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2020/11/20

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 小松氏墓 / 卷の下~了(残念ながら、まだ「附錄」がある)

 

 小松氏墓

 入の谷宇良邨〔いりのたにうらみら〕に小松氏の墓あり。土人、傳へて惟盛〔これもり〕の墓とす。「平家物語」に、惟盛は潛行して熊野浦に到り、海に沒入す、と見えたり。「國史略」に曰〔いはく〕、『惟盛、海に沒入するにあらず、晦跡〔かいせき/あとくらま〕して伊勢國安野郡〔あののこほり〕に潛匿〔せんとく/ひそみかくれ〕し、承元四年三月念八日〔ねんはちにち〕、五十三にて病沒す。邑中〔むらうち〕に、其子孫、存する者、二十一家、隷屬〔れいぞく〕の後〔あと〕二百五十餘〔よ〕戶〔こ〕あり』とな、ん。さらば、惟盛、海に沒入するにあらず。されど、此村に來れるにも、あらず。今、其墓の存するも、あやし【入谷のうちに、小松氏、多くありて、その子孫といふ。】。建福寺に僧文覺が穿〔うが〕てる池とて、あり。「新著聞集」に、『蓮華寺に文覺の墓あり』と見ゆ。僧文覺は實朝公の時に、惟盛の子六代を夾〔たすけ〕て反せしを、隱岐にぞ流しぬ。

[やぶちゃん注:以下の補註は底本ではポイント落ち二字下げ。原本にはない。]

〔元恆補註-按ニ「百鍊鈔」・「編年記」ニハ佐渡トアリ。〕

 高遠に其遺蹟の存するも心得られず。是、もと、六代の命を乞請〔こひうけ〕し事も見ゆれば、若〔もし〕くは、惟盛を供奉して此地に來れるにもあらん歟〔か〕。源爲朝が自殺せし事は「保元物語」に見ゆ。これも琉球へ渡りて、その子孫の人、其地を有〔いうし〕てり【「南島志」・「琉球事略」・「三國通覽」等に見ゆ。】。その他、朝比奈義秀が木曾に隱れ【「木曾志略」に見ゆ。】、源義經が韃靼〔だつたん〕へ遁〔のが〕れしの類〔たぐひ〕【「鎌倉實記」及び「蝦夷志」に見ゆ。】ならんと、先覺〔せんはく〕はいひしが、私〔わたくし〕に考〔かんがふ〕るに、山室邨〔やまむろむら〕遠照寺に持傳〔もちつた〕へる古證文に、「康曆二年六月小松四郞源盛義」と見へたり。その比〔ころ〕、此地に小松氏ありて、宇良邨の墓も、それ等〔ら〕の人なるべし。氏〔うぢ〕の同じきゆゑに、「惟盛」と誤りたるにあらずや。猶、尋ぬべし。上古の事、存するがごとく、亡〔ばう〕するが如く、實〔げ〕に大史氏の嘆〔なげき〕を起すに堪〔たへ〕たりき。

[やぶちゃん注:以下の補註は底本ではポイント落ちで、全体が二字下げ。原本にはない。]

〔元恒補註-長久寺に木主〔もくしゆ〕[やぶちゃん注:位牌。]あり、「一翁常夏大信士」としるす。里老、傳へて、「建保二甲戌〔かのえいぬ/かふじゆつ〕年卒」と、しるせり。「日本史」に『小松氏・色川氏は、その[やぶちゃん注:底本では編者注が「その」の右にあって『(惟盛の)』と附す。]裔なり』とあり。また、六代の子淸禀といふ薩摩の祚寢氏は、その孫なり、とぞ。

「日本史」ニ、『義秀不知其所終或曰戰死時ニ年三十八又曰安房長挾郡有朝夷名鄕相傳義秀逃來于此遂赴高麗延寶中使人問義秀事蹟※[やぶちゃん注:「※」=「示」+「仝」(同の異体字)。]對馬守宗義眞義眞質之朝鮮報曰朝鮮釜山浦絕影島義秀祠見在土人時祭之。

五井氏瑣語曰和田義盛敗死其子義秀逃入高麗猝襲釜山府虜其將韓思廉以爲先導[やぶちゃん注:対応する返り点「二」がないのはママ。]攻東萊城斬其將李邦群高麗王大愕乃遣使招安授討虜將軍淳和八年七十二歲死豐公伐朝鮮也其苗裔平睦明有在蔚山爲國戰。〕

 

信濃奇談卷の下 終

 

[やぶちゃん注:「宇良邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡長谷村浦』とある。長野県伊那市長谷浦か。強力な山中である(グーグル・マップ・データ航空写真。以下同じ)が、その北の東直近の、長野県伊那市長谷市野瀬地区があり、宿「入野谷」があり、その近くには、焼肉屋「平家の里」があるから、この辺りということであろう。地図を見るだけで、平氏落武者伝説が生まれておかしくない隠田集落村という感じが強くしてくる。

「小松氏」「惟盛」平維盛(平治元(一一五九)年~寿永三(一一八四)年:享年二十六)は清盛の長男重盛の嫡子で「小松中将」と称された。平家一門の嫡流として出世し、治承四(一一八〇)年の源頼朝挙兵の際には追討大将軍として東国に発向したものの、「富士川の戦い」で、知られる通り、夜中、水鳥の羽音に驚いて、戦わずに逃げ帰った。しかし、翌年の三月の「尾張墨俣の戦い」で源氏を撃破し、その功により従三位・右近衛権中将となった。寿永元 (一一八二) 年には木曾義仲追討のために北国へ発向したが、「倶利伽羅合戦」(砺波山の戦い)で大敗、義仲が上京して平家一門が西国に落ちのびた時には、同じく「都落ち」したようであるが、その後の消息は不明(父の早世もあって、一門の中では孤立気味であった)。物語類では、「屋島の戦い」で平家の陣を抜け出し、高野山に向かい、そこで出家した後、熊野灘へ舟を出して入水して果てたと記す(以上は主文を「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。但し、この入水は絶望故ではなく、那智に多く見られた補陀落(ふだらく)渡海の変形とも考えられるが、孰れにせよ、私は維盛は一種の抑鬱障害を持っていたのではないかと疑っている。墓については、八ヶ岳原人氏のサイト「from八ヶ岳原人」の『壇ノ浦村と「平家の里」』によって現存することが判った。説明板のそれを引用させて戴く。

   *

 小松氏の先祖が、平の重盛であるか維盛であるか重清であるか明らかでない。しかし、この浦区の小松氏は平家の流れのものであることは確かであろう。小松氏とその側近であった西村氏がいっしょになって、春の彼岸の中日に先祖祭を行っている。(古くは陰暦の二月四日であった)

 その日は各戸で保存する赤旗を竹竿につけて持ち寄り、墓の生垣に立てられる。子供らは笹の葉に色紙を結んで墓の周囲を飾る。墓に花が供えられ、線香の煙がたなびく。

 墓前での先祖祭が終わると、集まった人々は年番の家(現在は公民館)へ行き「小松内大臣平重盛卿」と書いた掛軸を床前に掲げて、その前で盛大な祝宴を挙げる。

 この地区は古来浦村といわれ、古老は「檀ノ浦村」と自称したりした。小松氏一統の者は平家と同じように宇佐八幡宮を祭っている。

   *

次に、「長野県町村誌」の「長谷村」の抜粋。そこで「重清」というのが判る。

   *

 元禄年間浦村の一村を起す。昔時平氏潜伏の地にして一村ありて其称なし。

 浦村は、昔時(せきじ)平惟盛潜伏の地と云。依て往古は此地を壇の浦と云。亦曰(またいわく)、大永享禄の年間に、平重盛十九代の孫、小松左京大夫重森、此地に来り爰(ここ)に居す共云。其孫雪三郎重清、天正の年間に武田晴信に属し、爰に居す。夫(それ)より武田侯の領地たり。今浦の農民は皆小松氏なり。

   *

次に信濃史料刊行会の「新編信濃史料叢書」に収録された菅江真澄の紀行文「すわの海」の天明四(一七八四)年「廿六日」の条の抜粋。

   *

 とのしま(殿島)をたちて…、高遠にいたる…、

 此夕、井野岡何某という神司(かみづかさ)の家にやど(宿)る、あるじ(主)なにくれの物語りしけるに、いにしえ世中しずかならざるころ(※治承寿永の乱)、小松重盛きみ(君)の甥ぎみ刑部大輔なにがし(某)のうし(氏)、此山おくにかくれ住み給いしとなん、処をまえうら(前浦)という、いまも太刀、鉾、よろいなど持ち侍(はべ)ると、ところのもの(所の者)かた(語)りき、昔家七ツありしが、はや五十あまりにて、人もたやすく行きがたき道にて、なかなかおそろしき山里也けり、

   *

グーグル・ストリート・ビューで探してみたが、見当たらなかった。この付近にあると思われる。

「建福寺」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町にある』とある。臨済宗。高遠城跡の直近のここ同サイド・パネルの説明板によれば、『安元二年(一一七六)文覚商人が本堂裏手』の『「独鈷(どっこ)の池(いけ)」あたりに開創したのが始まりとされる』とある。

「蓮華寺」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町にある』とある。前の建福寺の東直近にある。日蓮宗。因みに、絵島生島事件で知られる絵島は、ここ高遠に流罪となり、この蓮華寺に墓がある。サイド・パネルの彼女の墓をリンクさせておく。

「國史略」江戸後期の儒学者で国史も詳しかった京都の巌垣松苗(いわがきまつなえ 安永六(一七七四)年~嘉永三(一八五〇)年)の著した歴史書。文政九(一八二六)年刊。神代から天正一六(一五八八)年の後陽成天皇の聚楽第行幸に至るまでを、漢文による編年体で述べたもの。国立国会図書館デジタルコレクションの画像を縦覧したが、以下がどこに書いてあるのか、判らなかった。悪しからず。

「伊勢國安野郡」伊勢国安濃郡(「安濃」は「あのう」「あの」孰れにも読み、また「安野」とも漢字表記した)。現在の三重県津市の一部に相当する。

「承元四年」一二一〇年。

「念八日」二十八日。「念」の字は中国音「niàn」で、「廿」の「niàn」と同音であるため、古くから「二十」の意味で用いた。

『「新著聞集」に、『蓮華寺に文覺の墓あり』と見ゆ』『「新著聞集」に出たり』俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「文覺旧蹟」(「旧」は原本のママ)。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。63コマ目である。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。

   *

信州高遠の、文明寺、今、峯山寺(ほうざんじ)といふ。此寺の不動尊は文覺上人の自作なりといへり。建福寺には、「獨鈷水(どつこすい)」といへる井あり。これも上人のほりたまひしとかや。常恩寺、今は蓮華寺といふ。これには上人の塚ありし。此所にて身まかりたまひしにや。

   *

なお、文覚は「隱岐」ではなく、対馬への流罪で誤りである。これは元久二(一二〇五)年に後鳥羽上皇から謀反の疑いをかけられた結果であったが、実は対馬国へ流罪とされる途中の鎮西で客死している

「六代」平高清(承安三(一一七三)年?~?)は平維盛の嫡男で母は藤原成親の娘。ウィキの「平高清」によれば、木曾義仲の『攻勢の前に平氏が都落ちを決意したとき、維盛は都に慣れ親しんでいる妻を共に西国に落ち延びさせることは忍び難いとして、妻子を都に残して一門と共に西走する。このとき』、『維盛は妻に対して子供のことを頼むと共に、自らに何かあったら再婚してほしいと言い残した』。『六代は母と共に京都普照寺奥大覚寺北に潜伏していたが、平氏滅亡後の』文治元(一一八五)年十二月、『北条時政の捜索によって捕らえられた』。『清盛の曾孫に当たることから本来なら鎌倉に送られて斬首になるところであったが、文覚上人の助命嘆願があって』、『処刑を免れ、その身柄は文覚に預けられることとなった』。『また、前述の維盛の妻(六代の母)は夫の死後に頼朝の信頼が厚い公卿の吉田経房と再婚しており、この事も六代の助命と関係している』可能性はある。文治五(一一八九)年、『六代は剃髪して妙覚と号』し、建久五(一一九四)年には『文覚の使者として鎌倉を訪れ、大江広元を通じて異心無く出家したことを伝えた』。『源頼朝は平治の乱後、六代の祖父である平重盛が自身の助命のために尽力してくれた恩に報いるためとして六代を関東に滞在させ』、『その後』、『六代を招いて、異心がなければ』、『どこかの寺の別当職に任命しようと申し出ている』。『その後の六代について』は、「平家物語」などでは、『庇護者であった文覚が流罪となった後、弟子であったことから修行中であった六代も捕らえられて処刑されたとするが、その時期については』、『文覚が三左衛門事件に連座して流罪となった』正治元(一一九九)年のほか、『源頼朝が在世中であった』建久九(一一九八)年、建仁二(一二〇二)年、同三年、『またはそれ以降、場所も相模国田越川(多胡江河)、鎌倉六浦坂、同じく鎌倉の芝』(不詳。このような地名は鎌倉にははない)、『駿河国千本松原などとまちまちである点や』、『六代の処刑を伝える諸書が』、『いずれも文覚の弟子であった事をその理由に挙げながらも、主な処罰対象である文覚が流罪であるのに対し、従属的な立場にあった六代の方が』、『より重い死罪とされているという矛盾があり、また』、『実際に文覚の流罪を主導したと考えられている源通親らにはあえて六代を殺害する動機が見当たらないこと、さらに六代処刑の記事は』「平家物語」の『諸本以外では』、『いくつかの年代記や系譜類に限られ』ており、「吾妻鏡」などの『確実な史料でこれに触れたものが全くない等の点から、処刑の事実自体を疑問視する見解も存在する』。『逗子市桜山』『に六代の墓と伝えられる塚があり、逗子市史跡指定地とされている』(ここ。グーグル・マップ・データ)『六代を最後として、清盛の嫡流は完全に断絶した』とある。私の「『風俗畫報』臨時増刊「江島・鵠沼・逗子・金澤名所圖會」より逗子の部 六代御前墓」も参照されたい。

『源爲朝が自殺せし事は「保元物語」に見ゆ』「保元物語」の巻尾にある「爲朝、鬼島ニ渡ル事竝(ナラビニ)最後ノ事」。

「琉球へ渡りて、その子孫の人、其地を有〔いうし〕てり」かなり知られた為朝伝説。ウィキの「源為朝」によれば、『琉球王国の正史『中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、このとき源為朝が琉球へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王舜天になったとしている。来琉の真偽は不明だが、この伝説がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多く、尚氏の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この伝承に基づき』、大正一一(一九二二)年には『為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した東郷平八郎の名が刻まれている』とある。

「南島志」新井白石著の琉球地誌。享保四(一七一九)年刊。「国文学研究資料館」のデータ・セットの同書写本の「世系第二」の舜天王の条のこちら(左六行目から次の頁にかけて記されてある)。

「琉球事略」江戸中期の儒者で書物奉行を務め、幕府蔵書の校合等を担当した桂山義樹(かつらやまよしたね 延宝七(一六七九)年~寛延二(一七四九)年)の著した琉球の歴史・王統・習俗ほかについて記したもの。

「三國通覽」「三國通覽圖說」。天明五(一七八五)年に経世論家で「寛政の三奇人」の一人に数えられる林子平により書かれた江戸時代の地理書・経世書。日本に隣接する三国、則ち、朝鮮・琉球・蝦夷と付近の島々についての風俗などを挿絵入りで解説した書(地図五枚有り。但し、地図は正確さを欠く)。彼は海防の必要性を説いた軍事書「海国兵談」がとみに知られる。

「朝比奈義秀が木曾に隱れ」朝比奈義秀(安元二(一一七六)年?~建保元(一二一三)年)鎌倉幕府創生の有力豪族の一人である和田義盛の三男。鎌倉幕府御家人中、抜群の武勇を以って知られ、正治二(一二〇〇)年、将軍源頼家が海辺遊覧の際、「水練の技を披露せよ」と命ぜられ、水中深く潜って、鮫を手取りにして人々を感嘆させたという。建保元年五月、父義盛が鎌倉で北条義時と戦った際 (和田合戦) 、和田方の勇士として奮戦し、将軍の居所の正面から攻め込み、多数の武士を倒した。敵兵は義秀の進路を、つとめて避けたと伝えられる。和田方が敗北するに及び、義秀は海路安房国へ向って逃走したが、その後は戦死したとも、行方不明となったともされる。なお、「源平盛衰記」は、和田義盛が先に木曾義仲の妾であった巴御前を娶って義秀が生れたと伝えているが、伝説の域を出ない。奮戦の様子は、私の「北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉」を読まれたい。

「木曾志略」尾張藩士で儒学者・地理学者であった松平君山(くんざん 元禄一〇(一六九七)年~天明三(一七八三)年)が宝暦七(一七五七)年に著わした木曾地方の地誌。元は「吉蘇志略」が正しい。後に尾張藩士で国学者でもあった稲葉通邦(みちくに 延享元(一七四四)年~享和元(一八〇一)年)が改訂した。

「韃靼」タタール。北アジアのモンゴル高原及び、シベリアとカザフ・ステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての、幅広い地域にかけて活動したモンゴル系・テュルク系・ツングース系及びサモエード系とフィン=ウゴル系の一部などの、様々な民族を指す語として用いられてきた民族総称及び彼らが住んだ広域地名。

「鎌倉實記」洛下隱士(医師加藤謙斎とも)著で、享保二(一七一七)年刊。全十七巻の実録物或いは軍記物。「神奈川県立図書館」本書のデータPDF)によれば、『「序」には、源平の盛衰の記録には偽りや誤りが多く真実を伝えていないので、諸家に秘蔵されている信頼に足る歴史史料を入手し、真実の記録を心がけた、とある。しかし一方で、引用されている文献には現在まったく行方がつかめていない未詳のものも多いと堀竹忠晃は指摘している。また本書は、『金史別本』という史料には、義経が蝦夷を平定したあと』、『中国大陸に渡ったと記されている、と紹介したことで知られているが、現在はこの史料は偽書とされている』とある。

「蝦夷志」新井白石が著した本邦初の蝦夷(北海道)地誌で、享保五(一七二〇)年自序。序・蝦夷地図説・本文という構成で、本文はさらに蝦夷(北海道)、北蝦夷(樺太)、東北諸夷(千島列島)の三部から成り、巻末には人物や武具などの図が綿密、且つ、色彩豊かに描かれており、興味深い(小学館「日本大百科全書」に拠った)。

「先覺」学問・見識のある先輩。

「山室邨」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町山室』とある。ここ。高遠城跡の東北の山中。

「遠照寺」ここ

「康曆二年」一三八〇年。南北朝時代の北朝の元号。

「長久寺」長野県上伊那郡辰野町大字伊那富宮木横町のそれであろう。

「建保二甲戌年」一二一四年。源実朝(実権は執権北条義時)の治世。

「日本史」これは徳川光圀が着手した歴史書「大日本史」であろう。明暦三(一六五七)年に編纂を開始され、光圀の没十九年後、享保五(一七二〇)年に中途の本紀七十三巻・列伝百七十巻分が江戸幕府に献上されている(全部の完成は二百四十八年後の明治三九(一九〇六)年であった)。なお、「大日本史」というのは光圀死後の正徳五(一七一五)年に水戸藩主徳川綱條(つなえだ)による命名であって、それ以前は「本朝史記」「国史」「倭史」と呼ばれていた。

「小松氏」ここで、話者である元恒は、縷々語ってきた平維盛の末裔と称して信濃国に土着し、諏訪氏の家臣となった国人一族である信濃小松氏を念頭に置いていると読むべきであろう。或いは、以下に注する禰寝氏(ねじめし:改名して小松氏)をも含むか。ともかくも原本が示している「小松氏」とは広義であろう。

「色川氏」読みは「いろかわし」とも「いろがわ」とも。紀伊国色川(現在の那智勝浦町の北西部)における豪族・国人衆、・熊野水軍。桓武平氏の流れを汲み、「平」「清水」「色河」とも称する。ウィキの「色川氏」によれば、文治元(一一八五)年、『紀伊勝浦』で『入水したと見せかけて落ちのびた平維盛を色川郷』『の森に匿い、盛広、盛安の二児をもうけ、室町時代~戦国時代に続く紀伊国人衆色川氏の祖となったという』とある。

「六代の子淸禀といふ薩摩の祚寢氏は、その孫なり」「淸禀」は不詳。読みも判らぬが、「きよふち」とでも読んでおく。「祚寢氏」は「禰寝氏」(ねじめし)の誤りか、誤判読・誤植であろう。ウィキの「禰寝氏」によれば、『大隅国の有力国人、戦国大名、のち薩摩藩士の氏族』。『禰寝氏は中世には豪族として角、西本、池端、山本氏など、また近世初期では入鹿山、武などの別の名字を名乗る』二十『家門ほどの庶流を出した。同氏直系は江戸時代中期に先祖に当たると目された平重盛の号にちなみ』、『「小松氏」と改姓した。江戸期には、「歴代当主」の項に明らかなように古代・中世から続く連綿とした宗家の血の流れは途絶えたが、宗家を支える御三家、禰寝・松沢(庶流の最も古い一門)、禰寝・西本(時に西元とも)、禰寝・角などは他の庶家とともに一族の歴史的記憶に重要な役割を果たし続け、現在に至っている』。『大隅国禰寝院』(禰寝院北俣(禰寝北俣)・禰寝院南俣(禰寝南俣)に分かれ、前者を大禰寝院、後者を小禰寝院とも称した。禰寝院北俣は鹿児島県錦江町・鹿屋市南部、同南俣は南大隅町・錦江町田代に比定されている。治暦五(一〇六九)年の文書に「禰寝院」と見え、南北三村ずつに分かれていたことが知られている)『を領したことが、名字の由来である』。『江戸時代に直系は「平重盛の孫・平高清の末裔(まつえい)」であることを主張したが、鎌倉時代、室町時代の公式文書にはすべて「平姓」(平氏)ではなく「建部姓」(建部氏)で署名していること、平高清の没年と禰寝氏初代・清重の地頭職就任年が同年であることから見て疑わしい』。『平氏末裔を主張した背景には島津光久後室・陽和院殿の養家である平松家とのつながりが深くなったことが背景にあるのではという説がある』。『建部姓禰寝氏の先祖は遠く大宰府の在庁官人であり、禰寝氏(小松氏)が同じ鹿児島の島津氏よりも出自が古いことは歴然としている。このように史料をもって古代に遡りうる氏族は稀である』。『古代にあっては建部姓を』称し、『大宰府在庁官人であった。後に一族は郡司職についている』。十一『世紀半ば過ぎに、禰寝氏初代清重に遡ること』四『代前の藤原頼光に関わる史料が『禰寝文書』では最初の文書として上げられて』おり、これが治暦五年のそれである。『京で藤原氏全盛期のころ、建部姓の一族は、奥州にあって清原氏が藤原姓を名乗るように』、『大隅国にあって藤原姓を取っていた。頼光が子女に配分した所領は広大で、荘園としての禰寝院』『の規模をはるかに超え、絶大な権勢を保持した』とある。

「義秀不知其所絡或曰戰死時ニ年三十八又曰安房長挾郡有朝夷名鄕相傳義秀逃來于此遂赴高麗延寶中使人問義秀事蹟※對馬守宗義眞義眞之朝鮮報曰朝鮮釜山浦絕影島義秀祠見在土人時祭之。」(「※」=「示」+「仝」(同の異体字)。意味不明)訓読を試みるが、「※」は判らぬので、悪しからず。

   *

義秀は、其の終はれる所を知らず。或いは、戰死とも曰ふ。時に年三十八。又、曰はく、安房長挾郡(あはながさのこほり)に、朝夷名鄕(あさひながう)有り、相ひ傳ふ、「義秀、此(ここ)に逃げ來りて、遂に高麗(かうらい)に赴く。延寶[やぶちゃん注:一六七三年から一六八一年まで。]中、使人、義秀が事蹟、※對馬守宗義眞(そうのよしざね)に問ふに、義眞、之れを朝鮮に質(ただ)す。報じて曰はく、「朝鮮の釜山の浦、絕影島に義秀が祠〔ほこら〕見るに、土人、在りて、時に之れを祭る。」と。

   *

「對馬守宗義眞」対馬国府中(ふちゅう)藩第三代藩主宗義真(寛永一六(一六三九)年~元禄一五(一七〇二)年)。明暦三(一六五七)年に父が死去したため、家督を相続し、その時、従四位下・播磨守から、侍従・対馬守に任官した。彼は対馬府中藩の全盛期を築き上げ、藩の格式は十万石格にまで登りつめた(対馬府中藩の実質石高は一万石程度であったが、貿易収支が大きかったことが考慮された)。元禄五(一六九二)年に次男義倫(よしつぐ/よしとも)に家督を譲って隠居したが、なおも藩政の実権は握り続けた。しかし、晩年は義倫の早世や、竹島問題に於ける朝鮮との交渉難、さらに朝鮮貿易の収支減衰などの悪条件が重なり、対馬府中藩は衰退を始めた(以上はウィキの「宗義真」に拠った)。

「五井氏瑣語」五井氏の書いた「瑣語」(さご)の意。大坂の儒者五井蘭洲の書いた学事史談及び見聞雑記を記したもの。五井蘭洲(元禄一〇(一六九七)年~宝暦一二(一七六二)年)は大坂懐徳堂の助教となり、後に陸奥弘前藩に仕えたものの、再び懐徳堂に戻っって後身を指導した。「非物篇」を著わし、徂徠学を批判したことで知られる。

「曰和田義盛敗死其子義秀逃入高麗猝襲釜山府虜其將韓思廉以爲先導東萊城斬其將李邦群高麗王大愕乃遣使招安授討虜將軍淳和八年七十二歲死豐公伐朝鮮也其苗裔平睦明有在蔚山爲國戰。」訓読を試みるが、対応する返り点「二」がないのは「爲先導」に置いて読んだ。一部は勝手に返って読んだ。

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曰はく、和田義盛、敗死し、其の子義秀、逃げて、高麗に入り、釜山府を猝(には)かに襲ふも、虜(とりこ)となるも、其の將韓思廉、以つて先導と爲し、東萊城を攻む。其の將李邦群を斬り、高麗王、大きに愕(おどろ)き、乃(すなは)ち、遣使招安授、虜と將軍とを討つ。淳和八年[やぶちゃん注:不詳。高麗にはこのような元号はない。]七十二歲にして死す。豐公[やぶちゃん注:豊臣秀吉。]、朝鮮を伐(う)つや、其の苗裔平睦明(へいぼくめい)[やぶちゃん注:和田氏は桓武平氏。]有り、蔚山(ウルサン)に在(あ)り、爲(ため)に國と戰さす。

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