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2020/11/20

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 王墓

 

附 錄 

[やぶちゃん注:以下の文中の字空けはママ。] 

 王墓

 松島にあり。土人、傳へて 「敏達〔びだつ〕天皇の皇子賴勝親王を葬〔はうふり〕奉る處なり」といふ。「日本紀」及び「皇胤紹運錄〔こういんぜううんろく〕」等を考ふるに、賴勝親王といへるは見えず。近き比〔ころ〕、塚のほとりを堀〔ほり〕[やぶちゃん注:底本・原本もママ。]かへしけるに、「すゑもの」[やぶちゃん注:「陶物」(現代仮名遣:すえもの)。焼き物。]にて作りたる貴人のかた[やぶちゃん注:「形(かた)」或いは「模(かた)」。模型。]、あまた、出〔いで〕たり。こは殉死のかわりにつくりて、うづめし埴輪〔はにわ〕なるべし。此〔この〕あたり、木下の里に「天皇崎」・「后洞」など唱へ來りし地名もあれば、其所〔そのところ〕に住せし御方を葬り申せしにあらずや。何れにも高貴の御方の墳墓たるべきにぞ。又、この塚の東に、さゝやかなる塚ありて、石をおほへり。「龍宮塚」といふ。其石の下に、むかしは、穴ありて、此あたりの里人、まらうどなどありて、得まほしき調度・膳椀やうの品々を紙に書つけて、穴に入れおけば、其夜のうちに、塚のまへに出〔いだ〕し置〔おく〕事、古〔いにしへ〕より、近きころまで、しかありけるを、或時、心さがなき男、彼〔かの〕調度を得て用ひけるに、皆、古代のものなれば惜〔をし〕とや思ひけん、おのが家にひき置〔おき〕て、返さざりけるとぞ。偖〔さて〕、その後は、里人、例のごとくねぎけれども、一つも、いでこず、となん。此事は諸州に多くありて、「かくれ里」など、いひならはせり。「五畿内志」「囘國筆土產」等に見ゆ【本郡勝間村にある事は「木下蔭」に見え、木曾にある事は「木曾志略」に見ゆ。】。いとあやしき事にこそ。「五雜俎」に濟瀆廟の神および趙州廉頗の墓の事、見えて、是、鬼と人と市するなど、いふ。私〔わたくし〕にいふ。これは皇后の御塚なるべし。皇后、轉じて龍宮となりしならん。里人、あばかんとせしが、大〔おほき〕に祟〔たたり〕ありしとぞ。【さて、いふ、此塚の北に深澤川あり。こは上古深澤驛の名の殘れるなり。深澤驛は「延喜式」に諏訪郡に屬したれば、「地名考」に今の諏訪郡三澤を以て此にあつ、誤〔あやまり〕なり。此ほとりは「和名抄」の佐浦鄕にて、諏訪郡たる事を知らざりしなり。深澤川ありて深澤驛なきは、阿智川ありて阿智驛なきと同じ。異とするに足らず。】

 

[やぶちゃん注:「松島」長野県上伊那郡箕輪町松島(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)。「王墓」=松島王墓古墳はここ。上伊那地方唯一の前方後円墳。サイド・パネルの説明版の画像を参照されたいが、そこにも確かに「伝説上」の「被葬者」として「敏達天皇の皇子賴勝親王」とあるんだが、元恒も言っているように、敏達天皇の皇子にそんな名前の人物はいないんだが? まあ、築造年代は六世紀中頃から後半とあって、敏達天皇の頃と一致は見る。

「日本紀」「日本書紀」。

「皇胤紹運錄」は天皇・皇族の系図「本朝皇胤紹運錄」(現代仮名遣:ほんちょうこういんじょううんろく)のこと。後小松上皇の勅命により、時の内大臣洞院満季が、当時に流布していた「帝王系図」など、多くの皇室系図を照合・勘案し、これに天神七代と地神五代を併せて、応永三三(一四二六)年に成立した(室町幕府第五代足利義量(よしかず)の治世)。参照したウィキの「本朝皇胤紹運録」によれば、当初、恐らくは後小松天皇の子称光天皇(在位:応永一九(一四一二)年~正長元(一四二八)年)までの『系譜が編纂され、また』、『本来は満季の祖父の』洞院公定が編纂した、かの「尊卑分脈」と『併せて一対としていたらしい。名の由来は、中国南宋の』「歴代帝王紹運図」に倣ったものであるとある。

「埴輪」同古墳から出土した現在保存されている形象埴輪は「箕輪町誌(歴史編)」によれば、ごく僅かであるとある。或いは、ここで「あまた」掘り出されたとするものは、古物商などに売られてしまったものかも知れない。

「天皇崎」地名として現存しない模様である。

「后洞」同前。「きさきぼら」或いは「きさきどう」か。

「龍宮塚」岩崎清美「伊那の伝説」(昭八(一九三三)年山村書院刊)の「神樣に關する話」の中の「龍宮塚の椀貸穴」に(国立国会図書館デジタルコレクションの当該開始部分の画像)、

   *

中箕輪村松島の北の端れに瓢形の古墳があって、これを王塚と稱して居る、敏達天皇の皇子賴勝親王の墓だと傳へられて居るが、それは分らない。その傍に龍宮塚と称ぶ[やぶちゃん注:「よぶ」。]小さい塚があつて、その蓋石[やぶちゃん注:「ふたいし」。]の下が穴になりそれが龍宮まで屆いて居ると云ふのである。お客のある時、龍宮へ賴んで入用の膳椀を貸して貰ふので大へんに重寶がられて居た所、一度借りたお椀を毀した[やぶちゃん注:「こわした」。]まゝで返さなかつたために、それからは如何に賴んでも貸して吳れぬようになつたと云って居る。

   *

とある。所謂、「椀貸伝説」である。私のブログ・カテゴリ「柳田國男」の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里』(全十五回分割)に詳しい。その『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 二』及び『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』には、この「龍宮塚」が出る。

「まらうど」客人。

「さがなき」性質(たち)が悪い。

「ねぎ」「労ぐ」「請ぐ」「犒ぐ」などと漢字を当て(特に「請ぐ」がここではよい)、神の心を慰め、その加護を願う。ことを言う。

「五畿内志」正しくは「日本輿地通志畿内部」(にほんよちつうしきないぶ)と称する。畿内五ヶ国の地誌(「河内志」・「和泉志」・「攝津志」・「山城志・「大和志」」を指す。江戸幕府による最初の幕撰地誌とされ、近世の地誌編纂事業に多くの影響を与えた。当初、編纂に当たっては日本全国の地誌を網羅することを念頭に置いていたが、結局、実現したのがこの畿内部のみであったことから、専ら「五畿内志」の略称で呼ばれる。享保一九(一七三四)年をクレジットとする巻首上書によれば、享保一四(一七二九)年から五年をかけて編纂作業が成されとあり、享保二十年から翌二十一年にかけて、大阪・京都・江戸で出版された(ウィキの「五畿内志」に拠る)。

「囘國筆土產」既注の「諸國里人談」の作者菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年の随筆或いは紀行。原文に当たれないので確認は不能。

「本郡勝間村」伊那市高遠町勝間。高遠城跡の対岸に当たる。先の『「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 八』に『同郡勝間村の布引巖』(ぬのびきいわ)とあるのが、それ。そこで注したが、再掲すると、サイト「龍学」内のこちらに、長野県伊那市の「お膳岩」として紹介されている。

   《引用開始》

昔の勝間村、小原峠の、古道の下に大きな岩があった。

その岩には、白いすじが上から下にかけてあり、遠くから見ると布を引いたように見えるので、布引岩といった。

この岩は、お膳岩または、大岩ともいわれていた。

里人が、お膳や、おわんが必要なときは、この岩の前でお願いをすると、その人数だけの膳やわんが、その翌日岩の上にならんでいて、まことに重宝であった。

用がすめば、必ず元どおりに返していた。

ところが、あるとき不心得ものがいて、お膳を一つ返さなかった。それからは、誰がおねがいをしても、貸してくれなくなってしまったという。

『高遠町誌 下巻』より

[やぶちゃん注:以下、「龍学」サイト主の解説。]

地元ではもっぱらにお膳岩の名のほうで呼ぶようだ。今も、高遠勝間の国道白山トンネル入り口脇にある。大岩なので、膳椀が上に並んだというより前に並んだということだと思うが。面白いことに、現地の案内看板には「岩が貸してくれた、貸してくれなくなった」というニュアンスで説明されている。

さて、特に変哲もなさそうなこの話を引いた理由は、その情景にある。この稿は写真を載せないので伝わりにくいかと思うが、この大岩は、まるで後背の山への門のような格好でそびえているのだ。

椀貸しの話には、淵や塚でなく山中の隠れ里からそれがもたらされるようなものもある。山中異界への大岩などの門が開いて、その富に手が届くようになる、という筋がままあるのだ。この勝間のお膳岩はまさにそのような印象の岩だ。布引岩とも呼ばれるその岩肌にも、その印象があるかもしれない。

   《引用開始》

とある。最後の見た感じのサイト主の感想は非常に興味深い。長野県伊那市高遠町勝間はここで、同地区内の国道白山トンネルの口はこちら側のみである(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)。ストリート・ビューの写真でそれらしく見えるのがこれ。何となく、『白いすじが上から下にかけてあ』るようにも見えるのは気のせい? 案内板らしきもの(判読は不能)も見える。

「木下蔭」向山氏の補註に、『高遠藩の家老葛上源五兵衛が、領内の村々を巡検し、その見聞、古文書類の採訪などを詳記したもの。三巻』。『安永八(一七七九)年の成立』とある。

『木曾にある事は「木曾志略」に見ゆ』「木曾志略」は尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。元は「吉蘇志略」が正しい。後に尾張藩士で国学者でもあった稲葉通邦(みちくに 延享元(一七四四)年~享和元(一八〇一)年)が改訂した。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 隱れ里 七』に、『信州木曾の山口村の龍ケ岩は、木曾川の中央に立つ巨岩で、上に松の樹を生じ形狀怪奇であつた。吉蘇志略には此事を記して「土人云ふ靑龍女あり岩下に住す、土人之に祈れば乃ち椀器を借す、後或其椀を失ふ、爾來復假貸せず、按ずるに濃州神野山及び古津岩頗る之と同じ、是れ風土の説なり」とある。古津岩と云ふのは今の岐阜縣稻葉郡長良村大字古津の坊洞一名椀匿し洞のことで、村民水の神に祈り家具を借るに皆意の如し、その後黠夫あり窺い見て大いに呼ぶ、水神水に沒して復見えずと濃陽志略に見えて居る。神野山とあるのは同縣武儀郡富野村大字西神野の八神山(やかいやま)で、是も同じ書に山の半腹にある戸立石と云ふ大岩、下は空洞にして水流れ出で、其末小野洞の水と合し津保川に注ぎ入る。神女あり此岩穴の奧に住み椀を貸しけるが、或時一人の山伏椀を借らんとて神女の姿を見たりしかば、後終にその事絶ゆとある』と出る。

「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻三の「地部一」にある以下の一節。

   *

「歲時記」、『務本坊西門有鬼市、冬夜嘗聞賣乾柴聲』。是鬼自爲市也。「番禺雜記」、『海邊時有鬼市、半夜而合、雞鳴而散。人與交易、多得異物』。又濟瀆廟神嘗與人交易、以契券投池中、金輒如數浮出、牛馬百物皆可假借。趙州廉頗墓亦然。是鬼與人市也。秦始皇作地市、令生人不得欺死人、是人與鬼市也。

   *

「鬼と人と市する」鬼(幽霊)が成す「市(いち)」のことで、中国の志怪小説ではお馴染み。私の敬愛する澤田瑞穂先生の「鬼市考」が、幸いなことにネットで読める(PDF。私は活字本で持っている)ので、是非、読まれたい。以上の内容も訳の形で出る。

「深澤川」ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。そのまま、画面を右にずらして行くと、深沢川は北の沢川に合流する。さらに右にずらして拡大すると、王墓の北直近を北ノ沢川が流れていることが判る。或いは古くは北の沢川を「深澤川」と称していたのかも知れない。

「地名考」「佐久の三大郷土史家」の一人に数えられる地方史家で俳人の吉沢好謙(たかあき 宝永七(一七一〇)年~安永六(一七七七)年)が明和四(一七六七)年に編纂した「信濃地名考」か。疲れた。調べない。

『「和名抄」の佐浦鄕にて、諏訪郡たる事を知らざりし』「和名類聚抄」の巻七の「國郡部第十二」の「信濃國第九十一」に『諏訪郡 佐補【左布。】』とある。

「阿智川」天竜川の支流阿知川。]

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