堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 大蛇
大蛇
天正の頃、大かや村に、大蛇、住〔すみ〕けるよし聞えければ、高遠の藩士に井深九郞兵衞〔ゐぶかくろべゑ〕といへる人あり、
「打平〔うちたひらぐ〕べし。」
と、大刀〔だいたう〕提げて尋〔たづね〕ゆきけるに、叢〔くさむら〕の中に、眠居〔ねむりゐ〕たり。
なんなく、首〔くび〕をうち落しければ、あな、おそろし、胴の動く響〔ひびき〕、地震〔ぢしん〕のごとし。
其首、飛揚〔とびあが〕り、井深を目がけて追來〔をひきた〕る。
井深は小澤〔をざは〕の阪〔さか〕まで逃行〔にげゆき〕しが、
『今は、かうぞ。』
と踏留〔ふみとどま〕り、身をひらきて切倒〔きりたふ〕し、其身も、そこに組死〔くみじに〕しけるが、漸〔やうやう〕いたはり、快復しけるとぞ、「新著聞集」に見へたり。
今、按ずるに、梨木村に「大蛇洞」と唱ふる地あり。大かや村に近ければ、大蛇の住〔すみ〕しは、其地にや有〔あり〕けん。
また、小平内記が、天龍川にて、大蛇切〔きり〕し事、「小平物語」に見ゆ。
今も稀には、大蛇、出〔いづ〕る事あり。近きころ、松島および小河内の里人、深山に入〔いり〕て大蛇を見て、逃〔にげ〕かへりし者あり。
我〔わが〕信州は、山より山の深ければ、かゝる非常の物も住〔すみ〕ける、と見えたり。いとおそろしき事どもなり。
[やぶちゃん注:「天正の頃」一五七三年から一五九二年。
「大かや村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市西箕輪大萱』とある。ここ(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。
「藩士」これは江戸より前の話であって当時、「藩士」とは呼ばない。「高遠の城主の家士」辺りであるべきだろう。
「井深九郞兵衞」先に誰の家臣かを考証する。当時の初期の高遠城主は、武田信玄の実弟武田信廉、武田勝頼異母弟仁科盛信(信盛)。天正一〇(一五八二)年二月の織田信長の本格的な武田攻め(甲州征伐)で盛信は戦死し、城は落城、直後に武田氏は滅亡した。その後の信濃伊那郡は織田家臣毛利長秀が支配したが、織田氏時代の城主は不明で、伊那郡支配の拠点として機能していたかどうかさえ疑問視されている。同年六月に「本能寺の変」が起こると、甲斐・信濃の武田遺領を巡る「天正壬午の乱」が発生する。上伊那郡にあっては、諏訪氏の一族で上伊那郡福与城(現在の長野県上伊那郡箕輪町)を拠点としていた藤沢頼親が復帰したが、藤沢頼親は保科正直に攻められ、田中城で子の頼広とともに自害した。その後は徳川家康が下条頼安・小笠原貞慶ら信濃国衆を送り込み、同年七月十五日までに高遠城を奪還しえいる。その後は家康方の保科正直保科正直が高遠城に入り、これを豊臣秀吉方に寝返った小笠原貞慶が攻めたが、撃退されている(以上は主にウィキの「高遠城」を参考にした)。天正後期の戦乱の最中に大蛇退治もあるまいから、武田時代の話という設定であろうなどと思っていたが、以下に示す原拠(そこで『信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時』と始まる)から、保科正光(彼は後に初代高遠藩主となり、従五位下で肥後守を叙されているからである)の家士(という設定)であることが判明した。保科正光(永禄四(一五六一)年~寛永八(一六三一)年)は甲斐武田氏の元家臣で家康に寝返った保科正直(後述する)の長男として生まれ、天正十年の武田氏滅亡後は、武田勝頼の人質になっていたのを、井深重吉(後注する)によって救出され、家康に従い、高遠城を預かった。天正十二年の「小牧・長久手の戦い」や、天正十八年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東移封に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。天正十九年の「九戸政実の乱」の鎮圧にも参加し、天正二十年からの「文禄・慶長の役」においても家康に従って、肥前名護屋城に在陣した。慶長五(一六〇〇)年の「関ヶ原の戦い」では、東軍に属して遠江浜松城を守備し、戦後二ヶ月ほどは越前北之庄城に城番して派遣されていたが、同年十一月に旧領に戻され、高遠藩二万五千石を立藩し初代高遠藩主となった(ここはウィキの「保科正光」に拠った)。父の保科正直(天文一一(一五四二)年~慶長六(一六〇一)年)についても簡単に述べておくと。信濃の国衆の一人で、もとは甲斐武田氏の家臣であったが、後に家康の家臣となった。天正一〇(一五八二)年の織田・徳川連合軍の「甲州征伐」に際しては、武田方として飯田城に籠城し、二月十四日に織田信忠による攻勢を受け、坂西織部亮・小幡因幡守らとともに高遠城へ逃亡し、そこで仁科盛信とともに籠城していたが、結局、高遠城を退去し、実弟内藤昌月(まさあき)を頼って、上野箕輪城へ逃れた。「本能寺の変」以後の「天正壬午の乱」にあっては、昌月とともに後北条氏に組みし、正直・昌月兄弟は小諸城から甲斐に向けて進軍する後北条軍の別働隊として高遠城を奪取することに成功した。しかし、その後、甲斐に於ける「黒駒合戦」で家康が優勢に経つと、依田信蕃・木曾義昌ら、他の信濃国衆とともに徳川方に転じた。北信濃を除く武田遺領を家康が確保すると、二万五千石を領した。天正一二(一五八四)年に「小牧・長久手の戦い」が起きると、木曾義昌が豊臣秀吉に寝返ったため、家康は、正直・諏訪頼忠・小笠原貞慶ら信濃衆を木曾に派遣したものの、充分な戦果を上げられず、正直を抑えに残して撤退した。天正一三(一五八五)年には上杉景勝に通じた真田昌幸の拠る「上田城攻め」(第一次上田合戦)に従軍して活躍、その後、家康の異父妹久松松平氏と縁戚となることで、力を伸ばした。天正一七(一五八九)年に秀吉が京都大仏を造営するに当たっては、家康の命で、富士山の木材伐採を務めている。天正一八(一五九〇)年の「小田原征伐」にも参加し、家康の関東入部に伴って下総国多胡に一万石の領地を与えられた。慶長六(一六〇一)年九月二十九日、高遠城で死去。享年六十であった(以上はウィキの「保科正直」に拠った)。さすれば、本篇の時制設定は天正(二十年まである)の十年以降の後半ということになる。
さて。問題は主人公である。先の記した正光を救った人物に保科家重臣であった井深茂右衛門重吉がいた。その子茂右衛門重光は高遠藩第二代藩主保科正之(第二代徳川幕府将軍徳川秀忠の四男で正光の養子となった)の家老となり、正之の埋葬の際は祭式に加わっており、他に参加を許されたのは山崎闇斎・吉川惟足・服部安休(森蘭丸の孫)など僅か七名であった。まずは、この保科家重臣の井深家の誰かであると考えるべきであろう。ウィキの「井深宅右衛門」(幕末から明治にかけての元会津藩士で地方官吏・教育者であった井深家の末裔)の「井深家」の項によれば、『室町時代初期の大塔合戦に井深氏の名が登場する。守護小笠原氏の一族で侍大将として善光寺に入り、現在の長野市後町(後庁ー御庁)において、もっぱら政務に携わった井深勘解由左衛門で後庁氏の名もある。大塔合戦敗戦後は小笠原氏の本拠である現在の松本市近くの岡田伊深にある伊深城山を拠点として戦国時代をむかえた。武田信玄の信濃侵攻により』、『主家の小笠原氏が出奔したため』、『隣接地の武田側領主である大日方氏に仲介を依頼して武田氏に従属した』とある。因みに、この井深家の末裔には、「SONY」の創業者の一人である井深大(まさる)もいる。
「小澤の阪」大萱の南方直近の長野県伊那市小沢であろうが、「阪」(坂)は判らぬが、貫流する小沢川の直近の左岸部分は丘陵地になっているから、そこへの登り口ということであろうか。
「今は、かうぞ。」「今は、これまで!」「最早、最期ぞ!」の意。
「新著聞集」俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勇烈篇第七」の「信州高遠大蛇を斬害す」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本(PDF。同書の第七・八・九巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。踊り字「〱」は正字化した。標題には訓読文を添えた。
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○信州高遠斬二害大蛇一(信州高遠 大蛇を斬害(ざんがい)す)
信州高遠に、保科肥後守殿、おはせし時、伊奈郡(いなこをり[やぶちゃん注:ママ。])蓑輪の中、大茅原(かやはら)に、大蛇、幡居(わだかまり)けるよし、鷹匠頭井深九郞兵衞に、組下くみした)より告(つげ)ければ、「さるもの、見とゞけ置(をく[やぶちゃん注:ママ。])べし」とて、草むら深く、わけ入りしに、大蛇、眠(ねむ)り入り、劓(いびき)[やぶちゃん注:漢字はママ。これでは「鼻削ぎ」の刑である。]の音は、臼(うす)をひくがごとく、ちかぢかと忍びより、雜作(ざうさ)なく、首(くび)をうち落しければ、頸(くび)、たちまち、地にかぶりつき、胴のうごく事、地震(ぢしん)のごとくにて、切口(きりくち)より、白き氣(き)の立けるが、俄かに天かき曇り、雷電(らいでん)四方にひらめき、雨、大河をうつすがごとし。九郞兵衞も、『すはや、身の大事ぞ』とおもひ、急ぎ立かへり、小澤(こさは)の坂を下る所に、大虵(じや)、跡より、一さんに追かけ來れり。『今は、遁(のが)れじ』とおもひ、拔設(ぬきまうけ)たる刀を以て、ひらひて、切倒す。その身も絕死(ぜつじ)しけるを、人〻、あつまり、漸くに連(つれ)かへれり。百日ばかりやみて、快氣しけり。雨、晝(ひる)、やみ、間もなく、三日、ふりしかば、信州一國は洪水にて、所所、損亡せり[やぶちゃん注:ここはシークエンスが大蛇退治の直後に戻っている。]。晴(はれ)てのち、かの地に徃〔ゆき〕てみれば、頸(くび)は茅原(かやはら)にあり、胴は小澤にありし。見る人ごとに、身の毛竪(けよ)だちて、恐れり。
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「梨木村」向山氏の補註に、『現、長野県伊那市西箕輪梨木』とある。梨ノ木(なしのき)と表示する。ここ。地区の北西が経ヶ岳の山麓になっている。
『梨木村に「大蛇洞」と唱ふる地あり』確認出来ない。
『小平内記が、天龍川にて、大蛇切〔きり〕し事、「小平物語」に見ゆ』「小平物語」は「河童」で既出既注であるが、再掲する。向山氏の補註に『小平向右衛門』(慶長一〇(一六〇五)年~元禄(一六九六)年)『が、天文以来の甲信戦乱の有様や、その一族の動静を物語風に筆録したもの。向右衛門は』『兄、伊太夫の養子となり、長じて漆戸向右衛門正清と改め、江戸に出て幕府に仕え、致仕後、小河内(現、長野県上伊那郡箕輪町小河内)に住み、貞享三(一六八六)年』に『この物語を書』いたとある。本書が続編に含まれている信濃地誌「蕗原拾葉」の正編にこの「小平物語」は含まれており、幸いにして、国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている昭和一〇(一九三五)年長野県上伊那郡教育会編の「蕗原拾葉」第一輯のここから次のページにかけてで当該談を視認出来る。この話は、同書の「第三十一 天流川[やぶちゃん注:ママ。]由來柴太兵衞河童ヲ捕フル事 附タリ漆戶右門大蛇ヲ殺ス事」に含まれている。その部分だけを電子化しておく。原文は漢字・カタカナ・ひらがな交じりであるが、カタカナはひらがなに直し、さらに一部の助詞・助動詞相当の漢字をひらがなにして(対象さされば判る)、句読点・濁点を打ち、推定で読みを歴史的仮名遣で附した。なお、既にお判りの通り、元恒の謂いには誤りがある。大蛇退治をしたのは漆戸右門(うるしどうもん)という武士であり、以下の最後にある通り、小平内記は漆戸の家の近くの住人であったというだけのことで登場しているに過ぎない。
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去る程に、「羽場の淵」[やぶちゃん注:先の「河童」の話の舞台。]より十町[やぶちゃん注:一・〇九キロメートル。]計り河下に「同善淵」迚(とて)、凄冷敷(すさまじき)淵、水上(みなかみ)靑く、あたかも身の毛も悪寒するがごときなり。七月下旬、家士に鵜(う)を遣はせて、漆戶右門、見物して居(を)る處に、折節、小雨降り、鵜、一圓に進まず。兎角、河原へ飛上りける。家來共(ども)、言ふ、「淵の内に大木の樣なるもの見へ[やぶちゃん注:ママ。]候」と。鵜遣ひの者、陸(をか)へ上りければ、右門、怪敷(あやしく)思ふて、陸には、大炬火(おほたいまつ)を燈させ、自身も炬火をもち、鵜繩を取(とり)て、淵岸(ふちぎし)へ出(いで)、鵜を追入(おひいれ)けれども、是れにても、一圓、進まず。暴(にはか)に、風、吹き、漣(さざなみ)、頻りに打ち入るなり。右門、不思議におもひ、松明(たいまつ)を振り立て見れば、何とも知らず、獅子の頭(かしら)の如くなるに、兩眼、日月の如くにて、口をあき、沖の方より、右門を目懸け、間近く來りければ、左の手に松明をふり立て、二尺二寸の大脇差を拔きければ、口をあひて、掛りける處を、左の手に持ちたる松明串(たいまつぐし)を口え[やぶちゃん注:「へ」であろう。]火共(とも)に突込(つつこみ)ければ、水をはたき、淵、鳴動して、見へざるなり[やぶちゃん注:ママ。]。夫(それ)より、右門、下々(しもじも)、召し連れ歸りけり。明朝、彼(かの)淵を見れども、何事、なし。三里許り下(しも)の「眼田河原」[やぶちゃん注:頭書があり、『眼田河原は澤渡村下の河原を言(いふ)』とある。]といふ處に流れ上(あが)る。其の長さ十間[やぶちゃん注:十八メートル二十センチメートル弱。]計りの大蛇なり。鬣(たてがみ)[やぶちゃん注:鱗が逆立っていたものか。]の長さ四尺、左右に六本の牙、上下に四枚、牛の齒の如く小齒あり。首、半分、切れ、炬火串を嚙(かみ)、死(しし)たりける。「前代未聞の見物」と、貴賤、群集(ぐんじゆ)せり。扨、右門主從、蛇毒(じやどく)に當り、煩ひぬ。小平内記、上(かみ)[やぶちゃん注:昔。]、漆戶の家舗(やしき)より、六、七丁、河上なり。天正年中の事なり。
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「眼田河原」は恐らく伊那市西春近沢渡であろう。中央上部が羽場(同善淵の位置は確定できないが、個人的には記載の距離表示から、この辺りかな? と推定している)であるから、えらく川下に流されたものである。実測で二十キロメートル近く離れている。
「松島」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡箕輪町松島』とある。ここ。
「小河内」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡箕輪町小河内』とある。ここ(これのみ「Yahoo!地図」)。]