北原白秋 邪宗門 正規表現版 驟雨前
驟 雨 前
長月(ながつき)の鎭守(ちんじゆ)の祭(まつり)
からうじてどよもしながら、
雨(あめ)もよひ、夜(よ)もふけゆけば、
蒸しなやむ濃(こ)き雲のあし
をりをりに赤(あか)くただれて、
月あかり、稻妻(いなづま)すなる。
このあたり、だらだらの坂(さか)、
赤楊(はん)高き小學校の
柵(さく)盡きて、下(した)は黍畑(きびばた)
こほろぎぞ闇に鳴くなる。
いづこぞや女聲(をみなごゑ)して
重たげに雨戶(あまど)繰(く)る音(おと)。
わかれ路(みち)、辻(つじ)の濃霧(こきり)は
馬やどののこるあかりに
幻燈(げんとう)のぼかしのごとも
蒸し靑(あを)み、破(や)れし土馬車(つちばしや)
ふたつみつ泥(どろ)にまみれて
ひそやかに影を落(おと)しぬ。
泥濘(ぬかるみ)の物の汗(あせ)ばみ
生(なま)ぬるく、重き空氣(くうき)に
新しき木犀(もくせい)まじり、
馬槽(うまぶね)の臭氣(くさみ)ふけつつ、
懶(もの)うげのさやぎはたはた
暑(あつ)き夜(よ)のなやみを刻(きざ)む。
足音(あしおと)す、生血(なまち)の滴(した)り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、はたや、六部(ろくぶ)か、
背(せ)に高き龕(みづし)をになひ、
靑き火の消えゆくごとく
呻(うめ)きつつ闇にまぎれぬ。
生騷(なまさや)ぎ野をひとわたり。
とある枝(え)に蟬は寢(ね)おびれ、
ぢと嘆(なげ)き、鳴きも落つれば
洞(ほら)圓(まろ)き橋臺(はしだい)のをち、
はつかにも斷(き)れし雲間(くもま)に
月黃(き)ばみ、病める笑(わら)ひす。
夜(よ)の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨(しゆうう)のまへを、
黑烟(くろけぶり)深(ふか)き峽(はざま)は
一面(いちめん)に血潮ながれて、
いま赤く人轢(し)くけしき。
稻妻す。――嗚呼夜(よ)は一時(いちじ)。
三十九年九月
[やぶちゃん注:本篇はある意味で、本詩集の中では非常に珍しい、凄絶なシークエンスを波状的に畳み上げたホラー詩篇と称してよい、素敵に慄っとする一篇である。
「赤楊(はん)」ブナ目カバノキ科ハンノキ属ハンノキ Alnus japonica。古名は「榛(はり)」。「楊」(やなぎ)に似ているとは私は思わないが、「赤」は樹皮が紫褐色から暗灰褐色を呈すること、冬の十一月から四月頃に、葉に先だって単性花をつけるが、同種は雌雄同株で、雄花穂は枝先に一~五個つき、黒褐色の円柱形で、尾状に垂れ下がる。一方、雌花穂は楕円形で紅紫色を帯び、雄花穂の下部の葉腋に、同じく一~五個をつける(但し、花はあまり目立たない)こと、その樹皮や果実が昔から褐色の染料として使われていることから、腑に落ちる。湿気に非常に強く、湿原のような過湿地にあっても森林を形成する数少ない樹木である(以上はウィキの「ハンノキ」を参考にした)。
「六部(ろくぶ)」六十六部の略。「法華経」を六十六回書写して、一部ずつを日本の全六十六ヶ所の霊場(当初は各国の国分寺。但し、後は六十六国の内訳を知りたければ、ブログ「礫川全次のコラムと名言」の「日本六十六か国とその唐名・その2」を見られたい。この礫川全次(こいしかわぜんじ)氏には、三十代の初め、著作読者カードで詳細な賛同を書いたところ、直筆の葉書で「歴史民俗学研究会」への入会のお誘いを受けた。妻が手術を受けた頃で、結構、やんちゃな連中の多い学校に勤めていたので、丁重に辞退したが、懐かしく思い出される)の霊場に納めて歩いた行脚僧・巡礼者。室町時代にはあったことが判っているので、そこらが始まりらしい。江戸時代には、白か鼠木綿の着物に、同色の股引・手甲・甲掛(こうがけ:草鞋(わらじ)を履く際には甲に紐を巻き付けるため、旅などで長時間履き続けると、甲や側面に擦過傷が生じる。主にそれを防ぐための履き物で、足袋によく似ているが、底がない。材料はやはり木綿で、強度を増すために刺子(さしこ)にすることが多かった)・脚絆をつけ、天蓋と仏像を入れた厨子を背負って、帯の前に出した小さな畳につけた鉦(かね)を鳴らし、鈴を振り、読経しながら、家々を回って米銭(べいせん)を報謝として乞うて回国して歩く単なる回国聖・遊行聖となってしまったが(男だけでなく女もいた)、この呼称は生き残った。中には江戸から出ない偽者の乞食がおり、「仲間六部」と呼ばれた(以上は主に三谷一馬氏の「江戸商売図絵」(一九九五年中公文庫刊の「六十六部」の解説を参考にした)。一般には怪談落語の傑作「もう半分」で知られる、所謂「六部殺し」という怪奇譚群が頭に上りやすく、白秋自身、それを意識に昇らせるための確信犯の用語であるようにも私には見える。
「橋臺(はしだい)」橋梁の両端を支える部分を指す。]
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