ブログ・アクセス1,440,000突破記念 梅崎春生 小さな町にて
[やぶちゃん注:昭和二六(一九五一)年三月号『小説新潮』初出で、後の作品集「山名の場合」(昭和三〇(一九五五)年六月山田書店刊)に収録された。
底本は「梅崎春生全集」第一巻(昭和五九(一九八四)年五月刊)に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。本文中にごく簡単な注を挾んだ。
なお、本テクストは2006年5月18日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の2005年7月6日)、本ブログがつい数十分前、1,440,000アクセスを突破した記念として公開する【2020年11月2日 藪野直史】。]
小さな町にて
私はついに、この海辺の小さな町に、やって来た。
しっとりと霧の深い夜である。
午後九時六分着。三両連結の普通列車。
その小さな車輛からこの寒駅に降り立って、形ばかりの改札口を通るとき、ミルクのように濃い霧が、たちまち私たちの全身を、ひたひたひたと包んできた。乗降客は、私と私の連れと、この二人だけである。
発車の汽笛が、あちこちにこだまして、ものがなしく響きわたると、私たちが乗り捨てた小さな列車は、がたんと身慄いして動き出す。私たちを残して、徐々に歩廊をはなれ、しだいに速力を増しながら、やがてその尾燈は霧の中に、赤くちいさく吸いこまれてゆく。
その燈も見えなくなって、がらんとなった歩廊を、駅長らしい男がカンテラを提(さ)げて、ゆっくりゆっくりと歩いてくる。そのカンテラの光も、膜をかぶったように、ぼうとうるんで揺れている。夜気がにわかに頸(くび)筋につめたい。
「宿屋はどこか、ちょっくら訊ねて来ましょうか」
私を見上げながら私の連れが言う。そして若々しい跫音(あしおと)を響かせながら、もう小走りに駈け出してゆく。
厚い霧のかなたから、も一度さっきの汽笛が尾を引いて、遠く幽かにひびいてくると、あとは物音も絶え、田舎線の小駅らしい静寂さが、急にふかぶかと戻ってくる。転轍器(てんてつき)の辺で話し合う駅員たちの声が、妙に近く聞えてくる。
私はスーツケースを左手に提げ、駅前の大きな楡(にれ)の木の下まであるき、そこから始まるQ町の夜景を、しばらくじっと見詰めていた。
「これが、Qという町か」
声に出して、私はつぶやいて見る。長い遍歷のあとのような、ある奇妙な疲労と緊張が、重々しく私を満たしている。
しずかに流れる霧のむこうに、遠く近く、いくつもの燈色が滲んでいる。ぼんやりしたその燈影の配置からして、この町の家並は、縦の一本道に沿って鰻(うなぎ)のようにながながと、ずっと奥へ連なっているらしい。汽車の中で私が調ベた地図に誤りなければ、この一本道の果てるところに、海がある筈だ。そこに暗くゆたゆたと、海が揺れている筈だ。その海岸にいたるまでの、戸数にして三四百、人口二千足らずのQ町が、今私の眼界に、燈色をわびしく点々とつらね、しっとりと霧の底に沈んでいる。眺めているうちに、ふっと私は可笑(おか)しくなる。
(何のために、この町に、おれはやって来たのか?)
しかしその答えは、不確かな形で、重苦しく私の胸にある。右頰の筋が微かにひきつるのを感じながら、私はしばらくその姿勢を動かさない。
背後から、かろやかな小走りの跫音が、近づいてくる。
「宿屋は一軒。それも雑貨屋と兼業ですってさ。行きますか?」
「行こう」と私は答える。
「わびしい町だなあ」
並んで歩き出しながら、この若い連れは嘆息するように言う。
「こんな町に、一週間も御滞在か。役目とあれば、仕方はない。ねえ。相宿となれば、よろしくお願いしますよ」
連れはしきりにしゃべりながら、ちろちろと私の顔をのぞく。それがこの男の癖らしい。またその顔付も、声音(こわね)ほど弱った様子でもない。年の頃は、二十四五。晴雨兼用のしゃれたコートを着て、縁無し眼鏡をかけている。のっペりした顔の男である。語調は軽やかで調子よく、一分間と沈黙を守っておれない風だ。
「あ。それからね。僕の身分や仕事のこと、この町の人には、一応秘密にしといて下さいね」
「何故だね」
「そりゃあ、やはり、知られると、ちょっと具合が悪いから」
連れといっても、私はこの若い男と、つい一時間前、汽車の中で知り合ったばかりである。前に腰かけていて、私がQ町へ行くことを知ると、急に親愛の情を示して、いろいろ話しかけたり、名刺を呉れたりなどした。その名刺には(A火災保険株式会社調査部員・風間十一郎)と記してある。一箇月ほど前、Q町に小さな火災があって、その保険金支払いの関係上、調査のために赴くのだという。なるほどこんな男には、ずいぶん適当した仕事だろう。
「知れたって、いいじゃないか。その方が、調査に便利だろう」
「いや。そんな散文的な仕事で来ていることを、人々に知られるのが厭なんですよ。これでも僕は、とにかく、ロマンティクなんだから――」
若い風間十一郎は、平気でそんなことを言いながら、足早にあるく。
町幅はせまく、デコボコしている。ひどく歩みづらい。家々の半分位は燈を消しているし、表戸を立て始めた小店などもある。街道筋の印象は、へんてつもない夜の田舎町の感じだが、磯の香がそこらに、ほんのりとただよっている。町角の小さな鍛冶屋に、まだあかあかと火が熾(おこ)っている。その火の色が、霧を通して、眼に沁みてくる。熱鉄をたたく澄んだ金属音が、しずかに夜の町に反響している。歩くにつれてその音も、しだいに遠ざかってゆく。湿ったような磯の香。馬糞のにおい。頰を濡らしてくる霧の感触。
「まだかね?」
「ええと。もうじき」
しかし十一郎は立ち止って、いぶかしそうに四辺を見廻す。私も歩をとめる。遠く浜の方角から、夜気を縫って、細く慄えるような竹笛の音が、かすかに流れてくる。ふとそれに私は耳を澄ます。それは何かを訴えるように、断続しながら、耳の底まで届いてくる。
「あんまの笛ですね」
十一郎がぽつんと言う。彼もそれを聞いていたと見える。そして突然大声を出す。
「なんだ。ここだよ。看板が出てらあ」
私たちが立ち止っているすぐ前の、紙凧(たこ)[やぶちゃん注:二字へのルビ。]やねじり飴(あめ)や子供下駄をならぺた貪しい店の入ロに、表札みたいに小さな
看板がかかっていて、それに「旅人宿鹿毛屋」と記してある。二人の眼は、一斉に、それを見ている。およそ宿屋らしくない、うらぶれたあばら家だ。
「ここですよ。我々の旅館というのは」
少したって、十一郎が忌々しげに、はき出すように言う。しやれた身なりの十一郎と、傾きかかった鹿毛屋の建物を見くらべて、私はふっと笑いがこみ上げてくる。声を立てて、私は短くわらう。
これが今日の私の、唯一の笑いだったかもしれない。
「しばらく御滞在かね?」
鹿毛屋の主人が大きな眼を動かして、私に訊ねる。四十五六の、しまりなく肥った、大きな男だ。頰がぼったりとたるんでいる。
「そうだな」
風間十一郎はうつむきこんで、宿帳にしきりにたどたどしい筆を動かしている。こういう男は、きっと字が下手なのだろう。
「そうだな、一週間ぐらいかな」
と私は答える。十一郎はやっと宿帳を書き終えて、私に手渡しながら、そっと片目をつぶって見せ、にやりと笑う。あんのじょう金釘みたいな字だ。そして不逞(ふてい)なことには、その職業のところに、十一郎は「画家」と記入している。主人の顔が、それを無遠慮にのぞきこむ。
「へええ。画家さんかねえ。画を描きにきたのかねえ」
「そうだよ。おやじさん」
「そんでもこんな汚ねえ町が、画になるかねえ」
「なるともさ。何だって画になるともさ」
筆に墨をひたして、私はちょっと考え込んでいる。名前は本名でいいだろう。嘘を書く必要はない。黒田兵吾。三十八歳。職業は? 十一郎みたいに画家ではおかしいし、やはり、無職。旅行目的。さて。それは、保養とすればいい。筆を収めて、私は宿帳を主人に渡す。十一郎との会話を止め、薄暗い電燈にかざして、主人はそれを読む。
「保養。保養っと――」
主人はちらと、れいの目付を私にはしらせる。
「お客さんのそれも、やはり、戦災で?」
「ああ」
そんな気の毒そうな目付は、いつも私に愉快でない。私は右頰に掌をあてる。私は右の額から頰、顎(あご)から右肩にかけて、ひどい火傷(やけど)の瘢痕(はんこん)がみにくくひろがっているのだ。火傷のみならず、その時の衝撃で、舌も裂け、幾針も縫合した位だ。その為に、それ以前の私の声と、今の私の声は、すっかり変ってしまっている。以前は高目のよく徹る声だったが、今はしゃがれた低い声しか出ない。そして悪いことには、今の季節になると、その舌の根や火傷の瘢痕が、きりきりと痛み出してくるのだ。保養と書いたのもまんざらの嘘ではない。
「ここらに神経痛が起きるんだよ。今頃になるとね」
「さあて。あの牛湯(うしのゆ)が、そんなのにも、利いたっけな」
「まあ、ためしにやってみるんだよ」
にこにこ笑いながら、私は言う。汽車の中で読んだ案内書にも、そんなことが書いてあった。Q町。町中(まちなか)に単純泉湧出す。昔日病牛来たりて浸りし故に牛湯と名付く。現在その湧出量頓(とみ)に衰え、湧出口一箇所を残すのみ。云々――。
「なあ、オヤジさん」
立ち上って、短いどてらに着換えながら、十一郎が慣れ慣れしく言う。
「さっき笛が聞えたが、ありゃあアンマかい」
「そうだよ」宿帳を閉じながら、主人がぼそりと答える。
「じゃあ呼んで貰いたいな。肩が凝って仕方がないんだよ」
「呼んでもいいけど、ありゃあ女アンマだぜえ」
「女だって何だっていいさ」
首筋がきりきりと疼(うず)く。したたか霧に触れたせいに相違ない。掌をあてると、その部分は冷え切って、板のように張っている。さぞかし今夜も寝苦しいことだろう。
主人が立ち上りながら言う。
「お客さんたち。もう飯は済んだんかえ」
十一郎が手を振る。やがて主人はのっそりと部屋を出てゆく。
十一郎はちらと首をすくめ、私に笑いかけながらささやく。
「ひどい宿舎に当ったもんですな。これじゃあまるで、牛小屋だよ」
店から障子越しに、きたない部屋が二間つづき、この二間が鹿毛屋旅館のすべてである。畳は赤茶けて破れ、天井はすすけて低い。その天井から、燭光の低い電燈がぶら下って、ぼんやりとあたりを照らしている。遠くから濤(なみ)の音がしずかに聞えてくる。
十一郎はさっさと奥の部屋を占拠し、押入れを勝手にあけて、ばたんばたんと寝具をしく。身振りをつけて、いかにも楽しそうだ。しき終ると、手拭いを頭に巻きながら、くるりと私を振り返る。軽やかな口調で、
「黒田さん。あなたも宿帳に、ウソを書きましたね」
「書かないよ。なぜ?」
「保養だなんて、ウソでしょう。だって、あそこでちょっと、筆が止ったもの」
私は黙っている。表情も動かさない。表情を殺すことには、五六年前から慣れている。そしてそれが私の、近頃の処世法でもある。しかしこの小癪(しゃく)[やぶちゃん注:ルビは一字のみに対して。]な観察者を眺めている中に、ぼんやりと弛緩(しかん)した笑いが、ふっと咽喉(のど)までこみ上げて来そうになる。まだ若いのに、なんと御苦労さまなことだ。その思いが胸をよぎった瞬間、私の顔もいくらか和(なご)んだに違いない。十一郎の軽躁なささやきが、再び耳にからまってくる。
「あなたみたいな恰幅(かっぷく)の人が、こんな磯くさい漁師町を訪ねるなんて、どんな趣向があるのかな。汽車の中から、そんなことを、僕は考えてたんですよ」
「なかなかロマンティクな考え方だね。」
十一郎の饒舌(じょうぜつ)が、首筋の痛さとあいまって、すこしうるさくなってくる。私は話題を変えようと思う。
「どうだね。明日からの予定は、立ったのかい」
「予定。立つもんですか。そんなもの」
十一郎は派手な靴下をつけたまま、軀(からだ)を曲げて、柔軟に布団の中にすべりこむ。
「――画家と記したからにや、あちこちスケッチでもして廻ろうと、思うんですよ。とにかくこの一週間、すこしでも楽しく暮さにゃ、損ですものねえ。あなたは?」
「僕?」
私は首筋を指先で乱暴にもみながら、すこし顔をしかめて、
「僕はもっぱら保養だよ」
牛湯は鹿毛屋から、半町[やぶちゃん注:五十四・五メートル。]ほどもある。
街道の家並からへだたった、小さな岡のふもとに、それは祖末な板囲いにかこまれて、湧き出ている。岩を畳んでこしらえた、五六坪ほどの浴場である。これなら牛でも、らくに入れるだろう。
「今晩鹿毛屋にいらっしやったお客さまね。そうでしょ」
と女が聞く。
「よく知ってるね」
「そりやあ――」
そして女は、ほほほ、と笑い出す。声帯の振動や濡れた舌の動きを、じかに感じさせるような笑い声だ。
「この町の人たちは、とっても物見高いのよ。ちょっとした噂なんか、その夜のうちに、皆に拡がってしまうわ」
「ずいぶん暇な人が、多いんだね」
「暇っていうより、噂話や悪口話が好きなのよ。ひとの詮索ばかりしたがっていて、ほんとにここは、イヤな町」
「君だって、その一人だろう」
「あら、失礼ね」
女は身をくねらせて、一寸にらむふりをする。湯がざあっとあふれる。
もう夜の十二時を過ぎているだろう。牛湯に浸っているのは、私とこの女だけである。連れ立って来たのではなく、偶然湯の中で落ち合っただけだ。こんな遅くだから、誰もいないだろうと思って来たら、この女がひとりで湯に浸っていた。話しかけたのも、女の方からである。隔てのない、狎(な)れ狎れしい口調である。
「御保養ですってね。結構な御身分ですこと」
「そんなことまで知ってるのか」
鹿毛屋のおやじの顔を、ちらと思い浮べる。あんな男が、案外のおしゃべりなのだろう。
「でもこのお湯は、駄目ですよ。利きゃしないわ。成分がゼロなんだから」
女の乳房から上が、湯からはみ出ている。しかし板がこいの隙間から入る霧と、湯気のために、輪郭の乱れた白いかたまりにしか、それは見えない。まだ若い女らしいが、口ぶりからしても、素人とは思えない。自然と私も気持をくずして、楽な姿勢になっている。
「鹿毛屋さん、今晩も、花札やってたでしょう」
「ああ、出て来る時、札の音がしてたな。いつもやってるのかい」
「あの旦那もねえ――」よそごとのような冷たい調子で「おかみさんが死んでから、すっかりダラシなくなって。この頃は毎晩、花札と、お酒ばっかし」
深夜、若い女と二人きりで、温泉に浸っている。そういう状況だと、頭では理解できても、私にはただそれだけだ。それ以上に動くものが、私の内部にはない。顔にひどい火傷をうけて以来、そういう情感は、私の中でほとんど死んでいる。(しかし自分が不幸であるという確信は、なんと倨傲(きょごう)な精神だろう)濡れたタオルで顔のあちこちをあたためながら、
「君は昔から、この町の人かね?」
「生れはそうじゃないわ。この町の人に言わせると、ヨソ者よ」
「来たのは、終戦後?」
「うん。まあ、そんなものね。なぜ?」
訊ねたいことがある、と言おうとして、私は口をつぐむ。女の身体が、ざぶりと湯を出て、洗い場に立ったからだ。湯気がなまめかしく乱れる。大柄な肉づきのいい背面が、大胆に私の視野に立つ。骨というものを感じさせない、しなやかそうな皮膚のいろ。むこうむきのまま、女は片腕を上げて、乳房から脇の下を拭っている。自信ありげな身のこなしだ。なにか無視されている自分を感じ、自然と浴槽のすみに私は身をよせる。しかし眼は凝脂(ぎょうし)のような裸身にそそいだまま、何ということもなく、
「この町は、戦災は受けなかったのかね」
「ええ。ほとんど。それに戦後の闇景気でしょ。ひところはずいぶん、栄えたわ」
「今は?」
「今。今はペチャンコ」
拭き終った女の身体が、石段を踏んで、ひらりと脱衣場へ消える。それを追いかけるように、
「君の名は、何て言うの」
「お仙」板仕切からふたたび首だけ出して、妖(あや)しく笑って見せながら「お仙、と聞いてごらんなさい。皆知ってるから」
遠く街道の方角から、撃柝(げきたく)の音がかすかに聞えてくる。カチ、カチカチ、カチ。夜の滴(したたり)のように、つめたくその音がしたたってくる。女の存在は、もう私の意識から消えてしまう。私は背筋をすこし堅くして、ひとつの感じに気分をあつめながら、その音にじっと聞き入っている。音と共に動いている夜番の黒い影が、眼に見えるようだ。
「お先に」
意外に素直な声音。そして女の下駄の音が入口から消える。
そしてしばらく経つ。
撃柝の音も聞えなくなって、あたりはしんと静かになる。私は湯を出て、おもむろに衣服をつける。
鹿毛屋に戻ってくると、もう客は戻ったと見えて、主人がひとり中腰になって、花札の後かたづけをしている。私の顔を見て、
「どうだねえ。いいお湯だったかねえ」
「ああ。いい湯だ。すっかり、あったまったよ」
「あったまったところで、ひとつ、どうだねえ、これ。コイコイ」
ふと気紛れな気持がおこる。気紛れに従うのが、旅というものの面白さではないか。濡れたタオルをそこらに乾しなぶら、すこし考えて、
「なにか賭けるのかね」
「そうさねえ。寝酒はどうだねえ」
「いいだろう」
主人は坐りなおして、花札を切り始める。風貌に似合わず、器用な手付だ。むかい合って、私も坐る。
「いま湯の中で、お仙という女に会ったよ」
「ああ。ありゃね」
札をくばる。自分から札を打って、合せて引いて行きながら、
「ありゃあなかなか、したたかな女だ」
「商売おんなかい?」
「いまは飲み屋を開いてるねえ。お仙が家(や)というんだ」
主人の背後に、七つ八つになる主人の一人息子が、ぼろ布団にくるまって、寝息をたてている。うすぐらい電燈の光が、子供の扁平な頭におちている。なにか荒廃した感じが、部屋の中にただよっている。
「それで、あの女、ひとりもの?」
「ひとりもの。ひとりとねえ」主人はちらちらと相互の取り札を見くらべながら「コイコイ。コイコイといくか」
「コイコイとくるか」
私も慎重に札を出し入れするふりをしながら、すこし経って再び、ごく何気ない声で訊ねてみる。
「そいで、夜番の男といっしょだったというのは、あの女のことかね」
鹿毛屋の手がはたと止って、ぎろりと大きな眼が私を見上げる。
朝起きてみると、どこに行ったのか、十一郎の姿は見えない。
昼過ぎになって、表口から元気よく戻ってくる。
「ああ。疲れた。疲れた」
寝そべって案内記などを読んでいる私の足をまたぎながら、思いついたように言う。
「ねえ。焼跡を見に、いっしょに出かけませんか」
「焼跡?」
「いい天気ですよ、外は。風はないし。いい保養になりますぜ」
私の手をとって、引っぱり起す真似をする。この男は、爬虫類(はちゅうるい)みたいにひやっこい掌をしている。
渋々起き上って、私が身仕度をしている間、十一郎は口笛を吹いてみたり、ダンスの身ぶりをしてみたり、寸時も動きやまない。
焼跡は見晴らしのいい丘陵の上にあった。
土台石を残しただけで、それはそっくり全焼している。十一郎の調査の対象が、これなのである。焼け材がそこらの草叢(くさむら)に、むぞうさに積み重ねてある。
「ここが町の集会所だったと、言うんですがね」
きゃしゃな靴先で土台石をかるく蹴りながら、十一郎がひとりごとのように言う。
「――駐在の話じゃ、漏電らしいと来やがる。火事さえあれば、なんでもローデンだ」
「町有の建物なら、保険金は、町役場がとるのかね」と私は訊ねる。
「町民のもの、ということでしょうな。しかし彼等はもう、その保険金で、集会所を再建する気持はないようですわ」
「なぜ?」
「だって、この町の財政は、相当疲弊(ひへい)していますからね。集会所を立てるより、連中は網を買うでしょうな。その方がトクだから」
丘の上からは、海が見える。青々とどこまでも拡がっている。それは言いようもなく冷情な美しさをたたえている。海の本当のおそろしさを、人々はあまり知らないだろう。
「ゴミみたいですな」
と十一郎が指さす。指の方向には町の黒い家並がある。海岸から始まって、縦に駅の方に伸びている。くしゃくしゃやしたものを、いきなり引き伸ばしたような、町の形だ。
「どら。折角来たんだから、見取り図でもすこし書いておくかな」
どこから手に入れたか、十一郎は画板などを肩からかけている。画家と思わせるつもりなのだろう。
丘の周囲には畠がひろがり、農家らしい藁(わら)屋根が、点々と散在している。十一郎がそこらを動き廻っている間、私は土台石に腰をおろして、ぼんやりと海を眺めている。沖の方に、漁船が二三艘(ぞう)[やぶちゃん注:濁音はママ。]出ている。水平線近くの海面は、午後の陽の光を反射して、白っぽくかがやいている。私はふと、昨夜の牛湯での、お仙の肌の色を思い出している。確かめるように、何度も何度も、その色を瞼の裏によみがえらせて見る。不幸を感じさせるほどにあの肌は白かったな、と思う。すると突然ある隠微な欲望が、皮膚の下にうごめき始めるのを私は感じる。しかしその間、海面の反射の眩暈(めまい)に、私はしばらく自分の感覚をあずけている。
「おおい」
丘のふもとから、十一郎が呼んでいる。私は立ち上って、とことこと丘を降りて行く。
帰途、十一郎と交した会話。
「そりゃあ、報告さえ出しゃあ、一応の役目はすむんですがね」
「じや宿屋で、いい加減でっち上げれば、いいだろう」
「そうも行きませんやね。とにかく月給分だけは、動かなきゃ」
「へえ。なかなか割り切れてんだね。この仕事は、面白いかい」
「別段面白くもないですよ。しかし、ひとつひとつ、きちんとケリがついて行くんでね。さっぱりしてていいや」
「もし君がこの町で大いに働いて、保険金を払わなくてもいいような材料を見つけ出せば、君のカブは上るということになるのかね」
「そりゃ上るでしょうな」
「その代り、町民からは、ひどく憎まれるだろうな」
十一郎は面白くなさそうな顔をした。そして道端に、ぺッと唾をはいた。
「こんな顔だろう」
酔っているから、すこしは気持がラクになっている。そこで私はこんなことを言う。
「これでも昔は美少年だったが、今はこの通り、不幸の登録商標みたいな面(つら)だ」
「そう自分をいじめるものじゃなくってよ」
とお仙が笑いながら言う。
「自分をいじめる人間は、あたし嫌いだわ」
「他人をいじめる方がいいか」
「そうよ」
木目の出た古びた卓に、おちょうしが四五本ならんでいる。とろりと濃い濁酒(どぶろく)だ。スルメを裂いて奥歯で嚙みながら、濁酒をのどへ流しこむ。壁に貼った肴(さかな)の値段書きが、隙間風にひらひらとあおられる。
「どこで径我なさったの。南方?」
「君の故郷の近くでだよ」
「あら。いやだ。故郷だなんて。誰に聞いたの?」
「鹿毛屋のおやじさ」
「あのおしゃべり」
向うの卓に倚りかかって、お仙はかすかに眉根を寄せる。さっきこの店を訪れたときは、五六人の漁師たちが、酒をのんだりうどんを食べたりしていたが、皆帰ってしまって、今は客は私ひとりだ。故郷の話はそのままになって、お仙は話題を負傷にひきもどす。
「痛かったでしょうね。さぞ」
「うん」
あの激突の瞬間のことを、私は思い出している。痛くはなかった。むしろ反対であった。激突から失神までの短い時間、苦痛はいささかもなく、桃色の霧が私にふりかかり、とろけるような恍惚(こうこつ)たる肉体感が、私をつらぬいていた。そして一週間の人事不省。気がつくと、私は仮小屋のベッドに寝かせられ、犬のように舌を出し、その先を二本の箸(はし)で結(ゆわ)えられていたのである。舌の先を嚙み切っていて、放っておけば残部が咽喉(のど)に巻き上って、窒息するからである。言語に絶する持続的な苦痛が、そこから始まった。
「それに舌の先もすこし嚙み切ってね」舌を出して見せる。「しばらく卵と砂糖だけで、生きていたよ。あそこらは、あの頃でも、卵と砂糖だけは豊富だったな」
「そう、あそこらはね」お仙の眼の中に、懐旧とも苦痛とも知れぬ色が、ちらと走る。気がつかないふりをしながら、私は注意深く、その変化をとらえている。
「不思議なものだね」すこし経ってから私が言う。「それ以来、泣くときも、左の眼からしか、涙は出ないのだよ。右からは出ないんだ」
お仙は笑い出そうとして、口をつぐみ、ふっと卓を離れて、奥に入る。暫(しばら)くして新しいおちょうしを二本ぶら下げて、また戻ってくる。自前で濁酒をあおったと見えて、眼のふちがほんのり赤い。頽(くず)れた魅力をそこにただよわせている。
「あの、あなたのお連れさんね」一本を私の前におき、一本を自分でふくみながら、お仙は気を変えたように言う。
「あの春画の殿様みたいな子ね。あれ、何しに、この町にきたの?」
「さあ。なぜだろう。なぜ?」
「へんな野郎だから、ノシてやろうと、さっきのお客さんたちが相談してたからさ」
「へえ。物騒(ぶっそう)な話だな」
「この町の若い人達は、割と気が荒いのよ。軍隊帰りが多いしね。それにここは、他国(よそ)者というのを、とっても嫌うのよ」
「おれだって、よそ者だよ」
お仙はだまって、私の全身を計るように、まじまじと眺めている。ものを見詰めるとき、この女はすこしすがめになって、それが奇妙に私を引きつける。やがてお仙は投げ出すように、ぽつんと言う。
「あなた、飛行機乗りだったのね」
「なぜ?」
「そんな径我をしてるし、身体つきを見ても、そんな感じがするもの」
「そう言うからには、他にも飛行機乗りを知っているんだね」
「ううん」
お仙はあいまいに含み笑いながら、ごまかすように盃(さかずき)をとり上げる。私も盃をとる。
「ずいぶんお酒お強いわね。そんなに飲んで、保養になるの?」
からかうような口調だ。でも私はとり合わず、まっすぐにお仙を見ながら、少しして押しつけるように言う。
「あの人も、飛行将校だったんだろ?」
「あの人って、誰さ」
「そら。この町で、カチカチと拍子木を打って歩く人、さ」
「――夜廻り?」
「あれは、蟹江(かにえ)だろう。蟹江卓美という男だろう」
「あなた、蟹江を知ってるのね!」
愕然とした風に盃をおいて、お仙は卓から離れる。そしてよろめくように、二三歩、私の卓に近づいてくる。眼は大きく見開かれたままだ。
「あなたは、蟹江を探して、この町にやって来たのね!」
私は盃に唇をつけたまま、黙っている。右頰の痙攣(けいれん)が自分でもありありと判る。
「蟹江にどんな用事があるの。どんな用なのさ」
「用というほどのものじゃない」
「――それならいいけど。でも、それはもう、あたしと関係ないことだわ」
お仙は椅子に身をよせて、ふいに遠くを見る目付になる。独白のように、
「私はもう、あの人と、別れたんだもの。鹿毛屋がそんなこと、言ってやしなかった?」
「君が捨てたんだと、そう言ったようだったな」
お仙は黙っている。眼が獣のようにキラキラ光っている。やがて私は外套のポケットから、金をとり出して、卓の上にならぺる。あれが蟹江であることが判れば、今夜はそれでいいのだ。
「これで足りるかしら。余ったら、明晩の分に廻してくれ」
そして私は立ち上る。酔いが重々しく、全身に沈みこんでいる。お仙があわてて立ち上って、私を呼び止めようとする。その気配を背中にちらと感じたまま、もう私はのれんを弾(はじ)いて、外に出ている。
外は風が強い。
私はまっすぐに歩いてゆく。
夜目にも海は暗くふくれ、風に白い波頭をひらめかせている。三米ほどの切り立った石垣。陸地はそこで行きどまりだ。石垣からのぞきこむと、芥(あくた)や塵(ちり)を浮かせた黒い水が、石垣に当ってゆたゆたと揺れている。空には半円の月が出ている。
護岸工事を中途半端でよしたと見えて、このお粗末な石垣は五十米ほどで終り、あとは白っぽい砂浜がつづいている。その砂浜も、すこしずつ海に侵略されているらしく、石垣に囲まれた部分だけが、橋頭堡(きょうとうほ)のように突き出た一劃を形造っている。
遠く砂浜には、七八艘の漁船が引き上げられて、並んで横たわっている。月の光に照らされて、それらはまるで、打ち上げられた流木のようだ。黒々とした不規則な陰影。
それだけ見届けると、私は静かにまわれ右をする。そして元の町の方に足を踏み出す。
少し歩くと、町並みが始まる。その一番手前のところに、三坪か四坪の小さな小屋が、一軒ぽつんと立っている。他の家は燈を消して眠りに入っているのに、この小屋だけは乏しいながらあかりを点じている。
来たときと同じように、私は全神経をその夜番小屋にあつめ、しかし姿勢はまっすぐに向けて、気紛れな夜の散歩者のように、ゆっくりと歩いてゆく。
ガラス戸から、小屋の内部が見える。夜廻りの服装をした男が、上(あが)り框(がまち)に腰をおろして、煉炭火鉢にあたっている。さっきと全く同じ姿勢だ。頭を深く垂れているから、顔は見えない。最大限に横目を使ってあるきながら、突然私は胸の奥底に、やけつくような焮衝(きんしょう)を感じる。[やぶちゃん注:「焮衝」は、身体の一局部が赤く腫れ、熱を持って痛むこと。炎症の意。]
(あの夜番小屋を訪問しようか)
しかしその短い時間に、その機会は失われてしまう。夜番小屋の燈は、私の横目の視界から、かき消すように背後に切れてしまっている。どっと肩にかぶさる疲労を感じながら、私は惰性のように足を無感動に運ばせて鹿毛屋に戻ってくる。気がつくと、私はしきりに意味のないことを、呟(つぶや)きつづけている。
部屋に入ると、奥の部屋で十一郎が寝そべり、身体を女に揉(も)ませている。私を見上げると、ちょっと間の悪そうな声で、
「おかえんなさい。御散歩?」
「酒を飲んでたんだ」
私の声がいくらか不機嫌にひびいたのかも知れない。それっきり十一郎は、顔を元に戻して、女あんまにぼそぼそ話しかけている。服を着換えながら、その低声の会話に、私は耳をとめている。
「あんたが見たときは、もう燃えてたと言うんだね。」
「そうですわ」
「その時、そこらに誰か、怪しい人影のようなものは、見えなかった?」
なんという下手な誘導訊問だ。と思いながら、私は私の寝床に坐る。女あんまは青白い顔を無表情に横に振る。部屋のすみには、この女のものらしい黒いマントが、きちんと畳んでおかれてある。三十にはまだならない、ととのった厳しい顔をした女だ。
「あれは何時ごろだったかしら?」
「夜中の十二時頃でしたわ」
「その夜のこと、もう少し話して呉れない?」
私はしずかに手足を伸ばして、床の中に横になる。今夜も牛湯に行きたいと思うけれども、酔いで軀(からだ)がだるく、動くのがすこし億劫(おっくう)だ。うすぐらい天井を見詰めていると、全身がしんしんと地底に落下してゆくような気がする。
障子をへだてた表の部屋からは、昨夜と同じく、しめやかに花札の音が鳴っている。ときどき低い掛声も聞えてくる。
質問が露骨過ぎることに気付いたと見え、十一郎は話題を牛湯のことなどに変えている。それを聞きながら、私はうとうとと眠りに入る。今頃は牛湯に、お仙が入っているかも知れない、などと考えながら。
「女按摩(あんま)唐島種(タネ)(二十九歳)ノ言ニヨレバ、発見当時スデニ炎上シアリシ旨ニテ、付近ニ人影モナカリシトイウ。地勢ハ左ノ如クナリ」
その欄外に、
「も少し調査の必要があるようだ」
下手糞な字で、そんなことが書きこんである。私は苦笑しながら、そのノートを閉じて、十一郎の鞄(カバン)の下に押し込んでやる。大事なノートを拡げ放しにして、あの男も抜け目ないようでいて、どこか肝腎なところが抜け落ちているようだ。眼前の事象にだけは、敏感に反応するようだけれども、持続的な内軸の廻転を、すっかり欠如しているのではないか。
その十一郎は、今日も朝から、どこかへ出かげている。遅い朝飯をとりながら、さて今日はどうしたものか、と思う。予定もはっきり立てず、しかと踏切りもつけない自分に対して、私はあるいらだたしさを感じ始めている。今朝の朝飯も漁師町だというのに、ヒジキ汁と干魚だけだ。海が荒れていて、きっと不漁なのであろう。
食べ終って、やがて私は外に出る。足が自然と海の方にむいてしまう。私は外套のポケットに両手を入れ、ソフトの縁をまぶかに引下げ、ややうつむき加減にして歩き出す。
家並みが切れ、夜番小屋があらわれてくる。私は見るような見ないようなそぶりで、足早にその前を通り抜ける。小屋の内には、人影はない。何故となくほっと肩を落して、私は足をゆるめる。
海岸の広場では、町の子供たちが群れあつまって、きそって紙凧(たこ)を上げている。その間を縫って、石垣の鼻に立つと、海が一望に見渡せる。沖には漁船が点々と見え、右手に伸びた岬の上に、鳶が二三羽、大きく輪を描いて流されている。今日も風がつよい。
「昨夜のあの男が、蟹江であったのか」
咋夜来考えていたことを、も一度唇に上せて、私は呟いてみる。昨夜のあの男は、うすぐらい燈の下で、頭をたれて、煉炭火鉢にあたっていた。なにかを念じているようでもあったし、居眠りしているようにも見えた。頭の形や肩の恰好は、まぎれもなくそれは蟹江卓美であった。しかしその姿は、ぎょっとするほど孤独で、貧寒に見えた。あれがかつての蟹江なのか。壁に提燈(ちょうちん)や撃柝(げきたく)をぶらさげたさむざむしい夜番小屋に、背を丸めて火にあたっていた男が、あれがあの蟹江中尉なのか。そのような蟹江中尉に、わざわざ汽車に乗って、私は何のために会いに来たのか。
頭上のはるかに、紙凧が七つも八つも上っている。不安定に揺れながら、中空に懸(かか)っている。しばらくそれらを眺めていると、いきなり高所に立たされたような不安な感じが、急激に私をおそってくる。私は思わず眼を外らす。
「このまま、汽車に乗って、帰ってしまおうか」
そんな思いが、ちらと頭をかすめる。しかし私は、しずかに腫(きびす)をかえしながら、今夜も一度お仙に会ってみよう、と思い始めている。頭の片すみで、意識をしびらせるような強烈なものを、私は一瞬切に欲している。
「あの人、自分を虐(いじ)めすぎるのよ。ねえ、黒田さん。昔のことをくよくよしたって、始まらないじゃないの」
焼酎を割った濁酒を、二三杯立てつづけにあおって、お仙は相当に酔っている。私の方にかるく眼を据(す)えて、
「それにあの人、自分に自信がなくなって来てるのよ。眼も悪くなって来たし――」
「眼?」
「そう。落下したときのショックでね。そのショックが、今頃眼の神経に出てくることが、あるんですってね」
落下。――その言葉を聞くと、急に身体がかっと熱くなってくる。ある瞬間の記億が、なまなましく、私によみがえってくるのだ。しかし私は表情を殺して、しずかに盃をふくんでいる。
「よほどひどいのかね」
「そう。夜はそうでもないらしいけれど、太陽の光が悪いらしいのね。医者の話では、気長に養生するほかはないと言うの」
「それでよく夜番の役目がつとまるな」
「だから、おかしいのよ。でも町の人々は、そろそろ気付いてきてるんじゃないかしら。こないだの火事のときでも、蟹江の通報がなかったって、クピにしろと怒ってる人もある位よ。町会議員の人よ。だってそのための夜番だものねえ」
いつかお仙は、卓のむこうに腰をおろしている。眼のふちがぽっと赤く染っている。
「火事があったんだってねえ」
「あなた、なぜ蟹江に、会いに来たの。もう会ったの?」
「いや」私はにがく酒を飲み下しながら「ショックって、どこか打ったのかな」
「そう。頭を打ったらしいの。河原の石で」
「そう言えば、あれは夜だったな」
と私は呟く。するとたちまち私の瞼のうらに、あの月明の夜空や地上の風景が、ありありと浮んでくる。意識の遠方にかかっている風景が、急になまぐさいほどの現実感で、五年余の歳月をこえて、瞬間に私にひたひたとかぶさってくる。
「そこで知り合った訳だね」
「ええ。朝になって、見つけたの。家中であの人を運んだわ。だって血だらけだったんですもの。山の中の一軒家でしょ。薬もロクにないし、大変だったわ」
「それで、蟹江は隊には帰らなかったんだな」
「あなたはどうして、蟹江と知り合いなの?」
「隊。隊で、いっしょだったんだ」
「あの人、一度、自殺しようとしたのよ。そのすぐあと」
「自殺?」
「ええ。木の枝に、繩を巻きっけて――」
「なぜ?」
お仙は返事しなかった。酔いにあからんだ瞳が、探るように私の顔に動いている。ひるむものを感じて、私は視線を外(そ)らしてしまう。何となく自分に言い聞かせるように、
「なぜ自殺しようと、したんだろう」
夜風がガラス窓に音を立てている。どこか遠くの方で、風にあおられて、板戸がバタンバタンと鳴っている。なにか荒涼とした思いが、じわじわと私の胸を充たしてくる。
「そこで二人で、この町へ、やってきたという訳だね。終戦後すぐ?」
「鹿毛屋がそんなことまだ、覚えてたのかしら」
「鹿毛屋から聞いたんじゃない。この町に来る前に、僕は知ってたんだよ。すこし前に」
「この町に来ても、苦しかったわ」
私の言葉は聞えなかった風に、やがてしみじみした声でお仙が言う。私はスルメの胴を、無意味に引き裂いている。それだけ言ったのみで、お仙はあとをつづけない。
「どうして蟹江と、別れたんだね?」
「――性格の違い、ね。つまり」
すこし経ってお仙は身を起しながら、瞳を定めて、はっきりと言う。
「あたしはもっと豊かに、たのしく生きたいの。じめじめしたようなところで、一生を終りたくないの。あの人と、この町で、まる四年生活したのよ。そしてあたしは、すっかり疲れてしまった。あの人は決して、悪い人じゃない。でも、あたしを選んだのは、あの人の間違いだった。単純間違いだったと、そう思うのよ。あの人も悪くなければ、あたしも悪くない。ねえ。そんなものでしょう。人間というものは」
「そんなものだろうね」
「だからあたしは、もうクヨクヨすることを、止したのよ。それでいいわね」
お仙の舌が危くもつれる。酔いが相当に発してきたのであろう。
「いいね。それで今から、君はどうするんだね」
「ここで少し金を貯めて、故郷に帰ろうとも思うの。この町もつくづく、イヤになっちまった」
「僕といっしょに、東京に行かないか」
ふっとそんな言葉が、私の口からすべり出る。気まぐれな破片のように、口の端に飛び出してくる。意味はない。口拍子に言ったに過ぎない。そして卓に伸ばした私の掌の先が、偶然らしく、お仙の指に触れている。その指は熱くほてっている。お仙は黙っている。根も葉もない私の冗談が、急にどこかで現実性を帯びて、意地悪い快感としてはねかえってくるのを、私はかんじる。私はその時厭な笑い方をしていたかも知れない。
やがてお仙は物憂げに、ゆるゆると手を引く。ほつれた髪をかき上げながら、
「蟹江に会いに行くの。どうしても?」
しばらくして、私は苦しくうなずく。
「今夜?」
私は黙って考えている。
「会って、どんな話をするの?」
やはり私は黙っている。今さら蟹江に会って、私はどうしようというのだろう。恨み言を言うつもりなのか。又は昔話をして、笑い合おうというつもりなのか。あるいは私が生きていることを示して、彼を安心させるためなのか。それとも、――それとも、今の蟹江の生活を知りたいという、好奇心からだけの衝動ではないのか。自分を犠牲にすることなく、他人の生活をのぞき確かめたいという、あの猿みたいな好奇心!
「どんな話になるか、その時にならねば、判らない」私はすこし沈痛に答える。
「あたし、想像がつくわ」
そう言いながら、突然お仙は、よろよろと立ち上る。片頰に妖しくつめたい笑いを浮べながら、柱に身をもたせて、
「あんた、蟹江といっしょに、あの特攻機に乗ってた人でしょ。きっとそうよ」
「なぜ?」
「蟹江がある時、うわごとでたしかにあなたの名前を呼んだ。クロダ。たしかに、そう呼んだわ」
柱に倚(よ)ったまま、そしてお仙はあおむいて、身をくねらせてくっくっと笑い出す。その断(き)れ断れな笑い声は、空虚な風のように、私の耳底に吹き入ってくる。しやっくりのような、痙攣(けいれん)的な笑い声だ。そして次々おこる発作(ほっさ)のように、お仙は笑い止めない。そしてその声を聞いているうちに、私は急に、堪え難くなる。思わず中腰になって、私は掌をふっている。弱々しく、しぼり出すように、
「いい加減に、止してくれ」
海の方に歩いて行ったのは、夜番小屋を訪ねるつもりだったのだろうか。海風に頭をひやすっもりだったのだろうか。本当は、どちらでもなかった。酔いが私の方角を、失わせてしまったのである。
鹿毛屋の入口の軒燈に近づいているつもりで、私の酔眼はとつぜん、見覚えのある夜番小屋の形を、ありありととらえていた。ぎゅっと足がすくんだように止って、私の眼は大きく見開かれる。
「道を間違えたな」
すると急に潮の香が、嗅覚(きゅうかく)にはっきりとのぼってくる。そして私は再び、もつれた足を踏み出す。立ち止っていてはまずい。そのような才覚が、まだあった。
今夜も夜番小屋の中には、薄墨色の燈がともっている。人影が壁にくろくうつっている。二つ。たしかに二人の人影が、硝子扉(ガラスど)ごしに、せまい小屋の土間に、ちらちらと動いている。一人は上り框に腰かけ、一人はマントのようなものを着て立っている。確かにその二人の影だ。
声は聞えない。酔いが急速に醒めてゆくのを感じながら、私は散歩者の姿勢をよそおい、小屋の前をふらふらと通りぬける。潮風が正面から、きつく吹きつけてくる。鼻孔をふさいでくる風の圧力に、むしろ嗜虐(しぎゃく)的な快感をかんじながら、私はまっすぐ、しゃにむに歩いて行く。
「風間十一郎ではなかったかな。あの夜番小屋にいたのは?」
それもあり得ないことではない。ちらとそう思って見る。すぐに強い潮風がその思いを、背後に吹き散らしてしまう。私は風に逆らいながら、石垣の鼻に立っている。
海が黒く泡立っている。海面には月の光がさんさんとおちている。寒くつめたい、非情な光だ。人間世界と関係なく、そ知らぬ冷情をたたえて、それは無感動に揺れ揺れている。ある衝動がはげしく、私の胸をつき上げてくる。酔い痴(し)れて、弱々しく敏感になった私の聯想(れんそう)が、その眼前の海の色と、あの夜の海の色と、ぴったりと重なり合せてくる。ある抵抗感のある昏迷が、霧のように私をおそってくる。
(あの海の感じも、丁度こんな具合だったな!)
――いつか私は五年余の歳月をとびこえている。幻覚じみたひとつの感覚が、ほのぼのと私を包んでくる。もはや私はぐんぐんと飛翔(ひしょう)している。もう海風の音は聞えない。エンジンの激しい響き。機体の間断なき動揺。二人乗り艦上爆撃機。その操縦(そうじゅう)席に坐して、左右の闇に突き出た両翼の傾斜をはかりながら、私は全身の神経をあつめて、操縦桿(かん)を動かしている。機は今、地上を飛んでいる。まもなく月明の海に出るだろう。目標はO島北側の敵船団。単機の分散攻撃。時折り伝声管を通じての、同乗者との連絡。あと数十分の命だというのに、微小な人間同士で、なにを連絡し合うことがあったのだろう。私の背後の同乗者は、蟹江卓美中尉である。私の座席からは、その姿は見えない。私たちは伝声管を通じて、意味もないことを、しゃべり合っていたようだ。海軍兵学校以来の僚友。そして迫ってくる死の壁に脅えて、私は全身を緊張させながらも、なかば酩酊(めいてい)状態に似た虚脱におちていたに違いない。未来も過去も、予測も記億も、もはや瞬間に凝結して死んでいる。その静寂にみちた錯乱のなかで、私はこう叫んだのか。まさしくそんなに叫んだのか?
「おれだけでやるから、お前は早く飛び降りろ!」
それは贋(にせ)の記億なのか。島の守備隊に看護されて、舌を吊られて生きていた時に補足した、おれの贋の記憶なのか。それから果して、何分ぐらい経ったのだろう。はっとして振り返ったとき、背後座席の合成樹脂の天蓋が、ぽっかりあけ放たれて、蟹江中尉の姿が、虎空にひらめいて墜ちて行く。一瞬パツと、夜目にもしらじらと開く、大輪のような落下傘。
(そして私は、このような海を見たのだ!)
私はふと我にかえる。潮風が私の顔にふきつけている。あの時機上から見た海も、このように、黒くひややかに揺れていたのだ。すべては徒労だと、人間に教えるかのように。そしてあの言いようもない、しんしんたる無量の孤独感。
「おれは蟹江を、憎んでいたのか?」
私はしずかに歩を返す。蟹江がこの町にいることを、風の便りに聞き知って、はるばるここに私を来させたのは、あれは私の憎しみの感情であったか。惑乱した感情をもて余しながら、私はまっすぐに町の方に戻ってゆく。吹き去る潮風が、私の顔の皮膚の体温を、ほとんど奪い去っている。夜番小屋の燈が、やがて近づいてくる。蟹江があの土地の女を連れて、このQ町へ逃げ延び、そこで夜番にまで落ちぶれていると聞いたとき、私の胸にまっくろに拡がってきたものは、一体何だろう。小屋の中には、まだ二つの人影がうごめいているらしい。酔いが中途半端に醒めかかっている。意識が乱れたまま、へんに図太くふくれ上ってくるのが、自分でも判る。
「よし」
私は足の方向を変える。ある意図が半酔の私を、急にそそのかす。よし。何を話してるか、聞いてやる。私は枯草が折れ伏す湿地を迂回し、石塊(いしころ)がごろごろころがった空地を、暗闇に跫音(あしおと)を忍ばせながら、夜番小屋の裏手に廻る。そしてそっと近づく。小屋の背面は、粗末な板壁となり、板の隙間から燈がちらちらと洩(も)れている。ひっそりと土を踏みしめながら、私はそこに顔を寄せる。やわらかい声が耳に入ってくる。
「だって、とてもしつこく、訊ねてくるんだもの」
「それで何か、しやべったのか」沈んだ男の声。
「何もしゃべらない。何も。しゃべることなんか、ありゃしない」
板の隙間から、ぼんやりと小屋の一部が見える。上り框に、マントをまとった人物が腰をおろしている。マントの裾から、着物の花模様がのぞいている。思いもかけず、それは女あんまの、唐島種の姿だ。音声はやわらかいが、表情は蒼白く緊張している。
「ほんとに、何もない。あれは漏電よ。漏電が原因だわ」
土間の絹長い木箱の上に、蟹江が頭を垂れて腰かけている。しばらく二人の影は動かない。そして急に蟹江が頭を上げる。乾いた毛髪が、ばさりと動く。ぎゅっと胸をしめられるような感じで、私は眼を隙間に押しつけている。五年前とは見違えるほど、蟹江の頰はおちて、乏しい電燈の光に、うすぐろく隈(くま)をつくっている。低く乱れた声で、
「おれの方から、あの男に会おう。会ってやろう」
「いけない。いけない」
短く叫びながら、お種が立ち上る。
「あれはもう、済んだことじゃないの。あたし、いや。いや!」
マントの裾がひるがえって、お種の軀(からだ)はくずれるように、男の膝に取りすがる。灼けつくような眼が、蟹江を見上げている。蟹江が腰掛けた箱の板がカタリと嗚って、蟹江の右手がお種の肩にかかる。その指がマントの襞(ひだ)をまさぐりながら、ぶるぶると慄えている。お種はあえぐような声で、
「もうあなたを離さない。どんなことがあっても、どんなことがあっても!」
(なんと惨めで、卑劣なことだ)微妙に屈折した自己嫌悪の情が、今もなお、時折泡のように、胸にふつふつと湧き立ってくる。
(他人の内部をのぞいたりして。まるで岡っ引きみたいに!)朝から雨が、しとしと、と降っている。十一郎と同じ傘に入って、泥んこの道を歩き悩みながら、私は欝屈した表情をつくっている。それに鹿毛屋のやくざな貸下駄は、緒(お)がすっかりゆるんでいて、容赦なく泥をハネ上げてくるのだ。
「霧だの、風だの、雨だの、なんて厭な天気ばかりの町でしょうねえ」
私の欝然たる表情をぬすみ見て、十一郎はいたわるような口振りとなる。
「こんなじめじめした天気だと、神経痛にも悪いでしょうね」
「悪い」と私は答える。昨夜寒風にさらされたせいか、今朝の明け方まで、私は輾転反側(てんてんはんそく)して眠れなかった。鈍い痛みが首筋から背にかけて、密着したように貼りついている。十一郎ののっぺりした顔が、急にからかうようにくずれてくる。
「あんまり深酒するせいじゃないかしら」
「そうでもないだろう」
「毎晩毎晩、どこで飲んでいるんです?」
昨夜あの小屋でぬすみ聞いたことを、十一郎に話してやったら、大変だろうな。ちらと私はそんなことを考える。もちろん考えてみるだけである。すると快感に似た収縮性の痛みが、突然私の胸を走りぬける。
「お仙が家。というのを、知ってるかい」
「ああ。オヤジがそんな話を、してたっけ」
畠を縫って、小川がしずかに流れている。十一郎はそれを器用に飛び越しながら、
「僕も今夜あたり、飲みに行こうかな。もうこの町も、すっかり退屈してしまった」
「調査はそれで、少しは進んだのかい」
「まあね。月給相当の報告書は、もう出来ましたよ。ふん」
私は素早い視線で、その瞬間、十一郎の表情を観察している。そして私はふっと可笑(おか)しくなる。十一郎は何も気付かぬように、鼻をならして歩いている。牛湯の建物が、もうそこに近づいてくる。
「もうそろそろ、明日あたりで、切り上げようかな。黒田さん。どうです。一緒に帰りませんか。どうせ東京まででしょう」
「そうさね」
十一郎と道連れの長旅を想像すると、今はなぜか、やり切れなく退屈な気分に襲われてくるのだ。しかしどのみち私はこの誘ないに乗るだろう。感覚はそれを拒否しているのに、頭の一部が激しく私をけしかけている。この誘ないに乗ることで、この町のすべてを踏み切ってしまえ。明日という時間の終点までに。
「そうだな。そうしてもいいな」
そして脱衣場で裸になりながら、すこし冗談めかして言う。
「女を一人、連れて行くことに、なるかも知れないよ」
「道行きかな」十一郎の眼がきらりと光る。そして「そりゃあ道連れは、多ければ多いほど、賑かでいいですよ」
やがて十一郎は、石段をかけ降りて、浴槽にどぶんと沈みこむ。私もそれに続く。
浴槽には私たちだけでなく、町の娘たちが三四人入っている。皆十四五の、乳房がふくらみかけた年頃で、手足は少年のように脂肪すくなく、すらりと伸びている。皆潮風にさらされた野生的な顔をしている。十一郎がからかうものだから、彼女たちはキャッキャッとはしやいで、湯をはねかけてよこす。十一郎も大いに浮かれて、湯をはねかえすものだから、洗い場から壁から脱衣場まで、そこらは湯だらげになる。帰りに、
「明日帰ることにきめましたか?」
「うん。きめた」と私は、はっきり答える。
「一度東京に戻って、またどこかに、保養に出直すよ」
「ケッコウな身分ですなあ」
十一郎は嘆息するように言う。十一郎は番傘を私にさしかけているのだが、ともすれば自分の身だけを雨から守り、私をないがしろにする。十一郎という男は、そんな男だ。
「ケッコウでもないさ。君の方がケッコウだよ」
「どうしてです?」
「自分と関係ない事件に頭をつっこんで、じたばたしてれば、その日その日が過ごせるからさ。集会所が漏電だろうと、放火だろうと、本当は君に関係ない話なんだろう。自分が傷つかないで生きて行けるというのは、まことにケッコウな身分だよ」
「そうでもないですよ。とんでもない」
と十一郎は大いに抗弁する。
鹿毛屋に戻ると、雨が降っているので、主人も今日はぼんやりと店先に坐り、空模様などを眺めている。私が帰ってきたのを見ると、急に勢づいたように、
「どうだねえ。コイコイ。こないだの仇討ち」
「やってもいいけれど、あいつは肩が凝るんでねえ」
「そんな時や、アンマ頼めばいいんだよ。さあ。さあ、ひとつ」
もう棚から花札を取りおろしている。昨夜の睡眠不足で、頭はいささか重いけれども、この勝負の結果で今夜の予定を定めよう、という思い付きが、ちらと頭に浮んでくる。オミクジ引くみたいな気持だ。
「じゃ、そんなに言うんなら――」
と私は主人の前にあぐらをかく。
「ひとつ御相手するか」
十一郎は面白くなさそうな顔をして、奥の部屋に入り、座布団を枕にして、ごろんと引っくりかえっている。そして鼻歌で「巴里(パリ)の屋根の下」などを歌っている。
唐島お種さんの指の力は、やせぎすの身体にも似ず、案外に強い。私の話しかけに、言葉すくなく受け答えしながら、急所急所を無駄なく揉みほぐしてくる。表の部屋では、今夜も定連が寄ったと見えて、花札の音が始まっている。十一郎は先刻、お仙が家へ飲みに行くと言って、身仕度して元気よく出て行った。雨はもう上ったらしい。
やがて按摩が終る。お種は両手をついて、丁寧にお辞儀をする。すこしは凝りも楽になったようだ。私は紙入れから紙幣をとり出しながら、ごくふつうの調子で、
「あんまさん、あんた、おめでたじゃないのかね」ふっとそんな気がしたのだ。理由もなにもない。端坐(たんざ)したお種の蒼白い顔が、急にぼっと紅味を帯びてくる。蚊のなくような声で、かすかにうなずく。無意識に両掌で帯のへんを、守るように押えている。
「ええ。お判りになりまして?」
「ひょっとそんな感じがしたんだが――」
ある複雑な感じが、微妙な形で私に湧き上ってくる。私はそれをごまかすように、
「もうまっすぐ家に帰るのかね」
「いえ。もう一軒。網元の旦那のところに廻ります」
お種は紙幣を押しいただくようにして、帯の間に入れる。十一郎にしろ私にしろ、鹿毛屋の客はなんと変なお客ばかりだと、そんなことを彼女は考えているのではないか。しかしお種はもとの蒼白い無表情にもどって、も一度畳に手をついて、丁寧に頭を下げる。
「ありがとうございます」
マントをかかえてお種が出てゆくと、すすけた柱時計がゆっくりと八時を打つ。私はむっくり起き上る。これがQ町での最後の晩だ。どてらを脱ぎ捨てて、手早く服に着換える。昨夜のぞき見たお種のあの態度と、今の彼女のもの静かな態度と、奇妙にずれながら重なっている。どちらがほんとの彼女なのか。
(つまり女というものは、曲者だということだな!)と私は思う。今もあんまの最中に、私は彼女にかまをかけて、何かを引き出そうかと、何度も思ってみた。しかしそれをはばんだのは、昨夜来の私の自己嫌悪でもあったが、お種さんのもの静かな厳しい立居振舞のせいでもあった。しかしお種がいなくなってしまうと、私はかすかに忌々しくなってくる。理由もなく、してやられた、という感じがしてくる。やがて私はそっと部屋を忍び出て、靴をつっかけ、横の木戸から町に飛び出す。
お仙が家(や)の前を通るとき、ふと濁酒(どぶろく)のあの味と匂いが、強く私を誘う。いったん通り過ぎて、私はまた戻り、黒っぽいのれんをくぐる。今夜は冷える予感があるから、身内から暖めておきたいのだ。見ると十一郎が手前の卓に倚(よ)って、ホウボウの酢味噌をさかなにして、酒を飲んでいる。ホウボウの酢味噌とは、まったく十一郎らしいさかなだ。十一郎は赤くなった顔を上げて、とろけた口調で私を呼ぶ。
「よお。一緒に飲みましょう」お仙が艶然と顔をほころばせて、卓に近づいてくる。
「明日お立ちですってね。この方から聞いたわ」
お仙はいつもより濃い目に化粧して、あでやかに見える。お仙が運んできたつめたい濁酒を、私は三四杯コツプでつづけざまにあおる。やがて奇妙な擾乱(じょうらん)が、徐々に私を満たし始めてくる。それはしだいに高まってくる。向うの卓では、酔っぱらった町の若者たちが、野卑な合唱を始めている。十一郎がしきりにくどくどと、私に話しかけてくる。急に私はそれらがうるさくなってくる。私は便所に行くようなふりをして、そっと立ちあがる。私の胸の中にゆたゆたと揺れている黒い波。水銀のように質量のある、重重しくゆらめいている波体のひろがり。その平衡をみださないように努力しながら、私はのれんの脇から、夜の街道にすべり出る。夜気がひやりと頰につめたい。ともすれば胸に浮び上ってくるものを、ひとつひとつ潰して行きながら、背後をふりむくことなく、私はまっすぐに海の方へ歩く。道は暗くぬかるんでいる。
遠くで犬がベラべラとないている。
歩くにつれて、自分がなにか透明体になって行くような、そんな妙な錯覚におちながら、あの薄黄色のひとつの燈に、私はしだいに全身を近づけてゆく。しだいにすべてがはっきりしてくる。ガラスを洩れる燈影の中に、私はひたと立ち止る。私の頭の中でキリキリと廻る、透明な幻の風車。光だけで構成されたその羽根羽根の、目くるめくような静謐(せいひつ)な廻転。そして指でガラスをこつこつと打ちながら、私はおだやかに内部に呼びかける。
「火にあたらせて貰えないかね」
私の頰はいくらか弛緩(しかん)して、そのとき薄笑いをうかべていたかも知れない、とも思う。
「え。黒田?」
蟹江が腰かけていた木箱の蓋が、がくんと外(はず)れる。それと同時に、蟹江の全身は凝結したように立ち上って、思わず右手が板壁をささえる。壁にかけられた撃柝(げきたく)が、ばらりとはずれて落ちて、固く鈍い音で互いに触れ合いながら、土間にぶざまにころがる。
「く、黒田、兵吾か」
蟹江卓美は紙のように色を失って、眼を大きく見開いている。私は上り框に腰をおろしている。さっき蟹江が注いでくれた渋茶の茶碗を、胸まで持ち上げたまま、動けないでいる。激しい憤怒に似た感じが、私にきりきりと爪立てている。その感情は、蟹江卓美に対してではない。私がここに坐って顔を曝(さら)していること、蟹江がそれにはげしく驚愕していること、その定石的な状況に対して、憤怒に似た悔恨が、いきなり私の胸をきり裂いているのだ。何という不潔で、鈍重で、蒙昧(もうまい)な時間の流れ。そのしらじらしい不毛の時間の刻みに、しだいに私は堪え難くなってくる。
「そうだ。黒田兵吾だ」
むしろ羞恥をこめたように、語尾は慄えてしまう。そして私達は一分間ほど、そのままの姿勢で、だまってにらみ合っている。
ふいによろめくように、硬直した蟹江の姿勢がゆらぐ。燈の光を避けるように、闇の方に顔をうつむけながら、元の木箱によろよろとくずれこむ。
「何をしに来たんだ。え?」
声は急に弱々しくなる。乱れ垂れた蓬髪(ほうはつ)のかげに、その顔は青ぐろく隈(くま)をつくる。
「何かおれに用事なのか?」
ややまばらな髪毛を通して、妙に青白い蟹江の顱頂(ろちょう)の地肌を、私はじっと見詰めている。しんとした空しい風のようなものが、私を瞬間に吹きぬけてゆく。何とちぐはぐな時間の動きだろう。
「おれはただ、この町に保養にやって来たんだ。そして――」
私は言いよどむ。蟹江はさっきのまま、囚人のように頭を垂れている。ふいに私はなにもかも打ちこわしたい衝動に駆られる。
「お前も元気で、結構だな。おれも、こんな顔になったが、まずまず生き延びたよ」
うつむいた蟹江の顔が、かすかにうなずいたように見える。落着きをとり戻したのか。それにわずか力を得て、私は明るい声をつくろうとしながら、
「それだけ。それだけだよ。なあ。お前がここにいると聞いたんで、急に会いたくなってやって来たんだ」
蟹江の手がゆるゆると土間へ伸びて、ためらいながら撃柝を(げきたく)拾い上げる。私の眼からかくすように、それは背中に廻って行く。撃柝を土間にさらして置くことを、私に恥じるかのように。蟹江はそして、ふっと顔を上げる。自嘲に似た調子で、
「こんな商売しているおれが、よく判ったな」内側に折れ込んだような、暗い眼のいろ。それがじっと私にそそがれている。
「すぐ判ったよ。お前は昔と、すこしも変っちゃいない。昔のまんまだ」
皮肉のつもりではなかった。しかし蟹江の視線は、急にひしがれたような光を帯びて、私の右頰からそれてしまう。言葉を探すように、あえぎながら、
「い、いま、どこに泊ってんだ」
「鹿毛屋という安宿よ」
「鹿毛屋」
火鉢の煉炭が、青い炎を上げて燃え上っている。炭の燃えるにおいが、息苦しく小屋の中にこもっている。しんしんと時間が流れる。
「こんなあばら屋で――」やがて蟹江は頰をゆがめてふっと暗く笑う。「ろくなもてなしも、出来ないで――」
「もてなしなんか、いるものか」
「お前が不時着して、隊に戻ったということを、おれは後で聞いた」
暫(しばら)くして蟹江が、うめくように口を切る。苦しげにあとをつづげる。
「おれはその時、山の中にいたんだ。隊にはとうとう、戻れなかったんだ。とうとう――」
「お仙さんの家だろう」
「お仙を、お前は知っているのか?」
「いや。この町で、偶然に――」
私の視線はふと、蟹江の足にそそがれている。その足は、短い長靴をはいて、土間を踏んでいる。航空用のあの長靴だ。それはもう元の皮の光を失って、しおたれた残骸のように、蟹江の足を包んでいる。夜番の服装に、なんとそれは奇妙にぴったりしていることだろう。蟹江はその足をずらしながら、ぼんやりと顔を上げる。灼けつくような眼のいろだ。不器用にどもって。
「き、傷は、それだけなのか。そ、それだけ――」
「そう。これだけ」私は無意識に掌を頰にあてながら「それから、舌。胴着(胴体着陸のこと)[やぶちゃん注:以上丸括弧内は二行割注。]をやりそこなってヽ、舌を手荒くかみ切ったんだ」
火鉢にあたった私の腹のあたりが、ほのぼのとぬくもってくる。先刻お仙の店でひっかけた三四杯の濁酒が、ようやく酔いをともなって、腹中から四肢へ拡がってくるのだ。それと共に、硬直した時間が、やがて徐々に元のように、ゆるゆると流れ始めるのを、私は感じる。壁にかけられた柱時計の振子が、日常的な音を立てて揺れている。その音が初めて、耳に近く入ってくる。さっき飲み残した茶碗に、やっと私は手を伸ばしながら、何かを確かめるようなつもりで、言葉をつぐ。
「お仙さんの話じゃ、眼を悪くしているそうじゃないか。なあ。どんな具合なんだ」
外の風に当ろうと言い出したのは、私ではなかった。蟹江の方からであった。
息の詰まるような空気が、厭だったのかも知れないし、歩くことで気持をなだらかに動かそうと、そう考えたのかもしれない。またうらぶれた夜番小屋の生活を、私の眼に曝(さら)しておくことが彼にはやり切れないのかも知れなかった。
しかし外に出て、町の燈に背をむけたのは、それはどちらからでもなかった。きわめて自然に、二人の足は海岸ヘ向いていた。
暗い赤土道を踏みながら、そして私はひとりでしやべっていた。緊張からの弛緩(しかん)が、私をそうさせたのか。酔いが私の舌をそそのかしていたのか。それとも私は何かに満足して好機嫌になっていたのだろうか。言葉すくなに受け答える蟹江を側にして、私はしきりにあの時のことを、しゃべりながら歩いていた。しゃべることで、長い空白を満たすかのように。暗さが蟹江の存在を稀薄にしていた。
「――その海の果てに、おれは島影を見た、と思った。その瞬間に、おれはスコールの中に、つっこんでたんだ。なあ。ひどいスコールだったよ、あれは。牛乳の中に入ったみたいに、一寸先も見えなかった。おれはとにかく、そいつを突っ切ろうと思ったんだ。ところが、行けども行けども、突っ切れなかった。ほんとに、行けども行けども。――
「そうだ。それは千米ぐらいの高度だったかな。おれはどうやって、方向をとり違えたのか、今でも判らない。牛乳から脱け出ようと、むちやくちやにカジをとったに、違いないんだ。そしてやっとのことで、おれはスコールを脱出した。おれはほっとした。ほっとしたよ、実際。しかし見ると、燃料があと十五分しか、残ってないじゃないか。しかも方角は、めちゃめちゃだ。あの時ほどおれは、下にひろがる海の色が、おそろしく見えたことはない。――
「はるか彼方から、ぽっつりと火が見えてきたんだ。それはあかあかと燃えていた。あんな美しい火の色を、生れておれは見たことがなかったな。陸だ。おれは祈るような気持でそこに機首を向けた。――
「森が燃えてたんだ。おれはそこをゆっくりと旋回した。もう燃料が尽きかけていたのだ。地形は悪い。土堤のようなものが見えた。もう猶予はなかった。おれは胴着する決心をした。ちらとお前のことを、おれは思い浮べていたよ。――
「おれはバンドを外して、天蓋をひらいた。投げ出されてもいいようにな。地面がぐんぐんせり上ってくる。そしてスロットルを、おれは渾身の力で引きしぼった。猛烈な衝撃だ。機体はくるりと倒逆して、そしておれの身体は――」
私は足を止める。埋立地の果てまで来たのだ。満潮の海が、切り立った石垣の下で、暗くゆたゆたと揺れている。海面までは、三米ほどもあるだろう。蟹江の姿は私の側の暗がりに、影のようにひっそり立っている。言葉はない。その呼吸(いき)づかいだけが聞えてくる。何故かそれはすこしずつ荒くなる。
強い突きではなかった。柔かく、妙にためらうような、子供のいたずらみたいな軽い一押し! しかし私の身体はぐらりとよろめき、ぬかるんだ赤土に靴をすべらせ、横ざまに倒れていた。片足だけが支えを失って、岸から宙に突き出る。そのままの恰好で、私は次の打撃を待った。
凍ったような短い時間が過ぎる。頭をすくめ眼だけをするどく動かして、私は様子をうかがっていた。何も起らない。三四間むこうの石垣の鼻に、いつ移動したのか、蟹江の黒い影が音もなく立っている。棒杭か何かのように、何も構えもなく、ぼんやりつっ立っている。やがて私は膝と手に力を入れて、しずかに身体をおこす。そして用心深く起き上る。すべったとたんに、石垣の稜角にひっかけたと見えて、ズボンが少し破れている。
石垣から遠ざかるように迂回しながら、そして私はそろそろと蟹江の方に近づいてゆく。二米ほど隔てて、私は急に立ち止る。蟹江は石垣の稜角に足を乗せ、海を背にして両手をだらりと下げ、こちら向きに立っている。赤土にまみれた掌を握りしめ、その蟹江の姿に相対して、私は黙って身構えている。二分間ほど、私たちはそのままの姿勢で、動かないでいる。二本の棒杭のように。
「おれを、突き落せ!」
突然、はりつめた沈黙を破って、しぼり出すような声で蟹江がさけぶ。その声も風に千切れて、闇にむなしく吸いこまれる。
握りしめた私の赤土の掌が、すこしずつゆるんでくる。さっき私の肩をどんと突いた、あの圧力の弱さを、私は思い出している。あれはしんじつ突き落そうとする気魄(きはく)ではなかった。それにたかが、三米の石垣。ひたひたとふくれ上る満潮だ。寒冷に耐えて泳ごうとする気力さえあれば、死ぬきづかいはない。絶対にない。しかし――しかし、その気力をさえ、自ら放擲(ほうてき)したとしたら?
「突き落さないのか。早く!」
ふたたび蟹江が叫ぶ。泣くような声だ。麻酔からの覚醒時に似た、あの身体がばらばらに分解して行くような、不快な沈降感が、突然私をおそってくる。身内にはりつめていたものが、急にするどい悔恨にかわって、ぎりぎりと胸に突き立ってくる。ひとりの人間が、他のある人間の内部に入って行こうというのは、何と僣越(せんえつ)だろう。何と困難で、何と無意味なことだろう。石垣の鼻に無抵抗に立った蟹江の影に、やがて私はくるりと背を向ける。そして静かに歩き出す。すべては終ったし、また何も終らなかった。
(なんでもないことなんだ。なんでもないー・)打ちひしがれたように、私は歩きながら呟(つぶや)いている。
(―-茶番なんだ。世の中におこることは、どんなことでも。すべて。すべて!)
背後から追ってくる蟹江の跫音(あしおと)を、私は予期していただろうか。しかもその跫音は、やがて自然に私の側まで来て止って、いつか私たちは闇の中を、ふたたび肩を並べて歩いている。黙りこくって歩いている。呼吸(いき)づかいだけを交互にあらく響かせながら。――そして私の足はまた自然に、夜番小屋の方に向っている。私は切に火を欲していた。ただそれのみを、欲していた。他はなにも必要ではなかった。あのほのぼのとした暖かさと、眼に沁(し)みるような透明の炎のいろを!
「おれはそして、死のうと思ったんだ」
炭火の反射が、蟹江の顔をほのあかくしている。私はつめたく耳を立てている。
「――自分の死骸を、他人に見られるのは、おれはイヤだった。だから、自分の死体を、おれは自分で火葬しようと思ったんだ」
蟹江の口調は、張りを失って、ほとんど独白になっている。蟹江の影が大きく板壁にゆらぐ。莨(たばこ)からのぼる煙の動きを、私は放心したように眺めている。
「――そしておれは、火をつけたんだ。あの海が見える、集会所の建物に。繩は前もって、部屋の梁(はり)に下げておいた」
影がまたゆらぐ。蟹江は自分の影に話しかけているようだ。集会所炎上の真相を、この私が知ったとて、今更何になるだろう。
「しかしその炎の色を見たとき、おれはこわくなった。おれは、ためらった。――そしておれは、逃げ出したんだ。暗い丘の斜面を、めちゃくちゃにかけ降りて逃げた――」
こんな話を聞いて、何になるだろう。もっと聞きたいことが、たくさんあるような気がするのに。しかしそれは、そんな気がするだけで聞きたいことも、話したいことも、何もありゃしない。この男の幸福や不幸も、私がそれに入れない以上、私に何の関係があり得るだろう。
「そして誰にも、見つからなかったのかね」
板壁の蟹江の影が、かすかにうなずく。私の言葉もしらじらと冷え、すっかり抑揚を失っている。
「では、それを知っているのは、お種さんだけか」
煉炭が燃え尽きて、死灰になったその一角が、ぼろりとくずれ落ちる。身ごもっているお種さんの青白い表情が、私の頭の中に、遠くしずかに浮び上っている。やがて私はそっと立ち上っている。壁面の蟹江のうすぐろい影が、ぼんやりと頭をもたげる。
「いつまで、この町に、いるんだね?」
「明日、発つ」
さっき赤土にすべった時、石垣に打ちつけた膝が、ひりひりと痛んでいる。そこだけが確かな、真実なもののように。私は帽子の縁を引き下げ、かすかにびっこを引きながら、入口に出る。蟹江の影も立ち上って、ガラス扉まで送ってくる。
「それから東京へ戻るのか?」
私は黙っている。そして外套に手を入れたまま、さむざむと荒廃した夜番小屋の内部を、も一度見渡している。その視線に感応したように、蟹江の眼も沈痛に小屋の内部をふりかえっている。
「おれは、これだけだ。この小屋のようなものだけだ。今日も、明日も、あさっても」
突然蟹江が口をひらく。蟹江の右の手の影が、小屋全体を指し示すように、大きくゆらゆらと動く。嘔吐(おうと)をこらえているように、その唇がみにくく歪んでふるえている。闇にむかってはき出すようなかすれ声で、
「――お前は今から、宿屋に戻るんだろう。宿屋には、あたたかい火と、あたたかい布団が、待っているだろう。――お前はそこで安心して、明日を待つために、ぐっすり眠るだけでいいだろう……」
私はもう彼を見なかった。背を向けて、しずかに歩き出していた。一歩一歩、町の燈にむかって。――お仙の店は、まだ起きていた。しかしすでに店じまいして、お仙は湯道具をたずさえている。その白い頰や黒い瞳が、切ないほど眼に沁みてきた。
「あら。まだ起きてらっしゃったの。御散歩なの?」
「酒をすこし飲ませて、呉れないか」
「おや、ズボンをどうしたの」
お仙が湯道具を棚に上げ、奥で仕度している間、私は卓に倚り、なにも考えまいとしていた。この店に坐っているのも苦しかったが、あの宿屋には戻りたくなかった。今夜だけは、絶対に戻りたくなかった。やがて酒が来た。濁酒ではなくて、焼酎であった。その強烈な透明な液体を、短い時間に、私は四杯も五杯も飲みほしていた。そして私はひどく酔って、お仙の右手をとらえて、一緒に東京へ出ようと、しきりに口説いていた。お仙の形のいい唇が、謎のようにわらっていた。
「なあ。こんな店、捨てたって、何でもないさ。東京に行こう。ねえ。あそこにはどんな生活だってあるさ」
お仙でも何でもいい。唯ひとつのものを、ゆるぎなく確保したい。その思いがしきりに私をかり立てていた。私は涙を流していたかと思う。左の眼からしか流れない涙を、やはりその時も左の眼からだけ垂れ流しながら。何度も、何度も。
「なあ。人間同士のやることは、どうぜ茶番さ。ね。茶番なら、茶番らしく、行きあたりばったりで、クヨクヨしないで、生きて行こうじゃないか。おたがいに、さ。ねえ」
夜霧が立てこめている。
五日前の到着の夜と同じように、海から町へ、町から山の方へ、ミルクのように濃い霧が、ひたひたと流れている。
私は旅装をととのえ、スーツケースを左手に提げ、駅前の大きな楡(にれ)の木の下に立っている。ただあの夜とちがうのは、あの時の緊張はすっかり消え去り、重々しい疲労だけがずっしりと、私の身体に沈んでいる。五日間、私はここでなにを得て、なにを失ったのだろう。しかし私は外目(そとめ)には、五日前と同じ姿勢で、同じ楡の木の下に立ち、霧の底にゆらめく町の燈を遠望している。私はひとりで、待っている。十一郎はまだやって来ない。駅舎の大時計がしめった響きをたたえて、重々しく九時を打つ。
「何のために、この町に、おれはやって来たのか?」
あの夜と同じ問いを、私は意味もなく、も一度つぶやいてみる。しかしただそれだけだ。呼応するものは、もう私の内にはない。そのことが、かすかに歪んだ笑いを、私に誘ってくる。駅舎の内がすこしざわめいて、駅員たちの影がちらちら動き出すのが見える。駅長がぶら下げたカンテラの光が、ぼうと揺れながら、歩廊の方に出て行く。歩廊を踏む靴の固いひびき。濡れたシグナルの色。つめたい夜霧の頰の感触。遠くから近づいてくる汽笛の音。前方の霧の中から、小走りに靴音が近づいてくる。ぼうとした輪郭が、たちまちはっきり形を見せてくる。風間十一郎だ。
「やあ。時計が止ってて、すっかりあわてちゃった。まだ大丈夫ですか」
「もう汽車が、来る頃だろう」
十一郎は、はあはあとあえぎながら、眼鏡を外してしきりに拭く。
「ひでえ霧だなあ。眼鏡がくもってくもって、何も見えゃしねえ」
十一郎の頰はうっすらと紅味をたたえている。そのあかさは、急ぎ足で来たせいだけでもないだろう。並んで改札口の方に歩きながら、低い声で私は訊ねる。
「どこで時間をつぶしてたんだね」
「ふふふ」十一郎はかろやかに舌の先でわらう。「今夜汽車のなかで、ぐっすり眠れるように、一杯ひっかけてたんですよ。あっ、そうだ。頼まれものがある」
改札口に立ち止って、十一郎はあわただしく、ポケットのあちこちを探す。やっと胸のポケットから、折り結んだ紙片をつまみ出す。調子のいい声で、
「はい。これ」
私はそれを受け取る。掌に握ったまま、改札を通る。客はやはり、私たち二人だけだ。
歩廊にぼんやりと電燈がともっている。そのうるんだ光線の真下に、私はまっすぐ歩いてゆく。折り結んだ紙片を、私はひろげる。
『お元気で。よき御旅行を、おいのりします。あたしはやっぱり、この町にとどまることにします。
仙 子』
私はゆっくりと二度読み返す。字が大きくなったり、小さくなったりしている。きっと酔っぱらって書いたのであろう。私はそれを細かく引き裂く。そして裂いたはしから線路になげる。裂かれた紙片はくるくる舞いながら、つぎつぎに線路へ落ちて行く。それらは花片(はなびら)のように美しい。紙片が散らばったその線路が、やがてガタガタと振動し始める。汽車が近づいてきたのだ。
九時六分。三輛連結のおもちゃみたいな汽車が、霧の中から突然あらわれ、歩廊の前にガタンととまる。私たちはそれに乗り込む。やがて古風な発車の笛が、霧の歩廊になりわたる。汽車はごとんと動き出す。霧に滲んだ町の燈々がしずかに窓外を動き始める。
「きれいだなあ」窓をあげながら、十一郎が素直な感嘆の声をあげる。「ゴミみたいな町だと思ってたけれど、こうして見ると、とてもきれいなもんだなあ」
私の眼もおのずから、移動するQ町の燈を追っている。十一郎の若い感傷に、その一瞬、私も同調していたのかも知れない。単調な響きを立てながら、やがて小さな汽車は、それらを無視するように、しだいに速力を増してゆく。