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2020/11/21

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 檢校墓

 

 檢校墓

[やぶちゃん注:以下の文中の字空けはママ。]

 非持邨〔ひぢむら〕にあり。檢校豐平〔けんげうとよへい〕が墓なるべし。里人、あやまりて「盲人の墓」と思へるは、檢校の名に據〔よ〕るなり。「古今著聞集」に 『一條院御祕藏の御鷹ありけり。いかにも、鳥をとらざりけるを、よく、とりかひ、まゐらせし。叡感のあまり、所望申さんにしたがふべきよし仰下〔おほせくだ〕され、信濃國「ひぢの里」をぞ申〔まうし〕うけける。「ひちの檢校豐平」とは、是が事也』。是、かの檢校が墓たる事、疑ふべからず。

 

[やぶちゃん注:「非持邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡長谷村非持』とある。現在は長野県伊那市長谷非持(はせひじ:グーグル・マップ・データ航空写真)。高遠城跡の南東の山間部。「検校塚」(墓)はここから入ったところ(グーグル・ストリート・ビュー画像)で、航空写真のこの中央附近と思われる。「伊那市観光協会」公式サイトの「長谷エリア」の「史跡・名所」の「検校塚」に、『平安時代のこと、一条天皇秘蔵の鷹が獲物をまったく獲らず、どんな優秀な鷹飼も飼いあぐねていた。これを優秀抜群に飼いならした依田豊平は、その褒美として信濃国非持の里を与えられ、その地を治める検校となった。伝承では「検校豊平」は善政を行い、村人に敬愛されたと伝えられる。墓所である検校塚には明治』一五(一八八二)『年に区民の手により頌徳碑が建立された』とあり、長野県産業労働部営業局のサイト「しあわせ信州」の「はせさんぽ~検校豊平(けんぎょう とよひら)と非持の里ほか」に、『伊那市長谷非持の集落の中心には、鬱蒼とした社叢の中に千年の歴史を持つ諏訪社があります』(ここ。グーグル・マップ・データ)。『創建時に社の南と北それぞれ』五百メートル『の地には、守護神として御社宮司神(ミシャグチ神、諏訪信仰の自然精霊)を祀り、南にトチノキ、北にハナノキが植えられたそうです。トチノキはご神木として神おろしをする神事があったと伝えられ、日本一と言われた大きさの「非持の巨トチ」として昭和』五四(一九七九)『年に台風で倒れるまで』、『集落を見守り続けました』。『社を創建した検校豊平』『には、以下のような物語が伝えられています』。『一条天皇の御世』(在位:寛和二(九八六)年~寛弘八(一〇一一)年)、『天皇御秘蔵の鷹が鳥をとらないので困っていたところ、鷹飼いの名人依田豊平が、この鷹がミサゴ腹(タカの一種のミサゴの雌とタカの雄の子)である事を見抜き、その性質に応じて見事に調教しました。天皇はこの上なくお喜びになり、豊平はほうびとして望みのとおり、まほらの地信濃の国ひぢの里に屋敷と田畑を与えられ、その地を治める「検校」(後の庄屋)に取り立てられました』『(古今著聞集第二十より)』。『国道から少し入った道のわきに小さな看板があり、田んぼの脇の道に入ります』。『道を折れると、民家のとなりに屋根に囲われて「検校塚(検校豊平の墓)」がありました』。『見つけにくい!』『長谷の隠れた重要史跡です』。『右が、古い四重の石塔の墓石です(もとは五輪塔であったそうです)』。『左の石碑は「検校霊神」とあり、神として祀られたものとされています』(引用元に写真有り)。『奥の検校塚の石碑は、明治』十五年四月に、『非持諏訪社氏子一同』が『力を合わせて建立したもので、題字は県知事大野誠、文と書は旧高遠藩の国学者岡村菊叟のものです』とあった。特に後者の記載を頼りに、前のグーグル・ストリート・ビューの位置を発見出来た。

『里人、あやまりて「盲人の墓」と思へるは、檢校の名に據〔よ〕るなり』ここは平安・鎌倉時代に置かれた荘園を管理する役人の職名。その後、室町以降、僧や視覚障碍者に与えられた最高官名として知られ、江戸時代には、専ら、後者のそれと認識されていたからである。

「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう)鎌倉中期の説話集。全二十巻。橘成季(たちばなのなりすえ)の編。建長六(一二五四)年成立。平安中期から鎌倉初期までの日本の説話約七百話を、「神祇」・「釈教」・「政道」など三十編に分けて収める。以下の話は、」第巻二十「魚蟲禽獸 第三十」の七番目に配されてある、「一條天皇、ひぢの檢校豐平、よく鷹を飼ふ事」である。全文を引く。底本は、大正一五(一九二六)年有朋堂書店刊のそれ(国立国会図書館デジタルコレクションのここから)のと、所持する新潮日本古典集成本と校合し、私が適切と思う方の本文表記を採った。

   *

 一條院の御時、御祕藏の鷹ありけり。たゞ、いかにも、鳥を、とらざりけり。御鷹飼(おんたかがひ)ども、面々(めんめん)に、とりかひ[やぶちゃん注:優れた鷹狩用の鷹に躾けようとすること。]けれども、すべて、鳥に目をだにかけざりければ、しかねて[やぶちゃん注:扱いかねて。]、件(くだん)の鷹を粟田口(あはたぐち)十禪師(じふぜんじ)の辻につなぎて、行人(かうじん)に見せられけり。

「若(も)し、おのづから、いふ事やある。」[やぶちゃん注:「或いは、ひょっとすると、上手く仕込むヒントを言い出す者がないとも限らぬ故。」。]

とて、人をつけられたりけるに、たゞの直垂上下(ひたたれかみしも)に、あみ笠きたるのぼりうど[やぶちゃん注:地方から京へ上って参った田舎侍。]、馬よりおりて、この鷹を立ち𢌞(まは)り、立ち𢌞りして、

「あはれ、逸物(いちもつ)や。上(うへ)なきものなり。たゞし、いまだ、とりかはれぬ[やぶちゃん注:少しも調教されていない。]鷹なれば、鳥をば、よもとらじ。」

といひて、過ぐるもの、ありけり。其時、御鷹飼、出でゝ、かの行人(かうじん)にあひて、

「只今、のたまはせつる事、すこしも、たがはず。これは御門(みかど)の御鷹也。しかるべくは、とりかひて、叡感にあづかり給へ。」

と、いへば、このぬし、

「とりかはん事、いとやすき事なり。われならでは、この御鷹、とりかひぬべき人、おぼえず。」

と、いへば、

「いと希有(けう)の事なり。すみやかに、このよし、叡聞にいるべし。」

とて、やどなどくはしく尋ね聞きて、御鷹すゑて[やぶちゃん注:腕に留まらせて。]參りて、このよし、奏聞(そうもん)しければ、叡感ありて、卽ち、件の男(をとこ)、めされて、御鷹を、たまはせけり。すゑてまかり出でて、よくとりかひて參りたり。

 南殿(なでん)[やぶちゃん注:紫宸殿。]の池の汀(みぎは)に候ひて、叡覽にそなへけるに、出御の後(のち)、池にすなご[やぶちゃん注:砂。]をまきければ、魚、あつまりうかびたりけるに、鷹、はやりければ、あはせてけり。卽ち、大(おほき)なる鯉を取りて、あがりたりければ、やがて、とりかひてけり[やぶちゃん注:そのまま褒美として鯉を鷹に食わせた。]。

 御門よりはじめて、怪しみ、目を驚かして、そのゆゑを、めしとはれければ、

「此御鷹は『みさご腹』の鷹にて候ふ。先(ま)づ、かならず、母が振舞をして、後(のち)に父が藝をば、仕(つか)うまつり候ふを、人、そのゆゑを知り候はで、今まで、鳥をとらせ候はぬなり。この後は、一つも、よも、にがし候はじ。究竟(くきやう)の逸物(いちもつ)にて候ふなり。」

と申ければ、叡感はなはだしくて、

「所望、何事かある、申さむに隨ふべき。」

由、仰せ下されければ、信濃國ひぢの郡(こほり)に、屋敷・田園などをぞ、申しうけける。「ひぢの檢校豐平(けんげうとよひら)」とは、これが事なり。大番役(おほばんやく)にのぼりける時の事なり。

   *

但し、「信濃國ひぢの郡」とあるものの、信濃に「ひぢの郡」という郡は古えにも存在しないようである。最後の「大番役」とは、内裏・院御所・摂関家などを警護するために地方武士が交替で務めた役職を言う。ただ、現代の辞書類も注釈も平然と「鶚腹(みさごばら)」を――ミサゴのとタカのの間に出来た子――と書いているのだが、

タカ目ミサゴ科ミサゴ属ミサゴ Pandion haliaetus(日本では留鳥として全国に分布するが、北日本では冬季に少なく、南西諸島では夏に少ない。西日本では冬季普通に見られる鳥だったが、近年、やや数が減少している。北海道ではほとんどの個体が夏鳥として渡来している、とウィキの「ミサゴ」にある)と、本邦で鷹狩に用いられた、

タカ目タカ科ハイタカ属オオタカ Accipiter gentilis

   タカ科イヌワシ属イヌワシ Aquila chrysaetos

   タカ科ハイタカ属ハイタカ Accipiter nisus

ハヤブサ目ハヤブサ科ハヤブサ亜科ハヤブサ属ハヤブサ Falco peregrinus

の間で、子が出来るだろうか? ウィキの「ミサゴ」には、『タカ科に含めることもあり、それでも単系統性からは問題ない。しかし、形態、核型、遺伝子距離、化石記録の古さから、科レベルに相当する差異があるとされる』『タカ科に含める場合、ミサゴ亜科 Pandioninae とし、タカ科の』二『つ』、『または』、『より多くの亜科の』一『つとする』とあり、所謂、交配種が生まれる可能性は極めて低いように思われ、交配種として掲げるページも存在しないようである。もし、あるとなれば、御教授願いたい。

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