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2020/11/04

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 鎌鼬

 

 鎌鼬

 人、忽〔たちまち〕に地に踣〔たふ〕れて、みづから其いたむ處を覺へず、刀〔かたな〕もて、切〔きり〕たるごとき痕〔あと〕つくを、俗には、「魔物、來りて、人に觸るるなり」といふ。その名を「鎌鼬〔かまいたち〕」となん、よぶ。あやしき病にてありける。

 東涯翁の「盍簪錄〔こふしんろく〕」には、信州のみを擧〔あげ〕たれども、信州のみに限れるにあらず。「北越奇談」にも見え、また、「斷毒論」には、『關東にある』といえり。「閑田次筆〔かんでんじひつ〕」に、そのへんに【閑田子は京都の人なり。】、此事、ありし事をあげて、『風神〔ふうじん〕、太刀を持〔もつ〕といふより、「かまへたち」と稱〔とな〕ふ意なり』と見ゆ。按ずるに、井澤長彥が「俗說辨〔ぞくせつべん〕」に、「黑眚〔しい〕」[やぶちゃん注:底本は「黑靑」。これは正直、学術書にあってはならない、レベルの低い、ひどい誤読である。特異的に訂した。原本はちゃんとなっている。これは意味不明な対象をろくに調べずに、似た感じに当ててしまった最悪のケースである。後に出るところも訂した。但し、正確には「眚」は下部が「目」ではなく「月」であるが、表記出来ないので、正しい字である「眚」で示した。]を「かまいたち」と訓ぜり。「黑眚」は「しゐ」といふもの也。「大和本草」に詳〔つまびらか〕に見ゆ。

 

[やぶちゃん注:「鎌鼬」さんざん書いてきた。いっとう古いのは、「耳囊 卷之七 旋風怪の事」であろう。そこでは私自身が中学生の時に体験(目撃)した怪しい(その場にいた人間たちについて「不審」という意味で)「鎌鼬」事件を記してある。また、怪奇談集の鎌鼬の白眉はまず、「想山著聞奇集 卷の貮 鎌鼬の事」に尽きると思う。「鎌鼬」現象を日中の古今の記事から集めたものとしては、「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」が優れる(これらを読まれれば、この元恒の謂いが如何にショボいものかがよく判る)。その中で、寺田寅彦の「化物の進化」(昭和四(一九二九)年一月『改造』初出)を引いているが、その原文で寺田氏が、「鎌鼬」真空説について、『鎌鼬の事はいろいろの書物にあるが、「伽婢子(おとぎぼうこ)」という書物によると、関東地方にこの現象が多いらしい、旋風が吹きおこって「通行人の身にものあらくあたれば股もものあたり縦さまにさけて、剃刀かみそりにて切りたるごとく口ひらけ、しかも痛みはなはだしくもなし、また血は少しもいでず、うんぬん」とあり、また名字正しき侍にはこの害なく卑賤(ひせん)の者は金持ちでもあてられるなどと書いてある。ここにも時代の反映が出ていておもしろい。 雲萍雑誌(うんぴょうざっし)[やぶちゃん注:大和郡山藩士で重臣の、文人画家・漢詩人として知られた柳沢淇園(宝永元(一七〇四)年~宝暦八(一七五八)年)が天保一四(一八四三)年に刊行した随筆。一般には「雲萍雑志」と記すことが多い。]には「西国方(さいごくがた)に風鎌(かざかま)というものあり」としてある。この現象については先年わが国のある学術雑誌で気象学上から論じた人があって、その所説によると旋風の中では気圧がはなはだしく低下するために皮膚が裂けるのであろうと説明してあったように記憶するが、この説は物理学者には少しふに落ちない。たとえかなり真空になってもゴム球か膀胱(ぼうこう)か何かのように脚部の破裂する事はありそうもない。これは明らかに強風のために途上の木竹片あるいは砂粒のごときものが高速度で衝突するために皮膚が截断(せつだん)されるのである。旋風内の最高風速はよくはわからないが毎秒七八十メートルを越える事も珍しくはないらしい。弾丸の速度に比べれば問題にならぬが、おもちゃの弓で射た矢よりは速いかもしれない。数年前アメリカの気象学雑誌に出ていた一例によると、麦わらの茎が大旋風に吹きつけられて堅い板戸に突きささって、ちょうど矢の立ったようになったのが写真で示されていた。麦わらが板戸に穿入(せんにゅう)するくらいなら、竹片が人間の肉を破ってもたいして不都合はあるまいと思われる。下賤(げせん)の者にこの災わざわいが多いというのは統計の結果でもないから問題にならないが、しかし下賤の者の総数が高貴な者の総数より多いとすれば、それだけでもこの事は当然である。その上にまた下賤(げせん)のものが脚部を露出して歩く機会が多いとすればなおさらの事である。また関東に特別に旋風が多いかどうかはこれも充分な統計的資料がないからわからないが、小規模のいわゆる「塵旋風(ちりせんぷう)」は武蔵野(むさしの)のような平野に多いらしいから、この事も全く無根ではないかもしれない』(下線は後の注のために私が附した)と述べているのに高校時代になって接し、あの中学時代の、やっきになって真空鎌鼬を主張した教師と、茫然と立ち竦んでいた「秀才」(私はその彼の氏名を覚えている。ここに記すことさえ出来る)、ボタボタと顔面から血を滴らした同級生を思い出して、無言で頷いたのを思い出す。

「踣」は音「ホク・ボク」で、「倒れる・仰向(あおむ)けに倒れる」(そこから「のめる」と訓ずるケースが多い)、「斃(たお)れる」や「死ぬ」、「倒す・滅ぼす」の意がある。

『東涯翁の「盍簪錄〔こふしんろく〕」』伊藤東涯(寛文一〇(一六七〇)年~元文元(一七三六)年)は京都出身の儒者で、名は長胤(ながつぐ)。古義学派の創始者である伊藤仁斎の長男として、父の家塾「古義堂」を守り、多数の門人を教えた。父の著作の刊行に務め、古義学を集大成した。また、中国の儒教史・語学・制度を、日本と対比させつつ、研究し、膨大な著述を成した。「盍簪錄」(現代仮名遣「こうしんろく」。「盍簪」とは「友人同士が寄り集まること」を謂う語)は漢文体の雑記随筆である。【2020年11月10日改稿・追記】当初、原文に当たれないと記していたが、何時もお世話になるT氏が、「国文学資料館」にある同書の写本(画像)から、当該頁(ここの左端から次の頁。第四巻の「雜載編」中 )を指示して呉れた上、判読・電子化したものをも添えて下さった。以下に感謝して添付(一部に私が手を加えた)する。

   *

東山信州諸國、有一奇疾、春夏之間、盲風颺沙、人偶觸之、當時不覺其所傷、忽成刀斧痕、或云、有一物乘風觸人所致、呼曰「鎌鼬」、亦有一治法、燒化暦日服之則痊恐瘴気之所致、【丙申中元後三日】

   *

「北越奇談」越後の橘崑崙(茂世)の名怪奇談集で文化九(一八一二)年板行。序及び校合監修は戯作者柳亭種彦、挿絵は大部分が浮世絵師葛飾北斎によって描かれているという豪華版の怪奇談集である。私の「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート4 其三「鎌鼬」)」をどうぞ!

「斷毒論」甲斐の医師橋本伯寿が文化六(一八〇九)年に刊行した疫学書で、伝染病を現代的概念で論及した本邦最初の医書とされる。

「關東にある」前の下線部参照。次いでだから、浅井了意の「伽婢子」の巻之十「鐮鼬付(つけたり)提馬風(だいはかぜ)」を電子化しておく。底本は岩波書店の新古典文学大系本を参考に、早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本画像PDF)と校合し、読みの一部は私が推定で歴史的仮名遣で補い、読点や記号も私が増やしてある。

   *

 關八州のあひだに、「鎌いたち」とて、怪しき事、侍り。施風(つぢかぜ)吹(ふき)おこりて、道行人(みちゆきびと)の身に、ものあらくあたれば、股のあたり、竪(たて)ざまにさけて、剃刀(かみそり)にて切(きり)たる如く、口、ひらけ、しかも、痛み、甚だしくも、なし。又、血は少しも出(いで)ず、女蕤草(ぢよすゐさう)をもみて、つけぬれば、一夜のうちに、いゆ、といふ。なにものの所爲(わざ)ともしりがたし。たゞ、『施風(つじかぜ)のあらく吹(ふき)てあたる』とおぼえて、此(この)うれへ、あり。それも、名字(めうじ)正しき侍(さむらひ)には、あたらず。たゞ、俗姓(ぞくしやう)卑しき者は、たとひ、冨貴(ふうき)なるも、これにあてらる、といへり。

 尾・濃・駿・遠・三(び・でう・すん・ゑん・さん)州のあひだに、「提馬風(だいばかぜ)」とて、これ、あり。里人、あるひは[やぶちゃん注:ママ。]馬(むま)に乘り、あるひは馬を引(ひき)てゆくに、施風おこりて、すなをまきこめ、まろくなりて、馬の前にたちめぐり、くるまのわの轉(てん)ずるがごとし。漸々(ぜんぜん)に、その施風、おほきになり、馬の上にめぐれば、馬のたてがみ、「すくすく」と、たつて、そのたてがみの中に、細き糸の如く、いろあかきひかり、さしこみ、馬、しきりに、さほだち、いばひ鳴(いなゝき)て、うちたをれ[やぶちゃん注:ママ。]、死す。風、その時、ちりうせて、あと、なし。いかなるものゝわざとも、知(しる)人、なし。もし、つじかぜ、馬の上におほふときに、刀(かたな)をぬきて、馬の上を拂ひ、光明眞言を誦(じゆ)すれば、其風、ちりうせて、馬もつゝがなし。「提馬風」と號す、と、いへり。

   *

語注しておく。なお、この後者の「提馬風」も、やはり「想山著聞奇集 卷の壹 頽馬の事」にとどめを刺す。前に同じく「柴田宵曲 妖異博物館 提馬風」も併せて読まれたい。

・「關八州」は相模 ・武蔵・安房 (あわ) ・上総 (かずさ) ・下総 (しもうさ) ・常陸 (ひたち) ・上野 (こうずけ) ・下野 (しもつけ) の関東八ヶ国の総称。

・「女蕤草」岩波は『未詳』とする。一つ、サイト「跡見群芳譜」のこちらの記載を見ていると、この単子葉植物綱キジカクシ目キジカクシ科アマドコロ連アマドコロ属アマドコロ Polygonatum odoratum が候補になりそうに思えてくる。本種の漢語別名は「萎蕤」「葳蕤」(イズイ)・「女萎」(ジョイ)である。

・「尾・濃・駿・遠・三州」尾張・美濃・駿河・遠江(とうとうみ)・三河国。

「閑田次筆〔かんでんじひつ〕」国学者伴蒿蹊(ばんこうけい:生まれは近江八幡の京の豪商の子で、同地の同姓の豪商の養子となったが、三十六歳で家督を養子に譲って隠居した)著になる考証随筆。文化三(一八〇六)年刊。「閑田耕筆」の続編。紀実・考古・雑話の三部に分類し、古物・古風俗の図を入れたもの。以下は、巻一の一節であるが、かなり分量があるので、総てを引く(実は「柴田宵曲 續妖異博物館 鎌鼬」で電子化注しているのだが、漢字表記の一部が正字になっていないのが気に入らないので、今回、ゼロからやり直した)。底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本のここ(左頁最終行から次の見開き目一杯まで)を視認した。踊り字「〱」は「々」に、「〱」は正字に代えた。カタカナのみが原文のルビ。後は私が推定で歴史的仮名遣で附した。

   *

○過し壬戌(みづのえいぬ)のとし七月晦日(みそか)、上京今出川邊に一道の暴風、屋を壞(ヤブ)り、天井・床(ゆか)・疊をさへ[やぶちゃん注:ママ。]吹上(ふきあげ)、あるひは、赤金(あかがね)もておほへる屋根などもまくり取(とり)、離(はなし)ちたり。纔(わづか)に幅一閒ばかりが閒にて、筋(すぢ)に當らざれば、咫尺(シセキ)の閒にて、障(さはり)なし、末は田中村より、叡山の西麓にいたりて、止(とま)りし、とぞ。蛇(じや)の登るならば、雨あるべきに、一雫も降らず。これ、「羊角風(ヨウカクフウ)」といふものか、と、いへり。北國にては、折々あることにて、「一目連(イチモクレン)」と号(ナヅ)く、とぞ。又、別に一種の風有(あり)て、俗に「かまいたち」といふは、かくのごとく甚しからねど、此筋にあたるものは、刄(ヤイバ)をもて裂(さき)たるごとく、疵(きず)つく。はやく治(ぢ)せざれば、死にも及ぶ、となん。『これは上方にてはなきことなり』と思ひしに、今、子(ね)のとし、予が相(あひ)識る人の下婢(かひ)、わづかの庭の閒にて、ゆゑなく、うち倒れたり。さて、さまざまに抱へたすけて、正氣に復して後(のち)、見れば、頰(ホウ[やぶちゃん注:ママ。])のわたり、刀もて、切(きり)たるごとく、疵付(きづつき)し、となん。卽(すなはち)、これなるべし。又、是につきて、ある人の話に、「下總國大鹿村の弘敎寺(ぐきやうじ)の小僧、この風にあたりて惱みしに、古曆(ふるごよみ)を霜(クロヤキ)にして付(つけ)しかば、忽ち、治したる」となり。曆を霜にして付(つく)るといふことは、予も、かねて聞及(ききおよ)びしが、これは現證(げんしやう)なり。下總・甲斐の邊にては、窻明(まどあか)り障子なども曆にて張る。かゝれば、彼(かの)風、いらず、といへり。さて、其わたりにては、「風神、太刀を持(もつ)」といふより、「かまへだち」と稱(トナ)ふとかや。「かまいたち」と稱(トナフ)るは、此語を、あやまれるにや、是は語に理〔ことわり〕あり。

   *

語注する。

・「壬戌(みづのえいぬ)のとし」享和二(一八〇二)年。

・「七月晦日」この年の七月は大の月で三十日。グレゴリオ暦では八月二十九日。

・「上京今出川」ここ(グーグル・マップ・データ)。

・「子のとし」翌享和四年甲子。

・「赤金(あかがね)」銅板葺。豪商の家か。

・「一閒」一メートル八十二センチメートル弱。

・「田中村」旧京都府愛宕郡田中村。下賀茂神社の東の対岸附近(グーグル・マップ・データ)と思われる。「田中」を含んだ町名が今も残る。

・「羊角風(ヨウカクフウ)」旋風(つむじかぜ)の異称。風が渦を巻いて吹き上がるさまを「羊の角」に喩えたもの。

・「一目連(イチモクレン)」やはり旋風の異称。『柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 一目小僧(十八)』の私の注を参照されたい。本来は片目が潰れてしまった龍神の名である。小学館「日本国語大辞典」では、『近世、俗間でその霊力を信じられていた神。美濃国では国じゅうを光り回るといい、伊勢国桑名地方では激しい風雨を起こすと伝え、転じて、突風やつむじ風、または構築物の倒壊などの現象をもいう』とするが、この記載はややローカリズムに偏していて(確かに震源地はその辺りでよいが)、ちょっといただけない感じがする。

・「下總國大鹿村の弘敎寺(ぐきやうじ)」これは現在の茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寿亀山天樹院弘経(ぐきょう)寺ここではないので注意!)の公式サイトのこちらに、同寺の嘆誉良肇上人(延文四(一三五九)年生まれ)が『下総相馬郡大鹿村(現在の取手市)に草庵を設け、弘経寺と称したが、飯沼の弘経寺と区別するため「新弘経寺」と呼』んだというのが、ここに出るそれであると考えてよかろう。孰れにせよ、「弘經寺」の誤りである。現在の茨城県取手市白山にある浄土宗大鹿山弘経寺(おおしかさんぐぎょうじ:グーグル・マップ・データ)。

・「古曆を霜(クロヤキ)」(黒焼き)「にして付しかば、忽ち、治したる」民間療法ではしばしば古い暦(こよみ)の服用がこのような治療に用いられるのは、しばしば江戸以前の記録に見られ、明治時代に同様の習慣が田舎にはあったことを私はよく知っている。天文の運行を示して名指した暦には相当な呪力があると考えられたのが由来であろう。先に示した「北越奇談 巻之二 俗説十有七奇 (パート4 其三「鎌鼬」)」にも同様の処方が記されている。

・『さて其わたりにては、「風神、太刀を持(もつ)」といふより、「かまへだち」と稱(トナ)ふとかや。「かまいたち」と稱(トナフ)るは、此語を、あやまれるにや、是は語に理〔ことわり〕あり』これは、風神が抜き身の太刀を持って目にも止まらぬ速さで中空を疾走する、と考えた、だから「構へ」「太刀」で、理が通る、「かまいたち」はそれが訛ったものであって、「鎌鼬」は誤った当て字に過ぎない、というのである。思わず、頷きそうになるが、まず、それらしく見せる後附けの牽強付会である。

『井澤長彥が「俗說辨〔ぞくせつべん〕」』「廣益俗説辨」は江戸前・中期の肥後熊本藩士で神道家の井澤蟠龍(いざわばんりょう 寛文八(一六六八)年~享保一五(一七三一)年)が一般の通説・伝説を和漢の書を引用して検討・批判した啓蒙書。何度か、調べてみたが、どこに載っているか、判らない。従って、『「黑靑」を「かまいたち」と訓』じていること自体を確認出来ないし、その意味も判らない。悪しからず。

『「黑眚」は「しゐ」といふもの也。「大和本草」に詳〔つまびらか〕に見ゆ』中村学園大学図書館の「貝原益軒アーカイブ」の「大和本草」の巻第十六「獸類」PDF)の12から13コマ目にかけてある「黒眚(シイ)」(ここでも下部が「月」となっている)である。読んでみても、何が何だか分からないのは私も同じであるから、安心されよ。だから電子化する気も起らない。モデル動物さえ浮かばない。「投げちゃうの?」かって? いやいや! この「黒眚」、★実は私は「和漢三才圖會卷第三十八 獸類 黒眚(しい) (幻獣)」で、既に考証済みなのである。★そちらを見られたい。――にしても、底本の誤判読、ヒド過ぎだ!!! 或いは、底本の親本が「黑靑」と誤っているのかも知れぬが、にしても、調べるでしょうが! 訳分かんないんだから!

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