堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 春山
春山
伊那の郡〔こほり〕福岡といふ里に彥四郞といへる農あり。家、富榮えて、いと目出度〔めでたく〕暮しける。或時、都方より來りけるとて、春山〔しゆんざん〕といへる年若き僧、一宿せしに、いたはる事ありて、かりそめに、四、五日、休〔やす〕らひしに、定まれる時や至けん、今は早、枕もあがらず、湯水さへも咽〔のど〕をうるほさぬ程になりし時、彥四郞に、
「逢〔あひ〕申度〔まうしたく〕ぞ侍れ。願くは、沐浴して、服、改め、對面せばや。」と望〔のぞみ〕ければ、ひんなふは覺えけれど、その樣〔さま〕、氣高〔けだか〕う見へしまゝ、頓〔やが〕て沐浴し、服、改〔あらため〕て出向〔いでむき〕て對面しける。彼〔かの〕僧、申〔まうし〕けるは、
「主人の、此頃、馳走は、誠に、いつの世にかは忘れ侍るべきや。我は武者小路中納言殿の弟にて、歌行脚〔うたあんぎや〕せばや、と諸國を廻りしに、此處〔このところ〕に至り、かりそめの風心地〔かぜごこち〕にありしに、定業〔じやうごふ〕にやありけん、今は、はや、ながらふべうも覺えず。此上の結構には、此消息、都へ屆け給はれ。」
と申置〔まうしおき〕て、その朝〔あした〕の、露と消〔きえ〕ぬるこそ哀〔あはれ〕なれ。實に寬政三亥〔ゐ〕の正月二十三日にぞ有〔あり〕ける。
都へ消息遣はしけるに、詞〔ことば〕はなくて、一首の歌をぞ、書〔かき〕たりける。
志らぬ野の露とそ消る月花を
雲井にめでし折もありしに
武者小路殿、かなしびの餘りに、あはれ、いま、そのはらからの名の、うさにありとも告〔つげ〕で、消〔きゆ〕るはゝ木々。
その塚、今、福岡にあり。
[やぶちゃん注:「春山」向山氏の補註に、『藤原友信』(宝暦一〇(一七六〇)年~寛政四(一七九二)年)、『三条右大臣藤原季晴の三男』。『水無瀬家を継ぎ、従四位上左近衛少将となる。安永五』(一七七六)『年位記返上、東山に幽居し、和歌を事とし、羽林院霞水、また、春山と号した。天明四』(一七八四)『年、諸国遊歴に出、寛政三年正月十三日』(元恒の日付は誤りということになる)『信州伊那郡福岡の福沢家にて歿。墓に霞水翁塚と記し、翌年、その霊を祀り』、『羽林宮と名づけ、いずれも現存する』とある。ところが、この父である藤原季晴という人物、ネットでは調べても、右大臣なのに一向に掛かってこない(一つ、伊那谷研究団体協議会の雑誌『伊那』(20051209)と標題する検索結果内に『水無瀬霞水翁春山 水無瀬友信 三, 宮下 一郎, 伊那, 1969年5月, 文学, 伝記, 近世, 水無瀬霞水春山, 駒ヶ根市福岡』という文字列を見出せるのだが、このリンクはXLSファイルと称しながら、安全なダウン・ロードが出来ない)。されば、この藤原友信も、そして、実兄「武者小路中納言殿」というのも全く判らぬ。識者の御教授を乞うものである。
「伊那の郡福岡」向山氏の補註に、『現、長野県駒ケ根市赤穂福岡』とある。ここ。
「ひんなふは覺えけれど」恐らくは「びんなふ」で「びんなく」「便無く」かと思われる。「感心できない」「いたわしい」の意であろう。彦四郎は、春山の病が重く、そのようなことは「感心しない」、病身にはよくないと思ったという意か、春山自身が死期の近いことを察してそのように対面を申し出たのであろうことを思うと、あまりに「いたわしい」と思ったものの、意と思われる。
「主人の、此頃、馳走は」御主人のこの頃の御待遇は。
「志らぬ野の露とそ消る月花を雲井にめでし折もありしに」整序する。
しらぬ野の露とぞ消ゆる月花(つきはな)を
雲井(くもゐ)にめでし折りもありしに
「雲井」は宮中のこと。
「うさにありとも告〔つげ〕で、消〔きゆ〕るはゝ木々」これは「源氏物語」の「帚木」(ははきぎ)の帖に出る、空蟬の歌、
數ならぬ伏屋(ふせや)に生(お)ふる名の憂(う)さに
あるにもあらず消ゆる帚木
「かくも見すぼらしいあばら屋に生い立ちました私(わたくし)の身の儚さ故に、目には映っても、これ、触られることさえもない帚木のように、私はあなたの前から姿を消すので御座います」という謂いの歌をインスパイアしたものである。]
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