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2020/11/08

谷崎潤一郎 厠のいろいろ (正字正仮名版)

 

[やぶちゃん注:昭和一〇(一九三五)年八月号『經濟往來』発表。正しくは表記は谷崎潤一郞である。

 私は佐藤春夫が大好きで、谷崎潤一郎は人間的に大嫌いである。作家としては、小説では「蘆刈」に心打たれた以外は特に感心したものがない。若い時、期待して蒐集しては片っ端から読んだ彼の怪奇幻想系の小説群も、これがまた、悉く縁日の見世物並みにキッチュな作り物であったことに激しく失望したことが、『裏切られた』という残感覚として私に根を張ってしまったのが原因と思われる。但し、「陰翳禮讃」を筆頭とする随筆類はなかなかに優れており、着眼点の面白さという点で、まず他の追従を許さぬ感がある。特に谷崎の変態的なものへの確信犯的嗜好が、フロイトの言う肛門期的パワーを以って十二分に発揮された本篇は私の一押しの作品である。とっくに誰かが電子化しているだろうとずっと思っていたが、最近、ふと気になって捜してみたが、これ、見当たらない。或いは、健全な方々には、本篇の、文字通り、臭ってくるようなスカトロジスム的雰囲気が躊躇させているのかも知れない。されば、電子化することとした。好きでない作家でもあるので、一発で放(ひ)り出したいから、注は一箇所を除いて附さなかった。なお、文中に出る「大正便所」の構造は頭には描けるが、どのようなものかはネットでもよく判らなかった(貯留槽と汲取槽に分けて一定期間貯留させることによって屎尿内部で寄生虫や病原体等を自壊させる構造の便所である「厚生省式改良便所」の解説の中に名前だけはあった)。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの昭一四(一九三九)年創元社刊の「陰翳禮讃」の当該作の画像を視認した。

 段落の頭に字下げがないのはママである。踊り字「〱」は正字化した。因みに、標題からして「厠のいろいろ」の「いろいろ」の後半は踊り字「〱」である。底本本篇には一切ルビがないが、一部、若い諸君向けに読みを( )で推定で歴史的仮名遣で附した。無論、標題は「かはやのいろいろ」と読む。なお、「糞溜」は「ふんだめ」でいいとも思ったが、「くそだめ」「こえだめ」と読んでいないという断定は出来ないのでルビを附さなかった。]

 

 

厠のいろいろ

 

 

       ○

厠で一番忘れられない印象を受け、今もをりをり想ひ起すのは、大和の上市(かみいち)の町で或る饂飩屋(うどんや)へ這入つたときのことである。急に大便を催したので案内を乞ふと、連れて行かれたのが、家の奧の、吉野川の川原(かはら)に臨んだ便所であつたが、あゝ云ふ川添ひの家と云ふものは、お定りの如く奧へ行くと一階が二階になつて、下にもう一つ地下室が出來てゐる。その饂飩屋もさう云ふ風な作りであつたから、便所のある所は二階であつたが、跨ぎながら下を覗くと、眼もくるめくやうな遙かな下方に川原の土や草が見えて、畑に菜の花の咲いてゐるのや、蝶々の飛んでゐるのや、人が通つてゐるのが鮮やかに見える。つまりその便所だけが二階から川原の崖の上へ張り出しになつてゐて、私が踏んでゐる板の下には空氣以外に何物もないのである。私の肛門から排泄される固形物は、何十尺の虛空を落下して、蝶々の翅や通行人の頭を掠(かす)めながら、糞溜へ落ちる。その落ちる光景までが、上からありあり見えるけれども、蛙(かはづ)飛び込む水の音も聞えて來なければ、臭氣も昇つて來ない。第一糞溜そのものがそんな高さから見おろすと、一向不潔なものに見えない。飛行機の便所へ這入(はい)つたらこんな工合なのではないかと思つたが、糞の落ちて行く間を蝶々がひらひら舞つてゐたり、下に本物の菜畑があるなんて、洒落た厠がまたとあるべきものではない。但し、此の場合厠へ這入つてゐる者はよいが、災難なのは下を通る人たちである。廣い川原のことだから家の裏側に沿うて畑があつたり、花壇があつたり、物干し場があつたりするので、自然その邊を人がうろうろする譯だが、始終頭の上に氣を配つてもゐられまいから、「此の上に便所あり」とでも棒杭を立てゝ置かなかつたら、ついうつかりして眞下を通ることもあらう。とすると、どんな時に牡丹餅の洗禮を受けないとも限らないのである。

       ○

都會の便所は淸潔と云う點では申し分がないけれども、かう云つたやうな風流味がない。田舍は土地がゆつたりとしていて、周圍に樹木が繁つてゐるから、母屋(おもや)と厠とを切り離してその間を渡り廊下でつないでゐるのが普通である。紀州下里の懸泉堂(佐藤春夫の故鄕の家)は建坪は少いが、庭は三千坪からあるのだと聞く。私が行つたのは夏であつたが、庭の方へ長い渡り廊下が突き出てゐて、その端にある厠が、こんもりした靑葉の蔭に包まれてゐた。これだと臭氣などは忽ち四方のすがすがしい空氣の中へ發散してしまふから、四阿(あづまや)にでも憩(いこ)つてゐるやうな心地がして、不淨な感じがしないのである。要するに、厠はなるたけ土に近く、自然に親しみ深い場所に置かれてあるのがよいやうである。叢の中で、靑天井を仰ぎながら野糞をたれるのとあまり違はない程度の、粗朴な、原始的なものほど氣持がよいと云ふことになる。

       ○

もう二十年近くも前のことだが、長野草風畫伯が名古屋へ旅行をして歸つて來ての話に、名古屋と云ふ都會はなかなか文化が進んでゐる、市民の生活程度も大阪や京都に讓らない、自分はそれを何に依つて感じたかと云へば、方々の家へ招かれて行つた時に、厠の匂ひを嗅いでさう思つたと云ふのである。畫伯の說に依ると、どんなに掃除のよく行き屆いた便所でも、必ずほんのりと淡い匂ひがする。それは臭氣止めの藥の匂ひと、糞尿の匂ひと、庭の下草や、土や、苔などの匂ひの混合したものであるが、而(しか)もその匂ひが一軒々々少しづゝ違つてゐる、上品な家のは上品な匂ひがする。だから便所の匂ひを嗅げば、ほゞその家に住む人々の人柄が分り、どんな暮しをしてゐるかゞ想像できるのであつて、名古屋の上流の家庭の厠は槪して奧ゆかしい都雅(とが)な匂ひがしたと云ふ。なるほど、さう云はれてみると、便所の匂ひには一種なつかしい甘い思ひ出が伴ふものである。たとへば久しく故鄕を離れてゐた者が何年ぶりかで我が家へ歸つて來た場合、何よりも便所へ這入つて昔嗅ぎ馴れた匂ひを嗅ぐときに、幼時の記億が交々(こもごも)よみがへつて來て、ほんたうに「我が家へ戾つて來たなあ」と云ふ親しみが湧く。又行きつけの料理屋お茶屋などについても、同樣のことが云へる。ふだんは忘れてゐるけれども、たまに出かけて行つてその家の厠へ這入つてみると、そこで過した飮樂の思ひ出がいろいろと浮かんで來、昔ながらの遊蕩氣分や花柳情調が徐(おもむ)ろに催して來るのである。それに、さう云ふと可笑しいが、便所の匂ひには神經を鎭靜させる効用があるのではないかと思ふ。便所が瞑想に適する場所であることは、人のよく知る通りであるが、近頃の水洗式の便所では、どうもそれが思ふやうに行かない。と云ふのは、他にもいろいろの原因があるに違ひないが、水洗式だと、淸潔一方になつてしまつて、草風氏の所謂上品な匂ひ、都雅の匂ひのしないことが、大いに關係してゐるのであらう。

       ○

志賀君が、故芥川龍之介から聞いたと云つて話された話に、倪雲林(げいうんりん)の厠の故事がある。雲林と云ふ人は支那人には珍しい潔癖家であつたと見えて、蛾の翅を澤山集めて壺の中へ入れ、それを厠の床下へ置いて、その上へ糞をたれた。つまり砂の代りに翅を敷いたフンシのやうなものだと思へば間違ひはないが、蛾の翅と云へば非常に輕いフワフワした物質であるから、落ちて來た牡丹餅を忽ち中へ埋めてしまつて見えないやうにする仕掛けなのである。蓋(けだ)し、厠の設備として古來このくらゐ贅澤なものはあるまい。糞溜と云うものはどんなに綺麗らしく作り、どんなに衞生的な工夫をしたところで、想像すると汚い感じが湧いて來るものだが、此の蛾の翅のフンシばかりは、考えても美しい。上から糞がポタリと落ちる、パツと煙のやうに無數の翅が舞ひ上る、それが各々パサパサに乾燥した、金茶色の底光りを含んだ、非常に薄い雲母(きらら)のやうな斷片の集合なのである、さうして何が落ちて來たのだか分らないうちにその固形物はその斷片の堆積の中へ吞まれてしまふ、と云ふ次第で、先の先まで想像を逞(たくま)しうしてみても、少しも汚い感じがしない。それともう一つ驚くのは、それだけの翅を蒐集する手數である。田舍だつたら夏の晚にはいくらでも飛んで來るけれども、今も云ふやうな目的に使用するのには、隨分たくさんの翅が必要なのである。さうして恐らくは、用を足す每に一遍々々新しいのと取り換へなければなるまい。されば大勢の人手を使つて、夏の間に何千匹何萬匹と云ふ蛾を捕へて、一年中の使用量を貯へてゞも置くのであらう。とすると、とても贅澤な話で、昔の支那ででもなかつたら實行出來さうもないことである。

[やぶちゃん注:ここで谷崎がカタカナで記した「フンシ」であるが、これは恐らく名詞の「糞仕」である。小学館「日本国語大辞典」の『ふんし【糞仕】』に、『「し」は動詞「する(為)の連用形から。「仕」はあて字』とし、『犬や猫が糞尿をすること。また、その場所。普通、砂を入れた箱をあてがう』とあり、用例から江戸中期以降の語である。谷崎は「糞仕」の「仕」が当て字であることが判っており、しかし、そうした動物用の「おまる」を指すような「し」という発音の漢字が浮かばなかったために、かく表記したものと思われる。]

       ○

倪雲林の苦心は、自分のたれたものを、絕對に自分の眼に觸れさせないやうにした、と云ふところに存するのであらう。勿論普通の厠であつても、好んで見ようとしなければ見ないで濟ませるやうなものゝ「恐いもの見たさ」ではなくて「汚いもの見たさ」とでも云ふか、見える所にある以上はどうかした拍子に見ることがある、だから矢張見えないやうな設備をするのに越したことはないが、一番簡單な方法は床下を眞暗にすることだと思ふ。これは何でもないことで、汲取口の蓋をかつちり外れないようにさへして置けば、もうそれだけでも可なり光線が防げるのだが、近頃はさう云ふ注意を怠つてゐる家が多い。尙その上に、床と溜との距離を遠くして、上部からの光線が屆かないやうにすることである。

       ○

水洗式の場合は、自分で自分の落したものを厭でもハツキリ見ることになる。殊に西洋式の腰掛でなく、跨ぐようにした日本式のでは、水を流すまではすぐ臀(しり)の下にとぐろを卷いてゐるのである。これは不消化物を食べた時など容易に發見することが出來て、保健の目的には叶ふけれども、考へて見れば不作法な話で、少くとも雲鬢花顏(うんびんくわがん)の東洋式美人などには、かう云ふ便所へ這入つて貰ひたくない。やんごとない上﨟などゝ云ふものは、自分のおいどから出るものがどんな形をしてゐるか知らない方がよく、噓でも知らない振りをしてゐて貰ひたい。そこで、假に私が好きなやうに便所を作るとすれば、矢張水洗式を避けて、昔風のものにするが、出來るなら糞溜を便所の位置から離れた所、たとへば裏庭の花壇や畑などのある方へ持つて行く。つまり、便所の床下からそこまで多少の勾配をつけて、土管か何かで汚物を送り込むようにするのである。かうすれば床下は明りのさし込む口がないから、眞暗になる。瞑想的な、都雅な匂ひはほんのりするかも知れないが、不愉快な惡臭は絕對にしない。又、便所の下から汲み取るのでないから、用の最中に慌てゝ外へ逃げ出すやうな醜態を演ずる心配がない。野菜や花などを作る家では、かうして溜を別にした方が肥料を得るにも便利である。たしか大正便所と云ふのが此の式であつたかと思ふが、土地をゆつくり使ふことの出來る郊外であつたら、水洗式より此の方をおすゝめしたいのである。

       ○

小便所は、朝顏へ杉の葉を詰めたのが最も雅味があるけれども、あれもどうかと思ふのは、冬だと夥(おびただ)しい湯氣が立つのである。それはその理窟で、杉の葉があるために流れるものが流れてしまはずに、悠々と葉と葉の間を傳はつて落ちるからであるが、放尿中生暖い湯氣が盛んに顏の方へ昇つて來るのは、自分の物から出るのだからまだ辛抱ができるとしても、前の人のすぐあとなどへ行き合はせると、湯氣の止むのを氣長に待つてゐなければならない。

       ○

料理屋やお茶屋などで、臭氣止めに丁子(ちやうじ)を焚いてゐる家があるが、矢張厠は在來の樟腦(しやうなう)かナフタリンを使つて厠らしい上品な匂をさせる程度に止(とど)め、あまり好い薰りのする香料を用ひない方がよい。でないと、白壇(びやくだん)が花柳病の藥に用いられてから一向有難味がなくなつたやうになるからである。丁子と云へば昔はなまめかしい連想を伴ふ香料であつたのに、そいつに厠の連想が結び着いてはおしまひである。丁子風呂などと云つたつて、誰(たれ)も漬かる奴がなくなつてしまふ。私は丁子の香を愛するが故に、特に忠告する次第である。

       ○

學校で、「便所へ行きたい」と云ふことを英語では「アイ・ウオント・トウー・ウオツシユ・マイ・ハンヅ」と云ふのだと敎はつたけれども、實際はどうであらうか。私は西洋へ行つたことはないが、支那で天津の英國人のホテルヘ泊まつた時、食堂のボーイに「ホエア・イズ・トイレツト・ルーム?」と小聲できいたら「W・C?」と大きな聲で聞き返されたのには面食(めんくら)つた。それよりもつと困つたのは、杭州の支那人のホテルで俄かに下痢を催したので、「便所は」と云ふと、ボーイがすぐに案内してくれたのはよいが、生憎そこには小便所しかないのである。私はハタと當感した。なぜなら「大便所」と云ふ英語を敎はつてゐなかつたからである。で、「もう一つの方だ」と云つてみたけれども、ボーイは悟つてくれないのである。外のことなら手眞似でも說明できようが、此奴(こいつ)は眞似をする勇氣がない、そのうちに愈々催して來るし、よくよく困つた經驗があるので、かう云ふ場合に使ふ英語を覺えておかうと思ひながら、實は今以て知らないのである。

       ○

使用中の厠を間違へて開けて、「あ、誰か這入つてる」と叫ぶことがある、此の場合の「誰か這入つてる」を英語で何と云ふか知つてるですか、――と云ふ質問を、ずうつと前に或る席上で近松秋江氏が發したことがある。多分秋江氏は、ホテルか何處かの便所で西洋人の使つた言葉を聞いたのであらう。そう云ふ場合には「サムワン・イン」と云ふですな、――と、そのとき秋江氏は敎へてくれたが、爾來二十有餘年に垂(なんな)んとするけれども、まだ此の英語は實地に應用する機會がない。

       ○

濱本浩君が改造社の社員として京都に出張してゐる時分、或る時岡本の私の家を訪ねた歸りに、梅田から京都行の汽車の中で便所に這入つたが、ドーアを强く締めた拍子に握りの金具が落ちてしまつたので、今度は開けることが出來なくなつた。怒鳴つても叩いても、進行中の汽車の中では聞きつけてくれる譯がない。仕方がないので、當分は外へ出られないものと覺悟をきめ、落ちた金具を拾ひ上げて、その先でコツコツとドーアを叩いてゐた。すると乘客の誰かが氣がついて車掌に知らせたものらしく、京都へ着く前に開けて貰ふことが出來たと云ふ。私は此の話を聞いてから、汽車の便所へ這入る時にはドーアの開閉を亂暴にせぬやう、特に心を配ることにしてゐる。普通列車であつたら、最寄りの驛へ停まつた時に窓を開けて救ひを求める法もあるが、夜汽車の急行などでかう云ふ災難に遇ふと、何時間立ち往生をさせられるか分らないからである。

 

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