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2020/11/12

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 駒嶽

 

信濃奇談 卷の下

堀内元鎧 錄

 

 駒嶽

 

Kisokoma

 

[やぶちゃん注:本篇中ほどにある見開きの駒ヶ岳の図。原本はこちら。底本の上図は擦れがひどく見るに堪えない(特に図中のキャプションは一部が見えなくなってしまっている)ので必ず鮮明で綺麗な原本で見られたい(早稲田大学図書館「古典総合データベース」は画像の引用使用を一切認めていないので示すことは出来ない)。図中に書き入れられた漢詩(図の右端)と和歌(図の左端)は以下。

   *

勒駒嶽銘

  源俊豈

靈育神駿

高逼天門

永鎭封域

維嶽以尊

 

 

     藤原家經

風こしの峯のうへ

   にて見るときは

  雲はふもと

    のものにそ

      ありける

   *

図に附されたキャプションは右から、

   *

             ハイ松

        農池〔のうがいけ〕

  天狗嶽〔てんぐだけ〕

     勒銘山〔ろくめいざん〕

 錫杖岩〔しやうじやういは〕

   *

である。

・「ハイ松」は裸子植物門マツ綱マツ目マツ科マツ属 Strobus 亜属 Strobi 節ハイマツ Pinus pumila の群落を指す一般名詞である。

・「農池」は「濃ヶ池」(のうがいけ)で、中央アルプス唯一の氷河湖の姿を残すものである。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真。但し、残雪で池は見えない)。この池の標高は二千六百五十メートルである。

・「天狗嶽」前の濃ヶ池と伊那前岳の位置から、これが中央アルプス木曾山脈の主峰である木曽駒ケ岳(標高二千九百五十六メートル)かと初めは思った(ここ。グーグル・マップ・データ航空写真)のだが、わざわざ別名で記すのもおかしいと気がついて、地図と首っ引きで考えてみたところが、実はこの絵には不思議なことに木曾駒ケ岳は描かれていないというか、名指されていない。これ、「駒嶽」という文章標題にしてヘンな絵図なのあった(正直、またしてもガックリさせられた)。この「天狗嶽」とは、天狗岩(グーグル・マップ・データ航空写真)のことである。この俯瞰図は、まず、パースペクティヴがおかしく(これは時代と描いた人の能力の問題で仕方がない)、しかも南北のピークの位置関係が妙に引き伸ばされてしまっているようなのである(一点透視図になっていない。寧ろ、三つのピークを左・中央・右で俯瞰位置をそれぞれにズラして描いている。本来は、「錫杖岩」(後に注する通り、現在の宝剣岳)のすぐ右手にくっついて「天狗岩」は描かれなくてはならない(前の天狗岩を参照)。木曾駒ケ岳はこの妙な引き延ばしによるなら、図の右手の遙か外にあることになるのである。

・「勒銘山」伊那前岳(グーグル・マップ・データ航空写真)。その近くの稜線に先の漢詩を刻んだものがあり、それを顕彰する碑(昭和初期建立)もある。上記リンク先のサイド・パネルの写真で後者の碑が見られる。標高は二千八百八十三メートル。

・「錫杖岩」恐らくこれは木曾駒ケ岳から天狗山荘を抜けて南位置にある宝剣岳であろう(グーグル・マップ・データ航空写真)。標高は二千九百三十一メートル。サイト「宮田村インターネット博物館」の「駒ヶ岳(千畳敷カール・宝剣岳・中岳・本岳・前岳)」には、『古くは錫丈』(しゃくじょう)『岳または』剣ヶ峰(けんがみね)『と称した。この岩の西方に突出』『して天狗岩がある』とあり、写真で見ると、本当に天狗の横顔に見えるのに吃驚した。その天狗岩が天狗嶽ではないかと思われる方もあろうが、位置的に有り得ない。そもそも木曾駒ケ岳を書いているのに、付図に木曾駒ケ岳が描かれないということはあり得ないからである。

 漢詩は向山氏の「勒駒嶽銘」補註に、『永は長が正しい』とあるので、それで訂した。サイト「宮田村インターネット博物館」の「勒銘石」(ろくめいせき)にある訓読を参考にしつつ、一部は独自に訓読した。

   *

勒駒嶽(ろくくがく)の銘

           源俊豈(げんしゆんがい)

靈(れい) 神駿(しんしゆん)を育(はごく)み

高く 天門に逼(せま)る

永く 封域(ふういき)を鎭(しづ)め

維(こ)れ 嶽(がく) 以つて 尊(たつと)し

   *

この漢詩は上記リンク先他によれば、天明四(一七八四)年七月二十五日に当時の高遠藩郡代であった阪本天山(さかもとてんざん 寛保二(一七四二)年~享和三(一八〇三)年:源俊豈(みなもとのとしやす))が宮田村から駒ヶ岳検分のために登攀、『藩士及びお供合わせて』十六『をもって、地元の村役人ほか』、『人足・石工など』六十『余人』という驚くべき数の一行で、『太田切川』(截田渓渓谷(たぎりがわけいこく)の『中御所谷を経ヘて登』り、『日暮れて千畳敷の末端』の「日暮(ひぐらし)の大滝」『付近に野営』『した。道に窮』したが、『北方の前岳斜面をたどり』、『稜線』『に至』ることができ、『眺望絶佳』、『近くには濃ヶ池方面、遠くは伊那谷、高遠方面が眺』『められた』。天山は『ただちに詩を詠』じ、『門人岡村忠彝』(おかむらただつね)『をして篆書』『せしめ、石工をして』その場で岩面にその詩を『彫らせた』とあり、それは現在も残っていることが、添えられた写真で判る。必見!

 和歌は頭書にある通り、「詞花和歌集」(平安後期の勅撰和歌集。「八代集」の第六。崇徳院の院宣によって藤原顕輔が撰し、仁平元(一一五一)年頃に成立した)の巻第十の「雜下」にある一首(三八九番)、

   *

  信濃の守(かみ)にてくだりけるに、
  「風越(かざこし)の峰」にて。

風(かざ)こしの峰(みね)のうへにてみる時は

   雲はふもとのものにぞありける

   *

で、「風越の峰」(「かざごし」とも読む)は信濃国の歌枕で、長野県南部の飯田市の西方にある木曾山脈の一峰(但し、先の連峰からは東にやや離れた位置にある)。標高千五百三十五メートルで「権現山」とも呼ぶ。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。作者の藤原家経(正暦三(九九二)年~天喜六(一〇五八)年)は平安中期の貴族で学者・歌人・漢詩人。藤原北家真夏流(日野家)。参議で漢詩人として知られる藤原広業(ひろなり)の長男。官位は正四位下・式部権大輔。彼は実際に長元五(一〇三四)年二月八日に信濃守に叙されている。]

 

 駒嶽〔こまがたけ〕は宮田〔みやだ〕の西にあたりて、羽廣山〔はびろやま〕、宮所村〔みやどころ〕の龍崎〔りゆうがさき〕までも、山脈、打〔うち〕つゞきけり。

 その處に、觀音ありて、馬の疾〔やまひ〕を守り、馬の疾ある時に、その土〔ど〕の人、祈れば、かならず、效あり、といふ。

 私〔わたくし〕にいふ。是〔この〕名、山靈〔さんれい〕、秀〔しう〕の德の及べるなり。

 山の頂〔いただき〕に大〔おほい〕なる駒の住〔すみ〕けるよし、寬永中に、尾州の有司〔いうし〕、上〔かみ〕の命を請〔うけ〕て山廻りせし時に、絕頂にて、駒の雲に登りしを見たると「新著聞集」に出たり。其後〔そののち〕にも、頂に、尾毛〔びまう〕の、木の枝にかゝり、あるひは馬糞(〔ば〕ふん)[やぶちゃん注:「ふん」のみ底本のルビ。但し、原本にはルビはない。]などの有〔あり〕しを見たるといふ事、安藤氏の記、及〔および〕「囘國筆土產」等に見へたり。世の人、あやしう思ふめれど、名山の德、もとより、人の智力もて測り知れざる事の多ければ、おのずから[やぶちゃん注:原本もママ。]靈物を產すまじきにもあらず。天正の頃、織田公、天下の諸侯を募りて駒嶽を狩し、「良馬を得て、軍用に備へん」と謀〔はか〕り給ひしが、不慮にして生害〔しやうがい〕せさせ給ひ、その事、止〔やみ〕たりと、「三季物語」に見へたるを、「みだりに神物を得〔え〕まく慾〔ほつ〕したまひしゆゑに、その咎〔とが〕を得給ひしなり」と後の人、評しき。「囘國筆土產」には『駒の形、小なり』といひ、「新著聞集」には『大なり』といふ。もとより神物なれば、大ともなり、小ともなり、變幻きわまりなきものにや。

[やぶちゃん注:以下は底本の罫外にある頭書。原本画像はこちら。]

 「風越〔かざこし〕の峯」も、飯田より宮所迄の一山〔いつさん〕の總稱なるべし。今の「白山の峯」のみ「風越」と心得たるは誤〔あやまり〕なり。「詞華集」、家經〔いへつね〕が歌、徵〔ちやう〕すべし。

 

[やぶちゃん注:まず、またまた呆れるのは、この木曾駒ケ岳に限らず、広く多くの駒ヶ岳の由来が、農事を占うための、山腹に現われる「駒(こま)の雪形(ゆきがた)」であることを、少しも元恒が説明しようとしていないことである。しかも、民の無知をせせら笑(わろ)うた冷徹な現実主義者のはずの元恒が、山の神霊なんてもの霊験あらたかなるを、ここではミョーに尊んでいるのにも――「何これ?」――って感じなのだ。民草を馬鹿にするから、彼らから話を聴かぬ。だから、「駒」は残雪の形であるという、農民なら誰もが知っていることに思い至らぬ。文字通り、「馬」鹿は死ななきゃ治らないという奴さね。

「宮田」向山氏の補註に、『長野県上伊那郡宮田村』とある。ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)。拡大されると判るが、権現山を除いた前記の峰や池はこの地区内及び境界線上に含まれる。現在の村名は「みやだ」と濁るので、本文でもそれに従った。

「羽廣山」向山氏の補註に、『長野県伊那市羽広に仲仙寺があるが、その奥の院といわれる経ケ岳をさすものと思われる』とある。正確には現在は長野県伊那市西箕輪羽広(にしみのわはびろ)である。天台宗羽広山普門教院仲仙寺(ちゅうせんじ)は慈覚大師円仁が弘仁七(八一六)年に開基した寺で、古くから「馬の観音様」として親しまれ、各所から馬の健康安全を願って馬を連れての参詣が盛んであった、と公式サイトにある。これこそ、本文の「その處に、觀音ありて、馬の疾を守り、馬の疾ある時に、その土の人、祈れば、かならず、效あり、といふ」というのと合致する。木曽駒ヶ岳の東北の麓に当たり、親和性がある。また、同サイトの「縁起」には、慈覚『大師が比叡山で見た夢の中で「信濃の国の大神護山(だいじんごさん)へ登り観音様の像を造り奉れ」と告げられ、大神護山に登ると夕方になって明るく光る木を見つけ、この木を』十七『日間彫り続けると、十一面の救世観音の姿が顕れました』。『大師は大神護山にこの仏像を奉納し、残りの木片にお経を書いて奉納されました』。『このことからこれより後』、大神護山は『経ヶ岳と呼ばれています』とあるので、経ヶ岳は寺からはかなり離れているが(グーグル・マップ・データ航空写真左上に経ヶ岳、右下に仲仙寺を配した。直線でも五キロメートル半ほどある)、木曽駒から木曾山脈内の一つとして本文で記している以上、向山氏の謂いは正しい。

「宮所村」向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡辰野町宮所』とある。「辰野町」は「たつのまち」で、「宮所」は「みやどころ」と読む。思うに、そこの「龍崎」というのは、現在の同地区の西直近の辰野町伊那富(いなとみ)にある龍ヶ崎城跡であろう。グーグル・マップ・データ航空写真のこちらで見て貰うと、左下方の「木曽山脈」のランド・マークが木曾駒ケ岳で、そこから尾根を東北に見てゆくと、経ヶ岳を経て、右上の端で峰を下った先に龍ヶ崎城跡があって、謂いが腑に落ちるのである。龍ヶ崎城はサイド・パネルの説明版を見るに、主郭跡は標高八百五十六メートルの山頂にあるとある。築城年は寛正五(一四六四)年よりも前とある。しかしこの説明版、ヒド過ぎる。「寛正」を「寛政」と書いている

「寬永」一六二四年から一六四五年まで.

「尾州の有司」尾張藩の役人。

『「新著聞集」に出たり』俳諧師椋梨一雪編著の「続著聞集」を、紀州藩士で学者神谷養勇軒(善右衛門)が藩主徳川宗将(むねのぶ)の命によって再編集した説話集で、寛延二(一七四九)年刊。その「勝蹟篇第六」の「信州岳化ㇾ馬入ㇾ雲」。早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本PDF。同書の第四・五・六巻合本)を視認して電子化した。但し、読みは一部に留め、句読点・濁点を加えた。

   *

   信州駒が嶽馬(むま)化(け)して雲に入る

寬文四年に、尾州より木曽路順見の事ありし。大目付佐藤半太夫、勘定方天野四郞兵衞、金役(かねやく)[やぶちゃん注:金銭出納役。会計係。]天野孫作(まごさく)、材木役都築(つゞき)彌兵衞、小目付眞鍋茂太夫(もたいふ)等(とう)なり。木曽案内とて、前の日に山村甚兵衞(じんひやうへ[やぶちゃん注:ママ。])殿、家來二人、所の百姓を召(めし)つれ、駒(こま)が嶽(だけ)の麓より、道筋をふみわけしに、峨々たる嶮し巖(けんがん)、やうやくに蘿葛(らかつ)[やぶちゃん注:蔓性植物の総称。]をよぢて、のぼるべき[やぶちゃん注:ママ。]。大なる芦毛(あしげ)馬の、首の毛も、尾も、地にたれひき、眼(まなこ)のひかりは鏡をかくるがごとく、其形相(けいさう)、見る人、身の毛竪(よだち)て、おそろし。然(しか)るに、かの馬(むま)、人影を見て、岑(みね)の中央まで、しづかに登りしが、劇(にはか)に[やぶちゃん注:底本では、「劇」は「處」+「刂」であるが、このような漢字は知らないので、所持する吉川弘文館随筆大成版の「劇」となっているのを採用した。]雲たち覆ひ、行方しれずなりし。その蹄(ひづめ)のあとを見けるに、尺にあまりしと也。此山の東の方に、駒のかたちしたる大石あり。春に至て、雪のきゆる事、此石よりはじまるとなり。

   *

「尾毛」馬の尾の長い毛。

「安藤氏の記」向山氏の補註に、『「駒ヶ岳一覧記」、元文元(一七三六)年八月、高遠藩士安藤太郎兵衛政陽』(読み不明)『が、代官内藤庄右衛門らと共に、唇出村加ら権厦ヅルネを経て駒ケ嶽に登山、山中二泊、つぶさに検分をした報告書』とある。また、「日本アルプス登山ルートガイド」の「中央アルプス」の「木曽駒ヶ岳」にある「江戸時代後期に盛んになる修験道と尾張徳川家、高遠藩による検分登山」の「伊那側」に、『江戸時代前期の僧であり仏師でもあった木食但唱』(たんしょう)『上人が駒ヶ岳山中に籠り修行したこと』、宝永七(一七一〇)年に『小出村(現在の伊那市)の農民が濃ヶ池で雨乞いをした記録なのが残っています』。『江戸時代』、『高遠藩では』三『回の検分登山を行っています。山林資源の開発で木曽側の尾張徳川家との境界争いが起こるようになり』、『そのため』に『絵地図の作成や利用が盛んになった』からで、まさに一回目が、この『高遠藩郡代の安藤太郎兵衛政陽らの一行が』、検分の『ために小出村から権現山・将棊頭山を辿り』、『山頂に登っています。頂上付近に岩鳥(雷鳥)が沢山いたこと、岩鹿(カモシカ)などを観察したことが「駒ヶ嶽一覧之記」に詳しく記載されています』。二『回目は』宝暦六(一七五六)年で、『高遠藩郡代の阪本運四郎英臣らの一行が、宮田村から大田切川を遡上し、権現山経由で尾根筋を登り』、『山頂に立っています。歩数で距離を測るなどして絵地図を作成』し、『「騒ぐと山が荒れる」という言い伝えがある尺丈ヶ岳(宝剣岳)の岩に向けて鉄砲を放ってみたり、「毒水」と言われていた濃ヶ池の水を飲んでみたりしたが、何も起こらなかったと「後駒ヶ嶽一覧之記」に記載しています』。三『回目は』天明四(一七八四)年で、やはり既に記した『高遠藩郡代の阪本孫八』俊豈『(天山)等の一行が、宮田村から検分登山を行っています。天山は伊那前岳の稜線で即興で』先に示した漢詩を『詠み、勒銘石に刻んだことが「登駒ヶ嶽記」に記されています』とある。このサイト、山屋のサイトとあなどるなかれ!

「囘國筆土產」既出既注の「諸國里人談」の作者菊岡沾凉(延宝八(一六八〇)年~延享四(一七四七)年の随筆或いは紀行。原文に当たれないので確認は不能。

「天正」一五七三年から一五九二年。

「生害」自害。織田信長が「本能寺の変」で自死したのは天正十年六月二日(一五八二年六月二十一日)で享年四十九であった。

「三季物語」江戸中期に書かれたものらしいが作者不詳。国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」のこちらで『「三季物語」に係る文献を教えてほしい』という質問への回答に、『「織田信長に関して『木曽路名所図会』が『三季物語』の孫引きの話を記述している」のは、巻之三の駒嶽に関する「三季物語に、天正の頃、織田右丞相、甲州を征伐して、軍をめぐらし、諸将に向って、われ聞けり、信州駒嶽に、四百年来に及ぶ神馬あり」の部分』であろうとし、「国書総目録」第三巻(岩波書店一九六五年刊)には、「三季物語」という『和書が記載されて』おり、『二巻からなる和書で、当時の東京教育大学、名古屋市立鶴舞図書館、名古屋市蓬左文庫が写本を所蔵していたことが分か』ったが、『復刻や活字化されたものについては記載が』なく、『これをもとに確認したところ、現在』は『筑波大学中央図書館、名古屋市立鶴舞中央図書館の河村文庫、名古屋市蓬左文庫が所蔵してい』るものの、『いずれでもデジタル化によるインターネットへの公開はされていないようで』あるとし、『そのため』、『各館で所蔵しているこの』「三季物語」が、確かに「木曽路名所図会」で『触れているものと同一かの判断はでき』ないとある。最後に、「三季物語」を『紹介した文献』として、『中央獣医会雑誌』(第四十三巻第八号・一九三〇年)に『掲載された、小平雪人氏の記事が見つか』ったとし、それは「木曽路名所図会」と同様の箇所を引用しているとして、当該記事PDF)がリンクされてある。されば、せめてもと、江戸中・後期の読本作者・俳人で、まさに「名所図会」シリーズの立役者としてとみに知られる秋里籬島(あきさとりとう 生没年不詳)が文化二(一八〇五)年に刊行した「木曾路名所圖會」を早稲田大学図書館「古典総合データベース」の原本の第三巻PDF)を調べた。28コマ目から29コマ目にあった。以下に視認して電子化する(句読点を配し、漢文体部分は訓読した。字の大きさが異なるが、一部を除いて無視した。読みは一部にとどめた)。

   *

駒嶽(こまがだけ)【木曽の東嶽なり。其髙さ數千仭(すせんじん)、數峯(すほう)連續して、其一峰(いつほう)の巓(いたゞき)に石あり。形、こ馬のごとしといふ。】

或記に云(いはく)、此山に神馬(しんめ)あり。「三季物語」に、『天正の頃、織田右丞相(うせうじやう)、甲州を征伐して、軍(いくさ)をめぐらし、諸將に向つて「われ、聞(きけ)り。信州駒嶽に四百年來に及ぶ神馬あり。

「續日本記」云天平十年八月信濃の國に神馬を獻ず。黑身・白髪の尾あり

斯くの如く旧記あれば、明年諸州の軍卒を集(あつめ)て、駒嶽を圍んで、これを狩(かり)得んと思ふ。むかし、右大將の、冨士の牧狩(まきがり)に倣ふべし。」聞□□[やぶちゃん注:ルビもあるが、判読不能。]支度に及ぶ所、其年の六月、明智光秀が爲に弑(しい)せらる。其事、輟(やめ)り。』。此山、三峯(さんほう)あり。三つの内、第一に髙きを「大嶽(おほだけ)」といふ。極(きはめ)て大山(だいさん)なり。故(かるがゆへ[やぶちゃん注:ママ。])に遠方より鮮(あざやか)に見ゆ。木曾山の中(うち)なり。山上の雪、六月土用の前に消(きへ[やぶちゃん注:ママ。])て八月に又積る。駒が嶽の麓を「大原」といふ。其所に川筋ありて、駒が嶽より流るゝ水なわ、駒が嶽の山脉上(みやくうへ)、伊奈宮處(どころ)にいたる。奥に今村といふありて、龍飼山(りうかひさん)などいふ寺あり。寛永の頃、飯田城主脇坂矦(わきさかこう)、箕輪の陣屋に止宿ありて殿(との)、邑(むら)の八幡の森へ狩に出られ、駒が嶽を臨(のぞみ)見て詠ず。

 □□[やぶちゃん注:判読不能。]尾もしろし頭(かしら)も白(しろ)し駒が嶽(だけ)かんのつよさに雪のはやさよ

   *

判読不能部分に識者の御教授を乞う。

「變幻きわまりなきものにや」お前は馬鹿かい。

「白山の峯」現在の長野県飯田市上飯田にある白山社奥社(長野県飯田市滝の沢)の西直近にある風越山(標高千五百三十五メートル)のことか(グーグル・マップ・データ)。]

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