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2020/11/15

堀内元鎧 信濃奇談 卷の下 守屋嶽

 

 守屋嶽

 守屋嶽〔もりやだけ〕は藤澤片倉村の北にあたりて、諏訪郡に境〔さかひ〕し、頂〔いただき〕に石の祠〔ほこら〕ありて「守屋大明神」となん、稱し來れり。春秋の祭祀、おこたらず、靈驗もあらたなりとも、世の人、何の神たる事を知るもの、なし。私〔わたくし〕にこれをかむがふるに、あかれる世に、今の藤澤の地は、三峯川〔みぶがは〕を限りて、川下までも諏訪郡に屬したれば、諏訪の神領たる事、あきらけく、且〔かつ〕、守屋嶽は諏訪明神の祠〔やしろ〕のうしろにあたりて、その峯、鉾持山〔ほこぢやま〕に續けり。さらば、軍〔いくさ〕終りて後、諏訪明神の持給〔もちたま〕ヘる弓矢と鉾〔ほこ〕とをもて、其山に藏〔をさ〕め給ひ、再〔ふたたび〕用ひまじき事を示し、かつは鎭守となし、これをもて、「守矢」と稱し、「鉾持」と稱したまへるにぞ有〔ある〕べき。傳ヘ聞〔きく〕、藤原鎌足朝臣の具足を多武峯〔たふのみね〕に藏め給へるも、かゝる例〔ためし〕に據〔よ〕られしにや。【長門の國豐浦宮の巽〔たつみ〕にあたりて小山あり、此山に仲哀帝の御墓所とてあり。此〔これ〕則〔すなはち〕御太刀を納置〔をさめおき〕奉りたる所とかや。又、豐浦宮より、五、六里ばかり北にあたりて、「豐浦山」といふ所あり。此山にも仲哀天皇の御太刀を納めたりと言傅へて靈驗ありとぞ。豐浦宮傳說に見へたるよし、八幡宮本紀に見えたり。】

 たゞし、諏訪に守屋氏ありて、守屋大連〔もりやのおほむらぢ〕の子孫と唱へ、此神をもて、守屋大連を祭れりと心得たるは、古傳を失ひて、名に付〔つき〕て設〔まうく〕る說なり。是は明神に從ひ參らせて弓矢掌〔つかさど〕る大臣の後なるべく、且〔かつ〕、片倉村および遠近〔をちこち〕に守屋氏の殊に多きは、此大臣に屬せし人の孫〔そん〕なるべき事、疑なし。鉾持は後に伊豆・箱根・三島を勸請し、其時に鉾を掘出〔ほりいだ〕し、是より、名とせしと心得、守屋嶽を守屋大連を祭れりと思へるは、あたら神代〔しんだい〕の舊地を失ひぬる。惜〔をし〕めりといふべし。【余、別に「鉾持事略」を作りて、詳〔つまびらか〕に述〔のべ〕たれば、此に贅せず。】

[やぶちゃん注:以下、底本では二字下げポイント落ち。原本にはない。]

〔元恒補註-今も神長官にては「矢の守〔もり〕」を用〔もちふ〕。〕

 

[やぶちゃん注:「守屋嶽」現在の守屋山。標高千六百五十メートル。山頂はここ(グーグル・マップ・データ航空写真。以下表示無きものは同じ)。北に諏訪湖を見下ろす(サイド・パネル写真)。以下の高遠町(たかとおまち)藤澤片倉と長野県諏訪市湖南との境に当たり、東に稜線を行くと、守屋山中嶽を経て、守屋神社奥宮(ここは藤澤片倉内。標高千六百三十一メートル)に至る。「石の祠〔ほこら〕」(ここは明らかな石の小さな祠(ほこら)であるから、「後の諏訪明神の祠〔やしろ〕」と読みを差別化した)とあるのは、最後のサイド・パネルの、このアップ写真を見られたい。ちゃんと祠の前に二張りの半弓が供えられてある。守屋神社本殿はここであるが、本殿は同サイド・パネルで見ると、鞘殿の状態で、祭祀は続いているが(奥宮のサイド・パネルでは二〇一四年撮影の神主による祭祀の様子がある)、正直、かなり荒れた感じである。八ヶ岳原人氏のサイト「諏訪大社と諏訪神社」の「物部守屋を祀る物部守屋神社」が非常に優れた探勝をされてあるので見られたい。そこには、二〇一四年と二〇一九年の探査とされておられるが、本殿の中の様子は強烈な荒れ方で(写真有り)、記者も呆れておられる。本殿内には安置という感じではない、ただの棒状の石(所謂、古代の「石棒」ではない、とされておられる)が突っこまれてある(写真有り)。『拝殿と本殿の延長線上に石祠』(既に笠のみ)があり、その『石祠の大棟に刻まれた「丸に三つ柏」』の紋があり、『拝殿前の大灯籠や神庫でも見られ』ること『から』、これが『守屋神社の神紋に間違い』ないとされ、『原初は、この場所が守屋神社の中枢部であったことが考えられ』、その左にある御神燈があって、『奉納年はありませんが「本願片倉郷守屋入道物部義近」と刻まれています。「物部守屋神社」ですから』「守屋と物部」が『あってもおかしくありませんが、私には「仏門に入って守屋入道と名乗った物部義近さんが願を掛けた」としか解釈できません。入道はともかくとして、地元「片倉」には物部姓の人がいたのでしょうか』とある。また、『鳥居額に「従六位物部連比良麿謹書」と彫られています。その「比良麿」をネットで検索してみ』たところ、『ヒットした物部氏の系図に、物部神社(石見国一之宮)の歴代神職が金子家と書かれています。明治に世襲制が廃止された関係でしょうか、末尾の位置に「有卿(ありのり)」と「比良麿」が見つかりました。有卿が直系で、「物部神社神職・金子有卿 男爵 石見国造 物部連 饒速日命後裔」とあります』とある。さらに、「物部守屋神社の由緒」の項には、『案内板がないので、昭和』一七(一九三三)『年発行の宮下一郎編著』の「藤澤村史』から、「明治一〇(一八七七)年の書き上げ」とある「守屋神社」が電子化されており、そこでは「守矢社」となっているとある。

   《引用開始》

守矢社 村社 本村の北片倉にあり、東西五間南北五間、面積二十五坪、祭神物部守屋大連を祭る、勧請年月不詳、祭日六月廿二日、

由 来

(中略)日本書紀にあれば、當(当)昔大連子息等、遥々遁(のがれ)来て、信濃國伊那郡藤澤に蟄居(ちっきょ)して世間の人不交(まじわらず)、許多(あまた)の星霜を経て、漣々(れんれん)子孫蕃息(はんそく)して大連の霊を拝し祭りて氏神とし、家も數(数)戸に分かれても、尚昔を思戀(恋)して家名に守屋を唱え来りしならん、氏神守屋神社附近を字古屋敷と記したるは、往昔大連子息より、數代當所に住せし屋敷跡なりとぞ、亦(また)其傍に、字五輪原とて古墳あり、抑(そもそも)、最初守屋氏来住せしより千二百八十餘(余)年の今世に至ては、末孫七十二戸に相成。只可惜(おしむべく)事は寛永年間に村方焼失の砌(みぎり)、古書重器(ちょうき)等皆灰燼(かいじん)せしと申傳(伝)へり、

社宮司小社同所にあり東西五間南北四間面積廿坪、

山王小社同所にあり(社地略)

権現山神小社同所にあり(社地略)

山神小社同所にあり(社地略)

   《引用終了》

また、「守屋神社の石室」の項では、「藤澤村史」の「藤澤の概観」の条では、『伝説として「一、洩矢神守屋大臣伝説・二、物部守屋伝説」を挙げ、「三、守屋山は諏訪大神の弓矢を埋めし地と云説」として《祠に弓矢を埋めた。矢を守る→守矢→守屋》という話を紹介して』あるとされ、『ここでは、諏訪教育会』編の「復刻 諏訪史料叢書」に載る二書から、その一部を転載しておられる。

   《引用開始》

守矢氏神長官たる事

 神長官守屋氏(守矢氏にも作る)ある人のいう自ら誤りて後代の子孫物部氏守屋の子孫という大なる僻事(ひがごと)なり、中村中叟高遠の儒醫は大神の弓矢を掌(つかさど)りし大臣の子孫なりと考えし未だつくさゞるに似たり、守屋が嶽は大神の持給いし弓矢を蔵しという、

             『洲羽事跡考』

一、鳳凰が嶽

守矢が嶽鞍掛が嶽につゝいて有り。岐岨路記に上諏方の向の山を鳳凰が嶽という、その西の山を守矢が嶽というとかけり。守矢が嶽には守矢大臣の宮あり。石匣(せっこう)に神劍を納む。御手洗(みたらし)の水あり。旱魃の節雩行(うぎょう※雨乞い)にこの水を以すれば、必雨ふると云。

            『諏方かのこ』

   《引用終了》

以下、『「守屋山(頂)に弓矢または剣を納めた石匣がある」と読めますが、現在それに相当するのは守屋神社里宮本殿下の石室しかありません。それは、剣や弓矢を納めるには格好の大きさですから、石匣と見なすこともできます。しかし、伝承に合わせて石室を造った可能性もありますから、何とも言えません』と擱筆しておられる。「ブリタニカ国際大百科事典」の物部守屋(もののべのもりや ?~用明二(五八七)年:河内)は古代の豪族で物部尾輿(おこし)の子。敏達元(五七二) 年に大連 (おおむらじ) となり、排仏派として、崇仏派の大臣蘇我馬子と対立していた。同十四年に諸国に疫病が流行すると、守屋は、この疫病の流行を「馬子が仏像を礼拝し、寺塔を建立したためである」として、寺塔を焼き、仏像を難波堀江に捨てた。その後、用明天皇が危篤に陥り、群臣に崇仏の可否を問うと、守屋は排仏を説いたが、天皇が馬子の崇仏の説を採用したため、両者の対立はますます激しくなった。用明天皇が没すると、守屋は穴穂部皇子を即位させようとしたが、皇子は馬子らのために殺され、さらに守屋も泊瀬部皇子 (はつせべのみこ:後の崇峻天皇) や聖徳太子らを味方に引き入れた馬子によって滅ぼされた(「丁未の乱」(ていびのらん))。以後、物部氏は衰退に向い、守屋の所有にかかる奴婢や邸宅は、四天王寺などに施入されて、その奴婢・田荘となった、とある。なお、ウィキの「守屋山」(そこでは「もりやさん」と読んでいる)によれば、『伝承によると旧名を「森山(もりやま)」という。古文書には「守屋ヶ嶽」「守矢が岳」という名称も見られる』。『諏訪地方の人々には守屋山を含めた伊那側の山並みを「西山」とも呼ばれている』。『伊那山地の最北部にあり、山頂からは、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、八ヶ岳連峰といった山々が眺望できる。清流とうたわれる沢川の水源で、もみじ湖(箕輪ダムの人造湖)を経て』、『天竜川に注ぐ』。『緑色凝灰岩でできているこの山は、糸魚川静岡構造線と中央構造線が交わる地点にあたり、地質学的にきわめて重要な地域である』。『東峰には山頂から少し下ったところに石祠があり、古絵図には「守矢大臣宮」「守矢大神」という名で描かれている。現在は南麓にある守屋神社(伊那市高遠町藤澤区片倉)の奥宮とされている』。『その名称から「モリヤ」という神(洩矢神あるいは物部守屋)が宿る山として信仰を集めた』。『守屋山の神が怒ると雨をもたらすと信じられ、過去には干天が続くと』、『雨乞いとして山頂の祠を谷底に突き落とす習慣があった。現在は祠が柵で囲ってあるのはこれを防ぐためである』(これ凄過ぎ! 御霊の零落っぽい!)「おじり晴れ 守屋へ雲を 巻き上げて 百舌鳥(もず)きち鳴かば 鎌を研ぐべし」(「おじり」は注釈に『諏訪湖の尻、つまり釜口水門から天竜川へ流れ落ちる方面を指す』とある)という『諺で言われているように、山頂に雲がかかると』、『必ず雨が降ると信じられていたことから、諏訪盆地や伊那谷に住む人々には古くから気象の予知に用いられた』。『祠に向かって右側にある岩も磐座』(いわくら)『として信仰の対象であった。かつては守屋山の西側に住む人たちが旧』六『月朔日に登山して、祠を拝した後に磐座を』七『回まわって』、『諏訪上社へ参拝するという行事を行い、これを「御七堂」』(みしちどう)『と呼んだ』。『磐座の表面には文字らしきものが彫ってあり、祈雨や五穀豊穣を願うまじないの痕跡ではないかと思われる』。『近年諏訪上社の神体山とされるが、もともと諏訪明神(建御名方神)の神体は諏訪氏出の大祝』(おおほうり:昔の諏訪大社の最高位の神官を指す)『であり、歴史的に守屋山を神体とした記録はない。それどころか、山頂の石祠には御柱がなく、諏訪に背を向けている』。『ただし、宝治』三(一二四九)年『に書かれたと』される「諏訪信重解状」には、『諏訪明神が守屋山の麓に降臨して、この地を治めていた守屋大臣(洩矢神)と覇権争いをした後、上社を構えたという伝承が書かれているため』、『必ずしも上社とは全く関係がないとは言えない』。天正一〇(一五八二)年三月、『織田信忠の軍勢が上社を焼き討ちした時、神官たちが神輿を担ぎ出し』、『守屋山へ避難したと言われている。この事跡に関係する地名(御輿坂、権祝昼飯場など)が山中に残っている』。寛政一二(一八〇〇)年、『白銅製の八稜鏡が山に発見され、天正の兵乱の際に紛失した宝物だろうということで』、『上社に寄進された。この鏡は現在は上社本宮の宝物殿に収蔵されている』。『御柱祭の時に建て替えられる』二『つの宝殿の網代天井の一部には、山中の一角に生えている「穂無し萱」が古くから使用されている』。以下、「守矢氏と物部氏との関係」の項。『諏訪上社に神長(かんのおさ)という筆頭職に就いた守矢氏の家伝によると、物部守屋の次男の武麿(弟君(おとぎみ)とも)が』、「丁未の乱」の後、『守屋山に逃れて、やがて守矢氏へ養子入りして』、『神長となった』。『なお、守矢氏へ養子入りしたといわれる平忠度の子についても』、『まったく同じ伝承が語られている。これらには、神長となる者が通過儀礼として聖地とされた守屋山に籠っていた事が反映しているのではないかと指摘されている』。『物部守屋を祀る守屋神社が立つ伊那市の片倉地区にも、物部守屋の子孫と名乗る守屋姓の家が多く存在する』。『また、山中には鍛冶技術を持った物部氏とは関係があると思われる「鋳物師(いもじ)ヶ釜」の地名が残っている』。『諏訪上社一帯を描いた伝』「天正の古図」から、『山中には東日本に知られる風神「風の三郎」を祀る「三郎宮」がかつてあったことが分かる。諏訪上社にはこの社に対する神事が見当たらないため、この痕跡は民間信仰跡だと推測される』。『製鉄には風が必要とされたため、鋳物師ヶ釜にいたと思われる鍛冶屋や鋳物師が祀った風の神がそのルーツだったと考えられる』とある。

「藤澤片倉村」底本の向山氏の補註に、『現、長野県上伊那郡高遠町藤沢片倉。この藤沢川に沿う一帯の地を、江戸時代、藤沢郷ととなえた』とある。現在は伊那市高遠町藤澤片倉(グーグル・マップ・データ)。

「あかれる世」「開(あ)かれる世」。古代大和朝廷の開闢(かいびゃく)後。

「三峯川」三峰川(みぶがわ)は『長野県伊那市を流れる川で、天竜川水系の一級河川。天竜川水系における最大の支流』。『流路延長は』五十六・八『キロメートル、流長野県伊那市の南東部に位置する南アルプス仙丈ヶ岳』『の南西に源を発し、塩見岳に向か』って南流し、『巫女淵地点で大きく蛇行して塩見岳の北西で反転北流し、以後はフォッサマグナに沿い小瀬戸峡を形成しながら流れ、美和ダム地点を通過すると城下町・高遠に入る。高遠城址付近で藤沢川を合わせると』、『流路を西に変え、河岸段丘・扇状地を形成しながら』、『伊那市東春近』(ひがしはるちか:伊那市役所南西約一キロメートル)『で天竜川へ合流する』。『流域は急峻な地形のため、古くから「暴れ川」として知られ』た、とウィキの「三峰川」にある。グーグル・マップ・データのこの中央部が全流域となる。

「守屋嶽は諏訪明神の祠〔やしろ〕のうしろにあたりて」信濃國一之宮諏訪大社の下社春宮・秋宮が守屋山の真北(直線で十二キロメートル前後)にあり、上社はそこから東へ少しずれた位置にあることが、ここ(グーグル・マップ・データ航空写真)で判る。

「鉾持山」山名としては確認出来ないが、守屋山から稜線伝いに、直線で十四キロメートルほど南南西に行った位置に、伊那市高遠町西高遠鉾持(ほこじ)がある(グーグル・マップ・データ航空写真)。読みは現在の地名で歴史的仮名遣で示した。ご夫婦のサイト「神社探訪 狛犬見聞録・注連縄の豆知識」の「鉾持(ほこじ)神社」の解説板(写真も有る)によれば、『伝承によれば、伊那郡を治めていた諏訪の国主が養老年間』(七一七年~七二四年)『に、武運長久・国土安全を願い、高遠の地に伊豆・箱根・三島の三社を祀り、神祠を建立して神事を行ったのが創立起源とされる』。『この地に移されたのは文治年間』(一一八五年~一一九〇年)『で、その時、土中から「霊鉾」が発掘されたので、鉾持神社と名づけられ、その鉾を御神体として祀り』、『鉾持三社大権現と尊称した』。『高遠城の守護神として歴代城主の信仰が厚く、高遠氏、武田氏、岩崎氏、保科氏などから与えられた寄進状は今も保存されている』。『このほか廃藩後に、内藤家、伊沢家から寄進された鎧、明珍の兜、備前長船の銘刀など多くの社宝を蔵している』とある。物部も守屋も全く登場しない。

「軍〔いくさ〕終りて後」前注で引用したウィキの「守屋山」の終わりの部分を参照されたい。史実上、守屋は「丁未の乱」で弓矢で射殺(いころ)されるが、その戦闘の場所は渋川郡阿都(あと:後の河内国の内)で、逆に彼を射殺した迹見赤檮(とみのいちい:押坂彦人大兄皇子(彦人皇子)又は聖徳太子の舎人)が、その矢を埋めたとされる「鏑矢塚(かぶらやづか)」と、その弓を埋めたとされる「弓代塚(ゆみしろづか)」、さらには「守屋首洗池」・「物部守屋の墓」が、現在の大阪府八尾市南太子堂(グーグル・マップ・データ)にある(迹見赤檮発箭地(はっせんち)史蹟)と、ウィキの「物部守屋」にあるから、恐らくは、この伝説が、八ヶ岳原人氏の引用された「洲羽事跡考」の如く、混同や誤認或いは確信犯の偽説形成と変形を起こして出来上がったものと私には思われる。

「藤原鎌足朝臣の具足を多武峯〔たふのみね〕に藏め給へる」多武峰(とうのみね)は奈良県桜井市南部にある山(グーグル・マップ・データ)。但し、具足ではなく、鎌足の没(天智天皇八(六六九)年)から九年後の天武天皇七(六七八)年に、彼の長男で僧であった定恵(じょうえ/じょうけい)が唐から帰国後、摂津国安威(あい)に葬られてあった父の遺体を大和国の当地に移し、その墓の上に十三重塔を造立したのが現在の談山(だんざん)神社の発祥とされる。こういうのを読むと、鎌倉トンデモ(と私は思っている)語源説に、「詞林采葉抄」にある、『鎌倉とは「鎌を埋(うづ)む倉」と云ふ詞(ことば)なり。其濫觴は、昔し、大織冠鎌足、いまだ鎌子(かまこ)と申せし比、宿願の事(こと)ましますにより、鹿島參詣の時、此由比里(ゆひのさと)に宿し給ひける夜(よ)、靈夢を感じ、年來(としごろ)所持し給ひける鎌を、今の大藏(おほくら)の松岡(まつがをか)に埋み給ひけるより、鎌倉郡(かまくらこほり)と云ふ。之れに因りて、思ふに、歌に「鎌倉山の松」とよみつゞくること、鎌を埋む所、松岡なればなり』を思い出すね(私の水戸光圀の「新編鎌倉志卷之一」の冒頭「鎌倉大意」の初めの部分から。光圀のも元恒と同じく強烈な排仏派で、生涯ただ一度の旅(「水戸黄門」は真っ赤な嘘である)である鎌倉への途次、六浦で地蔵を縛って引き倒して損壊するなどの乱暴狼藉を働いている)。

「長門の國豐浦宮の巽〔たつみ〕」(南東)「にあたりて小山あり、此山に仲哀帝の御墓所とてあり」「長門の國豐浦宮」山口県下関市長府宮の内町(ちょうふみやのうちちょう)にある忌宮(いみのみや)神社は、仲哀天皇が熊襲平定の際に滞在した行宮(あんぐう)である「豊浦宮」の跡とされる。その真南(南東ではない)ここ(グーグル・マップ・データ)に仲哀天皇(日本武尊の子で神功皇后の夫。但し、実在性は定かでない)殯殮地(ひんれんち/かりもがりのち:仮殯宮(かりもがりのみや)(死んでも蘇生を信じ、一定期間、遺体を安置する場所を「殯の宮」と呼ぶ。事実上はここでは「仮埋葬地」の意)の地)がある。

『豐浦宮より、五、六里ばかり北にあたりて、「豐浦山」といふ所あり』この山名は現在は見当たらない。但し、方位と距離から見て、下関市豊浦町大字川棚(かわたな)の地区附近が一つの候補とはなろうと思われる(グーグル・マップ・データ)。

「八幡宮本紀」貝原好古(よしふる 寛文四(一六六四)年~元禄一三(一七〇〇)年:儒者で、貝原楽軒の長男で、叔父貝原益軒(寛永七(一六三〇)年~正徳四(一七一四)年)の養子となった。益軒とともに筑前福岡藩に仕え、藩命で益軒の「筑前国続風土記」の編集を助けたが若くして亡くなった)が元禄二(一六八九)年に成した八幡宮記事伝承の集成と神道の八幡伝説を中心に検証した書。貝原益軒は元恒同様、排仏派で、好古も同じ立場にあった。

「諏訪に守屋氏ありて、守屋大連〔もりやのおほむらぢ〕の子孫と唱へ、此神をもて、守屋大連を祭れり」同前のウィキの「守屋山」の引用の終わりを参照。

「古傳を失ひて、名に付〔つき〕て設〔まうく〕る說なり。是は明神に從ひ參らせて弓矢掌〔つかさど〕る大臣の後なるべく、且〔かつ〕、片倉村および遠近〔をちこち〕に守屋氏の殊に多きは、此大臣に屬せし人の孫〔そん〕なるべき事、疑なし」この辺りの地方豪族の有力者が神器を含み実用の武器装備の調達・備蓄の担当者が「大臣」を名乗り、神の矢を守ることをシンボルとして「守矢」を名とし、それが、歴史上の有力豪族である「守屋」の名にスライドしたということ。

「伊豆・箱根・三島を勸請し」それぞれ権現。但し、「伊豆」は「伊豆山」が正しい。

「鉾持事略」中村元恒と子の元起(元鎧の弟)「蕗原拾葉」に含まれているかと思ったが、ネット検索では出てこない。

『今も神長官にては「矢の守〔もり〕」を用〔もちふ〕』諏訪大社の当時の神官長(大祝)は別称で「矢の守」を用いるということか。]

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