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« 堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 蝦蟇 | トップページ | 北原白秋 邪宗門 正規表現版 君 »

2020/11/03

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 狐

 

 

 むかし、いづれの比にや、坂井の里に浦野氏なる男ありて、妻をむかへ、子一人もてり。母、添乳して晝寢しけるに、此子、おき出〔いで〕て、

「母〔かか〕さまこそ、尻尾はえたり、はえたり。」

と高聲〔たかごゑ〕していひければ、この母、おどろき、『人にしられつる事の恥〔はづか〕し』と思ひけん、いづ地へか、走り行〔ゆき〕て、再〔ふたたび〕かへらず。

 その夜のうちに、おのが田地に、悉〔ことごとく〕、稻、生〔おひ〕たり。こは、此母の植〔うゑ〕たるにやあらん、殊に其としは、實のりて、獲〔え〕もの、多くして、家、さかへ、今この子孫、多くなりしに、皆、乳の下に、また、乳の形あり。幾人となく、必〔かならず〕そのしるし、有〔あり〕けり。

 「小笠原歷代記」に、『長時の妻は浦野彈正正忠が娘なり。狐の、人に化して產〔うまる〕る處なり』と。さらば、此浦野氏は、かの正忠が子孫なるを、かく、いひ傅へけるにや。

 

[やぶちゃん注:「坂井の里」底本の向山氏の補註では『未詳』とする。漢字違いならば、長野県伊那市境がある(グーグル・マップ・データ)が。

「乳の下に、また、乳の形あり」副乳(ふくにゅう:多乳頭(たにゅうとう)とも称する)であろう。それほど珍しいものではない。私の高校時代の友人男性二人にもあったし(一人は脇の下の胸の側面で、今一人は乳頭のすぐ下方にあって、実見したが、確かに疣やその他の病変ではなく、乳頭の形状を成していた。見せて貰ったわけではないが、同級生の女性も「実は私も脇の下の前に小さなのがある」と言っていた。ここにあるように遺伝的なものかどうかについては、日本医科大学附属医院小児科亀井悦郎氏「人体の副乳に関する遺伝体質学的研究」(『日医大誌』第二十六巻第二号・一九五九年・PDF)によれば、遺伝するもののようである。

「小笠原歷代記」書誌は不明だが、副題に『伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索』とある押田庄次郎氏のブログ「探 三州街道」の「小笠原貞慶・・・府中小笠原家歴代」に同書名が出る。

「長時」戦国時代の武将小笠原長時(永正一一(一五一四)年(松本)~天正一一(一五八三)年(会津若松)。信濃守護長棟(ながむね)の子。府中 (松本) 林城を居城として、安曇・筑摩・伊那三郡に勢力を揮った。しかし、武田信玄が信濃に進出し、天文一九(一五五〇)年に諸城を攻めるに及んで、林城を捨て、村上義清と同盟して平瀬城に拠った。翌年、信玄が深志城に進出、平瀬城を落し、さらに長時方の中塔(なかとう)城・小岩岳城・苅屋城などを攻略したため、同二十一年十二月、越後の上杉謙信のもとに逃れた。後、三好長慶を頼って上京し、将軍足利義輝の弓馬の師範となった。長慶の養子義継が義輝を殺すと、再び越後に赴き、さらに会津に移って蘆名盛氏の庇護を受けたが、当地で家臣に殺された(以上は主に「ブリタニカ国際大百科事典」に拠った)。

「長時の妻は浦野彈正正忠が娘なり。狐の、人に化して產〔うまる〕る處なり」似たような名は見出せるが(例えば、戦国武将で長時の弟に小笠原洞雪斎(生没年不詳)がおり、彼の『母は浦野弾正忠の娘』とウィキの「小笠原洞雪斎」にはある)、伝記や伝承に異同があるらしい(以下の引用参照)。折口信夫の狐と人の異類婚姻譚研究の金字塔「信田妻の話」の「四」には以下のようにある(所持する中公文庫版「折口信夫全集 第二巻 古代硏究(民俗學篇1)」(昭和五七(一九八二)年再版・正字正仮名)に拠った。段落冒頭に字下げがないのはママ。傍点「ヽ」は太字とし、踊り字「〱」「〲」は正字化した)。

   *

同じやうな考へ方の、今一例をあげると、名高い物臭(モノクサ)太郞なども、江戶時代の信州に傳つて居た形は、極めてありふれたものになつて居る。「中昔の事なるに」と室町時代の「物臭太郞の双紙」に見えた主人公は、傳說では江戶時代の人になつて居る。物臭太郞は、日本あるぷす登山鐵道と言ふ方が適當な、信濃鐵道の穗高驛の近所に在る、穗高の社の本地物なのである。だから、此方の話も、松本市から北西の地方で、根を卸したものと見てよからうと考へる。つまり物臭太郞出世譚の平凡化したものだ。

物臭太郞と言ふ人、或時自分の田を作つて居ると、見知らぬ女が手傳ひに來た。こんな働き者なら、女房にしたらよからうと言ふ考へで、家に入れた。非常によく稼いでくれる。子が產れて後、添乳してまどろむ中、尻尾を出して居た。其をよそから戾つた物臭太郞――今は亭主――が見つけた。此は、とんでもない處を見た。併し知らぬ風をしてやらうと、まう一返表へ出て、今度は、ばたばた足音を立てゝ戾つて、何喰はぬ顏で居た。處があけの日になると、子供が騷ぎ出した。母親が姿を隱したのである。いぢらしいから乳離れまで居てやつてくれと言つたが、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]戾らなかつた。其代りには、其家が段々富み榮えて、長者になつたと言ふのである。

なぜ此人を物臭太郞と言うたのか判然しない邊から見ても、頗[やぶちゃん注:すこぶる。]古い話の「ある人」にあり合せの、其地方の立身一番の人の名をくつゝけたゞけで、つまりは田舍人のさうした點に對するものぐさから出たものであらう。此は「炭燒き」や「芋掘り」の山人の出世を助ける高貴の姬の話が、狐腹の家の物語に入り込んだものと見てよさゝうである。松本平(ダヒラ)邊は、玄蕃(ゲンバ)允(ジヨウ)の樣な長命の狐の居た處とて、如何樣狐の話が多い。

保福寺峠の麓、小縣郡の阪井は、浦野氏の根據地であつた。浦野彈正尙宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)。此奧方の生みの母も狐であつた。浦野家では、それ以來皆、乳首が四つある事になつた、と言うて居た。小笠原の奧方竝びに、其腹の子たちには、そんな評判は立たなかつたが、其でも狐だけは、小笠原家につき纏うて居る。小笠原家が、豐前小倉に國替への後、突如として狐が姿を現した。貸本屋本から芝居へ移つて、今尙時々見聞きする、小笠原隼人を中心とした小笠原騷動の一件は、由來が遠い處にあるのである。長時は、小笠原家には大切な人である。

蒲生氏鄕も、狐の子だと言ふ傳へがある。僞書と稱せられて居る「江源武鑑」と言ふのにある話で、尠[やぶちゃん注:すくな。]くとも「江源武鑑」の出來た時に、さうした傳說が、何かの書物か、民間の傳へにあつた事だけは信ぜられる。

江州日野の蒲生氏定の奧方が、急に逃げ出して了うた。實は、三年前にほんとうの奧方をば喰ひ殺した狐が、後釜に据り込んで居て、忠三郞(氏鄕の通稱)を產んだのであつたと言ふ。さすれば、氏鄕は狐の子であるから、秀いでた處があるのだ、と見た人々の心持がわかる。蒲生家については、別に狐腹なる爲の身體上の特徵は言ひ傳へて居ない樣だ。

こゝまで來れば、安倍晴明(アベノハレアキラ)の作つたと言ふ僞書――倂し江戶の初めには、既にあつた――「簠簋(ホキ)内傳抄」によつて、葛の葉の話が、ちよつと目鼻がつき相に見える。早急を尊ぶ態度の、おもしろくない事を證明する爲に、假りに結論を作つて見よう。此は名高い話で、葛の葉の話の唯一の種の樣に言うて來てゐるのであるが、此話は、江戶以前尠くとも室町の頃には、既に纏つて居たものと見られる。晴明の母御は、人間ではなかつた。狐の變化であつたのが、遊女になつて諸國を流浪して居る中、猫島に行つて、ある人に留められて、其處に三年住んだ。其間に子が出來たので、例の歌[やぶちゃん注:知られたものだが、掲げておく。「戀しくばたづね來て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」。]を殘して去つて了うた。子は成人して陰陽師となつた。都に呼びよせられた時、母の戀しさに、和泉國信太杜(モリ)へ尋ねて行つて拜んで居ると、年經る狐が姿を顯した。其が、晴明の母の正體だつたといふのである。

合理的な議論を立てれば、人まじはりの出來ぬ漂浪民(ウカレビト)の女だから、畜生と見て狐になつて去つたといふのであらう。殊に信太杜の近くには、世間から隔離せられて居た村が今もあるから、其處から來た女だらうと言ふ樣なことも言はれよう。こんなあぢきない知識も、後世には其部落の傳說となるかも知れない。此記載が角太夫ぶし[やぶちゃん注:「角太夫節」(かくだいふぶし(かくだゆうぶし))は古浄瑠璃の一種。山本角太夫 (受領号は土佐掾(とさのじょう)) が始めた語り方で、憂い節を特色とし,、延宝から元禄年間 (一六七三年~一七〇四年)に大坂・京都で流行った。]の正本を生み、竹本座の正本にまで發達したのだとして、此でまづ、一通りの說明はつく樣だが、此だけで說き盡されたものと考へられては、甚[やぶちゃん注:はなはだ。]殘念である。

   *

とある。ここで長時の母が、即ち「浦野彈正尙宗」の娘と出る。「寛政重脩諸家譜」では「尙宗(彈正忠)」とし、旧「松本市史」では彼の長女で、名を「華姫」と言ったというようなことが書かれているようである。折口が、「浦野彈正尙宗の女は、小笠原家に嫁いで、長時を生んだ(又、正忠の女、長時の妻とも)」と記しているぐらいだから、これ以上、私は史実を探る興味はない。悪しからず。なお、「信田妻の話」は国立国会図書館デジタルコレクションの画像でここから全文が読める。]

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