譚海 卷之三 近衞殿の事
近衞殿の事
○近衞殿御家(このゑどのおんけ)は時平公の御末故、菅神(くわんじん)の御咎めを憚り、北野へ參詣は代々せられざる事也。前年もたまたま參詣有ければ、非常の事出來て難儀なりしかば、兎角つゝしんで參詣なき事也しを、三藐院殿(さんみやくゐんどの)と聞えし御方深く歎き思召(おぼしめし)、北野へ御詫(おわび)ありて神像を千枚御書寫あり、弘(ひろ)く神威を輝(かがやか)し崇敬ましましける。此故にや當時は御參詣子細なき事に成(なり)て、何の障碍もなしといへり。三貌院關白御書寫の神影を拜見せしに、衣冠の御姿にて、梅花を折(をり)てもたせ給ふかたちを書(かき)て、
から衣をりてきたのの神ぞとは袖にもちたる梅にても知れ
といふ御贊あり。
[やぶちゃん注:「近衞殿御家」は藤原北家近衛流嫡流で、菅原道真を失脚させた藤原時平も藤原北家の一流であった。
「三藐院殿」近衛信尹(のぶただ 永禄八(一五六五)年~慶長一九(一六一四)年)は桃山時代から江戸初期の公家。父は関白近衛前久。初名は信基。後に信輔・信尹と改名した。三藐院は号。「文禄の役」(一五九二年~一五九六年)の際には、朝鮮に渡るべく、独断で肥前名護屋に乗り込んだが、果たせず、後陽成天皇の勅勘を被り、薩摩坊津(ぼうのつ)に配流された。慶長元(一五九六)年に許され、以後、順調に昇進を遂げ、慶長十年(この二年前の慶長八年に江戸幕府は開幕している)には関白・氏長者になった。大徳寺の臨済僧春屋宗園(しゅうんおくそうえん)に参禅し、古渓宗陳や沢庵宗彭らと親交があった。また、茶道・歌道・書をよくしたが、ことに書は「寛永の三筆」(後の二人は本阿弥光悦・松花堂昭乗であるが、これは明治以降の呼称と考えられている)の一人として知られる。伝統的な青蓮院流書法に、私淑した藤原定家の書風を加え、さらに信尹独自の個性を加味した、力強い筆力で速書きの豪放な書風を確立した。近衛流・三藐院流として、生存中から多くの人々に愛好され、嫡男信尋(のぶひろ:後陽成天皇の第四皇子。官位は従一位・関白、左大臣。近衞信尹の養子となった)をはじめとする公家階層のみならず、武将や町人層にまで広まった(以上は主文を「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。
「當時」これは本書執筆時制の「当今」の意。「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の凡そ二十年間に亙る彼の見聞奇譚をとり纏めたもの。]
« 甲子夜話卷之六 22 有德院御風流の事 | トップページ | 新改訂版「片山廣子芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の下書きを書き上げた »