譚海 卷之三 新玉津島
新玉津島
〇五條俊成卿洛中に玉津島明神を勸請有(あり)、新玉津島といへるは此社也、新住吉も爲家卿の勸請にやと覺えたり。近來(ちかごろ)冷泉爲村卿新柿本の社を御勸請有、又本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請有(あり)て、冷泉門下の人々出題の和歌奉納する事に成(なり)たり。北野御室(おむろ)の邊にも新更科と云所出來(いでき)て、近來人々月を賞する所とせり。京都は商賈(しやうこ)をはじめ閑逸の所故、時時遊觀の興(きやう)有(あり)て、東山の鹿きゝ・北野の蟲きゝ・龍安寺の鴛(をしどり)見などとて、群遊する事也。
[やぶちゃん注:「五條俊成卿」歌人として知られる公卿藤原俊成(永久二(一一一四)年~元久元(一二〇四)年)。
「玉津島明神」現在の京都府京都市下京区玉津島町にある新(にい)玉津島神社(グーグル・マップ・データ。以下同じ)。和歌山県和歌山市和歌浦中にある玉津島神社の公式サイトの解説によれば、和歌の神である衣通姫尊(そとおりひめのみこと)に憧れた俊成が文治二(一一八六)年(年)、後鳥羽天皇の勅旨を得て、衣通姫尊を勧請し、自邸内に新玉津島神社を建立したもので、『鎌倉時代にはここに「和歌所(わかどころ)」が置かれ、室町時代には足利家の保護のもと和歌の聖地として崇められ』たとある。但し、別に『新玉津島神社に衣通姫尊を勧請したのは頓阿』(とんあ/とんな 正応二(一二八九)年~文中元/応安五(一三七二)年):南北朝時代の僧で歌人)『だという説もあ』るとし、『頓阿は、吉田兼好と共に和歌四天王と称され』、「新拾遺和歌集」の『選者を二条為明から引き継いだ歌人』『僧で』、彼が『衣通姫尊を五条の俊成の屋敷地に勧請し、将軍義詮が社殿を新造したとの記録もあ』るとある(「吉田家日次記」に拠る)。『その社殿は応仁の乱などで消失し』たが、『江戸時代に再興』されており、『再興に大きな役割を果たしたのは、江戸時代の著名な国文学者で』、松尾芭蕉の師でもあった『北村季吟』であったとある。
「新住吉」京都府京都市下京区醒ケ井通(さめがいどおり)高辻下(さが)る住吉町(すみよしちょう)にある新玉津島神社の西北西直近(六百メートル弱)にある住吉神社。
「爲家卿」藤原俊成の次男定家の三男為家。但し、所持する「都名所図会」の「新住吉社」の条には、やはり藤原俊成の勧請と記す。
「冷泉爲村」(正徳二(一七一二)年~安永三(一七七四)年)は江戸中期の公卿・歌人。官位は正二位・権大納言。藤原定家の子であった御子左家六代為家の子の冷泉為相から始まる上冷泉家十五代当主で、上冷泉家中興の祖とされる。歌人としてはもとより、茶の湯も嗜んだ。
「新柿本の社」前の住吉神社に明和六(一七六九)年に冷泉為村が末社「人麿社」(人丸神社)を祀っている。但し、天明八年一月三十日(一七八八年三月七日)に京を襲った京都史上最大規模の火災である「天明の大火」により焼失した旨、サイト「京都風光(京都寺社案内)」の住吉神社のページにある。
「本國寺境内福大明神の社に貫之の社をも勸請」現在は京都府京都市山科区にある本圀寺は、嘗ては下京の六条堀川に永くあったが(その前には実は鎌倉にあった)、その間、当寺の方丈の北に「人麿塚」があったことが、「都名所図会」で判った。但し、そこ(「拾遺之卷之一 平安城」の「本國寺方丈」の条)には、『人麿塚』として『方丈の北にあり。初めは紀貫之の勸請なり。俊成卿もまた尊信したまひて社を修補したまふ。その後荒廢して、一堆の塚のみ殘れり。これを人麿塚と號す。貞和元年[やぶちゃん注:一三四五年。]當寺を鎌倉よりうつすとき、足利尊氏公、神祠を再營したまひ和歌詠ず』とあって、『行く水の柳に淀む根をとへばいつかむかしの人丸の塚』とある。冷泉為村が、この近々の時制において、それを再興した事実は確認できなかった。
「北野御室の邊にも新更科と云所出來て」「北野御室」というのはこの辺りと思う。「新更科」の名は一時、祇園南林にあったようだが、それではない。
「商賈」商人。
「閑逸」現実を離れて静かに楽しむことの謂いであろう。商家は現実が直であるが故に、却ってそうした風雅を好むところでもあるのであろう。]
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