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2020/11/16

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 仙人床

 

 仙人床

 木曾上松〔あげまつ〕宿、寢覺〔ねざめ〕の里は、土俗、傳へて、「浦島太郞が住ける地なり」といひ、また、「『三歸翁』となんいへる隱者の住〔すみ〕ける處なり」とも、いふ。浦島が事は既に「俗說辨」等に見えたれば、此に論ぜず。

 「三歸翁」は、私〔わたくし〕に思ふに、「三喜翁」にあらずや。「雍州府志」に『寬正年中武藏國河越道尊諱三喜者自號範翁又稱支山人中年大明留居十二年學東垣丹溪之術遂携醫家之方書本朝療蒼生。此人の、亂世を厭ひて、この深山の中にかくれ、終はられしも知るべからず。今、「みかへり翁」と唱ふるは、「三喜」を「三歸」となし、遂に、訓じて「見歸り」となせしならん歟〔か〕。湯舟澤に吉田兼好が宅趾〔たくし〕あり。【兼好が木曾に住せし事は「吉野拾遺」に見ゆ。】兼好を誤りて「ゑんかう屋鋪」となし、遂に轉じて「猿屋鋪〔さるやしき〕」など唱ふるがごとし。【此事は松平君山が「木曾史略」に詳〔つまびらか〕なり。】

 再〔ふたたび〕按ずるに、三喜翁を、土人、推〔お〕して神仙となし、これを假稱して「浦島」など呼〔よび〕たりしを、遂に「此〔この〕兩人、住せし」と、あやまり傳へしにあらずや。【浦島は雄略帝の時の人なり。「日本紀」・「續日本紀」・「扶桑略記」・「膾餘雜錄〔かいよざつろく〕」等に見ゆ。今、丹後の國網野の社〔やしろ〕、浦島を祭れる處なりと、「怪談故事」に見ゆ。さらば、木曾にあるべきにあらず。】

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が二字下げでポイント落ち。原本にはない。]

〔元恒補註-「增補燈下集」に「三歸寬中圓」とて「備急丸」の變方〔へんはう〕あり。「本朝醫談」に、『こは「三喜」なるべきに、「三歸」とあるは呼聲〔こせい〕の近き故』と見えたる。

また天文の頃、三喜昌經といふ人あり。その著せる醫書一部あり。近頃に、「天文醫按」と名付て上木す。

「玉石雜誌」に『落合驛ニテ霧原山ヲ東北ノ方二里計ニ見ル。落合ヨリ霧原山ニカヽリ御阪ニイタル、卽大井驛ノ千駄林ニ出ル道、コレ也。其間ニ兼好法師宅地アリ。今ハ田圃トナリテ、空ク兼好庵ノ字ヲ殘ストイフ。猿喉屋敷ト同キヤ否ヲ知ラス』。〕

 

[やぶちゃん注:「仙人床」(「せんにんどこ」と読んでおく)以下の「寝覚(ねざめ)の床」の異名。

「木曾上松宿寢覺の里」現在の長野県木曽郡上松町(あげまつまち)上松にある木曽川の水流によって花崗岩が侵食されて生じた自然景勝「寝覚めの床」(グーグル・マップ・データ航空写真)。ウィキの「寝覚の床」により引く。『かつては急流であったが、上流に設けられた木曽ダム』(昭和四三(一九六八)年に運転開始)『などにより』、『水位が下がったために、水底で侵食され続けていた花崗岩が現在は水面上にあらわれている。水の色はエメラルドグリーンである』。『中山道を訪れた歌人等によって歌にも詠まれ』ている。』『寝覚の床の中央に』は「浦島堂」があり、一説に、『上松町臨川寺の縁起によれば、その弁才天像を祀ったのが』その『寺であるという』。『地質は、中生界』(中生代(約二億五千二百十七万年前から約六千六百万年前の恐竜が跋扈していた時期にほぼ一致する)に堆積した地層)『の粗粒黒雲母花崗岩』『である。露出岩盤には方状節理が見られる』。『各段の高さと幅はそれぞれ数』メートルあり、『最上段は現河床からの比高が約』二十メートルある。『岩盤は約』一万二千年前に』『露出した』。以下、「三返りの翁」の項。『民間伝承によれば、寝覚の里には三返りの翁(みかえりのおきな)という、長寿の薬を民に供していたされる伝説上の人物が住んでいた』とされ、『室町後期の成立』『とされる謡曲』「寝覚」が『この伝承に基づいている。この作品のあらすじでは、長寿の薬のことを耳にした延喜』(九〇一年~九二三年)『当時の天皇』(醍醐天皇)『が、その風聞を調べてくるように寝覚の里まで勅使を遣わすと、翁が医王仏』(薬師如来の別名)『の権現であると名乗り、その秘薬を献上する。翁はすでに千年来、寝覚の床に住んでいるが、薬を使って』三『度若返ったので「三返りの翁」の名称がついたのだと説明される』。以下、「浦島太郎伝説」の項。『この地と浦島太郎を結びつけた古い記録としては、沢庵和尚が』「木曾路紀行」(出羽国上山(かみのやま)に「紫衣事件」に絡んで流罪となっていたのが、許されて、江戸に滞留が終わった、寛永一一(一六三四)年の紀行)の中で『「浦島がつり石」なる岩に言及している』。『貝原益軒も』「木曾路之記」の中で貞享二(一六八五)年)の旅中に「浦島がつりせし寝覚の床」を見聞したと記している』。但し、『浦島がこの地に来た事実については懐疑的である』。伝承類では、『浦島太郎が竜宮城から帰ってきたのち、この寝覚の地で暮らした次第をありありと描いた伝説も作られている』。『臨川寺 (上松町)建立の由来を語る』「覚浦嶋寺略縁起」によれば、『浦島太郎は竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書』(仙術法等を記した神の書いた書)『をもらって帰り、日本諸国を遍歴したのち、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。ここであるいは釣りを楽しみ、霊薬を売るなどして長年暮らしていたが、あるとき』、『里人に竜宮の話をするうち』、『玉手箱を開けてしまい、齢』(よわい)三百歲の『老人と化してしまった。天慶元』(九三八)『年この地から姿を消したという』。『以上の』「略縁起」の『伝説は、現存最古のものでも』、宝暦六(一七五六)年の『改版本であるが』、『おおまかな伝説としては、近世初頭以降に語り継がれてきたものと考えられる』。『また』、『巷説によれば、浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという』。『ある頃をさかいに』、『寝覚の床の浦島太郎と』、『前述の三返りの翁は同一視されるようになって』ゆき、「略縁起」にも『やはり、浦島太郎が「見かへりの翁」と呼ばれていたことが記されている』。『古浄瑠璃「浦嶋太郎」の舞台も上松の宿場で、浦島太郎は、海から遠い山中の木曾山中に住み、木曾川で釣り糸を垂らして暮らしていたとする』とある。

「俗說辨」神道家・国学者で井沢蟠竜長秀(享保一五(一七三一)年~寛文八(一六六八)年)の考証随筆「広益俗説弁」。その「正編巻十」の「士庶」の冒頭にある、「浦島子蓬萊にいたり三百四十餘年を經る說」がそれ(国立国会図書館デジタルコレクションの大正元(一九一二)年「続国民文庫」版の当該話の画像)。

「雍州府志」山城国(現在の京都府南部)に関する最初の総合的体系的地誌。歴史家の黒川道祐によって天和二(一六八二)年から貞享三(一六八六)年に書かれた。

『寬正年中武藏國河越道尊諱三喜者自號範翁又稱支山人中年大明留居十二年學東垣丹溪之術遂携醫家之方書本朝療蒼生』勝手流で訓読する。

   *

寬正〔かんしやう〕年中、武藏國河越に道尊〔だうそん〕、諱〔いみな〕三喜なる者、有り。自ら範翁と號す。又、支山人と稱す。中年に及び、大明〔だいみん〕に入り、留まり居〔を〕ること十二年、東垣・丹溪の術を學び、遂に醫家の方書を携へて本朝に歸り、蒼生〔さうせい〕を救療〔きうりやう〕す。

   *

ここに出た人物は実在した医師田代三喜(たしろさんき 寛正六(一四六五)年~天文一三(一五四四)年)である。後世派医学の開祖で、広く「医聖と」称された。既に出た曲直瀬道三・永田徳本などと並んで、日本に於ける中医学の中興の祖の一人とされる。ウィキの「田代三喜」によれば、三喜は通称で、名は導道、字(あざな)を祖範といった。範翁・廻翁・支山人・意足軒・日玄・善道など、多くの号がある。三喜は源平時代の武将である田代信綱の八世の孫田代兼綱の子として、武蔵国川越の西方、越生(おごせ)で生まれた。田代氏は伊豆国の豪族であったが、兼綱の代に武蔵国に移住していたという。文明一一(一四七九)年に『鎌倉の妙心寺で僧になる』(とあるが、鎌倉には今も昔も妙心寺などという名の寺はない。甚だ不審。別な資料では妙心寺派とあるが、鎌倉の妙心寺派というのはすぐに思い当たらない)。長享元(一四八七)年から明応七(一四九八)年、『明に渡る。当時大陸では金・元代に李東垣、朱丹渓の流れを汲む当流医学が盛隆を極めており、三喜は僧医月湖に師事しこれらの医学を学んだ』。『なお』、『宮本義己は実際の遣明船の派遣年度を精査し』、永正三(一五〇六)年に『堺から渡明し』、大永四(一五二四)年に『帰国したとしている』。『帰国してしばらくは下野国足利に住し』たが、永正六(一五〇九)年、『古河公方』(足利政氏。成氏の子で第二代)『に招聘されて下総国古河に移る。ここで僧籍を離れ』、『妻を迎える。また同年には』(恐らく同地古河で)『猪苗代兼載』(けんさい 連歌師)『を治療した事が知られる』。大永四(一五二四)年、『武蔵国に帰る。関東一円を往来して医療を行い』、『多くの庶民を病苦から救って、医聖と仰がれた。「足利の三帰」「古河の三喜」という異称を得ている』。享禄四(一五三一)年には当時、『足利学校に在籍していた曲直瀬道三と佐野市赤見で出会う。三喜は道三をよき後継者とみなして医術を指導した』。『三喜は死期近い病床で』も、『なお』、『口述を続け』、七十九歳で没した、とある。

「寬正」は一四六〇年から一四六六年まで。室町幕府将軍足利義政の治世であるが、「応仁の乱」勃発の直前。「東垣」は金・元代の医家李杲(りこう 一一八〇年~一二五一年) 金元医学四大家の一人。東垣は号。河北省正定県の人。幼時より医薬学を好み、張元素に師事し、その知識・技術を総て得た。富家であったので医を職業とはせず、世人は危急の折り以外は診てもらえなかったというが、神医と見做されていた。病因は外邪によるもののほかに、精神的な刺激、飲食の不摂生、生活の不規則、寒暖の不適などによる素因が内傷を引き起こすとして「内傷説」を唱えた。脾(ひ)と胃(現在の消化器全般)を重視し、「脾胃を内傷すると百病が生じる」との「脾胃論」を主張し、治療には脾胃を温補する方法を用いたので「温補(補土)派」とよばれた。「脾胃論」ほか多くの著作がある。以下の朱震亨(しゅしんこう)と併せて「李朱医学」と称される。「丹溪」元代の医師朱震亨(一二八一年~一三五八年)。前の李杲とともに金元四大家の一人とさえっる。丹溪は号。初め儒学を学んだが、後に医学に転じ,羅知悌(らちてい)のもとで李杲の系統の医学を学んだ。著書に「格致餘論」・「丹溪心方」などがある。「蒼生」は人民のこと。

「湯舟澤に吉田兼好が宅趾あり。【兼好が木曾に住せし事は「吉野拾遺」に見ゆ。】」「吉野拾遺」(室町時代に書かれた南朝(吉野朝廷)関連の説話集。作者は松翁とするが、人物不詳)などに記されたもので、晩年の兼好法師が木曽の、現在の中津川市湯舟沢神坂(みさか)(ここ(グーグル・マップ・データ))の地に庵を結んだという、所謂、吉田兼好が後二条天皇崩御後に出家して行脚漂泊したとする伝承の一つで、ここで没したという言い伝えもあるようだ。こちらのページ(個人サイトと思われる)によれば、「兼好庵跡」として顕彰された場所があることが判る。そこに、兼好はこの地の風光に惹かれ、 

 思ひたつ木曾の麻布あさくのみそめてやむべき袖の色香は 

と詠んで、庵を結んで、暫し、住んでいた。ある時、国守が多くの家来を従えてこの庵の辺りまで来て、鷹狩りをする様子を見て、 

 ここも又浮世也けりよそながら思ひし儘(まま)の山里もがな 

と詠んで、この地を去った、とある。

「猿屋鋪〔さるやしき〕」「ゑんやしき」かも知れないが、面白くないので「さる」と読んだ。

『松平君山が「木曾史略」』松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)は儒者で尾張名古屋藩書物奉行。藩命で「士林泝洄」(しりんそかい)「張州府志」を編集した。著作はほかに注疏である「孝経直解」、本草書「本草正譌」、詩文集「三世唱和」など多数。本姓は千村。名は秀雲。君山は号の一つ。「木曾史略」は正しくは「吉蘇志略」で宝暦七(一七五七)年作の木曾地区を巡回調査した地誌。「国文研データセット」に同書を発見、この右頁に「宅址 兼好法師菴」とある。但し、君山は「所在を知らず」とし、一説に霧原山の山中とし、呼称を「猴屋敷」(やはり「さるやしき」と読みたい)として出だし、まさに「兼好」と「猿猴」の音が「相ひ近き」故に「訛」(なま)ったもの、と推定している。

「雄略帝」記紀で第二十一代天皇。允恭天皇の皇子とされ、名は大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)。大和朝廷の勢力を拡大したとされる。四七八年に宋に使いを送った倭王武に比定する説がある。

「扶桑略記」歴史書。元三十巻。天台僧皇円の著になり、平安末期に成立した。漢文体による神武天皇から堀河天皇に至る間の編年史書。仏教関係の記事が主で、現存するのは十六巻分と抄本である。

「膾餘雜錄」永田善斎(ながたぜんさい 慶長二(一五九七)年~寛文四(一六六四)年:江戸前期の儒者。京生まれ。初め藤原惺窩に、後に林羅山に学んだ。駿府で徳川頼宣(よりのぶ)に仕え、頼宣の紀伊転封に伴い、和歌山藩で教えた。名は道慶)が書いた漢文体の考証随筆。

「丹後の國網野の社〔やしろ〕浦島を祭れる處なり」これは京都府京丹後市網野町(ちょう)網野にある網野神社(グーグル・マップ・データ)を指すと思われる。この神社は祭神として、日子坐王(ひこいますのかみ:開化天皇第三皇子にして景行天皇の曾祖父)・住吉大神・水江浦嶋子神(みずのえのうらしまこのかみ)を祀る。公式サイトの解説に、『水江浦嶋子神は、かつて網野村字福田の園(その)という場所に暮らし、毎日釣りを楽しんでおられましたが、ある時、海神の都に通い、数年を経て帰郷されました。今日まで伝わる説話や童話で有名な「浦嶋太郎さん」は、この水江浦嶋子神が、そのモデルとなっています』。『網野には他にも嶋子をお祀りした嶋児神社(しまこじんじゃ 網野町浅茂川)や六神社(ろくじんじゃ 網野町下岡)』(しもおか:ここ。網野神社の南西一キロメートル強の位置にある。グーグル・マップ・データ)、『嶋子が玉手箱を開けた際にできた顔の皺(しわ)を悲しみのあまりちぎって投げつけたとされる』「しわ榎(えのき)」(『網野銚子山古墳に存在)など、水江浦嶋子神に関わる史跡や伝承が今日までたくさん残っております』とある。「しわ榎」は網野神社の南東七百メートルほどの位置にあったが、現在は残念ながら根元部分のみが残る(同グーグル・マップ・データのサイド・パネルの画像)。なお、丹後半島では、その半島先頭附近にも、有名な浦島所縁の神社として京都府与謝郡伊根町本庄浜にある浦嶋神社(宇良(うら)神社とも呼ぶ)がある(グーグル・マップ・データ)。

「怪談故事」春鶯廊元編の「本朝怪談故事」(正徳六(一七一六)年)の第一巻の「神社門」の「十五網野の社、亀を愛す」である。「国文学研究資料館」のオープン・データのこちらから画像で読める。

「增補燈下集」医師岡本(啓迪院)玄治著の処方解説書。

「備急丸」「金匱要略」に「三物備急丸」(さんもつびきゅうがん)が載り、刺すような激しい腹痛で便通がない場合の、峻下剤である。

「本朝醫談」江戸後期の医師で、幕府医官奈須恒隆の養子となった奈須恒徳(なすつねのり安永三(一七七四)年~天保一二(一八四一)年:多紀元徳に学び、後に曲直瀬(まなせ)正盛の学説を研究、また、日本の古医書の研究を進め、「捧心方」・「大同類聚方」・「万安方」などの室町以前の医書の校訂を行った。本姓は田沢)の著作。以下は文政五(一八二二)年板行の原本のこちら(国立国会図書館デジタルコレクションの当該部の画像。左頁二行目割注に出る)。

「呼聲〔こせい〕の近き故」発音が似ているため。

「天文」一五三二年から一五五五年まで。戦国時代。

「三喜昌經」不詳。

『近頃に、「天文醫按」と名付て上木す』ますます不審。出版されており、著者名も判っており、書名も書かれてあるのに、ネットに全く掛かってこないというのは、どういうことだろう?【同日夜追記】T氏より以下のメールを頂戴した。比定同定の候補本である。

   《引用開始》

「天文醫按」は、『醫按』は正しい書名の一部で、出版が文政の近くの年であると考え、ネットで「醫按」の検索をかけたところ、こちらに、

「石山居士醫按」八巻。明・汪機著。明・陳桷較勘。日本・松氏校點。林喜兵衛。文化二(一八〇五)年。

と書誌を記す東京大学医学部蔵本が出てきました。汪機はこちらによれば、

汪機、字(あざな)は省次、祁門(きもん)(今の安徽省祁門)朴墅(ぼくしょ)の人。居が石山にあったので石山居士と号し、汪石山と呼ばれ、明の天順七(一四六三)年に生まれ、嘉靖一八(一五三九)年に卒した。享年七十六歳。(中略)「石山医案」「外科理例」「針灸問答」「医学原理」などの著述が有名で、「石山医案」全三巻は汪機の門人陳桷が明の正徳一四(一五一九)年に汪氏の臨床ノートを編集したもので、汪機が脈診と望診に優れ、四診合参を重視した特徴がよく現われている。

と書かれています。「石山醫案」(四庫全書本)がこちらに出ています。「三喜」は全く関係ないのですが、「近頃に」、「 醫按」と名付て「上木す」からの推論です。

   《引用終了》

初っ端から完全に和書(本邦の医師の書いた)の医学書と思い込んで考えて調べていた私が間違っていた。何時も乍ら、T氏に感謝申し上げるものである。

「玉石雜誌」栗原(柳菴)信充(のぶみつ)編で栗原(信兆)信晁(のぶあき)図画并びに校閲になる人物伝中心の考証随筆「先進繡像玉石雜誌」。天保一四(一八四三)年から嘉永元(一八四八)年刊。栗原信充(寛政六(一七九四)年~明治三(一八七〇)年)は 江戸後期の故実家。甲斐源氏末裔であることから、晩年は武田姓を名乗った。江戸幕府奥御右筆を務めた父和恒の関係で、父の同僚屋代弘賢と弘賢の知己平田篤胤から国学を、柴野栗山から儒学を学んだ。幼少より、弘賢の不忍文庫の膨大な蔵書の閲覧を許され、成人後は弘賢が幕命により編纂していた「古今要覧」の調査に加わるなど、広く知識を得る環境に恵まれた。全国を巡って資料を訪ね、諸家と交わる調査によって、実見によって文物を理解する学を旨とした。後、弘賢の病死によって「古今要覧」の製作は中止されてしまうが、それまでの蓄積は自著の形で世に示した。特に力を注いだ武具・馬具類に関する著作「甲冑図式」・「刀剣図式」「弓箭図式」等は幕末武士の教養書として重用された。早稲田大学図書館「古典総合データベース」に刊本を発見、正編の第五PDF)にある「兼好法師」のパートの、34コマ目に見出せた。なお、そこに恙なく、「猿屋敷(さるやしき)」のルビも見出せた

「落合驛ニテ霧原山ヲ東北ノ方二里計ニ見ル。落合ヨリ霧原山ニカヽリ御阪ニイタル、卽大井驛ノ千駄林ニ出ル道、コレ也。其間ニ兼好法師宅地アリ。今ハ田圃トナリテ、空ク兼好庵ノ字ヲ殘ストイフ。猿喉屋敷ト同キヤ否ヲ知ラス」読み易く書き換えておく。

   *

 落合驛にて、霧原山〔きりはらやま〕を東北の方、二里計りに見る。落合〔おちあひ〕より、霧原山〔きりはらやま〕にかゝり、御阪〔みさか〕にいたる。卽ち、大井驛の千駄林〔せんだばやし〕に出づる道、これなり。其の間〔かん〕に「兼好法師〔はうしの〕宅地」あり。今は田圃〔でんぽ〕となりて、空しく「兼好庵」の字〔あざな〕を殘すといふ。「猿喉屋敷〔ゑんこうやしき〕」と同じきや否(いなや)を知らず。

   *

「落合驛」中山道四十四番目の宿場で、美濃国恵那郡落合村(現在の岐阜県中津川市落合)にあった。ここ(グーグル・マップ・データ)。

「霧原山を東北の方、二里計りに見る」霧原山という山名は現認出来ない。落合宿からこの直線距離が正しいとするなら、妻籠宿の西南にある高土幾山(たかときやま)が相当するが、異名山名としても見出せない。ただ、気になるのは、落合宿から東に向かうと、湯舟沢川の流域(奥で南東に遡上する)に多数の「霧」を含む地名を見出せることである(グーグル・マップ・データ)。「霧ヶ城跡」「神坂霧ヶ原小水力発電所」等である。しかもこの霧ヶ城跡の西直近に「兼好法師塚」があり、南東の少し先には「吉田兼好の墓」まであるのである(孰れも岐阜県中津川市神坂。二つのリンクはともにグーグル・マップ・データ航空写真。なお、前者はサイド・パネルの説明板によれば、中央自動車道建設のため、ここに移転されたものとある)。当初は霧ヶ城を霧原山と呼んでいるのではないかと思ったが、ここは落合宿から四キロメートル強しか離れていないし、真東だから、違う。

「御阪」思うに、これは前注に示した場所、則ち、「神坂」の判読の誤りか誤植ではないかと疑うものである。

「大井驛」大井宿はここ(岐阜県恵那市大井町(ちょう)。グーグル・マップ・データ)。位置が全く明後日の方角(落合宿の遙か南西)で不審。

「千駄林」現在の岐阜県中津川市千旦林(せんだばやし)。古くは千駄林とも書いた。やはり方角位置が兼好伝承遺跡と合わず、不審。これは或いは、かつての兼好遺跡は落合宿と大井宿の間にあったことを示すのかも知れない。地誌製作の巡視を任務とした栗原が、いい加減なことを書くとは思われないからである。

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