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2020/11/21

堀内元鎧 信濃奇談 附錄 犬房丸墓

 

 犬房丸墓

 小出村にあり。工藤祐經が子なり。伊那郡に遠流せられて此に死したりとなん。【「新著聞集」・「千曲眞砂〔ちくまのまさご〕」・「溫知集」・「地名考」等に出づ。】

 按〔あんずる〕に、犬房丸〔いぬぼうまる〕遠流の事、「東鑑」・「曾我物語」等にも見えず。「藩翰譜」を考ふるに、祐經の男〔なん〕、祐時、童〔どう〕、犬房丸、日向國地頭職を賜ひ、今の飫肥〔おび〕城主、其子孫也。【「勢州四家記」を考ふるに、伊勢の工東〔くどう〕氏も、其子孫なり。】此にあるべきにあらず。何を誤傳〔あやまりつた〕へたるにや。

 

[やぶちゃん注:「犬房丸墓」「犬房丸」とは曾我兄弟の仇討ちで討たれた工藤祐経(久安三(一一四七)年?~建久四年五月二十八日(一一九三年六月二十八日)の子である伊東祐時(文治元(一一八五)年~建長四(一二五二)年)の幼名である。頼朝は、生き残った曾我時致(ときむね)が語った仇討に至った心情を考慮し、彼を助命しようと考えたが、当時九歳であった犬房丸が泣いて訴えた結果、工藤一族に引き渡されて処刑されている。後、流罪になったという話も聞かない六十八歳で没した人物が、幼名で、墓というのは如何にも怪しい。長野県伊那市西春近小出にある日蓮宗深妙寺(グーグル・マップ・データ)には伝承の一つがある。同寺の公式サイトのこちらによれば、この伊那春近は鎌倉幕府直轄領であったとある。同サイト内に「工藤祐経・祐時父子供養の寺」があり、この伝承が詳細に検証されているので、是非、読まれたい。なお、犬房丸の同寺が供養している位牌には「感應院殿唐木前但州大守深圓俊光大居士」と記されている(画像有り)。「院殿」「大居士」とはとんでもなく振るった戒名であるが、同寺が依頼して、放射性炭素年代測定を行って貰ったところ、約六百年『程前の松材に紅殻で記された位牌であることがわか』ったとあり、さらに、『日本で院殿号の戒名が最初につけられたのは足利尊氏』である『から、尊氏以後に犬房丸の諡号が付けられ』ことが判るとあり、『足利尊氏以前の武将で院殿号』を持つ『戒名(法号)と位牌はすべて尊氏以後』に『作られたもの』ともある。この周辺には、ここだけでなく、複数の犬房丸伝説があって、例えば、ひろさく氏のブログ「季節の話題(長野県内の市町村)」の「伊那・犬房丸公の墓~工藤大和守祐時公~」によれば、『伊那市西春近の常輪寺境内』(曹洞宗。深妙寺の北北西九百メートル位置にある(グーグル・マップ・データ)。当寺では彼を開基とする)『にある犬房丸(工藤大和守祐時)の墓』の写真と、「大通院殿覺翁常輪大居士」という戒名を彫った顕彰碑を確認出来る。鎌倉史は私の守備範囲であるが、この「犬房丸伝説」は少なくとも史料的なものの中にはそれを裏付けるようなものはないと思われる。不思議としか言いようがない。所謂、超有名な「曾我物語」の敵役方を、父を殺された悲劇の少年犬房丸を積極的に庇う形でスピン・オフし、アレンジした伝承とも言うべきであろう。

「小出村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市小出』とある。長野県伊那市西春近小出は現在、一区・二区・三区に別れ(グーグル・マップ・データ)、深妙寺は三区、常輪寺は一区の内にある。

「新著聞集」俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「信州七嶌(ななしま)犬房丸塚」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点・記号を加えた。

   *

むかし、曾我兄弟夜討(ようち)の時、五郎時宗(ときむね)[やぶちゃん注:ママ。]生捕(いけどら)れしに、祐恒(すけつね)[やぶちゃん注:ママ。]が子、犬房丸(いぬぼうまる)、扇にて五郎が靣(つら)をうちける事を、右大将、きこしめされ、「誠にかの兄弟が振まひ、程こそあるまじきに、犬房が十歲にあまり、親の敵(かたき)とあらん者の、靣を搏(うつ)といふ事や、武士の道に疎(おろそ)かなり。かゝる不覺の者、我、召(めし)つかふ事、叶はじ。いづくにても、七嶌あらん所へ遠流(をんる)せよ。」との、御氣色(きしよく)、しきりなりし。「七嶋」とありしは、故ある事にや。幸ひ、信州伊奈郡(いなこほり)にこそ、大嶋・狐嶋・殿嶋・小出嶋・福嶋・飯嶋・松嶋とて、一所(いちしよ)に候と申たりしかば、上伊奈郡の内、小出・宮田・諏訪・赤木・中越(なかこし)、これを「治親五鄕(はるちかごきやう)」といふを、所領にたまはり、左遷せられ、家來、棠木(とうき)・城氏(じやううぢ)、二人、つきそひ奉りてありし。犬房、つゐに、赦免なくして、身まかりしを、小出嶋の上なる山際(やまぎは)に葬(はふむ)る。この塚、夜ごとに燃(もゆ)る事、むかしより、今に至て、絕(たへ[やぶちゃん注:ママ。後も同じ。])侍らず。犬房の末葉(ばつよう[やぶちゃん注:ママ。])は、近比(ちかごろ)たへしかど、棠木氏は、今にありし。城氏の跡も、亦、此ごろ、殘りなく侍りしとなり。

   *

父を殺された数え九歳の少年が、かの頼朝が命を救っていしまいそうな仇の顔を、せめても、鉄扇で打ったからといって、頼朝がかくも不興がるだけでなく、遠流並みの左遷を命ずること自体が私には理解不能で、一読、作り話としか思えない。

「千曲眞砂」「千曲之眞砂」。江戸中期の郷土史家で俳人の瀬下敬忠(せじものぶただ)が宝暦三(一七五三)年)に完稿した信濃国の地誌。瀬下は信濃国佐久郡野沢村生まれで、岩村田藩信(濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩)御用達や村役人を勤め、郷士身分となった瀬下敬豊の三男であった。父から立羽不角流の俳諧の薫陶を受けるが、それに飽き足らず、元文四(一七三四)年に江戸に出、五色墨派の俳人松木珪琳に師事し、帰郷した。翌年、岩村田藩に仕官し、宝暦三(一七五三)年に致仕した。安永七(一七七八)年に小県郡(ちいさがた)に隠居し、「極月楼」と名付けた庵を結んだ。著作は数十に上るが、殊に生涯をかけて信濃の地理・歴史などの研究に打ち込み、本書はその集大成であった。

「溫知集」関盛胤著「伊那溫知集」か。

「地名考」吉澤好謙著「信濃地名考」か。

「曾我物語」軍記物語。作者不明。真名本(まなぼん:擬漢文体)十巻、大石寺本(たいせきじぼん)十巻、仮名第一次本十巻、同第二次本十二巻があり、原型は弘安八(一二八五)年十一月以前には成立していたとも推測され、「吾妻鏡」にこれに近い記事が載る。真名本・仮名第一次本は南北朝の十四世紀後半に、それぞれ原型を改訂増補して成立したものと考えられている。

「藩翰譜」新井白石著になる家伝・系譜書。全十二巻。元禄一五(一七〇二)年成立。元禄一三(一七〇〇)年に甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したとされる。諸大名三百三十七家の由来と事績を集録し、系図を附したもの。慶長五(一六〇〇)年から延宝八(一六八〇)年までの内容が収録されている、短期間で完成させたもので、事実誤認があり、白石自身が後に補訂を加えている。

「飫肥城主」飫肥城は日向国南部(現在の宮崎県日南市飫肥。グーグル・マップ・データ)にあった城で、江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。ウィキの「飫肥城」によれば、『飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏』(つちもちし)『が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられ、飫肥院とも呼ばれていた。時代は下って、室町時代末期の』長禄二(一四五八)年、『九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、鎌倉時代から日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、志布志城主で島津氏の一族である新納忠続』(にいろただつぐ)『を飫肥城に入城させた』。『戦国初期は薩摩国の戦国大名島津氏の属城で、はじめ』、『築城主の土持氏が治めていた』が、文明一六(一四八四)年、『日向中北部を支配する伊東氏が土持氏を裏切り』、『飫肥に侵攻し、当時の当主である伊東祐国が戦死すると、伊東氏の本格侵攻を恐れた島津氏は、領土の割譲と戦』さ『の原因となった飫肥城主の交代(このときより飫肥城は島津豊州家の支配となる)によって急場を凌いだ。しかし、当主を失った伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられることとなる』。永禄一〇(一五六七)年、『念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし』、元亀三(一五七二)年に『伊東氏が木崎原の戦いをきっかけに没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び』、『島津氏の支配となった』。『伊東氏の没落によって両氏の争いに終止符が打たれたかに思われたが、飫肥を失った伊東祐兵』(すけたけ/すけたか)『が羽柴秀吉に仕え』、『九州平定に参加し、九州平定軍の先導役を務め上げた功績により』、天正一五(一五八七)年に、再び、『飫肥の地を取り戻し、大名として復帰を成し遂げた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど』、『巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした』とある。この日向伊藤氏は、まさしく、伊東祐時が鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられ、庶家を下向させたことが始まりである。参照したウィキの「伊東氏」の「日向伊東氏」によれば、『これらはやがて』、『田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら』、『日向に東国武士の勢力を扶植していった』とある。

「勢州四家記」江戸時代の軍記の一つ。当該記載は国立国会図書館デジタルコレクションの「群書類従」所収の冒頭に出る(右ページ最終行)。

「伊勢の工東氏」伊勢国に勢力を持った有力国人一族の長野工藤氏(ながのくどうし)のことであろう。ウィキの「長野工藤氏」によれば、『単に長野氏とも呼称されるが、元来は工藤氏を称していたため、他の長野氏と区別するために、「長野工藤氏」と呼称されている』。『藤原南家乙麿(乙麻呂)流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の』二『郡を給わり、その子・祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのが、長野氏の起源である』とある。]

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