南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(2:熊)
○熊、古事記に、神武天皇熊野村にて大熊に遇玉〔あひたま〕ひしことを載せ、伴嵩蹊の說に、栂尾山所藏「熊野緣起」に、同帝三十一年辛卯、髙倉下尊〔たかくらじのみこと〕、紀南にて長〔たけ〕一丈餘にて金光を放てる熊を見、また靈夢を感じ、寶劒を得たりとある由、熊野の名之に始まると云ふ今も紀州に予の如く熊を名とする者多きは、古え[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。]熊をトテムとせる民族ありしやらん、蝦夷人が熊を崇めて神とすると考へ合すべし、北越雪譜初編卷上に、「山家の人の話に、熊を殺すこと二三疋或ひは年歷たる熊一疋を殺すも、其山必ず荒るゝことなり、山家の人此を熊荒〔くまあれ〕といふ、此故に山村の農夫は需〔もとめ〕て熊を捕る事無し」と云ひ、想山著聞奇集卷四に、熊を殺す者、その報ひにて常に貧乏する由記せるも、古え熊を崇めし痕跡なるべし。
[やぶちゃん注:「古事記に、神武天皇……」「古事記」の「中つ卷」の冒頭の神武天皇記の一節に、
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故神倭伊波禮毘古命。從其地𢌞幸。到熊野村之時。大熊。髣髴出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命。鯈忽爲遠延。及御軍皆遠延而伏。此時。熊野之高倉下。齎一橫刀。到於天神御子之伏地而。獻之時。天神御子卽寤起。詔長寢乎。故受取其橫刀之時。其熊野山之荒神。自皆爲切仆。爾其惑伏御軍。悉寤起之。故天神御子。問獲其橫刀之所由。高倉下答曰。己夢云。天照大神。高木神。二柱神之命以。召建御雷神而詔。葦原中國者。伊多玖佐夜藝帝阿理那理。我之御子等。不平坐良志。其葦原中國者。專汝所言向之國故。汝建御雷神可降。爾答曰。僕雖不降。專有平其國之橫刀。可降是刀。降此刀狀者。穿高倉下之倉頂。自其墮入。「故建御雷神敎曰。穿汝之倉頂。以此刀墮入。」故阿佐米餘玖汝取持。獻天神御子。故如夢敎而。旦見己倉者。信有橫刀。故以是橫刀而獻耳。
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故(かれ)[やぶちゃん注:そして。]、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)[やぶちゃん注:神武天皇の国風の呼称。]、其地(そこ)より𢌞(めぐ)り、熊野の村に幸到(いたりま)しし時に、大きなる熊、髮(くさ)[やぶちゃん注:叢。]より出で入りて、卽ち、失(う)せぬ。
爾(ここ)に神倭伊波禮毘古命、倐忽(にはか)に遠延(をえま)し[やぶちゃん注:病み疲れなさり。]、御軍(みいくさ)及(まで)も、皆、遠延(をえ)て伏しき。
此の時、熊野の高倉下(たかくらじ)[やぶちゃん注:人名。朝廷の倉を管理する者か。]、一橫刀(ひとたち)を齎(も)ちて、天つ神の御子の伏(こや)せる地(ところ)に到(いた)りて之れを獻(まつ)る時、天つ神の御子、卽ち、寤(さ)め起(た)ち、
「長く寢(ぬ)るや」
と詔(の)りたまひき。故、其の橫刀を受け取りたまふ時に、其の熊野の山の荒ぶる神、自(おのづか)ら皆、切り仆(たふ)さえき。爾(ここ)に、其の惑(を)え伏せる御軍、悉く、寤め起ちき。
故、天つ神の御子、其の橫刀を獲(と)りつる由(ゆゑ)を問ひたまひしかば、高倉下、答へ曰(まを)さく、
「己(おの)が夢(いめ)に云(まを)さく、天照大神(あまてらすおほみかみ)・高木(たかき)の神二柱(ふたはしら)の神の命(みこと)を以ちて、建御雷神(たけみかづちのかみ)を召(よ)びて詔りたまはく、
『葦原の中つ國は伊多(いた)く佐夜(さや)ぎて阿(あ)りなりり[やぶちゃん注:ひどく騒がしいようである。]。我が御子等(ども)、不平(やくさ)み坐(ま)すらし[やぶちゃん注:病んで、悩んでおられるようである。]。其の葦原の中つ國は、専(もは)ら汝(いまし)が言向(ことむ)けつる國故(ゆゑ)、汝(かれ)、建御雷神、降(おも)らさね。』
と、のりたまひき。
爾(ここ)に答へ曰(まを)さく、
『僕(やつこ)降(あも)ずとも、専ら其の國を平(ことむ)けし橫刀、有り。是の刀(たち)を降さむ。此の刀を降さむ狀(かたち)は、高倉下の倉の頂(むね)を穿(うが)ちて、其こより墮(おと)し入れむ。故、阿佐米余(あさめよ)く[やぶちゃん注:「朝目宜く」で、「朝、起きて見れば、うまくそこに」の意か。]、汝(なれ)、取り持ち、天つ神の御子に獻(まつ)れ。』
と、のりたまひき。故、夢の教への如(まま)、旦(あした)に己(お)のが倉を見しかば、信(まこと)に、橫刀、有りき。故、是の橫刀を以ちて獻(まつ)らくのみ。」
と、まをしき。
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訓読や意味は、概ね、角川文庫「古事記」(武田祐吉訳注他・昭和五六(一九八一)年第六版)に拠った。後半部を採ったのは、この熊が相応の呪力(身体を疲弊させる)を持つ土着神の示現であったことを理解するためである。
「伴嵩蹊」(享保一八(一七三三)年~文化三(一八〇六)年)商人で歌人・文筆家。本名資芳(すけよし)。近江八幡出身の京都の商家に生まれたが、八歳で本家の近江八幡の豪商伴庄右衛門資之の養子となり、十八歳で家督を継ぎ、家業に専念したが、三十六歳で家督を譲って隠居・剃髪、その後は著述に専念した。代表作は知られた「近世畸人傳」や随筆「閑田耕筆」「閑田次筆」。熊野地名由来譚として原文に当たりたいが、熊楠の引用元が判らぬ。識者の御教授を乞う。【2020年12月1日追記】いつもお世話になっているT氏より、「關田次筆」の巻之三にあるという御指摘を戴いた。
「熊をトテムとせる民族」「トテム」はトーテム(totem)。特定の社会集団に於いて、婚姻・禁忌などに関連して特殊な関係を持つ動植物・鉱物などの自然物を指す。語はアメリカ先住民(インディアン)の一つであるオジブワ族の言葉「ototeman」(「彼は私の一族のものである」の意)に由来する。熊楠も述べているように、本邦では先住民族であるアイヌがイオマンテの祭儀によって熊を神に送り返す儀式の中に熊をトーテムとした信仰が認められることは周知の通りである。
「北越雪譜初編卷上に……」「北越雪譜」現在の新潟県南魚沼市塩沢で縮仲買(ちぢみなかがい)商と質屋を営んだ随筆家鈴木牧之(まきゆき 明和七(一七七〇)年~天保一三(一八四二)年)が越後魚沼の雪国の生活を活写した名作。初編三巻・二編四巻で計二編七巻からなる。天保八(一八三七)年に初編が江戸で出版されるや、ベスト・セラーとなった。真夏のスペインのコスタ・デ・ソルの海岸で読み耽ったほどの私の愛読書である。以上は同書の「初編 卷之上」の「白熊(しろくま)」の条の附記。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本(PDF。初編卷之上)を視認して示す(「20」コマ目)。読みは一部に留め、句読点を打った。【 】は原本の二行割注。
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○白熊(しろくま)
熊の黑きは、雪の白がごとく天然の常なれども、天公(てんこう)、機を轉じて、白熊(はくいう)を出せり。
○天保三年[やぶちゃん注:一八三二年。]辰の春、我が住(すむ)魚沼郡(うをぬまこほり)の内、浦佐(うらさ)宿の在(ざい)、大倉村の樵夫(きこり)八海山に入りし時、いかにしてか白き児熊(こくま)を虜(いけど)り、世に珍しとて、飼ひおきしに、香具(かうぐ)師【江戶にいふ見世もの師の古風なるもの。】、これを買もとめ、市場又は祭禮、すべて人の群(あつま)る所へいてゝ、看物(みせもの)にせしが、ある所にて余(よ)も見つるに、大さ、狗(いぬ)のごとく、狀(かたち)は全く熊にして、白毛、雪を欺(あざむ)き、しかも、光澤(つや)ありて天鵞織(びらうど)のごとく、眼(め)と爪は紅(くれなゐ)也。よく人に馴なれて、はなはだ愛すべきもの也。こゝかしこに持あるきしが、その終(をはり)をしらず。白亀の改元、白鳥(しらとり)の神瑞(しんずゐ)、八幡の鳩、源家の旗、すべて白きは 皇国(みくに)の祥象(しやうせう)なれば、天機(てんき)、白熊(はくいう)をいだししも 昇平萬歲(しようへいばんぜい)の吉瑞成べし。
[やぶちゃん注:以下、原本では全体が二字下げ。]
山家の人の話に、熊を殺すこと、二、三疋、或ひは年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、かならず、荒(ある)る事あり。山家(さんか)の人、これを「熊荒(あれ)」といふ。このゆゑに、山村の農夫は需(もと)めて熊を捕る事なし、と、いへり。熊に㚑(れい)ありし事、古書(こしよ)にも見えたり。
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「白亀の改元」養老八年二月四日(七二四年三月三日)に紀(きの)朝臣家から、手に入れた白いカメの献上があったことから、それを瑞祥として「神龜」(しんき/じんき)と改元され、また、神護景雲四年十月一日(七七〇年十月二十三日)光仁天皇即位(同年同月同日)に際し、肥後国より相次いで白い亀が献上されたことから、それを吉祥として「寶龜」に改元されたことを指す。
「白鳥の神瑞」記紀に見える、垂仁(すいにん)天皇の皇子誉津別命(ほむつわけのみこと 生没年未詳:一説に垂仁天皇五年に焼死したとする)は、生まれてから成人するまで言葉を発さなかったが、ある日、鵠(くぐい。白鳥)が空高く渡る様子を見て、「是、何物ぞ。」と初めて言葉を発し、天皇は喜び、その鵠を捕まえることを命じ、鵠を遊び相手にさせると、誉津別命は普通に会話が出来るようになったと伝える。
「想山著聞奇集卷四に……」「想山著聞奇集」は江戸後期の尾張名古屋藩士で右筆を勤めた大師流書家で随筆家としても知られた三好想山(みよししょうざん ?~嘉永三(一八五〇)年)の代表作。動植物奇談・神仏霊異・天変地異など、五十七話の奇談を蒐集したもの。全五巻。没年の嘉永三(一八五〇)年に板行されている。私は全篇の電子化注を本ブログ・カテゴリ「怪奇談集」で終わっている。熊楠の示すものは、「美濃の國にて熊を捕事」の追記部分の最後に現われる。追記部を総て示す。
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「北越雪譜」に、山家(さんか)の人の話に、『熊を殺(ころす)事、二三疋、或は年歷(としへ)たる熊一疋を殺も、其山、必、荒(ある)る事有。山家の人、是を熊荒(くまあれ)と云。此故に、山村の農夫は、需(もとめ)て熊を捕事なしといへり。熊に靈(れい)有事、古書にも見えたり』云々。然共(しかれども)、此美濃の郡上邊にては、斯(かく)の如く熊を捕(とる)事は、珍敷(めづらしき)事にあらざれども、さして荒る事を覺ずと云。尤(もつとも)、雪中の熊の膽(きも)は、惡しき分にても五、六兩にはなり、好(よき)品なる分は、十五兩にも廿兩にもなり、時によりては、一疋の膽が三十兩位(ぐらゐ)と成(なる)分(ぶん)をも獲る事有て、纔(わづか)の窮民共の、五、七人組合(くみあひ)、一時に三十金・五十金をも獲る事有(あれ)ば、是が爲に身代をもよくし、生涯、父母(ふぼ)妻子をも安穩に養ふべき基(もとひ)ともなるはづなるに、矢張(やはり)、困窮して、漸(やうやく)飢渇に及ばざる迄の事なるは、熊を殺せし罰なるべしと、銘々云(いひ)ながらも、大金を得る事故、止兼(やみかね)て、深山幽谷をも厭はず、足には堅凍積雪(けんとうせきせつ)を踏分(ふみわけ)、頭(かしら)には星霜雨露を戴きて、實(げ)に命(いのち)を的(まと)となして危(あやうき)をなし、剩(あまつさへ)ものゝ命をとりて己(おのれ)の口腹(こうふく)を養ふと云(いふ)も、過去の宿緣とも申べき乎。
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下線部が熊楠の縮約の元である。但し、正しい梗概とは言えない。]
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