片山廣子の「自制心がなくなつて」つい示してしまった「不愉快な詩」について
例の「新版 片山廣子 芥川龍之介宛書簡(六通+歌稿)」の「片山廣子芥川龍之介宛書簡【Ⅴ】大正一四(一九二四)年六月二十四日附」書簡にある、
『先だつて非常に不愉快な気分の時に自制心がなくなつて不愉快な詩をおめにかけた事をすまなく思つてをります自分の気持がどんなであつてもそのためにあなたのお気持まで不愉快にする必要はなかつたのですが、ただその時わたくしは支那人になりたいとさへおもふほどに悲観してゐたのでした
わたくしほどに自尊心のつよい人間が支那人になる事を祈つたと想像して御らんになつてあの不愉快な詩をおゆるし下さい ちひさいお子さんがたにおめにかゝつた時にあなたのおぐしの一すぢもあのお子さんがたのためには全世界よりも大切なものだとしみじみおもひました
さうおもひながらあなたのお心持をいためるやうなあんな詩を考へた事はわたくしもよほどめちやな人間です
すべて流していただけるものなら流していただきたいとおもひます』
と廣子が記している――謎の悪魔のような――不謹慎な「詩」――のことであるが、実は私は何んとなく、その「詩」なるものが判るような気がしているである。ただ、何の物理的根拠もないものだから、新版の注でも、一切、語らなかった。向後も語る気は、ない。
ヒントだけ示しておく。
私のブログ記事『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の相手は平松麻素子ではなく片山廣子である』がそのヒントである――