々な民族を指す語として用いられてきた民族総称。
「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻五の「人部一」の以下の一節。
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韃靼種類、生無痘疹、以不食鹽、醋故也。近聞其與中國互市、間亦學中國飮食、遂時一有之、彼人卽舁置深谷中、任其生死絕跡、不敢省視矣。一云、不食豬肉故爾。
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「楊墨」楊朱(紀元前三九五年?~紀元前三三五年?)は戦国前期の思想家。字は子居。楊子と通称される。伝記は不明であるが、一説に、衛 (河南省) 又は秦 (陝西省) の人で、老子の弟子と伝えられ、徹底した個人主義 (「爲我」) と快楽主義とを唱えたと伝えられる。道家の先駆の一人で、人生の真義は自己の生命と、その安楽の保持にあることを説いたとされる。「呂氏春秋」中に、その遺説が散見される。墨子(紀元前470年頃~紀元前三九〇年頃)は同じく戦国時代の思想家。墨は姓、名は翟(てき)。一説に、「墨」は入墨の刑で、墨子は受刑者であったことを意味し、社会や反対派が彼を卑しんで呼んだことに始まるともいう。墨子の事跡は明らかでないが、魯に生まれて、宋に仕えたという。封建制を是認し、道徳を尊重するなど、儒家と一致する主張が少なくない。しかし、儒家の礼説が繁雑で、財を尽くし、民を貧しくする有意な弊害を非として、反動的に礼楽を軽視し、勤労と節約を旨としたことで知られる。
「南北朝の間に佛あり」中国への本格的な仏教伝来は後漢(二五年~二二〇年)の頃であったが、魏晋南北朝時代(後漢末期の「黄巾の乱」(一八四年)から始まり、隋が中国を再び統一するまで、同時代の中国本土に複数の王朝が割拠していた時期。一八四年から五八九年)に独自の発展を始め、唐代に発展し、多くの宗派が形成されたことを「嚆矢」として特にかく言ったものものであろう。
「疱瘡の毒の、國に充〔みち〕たる、また、佛の、國にあるがごとし」「疱瘡の疫毒が日本中に蔓延するのは、また、これ、仏教が日本国に蔓延(はびこ)っていることと同じである」の意。本篇を読むに、元恒が強烈な排仏派であったことが判る。
「東涯翁」既出既注であるが、再掲しておく。伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は京都出身の儒者で、名は長胤(ながつぐ)。古義学派の創始者である伊藤仁斎の長男として、父の家塾「古義堂」を守り、多数の門人を教えた。父の著作の刊行に務め、古義学を集大成した。また、中国の儒教史・語学・制度を、日本と対比させつつ、研究し、膨大な著述を成した。書名がないので、引用元を調べる気にはならない。
『「あした」といへる草』セリ目セリ科シシウド属アシタバ Angelica keiskei。近年、スーパーでも見かけるようになった。ウィキの「アシタバ」によれば、『和名アシタバ(明日葉)の名は、強靱で発育が早く、「今日、葉を摘んでも明日には芽が出る」と形容されるほど生命力が旺盛であることに由来する』。『野菜としてアシタバが常食される八丈島は、産地として有名なことから八丈草の名でも呼ばれている』。『伊豆大島系と八丈島系の系統が存在しており、伊豆諸島でも島毎に多少形状が異なるとされる。茎の色で伊豆大島産のものを「赤茎」、八丈島産のものを「青茎」と呼ぶ。また、御蔵島産のものは他の島に比べ、茎が太いとされる』とあり、『特徴的な成分としては、カルコン』(chalcone:芳香族ケトンの一種) 類(キサントアンゲロール:Xanthoangelol:体内に於ける脂質燃焼促進効果を持つ)や芳香物質として知られるクマリン(coumarin:桜の葉に代表される植物性芳香成分の一種)類を『含み、これらは抗菌作用を持つ。中国でも薬用に用いられており、古くは明の時代に編纂された』李時珍の本草書「本草綱目」に『その名が見られる』。『日本では江戸時代中期に貝原益軒の』「大和本草」(後で電子化する)で『八丈島の滋養強壮によい薬草として紹介されている』。但し、『収穫時期及び生育年数や系統により、含有している成分や構成比には差異があ』り、あたかも『万能薬のように言われることもあるが、俗信の域を出ないものも多い』ともある。なお、ここでアシタバを食べるために八丈島の民は疱瘡に罹患しないというのは、寺島良安の「和漢三才図会」にも載る。所持する原本画像をもとに訓読して電子化する。巻第九十九の「葷草類」(くんそうるい:臭いの強い草本類)にある。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の画像(HTML単一画像)を示すと、これ。読みは私の推定。
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あしたば 【正字、未だ詳らかならず。】
△按ずるに、此の草、八丈島より出づ。苗、尺許り。茎・葉、畧(ほぼ)三葉芹(みつばぜり)に似て、三椏(みつまた)、三葉。靣(めん)、深(ふかき)青にて、背、青白(せいはく)色。甚だ光滑(くわうかつ)にして、細(さい)なる鋸齒(きよし)有り。凡(およ)そ、莖・葉、柔らかく脆(もろ)き草は、冬、凋まざる無し。此の草、四時(しじ)、凋まず、以つて異と爲(な)す。其の葉、新舊、相ひ交じる。嫩葉(わかば)を取りて、煠(ゆ)でて食ふ。味、淡く甘し。三年を經(ふ)る者、小花を開く。相ひ傳ふ、「小兒、之れを食へば、能く痘疹(とうしん)を免(まぬか)る」と。未だ是非を知らざるなり。
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「筑〔ちく〕の彥山〔ひこさん〕」福岡県田川郡添田町と大分県中津市山国町に跨る英彦山(ひこさん)。標高千百九十九メートル。ここ。
『吉益氏の「醫斷」』吉益東洞 (よしますとうどう 元禄一五(一七〇二)年~安永二(一七七三)年)は安芸国山口町(現在の広島市中区橋本町付近)出身の漢方医で、古方派を代表する医であり、日本近代医学中興の祖とされる。名は為則、通称は周助。初め、東庵と号し、後に東洞とした。「傷寒論」(後漢末から三国にかけて張仲景が編纂した伝統中医学の古典。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心)を重視するが、その中の陰陽五行説さえも後世の竄入(ざんにゅう:誤って紛れ込んだもの)とみなし、観念論として排した。三十歳の頃、「萬病は、唯、一毒、衆藥は、皆、毒物なり。毒を似て毒を攻む。毒去つて、体、佳なり」と「万病一毒説」を唱え、すべての病気が一つの毒に由来するとし、当時の医学界を驚愕させた。この毒を制するため、強い作用をもつ峻剤(しゅんざい:劇薬)を用いる攻撃的な治療を行った。後の呉秀三や富士川游はこの考え方を近代的で西洋医学に通じるもの、と高く評価している。著書には当時のベストセラーとなった「類聚方」・「薬徴」・「薬断」などがあり、「東洞門人録」によると、門弟も五百四十六名を数え、後世の漢方医学に与えた影響は絶大である。かの華岡青洲は彼の弟子である(以上はウィキの「吉益東洞」に拠った)。「醫斷」は彼の医説を鶴元逸が纏めたもので、宝暦九(一七五九)年刊行した、やはり「万病一毒説」に基づくもので、非常な反響を呼んだ医書の一つであった。
「東漢」後漢(二五年~二二〇年)のこと。後漢の光武帝劉秀の治世に、晋と同じ「建武」が後漢最初の年号として、二五年から五六年まで使われた。
『「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり』そもそも元恒がわざわざ指摘したのは正しく、「本草綱目」巻四には「疱瘡」の項があるが、このような記載はない。しかもこの謂いは異様にヘンで、「唐の高祖」「永徽四年」なんておかしい。高祖は初代皇帝李淵のことだ。「永徽」は唐の第三代皇帝高宗(李治(りち))の治世の年号だっつーの! 六五三年だ! 底本にある元恒の補註とする「按〔あんずる〕に、これ、外臺に搗るなり」とあるが、この「搗る」は甚だ不審で、思うに「據る」(よる)の誤字か誤判読ではないかと思う。さてもその場合、前の「外臺」は「外臺祕要」(げだいひよう)と考えられる。即ち、この補注自体が非常に不親切なもので(流石は元恒って感じ)、これは伊藤東涯の書いたもの、或いは吉益の「醫斷」(恐らくは後者)にそう書いてあるが、そう書いてある原拠は「本草綱目」ではなくて、「外台秘要」の誤りだ、と言っているらしい。「外台秘要」は六朝から唐代にかけて用いられていた薬の処方を集めたもので、編者は唐の玄宗の末年に、河南省安陽の太守であった王燾が記したものであって、天宝 一一(七五二)年の自序がある。本書は引用文に必ず出典が明記されていることから、当時の医書を知るうえでも貴重な資料となる。但し、現存する伝本には当初の完全なものはない。北宋期の刊本が現存するものの、流布本は山脇東洋が明時代の刊本をもとに延享三(一七四六)年に復刻したもので、元恒もそれに「據(拠)」って記したものであろう。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の「唐王燾先生外台秘要方」王燾撰・林億ら上進本(慶応二(一八六六)年山田業広の藍書入れがある)を調べたところ、こちらの33コマ目の「天行發瘡豌豆」(わんず)「疱瘡方一十一首」の前書に、
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云、永徽四年、此瘡從西域、東流于[やぶちゃん注:ハイ。「干」じゃありません。]海内、但煑葵菜葉蒜虀、啖之則止、鮮羊血入口亦止、初患急食之、少飯下菜亦得【出第二巻中】
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とある。「虀」は植物ではなく、「膾(なます)」或いは「あえる」の意(前者であろう)。
「人の役目と心得て、其病の遲きを憂ふは、いかにぞや」「人は必ず一生のうちに疱瘡に罹るもの」と考えていたことが判る。これは思うに、多くの人々は、疱瘡を麻疹(はしか)と混同していたのではなかろうか。
「佛の、國政にあづかりて、なくてすまざる物と、おもへるにおなじ」強烈だね。仏教を天然痘と同じい病悪であると言っているのである。
「橋本氏の憂もまた宜なる哉」これは橋本の天然痘の深刻な疾患に認識や避痘隔離の考え方に賛同しているのではない。それは橋本が撲滅など出来ない天然痘を隔離することで滅ぼせないかと苦心惨澹しているのと同じで、それは、糞のような仏教が国政にまで幅をきかせている現状は間違っているが、仏教を日本から排することは最早出来ないという私の憂いと同じようなものだ、と言っているのである。やっぱり、この元恒、いやなオッサンだと思う。橋本は先に示した通り、版木押収という事件に巻き込まれたが、ここでかくも嘯いている元恒は、後に彼の門人らが、藩士の開墾事業参加を、武士が百姓の真似をすることは恥ずべきことだと訴えて、結果、彼らの師であった元恒とその一家を山中に流謫し、書信交換さえ禁じられ、二年後にそこで病死したことを考えれば、哀れなものと言わざるを得ない。
『「あした」は「鹹草」〔カンサウ〕なり』「鹹草」はアシタバの漢名異名の一つ。「鹹」(訓は「しおからい」)は、恐らく海岸近くに生えることによるものと思われる。植物体自体が塩辛いというより、植生上、個体に塩分が附着するからやや塩辛くなるということか。
『「大和本草」に見ゆ』「大和本草」巻之五の「草之一」にある。以下に中村学園大学図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」のこちら(PDF)の37から38コマ目にかけてあるもので電子化する。カタカナの一部をひらがなにし、句読点・記号・濁点・改行を配し、読みの一部を推定して添えたり、送り仮名で出して、漢文脈部分は訓読し、読み易くした。
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鹹草(アシタ) 「アシタ」と云ふ草、八丈が島の民、多くうへて[やぶちゃん注:ママ。以下同じ。]、朝夕の粮(らう)に充つ。彼の嶋、米穀なき故なり。江戸諸州にも「アシタ」をうふ。葉は前胡(ぜんこ)・防風に似たり。各(おのおの)、三葉、分る。莖、微紅(びこう)、小なる者、紅(あか)からず、微(かす)かに香氣有りて、微かに辛し。「本草綱目」三十二巻、「鹽麩子」(えんふし)の「附録」に、「鹹草」を載せたり。曰はく、『扶桑の東に女國(ぢよこく)有り、鹹草を產す。葉、邪蒿(じやかう)に似にて、氣、香(かぐはし)く、味、鹹(しほから)し。彼の人、之れを食ふ』。
○今、案ずるに、是れ、「アシタ」なるべし。八丈嶋は日本の東にあり、昔は女人のみ、之れ、有りと云ひ、「女護(によご)の嶋」と云ふ。『扶桑の東に女國』といへるは、八丈嶋なるべし、「後漢書」の「東夷傳」に曰はく、『海中、女國有り、男、無し。其の國、神井有り。之れを闚(うかゞ)へば、輙(すなは)ち、子を生ず』。八丈嶋、女國なる叓(こと)を「北条五代記」に詳(つまびら)かにいへり。
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語注する。
・「前胡」双子葉植物綱バラ亜綱セリ目セリ科シシウド属ノダケ Angelica decursiva。根を薄く切って日干しにしたものを「前胡」と称し、生薬とする。
・「防風」セリ目セリ科ボウフウ属ボウフウ Saposhnikovia divaricata。
・『「本草綱目」三十二巻、「鹽麩子」の「附録」に、「鹹草」を載せたり』国立国会図書館デジタルコレクションの寛文九(一六六九)年風月莊左衞門板行本の訓点附き本のここ(右ページ第一行下方)。なお、この「鹽麩子」というのは、ムクロジ目ウルシ科ヌルデ属ヌルデ変種ヌルデ Rhus javanica var. chinensis を指す。
・「邪蒿」セリ目セリ科セリ亜科イブキボウフウ属 Seseli の種群。代表種はイブキボウフウ Libanotis coreana で本邦にも分布する。
・「後漢書」後漢(二五年~二二〇年)朝についての史書であるが、成立はずっと後の五世紀南北朝期の南朝宋の時代。編者は范曄(はんよう 三九八年~四四五年)。
・「北条五代記」後北条氏五代(北条早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の逸話を集めた書。全十巻。後北条氏の旧臣で「小田原合戦」の籠城戦を体験したという三浦茂正(法名・三浦浄心)の著書である「慶長見聞集」から、後北条氏に関わる記事を、後に茂正の旧友と称する人物が抄録したもの。後北条氏の盛衰を項目を立てて記載しているものの、史料として使用するには検討が必要である。成立は元和年間(一六一五年~一六二四年)とされているが、現在の刊本はそれより後の寛永期(一六一五年~一六二四年)のものと、さらに後の万治期(一六五八年~一六六一年)のものがあり、前者は七十四条からなるが、後者はそれよりも少なく、内容も多少異なっている(以上はウィキの「北条五代記」に拠った)。「国文研データセット簡易Web閲覧」のこちらに全画像があり、当該部分は第五巻の「四 八丈嶋渡海の事」ここと、ここと、ここと、ここであるが、流石に、脱線も甚だしいので電子化する気はない。
『一說に「あした」は「都管草」なりといへるは誤〔あやまり〕なり。蘭山翁の說に見ゆ』「本草綱目」巻十三の「草之二」に「都管草」がある。先と同じ訓点版(ここ)を訓読の参考にした。
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都管草【宋「圖經」。】
[集解]頌曰、『都管草生宜州田野、根似羌活頭、歲長有節。苗高一尺許、葉似土當歸、有重臺。二月、八月採根,陰乾。施州生者作蔓,、又名香球、蔓長丈餘、赤色、秋結紅實、四時皆有、采其根枝、淋洗風毒瘡腫』。時珍曰、『按、范成大「桂海志」云、「廣西出之、一莖六葉」』。
根[氣味]苦、辛、寒。無毒。
[主治]風腫癰毒赤疣、以醋摩塗之。亦治咽喉腫痛、切片含之、立愈【蘇頌】。解蜈蚣・蛇毒【時珍】。
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都管草【宋「圖經」。】
[集解]頌(しやう)曰はく、『「都管草」、宜州(ぎしう)[やぶちゃん注:現在の広西チワン族自治区河池市宜州区(グーグル・マップ・データ)。]の田野に生ず。根、羌活(きやうかつ)[やぶちゃん注:せり科Notopterygium 属キョウカツ Notopterygium incisum。本邦には植生しない、]に似、頭、歲(とし)ごとに長じて、節、有り。苗の高さ一尺許り、葉、土當歸(どたうき)[やぶちゃん注:先に出たノダケ。]に似て、重(かさ)なれる臺(うてな)有り。二月・八月に、根を採り、陰乾す。施州(ししう)[やぶちゃん注:現在の湖北省恩施市(グーグル・マップ・データ)。]に生ずる者は、蔓を作(な)す。又、「香球」と名づく。蔓の長さ、丈餘、赤色。秋、紅き實を結ぶ。四時、皆、有り、其の根・枝を采り、風毒・瘡腫を淋洗(りんせん)す』。時珍曰はく、『按ずるに、范成大が「桂海志」に云はく、「廣西に之れ出ず。一莖、六葉。」と。』。
根[氣味]苦〔く〕、辛〔しん〕、寒〔かん〕。毒、無し。
[主治]風腫・癰毒〔ようどく〕・赤疣〔せきぜい〕、醋(す)を以つて、摩(ま)して、之れを塗る。亦、咽喉の腫痛を治するに、切り片(へん)にして之れを含めば、立ちどころに愈(い)ゆ【蘇頌〔そしやう〕。】。蜈蚣(むかで)・蛇の毒を解す【時珍。】。
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さても、元恒が言っているのは小野蘭山述の「本草綱目啓蒙」である。国立国会図書館デジタルコレクションの「重訂本草綱目啓蒙」巻之九の「草之二」の当該部の画像をもとに電子化する。一部のカタカナはひらがなにし、句読点・記号を附した。読みは推定で添えた。
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都管草 詳らならず。
「ハチゼウサウ」に充(あて)る古説は穩(をん)ならず。「八丈サウ」は「果部」、「鹽麩子(フシノキノミ[やぶちゃん注:原本のルビのママ。])」の「附錄」の「鹹草」に近し。
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確かに「穩ならず」というのは「穏当ではない」ということで、同定比定に否定的ではあるように見えるんや……だけどねぇ……元恒先生よ……その舌の乾(ひ)ぬ間に、蘭山先生……「本草綱目」の「鹹草」に記載されているものに近い……って言っちゃてるわけなんだよね? 「鹹草」は――さっき見たよね? それって、女護が島とされた八丈島の明日葉でしょうが? 序でに、現代の中文サイトのアシタバについて記したこのページを、ご覧な。そこで、「咸草」ってあるでしょ? それが「鹹草」だよ。この中国人は、鹹草=アシタバに比定してるわけ。それにさ、決定的なのがあるよ! そこにある出所不明の江戸のものらしい図譜の写真を、よ~う、見てみいな!――都管草(トクワンサウ)【八丈草 アシタバ】――って書いてありまっせ?
「七島日記」小寺応斎なる人物の紀行日記らしい。寛政八(一七九六)年の成立という。但し、見た刊本(早稲田大学図書館「古典総合データベース」)の序(別人)は文政七(一八二四)年の序であった。その「上」巻(PDF)の14コマ目の終わり辺りから15コマ目に八丈島の「鹹草(あしたくさ)」の記載があり、「中」巻(同前)の14コマ目にもあるのだが、花の色の記載はない。下巻のここに(HTML単一版)「鹹草」の絵がある。
『その「日記」には『花の色、白し』と見へたれど、吾藩にある處は黃なり』アシタバの花は淡い黄色で、遠目には白くも見える。
「垁囊抄」「塵添壒囊鈔」(じんてんあいのうしょう)のことであろう。単に「壒囊抄」とも呼ぶ。十五世紀室町時代に行誉らによって撰せられた百科辞書・古辞書である。因みに言っておくが、「垁」は音「チ・ジ」で城壁の面積の単位で、「一垁」は長さ三丈・高さ一丈である。「雉」と同字であるが、「壒」(「土煙」の意)とは通字でも何でもない。なお、同書の記載は、国立国会図書館デジタルコレクションのこちらの活字本の、巻三の二十三条「モカサト云字ハ何(イカ)ニ」である(標題は前ページ)。そこでは痘瘡の流行にニラとネギとを食すことで効果があった旨の記載がある。
『源順〔みなものとしたがふ〕、「疱瘡」と書〔かき〕、疫病也』「和名類聚抄」の巻第三の「形体部第八 瘡類第四十一」に(ひらがなの読みは私の推定)、
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皰瘡(モカサ) 「唐韻」云はく、『皰【「防」・「敎」の反。】]、面瘡なり』と。「類聚國史」に云はく、『仁壽二年、皰瘡(はうさう)、流行して、人民、疫死す【皰瘡、此の間、「裳瘡(もがさ)」と云ふ。】。
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ここ出る「類聚國史」は編年体である「六国史」の記事を、菅原道真が、中国の類書に倣う形で分類・再編集した歴史書。寛平四(八九二)年完成。「仁壽二年」八五二年。
「外臺祕要」前の『「本綱」には、『唐の高祖永徽四年に、西域より、中國にうつり來〔きた〕る』と見えたり』の注で既注で、正しい原文もそこに載せてある。
「續紀」「續日本記」(しょくにほんぎ)。平安初期に菅野真道らによって編纂された勅撰史書。「日本書紀」に続く「六国史」の第二。延暦一六(七九七)年に完成した。文武天皇元(六九七)年から桓武天皇の延暦一〇(七九一)年までの九十五年間の歴史を扱う。全四十巻。
「天平七年」七三五年。
「自夏至冬天下患二豌豆瘡一【俗ニ曰フ二疱瘡一】、夭死者多。」「夏より冬に至り、天下、豌豆瘡(わんづかさ)を患ひ【俗に疱瘡〔と〕曰ふ。】、夭死(えうし)する者、多し。」。読みと「〔と〕」は私が補った。
「延曆九年」七九〇年。同じく「續日本紀」の延暦九年の条にあり、「豌豆瘡」の後にやはり『俗云裳瘡』という割注が入っている。
「秋冬、京畿、男女三十已下悉發二豌豆瘡一臥ㇾ疾者多シ、其甚者死天下諸國往々而在」「秋・冬、京畿、男女(なんによ)、三十已下(いか)、悉(ことごと)く豌豆瘡を發し、疾(や)み臥(ふ)す者、多シ。其の甚だしき者、死す。天下、諸國、往々にして、在(あ)り。」。皮肉だ。今と同じで「往々にして」(これは無論、「おうおうにして」で、「物事が頻繁に発生する傾向があることを言う副詞だが、それはこの場合、「往来」することによって齎されるのである)、天然痘が日本国中に伝播されていったのである。
「いも」疱瘡に罹り、死なずに済んだが、全身に出来たそれが、醜い痘痕(あばた)となって残った場合のものを、かく呼んだ。「芋」この子のようにブツブツと突出していたり、皮膚が正に「芋」のような色などに変色して斑紋を成したのである。]