北原白秋 邪宗門 正規表現版 旅情
旅 情
――さすらへるミラノひとのうた。
零落(れいらく)の宿泊(やどり)はやすし。
海ちかき下層(した)の小部屋(こべや)は、
ものとなき鹹(しほ)の汚(よ)ごれに、
煤(すす)けつつ匂(にほ)ふ壁紙(かべがみ)。
廣重(ひろしげ)の名をも思(おもひ)出づ。
ほどちかき庖厨(くリや)のほてり、
繪草子(ゑざうし)の匂(にほひ)にまじり
物(もの)あぶる騷(さや)ぎこもごも、
燒酎(せうちう)のするどき吐息(といき)
針(はり)のごと肌(はだ)刺(さ)す夕(ゆふべ)。
ながむれば葉柳(はやなぎ)つづき、
色硝子(いろがらす)濡(ぬ)るる巷(こうぢ)を、
橫濱(はま)の子が智慧(ちゑ)のはやさよ、
支那料理(しなれうり)、よひの灯影(ほかげ)に
みだらうたあはれに歌(うた)ふ。
ややありて月はのぼりぬ、
淸らなる出窓(でまど)のしたを
からころと軋(きし)む櫓(ろ)の音(おと)。
鐵格子(てつかうし)ひしとすがりて
黃金髮(こがねがみ)わかきをおもふ。
數(かず)おほき罪に古(ふ)りぬる
初戀(はつこひ)のうらはかなさは
かかる夜(よ)の黑(くろ)き波間(なみま)を
舟(ふな)かせぎ、わたりさすらふ
わかうどが歌(うた)にこそきけ。
色(いろ)ふかき、ミラノのそらは
日本(ひのもと)のそれと似(に)たれど、
ここにして摘(つ)むによしなき
素馨(ジエルソミノ)、海のあなたに
接吻(くちつけ)のかなしきもあり。
國を去り、昨(きそ)にわかれて
逃(のが)れ來し身にはあれども、
なほ遠く君をしぬべば、
ほうほう……と笛はうるみて、
いづらへか、黑船(くろふね)きゆる。
廊下(らうか)ゆく重き足音(あしおと)。
みかへれば暗(くら)きひと間(ま)に
殘(のこ)る火は血のごと赤く、
腐(くさ)れたる林檎(りんご)のにほひ、
そことなく淚をさそふ。
三十九年九月
[やぶちゃん注:「素馨(ジエルソミノ)」イタリア語「gelsomino」(ジェルソミーノ)で、ジャスミン(英語:jasmine)、シソ目モクセイ科 Jasmineae 連ソケイ属 Jasminum(タイプ種はソケイ Jasminum officinale)の香料を採るジャスミンの総称。ソケイ属は世界で約三百種がある。これは思うに、森鷗外のアンデルセンの翻訳「卽興詩人」(イタリアを舞台とした恋物語。明治二十五年から三十四年(一八九二年~一九〇一年)の約十をかけてドイツ語版から重訳して断続的に雑誌『しがらみ草紙』などに発表、初刊版「即興詩人」は明治三五(一九〇二)年に春陽堂から刊行された)の中の「花祭」のパートで、カンツォーネを歌うシーンの歌詞の訳中に(岩波文庫版を持っているはずなのだが、見当たらぬので、国立国会図書館デジタルコレクションの大正三(一九一四)春陽堂刊の画像(ここ)を視認した)、
*
„―Ah rossi, rossi flori,
Un mazzo di violi!
Un gelsomin d'amore―”
あはれ、赤き、赤き花よ。
堇(すみれ)の束(たば)よ。
戀のしるしの素馨(そけい)〔ジエルソミノ〕の花よ。)
この時あやしく咳枯しはがれたる聲にて、歌ひつぐ人あり。
„―Per dar al mio bene!”
(摘みて取らせむその人に。)
*
とあるのをインスパイアしたものと推測する。]