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2020/11/21

ブログ・アクセス1,450,000突破記念 梅崎春生 鏡

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『浪漫』発表。既刊単行本未収録。

 底本は「梅崎春生全集」第二巻(昭和五九(一九八四)年六月刊)に拠った。本文中にごく簡単な注を挾んだ。

 本作に限らず、梅崎春生の小説の特徴は、確信犯で映画的映像的なシークエンスを狙っており、それがまた、シナリオ以上によく映像を説明している点にある。本作のラストなどは、まさに主人公の視線の動きが一人称のカメラとなっており、聴覚的にもSEを見事に意識したミステリー映画のような印象を受ける。そうした映画的なカメラを文字通り意識した傑作が、最後となっていしまった「幻化」の、あの阿蘇噴火口の望遠鏡のエンディングであったのである。

 なお、本テクストは2006518日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来(このブログ「Blog鬼火~日々の迷走」開始自体はその前年の200576日)、本ブログが数分前、1,450,000アクセスを突破した記念として公開する。【20201122日 藪野直史】]

 

   

 

 窓の下は掘割になっていた。

 午後になると汚ない水路に陽が射して、反射光が紋様となって此の室の天井にも映って来た。昼の間は対岸の乾いた石垣の上の道路を、トラックや自転車が通り、子供たちが釣糸を垂れてしたりした。夕方になると夕刊売が出て、買手の行列が河岸に沿って連なった。手渡される夕刊が白く小さく生物のように動き始める頃、此の室では帳簿が閉じられてやっと仕事が終るのであった。

 室は狭くて暗かった。扉がひとつあって、扉の把手(とって)は何時も冷たく濡れていた。此の事務室には、社長も入れて四人しか居なかった。

 社長というのは四十位の瘦せた眼のするどい男であった。表情を殺した所作で、何時も低い静かな声で話をした。

 狭い灰色の階段を登って来る足音がすると、扉がコツコツと叩かれた。こうして一日に何人も何人もお客がやって来た。そして社長と卓をはさんで、ひそひそと取引きを交して行った。その度に厚い札束が手渡されたりした。札束は部屋のすみにある黒い金庫から出されたり、又収められたりした。その事は社長の命令で、金庫の前に机を据えた松尾老人の手で行われた。老人は無表情な顔で金庫の扉を開き、札束を処理し終えると机にかぶさるようにして伝票をつけ始めるのであった。

 札束が老人の手から社長に、社長の手から老人に渡る度に、私の眼は自然にそこに行くのであった。見るまいとしてもそれは強制されるように動いた。金庫の扉が乾いた音を立てて閉まると、私の視線はも一度確めるように老人の無表情な顔に落ち、そしてゆっくりと私の机の上に戻るのであった。

 私の机には部厚い帳簿が拡げられてある。老人の方から廻って来た伝票の束を整理して、その中から利潤の比較的少かった取引伝票だけをまとめ、金額を丸公に書き替え、そしてそれを帳簿に記入するのが私の仕事であった。そして此の帳簿は、税務署が調べに来た時提示する為のものであった。本当の取引金額は老人のもとに保管される伝票の束に秘められていた。[やぶちゃん注:「丸公」昭和一五(一九四〇)年の日中戦争下の「価格等統制令」及び第二次大戦後の「物価統制令」による公定価格を示す印(しるし)。また、その公定価格を言う。丸の中に「公」の字の印で示した。]

 私は毎朝、此の河岸に立ったビルディングの狭い階段をぎしぎし登り、そして一日中机の前で偽帳簿の作製に従事した。色の悪い給仕の小娘が注いで呉れるうすい番茶を二時間毎に啜(すす)りながら――。

 私は貧乏していた。そして自分が貧乏であることに何時も腹を立てていた。

 長い間私は戦さの為に外地で苦しんで来た。そしてやっと生命を保って日本に戻って来ることが出来た。そして私は無縁のもののように、現在の世相の前に立ちすくんでいた。人の手から手へ渡って行くあの莫大な金額の、ほんの一部で良いから何故私の掌におちて来ないのか。私の現在の衣食の困窮を、私は何か合点が行かぬ気持で感じていた。その気持がそのままこじれて、私は私自身に腹を立てていた。

 部屋のすみに重々しく据えられたあの黒い金庫が、四六時中私の意識に痛く響いて来るのも、あの紫色の束がどの位の幸福と換算されるものか、秘やかな計算を私が行なっているせいに違いなかった。札束が私の眼前にあらわれて社長や老人の手を渡るたびに、私は胸をときめかせながらそれを盗み見ないでは居れなかった。そして社長のはがね色の頰と老人のしなびた顔の色を確め終ると、私は再び帳簿に眼を落してペンを取上げる。

(あれだけの金が己(おれ)にあったら!)

 金というものが悪と密接に現代では結びついているらしいことを、私はうすうすと感じていた。その悪にも私も偽帳簿を作製することで参加してしる筈であった。その代償として、そのかげに動いている巨額の金のおそらくは数百、数千分の一の取るに足らぬ金を、私は日々与えられていたのだ。だからどの道悪に参与するなら、悪の奴隷的位置にあって余瀝(よれき)を頂く方法ではなく、主導的立場に立って、――たとえばあの金庫の金を持逃げするとか(此の考えに気付いた時私は思わずギョッとして四辺を見廻した)そんなやり方を採用すれば良いではないか。しかし、私はそう考えるだけで、まだ踏切りがつかないでいた。[やぶちゃん注:「余瀝」器の底に残った酒や汁などの滴(しずく)。]

 社長にしろ、どのみち後ろ暗いやり方で金を儲けているに違いないのだ。持逃げされたとしても、おそらくは公けに出来まい。――これは私の確信ではなく、私の感じに過ぎないのだが、その感じはかなり強烈に私に作用し始めていた。札束を盗み見る私の眼が、日毎険しくなって行くことが自分でも判った。

 午後三時になると社長は鋭い眼でひとわたり部屋中を見廻す。その頃がお客の出入りが終った時なのだ。革の折鞄を小脇にかかえて立ち上ると、では頼みますよ、と低い声で言い残して部屋を出て行く。小波の波紋が天井に映った此の部屋には、私と松尾老人と給仕女だけが残るのだ。何かほっと肩を落したような気易い空気が部屋を満たし始める。松尾老人が煙管(きせる)を出して、やがて紫煙が暗いい部屋中に立ちはじめる。ポンポンと煙管をたたく音がする。老人が刻みを詰める指は、満足げにふるえているのである。あの仕事中の無表情な顔付ではなくなって、老人は急に生々とした人間の匂いを立て始めるのだ。

 此の老人はどんな経歴の男なのだろう。黒い詰襟の服に大きな軍靴をはいて、顔のわりに小さな眼を善良そうにしばしばさせながら、一日の仕事が終った安堵感からか、やがてぽつりぽつりと私や給仕女を相手に世間話など始めて来るのだ。世間話というよりはむしろ愚痴にすぎないのだが、近頃の闇価[やぶちゃん注:「やみね」。]の高くなったこと、家計の苦しいことなど、彼はむしろ楽しげに話し出す。それはあの仕事中の、札束を社長に渡したり受取ったりする能面のような顔付ではなくて、極めて愚直な生活人の風貌だが、そんな老人の面に接すると私はふと、此の老人は仕事中は気持に抵抗するものがあってあんな堅い顔付をしているのではないか、と思ってみたりするのであった。そして此の私も、仕事中は何か険しい顔をしているのではないかと思うと、何だかやり切れぬ気持も起って来た。

 河向うに入日がうすれ、夕刊売に行列が立ち始めると、私達は帳簿を閉じる。老人は金庫に鍵をおろし、女の子は帰り仕度のまま壁にかけた小鏡にむかって化粧をはじめる。急に思春期の女らしい物腰になって行く女の子の姿に、私はちらちらと注視を呉れながら、よれよれの帽子を壁からとり上げる――。

 

 給料を貰った日のことであった。社長が帰ったあと、何時ものように老人が煙管を叩きながら、近頃盛(さか)っているという駅前の闇市場の話などを始めていた時、私は良い加減に相槌を打ちながらそれを聞き流していたが、給料がポケットにあったせいか、ふとそんな場所に行ってみたい瞬時の欲望が起って、私は掌を上げて松尾老人の話をさえぎった。

「面白そうな処じゃありませんか。松尾さん。帰りに一緒に行ってみましょうか」

「ええ、ええ」

 一寸あわてた風(ふう)に老人は眼をパチパチさせたが、直ぐ言葉をつけ足すように[やぶちゃん注:読点はない。]

「ええ、参りましょう。是非是非、一度は見とくべき処ですじゃ」

 掘割にはあわあわと夕暮がおちかかり、淀んだ古い水の臭いが窓から流れていた。私は帰り仕度をしながら金庫の鍵をしめる乾いた音を背に重く聞いた。

 何時もなら真直ぐ駅の改札を通るところを、道を折れてごみごみした一郭に私達は入って行った。人通りがごちゃごちゃと続く両側には、色々な物品が無雑作に連なっていて、客を寄せる売手の声があちこちで響いていた。売手たちは皆屈強な男たちで、ふと眼を落すと、私の靴のようにすり切れた靴は誰も穿いていなかった。皆が私の靴を見ているようで、足をすくめるようにして歩きながら、その事が俄(にわか)に私の胸を熱くして来た。品物の列はやがて尽きて、よしず張りの食品店が何軒も並んでいた。刺戟的な電燈の下で、静かにコップを傾けている男たちもいた。酒精の匂いがそこらを流れていた。

「此処らは皆飲屋ですよ」と老人は落着かなく言って立ち止った。「さあ、もう戻りましょうかい」

 私は振返った。老人は露地にすくむようにして立っていた。地色の褪(あ)せた詰襟服(つめえり)の肩から、薄々と無精鬚を生やし老人の姿を眼に入れた時、あの掘割の見える部屋では此の老人はぴったりしているにも拘らず、此の巷(ちまた)では極めて異形(いぎょう)のものとして私に映って来た。汚れた軍靴が老人の足には極めて大きく見えるのも、惨めな感じをなおのことそそった。一応しゃんとした服装の人たちばかりが往来する此の巷では、老人のみならず私自身の姿も泥蟹(どろがに)のように惨めたらしく見えるにちがいなかった。私は老人の姿をなめ廻すように眺めながら、憤怒とも嫌悪ともつかぬ自分の気持を、も一度確めていたのである。

 老人は落着かぬらしく、またしゃがれた声で私をうながした。

「さあ。さあ、戻りましょう」

 此の巷で自分を無縁のものと考えているのか。私はふと此の老人と酒をのみたいという気持が、その時発作のように湧き上って来た。

「松尾さん」と私は気持を殺して呼びかけた。「此処まで来たんだから、一寸いっぱいやって行きませんか」

「いや、ええ?」

 老人は私の言うことが判ると、飛んでもないというそぶりをしたが、私はそれに押っかぶせて、

「金はあるんですよ。少しは使っても良いんですよ」

 私はポケットをたたいて見せながら、老人に近づいて腕をとらえた。老人の腕は細くてひよわそうだったが、それが微かに私にさからうように動いただけであった。老人は当惑したような奇妙な笑いを眼に浮べて私を見上げていた。

 暫(しばら)くの後私達は一軒の屋台店に入って、酒精の香のする飲料を傾けていたのである。身体の節々に酔いが螺旋(らせん)形に拡がって来ると、かねて酒も飲めぬ程貧しい自分の生活が、言いようなく哀しく腹立たしくなって来るのであった。今日貰った給料もやっと私一人の生活を一月支えるに過ぎない額であるが、それすらもさいて此処でこんなものを飲む気になったのも、私が此の生活から脱出する踏切板を求める無意識の所作なのかも知れなかった。酔いが次第に深まるにつれて、私はあの暗い部屋のすみに置かれた黒塗りの金庫を、そしてその中に積まれた札束のことをしきりに思い浮べていた。私は蚕豆(そらまめ)の皮を土間にはき出しながら、老人の饒舌(じょうぜつ)にぼんやり耳を傾けていた。あの札束を出し入れする時、何故松尾老人はあんなに無感動な表情をしているのだろう。彼はその時何も感じてはいないのか。

 老人が心から酒が好きらしいことは、先刻からのコップの傾け具合で私に判って来た。しなびた顔はぽっと赤みがさして、何時もより口数が多くなって来ているようであった。老人は表情を幾分くずしながら、自分の家族のことを、くどくどと私に話しかけていたのだ。

 何でも、今老妻と二人で間借りしているらしいことや、そこを追い出されかけていることや、息子がまだ復員して来ないが死んだものとあきらめていることとか、そんな風な具合だったと思う。酔いが俄に発したと見えて老人の口調は急に哀調を帯び、自分はどの途(みち)余生も長くない身だから、苦しい生活はしたくないけれども、闇屋になるだけの体力もなく、また資本もないしするから[やぶちゃん注:ママ。]、止むを得ずあんな所に勤めているけれども、それも何時クビになるか判らず、将来のことを考えると今本当にまとまった金がほしいということを、すがるような口振りで口走りはじめていた。ふんふん、と私も相槌を打っていたが、ようやく酔いが私にも廻って来たらしく、更にコップを重ねているうちに、私は変に老人の口舌が小うるさくなって来て、断ち切るような言葉で老人の繰言をさえぎってしまったのだ。

「そんなに困ってるなら、あの金庫の中の金を持って逃げればいいじゃないですか」

 私の言い方がとげとげしかったんだろうと思う。老人は急に身体を引いて私をみつめたが、暫くして低い声で、

「そんなことが出来れば私もこんな苦労はしませんじゃ」

「何故出来ないんです」

「だってあんた、神様が許しませんわい」

「神様、神様」何故か私は此の老人を私の意のままに納得させねばならぬという不逞(ふてい)の願いに駆り立てられた。

「神様が何ですか。神様なんか何処にいますか。善良な人が貧乏して、うちの社長のような悪どい奴が大儲けしてるじゃありませんか」

「社、社長さんがそんな――」

「そうですよ」と私はきめつけた。「あの毎日の金の出し入れが闇取引だということは貴方だって知ってるでしょう」

「そ、そりゃ知ってるには知っとりますじゃ。しかし、しかし――」老人は急に身体を卓に乗り出して眼をぎらぎらと光らせた。赤く濁った眼球に血管が走っていた。「わたしは今まで後ろ暗いことをした事はない。此の年になって後ろに手の廻るようなことを仕出かしたくない」

「そこですよ」と私は卓をたたいた。「後ろに手は絶対に廻りはしない」

 そこで私は酔いに任せて、社長の所業も後ろ暗い所があること、その証拠は私の今の偽帳簿作製のことでも判ること、だから彼がおそれるのは警察であって、金庫の内部を皆持逃げされるのならいざ知らず、四五万程度の金ならば彼は歯を喰いしばっても公けにしないだろうということを、私はべらべらと論じ始めたのである。しやべっているうちに、私はその言葉が逆に私に確信を与え始めて来たのを、ぼんやり意識していた。私はしかし、ぎょっとしてしゃべるのを止めた。老人はコップを片手で握り、見据(す)えるように私をみつめていたのである。その瞳の色は灼(や)けつくように激しかったのだ。

 

 その夜の勘定は私が払ったんだろうと思う。きれぎれの意識で覚えているのは、それから二人がもつれ合って駅の方に歩いて行った事や、電車の中で転んだりしたことで、しらじらと物憂(う)い朝が明けた時に、私が重い頭をかかえて起き直り給料袋をしらべたら、大体そこばくの金がそれから減っていた。私は頭の片すみで鈍く後悔を感じながら、それでも身仕度をととのえて河岸の事務所に出かけて行った。階段を登って室に入ると老人はもはや来ていた。言葉少くあいさつしただけで、昨夜のことには深く触れなかった。社長がやがてやって来て仕事が始まると、老人は何時ものような堅い顔になって金庫をあけ立てしているらしかった。私は廻された伝票を然るべく抜いて公定価に計算し直していた。掘割の向う岸には今日も同じく車や人が通り、水面からはほのかに蒸気が立ちのぼる。気温が高まるらしかった。

 金庫がギイと鳴って、ふと私の視線が其処に走ったとき、私が見たものは老人の掌に握られた紫色の札束が、私の場所から定かに見えるほど、それははっきりと慄えていたのだ。そしてそれは直ぐ社長の手に渡された。何でもないように卓をはさんで、客との対話はまた続けられた。私は帳簿の陰から、痛いものを見るような気持で、老人の顔をぬすみ見ていた。それは苦渋(くじゅう)に満ちたむしろ険悪な表情であったのだ。私は老人のその表情の中に、はっきりと、私が抱く欲望と同じいろの欲望を読んだ。

 私は何だか胸をしめつけられるような思いで、老人から視線を離し得ないでいた。

 客が帰って又新しい客が訪れ、そんな具合に何時ものような時間が過ぎて行った。札束がそこを動く度に、私は何時もと違った気持で視線を走らせた。老人の指はその度にいちじるしくわなないた。此の哀れな老人の心が、あの不逞な願望にしっかと摑(つか)まれていて、しかも気持をそこで必死に抵抗させようとしていることが、その苦しそうな表情で、私の胸に痛いほど響いて来た。

「さて、さて――」

 私は口の中でそんなことを呟(つぶや)きながら、ペンの柄でしきりに机の面をこすった。昨日までの私の欲望よりもっとはっきりした欲望が、私の心を満たして来るのを私は意識し始めていた。現在の不幸から逃れ得る唯一の実体として、その紫色の束は私に訴えて来るようであった。あの老人の指の慄えは、右はや私が彼に仮託した欲望の象であった。

(あの老いぼれが、金を持ち逃げしようとしている)

 私は卓に倚(よ)った社長の、はがね色の冷酷そうな横顔をちらちらと盗み見た。そして金を拐帯(かいたい)して姿をくらまそうとする気持の踏切りが、今やっと形を取って来るのを感じた。[やぶちゃん注:「拐帯」人から預かった金や品物を持ち逃げすること。]

 そして日射しが掘割にじゃれ始め、部屋の天井にその余映を投げる頃、社長は喫いかけの煙草を灰皿に押しつぶして立ち上った。鋭い視線が一巡させると低い声で、では、と言って扉の外に出て行った。怪談を踏む足音が一歩一歩低くなって行った。しかし何時もと違って変に硬い空気がまだ張りつめていたのだ。

 松尾老人が煙管(きせる)をたたく音がいやにはっきり響いた。

 給仕女が電熱器から薬罐(やかん)をおろして茶を入れ、足音をしのばせて配って歩いた。電熱器の音が止むと、天井をまつわり飛ぶ蠅(はえ)の羽音がしつこく続いた。

 その時老人がふいに私に声をかけて来た。何か不自然な響きがその声音にこもった。[やぶちゃん注:「声音」「こわね」と読んでおく。]

「昨夜、あれから帰りましての、部屋を出て呉れと言うのを、こっちは酔ってるもんだから怒鳴りつけてやって、大喧嘩になって山妻(さんさい)が泣きわめいたりしましての」

 老人はそこで苦しそうな笑い声を立てた。[やぶちゃん注:「山妻」「田舎育ちの妻」という感じで、自分の妻を遜(へりくだ)っていう卑語。「愚妻」に同じ。]

「あんた昨夜、神様などいないと言われたな。ほんとに神様も仏様もありませんじゃ」

 老人の顔は一日で年老いたように、額に深い筋が刻みこまれていた。

 そして、その日もまた水面に陽光がうすれ、河岸に夕刊の列が並んだ。

 さて、と私は呟きながら帳簿を閉じた。給仕女は既に立ち上って壁にかけた鏡を見ながらパフを使っていた。松尾老人は立ち上った私の顔に、奇妙な笑いを眼に浮べて視線を定めた。

「そろそろお終(しま)いにしますかな」

 声が変にかすれた。

 給仕女は一寸身体をひねって鏡の前で形をつくると、お先に、とあいさつして部屋を出て行った。うすいスカアトが扉のあおりで一寸なびいて消えた。

 私は何となく鏡に立った。瘦せた私の顔が変に黒みを帯びて其処にあった。それを眺めるのが苦痛なので眼をずらした。鏡面に松尾老人が金庫の前にしゃがんでいる処がうつった。老人の手が素早く動いて、札束をひとつ引抜いた。その瞬間を私の眼ははっきりとらえたのだ。私は思わず眼を閉じた。

 私の背後で、金庫の扉をしめる乾いた音がした。文字盤を廻す響きがそれにつづいた。私は眼を閉じたままでそれを聞いた。老人が立ち上る気配がした。

 動悸が次第に高まって来るのを感じながら、私は乱れた想念をまとめようとした。このまま、老人の所業を見逃せばどういうことになるのだろう。老人はうまいこと逃げ終せるか、または捕まるだろう。そして私は――私は、また表面は何でもない姿で此の事務所に勤めつづけるだろう。貧乏しているということに毎日腹を立てつづけながら、平凡な惨めな日々を過して行くだろう。

 私は眼をひらいた。

「松尾さん。もう金庫はしめたんかね」

「ええ、ええ」

 うちひしがれたような老人の声がした。

 私は全身からにじみ出る冷汗を感じながら、ゆっくり老人にむきなおると、私自身をも虐殺したいような切迫した思いにかられつつ、机を背にして蒼ざめた老人の方に一歩一歩近よって行った。

 

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