甲子夜話卷之六 23 羽州大地震のときの事
6-23 羽州大地震のときの事
浴恩園宴集の話次に、先年羽州大地震せしとき、始めは地の上にあがるようにありしが、凡二三丈もや揚りけん、夫より俄に下に墜下ること、ものの高處よりおつるが如くにして、夫より地振ひ出しと云。前に云たる地震は橫にゆらず、竪にゆると云。洋說に符せり。
■やぶちゃんの呟き
「浴恩園」「浴恩」は元老中松平定信の隠居後の号。現在の中央区築地にある「東京都中央卸売市場」の一画にあった「浴恩園」は定信が老後に将軍から与えられた地で、定信は「浴恩園」と名付けて好んだとされる。当時は江戸湾に臨み、風光明媚で林泉の美に富んでいた。先行する「甲子夜話卷之二 49 林子、浴恩園の雅話幷林宅俗客の雅語」を参照。
「宴集」「うたげつどひ」と訓じておく。
「次に」「ひいでに」。
「先年羽州大地震せしとき」定信隠居後は文化九(一八一二)年三月六日であるが、話は「先年」とあるから、直近の「羽州」(現在の秋田・山形を指す)での巨大地震で強力な縦揺れが発生したものとなると、文化元年六月四日(一八〇四年七月十日)に発生した象潟地震であろうか。同地震はマグニチュード7.0前後で、死者は五百から五百五十人、象潟では二メートルもの広範な地盤隆起が起こり、三~四メートルの津波が襲来、結果、芭蕉の象潟湖は大部分が隆起し、松尾芭蕉の「象潟や雨に西施がねぶの花」(芭蕉の中でも私の偏愛する句。『今日のシンクロニティ「奥の細道」の旅 49 象潟 象潟や雨に西施がねぶの花』を参照されたい)の面影は夢の跡となった。推定では震源は象潟の十数キロメートル沖合の海底で、海岸線にほぼ平行した長さ約四十二キロメートルの逆断層の変位に拠るものとされる。
「凡」(およそ)「二」「三丈」約六~九メートル。
「墜下る」「おちくだる」。
「振ひ出し」「ふるひいだせし」と訓じておく。
「前に」「さきに」。「始めは地の上にあがるようにありし」という部分を指す。
「竪」(たて)「にゆる」通常の地震では速い縦波であるP波が起こす揺れは「初期微動」と称されるように、普通はあまり大きくない。但し、震源が真下であるとか、この象潟地震のように近い距離で大規模に起こった場合では、P波による強い縦揺れが発生することが判っている。そうした経験から記された洋書の地震の様態を説いたものと、よく一致すると静山は言っているのである。
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