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2020/11/01

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鹽井

 

 鹽井

 

 鹿鹽〔かしほ〕といふ山里に、おほきなる岩の下より鹽水〔しほみづ〕のしたたり落〔おつ〕るありて、里人、朝夕に汲〔くみ〕て食用とす。

 「白紙物語」にいふ。『むかし、鹿、來りて、此岩の上にて死したり。跡を見れば、かく鹽の湧出(わきいで)にき。さて「鹿鹽村」となん、名付〔なづけ〕たる』とぞ。

 私〔わたくし〕にいふ。是、河より鹽の出〔いづ〕るをもて、「河鹽」と唱へしを、後に「鹿鹽」と改〔あらため〕て、附會の說なせしなるべし。

 甲斐の國巨摩郡〔こまのこほり〕にも、鹽の出〔いづ〕る處ありけるよし、「甲斐名勝志」に見ゆ。また、入谷〔いりのや〕山中に、鹽水のありける事、友人石川氏語りき。皆、この鹿鹽山の前後にあたれり。

 蜀に鹽井〔しほゐ〕有、「本草」に見ゆ。また、井鹽、山鹽、池鹽、木鹽、石鹽等の事、「琅琊代醉篇〔らうやだいすいへん〕」に見えたり。こは所謂〔いはゆる〕、鹽井なるべし。されども、「五雜俎」に、『蜀の鹽井は、物をもて投〔とう〕ずれば、鹽となる』と、いへり。これと同じからず。

 

[やぶちゃん注:「鹽井」塩水が湧き出す井戸或いは自噴泉。地下に岩塩層があり、それに地下水が触れているものと思っていたが、そうではないらしい。ウィキの「鹿塩温泉」(かしおおんせん)によれば、含硫黄ナトリウム塩化物冷鉱泉で、源泉温度摂氏十四度で、塩分濃度は海水と同じ四パーセントで、『含まれるミネラル分が異なることから、断層(中央構造線)に閉じ込められた化石海水ではないとされている』とあり、「歴史」の項には、『建御名方神』(たけみなかたのかみ:諏訪大社の祭神)『が鹿狩りをしている時に鹿が塩水を舐めているのを見て発見したとか、弘法大師がこの地を訪れた時に村人が塩に困窮していることを知り持っていた杖で地面を突いたところ、そこから塩水が湧出したといった開湯伝説がある』ことから、『相当古い時代からこの塩水が利用されてきたことがわかる』。『南北朝時代に南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り、南朝方の拠点とできたのも、塩があったからだといわれている』。明治八(一八七五)年に『旧徳島藩士・黒部銑次郎が岩塩を求めて塩泉の採掘を始め、大掛かりな製塩場を設置し、食塩製造を行った』が、『岩塩は結局』、『発見することができず、塩水が湧出する理由は未だに謎である』とある。また、「大鹿村」公式サイト内の「温泉情報」を見ると、この大鹿村には、鹿塩温泉と小渋(こしぶ)温泉があり、『大鹿村の鹿塩(かしお)地区には、海水とほぼ同じ塩分濃度の塩水が湧き出ています。山深い里になぜ塩水が? その原因は未だにわかっていません。伝説によれば、神代の昔、諏訪大社からこの地へ移り住んだ建御名方命(たてみなかたのみこと)が、大好きな鹿狩をしていた際、鹿が好んで舐める湧き水を調べたところ強い塩分を含んでいることを発見したと言われています。また、もう一説には、弘法大師がこの地を訪ね、山奥で塩の無い生活に苦労する村びとを憂いて杖を突いたところ、そこから塩水が湧き出たとも言われています』。『昔から鹿塩地区には地名に塩がつく場所が多い』土地で、『人の名前にも小塩、大塩、万塩など、やはり塩がつく方が多くいらっしゃいます。塩が湧き出る場所は、村を南北に貫く大断層「中央構造線」の東側に全て集中していることから、この地質がなんらかの原因になっているとも考えられていますが、これもまだ立証されるに至っていません。いずれにしても、山深い村に湧き出るこの塩が、煮物や漬物、味噌、醤油の製造など、村人の生活に決して欠かす事のできない宝として利用されてきたことは想像に難くありません』とある。サイト「MONEYzine」のブログ記事『日本各地の「山塩」にあらためて注目集まる海塩とは異なる独特の味わい』(阪神裕平・加藤秀行著)に、『「山塩(やまじお)」と呼ばれ、日本各地の山間部にある温泉地産の塩が注目を浴びている。山の塩といえば岩塩が有名だが、太古の海水成分が“化石”となった岩塩に対して、山塩は温泉などの高温の地下水に溶けだしたものとされ、海とは縁のない場所では古くから貴重な塩の供給源として利用されてきた。味も海水とは異なる独特のおいしさがあるという』。『山塩を、いますぐに自宅で味わいたい派は』「会津の山塩(やまじお)」(税込七百二円。四十グラム一瓶より。福島県耶麻(やま)郡会津山塩企業組合)を『取り寄せてみたい。同商品は、磐梯山のふもとに位置する大塩裏磐梯温泉の温泉水を煮詰めたものだ。温泉の始まりは、弘法大師によって弘仁年間』(八一〇年~八二四年)『とのいい伝えもあり、そのルーツはいまから約』千二百年前に遡る。『山塩づくりは江戸時代には隆盛を極めたが、その後の専売制度もあり、いったんは途絶える。しかし』二〇〇五年に『村おこしの一環として復活し』、二〇〇七年より『本格的な再開となり、今日にいたっている』。『山塩を味わいに出かける。こちらの販売は現地のみだ。それが長野県下伊那郡にある塩辛い温泉、鹿塩(かしお)温泉の山塩。開湯は神代の時代とも、ここでも弘法大師が尽力との伝えもある同温泉で、本格的な山塩づくりが始まったのは明治中期からだそうだ。だが先の会津同様に、諸般の事情で一時中断。再開は』一九九七年で、『いまも鹿塩温泉 湯元 山塩館の手により』、『つくり続けられている。味は、塩辛さのなかに甘味を感じる独特のおいしさが特徴で、かつて大正天皇ご成婚の際にも献上されたという。さて、味とともに気になる山塩の価格は』税込五百三十円(五十グラム。一袋。また、購入数は一人一袋までに制限されている)。『山塩を自らがつくることもできる。甲斐駒ヶ岳温泉 尾白(おじろ)の湯は、名水・森・人がテーマの白州・尾白の森名水公園』『(山梨県北杜市/運営はアルプス・本社:山梨県中巨摩郡)内に湧く塩分の強い温泉』があり、『公園内では、体験イベントとして「森の学校 おいしい教室」も行われており、塩づくりもそのひとつ。つくり方はいたってシンプルで、温泉水を土鍋で煮詰める』一『鍋につき』、『対応人数は』二『名から』五『名』(費用千円から)。なお、『塩づくり体験は、火にかけた土鍋を根気よくかき回すと、長時間の暑さがともなう作業。そのため開催は、秋から春先と季節限定となっている。今度寒くなったら山塩づくりに甲斐の国へ。ユニークなグルメ旅にはなりそうだ』とある。大鹿の塩井は、また、「諸國里人談卷之一 塩の井」(作家菊岡沾涼(せんりょう)が寛保三(一七四三)年に刊行した怪奇談への傾きが有意に感ぜられる百七十余話から成る俗話集。私は本カテゴリ「怪奇談集」で全電子化注を完遂している)にも登場する。なお、さらに、これらの近く、伊那の市街地にも長野県上伊那郡南箕輪村塩ノ井(グーグル・マップ・データ)の地名も見出せたので、指示しておく。

「鹿鹽」現在の長野県下伊那郡大鹿(おおしか)村鹿塩(かしお)(グーグル・マップ・データ)。拡大すると、鹿塩地区を東から西へと流れる塩川があるが、上記の塩水は、この川沿いに湧出している。なお、元恒は得意になって「鹿」は「河塩(かはしほ)」が縮約されて「かしほ」となり、「鹿」の話は後付けの牽強付会だと言っているが、私は反意を示す。鹿は確かにこの塩水を舐めに来たのだ。それを見つけた太古の人が鹿が舐めに来た塩の湧き出るところとして、「鹿塩」と名づけたに違いない。草食動物は塩分を補給しないと死んでしまうからである。「JA長野県」公式サイト内の「塩水の湧泉から採取される大鹿村の山塩の謎」にも、『歴史をひも解くと、西暦』八百『年代にまでさかのぼります。当時、上下諏訪社の領地として管理され、塩を産出するこの地には、多くの牧場が作られ、貴重な塩分が与えられた良馬が育ち、諏訪社の祭りや農耕に重宝されていたと伝えられています。草食動物は、尿と一緒にカリウムと多量のナトリウムが出ていくため、補うためにどうしても「塩」が必要になります』とある。しかも、鹿は諏訪大社の祭祀とは非常に密接な関りを持ってもいる(前の「諏訪湖」の注で私が引用した「笈埃随筆」の「諏訪不思議」を見られよ)。元恒の如く、知ったかぶりした言語学で一刀両断には出来ない民俗社会的な意味合いを含んだ奥深い地名なのである。


 

「白紙物語」先の「蜜蜂」の私の注を参照されたい。

『甲斐の國巨摩郡〔こまのこほり〕にも、鹽の出〔いづ〕る處ありけるよし、「甲斐名勝志」に見ゆ』「甲斐名勝志」は萩原元克(もとえ)著になる天明三(一七八三)年に完成した甲斐国の総合的地誌。萩原は寛延二(一七四九)年甲斐国山梨郡一丁田中村(現在の山梨県山梨市一町田中)に生まれ、文化二(一八〇五)年に没した国学者・歌人・歌学研究者。天明七(一七八七)年には本居宣長に師事し、甲斐国へ本格的な国学を導入した人物として知られる(以上はウィキの「萩原元克」に拠った)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の同書の写本のこちら(PDF)の「甲斐名勝志巻之四」の「巨摩郡小之部」の18コマ目の「鳳凰山」の記載の最後に(右頁後ろから四行目。漢文の一部の訓読が不全なので、( )で補った)、

   *

奈良田に塩井あり、潮湧(シホワキ)出る。「本原認因」に『塩井者、今、帰州及四川諸郡、皆、有塩井。汲其水、以(テ)(ㇾ)。如(ル)海水。』とあれば、是、其類なるべし。又、溫泉にて、奈良田溫泉と云。

   *

とある。「本原認因」は漢籍であるが、不詳。「帰州」は唐代から民国初年にかけて現在の湖北省宜昌市一帯に設置された州名。奈良田は現在の山梨県南巨摩郡早川町奈良田で、ここ(グーグル・マップ・データ)。私は友人と北岳に登攀しようとして、天候が悪化したために中止し、ここに一泊して帰ったことがある。

「入谷〔いりのや〕山中」底本の向山氏の補註に『天竜川に注ぐ三峯川の上流の渓谷を入野谷とよぶ。現、長野県上伊那郡長谷村』とある。現在は大鹿村の北方五キロメートルほどの、長野県伊那市長谷市野瀬付近に相当する(グーグル・マップ・データ)。塩井は現在は確認出来ないが、この駒ヶ根から南アルプス方面へ向かった分杭峠(ぶんぐいとうげ)一帯は中央構造線(フォッサ・マグナ:ラテン語:Fossa magna」:「大きな溝」の意)の上に位置しており、そこではN極とS極の磁場が拮抗するゼロ磁場状態となっているとされ、水の性質も普通とは異なるとも言われている。但し。それと何か関係があるかどうかは判らない。

「友人石川氏」元恒の友人らしいが、不詳。

「鹿鹽山の前後にあたれり」大鹿村から長谷市野瀬の、丁度、中間点に入野谷山(いりのややま)がある(グーグル・マップ・データ)が、「前後」という謂いからは、この山の異名か。しかし、「鹿塩山」は確認は出来なかった。

『蜀に鹽井〔しほゐ〕有、「本草」に見ゆ』「本草綱目」巻十一「金石之五」の冒頭にある「食鹽」に『蜀中鹽小淡、廣州鹽鹹苦、不知其爲療體復有優劣否』とある。これは明らかに岩塩由来であろう。

「琅琊代醉篇」明の張鼎思(ていし)が、さまざまな漢籍から文章を集めて編纂した類書(百科事典)。一五九七年序。全四十巻。延宝三(一六七五)年に和刻され、曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」(文化一一(一八一四)年初編刊)を始め、複数の浮世草子等が素材として利用している。原本に当たれない。

「井鹽、山鹽、池鹽、木鹽、石鹽」「木鹽」は判らない。キントラノオ目ヒルギ科 hizophoraceae 等の熱帯及び亜熱帯地域の河口汽水域の塩性湿地に於いて植物群落や森林を形成する常緑の高低木のマングローブ(英語:mangrove)林を形成する木本の中には、塩を晶結させる種はある。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻四の地部二にある以下の一節。

   *

蜀有火井、其泉如油、熱之則然。有鹽井、深百餘尺、以物投之、良久皆化爲鹽、惟人發不化。又有不灰木、燒之則然、良久而火滅、依然木也。此皆奇物、可廣異聞。魯孔林聞亦有不灰木、取以作爐、置火輒洞赤、但餘未之見耳。

   *]

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