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2020/12/01

南方熊楠 本邦に於ける動物崇拜(3:鼬)

 

○鼬、倭漢三才圖會卷三九に、鼬群鳴すれば、不祥と爲すとは、今も然〔しか〕信ずる人有り、或夜中有焰氣高昇如立柱、呼爲火柱、其消倒處必有火災蓋羣鼬爲妖也と斯る迷信今も存ずるや否を知らず、稍や之に似たるは、丁抹〔デンマーク〕國等に建築中材木より火出で飛ぶは、その家火災に罹る兆なりと傳ふることなれども、鼬の所爲たりと言はず(H. F. Feilbery, ‘Ghostly Lights.’ Folk-Lore, vol. vi. p.288 Seqq.  1896.)源平盛衰記卷十三に、鼬躍り鳴きて程なく、後白河法皇、鳥羽殿より還御のことあり、又義經記か曾我物語に、泰山府君の法を修して、成就の徵しに鼬現はるゝ話ありしと記憶すれば、別に崇拜されしと聞かざるも、古來邦人の迷信上、鼬はなかなか一癖ある獸と知られたり。

[やぶちゃん注:「倭漢三才圖會卷三九に、……」江戸前・中期の医師寺島良安(承応三(一六五四)年~?:生まれは出羽能代(一説に大坂高津とも)生まれの商人の子とされる。後に大坂に移って、伊藤良立・和気仲安の門人となり、医学・本草学を学んだ。後にこの業績が評価され、大坂城入りの医師となり、法橋に叙せられた。この間、明代の医学の影響を受けた著書を多く刊行した。その最晩年の事蹟は不明であるが、享保(一七一六年~一七三六年)の頃に没したとされる)の主著である正徳二(一七一二)年に刊行した類書(百科事典)「和漢三才圖會」(「和」は「倭」とも表記する。全三百巻から成り、明の類書「三才圖會」(明の一六〇九年に刊行された王圻(おうき)とその次男王思義によって編纂された。全百六巻)の分類・構成を参考にして執筆された本邦初の絵入り百科事典である。但し、本草部は、概ね、明の李時珍の「本草綱目」を基礎記載を用いている。本文は漢文体であるが、丁寧に訓点が打たれてある。私は本書を偏愛しており、サイトで「和漢三才圖會」の水族(海藻・海草・淡水藻の他に菌類・菌蕈類・蘚苔類・地衣類・シダ類等を含む)の部全七巻、

卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類

卷第四十六 介甲部 龜類 鼈類 蟹類

卷第四十七 介貝部

卷第四十八 魚類 河湖有鱗魚

卷第四十九 魚類 江海有鱗魚

卷第五十  魚類 河湖無鱗魚

卷第五十一 魚類 江海無鱗魚

及び、

卷第九十七 水草部 藻類 苔類

を、以下、一部を除いてブログで動物部の、

卷第三十七 畜類

卷第三十八 獸類

巻第三十九 鼠類

卷第四十  寓類 恠類(これはサイト版)

卷第四十一から巻第四十四 禽部

卷第五十二から巻第五十四 蟲部

を、実に十二年半かけてオリジナル電子化訓読注をし終えている。その「巻第三十九 鼠類」(良安は「本草綱目」に従い、鼠類に分類し、その最後に配している)の記載は「和漢三才圖會卷第三十九 鼠類 鼬(いたち) (イタチ)」にある。その内の訓読文を示す。下線太字は私が附した。

   *

「本綱」、鼬、狀〔(かたち)〕、鼠に似て、身、長く、尾、大〔なり〕。黃色に赤を帶ぶ。其の氣〔(かざ)〕、極めて臭し。其の毫〔(がう)〕[やぶちゃん注:細い毛。]尾と與(とも)に筆に作るべし。其の肉【甘、温。小毒有り。】〔は〕臭し。此の物、能く、鼠及び禽〔(とり)〕・畜〔(けもの)〕を捕ふ。亦、能く、蛇・虺〔(まむし)〕を制す。

△按ずるに、鼬、其の眼、眩(かがや)き、耳、小さく、吻〔(くちさき)〕黒く、全體、黃褐色。身、長くして、柔〔かく〕撓〔(たをや)かなり〕。小〔さき〕隙〔(すき)〕・竹の筒と雖も、反轉して出でざるといふこと無し。能く、鳥・鼠を捕へて、惟だ、血を吮〔(す)〕ひて、全く、之れを食らはず。其の聲、木を輾(きし)る音のごとし。群鳴すれば、則ち、以つて不祥[やぶちゃん注:不吉の前兆。]と爲す。或いは、夜中、熖氣、有りて、高く升(のぼ)り、柱を立つるがごとし。呼んで、「火柱〔(ひばしら)〕」と稱す。其の消へ[やぶちゃん注:ママ。]倒るゝ處、必ず、火災、有りといふは、蓋し、群鼬、妖を作〔(な)〕すなり。

水鼬〔(みづいたち)〕 本(〔も〕と)、此〔の〕一種〔なり〕。常に屋壁の穴に棲みて、瀦池(ためいけ)を覘(ねら)い[やぶちゃん注:ママ。]、水に入りて、魚を捕る。性、蟾蜍(ひきがへる)を畏る。如〔(も)〕し、相ひ見るときは、則ち、鼬、困迷す。又、瓢簞〔(へうたん)〕を畏る。故に魚を養(か)ふ池邊に瓢簞を安(お)く。

   *

学名及び本邦産種群(四種七亜種ほど)はリンク先の私の注を見られたいが、江戸時代までの民俗社会では、上記の下線太字部で判る通り、狐狸同様に人間に化ける或いは人間を化かす妖怪として認識されていた。されば、古いその根元に於いては、敬して遠ざくるに若かざる獣魔神としてのトーテムの属性を有していたと考えてよい。謂わば、零落したのである。

H. F. Feilbery, ‘Ghostly Lights.’」この資料(「鬼火」或いは「妖火」「怪しき火光群」とでも訳しておく)は見当たらないが、欧文書誌資料(但し、英語ではなく、デンマーク語っぽい)の中に頻繁にこの「H. F. Feilbery」という人物の名が見える。民間の伝承研究家か。因みに、この作者と標題のフル・フレーズで検索すると、あろうことか、日本各地に伝わる怪火の一種である「天火」(てんか/てんび/てんぴ)のウィキを英訳した英語版タイトル「Tenka (atmospheric ghost light)」(空中の怪光現象)が一番にに掛かってくるのは面白い。熊楠もニンマリだろう。

Seqq.」は普通は「seqq.」で、ラテン語「sequentes」の略。「下記(以下)の」の意。

「源平盛衰記卷十三に、鼬躍り鳴きて程なく、後白河法皇、鳥羽殿より還御のことあり」所持する(平成六(一九九四)年三弥井書店版刊)「源平盛衰記(三)」で確認した。「法皇鳥羽殿より還御」の冒頭近くである。カタカナをひらがなに直し、漢字を正字化し、漢文表記部は訓読し、句読点・記号・改行も増やして示す。踊り字「〱」は正字化した。一部表記を別本で変えた。読みの誤りはママである。

   *

 一院は年をへて、月を重ぬるに付ても、「新大納言成親父子が如く、遠國遙(はるか)の島にも放遷さんずるやらん」と思召けるに、城南離宮にして春もすぎ夏にも成ぬれば、「さていかなるべきやらん」と御心ぼそく思召て、御轉讀の御經も彌(いよいよ)心肝に銘ジテ思し召されける。五月十二日の午刻に、赤く大なる鼬の何(いづ)より來り參たり共(とも)御覽ぜざりけるに、御前に參り、二、三返走り𢌞り、大に、きゝめきて[やぶちゃん注:鳴き叫びて。]、法皇に向ひ參(まゐらせ)て、躍上、躍上、目影(まかげ)[やぶちゃん注:後脚肢で立ち上がって、前肢を挙げ、その掌を両目の上に翳すこと。鼬は人を見ると、この行動をとるとされた。]なんどして失にけり。大に淺間しく思召て、

『禽獸鳥類の怪をなす事、先蹤多しといへ共、此獣は殊に樣有べしと覺たり。去(され)ば爰に籠(こめ)置たるも、猶、飽足らず思て、入道が、朕を死罪などに行(おこなふ)べき計(はからひ)などの有にや。』

と思召(おぼしめす)に付ては、

「南無一乘守護普賢大士・十羅刹女、助させ給へ。」

と御祈念有けるぞ、悲き。

 源藏人仲兼と申者あり、後には近江守とぞ申ける。法皇の鳥羽殿に遷され御座て參り寄(よる)人もなき事を歎けるが、思に堪ず、

『如何なる咎に合(あふ)とても、いかゞはせん。』

思て、忍つゝ參たり。

 法皇、御覽じて、

「哀、あれはいかにして參たるぞ。」

とて、やがて、御淚を、のごはせ給ふ。

「さても、只今、然々[やぶちゃん注:「しかしか」。鼬のそれを指す。]怪異あり、急ぎ聞召たく思召に[やぶちゃん注:自敬表現。]、折節、參りあへる事、神妙神妙。」

とて、御占形[やぶちゃん注:「おんうらかた」。占うべき対象を記した下し文であろう。]を賜て、

「泰親がもとへ。」[やぶちゃん注:陰陽寮陰陽頭(おんみょうのとう)安倍泰親。]

と勅定[やぶちゃん注:「ちよくぢやう」。]あり。

 仲兼、急ぎ京へ馳上り、院陽頭泰親が樋口京極の宿所に行向て、御占形を以つて勅定をのぶ。

 泰親、相傳の文書、よくよく披(ひらき)て見て、

「今月今日午時の御さとし、今三日が中の還御の御悅、後、大なる御歎也。」

と勘(かんがへ)申たり。

 仲兼、先(まづ)嬉くて、件の勘文を以て鳥羽の御所に歸參して、此由を奏す。

 法皇は、

「いさいさ、何故にか、左程の御悅は。」

と、思し召されける程に、法皇の御事、大將[やぶちゃん注:平宗盛。]、强(あながち)歎き申されけるによりて、入道、さまざまの惡事、思直て、同十四日、に鳥羽殿より、八條烏丸御所へ還入進す[やぶちゃん注:「かんじゆ、しんす」。還御すること。]。是にも軍兵、御車の前後に打圍てぞ候ける。

 十二日の先表[やぶちゃん注:前兆。]、同十四日の還御、三箇日の中の御悅と占申たりける事、つゆ違はず。

『「後の大なる御歎」とは、又、いかなる事の有べきやらん。』

と、御心苦く思召ける。

 法皇は、去年の十一月より、御意ならず鳥羽殿に籠らせ給ひて、今年五月十四日に御出ありしかば、幽(かすか)なりし御住居引替て、御心廣く思召ける程に、還御の日しも、第二御子高倉宮の御謀叛の御企ありとて、京中の貴賤、靜ならず。去四月九日、潛(ひそか)に令旨をば下されたれども、源三位入道父子・十郞藏人の外には知人もなし、藏人は關東へ下向しぬ、いかにして洩にけるやらん、淺ましとも云計なし。

   *

というシークエンスである。清盛によるクーデタで、後白河院政は完全に停止(ちょうじ)され、治承三(一一七九)年十一月二十日に、洛南の鳥羽殿に連行されて幽閉の身となっていたが、治承四年五月十四日に後白河院が武士三百騎の警護により、八条坊門烏丸邸に遷った折りが、最後のシーンである。

「義經記か曾我物語に」掟破りの引用原拠不確定表示で手古摺ったが、これは恐らく前者であろう。但し、それは引用元が不確かであった如く、熊楠の謂うような、「泰山府君の法を修して、成就の徵しに鼬現はるゝ話」とはなっておらず(むしろある種の注意喚起を示す警戒的兆しと言うべきものである)、熊楠の記憶の錯誤である。少し長いが、以下に「曾我之物語」の王堂本の巻第二の頭にある「大見・八幡(やはた)をうつ事」(プレ・ストーリー)で伊東九郎祐清が父祐親入道の命に従い、八幡三郎の首を獲った話の直後に配された、「いたちの怪異(けい)の事付(つけたり)泰山府君の事」を示す。岩波文庫本穴山孝道校訂の上巻(一九三九年刊)を底本とした。記号を追加し、段落を成形したが、読みは一部に限った(カタカナは原本のものなので総てとった)。踊り字「〱」「〲」は正字化した。底本本文の歴史的仮名遣の誤りの内、穴山氏が訂正注を施しておられる部分は、そちらをとった。

   *

 さても、八幡の三郞が母は、くずみの入道寂心が乳母子(めのとご)なり。すでに八旬にあまりけるが、のこりのあまりにくどきけるは、

「御主(しゆう)の爲に、命を捨つる事は、本望なれども、此の亂のおこりをたづぬれば、おやのゆずりをそむき給しによつて也。しかるにじやくしん、世にましましし時、きんだちあまた並みすゑて、酒宴なかばのをりふし、もち給ひつるさかづきの中へ、空より大きなるいたち一つおち入つゝ、ひざのうへにとびおりぬとみえしが、いづくともなくうせにけり。稀代(けだい)のふしぎなりとて、やがて勘(かんが)へさすせたまひければ、

『おほきなるへうじ[やぶちゃん注:表示。予兆。]なり、つゝしみ給へ。』

と申したりしを、さしたる祈禱もなくてすぎ給ひぬ。さていくほどなくして、じやくしんは、かくれ給ひけり。さればにや、後しら河の法皇も、鳥羽の離宮にわたらせ給ひし時、大きなるいたちまゐりて、なき騷ぎけり。博士に御たづねありければ、

『三日のうちに御よろこび、又は御なげき。』

と申しけるにあはせて、つぎの日法皇をとば殿より出したてまつりて、八條烏丸の御所へ入たれまつる。これ御よろこび也。又御なげきと申けるは、そのまたの日、たかくらのみやの御むほん[やぶちゃん注:以仁王の挙兵を指す。]あらはれて、都を出ましましてつひに奈良路(ならぢ)に討たれさせ給けるなり。かやうのためしをもつてむかしを思ふに、大國に大王おはしけり。樓閣を好き給ひて、あけくれ宮殿をつくり給ふ。中にも上かう殿と號してたかさ廿よ丈の高樓をたてらる。はしらはあかがね、けた・うつばりは金銀(きんぎん)也。軒には珠玉瓔珞(しゆぎよくやうらく)をさげ、壁には、靑蓮(しやうれん)の華鬘(けまん)をつけ、内には瑠璃の天蓋をさゝげ、四方に、瑪瑙(めなう)のはたをつり、庭には、珊瑚琥珀をしきみちて、ふく風ふる雨のたよりに、蘭麝(らんじや)のにほひにたゞよへり。山を築(つ)きては亭を構へ、池をほりては舟をうかぶ。水にあそべる鴛鴦(ゑんあう)のこゑ、ひとへに淨土の莊嚴(しやうごん)にことならず。人民こぞりて圍繞(いねう)す。佛菩薩の影向(やうがう)も、これにはしかじとぞみえし。然れば、大王玉樓金殿に座してつねに遊覽をなし給ふ。あるときかうらうのはしらにいたち二つ來つて、なき騷ぐ事七日なり。大王あやしみ給て、博士を召して、卜(うらな)はせらる。すなはちかんがへ奏して申さく、

『此柱の中に、七尺の人形(ニンギヤウ)に大王の御容(かたち)をことごとくつくりうつして、封じこめ、すなはち調伏(てうぶく)の壇をかまへ、幣帛(へいはく)をたて、供具(くぐ)をそなへ、大わうを咒詛(じゆそ)したてまつる也。これを割りてだんをやぶらせ給へ。そうじて御えきの與黨七百人候なり。』

と。大わうおほきにおどろきたまひ、いそぎかの柱をわりてみ給ふに、はかせの申せしにすこしもたがはず、すさまじくおそろしきありさまなり。すなはちだんをやぶらせられてのち、諸人をことごとくめしあつめ、其中にあやしき者どもをめしとつて拷問せされられければ、はく狀する者七百人に及べり。これらをみな縛(いまし)めて、すなはち首(くび)をきられしほどに、すでに三百人の首をきりて、のこり四百人をきらんとする時、天下俄(にわか)にくらやみとなりて、夜晝(よるひる)のさかひもなし。人民道路にたふれふし、泣きかなしむ事なのめならず。其時大わう大きにおどきてのたまはく、

『我つゆほどもわたくしの心をもつてかれらがくびをきるにはあらず。下(しも)としてかみをあざける下剋上(ゲコクジヤウ)のものを誅罰して、いましめを後世につたへんとおもふゆゑなり。もし又我にわたくしあらば、天我を罰すむべし。』

とちかひて、三七日のあいだ[やぶちゃん注:ママ。]飮食(をんじき)をとゞめ、たかき床(ゆか)のうへにのぼりて御あしのゆびをつまだてたまふ。

『あやまりあらば一めいこゝにきえぬべし。あやまりなくば諸天あはれみ給へ。』

とて貴(たつと)きひじりを請(しやう)じで、仁王(にんわう)經をかゝせられ、祈誓をなし給ふ。三七日に滿ずる時、七星(しつせい)[やぶちゃん注:北斗七星。]眼前にあまくだり現(げん)じ給ふ。やゝあつて又日月星宿(シヤウシユク)ひかりをかゞやかし給ふ。さればこそまつりごとによこしまなしとて、のこる四百人をもきらせられけり。こゝにまた博士(はかせ)參内してそうしけるは、

『大てきほろび侍りぬれば御くらゐ長久なるべき事餘儀(よぎ)なし。されども、調伏の大行(ぎやう)、其の功(こう)遺(のこ)りておそろしければ、しよせん、あまくだり給へる七星(セイ)をまつり、しやうかう殿にたからをつみ、一時(じ)にこれを焚(や)きすててさいなんをはらひ給ふべし。』

と申ければ、

『左右(さう)に及ばず。』

とて、たちまちに上[やぶちゃん注:「あげ」。]件(くだん)の曜宿(ようしやく)を請じをたてまつり、かの御てんにたからをつみあげ焚きすてられにけり。さてこそ、今の世までも、いたち鳴きさはげば、つゝしみて水をそそぎまじなふ事、この時よりぞおこりける。されば七百人のてきほろび、七星眼前にあまくだつて光をかゞやかし給ふ事、七難卽滅、七福(フク)卽生(そくしやう)の明文(めいもん)にかなひぬるものなり。今の泰山府君(タイザンフクン)といふまつりはすなはちこれなり。大王、彼の殿(でん)をやき、まつりごとをし給ひて、御くらゐ長生殿に榮へて春秋をわすれ、不老門に日月のかげしづかにめぐり、吹風枝をならさず、降る雨つちくれをやぶらず、永久にさかへ給ふぞめでたかりける。

   *]

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