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2020/11/29

南方熊楠 南方隨筆 始動 / 画像解説・編者序(中村太郞)・本邦に於ける動物崇拜(1:猿)

 

[やぶちゃん注:南方熊楠の「南方隨筆」の電子化注を始動する。「南方隨筆」は大正一五(一九二六)年五月に岡書院から刊行された。

 底本は国立国会図書館デジタルコレクションの原本画像を視認した。画像もそこからトリミングした(その都度、引用元を示す)。但し、加工データとして、平凡社「南方熊楠選集3」(一九八四年刊)の「南方随筆」(新字新仮名)をOCRで読み込み、使用した。この回でのみ、読みが難しいと思われる箇所には〔 〕で私が推定で歴史的仮名遣で補った。

 博覧強記の南方熊楠の作品に注を附すのは至難の技だが、私が躓いた箇所に禁欲的に附したつもりだったが、結局、やり始めたら、エキサイトしてマニアックになってしまった。

 なお、私は既にサイト版で、本作中の「俗傳」パートにある、

「山神オコゼ魚を好むということの話」

「イスノキに関する里伝」

「奇異の神罰 附やぶちゃん詳細注」

「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」

「通り魔の俗説」

「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」

臨死の病人の魂、寺に行く話」

「睡中の人を起こす法」

「魂空中に倒懸すること」

等をかなり昔に電子化しているが、それらは新字新仮名であることから、ここで改めて電子化してブログ版で正字正仮名版を完結する予定である。【20201129日 藪野直史】]

 

 

Mz0

 

 南 方 熊 楠 著

 

 南 方 隨 筆

 

        岡  書 院 版

 

[やぶちゃん注:扉。後でこの題簽の文字のことが編者の序で述べられるので、国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして掲げておいた。]

 

 

大正九年八月二十三日、南方氏は小畔四郞氏と
携へて高野山に粘菌採集に赴き、一乘院に宿り
飮み且つ談じて數日を送られた。寫眞は二十六
日に同院で撮影したものである。向つて左方は
南方氏、同右方は小畔氏である

 

Mz1

 

[やぶちゃん注:写真は底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングして正立させて用いた。上記はそのキャプション。

「大正九年」一九二〇年。

「小畔四郞」小畔四郎(こあぜしろう 明治八(一八七五)年~昭和二六(一九五一)年:熊楠より八つ下)は熊楠が亡くなるまで有能な助手として彼を支えた人物。所持する「南方熊楠を知る事典」(一九九三年講談社(現代新書)刊)の中瀬喜陽(ひさはる)氏の記載によれば、新潟県長岡生まれとするが、詳細は未詳で、明治二七(一八九四)年に横浜高等小学校を卒業、後に『日本郵船に入社、日露戦争に従軍して陸軍中尉となる。退役後、近海郵船神戸支店長、内国通運専務、石原汽船顧問などを歴任した』。『小畔がはじめて熊楠に出会った日のことを「それは十二月末か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。那智のことは御木本(みきもと)の養殖真珠の顧問西川理学士から聞いていたのでした。中川烏石』(那智大社の観音堂の前の「中川不老軒」という石を扱う珍物店(現存。グーグル・マップ・データ。私はこの近くの宿坊尊勝院に泊ったことがあり、この店も知っている)の主人)『さんのことも聞いていたのでした。随分珍しいものを持っていると――。さて滝を見ようと一、二町手前まで行った時に、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に興味をもって研究していたので「どうですか」と話しかけたが、フンとかウンとか言って一向相手になってくれない。それで蘭の話をもちかけるとやっと話に乗って来た。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、わたしは名刺を出して、郵船につとめているのだというと、その大坊主先生『ワシは微生物の研究をしているのだが郵船の連中ならロンドン時代によく知っている』とロンドンの話がでた」(「南方先生を偲ぶ」『紀伊新報』昭和十七年一月十八日)と回想しているが、熊楠の日記では、それは一九〇二(明治三十五年)一月十五日のことで、「午後那智滝に之(ゆく)、越後長岡の小畔四郎にあふ。談話するに知人多くしれり。共に観音へ参り、堂前の烏石といふ珍物店主を訪」と記し、同様のことは後年の「履歴書」にも出る』(「履歴書」は、このカテゴリ「南方熊楠」で全電子化注を終えているが、その「南方熊楠 履歴書(その24) 小畔四郎との邂逅」にそのシークエンスが出る)『この出会いから意気投合した二人はしきりに文を交わす。熊楠の日記には小畔に送るべき風蘭を集めた記事もある。おそらくは、小畔に見返りとして寄港の先々で目についた藻や粘菌の採集を頼んだにちがいない。そうした中で、小畔は粘菌の方でもひとかどの研究者として育っていった』とある。以下、続くが、同書は「南方熊楠資料研究会」公式サイト内で有意な部分が電子化(全篇電子化予定であるが未だ途中)されているので、こちらで続きを読まれたい。

「一乘院」ここ(グーグル・マップ・データ)。]

 

 

大正十年十一月三日、南方氏は單身高野山に登り、一乘院に
投宿して粘菌の採集に努めた。天か時か、獲るところが頗る
多く、欣喜禁ずる能はず、矢立の禿筆を呵して獲たる菌類を
前に、右手に好める酒壺を、左手に筆を持てる自畫像を描き
左の事を記して在大連の小畔氏に寄せた。南方氏が得意と滿
足との絕頂に達した時の記念である。 

 拜呈一昨日登山、去年ノ一乘院ノ室ニトマリ菌ヲ畫

 スルコト夥シ、昨日苔ノ新屬一本發見致シ候 

  久さびらは幾劫へたる宿對ぞ 

               熊 楠 畫

 

Mz2

 

[やぶちゃん注:画像とキャプション。底本の国立国会図書館デジタルコレクションの画像をトリミングした。]

 

 

 

      編 者 序

 

一、夙に刊行さるべき筈の南方氏の書物が、我が國で刊行されなかつたに就ては相當の理由がある。氏は日本の現在の國情に愛憎を盡かしてゐる。就中、學者を尊重せぬ氣風を嫌厭してゐる。從つて發表すべきものがあれば外國でするとて、是れまで誰がすゝめても首を縱に振らなかつた。これが氏の書物刊行されなかつた大なる原因である。然るに今度は如何なる風の吹き廻しにや、容易に承諾されて、然も南方隨筆ば啻〔ただ〕に第一輯のみならず、續南方隨筆、更に第三輯を續刊することまで許されたのである。

一、その代りと言ふ譯でもないが、原稿の取捨から排列の次第、序文、校正まで一切私にやれとのことであつた。私は決して其の器でないことを知つてゐるので、出來るものなら辭退したいと思ふたのであるが、下手にそんなこと言ひ出して、又もや冠を曲げられてはと思ひ返して引受けることゝした。元より器でない私がやつたことゝて南方氏にも愛讀者にも、不滿と不足を與ヘたことゝ恐縮してゐる次第である。

一、本書の原稿は各項に附記した如く南方氏が執筆された東京人類學雜誌と鄕土硏究から抽出し、それを論考俗傳の二篇に分類し、やゝ年時を趁〔お〕ふて編輯した。勿論、この分類が嚴正を欠き、年時が次第に從はぬなどあるのは私の罪である。

一、各篇の標題は出來るだけ改めぬやうにしたが、中に一二は體裁の上から改めたものもある。然しそれは他意ある譯ではなく全く編輯の便宜から來たゞけのことである。

一、南方氏の行文運墨には、氏一流の語法があつて、猥りに他人の容喙〔ようかい〕[やぶちゃん注:横から口出しをすること。]を許さぬ。それ故に假名遣ひや送り假名や句讀なども、原文そのまゝとして敢て觸れぬことゝした。下手なことして一喝を食ふより此の方が仕事も樂だからである。

一、校正は嚴密にした積りであるが、何分にも引用文は和漢梵洋と來てゐるのだし、一々原書に就かうにも南方氏以外は持つてゐぬ珍本奇籍が多いことゝてそれも出來ず、且つ當世放れした用字が多いので活版所も私も可なり泣かされた。然し魯魚焉馬の誤りの尠く無いことは全く私の罪である。再版の折には更に嚴重に訂正したいと思うてゐる。

一、本書の題簽に就ては、岡書院主と額を鳩〔あつ〕めて種々相談して見たが名案が浮ばぬので、是非なく弘法大師の筆蹟から蒐めて是れに充てた。これは南方氏が代々眞言宗の信徒であつて、且つ故高野山座主土宜法龍師とこは倫敦〔ロンドン〕以來の飮み仲間でもあり、それに氏の發見せる黏菌の多數は高野山で獲られたものと聞いてゐるので、それやこれやで斯う極めたのである。恐らく此の題簽だけは六つかしやの南方氏も岡氏と私の苦心を買つてくれることだらうと信じてゐる。更に裝幀に就ては全く岡書院圭が南方式の氣分を出したいと瘦せるほど苦心をされたのである。これも南方氏が我が意を得たものとて悅んでくれる事だらう。

一、今昔物語の硏究に就ては、曩〔さき〕に刊行された芳賀矢一氏の攻證校訂の今昔物語に、南方氏の學說及び考證が澤山取入れられてゐるにもかゝはらず、その事が一言半句も明記されてゐぬので、本書に收めたそれが却つて芳賀氏の攻證に負ふところがありはせぬかとの誤解を受けては困るから、その點は判然と然も明確にして書いてくれとのこと故に、茲に其の事を明かに記述して置く。卽ち芳賀氏の攻證は全く南方氏の考證を受け容れたものであると云ふ事を。

一、續南方隨筆には、氏が考古學雜誌、變態心理及びその他に寄稿したもののうちから抽出して編輯する考へである。而して記事索引は續集に二册分を整理して付ける考へである。敢て江湖の淸鑑を仰ぐ次第である。

 

        大 正 丙 寅 五 月

               中 山 太 郞 識  

 

[やぶちゃん注:こんなに面白い編者注というのも珍しい。

筆者中山太郎(明治九(一八七六)年~昭和二二(一九四七)年:熊楠より九歳年下)は本名を中山太郎治と言い、柳田國男・折口信夫らと同時代に活躍した栃木県出身の民俗学者である。ウィキの「中山太郎」を見ると、柳田とも折口とも晩年は絶縁状態にあったことが判る。本書の最後に跋文様の「私の知れる南方熊楠氏」も記している。

「土宜法龍」(どきほうりゅう 嘉永七(一八五四)年~大正一二(一九二三)年)は尾張出身で本姓は臼井。真言宗の高僧。上田照遍に師事した。明治二六(一八九三)年にシカゴで行われた「万国宗教大会」に参加したの後、ロンドンで熊楠と親交を結んだ。明治三十九年に仁和寺門跡・御室派管長、大正九年には高野派管長となった。熊楠との往復書簡は哲学的に非常に面白いものである。

「芳賀矢一」(慶応三(一八六七)年~昭和二(一九二七)年)は知られた国文学者。越前出身。明治三五(一九〇二)年に東京帝国大学教授となり、後に国学院大学長を兼ねた。ドイツ文献学の方法を取り入れ、現代国文学研究の基礎を築いたとされ、国定教科書の編集にも関与した。ここで問題されているのは大正二(一九一三)年から大正一〇(一九二一)年にかけて富山房から刊行した「攷証今昔物語集」(上・中・下三巻)編であろう。国立国会図書館デジタルコレクションで三巻とも読める。「今昔物語の硏究」に至るまでは、大分、時間がかかる。どこをどう剽窃したのか、ダウン・ロードして、じっくり読んでみる。

「大正丙寅」(ひのえとら/へいいん)大正十五年で一九二六年。

 以下、目次であるが、最後に回す。]

 

 

   論  考

 

 

       本邦に於ける動物崇拜

 

 人類學會雜誌二八八號二一六二二九頁に、山中笑君「本邦における動物崇拜」の一篇有り。讀んで頗る感興を催し、往年在英中「アストン」「ジキンス」諸氏の爲めに、此事に就て聚錄せる材料中より、追加すること次の如し。

[やぶちゃん注:以下、この論文の主本文の初出は明治四四(一九一一)年七月発行の『東京人類學會雜誌』(熊楠は「人類學會雜誌」と記しているが、こちらが正式な誌名で、そもそも組織名自体が「東京人類學會」であった)二十五巻二百九十一号であった。「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。

「山中笑」名は「えむ」と読む(改名後の本名)。ペンネームは山中共古(嘉永三(一八五〇)年~昭和三(一九二八)年)。牧師で民俗学者・考古学者。幕臣の子として生まれる。御家人として江戸城に出仕し、十五歳で皇女和宮の広敷添番に任ぜられた。維新後は徳川家に従って静岡に移り、静岡藩英学校教授となるが、明治七(一九七四)年に宣教師マクドナルドの洗礼を受けてメソジスト派に入信、同十一年には日本メソジスト教職試補となって伝道活動を始めて静岡に講義所(後に静岡教会)を設立、帰国中のマクドナルドの代理を務めた。明治一四(一九八一)年には東洋英和学校神学科を卒業、以後、浜松・東京(下谷)・山梨・静岡の各教会の牧師を歴任したが、教派内の軋轢が遠因で牧師を辞した。その後、大正八(一九一九)年から青山学院の図書館に勤務、館長に就任した。その傍ら、独自に考古学・民俗学の研究を進め、各地の習俗や民俗資料・古器古物などを収集、民俗学者の柳田國男とも書簡を交わしてその学問に大きな影響を与えるなど、日本の考古学・民俗学の草分け的存在として知られる。江戸時代の文学や風俗にも精通した(以上は日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」に拠った)。彼の「本邦における動物崇拜」も「j-stage」のこちらPDF)で初出原文が視認出来る。本篇の執筆動機となったものであるから、この注で電子化しようとも思ったが、少し分量があるので、近日中に、別立てで電子化することとする。

「アストン」ウィリアム・ジョージ・アストン(William George Aston 一八四一年~一九一一年)はイギリスの外交官で日本学者・朝鮮語学者。アーネスト・サトウやバジル・ホール・チェンバレンと並んで、初期日本研究の著名な一人。熊楠は直接会ったことはなかった模様である。

「ジキンス」フレデリック・ヴィクター・ディキンズ(Frederick Victor Dickins 一八三八年~一九一五年)はイギリスの日本文学研究者・翻訳家。イギリス海軍軍医・領事館弁護士として来日し、帰国後はロンドン大学の事務局長(副学長)を務めたが、初の本格的英訳とされる「百人一首」を始めとして、「竹取物語」・「忠臣蔵」・「方丈記」などを英訳し、日本文学の海外への紹介に先駆的な役割を果たした人物として知られ、アーネスト・サトウとも交流があり、南方熊楠も、熊楠が翻訳の手助けをする代わりに、イギリス留学中の経済的支援を受けており、深い交流があった(ここはウィキの「フレデリック・ヴィクター・ディキンズ」に拠った)。]

 本邦上古蛇狼虎等を神とし、甚きは皇極天皇の御時、東國民が、大生部多(オホイクベノオホシ)に勸められて、橘樹等に生ずる常世の蟲を神とし、祭て富と壽を求めたる事、伴信友の驗の杉に述られたり、されど後世に迨〔および〕ては、直接動物を神とし拜するは希にて、多くは神佛、法術等に緣〔ちなん〕で、多少の宗敎的畏敬を加えらるる[やぶちゃん注:ママ。]に過ぎざること、まことに山中氏が述べられたる如く、それすら、目今舊を破り故を忘るゝの急なるに當り、此邊僻の地(紀伊田邊)に在〔あつ〕て、孰れが果して已に過去の夢と成り畢〔をは〕り、孰れが今も行はれ居るかを判斷するは、望む可らざる事たるを以て、暫く管見の儘、現時なほ多少、其曾て崇拜されたる痕跡を留存するらしいと思はるゝ者を爰に擧ぐべし、動物名の上に○を印せるは、山中君の論文已に列記せる者にて、山何頁と書せるは、同論文の何頁めにこの說ありと云ふ意なり。

[やぶちゃん注:「大生部多」ウィキの「大生部多」では、「おおうべのおお」と読んで、生没年不詳とし、『飛鳥時代の人物。シャーマン。姓は』なかったとする。『大生部は職業部』(べ)『の内の壬生部』(みぶべ)『(諸皇子の養育に携わる人々とその封民)の一つであり、平城京木簡によると』、『その殆どが伊豆国田方郡吉妾郷』(比定地は現在の沼津市大字西浦木負(にしうらきしょう)を中心とした内浦重寺(うちうらしげでら)から西浦江梨(にしうらえなし)までの一帯。この付近。グーグル・マップ・データ)『を拠点としている』という。『多は駿河国の不尽河(富士川)辺の人』で、皇極天皇三(六四四)年に『タチバナやイヌザンショウにつくカイコに似た虫(アゲハチョウ、一説にはシンジュサン』(鱗翅目ヤママユガ科シンジュサン属シンジュサン Samia cynthia pryeri :翅を開張すると十四~十六センチメートルになる大きな蛾で、翅の色は褐色を呈し、全ての翅に一つずつ特徴的な三日月形の白紋を有する)『の幼虫)を常世神であると称し、それを祀れば貧しい者は富み、老いた人は若返ると吹聴した。そのため、人々は虫を台座に安置し、舞い踊り』、『家財を喜捨して崇め、往来で馳走を振る舞い、歌い踊り恍惚となり富が訪れるのを待った』。『やがてこの騒動は都のみならず周辺の地方にも波及し、私財を投じて財産を失う者が続出して社会問題となる。渡来系の豪族であった秦河勝はこの騒動を懸念して鎮圧にあたり、騒乱を起こし民衆を惑わす者として大生部多を討伐(生死不明)した』。『常世の虫に関しては、道教の「庚申待」と「三尸」説の影響を感じるものとする意見がある』とある。

「伴信友」(安永二(一七七三)年~弘化三(一八四六)年)は国学者で「驗の杉」(しるしのすぎ)は天保六(一八三五)年に成った稲荷神社(伏見稲荷大社)についての考証書。表題のそれは、古くから伏見稲荷大社にある神木の杉で、参詣者が折り帰った杉の枝を植え、久しく枯れなければ、祈願の験(しるし)があったとされたものに因む。しかし、国立国会図書館デジタルコレクションで同書をざっと見たが、見当たらなかった。]

 ○猿は產の安きものとて、今は知らず、二十年計り前迄、和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、婦人產月近づく每に之に詣で、禮拜して其の像を借受け枕頭に祭り、安產し畢れば、同樣の猿像一を添へ禮賽して件の祠へ返納せり。

[やぶちゃん注:「和歌山より大阪へ往く街道側に、猿の土偶を夥しく祭れる小祠有り、……」これは和歌山県和歌山市有本にある若宮八幡神社である。そのサイド・パネルでも猿の像が、ここと、ここで見られる。「朝日新聞」の「わかやま動物ウオッチング」の記事「177 連綿と継がれた瓦猿の信仰」に、「瓦猿(かわらざる)」の話が載り、『瓦猿は日吉山王神社(和歌山市有本)に子授けや安産祈願として奉納されています。山王総本宮の日吉大社(大津市)の神の使いは猿です。本社禰宜(ねぎ)の矢頭英征さんによると、神が宿る比叡山に生息するサルが信仰の対象となって、本社では神猿(まさる)として、厄よけ(魔が去る)や必勝(勝る)祈願がなされるそうです。瓦猿を通じての安産祈願は紀州での民間信仰とみられます』。『日吉山王神社宮司の岩橋利茂さんによると、鎌倉時代の』建久九(一一九八)年に『後鳥羽上皇が熊野詣の帰りに神社に立ち寄った際に、お供に命じて境内に瓦の窯を造らせ、安産祈願として瓦猿を作らせたという言い伝えがあるそうです』。『拝殿には奉納された瓦猿が、何十体も厳かに並べられていました。子授けや安産を願う人は、この縁起の良い瓦猿を』一『体、お守りとして持ち帰り、無事出産したら新しい瓦猿をもう』一『体買いそろえて、自分と生まれた子どもの』二『体にして奉納するそうです。現在も毎年』二十から三十『件の奉納があるそうで、一体一体が尊い命を象徴し、ご加護を願う信仰が長い年月継がれてきたことの重みを感じました。「奉納した人が赤ちゃんを抱いて神社に来られた時はうれしい」と、岩橋さんは目を細めました』。『江戸時代の紀州の人々の暮らしの中にも瓦猿があったことを示す証拠があります。町屋だった鷺ノ森遺跡(和歌山市西鍛冶屋町)の発掘調査』(一九九一年)『で、江戸時代の地層から、頭の幅』十二センチメートルや、身長五センチメートル『ほどの大小様々な瓦猿が』二十『体ほど出土しました。発掘に携わった和歌山市教委文化振興課の前田敬彦さんに出土品の写真を見せていただくと、大半の猿が何も持っておらず、物を持つ猿で確認できたのは鶏が』二『体、扇子や桃のようなものが各』一『体。姿形がバリエーション豊かで、どの猿も親しみがあり、当時の人が猿にどのような思いや信仰を抱き、この形に作り、瓦猿を通じてやりとりしたのだろうと興味を抱きました』。『江戸時代の中で写実的なものから、光沢ある現在の瓦猿の型に移ったとも考えられるそうです。前田さんは発掘によって「瓦猿の制作や信仰が確実に江戸時代にまでさかのぼるのが分かったことは重要だと思います」と話しました』とある。また、ブログ「ユーミーマン奮闘記」の「和歌山市歴史マップ 有本 若宮八幡宮界隈」によると、『日吉神社は江戸時代には八幡宮から少し小字南島にある常念寺の東にあったもの』が、『明治維新の神仏分離令の頃、寺の横にあった神社は若宮八幡宮境内へと移され』たとし、『有本村に住む古老の方によると、社殿の引越しは夜中』に行われ、『解体せずに』、『村の人たちが建物ごと担ぎあげ』、『静かに八幡宮境内まで運んだと伝わってい』るとあり、『もとの日吉神社があったとされる場所からは安産祈願のために奉納した瓦で焼いた猿の人形が出土したと』いうとあって、さらに、『江戸時代には田中町にある瓦職人が内職として安産祈願用の瓦猿を焼いていた』といい、『日吉神社に安産祈願に訪れる人が神社から瓦猿を』一『本仮り受け、無事出産すると』、『田中町の瓦屋で瓦猿を購入し』、二『本にして神社に返す習慣があったようで、現在でも瓦猿を奉納する人がある』とある。]

 古え[やぶちゃん注:ママ。]猿と蛇を神として齋〔いつ〕ぎて、美作の國人美女を牲〔いけにへ〕とし、每年之を祭れるを、東國の獵夫來て此弊風を止めし事、宇治拾遺に見えたり。

[やぶちゃん注:「宇治拾遺に見えたり」「宇治拾遺物語」の「東人(あづまびと)、生贄(いけにへ)を止(とど)むる事」であるが、先行する「今昔物語集」に同文的同話(両書のソースは同一と考えられる)が「巻第二十六」に「美作國神依獵師謀止生贄語第七」((美作(みまさか)の國の神、獵師の謀(はかりごと)に依りて生贄(いけにへ)を止(とど)めし語(こと)第七(しち))があり、それを私は「柴田宵曲 妖異博物館 人身御供」の注で全電子化しているので、そちらを参照されたい。「今昔物語集」の中でもサスペンスに満ちた私の好きな一篇である。

 吾國猿舞ひの基因は、馬の爲に病を禳〔はら〕ひし[やぶちゃん注:底本は「穰」であるが、意味が通らないので、平凡社「南方熊楠選集」版のそれを採った。]に在りと云說あり、五雜俎卷九に、置狙於馬厩、令馬不疫[やぶちゃん注:「不」は底本では「下」となっているが、漢文として「下」ではおかしいから、熊楠が誤ったのではなく、植字ミスか編集ミスである。原拠が「不」であるので、特異的に訂した。]、西遊記謂天帝封孫行者弼馬温、蓋戲詞也と見え、古くより猿舞し行はれしを、後に斯る支那說より故事附けたるべし、一八二一年、暹羅〔シヤム〕[やぶちゃん注:タイの旧名。]に使節たりしクローフヲード、王の白象厩に二猿を蓄〔か〕へる[やぶちゃん注:「飼へる」。]を見、厩人に問ふて其象の病難豫防の爲るを知りし由自記せり(J.Crawford, ‘Journal on an Embassy to the Courts of Siam and Cochinchina,1828, p. 97)。

[やぶちゃん注:「五雜俎」「五雜組」とも表記する。明の謝肇淛(しゃちょうせい)が撰した歴史考証を含む随筆。全十六巻(天部二巻・地部二巻・人部四巻・物部四巻・事部四巻)。書名は元は古い楽府(がふ)題で、それに「各種の彩(いろどり)を以って布を織る」という自在な対象と考証の比喩の意を掛けた。主たる部分は筆者の読書の心得であるが、国事や歴史の考証も多く含む。一六一六年に刻本されたが、本文で、遼東の女真が、後日、明の災いになるであろうという見解を記していたため、清代になって中国では閲覧が禁じられてしまい、中華民国になってやっと復刻されて一般に読まれるようになるという数奇な経緯を持つ。ここに出るのは、巻九の「物部一」にある以下の一節。前の部分も引いておく。

   *

京師人有置狙於馬廐者、狙乘間輒跳上馬背、揪鬣搦項、嬲之不已、馬無如之何。一日、復然、馬乃奮迅斷轡、載狙而行、狙意猶洋洋自得也。行過屋桁下、馬忽奮身躍起、狙觸於桁、首碎而僕。觀者甚異之。餘又見一馬疾走、犬隨而吠之不置、常隔十步許。馬故緩行、伺其近也、一蹄而斃。靈蟲之智固不下於人矣。

置狙於馬廐、令馬不疫。「西游記」謂天帝封孫行者爲弼馬溫、蓋戲詞也。

   *

熊楠の引用した部分だけを訓読しておくと、

   *

(さる)を馬廐(むまや)に置き、馬をして疫(えき)せざらしむ[やぶちゃん注:流行り病いに罹らぬようにさせる。]。「西遊記」に謂ふ、『天帝、孫行者を封じて「弼馬温(ひつばおん)」と爲す』と。

   *

言わずもがな、「孫行者」は孫悟空。「弼馬温」は天帝の御廐の番人。

「クローフヲード」一八二一年にイギリス政府の命令でシャムとコーチシナに派遣された医師・植民地管理官・外交官にして作家であったジョン・クロフォード(John Crawford 一七八三年~一八六八年)が報告した「シャムとコーチシナの裁判所に提出せる大使館宛記録」。なお、最初に断っておくと、底本に挿入されている欧文の参照書誌注記には、表記法に杜撰が多い。目に見えておかしなものについては、平凡社「選集」版を用いて補正したが、あまりに多いので、その断りも入れなかった箇所も多い。悪しからず。

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