北原白秋 邪宗門 正規表現版 内陣
内 陣
ほのかなる香爐(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
文月(ふづき)のゆふべ、蒸し薰(くゆ)る三十三間堂(さんじふさんげんだう)の奧(おく)
空色(そらいろ)しづむ内陣(ないぢん)の闇ほのぐらき靜寂(せいじやく)に、
千一體(せんいつたい)の觀世音(くわんぜおん)かさなり立たす香(か)の古(ふる)び
いと蕭(しめ)やかに後背(こうはい)のにぶき列(つらね)ぞ白(しら)みたる。
いづちとも、いつとも知らに、
かすかなる素足(すあし)のしめり。
そと軋(きし)むゆめのゆかいた
なよらかに、はた、うすらかに。
ほのめくは髮のなよびか、
衣(きぬ)の香(か)か、えこそわかたね。
女子(をみなご)の片頰(かたほ)のしらみ
忍びかの息(いき)の香(か)ぞする。
舞ごろも近づくなべに、
うつらかにあかる薄闇(うすやみ)。
初戀の燃(も)ゆるためいき、
帶の色、身内(みうち)のほてり。
だらりの姿(すがた)おぼろかになまめき薰(く)ゆる舞姬(まひひめ)の
ほのかに今(いま)したたずめば、本尊佛(ほんぞんぶつ)のうすあかり
靜(しづ)かなること水のごと沈(しづ)みて匂ふ香(か)のそらに、
仰(あふ)ぐともなき目見(まみ)のゆめ、やはらに淚さそふ時(とき)。
甍(いらか)より鴿(はと)か立ちけむ、
はたはたとゆくりなき音(ね)に。
ふとゆれぬ、長(たけ)の振袖(ふりそで)
かろき緋(ひ)のひるがへりにぞ、
ほのかなる香爐(かうろ)のくゆり、
日のにほひ、燈明(みあかし)のかげ、――
もろもろの光はもつれ、
あな、しばし、闇にちらぼふ。
四十年七月