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2020/11/08

北原白秋 邪宗門 正規表現版 パート「古酒」・辞・戀慕流し

 

Kosiyu

 

   古  酒

 

[やぶちゃん注:パート標題と石井柏亭の挿絵。亀の形を模した吹き出しを持った手水鉢のようである。「古酒」は迷ったが、以下の辞を読むに、これのみ「ふるざけ」と読むのはおかしいと感じたので、「こしゆ」と読んでおく。]

 

 

こは邪宗門の古酒なり。近代白耳義の所謂フアンドシエクルの神經には柑桂酒の酸味に竪笛の音色を思ひ浮かべ梅酒に喇叭を嗅ぎ、甘くして辛き茴香酒にフルウトの鋭さをたづね、あるはまたウ井スキイをトロムボオンに、キユムメル、ブランデイを嚠喨として鼻音を交へたるオボイの響に配して、それそれ匂强き味覺の合奏に耽溺すと云へど、こはさる驕りたる類にもあらず。黴くさき穴倉の隅、曇りたる色硝子の窻より洩れきたる外光の不可思議におぼめきながら煤びたるフラスコのひとつに湛ゆるは火酒か、阿刺吉か、又はかの紅毛の珍酡の酒か、えもわかねど、われはただ和蘭わたりのびいどろの深き古色をゆかしみて、かのわかき日のはじめに秘め置きにたる樣々の夢と匂とに執するのみ。

 

[やぶちゃん注:以上は「古酒」のパート表題の裏、見開き右ページにごくポイント落ちで印刷された辞。

「白耳義」ベルギー(オランダ語:België/フランス語:Belgique)。

「フアンドシエクル」フランス語の「fin de siècle」(ファン・ダァ・シィエクル)フランスなどで文芸方面に於いて退廃的傾向が強く現われた「世紀末」の意。

「柑桂酒」音で読めば「かんけいしゆ」であるが、前に徴すれば、白秋高い確率で「キユラソオ」と読んでいる。「Curaçao」(フランス語)でリキュールの一種。古くからオランダが主産地で、現在もオランダ自治領であるカリブ海のクラサオ(キュラソー)島特産のビター・オレンジの未熟果の果皮を乾燥させ、基酒であるラムに浸出したもの。フランス産キュラソーはブランデーを基酒とする。オレンジ色のオレンジ・キュラソーや無色のホワイト・キュラソーなどがあり、アルコールは約四十度と高く、カクテルによく用いられる。ブルー・キュラソーの色がよく知られるが、オレンジ・キュラソーを樽熟成させたものは褐色を帯びる。ここで出た二箇所のそれは、後者はそのままであるが、前者は、その色を想像の航海する帆船の色に転じたものである。

「喇叭」「らつぱ」(ラッパ)。

「茴香酒」そのまま読むなら、「ういきやいしゆ(ういきょうしゅ)」であるが、前に徴すれば、白秋高い確率で「アブサン」と読んでいる。「absinthe」(フランス語)。音写するなら「アプサァント」。古くからフランス・スイス・チェコ・スペインなどを中心にヨーロッパ各国でニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科キク亜科ヨモギ属ニガヨモギ Artemisia absinthium)・アニス(英語 anise。双子葉植物綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum)・ウイキョウ(セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare)などを中心に複数のハーブやスパイスを主成分として作られてきたアルコール度の高い(四十~八十九%)薬草系リキュールの一つ。元はギリシア語の「ヨモギ」を意味する「アプシンシオン」に由来する。

「キユムメル」キュンメル。「Kümmel」(ドイツ語)。リキュールの一種。名称はヒメウイキョウ(キャラウェイ:caraway)のドイツ語。キャラウェイの香りが強い無色の酒で、他にコリアンダー・アニス・レモンなどの香味を精製アルコールに配合してある。初め、バルト海岸のリガで造られ、オランダ・フランス・北ヨーロッパへと普及した。香りの強さやアルコール分・糖分の含有量によって三タイプがある。糖分十~二十%、アルコール度数四十度。

「嚠喨」「りうりやう(りゅうりょう)」と読む。楽器・音声が冴えてよく響くさま。

「類」「たぐひ」と読んでおく。

「火酒」「くわしゆ(かしゅ)」であるが、「ウオツカ」或いは「ウオトカ」(ロシア語:vodka)と読みたい気はする。

「阿刺吉」「あらき」(オランダ語:Arak:アラック)で、オランダの火酒の一種。

「珍酡」「ちんた」(ポルトガル語:Vinho-tinto:ヴィーニョ・ティント:「Vinho」が「ワイン」、「tinto」は「赤」の意)で、ポルトガル産の赤葡萄酒の名。

「和蘭」オランダ。]

 

 

 戀慕ながし

 

春ゆく市(いち)のゆふぐれ、

角(かく)なる地下室(セラ)の玻璃(はり)透き

うつらふ色とにほひと

見惚(みほ)れぬ。――潤(う)るむ笛の音(ね)。

 

しばしは雲の縹(はなだ)と、

灯(ひ)うつる路(みち)の濡色(ぬれいろ)、

また行く素足(すあし)しらしら、――

あかりぬ、笛の音色(ねいろ)も。

 

古き醋甕(すがめ)と街衢(ちまた)の

物燒く薰(くゆり)いつしか

薄らひ饐(す)ゆれ。――澄みゆく

紅(あか)き音色(ねいろ)の搖曳(ゆらびき)。

 

このとき、玻璃(はり)も眞黑(まくろ)に

四輪車(しりんしや)軋(きし)るはためき、

獸(けもの)の温(ぬる)き肌(はだ)の香(か)

過(よ)ぎりぬ。――濁(にご)る夜(よ)の色。

 

ああ眼(め)にまどふ音色(ねいろ)の

はやも見わかぬかなしさ。

れんほ、れれつれ、消えぬる

戀慕(れんぼ)ながしの一曲(ひとふし)。

四十年二月

 

[やぶちゃん注:「戀慕ながし」「戀慕流し」で、「鈴慕流(れいぼなが)し」の別名。これは、虚無僧が尺八曲「鈴慕」を吹きながら托鉢して歩くこと、或いは、その虚無僧や曲を言う。曲はYouTube の yaoiboi92 B-sides 氏の西村虚空氏の「鈴慕」で聴くことが出来る。

「地下室(セラ)」三字へのルビ。「cellar」(英語)・「cave」(フランス語:カーヴ:フランス語では「人工的な地下室」の意)で、語源は「地下の食料庫・酒庫」を意味するラテン語「cellarium」(ケラリウム)。老婆心乍ら、「角(かく)なる」は「地下室(セラ)」ではなく、「玻璃(はり)」の窓を修飾する。

「縹(はなだ)」空の縹色(はなだいろ)。明度が高い薄青色のこと。「雲の」とすることで、その白さが暮れ行く空の最後の青さを引き立てている。

「れんほ、れれつれ、」曲調とその曲の別名から引き出したオノマトペイア。]

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