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« 堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 馬角 | トップページ | 梅崎春生「B島風物誌」PDF一括縦書ルビ版 公開 »

2020/11/07

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その四) / ブログ分割版~了

 

 有馬を埋めようとするとき伴がぼんやりした声で言った。

「――前のときも、お前と一緒だったな」

「小泉の時だよ」暫く考えて、おれが答えた。

 伴はうなずきながら、自分の額を指でこつこつ弾いた。

「頭がぼやっとして、何もかも忘れとる。あれから誰々が死んだかなあ」

 おれはゆっくりと、鬼頭、有馬、上西と数えあげた。

「上西は生きとるかも判らん」

 今朝もひどく暑い。その上、湿度が昨日より高いようだ。

(雨が来るんだな)

 おれは頭のすみで、そんなことを感じながら、穴のなかを見下した。体力が衰えて、手が萎(な)えたように動かないので、穴の深さは一尺に足りない。それでも二時間も掘ったのだ。その間にミミズを一匹見つけて食べた。体内から塩分が欠乏しているせいか、おれの舌はミミズの中にも塩の味を探りあてた。――その穴のなかに、有馬の身体は、うつぶせになっている。この有馬も熊本で召集されて以来の、おれの同年兵だ。破れた服のあいだから、肉のうすい尻が見えている。まだ熊本にいた初年兵のころ、有馬は快活で世話好きの男であったことを、おれはいま遠く思い出している。どこかの商店につとめているということだが…

「この間こいつは、何故あんなところにいたんだろ」

 伴がかすれた声で、独語する。

「あんなところに居たから、やられたんだ」

 ……肉づきのいい頰をもった男で、子供もひとりあったという話だ。その写真をおれは見たことがあるが、なかなか可愛い子供だった。そんなことを、おれはぼんやりと思い出している。その思い出が、ここにうつ伏せになった屍体と、うまくむすびつかない。なんだかばらばらの感じがおれの胸におこる。それを振り切るようにして、おれはそっけなく伴に答える。

「運だよ」

「運だって、お前。ちゃんと防空壕ににげこめばいいんだ」

「だからよ、運が悪かったんだ」

 伴はおれの言葉も耳に入らぬように、ふうっと溜息をつく。

「――こいつあの時、おれのことを、化物、と言やがった」

 傷痕にひきつれた伴の横顔が、穴のなかを見おろしている。おれの視線をかんじたのか、伴がふと顔をあげて、おれを向く。そしてきらきら気狂いじみてひかる眼をして、不気味な笑いを頰にうかべる。そしてあえぐように言う。

「つぎつぎ、死んで行くなあ。勿体(もったい)ない話だよ、妻子もあるというのに」

「いずれおれたちも、こうなるさ」

 しばらくして、おれがそう言う。自分の言葉のひとつひとつがへんに確実に、胸にしたたりおちるのをおれはかんじる。

「――これで、関根隊も、十五人か」

 伴の言葉は、妙につめたくひびく。屍体を見下している伴の眼付は、大きく飛びだしていて、ぞっとするほど偏執的な光をおびている。

「この次は、誰の番だろう!」

 青ぐらい密林の光のなかで、おれたちは黙ってしまう。そしてどちらからともなく、足をうごかして、掘りおこした軟土を穴におとし始める。服の破れから、尻のあたりへ、黒い土がかぶさってゆく。だんだん全身がかくれてゆく。

 べたっと平たい足跡を、土に印しながら、伴が低くつぶやく。

「次は、五味伍長どんの番か」

 声はなにげないようでいて、伴のひきつれた顔は、冷たく硬(こわ)ばっている。頭では他のことを考えているようにも見える。

 いらいらした声で、おれが答える。

「判るもんか。お前の番かも知れないぜ」

 伴が短い声をたててわらう。笛のような声だ。

 遠くから砲声がひびいてくる。すっかり土をかぶせ終って、おれたちは軟土をふみかためる。足ぶみしているだけでも、おれの膝はがくがくする。汗がべたべた滲みでてくる。潰瘍の部分がいたく疼く。おれは眩暈(めまい)しそうになるのをこらえながら、軟かい土をふみつける。――明日になれば、皆は有馬のことも忘れてしまうだろう。名前も、顔も、そんな男がいたということも、誰も思い出さなくなるだろう。

 伴が木の枝を探してきて、土に立てる。この粗末な墓標を、伴は確かめるように何度も傾きを直す。その伴の手は、手首と肱の太さが同じで、黄黒い棒のようだ。

 

 不破曹長の命令で、銃器の点検をした。そして使用に堪えないものは、廃棄した。残ったのは、十挺あまりの小銃と、弾薬と、数個の手榴弾(てりゅうだん)だけだ。

 隊長はいよいよ悪いらしい。今日おれが水筒をもって行った時、隊長は平たくなって眠っていた。額は汗にぬれ、膚は黄色く乾いていた。枕許の飯盒(はんごう)には、今朝煮たジャングル野菜が、少量食べ残され、小屋のなかは膿臭とともに、熱っぽい異臭がただよっていた。おれの跫音で眼をさましたらしく、淡黒色の瞼がどんより開いた。

「――不破か。そこにいるのは、不破か」

 おれは、おれの名前を言った。そして水筒を枯葉の上におき、戻ってきた。樹々の間をもれる光が、どうもうすぐらいと思ったら、雨が密林の上にとうとう降り始めたらしい。やがてばたばたと雫のおとが、芭蕉の葉の上に鳴り、それはだんだん繁(しげ)くなって行った。熱気がそれと一緒に消え、ひえびえとした空気が縞(しま)になって皮膚をわたった。

 歩哨交代で、伴と仁木が戻ってきた。ふたりとも顔いっぱい雨に濡らせて、色あおく、幽鬼じみて見えた。やわらかい髪がべったり頭の地に貼りつき、その落ちくぼんだ眼は、なにか険しくひかっていた。

「異状なかったか?」

「ぺつに異状ありません」

 伴がひくい声で笠伍長に答えた。そして顔をそむけるようにして、小屋のすみで武装をといた。それがすむと、疲れ果てたようにごそごそと自分の毛布にころがりこんだ。

 空気が冷えてきたので、ねている連中はそろって毛布をかけた。五味伍長なとは、顎(あご)までも毛布でおおい、うすく眼をひらいていた。有馬が狂気したとき、五味は胸のあたりを打ったらしく、翌日から排便に起きるのも、ひどく苦痛を感じるらしい。しかし彼は、それを顔に出そうとはしない。

「――雨が降ったから、デンデン虫が出てこないかなあ」

 おれのそばで、古川がそんなことをつぶやく。

「なあ。伴。デンデン虫いなかったかよ」

「いるかよ」

 伴は不機嫌にはきすてる。なにかぎょっとした風だ。そして寝返りしてむこうを向く。伴の頸(くび)は、背後から見ると、えぐれたように肉が落ちていて、瘦せこけた子供みたい、

だ。そのそばで仁木が、掌を眼の前にひろげて、ぼんやり眺めている。掌は赤くふくれている。火傷(やけど)だ。

 雨の音が芭蕉の葉にあたる。ときどき屋根からつめたく一滴おちてくる。小屋の内も外も、人間も植物も、なにもかも暗い。

(今日、銃器を点検したのは、何のためだろう?)

 おれはこの暗い風景をながめながら、そんなことを考えている。転進するつもりかな、それとも突撃するつもりかな、などと思ってみる。思ってみるだけで、どちらも現実感はない。どちらにしても物憂(う)い。

(――意味はなかったのかも知れない)

おれの銃は、錆がひどくて、廃棄された。その代りに、死んだ鬼頭の銃が、おれのものとなった。この銃と数発の撃薬が、どのような敵からおれを守ってくれるのか。

 

「――曹長どん。退却する覚悟をきめたらしいな」

 錆びた声で、笠伍長がいう。

 雨はやんだようだ。樹々の下葉をたたくおびただしい雫のおとは、ふと雨が降りつづいているような錯覚を感じさせるが、もはや降り止んだ証拠には、雫の音のむこうに、ふかい静寂がはっきり感じられる。ここは歩哨線だ。蛸壺(たこつぼ)の低い掩蓋(えんがい)も、密林の葉から葉へ、そして下へおちてくる無数の雫が、ひたひたと当る。

「そうですか」

 おれはぽつんと答える。こちらの蛸壺にも雨水が流れ入って、身体はべたべたと濡れている。破れた服が皮膚にはりついて、気持ちがわるい。悪感(おかん)が絶えず背筋をとおりぬける。[やぶちゃん注:「悪感」はママ。後も同じ。熟語として「悪感」はあるが、その場合は「あっかん」であり、「おかん」はあくまで「悪寒」であって「発熱の初めなどに感じる、ぞくぞくとした不快な寒け」を指す。]

「どうも、そうらしい」

 少し経って、笠がまた口を開く。

「隊長どんも長いことねえだろ。そうすれば、M川をわたって退却のつもりよ」

「――師団命令に反するわけですか~」

「独断専行というやつよ」笠は視線を前方に固定せたまま、そう言う。「このままじゃ、全員飢死(うえじに)だ。曹長どんも判っていらあな」

 笠の眼はきらきら光っている。おれも蛸壺から首だけ出して、前方を見張っている。見通しのきかない密林だから、いつひょっこりと敵が出てくるかも知れないのだ。おれたちの交す会話は、ごく低い。ここでは音がもっとも有力な索敵(さくてき)の手がかりだから、高い声を立てるのは禁物なのだ。

 雨のように聞こえていた雫が、しだいに間遠になってゆく。ポトリ、ポトリ、と数えられる位になったとき、笠がまた呟く。

「まだ、交替はこないのか。何をしてるんだろう。ポヤ助たちめ」

 M川をむこうに渡れば、まだ農園のあとがあるかも知れない。そして芋やバナナが、不自由なく食えるかも知れない。そんなことが頭にうかんでくる。しかしそこで食いつくせば、また同じ破目に追いこまれるだろう。

 背後から、がさがさと音が近づいてくる。交替がきたのだ。おれたちは手や足をつっぱって、蛸壺からころがり出る。笠が地面出ても、おれはなかなか出られない。手足の力が弱っているのだ。笠の手をかりて、やっとおれは這(は)いあがった。低い声で中継ぎをすませ、おれたちは枝や葉をわけて、小屋の方角をたどった。

 有馬を埋めたところが、雨に洗われて、屍体がすこし露出していた。それを見たのは、この戻り道である。おれが先に見つけ、笠伍長に知らせた。濡れた土から、破れた服や肉体がのぞいていた。そしてぎょっとして、おれたちは立ち止った。

「あれはなんだ」

 笠がおこったような声をたてた。屍体の臀(しり)の部分が、泥にまみれてはいたが、えぐられていることがはっきり判った。笠がそこに顔を近づけた。切りとられた臀は腐った牛肉のような色をしていた。

「――刃物だな。この切り方は」

 おれは嘔(は)きたいような気特になって、眼を外(そ)らした。笠は背をのばして、脚先で土をかぶせてやりながら、沈欝な一声で言った。

「――このことは、誰にも言うな。曹長どんに報告して、善後策をきめる」

「――逃亡兵のしわざかも知れません」

 おれも土を押しやりながら、そんなことを言った。伴たちをおそったという逃亡兵のことを、おれはふと思い出していたのだ。しかしおれの言葉は、弱々しく途切れた。

「牛蒡剣(ごぼうけん)をつかったな。畜生」[やぶちゃん注:「牛蒡剣」刀身の長さと黒い色から通称された陸軍の「三十年式銃剣」のこと。明治三〇(一八九七)年採用。第二次世界大戦に於ける日本軍の主力銃剣である。]

 おれの言葉が耳に入らないように、笠がつぶやいた。

「刃先をしらべりゃ判る。どいつが切りやがったか」

 おれは黙って立っていた。あの密林の底、傾きかけた芭蕉小屋の片すみに、ずらずらとおかれた牛蒡剣のひとつが、人間の脂が滲んで曇っているかも知れないことを、おれはかんがえていたのである。悪感がまた、かすかな戦慄をともなって、おれの背を奔(はし)りぬけた。おれの皮膚の表面は、つめたく濡れているのに、身体の芯(しん)は熱っぽく燃えていて、頭がしんしんと痛んだ。疲労とも虚脱ともつかぬ無力感がおれの全身を領していて、おれは今にもぶったおれそうになりながら、ひとつのことを頭で思いつめていた。

(なぜおれたちは、こんな場所で、苦しんだり、その揚句(あげく)、死なねばならぬのだろう?)

 何のために、そして、誰のために?

「行こう」

 うながすような身振りで、笠が先にあるきだした。おれが背後につづいた。よろめきながら、ぬれた落葉を踏んだ。

 

 伴と仁木の処刑から、今もどってきたところだ。処刑場は、有馬を埋葬した場所のちかくだ。この間の爆撃で、樹樹がまばらに明るくなったところだ。

 大小の破片がいくつも突きささっている喬木(きょうぼく)を背にして、二人は両手をうしろにくくられて、じっとりぬれた朽葉の上にひざまずいていた。汗と汚れでまっくろになって、肩や背や膝がちぎれてぼろぼろの服に、黒い朽葉がいくつも貼りついていた。

「どうだ。お前たち、自決できるか?」

 不破曹長が低声でそう聞いた。

「できます」

 伴は下をむいたまま、しずかな声でこたえた。頰まで切れた皮膚が、かすかに慄えているようであった。仁木は返事をしないで黙っていた。おれたちは四五間[やぶちゃん注:七メートル強から約九メートル。]はなれたところに立って、それをぼんやり眺めていた。笠伍長が、二人の縄をといてやった。それは手荒いやり方だったので、仁木は痛そうに顔を歪めた。先日壕の残り火につっこんだ掌が、赤くただれているのだ。そして古川が、二人にそれぞれ小銃をわたした。二人は坐ったまま、それを受取った。膝をくずして、片足を前につきだし、つきだした足の親指に銃の引がねをかけ、身体をすこしうしろにそらせて、銃口を眉間(みけん)にあてた。

「何か言いのこすことはないか」と不破がまた訊ねた。

「――ありません」そして伴は顔をあげて、つづけて何か言おうとした。しかしそれは、言葉にはならなくて、顔の表情がすこし動いた。それはぎょっするほど無気味な、陰惨な笑いの影であった。おれは思わず面をそむけた。

「よし」

 不破は呟くようにうなずいて、二人の方を見ないようにしながら、掌をあげた。

 二人の足の親指は、ほとんど同時にうごいた。朝の静寂をやぶって、烈しい銃声があたりの空気を引きさいた。

 仁木は右手でにぎっていた銃を引きずるようにして、ゆっくりうしろに倒れた。そのまま動かなくなった。眉間から鼻すじをつたって、鮮血が流れて顔をぬらした。

 伴のからだは、突きだした右足の方へ、横に倒れた。これも倒れたまま……動かなくなつた。しかし彼の顔から、血は噴きだしていなかった。笠が近づいて、床尾板で伴の足をこづいた。

「不発か?」

 古川が伴の銃をとりあげて、なかを調べた。不発弾は、めずらしいことではなかった。ひどい湿気のために、小銃弾は不発の方が多い位になっていた。

「――不発です」

「音がしたんで、こいつ、死んだつもりになったんだろう」

 笠はそう言いながら、ぐるっと顔をまわして、おれの姿に眼をとめた。

「おい。お前」

 掌を動かして、伴を射てという仕草をした。おれはその方へ、のろのろと近づいた。筋肉の衰えで、立っているのも苦しい位であった。おれは自分の銃をやっと持ち上げるようにして、伴の脳天にあてがった。みにくく引きつれた伴の顔は、無気味な笑いをうかべたまま、半分朽葉のなかに埋もれていた。この伴と、数年間ともに苦しんできた戦場の記憶が、瞬間おれの胸をつらぬいた。――おれは目をつむって、ぐいと引金をひいた。伴の身体は、一瞬びくっと痙攣(けいれん)して、その感触をおれの小銃に伝えた。伴はそれっきり、動かなくなった。鮮血がまるく盛上って、頰へするすると流れおちた。処刑はそれで済んだ。

 不破曹長はふたつの屍体にむかって、しばらく黙禱(もくとう)した。やがて顔を上げて、沈んだ声で言った。

「それじゃ、笠伍長、あとをたのむ」

 そしてふらつくような足どりで、小屋の方にあるきだした。薄板のように突っぱった肩先が左右に揺れながら、樹樹に見えかくれし、だんだん小さくなって行った。

 それから笠伍長の指示で、みんなはかついできたエンピなどで、だまって穴を掘り始めた。穴は二つの死体のすぐ側であった。濡れた朽葉がわけられ、土がばらばら飛んだ。

 おれは屍体に近づいて、それぞれから銃をもぎとった。ふたりとも堅く銃を振りしめていて、指をはなすのに骨が折れた。やっとのことでもぎとると、それらを引きずりながら、この場所をはなれた。銃は重かった。肩が抜けそうな気がした。おれは身体のなかで、生命力がしだいに頽(くず)れてゆくのをありありと感じながら、最後の力をふるい起すようにあるいた。昨夜、重苦しい疲労にもかかわらず、おれはほとんど眠れなかった。そして今朝、処刑場にゆくときも、もすこしで前のめりに倒れそうなのをこらえて、足を引きずったのだ。

 ちらちらとするものが、しきりに暗い視野を飛ぶ。つめたいものが皮膚のあちこちをかすめてゆく。力が尽きかけてきそうになる。垂れた枝が、顔にあたるのも、はっきり判らない。おれは必死に眼を見張って、重い銃身を、あえぎながら引っぱった。

 

 小銃を小屋のすみに立てかけて、おれは今毛布のなかに横たわっている。おれのすぐそばには、五味伍長があおむけに長くなっている。処刑場にゆかなかったのは、この五味だけだ。先刻伴と仁木のふたりを引っくくって、処刑へ出かけようとする背後から、

「いまさら、死刑にして、何になるんだい。たかが死人の肉をちょっぴり食べたくらいで?」

 それだけ毒づくのに、胸を大きく起伏させて、五味はぜいぜいとあえいだ。その五味もいまは眼を閉じて、じっと横たわっている。眼がふかぶかとくぼんで、額が黄色くかさかさに抜け上っている。おれの眼からは、鼻翼がすこしも動かないように見えるのも、五味がすでに蠟燭が燃え尽きるように、息が絶えてしまったのかも知れない。鼠色の毛布の上に、五味は掌をあわせて、骨のような指をくんでいる。起き上って確かめてみるのさえ、今のおれには力がないのだ。

 処刑場から、まだ誰も戻ってこない。

 じっとしていると、身体がしんしんと奈落に落ちてゆくようだ。静かなこの小屋のなかで、力強い羽音をたてて動いているのは、数匹の大きな蠅だけだ。毛布の破れから露出した五味の潰瘍に、それらは翔(ま)いおりたり、それから飛び上ったりしている。そしておれの顔にもまい降りる。

 おれはぼんやり眼を見開いて、あたりを眺めている。明るい太陽や、青々とした水田や、白壁の家や、また遠方を走る汽車や、そんなものがきれぎれに頭に浮んでくる。故郷に住んでいる人々の俤(おもかげ)が、はっきり形をととのえないまま、おれの意識を流れ去る。そんなところから遠離して、この暗い密林の底で、死にかかっているということが、生れたときから判っていたような、またおそろしく奇妙なことのような気がする。――

 遠くから、どろんどろんと響く砲声が、耳に入ってくる。蠅の羽音が、その間を縫う。五味の鼻孔に、その一匹が羽をやすめてとまる。五味の表情は、じっと動かない。黄蠟のような皮膚のうえで、蠅は脚をすり合せる。そしてそろそろと鼻孔のなかに這入(はい)ってゆく。五味の膚はかるく閉じたまま、しんと動かない。[やぶちゃん注:「黄蠟」「おうろう」或いは「こうろう」と読み、ミツバチの巣から製した黄色の蠟を指す。巣を加熱・圧搾して水中で煮沸して取り出す。「這入(はい)って」の「はい」は二字へのルビである。]

(こんどはおれの番だな)

 おれの意識に、それがにぶくのぼってくる。この黄色く褪(あ)せた唇から、かつて毒々しく発言された(これが戦争というものだ!)という言葉を、おれはぼんやり想い出している。そしてそれは、言葉として浮んでくるだけで、胸のなかに沁(し)み入ってゆかない。どこかで散って、消えてしまう。そのくせ頭の遠くの方で、何かがつめたく合点合点している。

 五味の身体のむこうに、密林の風物が青ぐらく拡がっている。その景観ですら、ちらちらするものにさえぎられて、しだいに周囲からぼやけてくる。おれも五味も、あの暗い風物のなかに入ってゆくのだ、と思う。そして間もなく、残る十三人の兵隊も。――

 また遠くから、砲声がひびいてくる。しんしんと墜落(ついらく)する無量の速度のなかで、おれも眼を閉じ、五味と同じように掌をあわせ、骨のような指をかるく組合せている。しずかにしずかに、何かを待ちながら。……


   *

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その一)

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その二)

梅崎春生 B島風物誌 ブログ分割版 (その三)

これより、一括縦書ルビ版(PDF)の作成に入る。

 

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