甲子夜話卷之六 22 有德院御風流の事
6-22 有德院御風流の事
林子曰。德廟御實政の、世を利し民に澤あるは、皆人の能知る所なり。その佗好古御風流の事は知もの稀なり。吹上の御庭にて、三月曲水宴を設られ、中秋月宴には諸臣に詩歌を命ぜらる。延喜式の染方を親ら御試ありて、凡三十餘程は吳服商の後藤に傳へ給ひ、その家にて今も御祕事の染方と稱す。御賄所に命ぜられ、式の法に傚ひ、大根を漬させられ、御上りとなりけるが、今其遺法を以て年々製造し、延喜式漬と稱す。明日香山、住太川に櫻を栽させられ、芝新渠の岸に櫨を栽へ、霜紅の美觀とし給ひ、本所羅漢寺は海棠を多く植させられしと。これは卑濕の地ゆへ、その性に叶ふべしとの思召となり。西土にては海棠を賞すること多けれども、本邦にて海棠一色の景を思し寄せられしは權輿とも云べし。今はいつ枯果しや跡方もなく、其事知るものさへなし。
■やぶちゃんの呟き
「有德院」(ゆうとくゐん)「德廟」徳川吉宗。
「林子」お馴染みの友人江戸後期の儒者で林家第八代林述斎(はやしじゅっさい 明和五(一七六八)年~天保一二(一八四一)年)。
「皆人」「みなひと」。
「能」「よく」。
「佗」「わび」。
「好古」「かうこ」。古い時代の事物を好むこと。
「親ら」「みづから」。
「御試」「おためし」。
「凡」「およそ」。
「餘程」「あまりほど」。
「吳服商の後藤」御用呉服商人後藤縫殿助。日本橋の日本橋川上流に架かる一石橋の南詰の西川岸町に並んでいた呉服町に屋敷があった。但し、ウィキの「後藤縫殿助」によれば、『享保期には八代将軍徳川吉宗による大奥の縮小を伴う享保の改革により』、『公儀呉服師も減少させられた。それでも幕府による救済策により後藤縫殿助の呉服所は幕末まで継続した』とある。
「御賄所」「おまかなひじよ」。
「傚ひ」「ならひ」。
「明日香山」東京都北区王子にある飛鳥山公園。王寺駅南東直近。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。ウィキの「飛鳥山公園」によれば、『徳川吉宗が享保の改革の一環として整備・造成を行った公園として知られる。吉宗の治世の当時、江戸近辺の桜の名所は寛永寺程度しかなく、花見の時期は風紀が乱れた。このため、庶民が安心して花見ができる場所を求めたという。開放時には、吉宗自ら飛鳥山に宴席を設け、名所としてアピールを行った』。享保五(一七二〇)年から『翌年にかけて』千二百七十『本の桜が植えられ』、『現在もソメイヨシノを中心に約』六百五十『本の桜が植えられている』とある。
「住太川」隅田川。
「栽させられ」「うゑさせられ」。
「芝新渠」「しばしんぼり」。東京都港区芝二丁目の内。この辺り。
「櫨」「はぜ」。ムクロジ目ウルシ科ウルシ属ハゼノキ Toxicodendron succedaneum。
「霜紅」「しもくれなゐ」。
「本所羅漢寺」私の大好きな寺。大学時代、中目黒に下宿しており、何度も行った。元はここにある通り、本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)にあり、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか、度々、洪水に見舞われて衰退し、明治四一(一九〇八)年に現在の地である東京都目黒区下目黒に移った(ウィキの「五百羅漢寺」を参照した)。
「卑濕」「ひしつ」「ひしふ(ひしゅう)」。土地が低くて、じめじめしていること
「西土」「せいど」。中国・インド。
「權輿」「けんよ」「権」は秤(はかり)の錘(おもり)、「輿」は車の底の部分の意で、どちらも最初に作る部分であるところから、「物事の始まり」の意となった。