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2020/11/07

堀内元鎧 信濃奇談 卷の上 降毛

 

 降毛

 文化乙亥〔きのとゐ/いつがい〕の八月朔日〔ついたち〕、俄に空かき曇り、雷電なり渡り、大雨、降〔ふり〕そそぎける。後に見れば、白き毛、木の枝・庭の垣などに幾らとなく、かゝりてあり。諏方郡[やぶちゃん注:原本もママ。底本では「方」の字の右に『(訪)』と補正注を添えてある。]にては、七月二十三日に毛降りし、となり。

 西土〔さいど〕にても、此事、たまたまありて正史に載せぬ。「漢書」、『武帝天漢元年三月、天雨白毛、三年雨白氂』【氂は毛の强直なるもの。】。「晉書」、『武帝泰始八年五月、蜀地雨白毛』。「隋書」、『開皇六年七月、京師雨ㇾ毛如髮尾長者三尺餘短者六七寸』。「通鑑〔つがん〕」、『天順帝至正十八年五月、山東地震天雨白毛』の類〔たぐひ〕、西川氏の「怪異辨談」に詳〔つまびらか〕に見ゆ。

 また、「白紙物語」に載す。『文化丑の十一月廿二日、未の時ばかり、武州多摩郡に、おほぞら、いかづちのごとく、ひびきわたれる聲、聞ゆ。其響〔ひびき〕、やうやう細くなりて、やみぬ。八王子の子安宿〔こやすじゆく〕の民〔たみ〕、忠七といふものゝ作れる田、上野原といふ所の麥の中に、あやしきもの落〔おち〕、地、どよみて、白きいき、高くのぼれり。里人、あやしみ、よりて見れば、田の中、四尺ばかりくぼみいりて、黑くこげて、われたる石、四つ、五つばかり、おちたりけり【長〔ながさ〕三尺ばかり、廣〔ひろく〕、厚さ五寸ばかり。】。村長〔むらをさ〕ども、ひろひとりて、おほやけに聞えあげし、となん。

 私〔わたくし〕にいふ。およそ、物、天にありては、形、あらずして、地に落〔おつ〕れば、形を、なす。雨・露・霜・雪は常のことなれば、人々、あやしともせず。時には、石とも、毛とも、なれるは、地に感じて成るにて、はじめより、大空に石や毛のあるべきものかは。俗人は、「いづこの山よりか拔出〔ぬけいで〕たる石にや」などいへれど、石をば、左〔さ〕もいふべけれど、毛をば、なにとか、いはん。石の落〔おち〕し事も「春秋經」より、世々の史傳に、たえず見えたり。あやしむに足らず。世には、雹〔ひよう〕の降れるも、「いづこのか山の氷の、風にて吹出〔ふきいだ〕せるなり」といふ。笑ふに堪たり。「輟耕錄」に、『至正丙午〔へいご〕八月辛酉〔しんいう〕、上海縣に落〔おつ〕る石あり、尾より首まで、尺に盈〔みてり〕』云云。

 

[やぶちゃん注:毛が降ることについては、たまたま先の「狐の玉」の私の冒頭注で正体として、「ケサランパサラン」とした中で、挙げた私の「想山著聞奇集 卷の壹 毛の降たる事」をリンクさせれば、ことは足りる。そこでは降毛現象を本邦と中国とから、やはりデータとして記しているが、本篇よりも遙かに詳細で詳しく、史料価値もそちらの方が各段に高いと言える。元恒に聴こう。「雨・露・霜・雪」は空気中の水分由来だが、石や毛の原成分は空気中の何かね? それも答えず(宇宙空間からやってくる隕石の存在を語っていたなら、君に喜んで組したくなっただろうに)して、ただ、民衆を無知として笑うあんたが、ますます嫌いになってきたね。そんなことだから、流謫されるんだよ、とイヤミの一つも言いたくなってくる。まあ、以下の注を見いな! ヒドい誤りがゴロタ石のようにあるぜ!

「文化乙亥の八月朔日」(「朔日」は別に「さくじつ」と読んでもよい)文化十二年八月一日はグレゴリオ暦で一八一五年九月三日。

「諏方郡にては七月二十三日に毛降りし」諏訪郡で降毛現象があったのは、文脈から同じ文化十二年七月二十三日で、こちらはグレゴリオ暦で一八一五年八月二十七日となる。伊那での降毛の八日前であるから、同一の原因、同一の物質である可能性は高い。

「西土」中国。

「漢書……」訓読する(以下同じ)。「武帝天漢元年三月、天、白毛を雨(あめふ)らし、三年、白氂(はくり)を雨らす」。以上は「志」の「五行志中之上」の以下。

   *

天漢元年[やぶちゃん注:紀元前一〇〇年。]三月。天雨白毛。三年八月、天雨白氂。京房易傳曰、「前樂後憂、厥妖天雨羽」。又、曰、「邪人進、賢人逃、天雨毛」。

   *

「晉書……」「武帝泰始八年五月、蜀の地、白毛を雨らす」。以下は九巻に出る。

   *

武帝泰始八年[やぶちゃん注:二七二年。]五月、蜀地、雨白毛。此白祥也。時益州刺史皇甫晏、伐汝山胡、從事何旅固諫、不從。牙門張弘等、因衆之怨、誣晏謀逆。「書畫床房易傳」曰、「前樂後憂、厥妖天雨羽」。又曰、「邪人進、賢人逃、天雨毛」。「其易妖」曰、「天雨毛羽、貴人出走」。三占、皆應。

   *

「隋書……」「開皇六年七月、京師、毛、雨りて、髮・尾のごとし。長き者、三尺餘、短き者、六、七寸」。巻二十二の「志第十七 五行上」。

   *

開皇六年[やぶちゃん注:五六八年。]七月、京師雨毛、如發尾、長者三尺餘、短者六七寸。京房「易飛候」曰、「天雨毛、其國大饑」。是時關中旱、米粟湧貴。

   *

「通鑑」「資治通鑑」(しじつがん:読みは漢文学の慣用読み)は北宋の司馬光が一〇六五年の英宗の詔により編纂した編年体歴史書。二百九十四巻。紀元前四〇三年の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、九五九年の北宋建国の前年に至るまでの千三百六十二年間を対象とする。但し、原文を調べたところ、その本篇ではなく、清初の学者で政治家であった徐乾学(じょ けんがく 一六三二年~一六九四年)が康煕年間(康煕は一六六二年から一七二二年までであるが、彼は康煕三十三年(一六九四年)に亡くなっているのでそこまでの間となる)の「資治通鑑」の続編として書いた「資治通鑑續編」(百八十四巻)の記事であることが判った。ここで元恒が「通鑑」とするのは誤りである。「中國哲學書電子化計劃」の「資治通鑑後編」の巻百七十八のガイド・ナンバー「6」の四行目に出る。後注で示す西川如見著「怪異辨斷」の原本では「通鑑大全」とあることが判明した。これは明の唐順之が編纂した、元の「通鑑」からその続編類や注釈類を纏めたものである。「国立公文書館デジタルアーカイブ」で全巻を画像閲覧が出来、総てをダウン・ロードすることも出来る。

「天順帝至正十八年」この「天」は不審(原本もそうなっているが)。これは後注で示す西川如見著「怪異辨斷」の原本によって「元」の誤りであることが判明した。元号の「至正」は元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号で、同「十八年」は一三五八年。

『西川氏の「怪異辨談」』書名は「怪異辯斷」の元恒の誤り。江戸時代中期の天文学者西川如見(慶安元(一六四八)年~享保九(一七二四)年:父は同じく天文学者の西川忠益。肥前長崎の商家に生まれ育った。名は忠英。寛文一二(一六七二)年、二十五歳の時、和漢を儒学者南部草寿に、天文・暦算・測量学を小林義信に学び、元禄八(一六九五)年、四十八歳の時に、本邦初の世界地誌「華夷通商考」を著わした。元禄一〇(一六九七)年に隠居し、著述に専念し、宝永五(一七〇八)年六十一歳で「増補華夷通商考」を刊行、そこで南北アメリカが日本で初めて紹介されている。天文・地理学上の著述では、著名な漢籍の天文学説を主としつつも、ヨーロッパの天文学説の特徴をも十分に承知していたようであり、享保三(一七一八)年には江戸へ赴き、翌享保四(一七一九)年には第八代将軍徳川吉宗から天文に関する下問を受けた後、暫く江戸に滞在し、長崎に帰った。享年七十七歳であった。息子の西川正休は、後年、天文方に任命されている(以上はウィキの「西川如見」に拠った)が正徳四(一七一四)年に初版を書いた天体現象全般(天変地異を含む)を漢籍から渉猟した優れものである。早稲田大学図書館「古典総合データベース」で調べたところ、巻第三「天異篇三」PDF)に「天雨毛」(天、毛を雨(あめふ)らす)にあった。「29」コマ目から「31」コマ目までで、史料の抜粋だけでなく、毛は降る科学に穏当な原因をも考証(それが「辯斷」。そこでは鳥の羽毛説が主真相として述べられてある)してある! 漢籍には訓点が施され、「辯斷」部の漢字には丁寧にルビが振られてあるから、非常に読み易い! 必見! それにしても、先の書き間違いは、息子の元鎧の責任というよりは、話者であり、刊行の際に引用原本との校合をさえしていない(息子を亡くしたばかりという感情面での同情はするに吝かではないが)元恒の杜撰さこそが指弾されるべきであろう。出版から百九十一年も経った後に、世界中で誰もが読める形で、私の彼への批判が、まさか、出現するとは思っていなかったであろうけれども。

「白紙物語」既出既注

「文化丑の十一月廿二日」文化二年乙丑(きのとうし/イッチュウ)は一八〇六年一月十日。この年は閏八月があった結果、換算すると、異様に早く翌年になっているのである。

「未の時」午後二時前後。

「武州多摩郡」武蔵国多摩郡現在の東京都中野区・杉並区及び多摩地域の大部分と、世田谷区の一部にあたる広域。

「八王子の子安宿」旧八王子十五宿の一つ。現在の東京都八王子市子安町(こやすまち:グーグル・マップ・データ)。八王子中心市街地の一部に当たる。多摩郡で不審と思われる方もいるだろうが、江戸時代の子安村は南多摩郡子安村であった。八王子市の南西は多摩市と隣接しており、明治時代でも南多摩郡の郡役所所在地は多摩地域としての八王子にあったのである。

「上野原」底本では「忠七といふものゝ作れる、田上野原といふ所の麥の中に」となっており、読んだ時から不審に感じていた。「作れる、田上野原」では、「田上野原」が地名か通称のようになるが、それではなんとなくおかしいと感じていたからである。ここで注を附すために「田上野原」という地名のような怪しいものを探ってみるに、八王子に「上野原」はあった。ここだ(グーグル・マップ・データ)。それで遅蒔き乍ら、底本の読点位置がおかしいだけ(これは編者向山雅重の痛いミス)のことだと気がついたのである。「田」で「麥」はおかしいという御仁には、「田」は「田圃」だけでなく「畑」も含むのである、と応じておく。漢籍では「田」は水田に限定するものではなく、寧ろ、日本人の「畑地」と同義で使用されることが多いのである。

「どよみて」大きな音が鳴り響いて。

「白きいき」白煙。

「長三尺ばかり、廣〔ひろく〕、厚さ五寸ばかり」この割注、何だか判り難いが、これはその穴の中にあった石のデータを言っている。円盤状ではなく、かなり長い(約九十一センチメートル)板状(「廣」はその射であろう)になっていたらしい。「厚さ」は十五センチメートルである。しかし、「四つ五つ」もそれがあったとすると、落下してきた隕石はかなり大きなものになり、「どよむ」どころの騒ぎではなく、巨大なクレーターが出来てしまう。されば、これは、隕石が大気圏内に入って分裂破砕し、その欠片(かけら)が落下したものだったのではなかろうか。

「毛をば、なにとか、いはん」おう! 元恒! 先の如見の「怪異辯斷」の巻第三「天異篇三」に書かれているみたように(あんたはそれを読んでるんだろ?!)言ってみようじゃねえか! 薄の穂! 蒲の穂! 蜘蛛のバルーニング(Ballooning)! 飛ぶ鳥の群れから落ちた毛! 

「春秋經」五経の「春秋」の別名。

「輟耕錄」「三足鷄」の私の注を参照。以下は巻二十四に以下のように載る。

   *

天隕魚至正丙午八月辛酉、上海縣浦東俞店橋南牧羊兒三四、聞頭上恰恰有聲、仰視之、流光中隕一魚、剌麻佳上、成二創、其狀不常見。自首至尾根僅盈尺、似闊霸而短。是日晴無陰雲、亦無雕鸛之類、是可怪也。日※時、縣市人哄然指流星自南投北、卽此時也。橋下一細家取欲烹食、其妻鹽而藏之、來者多就觀焉。或者曰、志有云、天隕魚、人民失所之象。

   *

「※」は「中國哲學書電子化計劃」で原本を見たが(ここの最初の行の下から五字目)、表示出来ないし、意味も判らぬ(日没後の謂いか?)。「魚」というのは、箒星(ほうきぼし)を魚に喩えるのは腑に落ちる。ここまで読んでるなら、元恒! 何で隕石と言わないかねえ? ほんま、厭な奴!]

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