堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 河童 / 信濃奇談 卷の上~了
河童
羽場村〔はばむら〕に天正の比〔ころ〕、柴河内〔しばかふち〕といふ人、住〔すみ〕ぬ。ある時、馬を野飼〔のがひ〕にして、天龍川の邊〔あたり〕にはなち置〔おき〕けるを、河童といふもの、
『此馬、取〔とら〕ん。』
と、手綱とらへて牽〔ひき〕けるに、さながら、自由にもならず、かなたこなたへ行〔ゆく〕を、かの河童、繩をとらへかねてや、おのが腰に卷〔まき〕て、川へ引入〔ひきい〕れんとするに、馬は、
『ひかれじ。』
と、あらそひいどみけるが、河童、
『かくては、かなはじ。』
とや思ひけん、かの手繩を、だんだんに、おのが身にまとひつけて、力のあらんかぎり、あらそひ、引く。
『今少し、此水の中へ引入〔ひきいれ〕たらんには、いかに大きなる馬なりとも、とらでやは置〔おく〕べき。』
と、いどむうち、時うつり、日、くれたり。
寔〔まこと〕や、小は大にかなひがたく、終〔つひ〕に、馬は、走り出して、おのが家へはしり來〔きた〕る。
河童は、繩をいく重〔え〕も身にまとひたれば、とくに、いとまなく、ひかれ來〔きた〕るざま、人々、はしり出て、
「あなめづらし、希有〔けう〕の事哉〔かな〕。」
と集ひよりて、きびしくしばりつなぎて、厩〔むまや〕の柱にくゝりつけ置〔おき〕ぬ。
あるじ、仁心ある人にて、無益に殺すも、さすがにあはれみて、繩、解〔とき〕て、はなちけり。
その後〔のち〕、その恩を報ぜんにや、川魚など取〔とり〕て、戶口におきし事、度々ありし、と「小平物語〔こだひらものがたり〕」に見へたり。
今も猶、里老は語り傅ふ。近き比にも、河童の小兒など、取〔とり〕ける事、多くあり。
「河童」とかきて、「かつぱ」とよぶは、「かはわつぱ」の略なり。
「本草」、『「溪鬼蟲〔けいきちゆう〕」の「附錄」に、「水虎〔すいこ〕」といへるは、此たぐひにや』と、貝原翁、いへり。
私〔わたくし〕にいふ。是、水獺〔かはをそ〕の老〔おひ〕たるものにや。
貝原翁、又、いふ。「淮南子〔ゑなんじ〕」に『魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯』。「左傳注疏」に『魍魎は川澤〔せんたく〕の神なり』と見えたる、この河童に似たり」云云。
信濃奇談卷之上終
[やぶちゃん注:この話は『柳田國男 山島民譚集 原文・訓読・附オリジナル注「河童駒引」(8) 「馬ニ惡戲シテ失敗シタル河童」(2)』に引かれており、そこで私が注を附してあるので参照されたいが、そこでも引かせて戴いた、柴徳昭氏のサイト「Local History Archive Project」の「新蕗原拾葉/地域の歴史資料をアーカイブ・閲覧ライブラリー」が非常に詳しく、後に出る「小平物語」の抄出と訳もある。この話の部分はそこにはないが。先のリンク先(私の柳田のそれ)で引用したが、本篇の河童の話は独立項「言い伝え」のパートに「羽場淵のカッパ伝説(戦国)」としてあり、サイト主の柴氏(柴氏の後裔であられるのかも知れない)の優れた考証も添えられてあるので、まずはそちらを見られたい。なお、河童は言わずもがな、私の怪奇談にはそこら中にあるし、上記にリンクさせたものを含め、カテゴリ「柳田國男」では、「山島民譚集(河童駒引・馬蹄石)」の電子化注も終わっている。
「羽場村」向山氏の補註に『現、長野県上伊那郡辰野町羽場』。ここ(グーグル・マップ・データ)。現在の町域では、北部が天竜川沿いに当たる。
「天正の比」一五七三年から一五九二年。
「柴河内」これは「柴河内守」の名乗りの略。先の柴徳昭氏のサイトの「小平物語」の「人物相関」の系図を見るに、柴姓で「太兵衞」とを名乗ったのは、柴清五郎の子で、「小平物語」によれば、この主人公であるが、『河内守の子』(ということは清五郎は河内守ということになるが、調べた限りでは史料にはない)であり、慶長二〇(一六一五)年の『大坂夏の陣で討死』したとする。別資料では『柴太兵衛盛次』と名を出し、『保科家に仕え』、『大坂夏の陣で討死』とし、さらに『河内守氏清から百年後の人』物とする。この河内氏清というのは柴河内守、天正一〇(一五八二)年の織田信長侵攻(武田氏が滅亡した「天目山の戦い」)の際に武田方の羽場城を守った人物であろう。とすると、この河童伝説の「柴河内」は、この柴河内守氏清の可能性も出てくる。しかし、この氏清から百年後の人物とするのも時制上、これ、腑に落ちない。伝承であるから、この辺りの詮索はあまり意味はないとも言えるか。個人的には前者の方がそれらしくは思われる。
「小平物語」ネット上では如何なる異なる方の記載したページを見てもルビが振られていないので、かく読んでおいた。向山氏の補註に『小平向右衛門』(慶長一〇(一六〇五)年~元禄(一六九六)年)『が、天文以来の甲信戦乱の有様や、その一族の動静を物語風に筆録したもの。向右衛門は』『兄、伊太夫の養子となり、長じて漆戸向右衛門正清と改め、江戸に出て幕府に仕え、致仕後、小河内(現、長野県上伊那郡箕輪町小河内)に住み、貞享三(一六八六)年』に『この物語を書』いたとある。本書が続編に含まれている信濃地誌「蕗原拾葉」の正編にこの「小平物語」は含まれており、幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている昭和一〇(一九三五)年長野県上伊那郡教育会編の「蕗原拾葉」第一輯のここから当該談を視認出来る。縦覧するに、所謂、軍紀物である。この話は、同書の「第三十一 天流川[やぶちゃん注:ママ。]由來柴太兵衞河童ヲ捕フル事 附タリ漆戶右門大蛇ヲ殺ス事」に含まれており、この条は他の実録(風)の内容とは性質を異にする面白い条である。関連する部分だけを電子化しておく。原文は漢字・カタカナ・ひらがな交じりであるが、カタカナはひらがなに直し、さらに一部の助詞・助動詞相当の漢字をひらがなにして(漢文訓読の定石に従ったまでのこと。原文と対象さされば判る)、句読点・濁点を打ち、段落を成形し、推定で読みを歴史的仮名遣で附した。
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爰に柴太兵衞(しばたひやゑ)迚(とて)、信玄公の幕下成(なり)しが居(をり)、住(すまひ)は羽場と云ふ處の、然(しか)も、屋敷下(しも)、天流川に、大き成(なる)淵(ふち)有(あり)。
或時、太兵衞、丈(た)け三寸(みき)[やぶちゃん注:馬の大きさを示す数詞。跨ぐ背までの高さが四尺三寸(一・三〇メートル)の馬。四尺を標準としてそれよりも高いものを寸単位で示し、読む場合には「寸(き)」と読んで弁別したもの。]の名馬なりしが、頃は六月中旬、彼(かの)淵にて右の馬を冷しぬるが、馬の尾に、何やらん、怪(あやしき)者、付(つき)ければ、馬、頻(しきり)に驚(おどろく)。舍人(とねり)などを踏倒(ふみたふ)し、逸散(いつさん)に厩に歸(かへり)ぬ。
太兵衞、折節、厩に行(ゆき)て馬を見る處に、年の程十四、五なるが、馬屋より、欠出(かけいだ)し、門前指(さし)て、飛(とん)で行(ゆく)。
日、沒しければ、物合(ものあひ)[やぶちゃん注:視野内の見た目の様態。]も聢(しか)と見えざる處に、太兵衛、自ら追欠(おひかけ)て留(とど)め、火を燈(とも)し、能(よく)見れば、物統(ものすべ)て猿のごとし。
頭(かしら)、凹(おう)にて紅毛〔あかげ〕、胴・手足、共に薄黑色。骨、太く逞しく、爪、長(ながく)、少(すこし)曲れり。力も三人力(さんにんりき)程はあり。右の手を挽(ひき)て見れば、左の手、右へ出る。左右共に斯(かくの)ごとし。
左有(さあり)て、獄籠(ごくろう)[やぶちゃん注:竹で編んだ駕籠状の拘束監禁具。囚人の移送などに用いた。]に入置(いれおき)ける。各(おのおの)先方(さきがたの)[やぶちゃん注:先ほどまでともにいた家来の、という意味か。]侍を呼集(よびあつめ)見せらるゝに、人に非ざる獸なり。
彼(か)の獣、云(いふ)は、
「『これ、馬名ゆへ[やぶちゃん注:ママ。「名馬ゆゑ」。]、龍宮へ來(きた)れ』との事にて、此くのごとし。」
と言(いひ)て泪(なみだ)を流し、詫言(わびごと)す。
「命を助け給はらば、其かはりには柴一統に仇(あだ)をなし申間敷(まうすまじき)。何にても御用の魚を參(まゐ)らせん。」
との約諾なり。
「此淵に萬歳(まんさい)住む「河童」いふ獸なり。」
と申(まうす)に依(よつ)て、助け、又、夫(それ)より、大分、魚を淵の端に出(いだ)し置(おく)となん。
「二十ケ年程、『魚年貢(うをねんぐ)』を取(とり)し。」
と太兵衞のはなしを、某(それがし)十七[やぶちゃん注:異本は「十歲」とある旨の右注記が有る。]の時、聞くなり。[やぶちゃん注:中略。]太兵衞は「大坂(おほさかの)陣」の時、保科殿内(うち)にて、討死なり。
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元鎧の文(元恒の話)より遙かに読み物として優れている。特に河童の特異属性としての左右の手が繋がっている「通臂(つうひ)」であることを示す怪異描写は卓抜で、何故、原話をちゃんと採らなかったのか? と頗る訝しく思うほどである。さらに言えば、要するに、生半可に現実主義者だった元恒は河童の正体はカウウソであって、妖怪でも妖獣でも何でもないと高を括っていたのだろう。そんな倨傲に振舞うから――「流」謫されて――干された河童――にされちまったんじゃあ、ねえんかい?
『「本草」、『「溪鬼蟲」の「附錄」に、「水虎〔すいこ〕」といへるは、此たぐひにや』と、貝原翁、いへり』貝原益軒の「大和本草」の巻十六の「獸類」に以下のようにある。底本は中村学園図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」の同巻(PDF)の21コマ目を視認し、私のカテゴリ『貝原益軒「大和本草」より水族の部【完】』の凡例と同じ仕儀で電子化した(但し、原文電子化は省略した)。
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【和品】[やぶちゃん注:以上は本文罫外の頭書。【 】は私が本文と区別するために施した。]
河童(かはたらう) 處々、大河にあり。又、池〔の〕中にあり。五、六歳の小兒のごとく、村民・奴僕の獨行する者、往々、河邊に於いて之れに逢へば、則〔すなはち〕、精神昏冒〔こんばう〕すと云〔いふ〕。此物、好んで、人と相〔あひ〕抱〔いだ〕きて、力を角〔きそ〕ふ。其の身、涎〔よだれ〕、滑〔かつ〕にして捕り定めがたし。腥臭〔なまぐさきにほひ〕、鼻に満つ。短刀(わきざし)にて刺さんと欲すれども、中〔あた〕らず。力を角〔きそ〕ふて、人を水中に引き入れて殺すこと、あり。人の勝つこと、あたはざれば、水に沒して、見ゑず[やぶちゃん注:ママ。]。其の人、忽ち、恍惚として夢のごとくにして、家に歸る。病むこと一月〔ひとつき〕許り、其の症、寒熱・頭痛・偏身疼痛。爪にて抓(かき)たるあと、之れ、有り。此の物、人家に、往々、妖を爲す。種々、怪異をなして人を悩す叓〔こと〕あり。狐妖に似て、其の妖、災ひ、猶ほ、甚し。「本艸綱目」、「蟲部」「濕生類」「溪鬼蟲」の「附錄」に水虎あり。此れと相ひ似て、同じからず。但〔ただ〕、同類別種なるべし。於中夏の書に於いて、予、未だ此の物有るを見ず。
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益軒の言っているのは、「本草綱目」の「蟲之四」にある。「溪鬼蟲」の「附錄」にある、
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水虎【時珍曰、『「襄沔記」云、『中廬縣有涑水注沔中有物。如三四歲小兒、甲如鱗鯉。射不能入。秋曝沙上膝頭。似虎掌爪、常没水出膝示人。小兒弄之、便咬。人人生得者、摘其鼻可小小使之。名曰「水虎」。】
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水虎【時珍曰はく、『「襄沔記(じやうべんき)」に云はく、『中廬縣に涑水(そくすい)有り[やぶちゃん注:山東省に実在する川。]。「注」[やぶちゃん注:恐らくは古い地誌として知られる、北魏の「水経注」(すいけいちゅう:酈道元(れき どうげん 四六九年~五二七年)撰で、五一五の成立と推定される )のことと思う。]に、「沔の中に物有り。三、四歲の小兒のごとく、甲、鱗鯉(こひ)のごとく、射ても入る能はず。秋、沙上に膝頭(ひざがしら)を曝す。虎の掌の爪に似、常に水に没し、膝を出だし、人に示す。小兒、之れを弄(もてあそ)べば、便(すなは)ち、咬(か)む。人人(ひとびと)、生(しやう)にて得るものは、其の鼻を摘(つま)みて、小小(しやうしやう)、之れを使ふべし。名づけて「水虎」と曰ふ』と。】
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とあるのを指す。まあ、これは、河童に似てるっちゃ、似てるかも知れんが、河童のルーツとは私には思われんね。
「水獺〔かはをそ〕」江戸以前の民俗社会では、獺(日本人が滅ぼしたユーラシアカワウソ亜種ニホンカワウソ Lutra lutra nippon)は狐狸に次いで人を化かす妖獣とされてきた経緯がある(そこに安易に通底してしまうところにこそ原恒の弱さがあると言える)。博物誌は私の「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 獺(かはうそ) (カワウソ)」を読まれたい。
「淮南子」前漢の高祖の孫で淮南王の劉安(紀元前一七九年?~同一二二年)が編集させた論集。二十一篇。老荘思想を中心に儒家・法家思想などを採り入れ、治乱興亡や古代の中国人の宇宙観が具体的に記述されており、前漢初期の道家思想を知る不可欠の資料とされる。
「魍魎狀如三歲小兒赤黑色赤目長耳美髯」「魍魎の狀(かたち)は三歲の小兒のごとく、赤黑色。赤き目、長き耳、美しき髯(ひげ)。」。これは、現在の「淮南子」には見当たらないようである。ただ、「中國哲學書電子化計劃」で「蛧」(「魍」の異体字)の検索結果を参考にすると、「説文解字」の「蟲部」に『魍魎、山川之精物也。淮南王說、「魍魎。狀如三歲小兒、赤黑色。赤目、長耳、美髮」。』とあり、また、「康熙字典」の「蟲部 六」の「魍」に『「唐韻」文兩切。「集韻」文紡切。竝音網。「說文」蛧蜽也。淮南王說、「魍魎、狀如三歲小兒。赤黑色。赤目、長耳、美髮」。』と出るので、或いは原「淮南子」にはあったものかも知れぬ。但し、そこでは孰れも「美髯」(びぜん)ではなく、「美髮」である。しかし、調べたところ、「説文解字繋傳」では、「美髯」となっている。
「左傳注疏」「春秋左傳注疏」。明の暫缺(ざんけつ)が「春秋左氏傳」を注釈したもの。以下は、巻二十一で「春秋左氏傳」の「宣公三年」の条にある、故事成句の「鼎(かなえ)の軽重(けいちょう)を問う」(権威ある人の実力を疑う。統治者を軽んじて、その地位を奪おうとするの喩え)の元となった部分の前半、
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昔、夏之方有德也、遠方圖物、貢金九牧、鑄鼎象物、百物而爲之備、使民知神姦。故民入川澤山林、不逢不若。螭魅罔兩、莫能逢之。用能協于上下、以承天休。
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昔、夏の方(かた)に、德、有らんとするや、遠方をば物に圖(ゑが)き、金を九牧(きうぼく)[やぶちゃん注:中国全土の古名。]に貢がしめ、鼎を鑄(い)て物に象(かたど)る。百物にして之れが備(そなへ)と爲し、民をして神姦を知らしむ[やぶちゃん注:神意と邪悪な怪異を区別出来るようにさせた。]。故に民は川澤(せんたく)山林に入りても、不若(ふじやく)[やぶちゃん注:邪悪なものの異変。]に逢はず、螭魅罔兩、能く之れに逢ふことも莫(な)し。用(も)つて能く上下(じやうか)を協(かな)へ、以つて天休(てんきう)[やぶちゃん注:天祐。天の助け。]を承(う)く。
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の「螭魅罔兩」(魑魅魍魎)に注した中に、
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螭魅山林異氣所生螭魁既山林之神則罔兩宜爲川澤之神故以爲水神也
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「螭魅」は山林の異氣の所生なり。螭魁は既に山林の神にて、則ち、「罔兩」は宜(よろ)しく川澤の神と爲すべし。故に以つて水神と爲すなり。
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これを見るに、注釈者である暫缺は自然界のシャーマニックな精霊をひっくるめて、「神であるが、人にとっては有害な仕儀を成す」と解釈していたことが判る。
「この河童に似たり」安易に過ぎる。本邦の河童を漢籍の「河伯」が元とする説もあるが、河童との強い共属性がなく、私は河童は殆んど本邦で誕生した水怪であると私は考えている。西日本(特に九州)の河童伝承の中には、河童は中国から渡ってきたとするものがあり、ウィキの「河伯」によれば、『日本では、河伯を河童(かっぱ)の異名としたり、河伯を「かっぱ」と訓ずることがある。また一説に、河伯が日本に伝わり』、『河童になったともされ、「かはく」が「かっぱ」の語源ともいう。これは、古代に雨乞い儀礼の一環として、道教呪術儀礼が大和朝廷に伝来し、在地の川神信仰と習合したものと考えられ、日本の』六『世紀末から』七『世紀にかけての遺跡からも河伯に奉げられたとみられる牛の頭骨が出土している。この為、研究者の中には、西日本の河童の起源を』六『世紀頃に求める者もいる』とするが、私は支持しない。]